縄文時代末期や弥生時代の土佐が各地と繋がっていたことに、私ただいま興味津々です。
土佐市の居徳遺跡群からは縄文晩期の面白い遺物がたくさん出土しています。
まずは、金属器によるとみられる鋭い傷や矢じりの貫通痕がある人骨が三体分。
人骨にはノミ状の金属器によると思われる刺突痕があり、同時に出土した猪の解体痕にも同様の金属器が使われた様子がうかがえます。
国内最古の集団同士の戦闘行為の痕跡なのだそう。縄文時代末期に金属器で戦闘です!
この遺跡から出土した木胎漆器は、東北地方の漆を使う特徴と中国・長江流域の影響を受けたと考えられる文様を併せ持っています。
東北地方と長江流域、なんて広域なんでしょう!わくわくします❤️
日本最古の木製鍬や、全国最大級の土偶頭部なども出土しています。
南国市の田村遺跡群もまた面白い!
現在までに発掘された日本最大の弥生遺跡で、三重の環濠をもつ農耕集落跡です。
朝鮮無文土器の直接の影響をうけて成立したと考えられる弥生土器は、北部九州の遠賀式土器よりも古い可能性があるといいます。
大陸的要素の強い石器や九州系の石材も出土していますが、紀伊半島南部の弥生初期農耕集落との関係も考えられるようです。
紀伊半島からは太平洋ルートによる伝播が想定されています。
平安時代の「土佐日記」の印象からか、遠流の印象からか、土地のかたには失礼ながら土佐は辺鄙な地と勝手に誤解しておりました。
ところで太平洋航路っていつからあったのでしょうね?
どうやって渡海していたかは不明ですが、縄文の人びとは事実として遠路はるばる移動しています。
弥生時代には土佐の特徴を持つ壺や甕が少数ではあるものの宮崎にも持ち込まれている様子ですね。
太平洋ルートがもし既にあったなら、神武天皇はなぜ何年もかけて瀬戸内海を西に進んだとされるのかが疑問です(瀬戸内海航路も通れなかったと言われていますが)。
ニギハヤヒの天降りしたクニがヤマトにできて、そのクニを乗っ取りに行くのであれば宮崎を出発し、土佐経由で紀伊半島、そこから大和へ・・・となりませんか?
塩土老翁が瀬戸内の勢力だったからですか??