記紀の真の主導者が藤原不比等と考えられるにもかかわらず、藤原氏の始祖である鎌足の出自が未だ判明していません。
「大鏡」を信用した説では鎌足は常陸の中臣氏の家に生まれ、中央宮廷の祭祀に関与する中央中臣家に身を寄せたとされています。
この地方に生まれて中央に身を寄せるパターン、ひょっとして物部守屋にもあてはまらないでしょうか。
信濃の洩矢神を祀る物部氏の家に生まれた守屋が、中央宮廷の祭祀に関与する中央物部家に身を寄せたと。
中央に出るにあたって洩矢神を祀る物部としての誇りをもって物部守屋を名乗り、中央で活躍したと。
もっとも守屋は大連物部尾輿の子であり、母は弓削氏の阿佐姫と伝えられていますが。
物部氏の祀る石上神宮の神戸八十戸のうち、信濃国が五十戸と突出していることを大和岩雄氏が調査しています。
石上神宮のある大和における神戸は二十戸です。まあ大和にはたくさんの豪族がいますから単純に比較はできませんが。
物部氏は信濃と強い繋がりがあったと推測できます。
また大岩岩雄氏は河内の磯長谷と信濃の関係をも指摘しています。
物部とは「もののふ」であり、また「もののけ」を祀る者なのでしょう。
馬の飼育の為だかどうだかは不明ですが、信濃に進出した物部氏は土着の洩矢神を祀ったのでは?
守屋が戦いに破れ、一族は東北・出雲・四国・九州へと散り散りに逃げた、
その中で守屋の次男、武麿が諏訪大社上社神長官、守矢氏の養子となったのだといわれますが、さて本当のところはどうなのでしょう。
埼玉の稲荷山古墳や熊本の江田船山古墳から考えるに、ワカタケル王の時代には既に地方の豪族たちが大和に出向いて朝廷に仕えるしくみが出来上がっていたように見受けられます。
その伝でいくと、中臣氏や物部氏といった祭祀氏族も地方から大和に出向くシステムがあっても良いように思うのです。