によれば、七代経基の五男経久は駿河国有度郡江田村の江田家を相続して、「江田氏」を
称し、経久→経直→経通→経勝→春勝と代々宮迫に居城した。
春勝のとき、広家に従い、出雲に移りさらに岩国に移った。(なお「江田」はときに「郷田」
の文字を用いている。
そして経久の嫡子経直は、天文十六年(1547)八月二日に、又彼の跡を継いだ経通は天文十九年
十月二日に、それぞれ小倉山において自刃した。 「(陰徳太平記)に詳しい。」
・ したがって経久以後の宮迫は江田氏の所領であり、その領内にまつられた「薬師如来の尊像」
にまつわる「善慶禅尼」はやはり吉川一門の「江田氏」に関係した人が考えられる。
つまり考えられるのは江田経久の娘あたりではなかったか。
以上が故久枝秀夫氏が書かれた宮迫薬師の考察文である。
17年以上前のことである。
宮迫薬師について大朝町史を編纂された一人の久枝秀夫さんに
宮迫薬師について調べていただいたことがある。
以下は長くなるが、その文章の紹介である。
名称
管見によれば、「宮迫薬師」のことが始めて古文書に現れるのは正徳五年(1715)未の
四月、宮迫村庄屋太兵衛が所務役人(俗に郡代官という)勝浦小兵衛あてに提出した
「山県郡宮迫村寺社畝高御改帳」(控え)である。
それには次の記事がある。
せうたうあん
・ 一、薬師堂境内 畝数拾弐歩
内
一 堂畝 四歩
一 空地畝 八歩
畝〆 拾弐歩
高無御座候、堂守 無御座候
先年より百姓彦左衛門田地わき、野地ニ御座候
・ また正徳五年四月廿一日付、川本六兵衛・河野茂左衛門・勝浦小兵衛の三人が
作成した「山県郡寺社堂祠古城・・・開基由来縁起棟札宝物改寄帳」にも
せぅとんあん
一 辻堂 壱宇 薬師
右開基由来知不申候、縁起宝物棟札等無御座候
・ さらに同じこの年に描かれた「宮迫村絵図」には、現在と全く同じ場所に
お堂が描かれている。
・ ところで、肩書きの「せぅたぅあん」また、「せうとんあん」は薬師堂の堂名
であり、当時はそのように発音されていた。
しかしどのような漢字を当てていたのか。
幸いにも「元和九年(1623)宮迫村名寄帳」が保存されていて、それによると
「正東あん」と書かれており、別の古書には「正等庵」と書かれたものも見られる。
そこで、「大朝町史」では前者の「正東庵」を採用しているのである。
● 本尊のこと
・ 薬師如来尊像背面に、次のような墨書銘がある。
奉造立薬師如来来之
(像)
尊像 為善慶禅尼
逆修善根功徳 伏願
三番金色宝光妙光成就如来
現世安穏 後生善処□□
者也
文正元年丙戌十月八日
・ この銘によれば、この薬師如来は、吉川氏七代経基時代の文正元年(1466)十月八日
善慶禅尼の逆修のために、この尊像は造立されたことになる。「逆修」(ぎゃくしゅ)
とは、「自分が善根を積んでそれを他人に施せば、自分のためにも他人のためにもなる
という、回向思想にもとづくもので、生前に自分で自分の供養をするのを逆修と呼ぶ。 (民族辞典)」
・ 岩国徴古館長であった桂芳樹氏の教示によれば。{「善慶禅尼」は吉川家法名集には見
当たらない。また、年号の上からもこの年に亡くなった女の人は見当たらない。
(大部分が不明であること)。参考までに「慶」の字のつく法号は「経基は慶本」、
その子「国経は慶守」、国経の姉「尼子経久の室が慶受大姉」など、「慶」の字が案多い
「逆修」とあるから年寄ではないでしょうが、「禅尼」だから子供ではない。
以上のことから正統の夫人ではないことは確実と思われ、とすると正統経基の妹か何か
(未婚で二十歳前後)、または庶流のうちか、あるいは家臣のうちの有力者、これらの
うちかと考えられる。}(回答要旨) 続く・・・
晴れ 10:50 16℃ 湿度70%
皆さんおはよ!
今日は、一日お天気が持ちそうですね!
今日は毎年一回恒例の薬師堂の小祭りの日です。
皆、朝早くから、お堂の掃除や、草刈、幟たて等、忙しくやってます。
こうしてみるとなかなか、わが地域も結構、人がいますよね??(笑)
なんか、楽しそうに物々言いながらやってるみたい??
毎年一項目何かをする!というコンセプトで4年が立ちました。
今年は昨年に続き、躑躅を80本植樹しました。赤と白で交互に植えてみました。
薬師堂のいわれの看板も来年には作りたいと思っています。
そうそう、11時から からしろ茶屋さんが、野外で山菜パーティをやりますよ。!
晴れ 10:50 16℃ 湿度70%
みなさんこんにちは!
4月20日は宮迫薬師の日です。
保存会を中心に今年も張り切って幟を立ててます。
今年の作業は幟を立てるのと、来年植える躑躅の地場つくりです。
それに、駐車場に砕石をしきました。
毎年、ひとつ何かをしようとう思いで、やってます。
お堂も古くなって、老朽化が進んで、いまにも崩れそう??
なんとか、新しいお堂も建てたいんですが、先立つものがねぇ!
約30戸で維持管理しているのですが、市内に出ている人も
この日には必ず帰ってこられて、お手伝いをしてくださります。
ありがたいことですよね!
昨年、植樹した、桜も全部、綺麗の花をつけてくれました。
からしろ館からもよく見えます。
来年は、躑躅を法面いっぱいに咲かせるつもりです。
じゃ、またね!!
こんばんは!
今日は少し白くなりましたね。あ~さむ!
今日は今年の薬師保存会の会合が館でありました。
森山さんが代表で役員さん達を招集しました。
この薬師は昔から宮迫、番の目地区の人達が四班ごとにお世話をしてきました。
毎年、当番の班の人達がお餅をついて、お参りに来られた人に配っています。
かっては子供相撲とかあって、かなり賑やかなお祭りでした。
最近、少しさびしくなってきたので、一昨年は寄付を募って裏山の木を切ったり、
参道の整備をしました。
毎年、皆で何か一つやろうというということで、昨年はサクラの木を20本植えました。
それで、今年は何をやろうかとゆうのが、今日の議題でありました。
からしろ館から歩いて、すぐなので、館のイベントとのリンクとか、北側に向いた
立地なので、日陰を好む山野草など植えたらとか・・お堂を新しく立替るとか・・
いろんな意見がでました。
まだ、考えはまとまっていませんが、おいおい4月までにはまとまっていくと思います。
このような地区の財産?は維持していくことが大切なので、背伸びをしないように、
じっくり皆でよい方法を考えていくことが大切だと思いました。
宜しかったらクリックお願いします。
彦左衛門さんはこりや大変だーどうしょーどうしょーどうしょー
ほんでもって彦左衛門さんは、薬師如来さんが夢で言われた所を探して、探してほんでもってそしたらななななんと!!!!!薬師如来さんが見つかったんですと
彦左衛門さんは大喜び「まぁ、なんと見事なありがたい薬師如来さまよぅわしの所へきてくださった」
それから彦左衛門さんはその薬師如来さんをそのころ宮迫にあった正東庵(しょうとうあん)という所へ祭られたんじゃそうな・・・・
この薬師如来さんは目の神様だそうで、それからず~っと宮迫の人たちは、この薬師さまを大切に、大切に祭っておるんじゃと
終わり・・・・・・
広島blogに参加しています!ぽちクリックお願いします!
どこまでお話してましたっけぇ・・・・
そうそう吉川さんの縁の人だったかもねーでしたよね
それからこの薬師如来さまは、戦に巻き込まれたのか、泥棒さんに盗まれたのかどうか分からんのだけど、なが~いこと行方不明だったんだと、
かわいそうにのぉ~、薬師如来さまは早く見つけてほしかったんじゃろうてぇ
薬師如来さまはそれから今から300年位前にやっと見つかっただと。
それというのかのぉ この宮迫の本郷というところに、彦左衛門(ひこざえもん)という男がおっての、ある日のことこの彦左衛門さんの夢枕に薬師如来さまが立たれてのぉ~、
始めはなんかいの~なんかいの~と思っておったんじゃがこれが
毎晩、毎晩夢枕に薬師如来さまが何か言っているんだと
薬師如来さまはどうも「私は、此処にいるよ~」「私は此処にいるから掘っておくれ~」薬師如来さまは彦左衛門にそう告げている様に思われたんだと。
さぁて彦左衛門さんはどうしたんでしょうかね~
後日 その3につづく
広島blogに参加しています!ぽちクリックお願いします!
(だんだんネタ切れしてます。)笑・・・
宮迫薬師 その一
むか~し むかしから 宮迫の本郷ちゅーところには、木で作った
薬師如来さんがおられてなぁ~、この薬師如来さんはなんと今から五百年
位昔に彫られたんだと、なんでそがぁなことがわかるかと
そりゃぁの その薬師如来さんの背中にちゃんとそがあにかいてあるんだと、
わしもちいと見してもろうたが、確かにそう墨書きしてありましたよ
ほんでの、五百年前といったら吉川(きっかわ)の経基(つねもと)さんの
時代で、善慶禅尼(ぜんけいぜんに)という女の人の供養のために造ったらしいん
じゃけど、この善慶禅尼という人が誰かいうことまでは分からんらしい。
まぁ立派な如来様を造ってもらって供養してもらえたんじゃから
もしかしたら、吉川様の縁(ゆかり)の人じゃつたのかもしれんのぅ。
その一 終り (その二はまた後日にね!!)
広島blogに参加しています!ぽちクリックお願いします!