被爆79年の6日、34万4306人となった広島の原爆死没者に「安らかに眠ってください」とテレビの前で祈った。そして、初めて現地に行った時の「過ちは繰り返しませんから」と誓った気持ちを思い起こし、初心に帰って考えてみようと古い写真やスケッチを探してみた。そこで再確認したのはヒロシマ・ナガサキとの関りは生協との関りと同じく、66年になることだった。
学生時代に早大生協に関わり、1958年の8月に東京大学で開催された大学生協連全国総会で大学生協連の常務理に選出された。その総会直後に第4回原水禁日本大会が早稲田大学の記念講堂で開催され、私と一緒に大学生協連常務理事になった北大生協の河村征治さん(のちコープさっぽろ理事長)がその原水禁大会に顔をみせた(写真向かって左)。総会後に札幌に帰る前に早大生協を訪問し、たまたま原水禁日本大会で会うことになった、という記憶である。
その年の11月、全国理事会が九州の宮崎大であり、河村さんなど東日本から行った数人は同期の常務理事・石田静男さん(のちエフコープ理事長)の鹿児島大生協を訪問、長崎、広島を回って帰ることになった。往復とも夜行鈍行の汽車旅なので、上手くいったら長崎大の学生寮にでも泊めてもらおうと、まず長崎の被爆地に向かった。写真のように「原爆落下中心地」の碑(写真後ろ)は立っていたが、まだ公園としての整備は不十分だった。北村西望の平和記念像を含む平和公園も隣接していたはずであるが分からず、浦上天主堂を廻り、長崎大学に行った。(写真前列左・河村さん。右東北大の小室満男さん(卒業後、東北大生協専務))
長崎大では自治会の役員に生協づくりの話をしたが、宿はダメで、夜行で広島へ向かった。
広島では平和公園の整備が進んでおり平和祈念碑に前で「過ちは繰り返しません」の誓いを立て、写真にあるように建設間もない「原爆の子の像」などを見て回った。この像は千羽鶴で知られる佐々木貞子さんなど被爆死した子供たちの霊を慰めるためこの年・58年5月に完成したものだった。
この小旅行が私の長崎、広島の初訪問であった。一緒だった5人はまだ誰も生協に残るとは語らず、自分もそんな気がない66年前だった。翌69年には東北大であった全国理事会に参加、小室さんと同期の相馬健二さんや専従常務理事の石川誠一さん(のちさいたまコープ理事長)にもお会いし交流した。夏には、北海道の親戚に遊びに行った折に北大生協の河村さんと会い、専務の野崎弘明さん(のち日本生協連常務理事)にも会って親切にしていただいた。常務の真鍋さん(のち札幌市民生協創立、専務)は大学村で教職員向けの店舗事業に取り組んでいた。
以上が66年前の大学生協とヒロシマ・ナガサキの思い出であるが、当時は考えていなかった生協への就職が現実となり、反核平和の活動にも関りが続くことになった。そして、最近、66年前の大学生協の同期の方に反核平和の活動で大変お世話になることになった。写真の日本被団協代表理事の田中煕巳さんです(写真は大学生協9条の会での講演)。
田中さんは長崎で被爆、東大生協の職員として働き、理科大の学生として生協設立に関わり、1958年の大学生協連総会で監事に選出された。当時の大学生協は貧乏団体で、全国理事会を地方で開催しながらもその旅費は出身単協負担だった。理科大生協は小単協で田中さんは監事だったこともあり、地方開催の理事会に出席することもなかったようで、学生時代の交流はなかった。たまたま、大学生協連の事業委員会の責任者として58年度選出理事で私の日本生協連事業部時代の上司だった島根善太郎さんが東大生協出身であり共通の上司であった縁で平成に入ってから交流が始まり、今回は私のブックレット「生協の歴史から戦争と平和を学ぶ」の改訂新版に特別寄稿をいただいた。
田中さんは大学生協連の学生役員として私と同期ですが、生協職員として働いていた分歳上で92歳です。しかし、この5月にもピースボートに1か月乗船し、被爆者の語り部として活動する元気者で「また、ピースボートに乗る、斎藤さんどうですか」と言っています。田中さんを想うと「66年間頑張った」などととても言えない。
このブックレットには表紙をはじめ、文中にも私のヒロシマの絵が載っています。