かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

ベネチャの夕刻

2024年09月27日 | スケッチ、油絵、写真

ベネチャの夕刻-写真から

絵のグループでスケッチに出かけられないからと風景写真から風景画を描いた時の一枚。

イタリアに観光旅行に行き、スケッチしたり写真を撮ったりしたのは10年あまり前のこと。しかし、自分が取った写真には、写真に写っていないプラスの印象があり、現場にいるような気分で描けるので楽しい。この時は、地元の絵描きさんがキャンバスを広げており、のぞき見をさせてもらったらその絵が実景以上に赤い夕焼けだったのを覚えている。

下の2枚は現地で描いたラフスケッチに帰国後手を入れしあげたもの。かってこのブログに載せたものの再現。昔の方がいい絵を描いている?と、自分でも情けない。

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玉川上水の絵など

2024年09月10日 | スケッチ、油絵、写真

猛暑と大雨など異常気象が続き野外スケッチは1か月余りできなかった。ので、7月末にこのブログに載せた玉川上水の絵の2枚目を室内で完成させました。玉川上水では水面近くまで降りて観察できるのは小平監視所のこの場所だけ。前回、玉川上水からは小平市にも農業用の用水が何本も引かれており、我が家の前にも来ていると紹介しました。我が家の前は暗渠が通っているのですが、近くの農家の近くではオープンなので大雨の日に観察しました。江戸人の飲料用水のためにつくられた玉川上水はもちろん、その分水も自然の川ではないので大雨で増水することは少ないー暗渠からふきだすことはないーことが分かり、ほっとしました。

虹遊会でもスケッチはできないので、風景写真をもとに室内での風景画作成をしました。この絵はフランスの田舎の風景写真から描いた。また、静物として人形なども描いたので載せました。早く、さわやかな秋空のもとでスケッチを描きたいものです。

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絵と写真で想う‐ヒロシマ・ナガサキ―続

2024年08月08日 | スケッチ、油絵、写真

前回に続き、ナガサキについて書こうと考えたが、長崎での適当な絵や写真が見つからないので、このヒロシマの絵のことなどを紹介する。

前回、初めて原水禁日本大会に参加、広島、長崎を訪ねてから66年になると書いたが、66年にわたり反核平和の活動に関わってきたということではない。当時の大学生協連は「平和と民主主義の擁護」は謳っていたが、具体的に原水爆禁止運動の取り組みを提起してはおらず、全国理事会のあとで5人の学生理事が長崎、広島の被爆地を訪ねたのは個人的なものだった。その後、日本生協連で働くことになったが、平和活動とはかかわりはなかった。

 それが、1977年、日本生協連が他の市民団体などとともに原水禁運動の統一を成功させ、78年の国連軍縮特別総会に向けた署名などを全国の生協に呼びかけると、それが当時大学生協の支援の延長で地域生協(戸山ハイツ生協→都民生協)の役員になっていた私の課題の一つになった。急遽、原爆被爆の実態や被爆者問題などの学習が始まったが、驚いたことに組合員の理解は早く「命と暮らしを守る」といっている生協だから当然のこととして署名活動もカンパに取り組んだ。新組合員の獲得、新事業の拡大など専従幹部も組合員リーダーも多忙で、私が生協の理念や歴史から平和活動の必要性を説明することもなかったが、取り組みは一気に広がった。

その後、東京都生協連の役員になってからは第5福竜丸のある平和島からの平和行進で先頭に立つことなど暑い夏は平和活動一色となった。それは、1981に日本生協連に戻ってからも、肩書や責任の軽重はあったが10数年は続いた。組合員活動を担当する部長とか常務理事の肩書の時代は、3月のビキニデーや8月のヒロシマ・ナガサキ行動への参加は必須だった。6日のヒロシマ行動を終え、そのまま9日のナガサキ行動に向かうこともたびたびあり、現地の皆さんとの打ち合わせ、交流のほかに写真撮影やスケッチもすることがあった。

 その絵がすこし役に立ったと思ったのは1995年、核兵器は人道法上違法と訴えた「世界法廷運動」でオランダ・ハーグに行き、さらにフランスの核実験抗議のためパリに行った時である。国際司法裁判所へ330万筆の要請署名を渡し、法廷傍聴(写真)のあと被団協の山口仙二さんを代表にした10名ほどがパリに行き、パリ政府代表に要請書を渡し、街頭宣伝(写真)をした。

パリ街頭での宣伝活動や記者会見のあと、その私たちの活動に協力いただいたパリの平和活動家の皆さんと交流、夕食会を行った。その折に、私のつたない「原爆ドーム」の絵を代表の方に差し上げた(写真下)。写真中央で通訳をされているのが、このパリ行動で大変お世話になった美保シボさん。パリ在住の美保さんはご主人が教職員組合の幹部で平和活動家であり、美保さんは千羽鶴の佐々木貞子さんのことを海外に紹介するなど、日本に来ると反核運動に参加しており私も旧知だった。フランス語も英語も不自由でその後の皆さんと交流出来ていないのが残念。

反戦平和のためには絵画も音楽も、あらゆる文化が役立つし必要だと思う。2016年のヒロシマでの日本生協連・虹の広場で広島市立基町高校の生徒の原爆絵画展を見た(写真下3枚)。生徒たちが原爆被災者の話を聞きながらその様子を油彩画にしたもので、その絵と多くの時間をかけての取り組みの様子を聞き、感動した。感動を与えるような絵を描きたいが、2016年いらいコロナ禍と高齢で広島などには行けないでいる(前回書いたように田中煕巳さんには君はまだ若いと叱られるが。)基町高校の生徒のように、皆さんが何らかのかたちで戦争は嫌、平和が好きと表明されることを望みます。

 

 

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絵と写真で想うーヒロシマ・ナガサキ

2024年08月06日 | スケッチ、油絵、写真

被爆79年の6日、34万4306人となった広島の原爆死没者に「安らかに眠ってください」とテレビの前で祈った。そして、初めて現地に行った時の「過ちは繰り返しませんから」と誓った気持ちを思い起こし、初心に帰って考えてみようと古い写真やスケッチを探してみた。そこで再確認したのはヒロシマ・ナガサキとの関りは生協との関りと同じく、66年になることだった。

学生時代に早大生協に関わり、1958年の8月に東京大学で開催された大学生協連全国総会で大学生協連の常務理に選出された。その総会直後に第4回原水禁日本大会が早稲田大学の記念講堂で開催され、私と一緒に大学生協連常務理事になった北大生協の河村征治さん(のちコープさっぽろ理事長)がその原水禁大会に顔をみせた(写真向かって左)。総会後に札幌に帰る前に早大生協を訪問し、たまたま原水禁日本大会で会うことになった、という記憶である。

その年の11月、全国理事会が九州の宮崎大であり、河村さんなど東日本から行った数人は同期の常務理事・石田静男さん(のちエフコープ理事長)の鹿児島大生協を訪問、長崎、広島を回って帰ることになった。往復とも夜行鈍行の汽車旅なので、上手くいったら長崎大の学生寮にでも泊めてもらおうと、まず長崎の被爆地に向かった。写真のように「原爆落下中心地」の碑(写真後ろ)は立っていたが、まだ公園としての整備は不十分だった。北村西望の平和記念像を含む平和公園も隣接していたはずであるが分からず、浦上天主堂を廻り、長崎大学に行った。(写真前列左・河村さん。右東北大の小室満男さん(卒業後、東北大生協専務))

長崎大では自治会の役員に生協づくりの話をしたが、宿はダメで、夜行で広島へ向かった。

広島では平和公園の整備が進んでおり平和祈念碑に前で「過ちは繰り返しません」の誓いを立て、写真にあるように建設間もない「原爆の子の像」などを見て回った。この像は千羽鶴で知られる佐々木貞子さんなど被爆死した子供たちの霊を慰めるためこの年・58年5月に完成したものだった。

 この小旅行が私の長崎、広島の初訪問であった。一緒だった5人はまだ誰も生協に残るとは語らず、自分もそんな気がない66年前だった。翌69年には東北大であった全国理事会に参加、小室さんと同期の相馬健二さんや専従常務理事の石川誠一さん(のちさいたまコープ理事長)にもお会いし交流した。夏には、北海道の親戚に遊びに行った折に北大生協の河村さんと会い、専務の野崎弘明さん(のち日本生協連常務理事)にも会って親切にしていただいた。常務の真鍋さん(のち札幌市民生協創立、専務)は大学村で教職員向けの店舗事業に取り組んでいた。

 以上が66年前の大学生協とヒロシマ・ナガサキの思い出であるが、当時は考えていなかった生協への就職が現実となり、反核平和の活動にも関りが続くことになった。そして、最近、66年前の大学生協の同期の方に反核平和の活動で大変お世話になることになった。写真の日本被団協代表理事の田中煕巳さんです(写真は大学生協9条の会での講演)。

 田中さんは長崎で被爆、東大生協の職員として働き、理科大の学生として生協設立に関わり、1958年の大学生協連総会で監事に選出された。当時の大学生協は貧乏団体で、全国理事会を地方で開催しながらもその旅費は出身単協負担だった。理科大生協は小単協で田中さんは監事だったこともあり、地方開催の理事会に出席することもなかったようで、学生時代の交流はなかった。たまたま、大学生協連の事業委員会の責任者として58年度選出理事で私の日本生協連事業部時代の上司だった島根善太郎さんが東大生協出身であり共通の上司であった縁で平成に入ってから交流が始まり、今回は私のブックレット「生協の歴史から戦争と平和を学ぶ」の改訂新版に特別寄稿をいただいた。

 田中さんは大学生協連の学生役員として私と同期ですが、生協職員として働いていた分歳上で92歳です。しかし、この5月にもピースボートに1か月乗船し、被爆者の語り部として活動する元気者で「また、ピースボートに乗る、斎藤さんどうですか」と言っています。田中さんを想うと「66年間頑張った」などととても言えない。

このブックレットには表紙をはじめ、文中にも私のヒロシマの絵が載っています。

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暑中お見舞いの絵

2024年07月28日 | スケッチ、油絵、写真

暑中お見舞い申し上げます。毎年、涼しげな山や海のスケッチを使って暑中見舞いのハガキを出すようにしているが、今年はそんな爽やかな絵がないのと梅雨と大雨、猛暑と季節の変わり目がはっきりしないため、はがき作成が遅れた。ハガキにしたこの絵は玉川上水の小平監視所の下流で描いた。うまく描けなかったが、木漏れ日が涼しげだった。

 

玉川上水からは小平監視所の近くから、川越藩主が耕地開拓のために引いたと言われる野火止め用水や小川用水、少し下流からは小平分水が北に、南には深大寺用水が引かれている。玉川用水は江戸町民の飲料水のため建設され、今も都民のため美味しい水を提供しているが、ここで分水された各用水は武蔵野の荒れ地を耕地に替え、今も小平市内では細分化した用水が流れ続けている。下、玉川上水。

小平分水は我が家の近くでは「大沼用水」の名前で流れており、下の写真は我が家から徒歩5分の所を流れる用水。高い塔の下には東京ガスのグランドがあり、FC東京のサッカー練習所になっており、周りの畑でとれるやさいは直売所から我が家の食卓に並ぶ。

その用水は暗渠の小道になり我が家の前を通っている。普段は車の走る道を避け、この小道を使っている。玉川上水の恩恵に感謝の毎日である。

 

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グループ展の案内

2024年06月04日 | スケッチ、油絵、写真

 恒例の水彩風景画のグループM作品展が国分寺で開催されます。「春・昭和記念公園の桜、夏・五箇村、秋・武甲山と棚田」の3点を出品します。秋の武甲山は前にこのブログに紹介したので、五箇村と桜の絵を掲載します。昭和記念公園は今年ですが、五箇村に行ったのは10年以上前で、古い写真とスケッチから描きました。

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桜の絵とチューリップの写真

2024年04月14日 | スケッチ、油絵、写真

土曜スケッチの皆さんと昭和記念公園へ。桜の開花が遅れて、昭和記念公園は桜とチューリップなどで大変な人出だった。もともと写真撮影も好きなため、写真愛好家グループに交じっていろんな春の風景を追いかけ、いつも2枚描くスケッチが1枚だけで終わった。良く撮れた写真は下手な絵に勝るーその証明のように両方載せました。

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スケッチー「花でなく野菜を」

2024年04月11日 | スケッチ、油絵、写真

4月の虹遊会の絵の会。3月は桃としだれ桜の女性の多い会らしい題材でした。画材選びはいつも女性メンバーの合議。4月は「今月は野菜にしよう」で異議なし。白菜がひとかぶ1000円もする東京らしく、選ばれた野菜はこの4種。当然、描いた後は皆さんで分けて持ち帰りました。「値段で選んだわけではなく、4色そろえるのに苦労した」そうです。

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故郷・佐渡の早春

2024年03月02日 | スケッチ、油絵、写真

東京はすっかり春気分の今日、能登半島も佐渡も雪のようです。この絵は10年ほど前の写真から描いた故郷・佐渡の実家の近くから見た島の名山・金北山の早春。雪解けが進んでいます。実家の甥は「幸いなことに今年は雪が少なかった、大雪で震度5強だと危なかったと」いう。今年はこんなに雪は残っていないようです。ただ、自分が幼いころはこれが普通でした。

この絵は生協の絵グループ”虹遊会”で報告するため、ダーマ―トのスケッチから、彩色の過程を写真に撮ったものです。過程ごとに彩色の仕方などをアレコレ評論し合います。

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北フランスの木組みの家並

2024年02月06日 | スケッチ、油絵、写真

前回に続き、北フランスはストラスブールの木組みの家。寒くて野外スケッチが出来ないので写真から。始めたばかりのペンと水彩です。

2枚目はダーマ―トと水彩です。近くのボート、中ほどの橋、後ろの建物

、遠近感がなく、ちぐはぐなのは写真から描いたためもあるが、まずい。

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北フランスの木組み建築のある風景

2024年01月18日 | スケッチ、油絵、写真

 フランスはかってパリからピレネー山麓と南仏と、慌しい旅であったが、スケッチを楽しんだことがある。そのころから北仏・アルザス地方の木組みの家が並ぶ風景を描いてみたいと思っていた。幸いのことに風景水彩画の指導を受けている加藤正三郎先生からスケッチ旅行で撮った写真の使用許可をいただいた。寒くてスケッチに出かけられないので、習い始めたペン画で描いてみた。コルマールにこのような建物が多いので「コルマール様式」というようであるが、この2枚はコルマールに近いストラスプールの写真からの風景。

 

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スケッチ・新春

2024年01月03日 | スケッチ、油絵、写真

旧作ですが、新春の絵ー山梨・笛吹市の桃の里の白梅と桃と南アルプスです。ブログにのせて新春の挨拶を準備したところで、能登半島で震度7の震災発生と大津波情報。故郷・佐渡のことなどが心配で中断。故郷の皆さんの無事を確認して再開しようとしたら羽田の日航機の事故と火災。もっと心配なガザやウクライナの戦争。

ー平和を祈り、明るい春が早く来ることを期待します。

昨年の最後のスケッチはグループMの皆さんと行った目黒の庭園美術館での1枚でした。

今年も遠方に出かけるのは無理でも、野外スケッチは続けたいと思っています。

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秋のスケッチー秩父と横浜

2023年11月24日 | スケッチ、油絵、写真

秩父での虹遊会スケッチ合宿の2枚目の絵は、ミューズパークの梅園の近くにある紅葉の峠。紅葉のトンネルと宣伝されているが、トンネルは絵にしにくいので外から見た風景。あとの2枚は10月末の日本生協連友の会の横浜散策企画でのスケッチ。皆さんが氷川丸見学をしている間に山下公園で描いた。この後の昼食懇親会で友の会の皆さんに虹遊会への加入を誘った。「年金生活者にとって金がかからなく康的で楽しい会」と訴えて、少し反応があったようです。

秩父ミューズパークの紅葉

横浜・山下公園と氷川丸のある港(下)

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スケッチー秋の棚田と武甲山

2023年11月13日 | スケッチ、油絵、写真

秋のスケッチ合宿、虹遊会の皆さんと秩父へ行った。西武秩父駅から横瀬町の寺坂棚田へ。武甲山と向き合う棚田は夏はかがり火、秋は彼岸花で有名だそうですが、20年前に武甲山スケッチに来たときはそんなイベントはなく、棚田のことも知らなかった。休耕田を復活させ、今は250枚の稲田になっているという。

この日の武甲山は雲がかかっていたが、翌朝、宿の武甲温泉から見た武甲山は写真のように、20年前に比べるとセメント用の石灰岩の掘り出しが進み、山腹が削られた痛々しい姿になっていた。標高も30メートル低くなり1304メートルになったというが、私にはもっと低くなったように感じた。雲のたなびく武甲山の方が良かった。

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スケッチ佐渡・夕陽の尖閣湾

2023年10月29日 | スケッチ、油絵、写真

10月初めの3連休に佐渡に帰省した。母の13回忌の法事のためだったが、もう佐渡には帰れないかも知れないと孫たちと佐渡の北海岸の”外海府”を回り、尖閣湾などで遊んだ。スケッチ帳は持ち歩いたが現地ではほとんど描けず、この絵も帰宅してから11月の「風景水彩スケッチ会」作品展に出展するために描き上げた。

スケッチは無理でもとカメラをもってあちこち歩いているあいだ、孫たちは岩場を回る水中透視船で泳ぐ黒鯛などに会って喜んでいた。尖閣湾は岸恵子と佐田啓二の「君の名は」で有名になった観光名所だが、孫たちの「君の名は。」は全く別のもの。

佐渡には生協の仲間を案内するときは、必ず”朱鷺の森”の朱鷺センターで自然の姿の朱鷺を見てもらっているので、孫たちも案内した。かって大学生協のJUON(樹恩)の活動に参加していたころ、朱鷺の自然放鳥のための餌場つくりのため皆さんと一緒に山間に入って作業したことなど思い出し、当たり前になっている自然放鳥がうれしく、朱鷺の姿が懐かしかった。

母はこの海岸の南の先端にある、夕日と海がきれいに見える老人ホームで104歳の生涯を終えた。今回その施設にも立ち寄ったが、残念ながら私が入る予定にはなっていない。

岩場には黒鯛が生息しており、北の岬の釣り場には本土から釣り人が来る。私も一度その闇夜にやる黒鯛釣りに参加したことがあるが一匹もつれなかった。

棚田のあるこの風景はつぎの絵のテーマです。

岸恵子に憧れ、東京に出るとまず「君の名は」で有名な数寄屋橋のほとりで友達と記念写真を撮ったことを思い出す。

小佐渡の里山の田んぼの近くに住む知人は「最近はいつでも朱鷺がくるよ」というが、北の大佐渡にある実家の近くはあまり見かけないという。写真は朱鷺センターで。

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