善福寺公園は昨年2月に枯れた葦が映える池の様子をスケッチした。
今回はその反対側の池の弁天堂の屋根がちょっと覗いているところでこの絵を描いた。
まだ暑いからかボートに乗る人もほとんどいない、静かな公園だった。
善福寺公園は昨年2月に枯れた葦が映える池の様子をスケッチした。
今回はその反対側の池の弁天堂の屋根がちょっと覗いているところでこの絵を描いた。
まだ暑いからかボートに乗る人もほとんどいない、静かな公園だった。
東京・丸の内のビル街は明治27年、イギリスのJ・コンドルによる赤レンガの三菱1号館の建築から始まったといわれる。
老朽化のため1968年に解体されたものが2010年に復元され、以降美術館として親しまれている。
美術館の企画展を見に行ったときに建物や中庭など絵にしたいと思ったがスケッチの準備がなかった。
この絵は(暑くて丸の内まで出かける気力がなく)数年前の写真をもとに描いた。
(このスケッチは2008年8月6日)
昨日、長崎の平和祈念式典をテレビで見て田上市長の訴えに共鳴し安倍首相の態度に怒りながら、初めて長崎の爆心地を訪ねた当時のことを思い出した。定かでない記憶を確かめるため古いアルバム帳から数枚の写真を見つけた。大学生だった1958年の秋、大学生協連の全国理事会が宮崎大学で開催され、それに参加した帰途に長崎と広島に立ち寄った。私と北大の河村、東北大の小室など同連合会常任理事5人で、「どうせ各駅停車の夜行列車乗り継ぎの旅だから」と企画したものだった。
写真は長崎、爆心地公園の浦上天主堂の被爆遺壁の脇で。現在の平和公園はこの爆心地の先に整備が進められ、シンボルの平和祈念像も3年前には製作されていたはずだが、記憶も写真もない。被爆した浦上天主堂を広島の原爆ドームのように遺産として平和公園に移して保存せよという世論に対し、教会や市長が反対(アメリカもそれを支持)するといった論議があり、当時はまだ決着していなかった。なお、いまは爆心地公園という呼び方はなく、平和公園の一部となっている。
長崎、爆心地公園の「原子爆弾落下中心碑」まえにて。前列向かって左・河村征治さん(のちコープさっぽろ理事長)、右・小室満男さん(のち東北大生協専務)。5人はこのあと長崎大学の自治会を訪ね「生協を設立し、厚生施設を充実させる必要性」を訴えた。合わせて宿泊費を持たない生協活動家のために学生寮に一泊させることも求めた。この切実な要求が認められ、5人は無事に次の広島に向かった。
広島でも長崎同様に平和公園を訪ね、広島大学では自治会幹部に会い、生協づくりの話し合いをした。学生寮に泊まった記憶はないが、多分お世話になったのだと思う。3年前の1955年、初めての原水爆禁止世界大会が開かれた広島の平和公園と原爆ドームは長崎に比べ我々に大きな感銘を与えるものとして整備されていた。
大学生協連は1957年の大会で運動路線「3つの柱」を確立し、その一つに「平和と民主主義」をかかげており、学生運動の中で原水爆禁止の運動も広がりつつある時期であった。大学生協も日本原水協の提唱する原水禁運動への取り組みに着手し、その後の60年安保闘争などの経験をするなかで独自の位置づけがされていくこととなった。
私個人は地域生協に携わっていた70年代終わりから日本生協連の幹部、役員だった80年代、90年代とヒロシマ、ナガサキは毎年のように訪れることになった。1958年に大学生協連は法人化総会を持ち、59年に認可されて今年は60年の記念事業を予定しているという。同時期から生協に関わり続けた私の生協歴と、原水禁・平和活動との関わりも60年を超えることになった。古い写真を見ながらの感慨はふかい。
7月末の土曜スケッチの会は井之頭公園だった。井之頭池から旧神田上水の流れが始まるが、
この絵は公園から離れて最初の夕焼け橋のちかくで描いた。百日紅の赤が良かった。
吉祥寺駅のある市街地からは公園や神田川はかなり低いところにあり、この絵のように坂道も多い。
2枚目のスケッチとして井之頭池も描いたが、蚊にやられて「ここまで」になった。