かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

現在を「戦前」にしないために

2023年01月31日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

日本生協連の役員OB/OG組織の「久友会だより」の表紙に私の絵を使っていただいています。12月号には寄稿文「「ロシアのウクライナ侵略戦争と日本の『戦前』」も載せていただきました。現在の日本を「戦前」にしたくないとの思いからの一文です。

<投稿>
 ロシアのウクライナ侵略戦争と日本の「戦前」                                             斎藤嘉璋
 はじめに
私はロシアによるウクライナ侵略戦争が起きてから、これまで生協の歴史と戦争について語り、書いてきた立場からいくつかの原稿や講演を依頼され、書いたり話したりしてきました。ここでは、協同組合連帯機構・JCAの研究誌「にじ」秋季号「特集・戦争と協同組合」に載せた「戦争と平和と生協」とオウエン協会で10月に報告した「生協の平和活動の歴史と教訓」(同協会の年報に載る予定)の内容の一端を紹介させていただきます。
ウクライナ戦争については日本生協連はじめ各生協がロシアに対し抗議、直ちに停戦を求めるとともにウクライナの避難民などへの支援カンパなどを進めています。
国民の多くはこの戦争が一刻も早く終わり、このような戦争が地球上から無くなることを願っています。
一方で、この理不尽なプーチンの侵略行為と同様な事態が日本周辺でも起きるのではと、日本の安全保障をめぐり、平和外交ではなく軍事強化で対応しようとする動きが強まっています。このようななかで一部の生協ではあらためて組合員をふくめ戦争と平和に関する学習会などの取り組みが進められているようですが、私は久友会の皆さんがそのような動きを支援されることを期待して、この一文を皆さんの参考になればと投稿するものです。なお、くらしと協同の研究所の「くらしと協同」夏号に「戦争と人権―ロシアのウクライナ戦争に思う」を載せていますので、人権に関心のある方は同誌特集をお読みいただければ幸いです。

ウクライナ戦争と満州事変・日中戦争
 ロシアのプーチンによるウクライナへの軍事侵攻には、なぜ21世紀の今こんな理不尽なことが起きるのかと驚きました。理不尽ということでは「大量破壊兵器の貯蔵」を理由に国連決議も得られないまま2003年にアメリカが行ったイラク侵攻も、大量破壊兵器が見つからなかったことなど捏造・虚偽による国際法違反の侵略でしたが、契機となった9・11同時多発テロの流れがあり、あまり驚きませんでした。私がウクライナを含むロシア周辺国のNATOへの加入の動きなどがプーチンとロシアに大きな脅威を与えていたといった情勢にも疎かったため衝撃的だった面もありますが、多くの人が私同様にショックだったと思います。
 私はまず、クリミアを併合し、さらに「自衛のため」という勝手な理屈をつけてのプーチンの「特別軍事作戦」に対し、朝鮮を併合しさらに満州「事変」から日中戦争へと進んだかっての日本のことを思い起こしました。プーチンの「軍事作戦」は日本が「事変」といったのが侵略戦争の開始であったと同じように、首都キーウへの軍事侵攻や民間人のいる建物への爆撃などは侵略戦争そのもので、その欺瞞と非人道性はすぐに明らかになりました。かっての大戦から日本はじめ世界の諸国民が学び国連憲章などにまとめられた原則が、国連安保理のロシアによって公然と破られたので、世界の多くの人々が驚き、怒りを覚えたのは当然でした。
また私は、日中戦争からの15年戦争、その戦争の準備、遂行のなかで弾圧され多大な犠牲を強いられた当時の生協のことを思い起しました。日本の多くの人々は、ロシアのプーチンによる軍事侵攻による無差別で非人道的な一般人への爆撃や暴行に怒りを覚えています。それは、かっての日本がやったことであり、家を焼かれ逃げ惑うウクライナの人々の姿は朝鮮や中国の人々の姿だと、さらに暗い気持ちになった人もいたと思います。プーチンのロシアはひどい、しかしそれはかっての日本もやったことだと怒りとともに反省ももって戦争というものを考えた人も少なくないと思います。
 しかし、今の日本ではそのように考えるのではなく、近年緊張関係がつづいている中国や北朝鮮をロシアの姿にダブらせて、日本に対する軍事侵攻の発生を想定し、それに対応するための防衛力強化、憲法改正などを含め“戦争をする国”への転換を進める考えと動きが強まっています。安倍内閣による憲法違反の集団的自衛権の容認と安保法制の施行のあと防衛力強化を促進してきた勢力は、ウクライナ情勢を追い風に敵基地攻撃能力や防衛費の2%への倍増などを推し進めようとしています。
そのような動きに対し、私は当時「全国非戦同盟」を結成し、軍備増強や戦争鼓舞などに反対した賀川豊彦など生協のリーダーたちのことを思い起こしています。

賀川らの「全国非戦同盟」と関消連の取り組み


大正期に労働組合・友愛会のリーダーだった賀川豊彦は大阪で労働者生協・共益社の設立を支援し、神戸で神戸消費組合と灘購買組合の設立(1921年)を支援しました。その賀川は関東大震災の被災者支援で上京し東京を活動の拠点にし、東京学生消費組合の設立(1926年)や被災地での江東消費組合の設立(1927年)を指導・支援しました。
そのころ、大正末から昭和にかけて治安警察法が治安維持法に変わり、特高警察の設置強化がされるなど生協をふくめ労働運動などに対する弾圧が強化され、対外的には第1次山東出兵(1927年)が行われるなど戦争の危機が迫っていました。
そのような大陸での侵略戦争の遂行、国内でのファシズム的動きに対し、賀川豊彦は1928(昭3)年、全国非戦同盟を結成し「①あらゆる戦争と軍備、②帝国主義的侵略の政治、経済、③侵略鼓舞、弱小民族圧迫」の3つに反対することを主張しました。この非戦同盟には大正デモクラシーの旗手で家庭購買組合(1919年設立)の組合長の吉野作造や早大教授で東京学消設立に協力した安部磯雄が顧問として協力しました。
労働者生協の連合体・関東消費組合連盟(関消連)は、この翌年1929年の国際協同組合デーのデモンストレーションのスローガンに「帝国主義戦争反対」を掲げました。しかし、当時は改悪された治安維持法で国体(天皇制)に反対する団体結社は認めず、個人も違反すれば極刑とされ、共産党などは反戦活動以前にその存在自体が弾圧される状況でした。関消連は翌年も一部の労組や農民組合の人たちが結成した「反ファッショ民衆大会」に参加しますがすぐに弾圧されており、戦争反対の運動が社会的に広がることはありませんでした。賀川の「非戦同盟」の訴えも運動としては広がらず、政治に反映されませんでした。
関消連は自治体ごとに保有していた米の払下げを求める「米よこせ」運動を各地で成功させ、組織を拡大して「日本消費組合連盟」の結成をみるなど発展しますが、幹部の一斉検挙などの弾圧が続き、1938年には解散させられます。戦争を進める政府にとって危険とみなされた東京学消も1936年早稲田支部、最後に40年の東大赤門支部が特高の弾圧で解散させられます。
「非戦同盟」を提唱した賀川は反戦思想容疑で大戦開戦前年の1940年に東京・松沢教会で検挙・拘留され、43年には神戸と東京で憲兵隊の取り調べを受けました。吉野作造は軍部に「国賊」といわれ右翼に狙われたため、生協本部に変装して通ったそうです。日本が脱退した国際連盟の事務局次長を務め、賀川が1931年に設立した東京医療生協の組合長であった新渡戸稲造は賀川の反戦平和に協力的で「軍閥が日本を滅ぼす」と主張したため軍部や右翼からの非難攻撃が続きました。

  賀川らの主張と現在の日本

 賀川らの「非戦同盟」結成の3年後に日本は満州事変、日中戦争と15年戦争に入っていきます。その主張は生かされなかったのですが、それは3年後の事態とその後の日本を見据えたものでした。その主張の第1は「あらゆる戦争と軍備」に反対でした。賀川はその理念から戦争は許せないものであり、金融恐慌で経済不安が広がっている時でもあり、軍備に金をかけることも許せなかった。第2の「帝国主義的侵略の政治、経済」への反対は、日清、日露戦争以来の日本の政治と経済の体質への批判であり、第3の「侵略の鼓舞、弱小民族圧迫」は国粋主義、民族主義の政治宣伝や社会風潮への警告でした。
 今、ウクライナ情勢を卑劣にも「追い風」にして、日本をかってのような戦争をする国にしようとする動きは賀川や関消連のリーダーたちが必死に抵抗した昭和初期の「戦前」に似ています。今を「戦前」にすることは大きな犠牲のもと非戦の平和憲法を持つ私達には許されないことだと思います。自民党や政府、好戦論者が主張している「軍事力には軍事力で」の考えは双方が常により以上の軍事力を持とうとする「安全保障のジレンマ」と言われているものであり、税金を使って軍需産業を喜ばせるだけで、平和を守ることにはなりません。
「反撃能力」「敵基地攻撃能力」保有論は、「専守防衛の立場を守る」と言ってもかっての日本の不当な侵略や真珠湾の奇襲攻撃を知る中国などには通じるとは思えません。互いに緊張をあおり、防衛の名のもとの戦争(プーチンもそう主張している)になれば、自由に移動する基地から長短で自在に動くミサイルが飛び交い双方の国の人々は多くの命と暮らしを失い、双方の国土が荒廃した後で共に敗者になる、そんな悲劇を私は想像します。現実的に考えると日本がかかわる「双方」にはアメリカと中国という核大国が入るので、ロシアとウクライナの戦争どころでない大戦となるので、私には想像もできません。
 「核の共有」なども論外です。ウクライナがそうであるように核兵器を持たない日本にも数多くの原発があり、原発が被爆すれば広島・長崎以上の惨事は防ぎようがありません。プーチンの核の脅しのなかで、核兵器禁止条約に署名あるいは批准する国が増えていることは人類の叡智であり、被爆地広島出身の日本の首相こそが学ぶべきことです。
「核の共有」論をふくめ、軍事力を高め、日本がいつでも戦争ができる国になるように進めている政治家などは、そのことが逆に国家間の緊張を高めていることや外交を強め緊張を解く努力をしないことについて説明もしません。安倍首相の時に憲法違反の安保法制を制定して以降、岸田首相が現在進めようとしている防衛大綱など防衛3文書の見直し内容は明らかに憲法9条に反する内容なのに、国会論議など無視して進められています。ウクライナ戦争だけでなく北朝鮮のミサイル問題などに国民が不安と怒りを覚えている状況を追い風に、政府は今「防衛力に関する有識者会議」などを利用して軍備の拡大、防衛費の2%への倍加など戦争をする国造りに懸命です。国会や国民の議論を避ける政治手法は憲法無視の「戦前」を思わせるものです。

 現在を「戦前」にしないために

 私が寄稿した「にじ」の特集には東大の神野直彦名誉教授が「再び『戦争の時代』にしないためにー戦争を回避するための協同組合の使命」を寄稿しています。そこでは日本の私たちが今「戦争責任」の前の「戦前責任」を問われていると書き、協同組合として果たすべき責任、役割を述べています。私は前の戦争には幼年期でしたが、敗戦と戦後の混乱期を知っている者として、最近の情勢から「戦前責任」を感じています。岸田首相はじめ政治家や好戦的なリーダーたち、その多くは「戦争責任」は取りたくないが戦争準備ならいいだろうと考えている人たちに「戦前責任」をとらせるにはどうしたらいいだろうか。賀川らのような先輩に叱られないようにお互いに考えたいと思います。
前記の「にじ」の特集に載った日本生協連の天野さんのウクライナの協同組合に関する論文は本誌に転載されていますが、その天野論文に関連して私はオウエン協会での報告で私なりの解釈、感想を話しています。ここでは生協の国際的な交流の必要性についてだけ述べます。
国家間の紛争を戦争でなく友好と平和に収めるには国民同士の多様な交流があることがなによりだと思います。幸い協同組合は消費者、生産者、労働者あるいは学生など各層の組織として各国にあり、ICAという長い歴史を持つ国際組織があり、アジア支部といった地方ごとの組織もあります。
日本生協連は1950年代からICA総会で被爆の実相と原水爆禁止のアピールをし、90年代には全国の生協が各国の協同組合に被爆パネルを送るなど、国連への対応と合わせて反核平和の活動を国際的に広める取り組みをしてきました。終戦50周年の活動としてはかって日本が侵攻した韓国などアジア諸国に「平和の旅」として組合員代表を送り、戦跡を訪ね市民同士で交流することなどもしました。
今回、ウクライナの生協とその組合員は戦争下において大変な苦労をされており、日本生協連はそれに対する支援などにも取り組んでいるようですが、組合員にとっても生協同士の連帯は有意義だと思います。私はブックレット「生協の歴史から戦争と平和」が翻訳出版されるなど、韓国の生協とは親しいのですが北朝鮮のことは分かりません。中国には現役時代に合作社に招かれ交流していますが現状は知りません。国家間で困難がある場合も協同組合など民間の諸組織同士の交流・友好が平和の基礎であり、その強化が期待されます。
ロシアの協同組合中央会は残念なことにプーチンを支持する声明を出し、ICA総会ではロシアの協同組合を除名せよとの要求も出たが、ICAはそれには応じなかったと天野論文にはありあります。日本が日中戦争に入ったころ、イギリスなどの生協が日本製の商品ボイコット運動をし、それに反発し産業組合中央会はICAを脱退しました。しかし、関消連などは反戦をスローガンで頑張っていたので、私は今のロシアの生協にもこの戦争に反対の生協や人々がいると期待しています。
**
戦争か平和か、決めるのはそれぞれの国民、一般の市民であるべきです。そのような人々の組織である協同組合にはICAの指導のもと平和と民主主義の理念と伝統があり、日本の生協にも「平和とよりよい生活のために」の活動が継続されています。久友会の皆さんの中には憲法9条を守る会などで活動している方も少なくありませんし、私も微力ながら東京の仲間と取り組んでいます。現憲法のもと平和と民主主義が守られてきた「戦後」を続け、その憲法が無視さらに改悪されて新しい戦争の「戦前」にならないようにしなければなりません。
現役の生協の役職員、組合員はウクライナの人々を励し、戦争をやめさせるととも日本の平和のために様々な取り組みを行っています。ともに頑張りたいと思います。

 

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今こそ平和と暮らしを守る政治を

2022年06月28日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

 

 今こそ平和と暮らしを守る政治を―参議院選挙にあたって

    生協だれでも9条ネットワーク世話人 斎藤嘉璋

 

ロシアのウクライナ侵攻は国連憲章に違反する理不尽な侵略戦争であるだけでなく、子供を含む市民への無差別攻撃など国際人道法に反する戦争犯罪として世界の人々から抗議、非難がされています。私達を含め日本の国民はこの戦争の一刻も早い停止を願い、多くの犠牲者、戦争避難民などへの支援の取り組みを進めています。この戦争では核兵器使用の威嚇まで出ており、そのような脅威から人類を守るため、世界の多くの人々は「国連憲章をまもり戦争はしない=平和」の大切さを痛感しています。

私たちが誇りにし、守ろうとしている日本の憲法は、武力行使を原則禁止している国連憲章と理念を同じくするものです。しかし、日本ではロシアの国連憲章違反を非難しながら、一方で「力には力で」と戦争準備に注力し、9条などの憲法改正を推進する動きが強まっています。人々の不安に乗じて、為政者が戦争への道を拓いた歴史は日本にも世界にも多くあります。ウクライナでの戦争の悲劇から学ぶべきことは「戦争をしないこと」、そのための政治の確立だと考えます。

今回の参議院選挙では「敵基地攻撃」、「防衛費倍増」さらに「核兵器共有」などの危険な動きとそれを推進するための「憲法改正」が争点の一つになっています。物価は上がるが賃金・年金等の収入減で生活は苦しい、防衛費倍増などとんでもないという声、核兵器禁止条約の第1回締結会議が開かれる年にそれを推進するのではなく核兵器共有を主張することは許されないという声、私たちはそのような声を国会に反映させたいと考えます。

私たちは安部政権による集団的自衛権容認とそれに基づく安保法制制定の時から、それが憲法に違反するもので、国民の平和への願いを踏みにじむものだと主張してきました。そして、平和と立憲主義、命と暮らしを守る政治の実現のため「市民と野党の共同」を強めるための取り組みを進めてきました。昨年の衆議院選挙では市民連合と野党4党が共通政策で合意し、それに基づく協力体制で選挙に臨みましたが、その選挙協力には様々な障害や妨害もあり成果は期待に応えるものではありませんでした。今回の選挙での護憲野党の協力体制も十分なものではありません。逆に、憲法改正や防衛費増強を主張する野党候補も増えています。

このような状況の中ですが、平和と憲法、命と暮らしを守る議員を一人でも多く国会に送り出したいと考えます。

私達は19日の総がかり実行委員会主催の国会前行動のあと世話人会を開催し、このようなアピールを皆さんに提起することを確認いたしました。皆さんがこのアピールを参考にそれぞれの考えで選挙に参加、誘いあって投票に行かれることを期待いたします。        

以上

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50年前の学生運動ー暴力のもたらしたもの

2022年02月03日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

 学生時代から親しくさせていただいている先輩の稲川和夫さん(元ならコープ理事長。元早大生協幹部職員)から手紙をいただいた。メールやフェースブックを覗くより手紙の手書きの文章はうれしい。ただ、今回の手紙は、50年前に大学生協関西地連事務局長であった稲川さんを手こずらせた過激派学生のその後のことを「抵抗と絶望の狭間」という本で知り驚いたということで、長文だった。それは稲川さんたちの論争相手であった彼ら=塩見孝也(京大)や森恒夫(大阪市大)が上京し、赤軍派や連合赤軍のリーダーとして過激な行動を繰り返し、内ゲバで多くの仲間を殺し、あさま山荘事件などを起こしたことを嘆き、批判するものでした。

 関西地連傘下の大学生協が彼ら過激派の暴力のもとで混迷、困難下にあったころ、東京の大学生協は彼らの直接介入は許さなかったが、全共闘運動のあとのあらたな暴力集団、革マル派や中核派(当時、新左翼は5流13派と言われたが私には違いは分からないし、分かる人もいなかった)が台頭し、彼らの暴力行為は生協の活動や事業にも大きな影響を与えていた。私が早大生協の専務になった1969年春は全共闘による安田講堂攻防戦がおわり、東大が入試をやめた春でした。大学立法反対を掲げ革マル派などが「無期限バリケードスト」を唱えるなか、生協はそのような挑発的行動に反対し、大学の教員・職員組合や院生協議会など7団体と集会や署名運動に取り組んだ。暴力反対を主張する生協に対する革マル派の嫌がらせは、70年春には生協の加入受付をしているアルバイターを拉致、暴行するにいたった。そのため、革マル支配下にあった文学部での加入受付や総代選挙などの行事には私をふくめ背広姿の大人が立ち会うといった対応をした。70年10月、文学部の学生・山村正明君が革マルの暴力に抗議する遺書を残し、文学部に隣接する穴八幡境内で自殺した(私は文学部出身のため当時から彼を「君」づけで話したし、後述の川口君も同様です。後輩を愛おしく思うためと理解を)。学生の反暴力、反革マルの声は強まったが、彼らそれを巧妙に交わして大学当局の一部まで抱え込み全学的に支配を広げていった。そして72年11月、革マル派は文学部学生・川口大三郎君を虐殺、東大病院の近くに放棄する事件を起こした。その事件とその後の暴力反対、革マル派追放のための取り組みを書いたのが「彼は早稲田で死んだ」(樋田毅、文芸春秋)で、稲川さんに示唆されて読みました。当時、私は早大専務と東京事業連合専務を兼任し、地域生協支援の活動も本格化していたので、この事件を「けしからん」と思ったものの学生諸君と深い論議をすることはなかったので、新たに知ったことが多かった。

「彼は早稲田で死んだ」の筆者・樋田さんは川口君の1年下の1年生であったが、暴力を排除した自主、自立の自治会を確立するためノンセクトの学生として新執行部の委員長になり、2年間にわたり懸命の努力をし、全学的に暴力反対の大きなうねりを作った。しかし、自身も彼らにつかまり鉄パイプでリンチを受け、入院。退院後、仲間に守られ登校するが革マルの襲撃を受け続け、ついに運動から手を引くことになる。それらのいきさつ、考え悩んだことも正直に書かれている。筆者は革マルにつかまらないように用心しながら通学、卒業し朝日新聞の記者になり、阪神支局の赤報隊事件に遭遇、その犯人捜しの仕事も続けた。そのことも書かれているこの本は、貴重な体験談であり、よく取材されたルポルタージュであり、正確な一つの社会運動史であり、暴力と非暴力、非寛容と寛容という筆者の哲学の書でもあると思われた。(なお、この本には反暴力の新自治会を発足させるとき執行部に革マルに「民青」と思われる人が入るのはセクト間抗争という口実になると考え立候補を辞退てもらったと書いている。その中には今、私と絵の会や9条の会で一緒の人もいるが、コロナ禍で話せないでいるので、ここで名前を出すのは遠慮した。)

 私は学生時代の体験から60年安保のころの思い出と合わせ読んだ「薔薇雨(1960年6月)」や「未完の時代・1960年代の記録」については,かってこのブログにも紹介を載せたが、その後も60年代以降の学生運動に関する書物はいろいろ出ている。それらをよく読んではいないが、私は全共闘運動を含め新左翼と言われる人たちの運動は暴力を是認し、それを行使したために学生運動をはじめ日本社会の変革を目指す諸運動にマイナスの影響を与え、学生も若い労働者も「運動」や「組織」から遠ざけることになったことが「総括」されていないのが問題だと考えています。人々を殺害したり、諸運動を妨害しただけでなく、社会の健全な前進を阻害し、今の混迷と停滞の日本を作った要因の一つではないかと思っているがどうでしょうか。

 

 

 

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3つの生協組織の70周年誌

2022年01月14日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

 昨年は私がお世話になった早大生協、日本生協連、東京都生協連がそろって創立70周年を迎えた。3組織ともコロナ禍のため先輩などを集めての記念集会やパティーなどは控えられたが、周年記念としての70周年史誌は発刊された。コロナ禍で存亡の危機といった状況に直面した早大生協からも年明けに70周年記念誌が送られてきたのでホッとし、うれしかった。

 早大生協は学生理事として法人化などにかかわり、10年後の70年代には大学紛争の続く中で常勤役員を務め、その役職員の協力で地域での生協運動の拡大に注力できた私の生協人生の母体である。2020年、コロナ禍で学生の登校などがなくなり、食堂や食品部の利用は9割、全体で6割の供給減少で4億円の赤字で存亡の危機と聞かされた。コロナに関する営業補償などもあり20年度の赤字は1.6億円となったが、21年度も前半期の状況は変わらず「早大生協の灯を消さないために」のアピールにこたえるために私たちOBOGも微力ながらカンパなどに取り組んだ。

そんな状況で記念誌の発刊なども無理と思っていたのに、10ページの最近の10年の動きを中心にしたものであるがA4カラーの冊子が送られてきた。その冒頭に大学と生協が昨年11月に締結した「相互協力協定」が載っており、コロナ禍の中で改めて大学が生協の役割を認識、期待していることが分かり、うれしかった。70年の活動の成果と確信した。最後のページには「10年間の事業の歩み」として供給高や累積剰余金のグラフが載っており、20年度の累積赤字は9,400万円となっている。これも「生協はつぶれないぞ」という意思表示に思われた。

日本生協連は30ページほどの70周年史誌を出し、別に私が監修者として協力した「日本の生協運動の歩み」を発刊した。東京都生協連は110ページの立派な70周年誌を発刊した。

私は1971年に早大生協の創立20年記念で「生協運動早稲田の歩み」の編纂・発刊にかかわり、81年の東京都生協連の創立30年では「東京の生協運動史」の執筆(編纂)にかかわり、2001年の日本生協連の創立50年では「現代日本生協運動史」の編纂(執筆)の関わった。偶然にも同じ1951年に設立された3つの生協組織でお世話になり、たまたま記念すべき周年にその組織の役員をやっていたためである。3冊の記念誌、特に早大生協の10ページの冊子を手にして昔を思い、感慨にふけった。

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<被爆75年ーヒロシマ・ナガサキ>

2020年08月09日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

6日の広島につづき9日には写真のように長崎の平和祈念式典などの一連の行事が行われた。日本生協連のピースアクションINヒロシマ・ナガサキはオンラインで実行され、8日は長崎で「虹のひろば」が開催された。zoomを使ってオンラインでおこなわれている「虹のひろば」の様子はyuotubeでみた。田上長崎市長の挨拶や藤井日本生協連専務の挨拶、被爆者の田中重光さんの被爆体験と被爆者団体代表としての訴えなどのほか、2日間にわたって行われた諸企画の報告があった。会員生協の写真を使っての活動報告が東京の東都生協、福岡のエフコープ、コープおきなわからあった。NPOピースデポ事務局長の中村桂子さんは核兵器の現状と問題点を分かりやすく話された。

今年の広島と長崎の平和行事をTVやオンラインで見聞きしての感想。核をめぐる情勢の悪化=核兵器禁止条約の批准国が3つ増え43になったといった前進面はあるが核保有国米ロ間+中国の関係の悪化、核兵器の近代化・悪質化、核兵器禁止条約批准拒否など世論に背を向ける安倍政権など。その動きを打破するための国際世論を広げる、被爆や核兵器の実相を伝えることがさらに大切だということが共通認識だと思えた。被爆者の平均年齢が83歳をこえ、生きた証言が聴けなくなる状況のもと、被爆の実相を伝えることの大切さが改めて語られた。エフコープの活動報告でも「伝えてください明日へ」という被爆体験聞き書き活動の様子が述べられていた。80年代から90年代にそのような伝承活動に取り組んだものとしてさらに今こそ大切だと感じた。

これまでに被爆の実相の伝承、被爆者の体験を記憶遺産として残す取り組みは生協などで取り組まれてきたが「ノーモアヒバクシャ記憶遺産を継承する会」では、日本被団協などと協力し幅広く取り組みを進めている。それは遺産として継承し残すことが目的ではなく「広げる」ことにあるが、自分の協力できる活動としてこの会を支援していきたいと思う。

私が学生時代(1958年)に初めて訪ねたのは「原爆落下中心地碑」が立つこの公園だった。

映像はNHKTVから。

 

 

 

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賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー ③高村勣

2020年06月02日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

(この小文は昨年、ロバアト・オウエン協会で行った報告を編集したもの)

 

 高村 勣 (日本生協連第5代会長)

  ―事業経営に強いリーダーとして

 

1、生協の近代化、発展をめざして

 学徒動員、生協の再建へ

 石黒武重が戦前の上級官吏、終戦時の政界の経験を経て生協に関わるようになったのは49歳の時であり、同様に中林貞男が新聞記者と産業報国会の経験をへて生協に転身したのは38歳の時で、その後それぞれその経験を活かして生協運動でリーダーシップを発揮した。中林のあとを継いで日本生協連の第5代会長となった高村勣ははじめから生協一筋の“生協人間”であり、終戦直後の混乱期から80年代の発展期まで生協の第一線で活躍した実践者であり、リーダーだった。

 高村勣は1923(大正12)年に大阪で生まれ、神戸商科大(現神戸大)に入学、途中陸軍に入隊、宮崎で終戦、復学し、46年に卒業した。終戦直後の混乱期に卒業した高村は親しい友人の父親だった当時の灘購買組合の組合長・田中俊介さん(日本生協連第2代会長)に誘われて灘購買組合(現コープこうべ)に就職した。当時の仕事は「廃墟のなかの掘立小屋に住む多くの組合員にもう一度生協に結集して『明日の食い物を確保しよう』と呼びかけるオルグ」であり、「雑炊をすすり古軍靴をすり減らしながら」生協の再建のため動き回ったという。安い給料も遅欠配といったなかでかなりの数いた大卒仲間は殆んど離職していった。そんななかで、組合長の田中もそうであったが職場の上司もクリスチャンであり、賀川豊彦の話を聞く機会もあり、高村は48年に受洗した。

 スーパーの導入と経営近代化

 当時の生協の供給事業は戦前からの御用聞き制度で行われており、高村はその支部長から商品担当、業務部の責任者など各分野の経験をつみ、1957年には若い幹部候補としてICAセミナーに派遣された。コペンハーゲンでのセミナーのあとヨーロッパ各国の生協を視察した高村はスーパーマーケット店舗の実態を知り、それの導入による生協事業の近代化を図るべきと考えた。スーパーマーケットについて書かれた本は英文のものしかない時代で、高村はその原書を読んだりレジスター会社のNCRや東京の紀伊国屋などに学び、61年、くみあいマーケット芦屋店の出店を成功させた。すでに神戸ではダイエーが主婦の店ダイエーを出店しており、生協のスーパー出店はあわせて流通革命の端緒となるものであった。翌62年、灘生協は神戸生協と合併、灘神戸生協となり「マンモス生協誕生」とマスコミに騒がれた。

 日本生協連で機関誌の編集担当だった私は63年、当時、店舗運営部の課長兼住吉店店長の高村を取材したが、高村は9店舗のくみあいマーケットの統括者として「ピンポン玉」といわれるほどに活躍していた。高村はスーパーマーケットの考え方から商品、店舗の運営・管理の各分野につて実践的な指導を熱心に行い、その指導は「高村学校」と呼ばれ、職員のなかでの信頼は高かった。当時、高村は「生協は流通界の刺身のツマでなく主流になるかまえでスーパー化を軸に経営改善を図るべきだ」と抱負を述べていたが、灘神戸生協以外の生協は流通界に無視される弱小な存在だった。

 1975年、専務理事になった高村は店舗事業の拡大と合わせグループ購入(共同購入)の導入、御用聞き制度の廃止と供給業態の近代化をはかり、3か年計画の策定で総合的、長期的に生協の進路をきめることとした。3次にわたる3か年計画の中では「心豊かな暮らしと地域社会の創造」のスローガンのもと地域への貢献策が追求された。その中には神戸市との「緊急時の生活物資確保のための協定」など、その後多くの生協が取り組む課題の先駆けがいくつもあった。組合員組織や理事会運営などの改革も「大規模化に合わせた民主的運営」のため進められた。

 高村は1983年に組合長となり現場の第一線から退くが、兵庫生協連会長や国民生活審議会委員などの仕事と国際的にはICA中央委員になり、ストックホルム生協との姉妹提携、同生協とドイツ・ドルトムント生協、コープこうべの「世界3大生協シンポジュウム」の開催など活動の場を広げた。日本生協連との関係では81年から副会長を務めていたが、85年、中林に代わって会長に選出された。

 

2、日本生協連会長として

 生協規制の嵐のなかで

 60年代後半から70年代に全国各地で誕生した市民生協群は80年代に飛躍的に成長、発展し、全国の組合員は100万人を超え事業高も1兆9000億円という規模になっていた。供給事業は共同購入から店舗重視に変わりつつあり、その出店に脅威を感じた小売商団体から生協規制の動きが強まっていた。その動きを受けて自民党の中に生協対策委員会が設置され、そこで員外利用禁止など生協法改悪が議論された。

 厚生省は全国生協の員外利用実態調査を行い、86年に有識者による「生協のあり方懇談会」を設置し、高村はそのメンバーになった。日本生協連は東京・晴海で生協規制反対全国組合員総決起集会を開いたが、そこには全国から1万4000人が集まり生協規制の不当性を訴えた。員外利用の実態は商業者が主張するほどになく、逆に規制反対の運動の中で生協組織が強化拡大する状況であり、「あり方懇」も生協の社会的役割に期待する内容であったことから、規制の動きは終息に向かった。「あり方懇」で商業者代表と激しい議論を続けた高村は「『あり方懇』は『ありがた懇』になった」と評価した。

  ICA東京大会の成功

 高村は前任の中林から「事業が拡大した日本生協連には事業が分かる会長が必要」と説得されたが、たしかに中央会的機能だけだった時代と違い、会員の要求も取り扱い比重の高いコープ商品を軸に日本生協連への要求は事業に関することが多かった。高村は「会員生協に役立つ連合会としての体質改善」を会長としての役割と考えた。

 日本生協連は87年からの第4次中計の「日本生協連のあり方」で「会員・組合員を基礎に置いた運営と活動」をうたい、中央会系機能と事業機能のコストや会費のあり方、理事会や常勤役員問題、商品力強化と事業改革など分野ごとの改革を進めた。それらの日本生協連のあり方改革は90年、内館晟専務体制となり本格的に進められることになった。高村は「常駐できない私は、事業経営がわかり遂行能力のある専務役を専任でき、(中林に要請された)責任を全うできた。」と述べている。そして高村は「会長としてやったこと」として生協規制・「あり方懇」とあわせICA東京大会など国際活動を取り上げている。

 ICA東京大会が開かれる前にベーク報告「協同組合の基本的価値」を受けて日本生協連では高村会長を委員長とする委員会で「日本における協同組合の基本的価値」を検討し、その中間報告の論議がコープこうべをはじめ全国の各生協や県連で開催された。92年にはじめてアジア、東京で開催されたICA大会には83か国と海外の1,100人を超える参加があり、全体会と生協など各分野の会合が持たれた。高村は全体会で基本的価値「参加、自立、公開、協同、社会的貢献」は日本の生協運動の価値として支持すると述べ、生協委員会では「組合員活動と店舗事業について」報告した。生協委員会では斎藤も日本生協連常務として「組合員への情報、教育活動」の報告をしたが、高村会長の店舗事業の報告の方に多くの質問、意見が出された。

 

 コモ・ジャパン―店舗近代化のために

 若い高村が多くを学んだイギリス、フランス、ドイツの生協は、日本の生協が本格的な発展をはじめた70~80年代に経営破綻し多くが解散していった。店舗事業で苦戦している日本の生協の将来をその3国から学ぶ必要があると考えた高村は、90年、店舗事業に力を入れている9つの拠点的な生協のトップに呼びかけ、欧州生協視察団を呼びかけ実行した。帰国後、高村の「拠点生協による事業連帯組織結成に向けて」のアピールに賛同した9生協の参加で「日本生協店舗近代化機構」(COMO japan)が発足した。コープこうべを中心とする任意組織であったが、日本生協連会長が呼びかけて結成した組織であり、日本生協連総会では「大単協のエゴ。中小の切り捨て」などの批判が出たが、高村はそのようなことではなく、この連帯の成果は生協全体の利益になるものだと主張した。

 そのコモ・ジャパンは店舗業態、運営ノウハウ、商品開発、人材育成などで交流と実践を続け、96年には日本生協連の内部に組み込まれた。しかし、人材育成などコープこうべの現場での実践を伴う機能は引き続き「コモテックこうべ」として、コープこうべの協力の下に置かれ、そこで育った幹部職員が各生協の店舗事業の発展のために力を尽くすこととなった。

 高村はICA東京大会の翌93年6月の総会で会長を同じコープこうべ出身の竹本成徳と交代し、その後は社会福祉関係組織などで地域活動を続けた。

 

3、実践的なリーダーだった“生協人間”

 

 学徒出陣と敗戦の経験をして廃墟のなかで再建をはかる生協に入った高村は賀川豊彦などの影響をうけ生協運動を生涯の仕事と決意し、「生協人間」と言われる人生を送った。再建時の苦しい経験やヨーロッパ生協の発展ぶりから学び店舗の近代化=生協経営の近代化をめざすことを重視し、コープこうべが日本を代表する生協に発展することに貢献した。日本生協連の会長就任時は生協規制の嵐を克服することが当面の課題であったが、基本課題は急速な成長のなかで岐路にあった日本生協連や会員生協の事業連帯や店舗をはじめとする事業経営のあり方だった。日本生協連の改革はトップ人事などで進め、生協間の連帯は自主性を重んじたが、コモ・ジャパンのように実践的な指導もおこなった。

 高村はそれまでの日本生協連会長と違い生協の現場あがりのリーダーであり、生協がその理念を生かすためには事業経営の健全な発展が必要と考え、強調した。一方、その高村は生協規制論者に生協の消費者問題、環境、福祉などでの社会貢献論で反論し、ICA東京大会前後には「協同組合の基本的価値」問題など、生協の理念、あり方の論議を熱心に推進した。

 高村は「リーダーとして賀川のようなカリスマ性は全くなく、雄弁でもない」と言っていたが、誠実な人柄と実践的な指導で「高村学校」と言われたように優れたリーダー、教育者だった。コープこうべの部内報に書き続けた随想集「生協人間」には生協のことだけでなく戦争や平和などへの想いも述べられており、「生協経営論」(1993年コープ出版)と「いま生協に求められるリーダーシップとは」(1997年コープ出版)には自身の経験を踏まえ後輩の生協のリーダーへの期待が述べられていた。これらの著書をとおしてその影響を受けた人も多いと思われる。

(注、参考文献は「生協人間」など前掲著書ほか)

高村勣略歴

1923(大12)年 大阪市生まれ

1941年 神戸商科大学予科入学、途中学徒出陣 46年 同大学経済学部卒業

1946年 灘購買利用組合勤務 48年キリスト教入信 支部、経理部、従業員組合など

1957年 ICAセミナー(コペンハーゲン)に参加、59年店舗経営部長代理 1961年 指導課長兼くみあいマーケット住吉店店長、65年アメリカのスーパー視察

1969年 常務理事 75年 専務理事 81年日本生協連副会長 83年 組合長理事

1985年 日本生協連会長、経済審議会委員など 86年厚生省「生協のあり方懇談会」委員 90年コモ・ジャパン代表幹事、92年ICA東京大会 

1993年 日本生協連会長・コープこうべ理事長を退任

(1994年勲二等瑞宝章授与)

2015年 召天 91歳 

 

高村さんの思い出=中国土産の“書”のこと>

 

 高村さんとは日本生協連の会長になら  れる前年、1984年の中国・上海物流調査団でご一緒し、そのお人柄に親しく接しさせていただいた。日本生協連が所沢にシステム化した大型物流センターを造ったのは82年で、それまでになだコープやコープかながわは先進的なDCを持っており、中国の合作総社の代表はそれらを視察して、ぜひ日本のリーダーに来中して指導してほしいとの要請があり、それを受けての訪中であった。高村さんを団長に灘から2人、神奈川から1人、日本生協連から私の計5人が北京経由で上海に行った。

 我々を迎えたのは中国政府の商業部長で、日本的に言えば商業省の大臣であり、調査対象の物流は上海駅の貨物部門であった。社会主義中国の合作社は農業の生産にも流通にもかかわっているので国営の鉄道貨物の拠点である上海駅に深いかかわりがあることは理解できなくはなかったが、直接そのような国家プロジェクトにかかわることとは理解していなかった代表団は戸惑った。商業部長は、団長の高村さん(日本生協連副会長)に歓迎の挨拶をするとすぐに、立派な硯と筆、芳名帳を差し出し署名を求めた。高村さんは毛筆の署名などしたことがないと戸惑われたようであったが、部長は中国では大切なしきたりなのでと頭を下げ、高村さんは署名した。

 上海に行って駅の幹部から貨物の集荷、保管、配送などの実体と改革の考え、課題を聞き、そこでも驚かされることは多かった。当時の中国の貨物列車は全国でもっとも発達している上海駅でも、各方面からの登り下りの確定的な時刻表がなく、流通量も在庫量も把握が正確には困難、その荷捌きの作業は人海戦術で非効率だった。日本の生協DCの全自動のレーンの荷捌きの速さなどに驚いた、日本のようにコンピューターシステムを使い近代化したい、しかし、労働者の首切りはできない、どうしたらいいかといった難題だった。高村さんは基本的な考え方を述べ、実践的なやり取りは同行の若手が作業チームで行った。高村さんは中国の社会・経済の遅れ、ゆがみとそれを無視した発展への強い意欲の矛盾といったことに内心驚いたようであるが、その状況を理解し、真摯に対応された。

 その高村さんに中国側は書道道具―端渓の硯と筆を記念品として贈り、「また是非来ていただきたい、その折は立派な署名を期待しています」と笑いながら述べた。高村さんはその挨拶を嫌味ととらず、その硯と筆が気に入ったので、これを契機に書の勉強をすると挨拶された。

 私は父が書道家だったこともあり中国・端渓の硯は高価なものといったケチな知識があったため、数年後「あの硯はいかがですか」と伺った。高村さんは中国で約束した通り「書道は先生について勉強している」と云われた。そんな経過があり、私は日本生協連の最後の仕事であった「現代日本生協運動史」の執筆・編纂作業がおわり、出版する本の表題は高村名誉会長に揮毫をお願いすることにした。当時の会長・竹本成徳さんの達筆さは知っていたが、その竹本会長の賛同もあり、高村さんに引き受けていただいた。

(写真は2002年に出版された「現代日本生協運動史」と、そのお礼に神戸の六甲アイランドのご自宅に伺った時のもの。高村さんはいつもの散策コースでジョギング姿でした。)

 高村さんは生協の第一線を引かれてから福祉分野など、地元での諸活動で多忙でしたが、書だけでなく、親しい後輩の布藤明良さん(元日本生協連常務)などと写真を趣味とし、カメラをもって風景撮影に出かけ、作品展を開くほど腕を上げました。そのように何事にも前向きで、「雲の上には青空がある」をモットーにされていました。(斎藤)

 

追記>竹本成徳さんのこと

 ここに掲載した「賀川豊彦につぐ3人のリーダー」は昨年ロバアト・オウエン協会の研究会で報告したもので、それが載った協会の「年報」が手元に届き、それを竹本さんに読んでいただくため送ろうとしているところに「竹本元会長4月1日逝去」の訃報が入りました。

 私が日本生協連に入った1960年に全国生協労協が結成され、初代議長に神戸生協従業員組合の竹本さんが就任された。労協のことなどよくわからなかったが、その結成大会の事務を手伝ったのが竹本さんを知った初めであり、その後、日本生協連会長としてお世話になり、退職後も久友会の場はじめ個人的にも大変お世話になりました。

 竹本さんは広島の被爆者であり、私は生協の反核平和の取り組みで広島や長崎の行動でご一緒したこともあり、数年前に出したブックレット「生協の歴史から戦争と平和を学ぶ」には「戦後70年におもう」の一文を載せさせてもらっています。最近はお電話すると「被爆の語り部としてはもう動けなくなった」と、体調があまりよくないとは話していましたが、急逝されるとは思ってもいませんでした。3人の方のことを書いたので、竹本さんについても書きたいなと思いつつ書けないでいます。短い偲ぶ文といったものになるかと思いますが、書いたらこのブログに載せるので、10日後くらいにまた覗いてみてください。

 コロナの外出自粛が解けたので、少しづつスケッチも再開、このブログにも載せていくつもりです。

 

 

 

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賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー② 中林貞男

2020年05月26日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと
 
 ② 中林 貞男
     ―「平和とよりよい生活のために」を体現
 
 
1、学生時代、新聞記者、産業報国会
 
 石黒武重についで日本生協連会長となる中林貞男は1907(明治40)年富山県生まれで、早稲田大学を出て報知新聞の記者となり、戦時中は産業報国会につとめ、終戦とともに日本協同組合の設立に参加、以後、生協運動に生涯をささげた中林は1926年、賀川の指導のもと東京学生消費組合が発足した年に早稲田学院に入学した。その年、早大では大山郁夫教授が大学から追放されるという事件が起きたが、雄弁会幹事だった中林は雄弁会会長だった大山追放に抗議し「暴圧反対学生雄弁大会」を28,29年と続けて開催するなど学生運動に挺身した。1928年には共産党党員が一斉に投獄される事件(3・15事件)が起き、また悪名高い特高警察ができた年であり、反戦思想を理由に賀川豊彦らキリスト教関係者も弾圧されていった。
 中林は「軍事教練反対」の弁論をやり職業軍人だった父から「お前がそんなことをやるなら俺は切腹する」と叱責されることもあった。雄弁会や「早稲田新聞」も解散させられ、自由・民主の気概をもつ学生は行き場がなく、東京学消早稲田支部の売店に集まっていた。中林は学消には関わらなかったが、学消の店に集まるだけで特高に捕まるという事態となっていた。
 中林は1932年、大学を卒業、報知新聞社会部の記者になり、2・26事件などかなり生臭い事件をふくめあちこち駈けずり回った。日本は日中戦争、太平洋戦争に向かうが、新聞記者としての後半は当時新しい省だった厚生省担当となった。
 
新聞記者から産業報国会へ
 1940年には国を挙げての戦時体制の仕上げとして大日本産業報国会や大政翼賛会ができるが、中林はその大日本産業報国会の事務局に入ることになった。産業報国会は、挙国一致体制のため企業とか労働組合とか産業と言われる分野を縦割りで一本化した組織だった。例えば、生協でいうと日立造船因島工場にあった因島労働購買組合は日本産業報国会因島支部ということになった。横の社会が町内会と隣組、縦は大日本産業報国会、その上に大政翼賛会ができて政党は解散、戦時ファシズム社会が完成した。
 この時期、中林は旧友の藤井丙午(のち新日本製鉄、参院議員)から産業報国会(産報)の会長平生釟三郎の秘書にならないかと誘われて産報に入った。文部大臣もやった平生釟三郎は賀川豊彦の活動も支援し灘生協の設立も手伝った人だが、日本製鉄や川崎造船のトップもつとめ産報の会長に祭り上げられた。中林の肩書は最後は連絡部長兼組織部長であったが、産報には当時の労働組合の関係者も働いたり協力しており、中林はその人脈は「のちの生協での活動に役に立った」と述べている。
 
2.日協同盟、日本生協連創立のころ
 
 1945年8月、日本の敗戦となり、中林は産報は労働組合等を統合してできた組織なので、即刻解散し、その財産等も労働組合に移管すべきだと主張した。産報は持っていた現金は国庫に納入し、残った財産は神田の事務所の借地権と机と椅子とか文房具ぐらいだった。終戦直後で労働組合の統一的な中央組織はまだ生まれておらず、中林は旧知の東京学消の専務だった山岸晟などから生協の動きとして「協同組合の連中が中央組織をつくろうと賀川を入れて話し合いをすすめている」との情報を聞き、産報の幹部に残った財産は協同組合の中央組織に任せてはという提案をし、関わっていた厚生省も含め了解され、その話を賀川など日協同盟設立のメンバーに伝えた。「それは結構なことだからぜひ君も一緒に来て生協の再建を手伝え」ということになり、本人も事務局長ということで日協同盟に入った。
日協同盟は45年11月に賀川を会長として創立され、46年2月に産報の入っていた救世軍ビルに入った。そこで譲り受けた財産で一番役に立ったのは紙の割当の権利で、日協同盟はその紙を使って新聞を作り、生協づくりや食糧獲得闘争の宣伝をした。「雨後の筍」と言われたように全国の地域、職域で生協が誕生したが、何よりの課題は食糧・物資の確保であり、日協同盟は食糧獲得のための闘争を労働組合と一緒になって取り組んだ。日協同盟の事務局には戦前からの生協経験者が入ったが、生協の経験のない中林は食糧獲得闘争などで中心的な役割を果たした。
 
 日協同盟から日本生協連へ
 日協同盟は重要な課題として生協法制定の取り組みをすすめ、戦前、関東消費組合連盟のリーダーだった山本秋を中心に本位田祥男(協同組合学者)が協力し法案づくりをし、中林たちはその制定実現に取り組んだ。生協法に先立って制定された農協法には信用事業が認められていたが、1948年に成立した生協法には信用事業が認められず、日協同盟は「生協法改正運動を翌日から始めた」状況だった。それが埒があかないまま、中林は労働組合関係者と話し合い、労働金庫づくりに取り組むこととなった。
1948年に生協法が成立し、新たな生協法による連合会・日本生協連の設立準備がはじまったが、この時日協同盟は破産寸前で100人いた事務局が6人まで減っていた。新連合会の発起人の東大の学生で東大生協専務だった福田繁が東大の講堂教室を日本生協連設立総会の会場として確保し、創立総会のスローガンとして「平和とより良き生活のために」のスローガンを提案した。当時の国際学連のスローガン「平和とよりよき未来のために」の「未来」を「生活」にかえての提案だったが、賀川の「それはいい」という一言で「平和とよりよき生活のために」が採用されることになった。
 日本生協連がスタートした時の常勤幹部は中林と木下保雄で、木下は戦前の家庭購買組合と全国消費組合協会(全消協)にいた人で中林とのコンビで事務局を支えた。1960年、私が日本生協連に就職したころは中林と木下が専務理事で、常勤役職員が10人ほどの事務局で、設立間もない日協貿が石黒社長のもと数人で頑張っていた。
 
 労金づくり、事業連の設立
 中林は生協法で欠落した信用事業を何とかしたいと岡山の生協関係者、兵庫の労組のリーダーたちと労金づくりを進め、さらに各方面に働きかけて労働金庫法を成立させた。産報時代からの労働組合関係者などを含む中林の人脈が生かされた成果であり、1957年に全国労金協会ができると事務局長になった。しかし、中林が労金協会事務局長として活動し、報酬の一部も得ていたことは「日本生協連のトップが2足の草鞋をはいている」と批判もでた。
日協貿が設立された1956年、共同仕入れ機関として関西本部が設置され、全国的な卸売事業への期待が高まった。日本生協連理事会でその議論がされたが「今の日本生協連幹部では事業はできない、事業に失敗して指導連までつぶれてはまずい」と別連合会を設立することになった。中林は「私が信用されなかった」と不満だったが、58年、全国事業生協連が設立された。
 
 生協規制反対、全国消団連結成
 1950年代は地域勤労者生協が各地に設立され、労金から資金を借りてわりに大きな店舗をつくったりしたので小売商に衝撃を与え、小売商業特別措置法という法律で生協を規制しようという論議が国会でも論じられるようになった。一方で物価の問題や独禁法の改正など消費者の権利が話題になる社会情勢があり、日本生協連は主婦連などと協議し1957年全国消費者団体連絡会を結成し中林が代表になった。物価値上げ反対闘争と合わせて生協規制反対の運動が消費者団体と一緒に取り組まれた。
 1959年の2月26日には生協規制をねらう特別措置法を阻止しようと日本生協連は雪の降るなか国会前にテントを張って座りこみをした。学生で大学生協連常任理事であった私も仲間と参加したが「勲一等をもらった元国務大臣の石黒さんという人も来ている」と聞いて驚いた。学生の私は先輩たちのその行動をみて「卒業しても生協を続けようか」とも考えさせられた「私の2・26事件」だったが、戦時中「記者をやめたら大衆運動をやりたい」と考えていたという中林にとっても、この取り組みや同年に消団連として全国的に展開した新聞代値上げ闘争などは学生時代を思い出すものだったと考える。
 
3、成長期の生協の時代
 
 消費者運動、反核平和の取り組み
 中林は1963年に日本生協連の専務から副会長になるが、64年に大学生協の支援で京都の洛北生協が誕生すると札幌市民生協、埼玉の所沢生協などの設立が続き、60年代末から新設生協が全国的に誕生していった。65年に事業連と合併した日本生協連は消費者・組合員の立場で開発したコープ商品の開発、提供でその発展を支え、事業も拡大し会員の支持も強まっていった。日本生協連自身も首都圏に日本を代表する生協をつくろうと「首都圏大生協構想」を打ち立て、東京生協づくりを始めた。その支援のための関連人事で私は日本生協連から早大生協に移り、専務として職員を何人か東京生協に派遣した。しかし、設立後出店した2店舗の経営がうまくいかず、その計画は挫折、見直されることとなった。日本生協連は副会長の中林が中心になって起案し総括を70年の福島総会に「総会結語」として提案した。それは組合員に依拠しない事業、店づくりは間違いだったというものだったが、直後に札幌市民生協の多店舗展開による経営破綻などが問題になり、生協の出店への批判、共同購入こそ本道といった論議を生んだ。しかし、東京生協の失敗の基本は連合会が直接生協組織をつくり、組合員代表の参加しない理事会がすべてを執行したことにあり、店舗か共同購入かといった問題ではなかった。早大生協はじめ大学生協は同時期に再建支援を要請されていた生協や新たな生協設立の動きに、「組合員に依拠」ではなく「組合員が主人公」の原則で支援活動を強化することとなった。
 71年に中林は石黒の後を継いで日本生協連会長になるが、70年代は有害商品とか環境問題等多くの消費者問題が出てくる時期で、誕生・発展する生協が消費者運動の中心になっていく時代だった。消団連に長らく関わってきた中林は国民生活審議会等のメンバーでもあり、日本生協連の中で指導性を発揮するとともに米価など物価問題、灯油裁判など国政に関わる問題について重要な役割を果たした。
 もうひとつ大きかったのは原水爆禁止の運動を中心に平和運動ではたした役割で、ソ連の核実験をめぐり分裂していた原水協が1977年に統一世界大会開催の機運が生まれると、中林は地婦連や青年団協議会等市民団体と協議、統一を促進した。原水禁運動が統一されると全国の生協の運動参加は急速に高まり、署名運動やヒロシマ、ナガサキ行動の中心を担うこととなった。中林自身もSSDⅡにはニューヨークに出かけ、全国からの署名を国連に届け主要なメンバーと会談するなど、最後まで「平和とよりよい生活のために」献身した。中林は1957年のICAストックホルム大会に参加した以降、ICA大会や各種の国際会議に参加、原水爆禁止や冷戦下の協同組合間の協同連帯の強化などを訴え続けた。
 
4.戦後の困難な時代のリーダーとして
 
 中林はよく「統一と団結」ということを強調した。最後までかかわった原水禁運動でもそうだったが、最初の日協同盟の時から中林が言葉にし、努力したのは全国の生協運動の統一と団結だった。日協同盟には戦前の関消連という労働者生協のグループの地下活動に入った闘士から、賀川豊彦のキリスト教のグループ、もうすこし穏やかに運動を進めていたグループ、ここには後に首相となる漁協組合の鈴木善幸などもいた。その後も日教組や炭労が関わる学校生協や炭鉱生協の連合会の日本生協連への統合、地域生協と職域生協、大学生協、医療生協を含む多様性に富む日本生協連の運営と全国生協の統一と団結に貢献した。戦前、協同組合全体としても生協陣営のなかでも統一した連合会活動ができなかったこと、逆に上からの統合のみが進んだことの苦い思いからだったと思われる。その思いからか中林は「国の世話になるな。官僚の世話になるな」が口癖で、政党などとの関係でも生協運動の独立性を強調した。
 中林は苦しい時代に日協同盟を維持し日本生協連を発展させた。新聞記者や産報時代に培った広い人脈と視野を生かし、日本生協連の活動をはじめ全労済や労金など労働者福祉運動の分野でも大きな役割を果した。全国消団連をつくり消費者団体をまとめ、その後の反核平和でも市民団体の協同連帯をまとめていった。賀川会長の平和への思いを発展させ、反核平和の活動で果たした役割は大変大きなもので、賀川さんが強く支持した「平和とよりよい生活のために」のスローガンを体現したリーダーだった。
 中林は石黒と同様に日ソ協会の会長を務めるなど国際活動にも熱心で、協同組合の場ではICA生協委員長としての役割を果たした。平和と国際友好の貢献に対し日本生協連は国連から「ピースメッセンジャー」の称号をもらったが、中林の果たした役割が評価されたものと考えられる。
(注―参考文献―中林貞男の著書「平和とよりよき生活を求めて」1985年日本評論社、「心の語り合いー中林貞男対談集」1984年同時代、ほか)

中林貞男 略歴

1907年 富山県小杉町生まれ

1932年 早稲田大学政経学部卒、報知新聞社社会部勤務

1941年 大日本産業報国会参事、連絡部長兼組織部長

1945年 日本協同組合同盟中央委員 51年 日本生活協同組合連合会専務理事 

 56年 全国全国消費者団体連絡会会長、60年ICA中央委員、

     61年 国民生活審議会委員、以降、経済審議会、米価審議会、物価安定政策会議等の委員歴任

1971年 同連合会会長 85年同名誉会長

    74年 勲2等瑞宝章授与

(労金ほか 1952年東京労金副理事長、中央労福協副会長、57年全国労金協会事務局長)

2002年 逝去94歳
 

<私の思い出―東京学消と石田博英>

   日本生協連は1965年に全国事業連と合併、その事業部がCOOP商品の開発などを手掛けはじめることになった。日本生協連出版部にいた私は事業部に移り雑貨担当となり、COOP洗剤などの開発に夢中になっていた。資生堂とCOOPブランドのシャンプー開発の話を進めたが、単協はCOOPだけでなく資生堂が入らないと売れないからダブルチョップにならないかといった話で苦労していた頃だった。日本生協連はそれまで進めていた首都圏大生協構想のもと東京生協の設立を決め、1968年の暮れにその人事に着手、その関連人事で私に古巣の早大生協に行くよう求めた。

  私はCOOP商品開発の仕事に未練はあったが、人事提案は受け入れた。そのことで専務の中林さんが一席設けるという。酒が飲めない人がどうしたのかと指定の料亭―そんなところは初めてだったーに行くと衆議院議員で、長く労働大臣を務めた石田博英さんが同席されていた。石田さんは早大で中林さんの少し後輩で学生消費組合にかかわっていたことは聞いていたが初対面だった。その石田さんは「君は早大生協の専務になるそうだが、戸塚署には世話になったことはあるのか」と聞く。60年安保の頃、早大の学生仲間には戸塚署に世話になった者もいたが自分はそんな学生ではなかったと返事すると「それで生協の専務は務まるのか」と自民党議員らしからぬことをいう。

 石田さんの話では当時の東京学消早稲田支部は特高警察にマークされており、店舗の専従(石田さんの言葉)はたびたび検挙され戸塚署にこう留された。石田さんは学生だったがリヤカーで横山町の問屋街に仕入れにも行ったそうだが、「戸塚署にはたびたび連れていかれ、そのたびに組合長の賀川豊彦さんにもらい下げてもらった」と話された。中林さんの学生時代から数年たち、東京学消の各支部は弾圧の下で次々に解散させられ赤門(東大)と早稲田が最後の孤塁を守っていた時期だったという。当時の早稲田では雄弁会や新聞部など学生の自主的組織はすべて解散させられており、学消が最後の砦であり、石田さんはその砦を守った一人だった。

 その夜は、恐縮している私を肴にして中林さんは後輩の石田さんと気持ちよさそうに昔の早稲田の話から少し生臭い政治の話などを楽しんでいた。普段の中林さんは反自民だが、石田さんはじめ多くの友人、人脈を自民党にも持っていること、石田さんが賀川豊彦を大変尊敬されている協同組合支持者であることなどを知り、勉強になった。

 翌1969年、早大生協の専務になった私は大学紛争の中で大学のロックアウト、警官導入、革マルと中核の紛争といった激動に見舞われたが、戸塚署には世話になることはなかった。東京生協はじめ地域生協支援は予想以上に困難が続いたが、私の生協人生では楽しい年月であった。(斎藤)

 
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賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー<石黒武重、中林貞男、高村勣>

2020年05月25日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

<この記事は2019年のロバート・オウエン協会での報告を編集したものです。>

 

賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー 

 / 石黒武重、中林貞男、高村勣

 

  

 ① 石黒 武重(第3代日本生協連会長)

 

  <はじめに>

 この報告は日本生協連資料室の土曜講座「生協運動の先駆者に学ぶ」で2017年10月から3回に分けて行った報告を基礎にしたものである。石黒武重、中林貞男、高村勣の3氏はそれぞれ日本生協連の第3代、4代、5代の会長であるが、たまたま私が日本生協連勤務時代をふくめ関係があってその人柄、業績などにつき私なりの評価が可能と考えた人であり、狭義の日本生協連会長としてだけでなく日本の生協運動の優れたリーダーだったと考えられる人である。

 私が日本生協連の職員になった1960年は日本生協連会長が賀川豊彦から田中俊介に交代した年であり、田中は私の知った最初の日本生協連会長であるがその人柄、業績について評価するにたる知識がないため、また日本生協連常務理事として多々お世話になった竹本成徳会長は全国の生協人に尊敬されたリーダーであり評価も高いがご存命の方であり、取り上げなかった。この小論はこのように日本生協連の歴代会長について系統的に論じたものではないが、戦後すぐの混乱期から現在の市民生協群の発展成長の歴史を知るには、その時代の3人のリーダーの姿、果たした役割を知ることは有意義と考えた。

 

 < 石黒 武重 >

  -異色の大物、協同組合を愛し、力を尽くす―

 

 異色の経歴

  石黒武重は1897(明治30)年、石川県金沢市で生まれ、東京帝大卒業後農商務省のエリート官僚の道を歩み、終戦直前には枢密院書記官になり終戦を国家の中枢にいて迎え、終戦直後に国務大臣・法制局長官、衆議院議員、進歩党と民主党の幹事長を経験、官僚時代に当時官選だった山形県知事も務めた。その経歴からGHQから公職追放を受け、政界から身を引いた、といった経歴であるが、農商務省の時代から協同組合へのかかわりを持ち、戦後すぐの衆議院議員の時代に東京の職域生協の連合会の会長になり、その後一貫して生協運動にかかわることとなった。生協運動のリーダーの中では異色の経歴であり、その経歴と人柄から生協関係者からは生涯、親しく「先生」と呼ばれた。

 石黒は父親が陸軍将校だった関係で横須賀の小学校に入学、東京の府立四中、第一高等学校から東京帝大法学部に入学、1921(大正10)年に優秀な成績で卒業した。当時は大正デモクラシーの時代で、ロシア革命、米騒動、労働運動の高揚といったなかで家庭購買組合や神戸消費組合が設立され、日本の生協の本格的な台頭、発展期だった。石黒は「大正デモクラシーの動きの中で、私は中学時代から社会問題への関心は強かった」という。

 有能な官吏として

 東大を出た石黒は“世の中の人のためになることをやりたい”と公僕=官吏(農商務省)の道を選んだ。幼少のころに母や祖母から、お米を一粒でも残したりすると「汗水たらして働いている人たちのことを考えなさい、偉いのは働いている人たち」だと教えられていたためだった。

 石黒は農商務省水産局の水産講習所(後の東京水産大学)の教授兼事務官になり、そこでの業績が認められ海外視察として誕生間もない社会主義国・ソ連に行った。当時の官僚にはない発想で新しいソ連を見て、ヨーロッパ各国とアメリカを回り、国際的な視野を広げた。帰国後、生糸関連の職務に従事し、ニューヨーク生糸調査事務所長として日本の農民の立場でアメリカ政府との交渉に力を尽くした。このころから協同組合に関心を持ち、神戸の生糸検査所の時代に神戸消費組合や農協の組合員になったが、1937(昭和12)年には産業組合課長に就任し、産業組合=農協の管轄となり、ロッチデール組合のことなど協同組合関係の勉強もした。

 1939年、42歳で山形県の知事に任命された。短い期間だったが県民や農民のための施策で高い評価をうけた。その後、商工省の繊維関係の仕事や貿易局の長官にもなったが、その経験はのちの日本協同組合貿易株式会社(日協貿)の仕事に生かされた。1941年、物価局長の時代に日本はハワイに奇襲攻撃をかけ太平洋戦争に突入したが、アメリカをはじめ世界の情勢を知る石黒は、無謀な戦争で勝てる戦争ではないと局員を集めて話をした。1942年、官吏として最高位の農林事務次官となった。

 

 枢密院書記官長、国務大臣などと公職追放

 1945年、石黒は2週間後に終戦となる8月はじめに枢密院の書記官長に就任した。枢密院は内閣がなにかをやろうとする時に天皇の諮問をうけ、天皇のもとに主要メンバーが集まって議論する国の中枢機関だった。8月6日の広島に続き長崎に原爆が落とされた9日、ポツダム宣言の受諾をめぐり最高戦争指導会議が開かれた。会議は3回開かれたが、徹底抗戦の軍部の抵抗で10日の早暁まで結論が出ず、枢密院の平沼騏一郎議長が参加、ポ宣言受諾を主張し、やっと決定をみた。早期停戦の意見だった石黒は枢密院書記官長として平沼議長と一緒にこの会議に立ち会い平沼を補佐した。

 14日の御前会議でポ宣言受諾がきまり、15日の玉音放送のための皇居での録音とそのレコード盤のNHKへの搬送などをめぐり軍の一部の妨害の動きや受諾に賛成した平沼などのメンバーを抗戦派の軍人が狙う動きがあり、石黒は平沼をどう守るか何日間も一緒に身を隠すなど苦労した。

 終戦直後の東久邇宮内閣が10月に幣原内閣に代わると、戦後もっとも緊急な課題の憲法問題調査会(松本委員長)が設置され、石黒はその委員になった。しかし、この憲法問題調査会が検討した「試案」はGHQに問題にされず、GHQは戦争放棄など3原則を示し、それを受けて新憲法が作成されることになった。(「土曜講座」での報告では憲法調査会への参加は「法制局長官として」となっているが間違いで「枢密院書記長として」の参加だった。)

 1946年2月、石黒は幣原内閣の国務大臣・法制局長官に就任した。その閣議にはGHQと協議中の憲法草案がはかられたが、石黒は「僕は象徴天皇制に賛成だ」と発言した。のちに私たちにも「天皇が象徴制になって明治憲法からの憲法の位置づけが変わったことは大変いいことだ」と言っている。4月には戦後初めての総選挙があり、石黒はかって知事をした山形から無所属で立候補し当選した。この選挙で勝った自由党の吉田茂の内閣となったため石黒の国務大臣は短期間でおわり、石黒は結成時から参加していた進歩党の政調会長となり、翌47年2月に幹事長になった。

 戦後すぐに社会党、自由党と並び結成された進歩党には翼賛国会で反東条軍閥演説をした安倍寛(安倍信三の祖父ー岸信介は母方の祖父ー。総選挙準備中に急死)や同様に反戦演説で有名な斎藤隆夫など平和主義者もいたが、多くが戦争協力者として追放を受けたため自由党の一部と合流し、47年3月に民主党となった。石黒は民主党初代幹事長になり、新憲法の下での総選挙の準備に入るが、その最中にGHQから「望ましくない」と言われ政界から身を引くこととなった。GHQの判断は「東条内閣のもとで農林次官だったためであろう」と石黒は述べている。民主党幹事長として最後の仕事は「田中角栄や中曽根康弘を党として公認したこと」だった。

 

2.生協運動のリーダーとして

 戦後混乱期のリーダーとして

 石黒は衆議員議員で進歩党のトップとして多忙だった1946年9月に東京都の職域生協の連合会の会長を引き受けた。戦後すぐに全国で5千を超える数の生協が誕生、東京でも47年末までに地域で370、職域で100もの生協が創られた。連合会も東購連という家庭購買などを引きついだ戦前からの連合会、新設地域生協の東協連、勤労者生協の勤協連、職域生協の東職連、町内会生協の地区連の5つが誕生した。東職連には各省庁に作られた生協が加入、農林省生協が中心的役割を果たしており、石黒が会長に推された。民間企業中心の勤協連は賀川豊彦が会長になった。当時の圧倒的な食糧・物資の不足と経済混乱のなかで生協が物資を獲得するために連合会が5つもあっては市場や行政の協力を得られない。ということで46年12月、5つの連合会の上に全東連(全東京都購買利用組合連合会)という連合会をつくることになり、石黒がその会長になった。勤協連会長の賀川は日本協同組合同盟の会長として多忙であり、賀川も石黒を推した。この時、石黒はまだ政党の要職に在り総選挙の準備にも力を注いでいた。 47年の春、政界から身を引くことになった石黒には実業界からの誘いも種々あり、第一火災海上の会長などを務めるが(のち横浜生糸取引所理事長、郡是産業取締役など)、生協の方は殆んど無償で、地元世田谷の砧生協理事長を引き受けるなど役割を広げていった。

 戦後インフレとデフレ政策の強行といったなかで生協もその連合会も経営の危機が続き、そのなかで労働運動への弾圧や公務員へのレッドパージといった嵐が生協運動にも影響を与えた。経営再建が課題で都の支援をうけていた全東連に対し都から役職員のレッドパージの要求が出た。石黒は「協同組合は思想信条の自由を組合員に対しても役職員にも守っている」とこれをはねつけた。その直後、公職追放中ということで石黒が全東連会長を降りた時には、都内の生協の関係者はそろって石黒の「公職追放を解除しろ」という陳情運動を展開した。

 1951年、既存連合会を合併して新連合会(現東京都生協連)が設立され、石黒は再び生協だけでなく都の方からも要請され会長に就任した。ただ、東京都生協連は1953年に商品取引上の失敗で負債を負い和議団体となり、商品事業はできなくなった。石黒会長は行政に火災共済事業を認めさせ、連合会の活動を維持存続させた。まだ生協での共済事業の経験もないなかで都県連合会が共済事業をするというのははじめてであり、現在のコープ共済事業につながるものだった。

 

日協貿の設立と日ソ貿易

 1954年のICA総会で日本生協連代表の田中俊介副会長は協同組合間の貿易の推進の提案と原水爆禁止のアピールをした。その時にソ連の代表から招請を受け、55年に石黒を団長とする代表団が訪ソした。石黒は東京都生協連会長であり日本生協連顧問だったが、かつての商工省貿易局長の経験やソ連の理解者ということでソ連がわから協同組合間貿易の働きかけがあり、石黒は関係のあった郡是産業の支援をえて貿易実務を始めることにした。当時の日本生協連は「役員の報酬もまともに出せない」状況であり、石黒は日ソ友好といった意義だけでなく「日本生協連の財政に役立てたい」と考えた。1956年日本協同組合貿易株式会社が設立されるが、ソ連貿易の開始の作業は経験者が誰もいない中で石黒が奮闘することとなった。交渉のためモスクワに行った石黒は「日本生協連やグンゼと相談しようにも国際電話をかける電話代もなく、朝食はホテルで食べるものの夜は部屋に持ち帰ったパンとチーズをかじりながら水を飲んで過ごした」と話している。大臣までやった人が、そのようななかで商談を進め、木材の輸入からニシンの輸入と事業は軌道に乗って行った。石黒によると日協貿が稼ぐようになって「6,7年間は日本生協連の役員報酬は日協貿から支払っていた」という。

事業連会長から日本生協連会長へ

 1958年、日本の生協にとって悲願だった卸売連合会=全国事業生協連が設立され石黒は会長に就任した。当時、全国学校生協連、鉱山生協連はそれぞれ卸売事業をしており、それらの事業の事業連への統合と合わせ事業連の日本生協連との合併が進められた。1965年に合併した新しい日本生協連の会長は田中俊介から石黒に交代した。事業をやる連合会ということと学校生協連と鉱山生協連と合併した時期の会長であり「石黒先生以外にない」と期待された。石黒会長のもと日本生協連の事業はコープ商品の開発などで60年代後半から70年代の新しい市民生協の誕生と発展に応えて行った。

 

3.協同組合と平和を愛した“偉い人”

 以下、私の私的な感想を含む石黒評である。私が石黒に最初にお世話になったのは1960年代、石黒の日協貿社長時代であるが、親しくご指導いただいたのは1979年からの3年間の東京都生協連の常勤常務理事時代である。たまたま「東京の生協運動史」の執筆を担当し、都生協連会長の石黒から戦後の東京の生協の歴史を聞き、あわせてご本人の枢密院書記官長や国務大臣としての苦労話なども伺った。

 石黒は大臣としての車は新宿駅で返して「小田急電車に乗り貧しそうな親子に閣議に出たお菓子を分けて話を聞きながら成城学園まで帰った」という。お酒などやらない石黒の唯一の趣味は「追放時代に学んだ」というマージャンであり、私ら若輩ともよくやったが「君らから頂くことがあれば寄付している」と言っていたのが啓明学園という戦災で生まれた浮浪児=戦災孤児の施設への支援だった。石黒はこのように社会的な弱者への熱い思いを持ち、「公僕」として官吏の道を歩み、後半生を生協運動にささげた。石黒は「私の社会観は修正資本主義だ。」「協同組合が発展している国は健全で平和だ。」と言い、生協運動への期待を折に触れ述べている。

 私が編集に関わった「努力を楽しもう-石黒武重先生小伝-」という本のなかで、啓明学園の標語になっている「努力を楽しもう」という石黒の言葉について述べている。石黒は「私は賀川豊彦とは違って理想主義者でもないし、そういう立派な思想を語るというのも好きではない」と語っている。いろんな努力をしながら楽しみながら生きる、一歩一歩理想を実現していくということが一番性にあっているということで、そういう人柄の方だった。勲一等瑞宝章を受けた時も祝賀会ではなく私ども生協関係者とのマージャン会を希望したが、そのように庶民的な人だった。石黒は各分野で大きな仕事をされた能力が高く見識の広い方であるが、気さくで偉ぶることのない人、そういう点では業績だけでなく、人間として本当の意味の“偉い人”でした。

(注、参考文献=「努力を楽しもう―石黒武重先生小伝」1991年日本生協連。ほか)

<私の思い出―石黒先生と佐渡>

 生協の先輩たちは皆な石黒さんのことを“先生”と呼んでおり、私もそうでした。私は生協に就職して1年後に結婚することになり、生意気なことに専務の中林さんに仲人役をお願いし、当時日協貿社長だった先生に来賓としてのご挨拶をお願いした。大変失礼なお願いに応じていただき、息子の就職先の生協が理解できなかった両親を安心させることができた。その先生には「偉い人だ」と感心させられたことが何回もあるが、東京都生協連を経て日本生協連に戻って間もない83年の夏、役員室の厚生旅行で佐渡に行った時も驚かされた。

 先生は会長を中林さんに交代し名誉会長だったが、旅行は先生と勝部専務など10人ほどで、宿は両津港に近い新潟総合生協の保養所だった。その宿に自転車に乗った男性が1ダースのビールを持参、石黒先生に差し上げてほしいという。その人は両津高校の校長で先生は「わが高校設立の時の恩人です」という。勝部さんが当日連絡したらしく「日曜なので何もできなくて」と校長は恐縮していた。聞くと、終戦直後の両津町で町長はこの戦争の痛手から立ち上がるため町立女子高校を造りたいと決意、たまたま町長と先生が親しくしていた方との縁で国務大臣だった先生に依頼があり、先生が町長と面談、文部大臣・安部能成に話をして急きょ認可されたのだという。先生は「敗戦の混乱期に女子高を造ろうとした町長は立派だよ」と一言。佐渡ではご一行を実家の本光寺に案内(写真)、重要文化財の観音菩薩像とともに両親にもあっていただき、私にとっては大変うれしい旅行だった。

 このことでは後日談がある。私は60年安保直後の大学生協連総会で議長を務めたが、その時共同議長を務めたのが東北大生協の学生・浅井康男君だった。そのおりに彼が佐渡の両津高校(女子から共学になった。浅井夫人も同校卒)の出身だと知り、その後、生協で長い付き合いとなった。彼は私が東京都生協連をやめてしばらくして都連の専務(のち会長)になり、先生とはよくマージャンをやる関係だったが、先生が高校の恩人だと知ったのは私より後だった。

 

石黒武重

1897年 金沢市生まれ 

1821年 東京帝国大学法学部卒業、農商務省水産局勤務、水産講習所教授

1925年 ソ連邦および欧米視察 27年以降 蚕糸局、大臣秘書官、ニューヨーク生糸調査事務所長、産業組合課長、経済厚生部長など。

39年 山形県知事

1940年 商工省繊維局長、貿易局長、物価局長、 42年 農林次官

1945年 枢密院書記官長、46年 国務大臣兼法制局長官、衆議院議員、

 47年進歩党幹事長、民主党幹事長(総選挙準備中に公職追放)

1946年 東京職域購買組合連合会会長 48年 全東京都購買利用組合連合会会長

 49年 砧生活協同組合理事長 51年東京都生活協同組合連合会会長 

 56年 日本協同組合貿易㏍社長 58年全国事業生活協同組合連合会会長 

1965年 日本生活協同組合連合会会長 71年同名誉会長 

 67年 勲一等瑞宝章授与 

(他に日ソ協会会長、中央蚕糸協会会長、第一火災海上保険㏍会長など)

1995年 逝去 98歳 

 

 

 

 

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60年前の国会周辺=生協の2・26

2020年05月24日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

写真=59年2月26日、商調法に反対し国会まえに雪の中座り込む生協の代表(「現代日本

生協運動史」から)

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60年前の“60年安保”のことをこのブログに書いたが、もうひとつの60年前の国会周辺の出来事として生協の“2・26行動”のことを書いておきたい。
正確には61年前の1959年2月26日であるが、日本生協連は生協の規制強化をうたう小売商業調整特措置法(商調法)の成立を阻止するため、国会構内の旧参謀本部跡地にテントを張り、早朝から座り込みのデモンストレーションを行った。当時、学生で大学生協東京地連の理事だった私は数人の仲間とこの活動に参加したが、戦前の2・26事件の時のように雪が降り、日本生協連の理事を中心に全国の代表たちは寒さに耐えながら、交代で国会内の各政党、議員に陳情活動を繰り返していた。が、初めて国会構内に入った学生には状況は分からず、先輩たちの話をきいていた。国会では奥むめおさん(参議院議員、日本生協連副会長)が頑張っているとか、元国務大臣の石黒武重さん(東協連会長、日協貿社長)も来ているとか聞いて、私は奥さんや石黒さんが大変偉い人であり、そんな人が頑張っている生協は凄いなと思った。雪の降るなか夕方になると先輩たちは交代で新橋方面に食事に行き、寒いテントで留守番をしながら「若い我々は徹夜だ」と覚悟していたが、夜になると解散、撤退となった。
この雪の中の座り込みは当日の夕刊に写真つきで報道され、世論は生協に同情的となり、その後の国会審議にプラスした。許可なしの構内での座り込みも当局は咎めず、黙認した。これも生協の、その先輩たちの凄いところと感心した。商調法では一定の成果があったが、員外利用規制については生協法を改悪する形で規制が強化されることになった。生協規制の動きは労働組合の支援で各地に設立された地域勤労者生協が発展を見せた1950年代中ごろから始まり、規制反対の取り組みは生協だけでなく、日本生協連が総評や主婦連などと56年に結成した全国消費者団体連絡会(全国消団連)も当初から取り組んでいた。地域勤労者生協は大型セルフ店を出店するなど元気な地方もあり商業者を刺激したが、全体的には事業的には失敗するところが多く、日本生協連はその対策に追われていた。
この2・26行動で「生協は凄いなあ」と思った私は、卒業後も生協に残ることを最終的に決め、翌60年、日本生協連の試験を受けた。その日本生協連は「総会で年度予算が決まらないと最終決定できない」というので私は卒論の提出をやめ留年、大学生協の役員として6月までの任期を務めることにした。日本生協連が職員一人を採用するのに総会での決定が必要という、そんなに貧乏団体だということには「凄いなあ」と思いつつ、前回書いたように6月の総会には傍聴者として参加、予算等の議案の無事可決を喜びながら、総会参加の皆さんと一緒に安保反対の国会請願デモに参加した。
余談①―8月から日本生協連職員となった私の給料は卒論保留で卒業していないため「高卒資格だが、学生時代の生協経験を特別に認め短大卒待遇にする」と優遇?された。私の入所で日本生協連の常勤者が役員を含めはじめて10人を超えた年であり、地域勤労者生協の倒産が続き新しい地域生協の誕生などの動きはまだどこにも見えない60年前だった。
余談②-この間、毎月の19日行動で国会周辺に行くようになってから「あの時のテントを張った場所はどこだろうか?」と元参謀本部跡を探すが分からない。当時は国会の構内と構外に今のような道路と柵で明確な区分がされていなかった記憶である。いずれにせよ現在は勝手にテントを張れそうな場所はどこにも見当たらない。

 

 

 

 

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60年前の5月19日(続)=岸は退陣、安倍は?

2020年05月23日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

 

  60年前の5月19日、500人の警官を国会内に導入しての強行採決で新安保条約は批准されたが、その日をもって焦点は「民主主義を守れ、平和・民主の憲法を守れ」に移り、生協関係でも取り組みが広がった。当時は労働組合との関係が強い地域勤労者生協が多く、安保闘争でも群馬労生協や鶴岡生協などが地域の共闘組織のなかで大きな役割を果たしていた。6月3、4日に開催された日本生協連の総会では大学生協連と東京、群馬、山形、福島の各県生協連から共同で「安保条約改定反対・岸内閣退陣・アイク訪日反対・ゼネスト支持の決議と国会請願」が提案され、4日の総会終了後、総会参加者は国会に向けての請願デモに参加した(写真)。この日は統一行動として総評、中立労連が「6・4ゼネスト」を行い、時限ストなどに460万人が、中小企業、商業、学生や市民の諸団体の100万人が集会等に、計560万人が参加したと発表された(参加数等は日高六郎「1960年5月19日」から)。
これまでの総評傘下労組の安保反対のストなどは賃金や権利等の要求と合わせて取り組まれることが多かったが「6・4ゼネスト」は対政府に向けた政治ストであった。5・19の岸内閣の暴挙はそのストを強く支持するほどに国民の怒りをかっていた。私が学生理事だった早大生協は国鉄労組の始発からの時限ストを激励・支援するため労組員と生協の呼びかけに応えた学生の400人が新宿駅に前夜から結集した。全学連の学生は共闘から排除されていたため、この時は生協の学生を代表して私が連帯の挨拶をしたが、政治的な演説など嫌いで下手な自分が街宣車の上に立った時は「ここまで運動が広がったのだ」と自らを励ました。5・19以降は「声なき声の会」の女性たちなど、これまで政治的な行動に参加していなかった人々の参加が一気に増えていた。
  国民会議の統一行動は第18次第1波(11日250万人参加)、第2波(15日580万人参加)と続き、15日には国会突入をはかった全学連と警官隊の衝突で東大生の樺美知子が死亡した。その直前、請願デモの後尾にいた劇団など文化人グループに日本刀を振りかざす右翼・維新行動隊をのせたトラックが突っ込んだ。その襲撃で80人の負傷者がでたが、大学生協東京地連の学生と生協労組員はその最後尾におり、早大と東大の生協職員3人がケガを負った。デモの責任者だった私はその対応で忙しく、樺美知子死亡のことなどは後で知った。維新行動隊は「警察に頼まれた」と弁明したが、この日の警官隊や右翼の暴挙はさらに国民の怒りをかうこととなり、抗議集会・デモが全国で展開された。
訪日のためのアイクは18日に台湾、19日に沖縄に来たが、東京はあきらめ帰国した。6月19日、新安保条約は参議院で自然成立し、翌20日、岸首相は引退を表明した。それに抗議する22日の統一行動には6・4ストを上回る620万人が参加し、翌7月14日には最後の第21次統一行動が行われ、18日には「所得倍増」を掲げる池田勇人が首相になった。
   60年前の安保条約改定と、2014年7月の「集団的自衛権」に関する憲法違反の解釈変更にはじまる15年9月19日の戦争法(安保法)=安全保障関連2法の強行採択は、国民の反対や疑問が多いにも拘らず欺瞞的、暴力的、反民主的手法で行われたことが共通する。5年前の9月19日、国会を取り囲んだ人々とともに議事堂内の動きを聞きながら60年前の5月19日のことを思い出していた。安倍首相は新安保条約の成立をアイクと握手しながら祝いたかった祖父岸の無念な思いをどのように聞かされ、現在の政治に生かそうとしているのだろうか?と嫌な気がした。
60年前の安保闘争は総評を中心とする労組、過激な行動で批判された全学連と後半からの全学連反主流派学生をはじめ学者・文化人、婦人、市民のさまざまな団体・個人、商業者などに広がり、保守反動のシンボルだった岸の退陣を実現した。ストで国鉄や私鉄の電車がたびたび停まる安保闘争は国民にとって他人事として傍観していられない出来事であった。今は、社会問題や政治にかかわりを持とうとする労働運動や学生運動が消えて久しい日本の現状では、60年前の安保阻止国民会議のような強力な行動力をもつ共闘組織と闘い方は望めないし、この間の「戦争させない・9条壊すな!総がかり実行委員会」を中心とする取り組みは“60年安保闘争“とは様変わりしている。
   しかし、戦争反対・平和と民主主義・憲法守れの国民の意思は60年前と変わらないし、個人の人権意識、社会的な市民意識は60年前にないものになっていると思う。集団的自衛権や秘密保護法などを契機に結成あるいは活発化した組織を束ねて2015年から総がかり実行委員会が活動を始めたが、それは既存の政党や全国団体などではなく個人が呼びかけ、賛同者が運営に参加するものであり、60年前の国民会議とは異質のものであった。集団的自衛権を契機に仲間と一緒に“生協だれでも9条ネットワーク”を立ち上げ、総がかり実行委員会の毎月19日の行動を中心に活動に参加しているが、60年安保闘争の経験者としては、その行動や規模に心細さを感じているのは事実である。しかし、国民の個人としての権利意識がエゴではなく、政治的主権者意識として高まりつつあること、それは集団としての行動としては見えにくくとも政治を変える大きな力であると考えられる。かっては「今日は200万人がストや各種の集会、デモなどに参加した」との発表に、今は「抗議のツイッターが600万を超えた」にもろ手を挙げている。政治的意思表示はデモや集会だけでなく、SNSなどを活用してどんどん広がる状況になっている。
もう一つ60年前と違うのは「市民と野党の連帯」に支えられ、野党共闘が国政選挙から議会活動で広がっていることである。60年前は岸は倒したが自民党政治は変えられなかった。今はまだ野党の力は弱いがその連帯は強まっており、そこに新しい政治を期待し、新型コロナで支持率を落とし、検察庁法で大失態をしている安倍に退陣を迫っていきたいと思う。
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60年前の5・19-岸首相と安保闘争

2020年05月19日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

  昨日の18日の朝日新聞の「天声人語」に60年前の5月19日の深夜のことが「日米安保条約改定法案をめぐり、警官数百人が議場を固める中、岸信介首相率いる自民が採決を強行する。」と書かれていた。安倍首相の祖父である岸は階層年齢にかかわりなく多くの国民に広がった安保反対の声ではなく「声なき声に耳を傾けたい」と述べ、それに反発、さらに高まった非難の声に退陣させられた。「天声人語」は岸を「堂々たる愚直さ」を持っていたとし、安倍は「ウイルス禍のさなか、検察庁を手なずけるかのような法案を通そうとする姑息さ」を持つと書いている。岸はA級戦犯容疑者であり、憲法改正を政治信条としたナショナリストであるが、人柄はまだ安倍よりましだと言っていると理解した。岸が自分は安保反対の声を聞こうとせず「声なき声」に支持されていると言ったと同様に、安倍も検察庁法改正に反対するツイッターなどの声に耳をふさごうとしたが、時期が悪いと採択を延期した。しかし、断念はしないと明言している。60年前には安保条約改定は許したが、さらに憲法改正を狙う岸を退陣させた。が、祖父の夢=憲法改正を狙っている安倍は退陣させられないのであろうか。

 たまたま新型コロナ騒ぎのなか古い写真や資料の整理を続けており、60年前に学生として参加した60年安保闘争のことは記憶にあるので、「現在」を考えるために少し振り返ってみたいと思った。

 日米安保条約の改定交渉が1958年秋に始まり、翌59年、国民会議は10次にわたる統一行動に取り組んだが、それは総評参加の労組の春闘などに合わせたものだった。しかし、学者・文化人あるいは婦人や市民の参加は回ごとに増えていき、地方の共闘組織と統一行動も広がった。勤評、警職法に学生自治会とともに取り組んでいた各大学生協は安保闘争においても全学連とともに国民会議の統一行動に参加しており、大学生協連の常務理事だった私も統一行動にはほぼ毎回参加した。

11月27日の第8次統一行動の国会請願デモで、先頭部隊の学生とそれに続く労働者が警官のバリケードの隙間を破り構内に入った。予想外の事態にデモの指揮者は構内からの撤退を呼びかけ、私をふくめ生協関係者や労組員はまもなく撤退したが、全学連指導部は構内での抗議行動をやめようしなかった。翌60年1月、全学連は独自に岸訪米阻止の羽田闘争を決行、警官隊との衝突を繰り返した。社会党・総評の国民会議と全学連の関係は悪化し、共産党も全学連批判を強めた。以降、大学生協連は国民会議の統一行動を発展させる立場を確認、文化人・市民団体と行動を共にすることとにした。

 60年1月19日、日米政府は新安保条約を調印、国会ではそれを批准する審議が始まった。4月の春闘時には数次の統一行動が組まれ、時限ストを含め安保反対の行動には150万人が参加(15日)、国会請願デモは8万人(26日)の規模となった。5月の統一行動には商業者の商店ストも加わるなどさらに幅広い運動となった。そのような状況の中で5月19日、自民党は新安保の強行採決を狙い、警官4000人の派出を要請、院内に500人の警官を入れ、抵抗して座り込む社会党議員などを排除し、深夜(20日0時過ぎ)に強行採決、新条約を承認した。

 のちに「1960年5月19日」(岩波新書)を書いた日高六郎は、この5月19日という日は太平洋戦争開戦の12月8日と並んで「国民にとって永久に忘れることのできない日であろう」、それは真珠湾攻撃の奇襲と同じ、岸首相による「国民と民主主義にたいする政治的奇襲攻撃」の日だったと述べている。岸はアメリカのアイゼンハワー大統領を国賓として招いており、その訪日予定日が6月19日であり、衆議院で採択されれば1ヶ月後の6月19日には参議院で新安保条約は自然成立するからであった。

 この日の国会で警官が座り込む野党議員をごぼう抜きする映像を見て、国民は日高同様に「国民と民主主義に対する攻撃」と受け止めた。警察官の出動要請のまえに国会周辺警備のために自衛隊の出動を要請したが、これは自衛隊の方から「国民の信頼を失いたくない」と断られたという事実も知らされ、国民の思いは安保の是非から民主主義を守れに移り、その怒りはさらに広がった。国会請願デモは10万人(20日)から17万5000人(26日)となり、終日、国会周辺や銀座などでデモ行進が続いた。

 このような緊迫した状況の中で6月3,4日、日本生協連総会が市ヶ谷の自治労会館で開催され、その総会には大学生協連などの代議員から出された国会請願に行こうとの動議が可決され、多くの総会参加者が国会に向かってのデモ行進に参加した。そして6・19を迎えるが、その経過と私の認識は次回に述べたい。(写真は「大学生協の歩み」大学生協連創立25周年記念誌から)

 

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佐渡流人の歴史ー世阿弥

2019年04月19日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

<世阿弥>

1、      観阿弥とともに「能」の大成

 

①   猿楽から能楽へ

世阿弥は室町時代の初め,1363年に大和猿楽結埼座の猿楽師・観阿弥清次の子(藤若丸→元清)として生まれた。12歳の時、父観阿弥とともに出演した猿楽で将軍・足利義満に見いだされ、以降、義満の寵愛を受けることとなった。平安期いらい猿楽は田楽とともに民衆の物真似歌舞・喜劇として盛んであったが、観阿弥は歌舞に幽玄さを加え、狂言を分離させるなど猿楽の革新を進めた。観阿弥も世阿弥も猿楽の優れた演者であったが同時に謡曲の作家として脚本をつくり(作詞、作曲)、座の責任者として演出(所作指導など)をし、その革新を自らの実践の中で進めた。

当時の貴族や武士の好みと幽玄美が一致し、世阿弥は「風姿花伝」を書くなどして、猿楽から「能楽」への道を大成していった。しかし、将軍義満が亡くなると次の義持は田楽を好み、世阿弥を遠去けるようになった。(注=田楽は豊作を祈る田遊びから始まったと言われ「田舎猿楽」ともいわれた。)

              世阿弥の「金島書」に「北山」と書かれている金北山(かしょうの絵)

 

 

 

②   世阿弥、佐渡配流

 

世阿弥は60歳で入道となり、長男・元雅が観世座を引き継いだ。将軍は義持から義教に変わったが、義教は世阿弥親子を嫌い、世阿弥の甥の音阿弥元重を寵愛した。世阿弥が義満の子で義教の兄の義嗣の寵愛を得ており、将軍継承をめぐる兄弟間の争いが影響したとみられている。後継者元雅が巡業先で亡くなり、世阿弥がその急逝を嘆いているところへ、義教は観世座4代目を音阿弥にせよと命じてきた。そのうえ世阿弥の佐渡配流をきめた。世阿弥が音阿弥に秘伝書を見せること渋ったためではないかとの見方が多いがはっきりしない。1434年、世阿弥72歳であった。

佐渡配流となった世阿弥は同年5月に若狭小浜から船出、能登半島をめぐり、佐渡の多田浦についた。順徳上皇や日蓮は越後の寺泊からの船だったが、世阿弥は越前若狭からであり15日か20日かかったと考えられている。その様子は、佐渡で書いた「金島書」に書かれている。そこには「雪の白山ほのみえて」と白山連峰のことを書き、「珠洲の岬や七島の、海岸はるかにうつろひて」と能登のことに触れ、立山や砺波山のことなども書いている。

 

2、      佐渡での世阿弥

 

①   京極為兼の旧跡を訪ねて

 世阿弥の「金島書」は7編の小謡からなっており「若州」「海路」「はい処」「時鳥」「泉」「十社」「北山」と内容は紀行文風であるが、青野季吉(佐渡出身の文芸評論家)はこれを「謡曲の文体で書いた私小説」と評価した。そこには佐渡に上陸してからの越えた峠のようすや立ち寄った十一面観音像のある長谷寺のことなどを記述し、新保という村の万福寺に到着したと書いている。

世阿弥は新保到着の翌月、真野湾の入江にある八幡を訊ね、先に流された京極為兼のことを偲んだことを「時鳥」に書いている。若いころに「言葉の幽玄ならんためには歌を」と和歌を学んだ世阿弥は高名な歌人だった為兼の配流のことを知っており、為兼の詠んだ

「鳴けば聞く 聞けば都の恋しきに この里過ぎよ 山ほととぎす」の歌にふれて

「声もなつかしほととぎす ただ啼けや 啼けや 老いの身 われにも故郷を泣くものを」

と書いた。為兼の歌にあわせて自分の都を思う気持ちの高ぶりを表しているように思える。

 

②   泉で―順徳上皇と「金島書」

 世阿弥が新保にいたのは3か月ほどで「配所も合戦の巷になりしかば、在所をかへて、泉という処に宿す」ことになった。「これは、いにしへ順徳院の御配所なり」と「泉」に書いている。このころ佐渡にも地頭が群雄割拠する状況があり、その争いと思われるが新保と泉は佐渡市になる前は同じ金井町に属していたことを考えると、そんなに大きな「合戦」ではなかったようである。

 泉の配所は現在の正法寺とされており、そこから順徳上皇の配所「黒木御所蹟」は500メートもなく、世阿弥はそこを参拝し、「・・・天離かる 鄙の長路の 御住ひ おもひやられて 傷しや。

ところは 萱の軒端の草 忍ぶの簾 絶え 絶え也。」と偲んでいる(「泉」)。また、泉では「当国十社の神まします。敬信のため一曲を法楽す。」と十社という神社で能を舞った(「十社」)。佐渡で能を舞ったという記録はこれだけであるが、前記の青野氏などはもっと何回も舞ったのではないかと書いている。

 正法寺には世阿弥のものと伝えられている能面が一つ残っているが、伝承も世阿弥の世話をした村民が世阿弥が「一人で舞っていたのをみた」といった伝承だけである。 世阿弥が「金島書」の7編を書き上げたのは1436年であり、その後の消息は定かではない。世阿弥は佐渡に流されていた日野資朝と阿若丸の話を謡曲「檀風」にしており、他にも佐渡在島中に書かれのではないかといわれる謡曲があるが、在島中に書いたという確かな根拠はないようである。

世阿弥を佐渡配流とした義教は専横な暴君的なところがあり「公卿貴人を70人も遠流籠居せしめた」といわれるが、1441年、その義教が暗殺されるとそれらの人々が釈放された。その時に世阿弥もいっしょに放免、京に帰り、2年後に81歳で亡くなったと考えられている。

 

③   盛んだった佐渡の能

佐渡には今も島内に34か所の能舞台があり、全国の3分の1を占める数といわれる。神社の拝殿と兼用になっている能舞台を入れるとかっては90を超えたという。しかし、世阿弥が島民に直接教えた記録はなく、佐渡に能が広がり定着したのは、江戸期の初代佐渡奉行・大久保長安の業績と言われている。長安は甲府武田家の能楽師の出で能楽師や囃子方、狂言師も連れてきたという。その能は相川から広がり、神事能として各神社の祭礼に欠かせられないものになっていった。今は能を奉納する神社などは少なくなっているが、薪能などの企画などは観光客向けも含めて続いている。狂言は鷺流狂言として広がり、県の無形文化財に指定され中学生などに伝承活動が続けられている。

佐渡の伝統芸能は能の他に佐渡おけさ・相川音頭などの歌と踊り、鬼太鼓、人形芝居などがある。いずれも村、部落ごとに伝承され、○○座といった同好組織や鬼太鼓の「鼓童」のような組織も活動している。「文弥人形」などもいまも定期的に上演されている。

 

<まとめにかえて>

   

①    歴史の理解には、地方(郷里)の歴史・出来事は全国あるいは中央の歴史・出来事につながっており、双方を見ないといけないことがよく分かった。「流人」は特にそうだが、縄文時代や古墳時代をふくめても地方、地域でどうであったかが重要だと思った。

②    承久の乱と順徳上皇

古事記や日本書紀を編纂し天皇の権威の確立を図った時代、摂政関白と武士の力に対し天皇が院政で対応した時代。承久の乱が「日本の歴史上唯一の革命」とか「鎌倉デモクラシーだった」と言われるのはなぜか。明治維新で復活し国家神道の柱とされ神格を持たされて昭和期の大戦を戦った天皇、人間宣言をして民主憲法のもと象徴天皇となった現在の天皇。立憲君主制か議会君主制か、そもそも君主制=天皇とはなにか考えさせられる。

③    日蓮

「釈迦の宗旨はなにか?」その真意を問う姿勢、人々の個人的悩みや希望のためだけでなく社会や政治の在り方と仏教(宗教)の在り方を追求したのが特徴。日蓮は「南都八宗」に分かれている仏教を批判したが、鎌倉の新興仏教を含め現在もその状況は変わらない。キリスト教のように「神」の存在を前提とする宗教でないからそれでいいのか?

宗教が個人だけでなく社会全般の在り方に関わろうとする時に起きる問題(イスラム過激派など)をどう考えるか。

④    世阿弥

世阿弥は猿楽の演者から作者・作曲家として多くの謡曲をつくり、その理念をふくめ能楽を大成した。佐渡配流の理由は定かでなく「利休と秀吉のように偉大な芸術家の宿命だった」といわれる。いつ赦免され京に戻り、何時亡くなったか確かな資料がなく「当時の猿楽師の地位の低さのため」と言われる。優れた才能や立派な業績がありながら流人となったため歴史に残らない人が多いなかで、世阿弥はその作品が生涯をかたっているように思われる。

 

 

(注)本小論で試用した写真などは以下の参考資料のうち「定本佐渡流人史」などから借用した。なお、表紙の黒木御所と本光寺の絵は筆者の作。

   参考資料

    「定本佐渡流人史」 山本仁・本間寅雄責任編集 郷土出版社

    「佐渡歴史散歩―金山と流人の光と影」 磯部欣三 創元社

    「佐渡」 青野季吉  佐渡郷土文化の会 新潟日報事業社

    「かくれた佐渡の史跡」 山本修巳 新潟日報事業社出版部

    「佐渡島 歴史散歩」 監修・佐渡博物館 河出書房新社

    「承久の乱」 阪井孝一   中公新書 中央公論新社

    「日蓮」 山岡宗八  山岡宗八歴史文庫 講談社

    「日蓮の佐渡越後―遺跡巡りの旅」本間守拙 新潟日報事業部出版部

    「世阿弥」 今泉淑夫  日本歴史学会編 吉川弘文館

    「世阿弥配流」 磯部欣三  恒文社

――――――――――――――――――――――――――――――

 

  <追記>

この小論を三水会で報告し、若干の質疑や意見をいただくなかで次の感想を追加したいと思いました。

 

①    天皇制について

「承久の乱」の後鳥羽上皇は3種の神器なしで天皇になりましたが、神器・草薙剣は兄・安徳天皇とともに壇ノ浦の闘いで水没したと伝えられます。もともと天皇即位の儀礼で使われる神器は「形代」で実物ではなく「実物は祭主である天皇も実見はゆるされない」といわれています。しかし、戦後「人間宣言」をし、民主的な憲法のもと「象徴天皇」となった今も存在不明の3種の神器を持ち出すなど神がかりの儀式や神事が行われています。

 天皇が生前退位を望んだ時にそれを望まない保守派は動揺し、女性の皇位継承問題など明治期の皇室典範の考えを守ろうとしています。歴史上、自らの意思で天皇をやめ自由な行動をとった上皇は何人もおり、女性天皇も何人もいます。皇室典範は民主主義、人権主義の社会にふさわしく改正すべきで、天皇も一人の人間として基本的人権は守られるべきであり人権への制約は最小限にすべきです。憲法を改正し天皇を「元首」として位置づけようとする動きは引き続きあり、そのような政治利用の可能性を考えると天皇制自体を廃止した方がよいのではとも考えます。関連して元号について、天皇の代替わりに改元することにしたのは明治憲法の「天皇主権」の考えからであり、現在は元号存続の合理的な理由はなくなっています。元号法制定の折に「国民に強制はしない」と答弁しながら行政の諸手続きで元号での記入を強制しているのは不当です。

 

②    日蓮と日本の仏教

「南都六宗」といわれる奈良時代の仏教は“学問仏教”といわれたように、支配層、知識層の人々のものでした。平安期に入り最澄の天台宗、空海の真言宗はその教義を広める取り組みを始めますが、仏教が一般大衆に広がったのは鎌倉期になってからです。浄土宗の念仏や曹洞宗の禅はより分かりやすい仏教を目指すものでした。一心に念仏を唱えれば救われるという他力本願の教えは難しいお経など理解できない大衆にやさしい仏教であり、禅は自力本願の教えと言われるように一定の修行を求めたが、これも難しいお経を読み理解するよりもやさしいものでした。

 日蓮はこれらの宗派を邪道とし、釈迦の教えから世の中の正しいことわりを知ること、それは法華経にあるとしました。しかし、日蓮が他宗派に挑戦した論争は本格的には広がらず、日本の仏教界の状況は基本的に鎌倉期の状況のままだと言えます。仏教が釈迦の教えを基本とするならそれは何か?なぜ日蓮の期待した論争は不発だったのか?私ははじめて仏教が日本に伝えられ、多くの経典が手に入った時から若い日蓮が諸寺を回って膨大な量の経典を学ぶまで、そして現在まで、それらの経典は漢文のまま僧侶によって読み上げられているが、庶民が読めるやさしい日本語に翻訳されていないことが大きな理由だと考えます。経典が一般に読まれ理解されていないところで論争は成り立ちません。キリスト教の布教はやさしい日本語の聖書なしでは進まなかったと思います。

 仏教が日本の支配層の人たちのものとして入り、彼らの権威付けになった歴史的経過から経典は読まれなくてよいものであり続けました。わかりやすさや大衆性を考えた念仏や禅も経典は僧侶のものという姿勢は変わりませんでした。もし、日蓮がその能力と情熱を法華経などのやさしい翻訳と解説につぎ込み、さらにその後継者がその時代ごとにそのような努力を続けていたら、日蓮宗も仏教も変わっていたのではと考えました。

 

③    能楽などについて

世阿弥と縁が深い泉出身の能楽者・川上忠司さんからは著書をいただいただけでなく、新作能の東京での上演について案内をいただいたことがありますが、多忙だったこともあり行きませんでした。中学生のころ学芸会で狂言を演じたことは覚えていますが、能楽への関心はあまりなかったのが実情です。

文弥人形や鬼太鼓など、郷里佐渡の芸能にもう少し親しむ機会を持ちたかったなと反省しています。

                                         以上

 

 

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佐渡流人の歴史ー日蓮

2019年04月19日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

<日蓮>

1、 誕生~鎌倉

 

①   誕生、出家、遊学

日蓮は1222年(貞応元年、承久の乱の翌年)、安房国小湊(現鴨川市)に生まれた。頭の良い子として期待され12歳で安房一の寺・清澄寺(天台宗)に入門、16歳で出家、「蓮長」となった。

蓮長はさらに仏の教えを学ぼうと1245年、23歳の時、比叡山に上り多くの経典を読み、俊範法印について学んだ。最澄の開山した比叡山延暦寺は天台宗本山であり、その教義は根本経典を法華経におきながら天台法華、密教、禅、戒律の「四宗融合」をうたっていた。平安仏教の頂点にあり、そこでは法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)なども学んだ仏教徒の大学でもあった。

(注)仏教界の状況=奈良時代は華厳宗など「南都六宗」といわれる宗派が盛んであったが、平安時代に入ると9世紀に最澄が天台宗(比叡山)を10世紀に空海が真言宗(高野山)を開き、鎌倉時代に入ると13世紀のはじめに法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗が開かれた。天台宗は天台法華、真言宗は密教、浄土・浄土真宗は念仏、臨済・曹洞宗は禅だった。そのような状況に対し、清澄寺時代の蓮長は「釈尊の宗旨は何か。宗派は」と先輩の僧にただしたという。

 

そこで法華経を学んだ蓮長は密教を重視する延暦寺の現状を批判し、「法華経に戻れ」と論争したが受け入れられなかった。そして、さらに1246年から53年まで、三井寺、薬師寺、仁和寺、高野山(五坊寂静院)、天王寺、東寺とそれぞれ教義などに特徴のある寺に遊学をつづけた。奈良の古寺も訪ね、道元などとは直接面談したと言われている。

1253年、蓮長は8年ぶりに郷里・安房に戻り、清澄寺に帰山した。蓮長を後継者にと師道善は期待していたが、蓮長は「南無妙法蓮華経」を唱え、法華経こそ正しいと説法、日蓮と名を改めた。そのため念仏に帰依していた地頭の怒りをかい、鎌倉に向かった。

 

②   鎌倉で――辻説法と「立正安国論」

     鎌倉の松葉谷に居をきめた日蓮は毎日辻に立っての説法で法華経の弘布を始めた。このころ鎌倉では地震や大洪水があり、世情は不穏であった。1260年、日蓮は「立正安国論」を書き、北条時頼(前執権、時の最高権力者)に差し出した。そこには法華経でもって国を治めないと内乱や他国の侵略が起こると書かれていた。また、念仏の禁止を主張したため念仏信者の襲撃など迫害が強まった。

     1261年、騒乱の罪で伊豆に流刑となったが、2年後に放免された。

     1268年、日蓮は元のフビライが国書で日本への侵攻もありうると脅したことで、予言は的中したと法華経の正しさを強調し、多宗派への批判を強めた(注)。

1271年、日蓮を批判する諸寺やその信徒などの訴えで幕府は日蓮を評定所に呼び出し尋問したが、日蓮の態度は変わらなかった。尋問した平左衛門尉頼綱が怒り、滝の口の刑場で斬首しようとした。この時、天候の急変があり兵士たちが怖気づいて斬首は取りやめとなった。そのため幕府は佐渡へ配流することとした。

(注)日蓮の「四箇格言」=①真言亡国、②禅大魔、③念仏無間、④律国賊

                           泉の本光寺

 

2、 佐渡での日蓮

 

①   配所での“塚原問答” 

    日蓮は鎌倉で多くの迫害をうけたが少なくない理解者、信徒を獲得した。弟子の中には捕らえられ、牢に入れられていたものもあるが、佐渡にも数人が同行した。一行は1271年10月、相模から12日間の陸路で越後・寺泊に至り、寺泊に6泊後、佐渡・松ヶ崎に到着した。住まいとして与えられたところは国仲の「塚原と申す山野の中の…死人を捨てるところの一間四面なる堂」であった。現在の根本寺境内だといわれる。

    佐渡には法然の弟子・行空が、越後には親鸞が流された関係もあり念仏信者が多かった。日蓮を預かった守護代・本間六郎左衛門重連はそれら各宗派の者を佐渡だけでなく越後・越中など遠方からも集め法論を戦わせた。この論争(「塚原問答」)は日蓮の勝ちとなり監視役の重連や天台の学僧・最蓮なども日蓮に帰依した。日蓮はここで「開目抄」を書いた。(「我日本の柱とならん・・・眼目とならん・・・大船とならん・・」)

    翌年、配所は金北山の麓の一の谷に変わり、預かった一の谷入道は念仏信者だったが、親切だった。日蓮に帰依した阿仏房、国府入道、最連坊など弟子たちの協力もあり、ここで「観心本尊抄」を著し、本尊というべき「大曼荼羅」を書き、日蓮宗の教義を確立していった。

 

4、日蓮放免後の佐渡 

 

    1272年、弟子・日朗が鎌倉から赦免状をもって来島、日蓮の佐渡での配所暮らしは2年半で終わった。在島期間は長くはなかったが、日蓮に帰依し様々な妨害のなかで日蓮を守った者たちの力で日蓮の教えは島民のなかに広まっていった。

    最初の配所、塚原の草堂があった根本寺は、当時はまだ寺として公認されたものではなかったが、その後、京都妙覚寺の僧や上杉家の関係者の支援があり、日蓮宗の聖跡を代表する寺となった。在島中の日蓮の生活面で阿仏房夫妻の協力が大変大きかったが、阿仏房は俗名・遠藤左衛門為盛といい順徳上皇の供だったといわれているが、その為盛は1199年に佐渡に流された文覚・遠藤盛遠の末裔であり、事実であれば数奇な関係である。

    その阿仏房が開祖になっているのが妙宣寺であり、県内随一の五重塔がある。その阿仏房(為盛)の弟・遠藤藤四郎盛国(日増)が開いたのが妙宣寺のすぐ近くにある世尊寺で、開祖は前記の本光寺とおなじ日興上人、二祖が日増となっている。

    日蓮の第2の配所となった一の谷には弟子・学乗房日静が開祖の妙照寺があり、そのすぐちかくにある実相寺とあわせ、日蓮に関する貴重な書や画などがある。これらの寺などが興り、信徒が増えたのは日蓮が鎌倉に帰り、念仏者などの日蓮攻撃が収まってからのことであった。

    

3、 日蓮、身延山へ

 

日蓮は放免されたとはいえ、鎌倉幕府はその主張を認めたわけではなく、日蓮は鎌倉から身延山に入り、そこから日蓮宗の布教を進めることとなった。

 日蓮の主張は「立正安国論」に見られるように、正しい教えがない社会は乱れ人々は苦しむ、正しい仏教と正しい政治が一体でなければならないというもので、他宗派批判とそれを取り入れている鎌倉幕府批判であった。その政治性を持った主張、激しい論争と“折伏”というやり方は日蓮の考えの本質からくるものであり、批判者からは“天下の悪僧”といわれた。佐渡に来て“塚原問答”のあと「開目抄」や「歓心本尊抄」を著した日蓮は、佐渡でその教義を完成させた。そのため「佐前佐後」という言葉がうまれたが、身延山に入った日蓮は闘う僧から「慈愛に満ちた日蓮」と言われるようになった。佐渡で世話になった人々―なかには念仏を捨てない一ノ谷入道もいたが―への感謝の手紙などをみると優しい人情のあふれるものであった。

 

 

 

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佐渡流人の歴史ー順徳上皇

2019年04月19日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

<順徳上皇>

 

① 承久の乱

1185年、平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を発足させたが、その支配権は西国には及ばず朝廷の支配が残っており、朝廷には財力もあった。鎌倉では1199年、頼朝が急死し、2代・頼家が暗殺され、3代・実朝も頼家の子に殺されるという混乱が続いた。

幕府の混乱、弱体化をみて後鳥羽上皇が朝廷権力の復活をめざし、承久3年(1221年)討幕の兵をあげた。(院宣は幕府の権力者「北条義時追討」であり、討幕ではなかったとの見方もある)。その動きに鎌倉幕府は頼朝の妻・北条政子の檄もあり、鎌倉だけでなく諸国の兵を集め一気に京に攻め上がり朝廷軍を敗走させた(朝廷側6万人、幕府側19万人の兵力)。後鳥羽上皇は隠岐に順徳上皇は佐渡に遠流となり、挙兵に賛成しなかったといわれる土御門上皇は自分で申し出て土佐(のち阿波)に渡った。

65年前の「保元の乱」で崇徳上皇が隠岐に流されて以来の天皇の流罪だった。

 

 

 (注)後鳥羽上皇は安徳天皇の弟で、安徳天皇が平清盛に取り込まれる状況下で4歳で82代天皇となり(安徳天皇が壇ノ浦の闘いで入水するまで2人天皇)、19歳で上皇となり院政をしいた。83代は3歳の土御門天皇となったが後鳥羽上皇の意に添わず15歳で上皇にされ、異母弟の14歳の順徳が84代天皇になった。順徳天皇は討幕の兵をあげる直前に上皇となり(25歳)、85代は仲恭天皇となったが、幕府は在位78日で御堀川天皇に譲位させた。(「仲恭天皇」は明治3年に決められた。それまでは「承久の廃帝」と呼ばれた。この時、大友皇子→弘文天皇。淡路廃帝→淳仁天皇の3天皇が追認された。)

  後鳥羽上皇は「勅選新古今和歌集」に関わり、和歌では藤原定家とも論争したといわれ、文武両面で有能とみなされていた。順徳上皇も和歌や蹴鞠を好み藤原定家親子と親しかったという。歌集は「順徳院御集」(紫禁和歌集)、佐渡での歌集「順徳院御百首」など。

 

この「承久の乱」で天皇と朝廷貴族による支配はおわり、武力を背景とする幕府の支配する武家社会の到来となった。「承久の乱」は支配階級が武力で交代した日本の歴史上「唯一の革命」ともいわれる出来事であった。(なお、私の国民学校のころは皇国史観によって「承久の変」と呼ばれ、戦後、「承久の乱」に戻ったが、最近、新しい歴史教科書を作る会の教科書は「承久の変」にしている。鎌倉時代の「吾妻鏡」などは「承久兵乱」や「承久逆乱」の言葉を使っている。)

 

②   佐渡への遠流

 順徳上皇は1221年5月に起きた乱が1か月で終息、佐渡への遠流を言い渡されるとすぐ、7月には京を出立した。お供は花山園少将能氏など3人と2人の女房だったという(「吾妻鏡」による。「承久記」だとプラス男1、女1多い)。一行は警護の武士に守られながら北陸街道をとおり、越後の寺泊に至り、8月15日前後に佐渡・松ヶ崎に到着したと考えられている(「定本・佐渡流人史」、以下佐渡での事象はこの本を参考にした)。

 佐渡に上陸した上皇は国司の請け取り手続きを済ませ行在所(あんざいしょ)に向かった。行在所の場所については諸説あったが、現在「黒木御所蹟」のある泉が定説になっている。

25歳で佐渡に流された上皇は京に帰る夢はかなわず、1242年の秋、在島22年目、46歳で亡くなった。現在、「真野御陵」(公式には「順徳上皇御火葬塚」)のある地で火葬され、翌年、上皇の御骨は京都の大原御陵に納められた。

 

③   佐渡での暮らし

上皇の佐渡での暮らしぶりはほとんどわかっていない。佐渡に送られた流人は寺や地元の名主などに預けられ、自活の道を歩むのが普通であったが、上皇の場合は「黒木御所」と呼ばれた皮付きの丸太柱でつくられた家屋のある屋敷と一定の規模のご料地を与えられ、それを供人が耕し、生活されたと考えられている。

 上皇は佐渡に渡って間もなく、京での1年前を思い出しての歌として

「雲の上に たれ待出てながめん 去年のこよひの山のはの月」

と詠み、手紙を京に出している。帰京を願う無念の想いは強かったようであるが、生活はそんなに不自由ではなかったことがうかがわれる。佐渡で詠んだ歌は藤原定家などに送り、それらは「順徳院御百首」などに載っている。また隠岐に流されていた後鳥羽上皇とも手紙のやり取りがあり、医者など人の京都との行き来もあった。

 島での伝承では上皇は2人の皇女、一人の皇子をもうけたとされ、それぞれ違う集落にある一宮、二の宮、三の宮という神社の祭神とされている。「御母は宮女三人の中の誰にかありけむ定かならず。」(「佐渡志」)となっているが、土地の娘が召されて出産したという伝承もある(戦後、村娘・お花との物語がラジオドラマ「承久の悲歌」としてNHK新潟放送から放送された)。他にも皇子がいたという説があるが、いずれも結婚せずに亡くなったことになっている。

 

               本光寺観音堂と順徳上皇持仏の観世音菩薩像

 

④   黒木御所と本光寺

順徳上皇は持仏として観音・薬師・阿弥陀・天神の4体を黒木御所の四方に安置、礼拝していたと言われる。その観音像が安置されているのが、御所蹟のすぐ前にある本光寺である。黒木御所に出仕し観音別当だった隣村・中興の地頭の息子・平吾安光が上皇崩御のあと観音堂を守っていたが、日蓮とともに来島した弟子・日興の教化により本光寺を開創したといわれる。平安時代の作といわれる木造の観音像は明治期に彫刻家・高村光雲の鑑定で国宝の指定をうけたが、いまは国の重要文化財とされている。

 順徳上皇はこの観音像などに赦免が出ることを祈り、後鳥羽上皇などとの再会を夢見ていたと思われるが、土御門上皇についで後鳥羽上皇も隠岐島在島20年で亡くなり、自らの皇子の皇位継承も絶たれたことを知り、断食をつづけ、自らの命を絶ったと伝えられる。

 <後鳥羽上皇と順徳上皇の和歌>

  後鳥羽上皇

「人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆえに もの思う身は」(小倉百人一首99番)

「限りあれば 萱が軒端の月も見つ 知らぬは人の行末の空」(隠岐で)

  順徳上皇

「ももしきや 古き軒端のしのぶにも 猶あまりある 昔なりけり」(同上100番)

「いかにせん 奥も隠れぬ笹垣の あらはに薄き人のこころを」(佐渡で「順徳院御百首」)

「秋風の吹うらかへす小夜衣 見果てぬ夢は 見るかひもなし」(同上)

    「逢うとみて 覚める夢路の名残だに なお惜しまるるあかつきの空」(同上)

 

 

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佐渡・流人の歴史2-流人の歴史

2019年04月18日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

2、流人の歴史

①古代・中世―「遠流」の歴史

佐渡への流人の第1号は722年(養老6年)に流された万葉歌人の式部大輔穂積朝臣老(ほづみあそみおゆ)。元正天皇(女帝)への不敬な行いが理由だった(740年赦免、帰京)。その後、724年(神亀元年)に佐渡は島流し・流刑のうち「近流・こんる」「中流」「遠流・おんる」の「遠流」の地と決められた。

律令下の刑罰=死・流・徒(服役)・杖・笞。死刑は実施されず遠流だった。

遠流の地――伊豆、安房、常陸、隠岐、土佐、佐渡

佐渡に遠流となった人は、奈良時代に4人、平安時代に入ると8世紀に5人、9Cに9人、10Cに2人、⒒Cに9人、12C19人、計44人だった。12世紀末からの鎌倉時代には1221年の順徳上皇、1271年の日蓮を含め16人が、14世紀の室町時代には1434年の世阿弥など4人が流人となった。

奈良、平安、鎌倉の約700年のあいだにほぼ70人が佐渡に流されている。天皇であった人を含め政治の中枢にいた者や宗教や文化で重要な立場にいた人たちであり、その推移は日本の古代、中世の歴史の重要な一面を物語っている。なお、戦国時代(信長、秀吉の時代の役30年)は統一国家としての機能が働かず、佐渡への流人はいなかった。

 

①   江戸時代--「遠島」と「無宿者」

江戸時代になり、政治の中心が江戸になると流刑の考えや内容も変化することになった。上級階層の政治犯は減少し、賭博・傷害・盗み・放火などの重犯者などで死刑の次の刑罰として「遠島」処分が位置づけられた。江戸時代初期には幕府ではなく朝廷の決定=朝旨によって京都から佐渡に流された者が4件・6人あったが、他は幕府による「遠島」者で1612年(慶長17年)から1700年(元禄13年)までで251人にのぼった。

江戸期の「遠島」の場所は、1742年(寛保2年)の「公事方御定書」で江戸からは大島・八丈島・三宅島、京からは薩摩五島・隠岐・天草になった。佐渡については金の産出を重視する幕府直轄領として佐渡奉行所が置かれ、「御構場所(おかまいものどころ)」という流刑者などを送ってはならないところとなった。そのため1700年以降は佐渡には「遠島」の記録はない。

ただし、「人別帳」に載らない「無宿者」が軽微な罪で佐渡送りされ、金山の水替え労働者として働かされたという実態が別に存在する。「御構場所」の裏の実態であり、そこでの過酷な労働と暮らしはかっての流人とは比較にならないものだった。

 

②   流人の島での扱い

 古代・中世の流刑は一種の追放刑であり、配所での生活、行動を強く束縛するものではなかった。その道中は妻妾は同伴、父祖子孫は任意。警備の武士がつき、その分をふくめ道中の食事、具馬、宿は道中の国が負担(佐渡への港・寺泊のある越後国の負担は大きかった。)

流人(プラス同伴者)を受け取った国司は米・塩、田畑と種を与え、のち自活させた。約70人の流刑者のうち放免された者は21人で、自害や脱走などもあったようであるが、多くは百姓になるなど島の人になって過ごしたと思われている。順徳上皇、日蓮、世阿弥も後で見るように島での行動はかなり自由だったといえる。

 江戸期の遠島の刑の場合も流人の扱いは基本的に同じで、佐渡奉行所が指名する町役や問屋筋(海運・商人)が「身請け人」となり、店で働かせたり、手職を生かさせたり自活させた。島で世帯をもち放免されても島に残った例も少なくない。ただし「無宿者」は別な扱いだった。

 佐渡と越後の距離は最短で40㎞位で八丈島は300㎞もあるが、佐渡では「島抜け・乗り逃げ」の例は極めて少なく、八丈島はかなり記録されている。自活するための条件・耕地や島人との関係が佐渡の方が良好だったためと思われる。

 

④   佐渡の歴史と3つの文化

古代・中世の佐渡には流人の第1号が万葉歌人だった穂積朝臣老だったように流人によって国府のあった国仲平野に京の貴族文化が流れ込み、江戸期には大佐渡の金山の発展で相川に佐渡奉行所が置かれ、武家文化が浸透した。最初に砂金が算出した小佐渡は南端・小木港が佐渡奉行などが上陸する公津であったが北前船などの寄港地として発展し、町人文化が盛んになった。

そのため、佐渡は小佐渡、国仲、大佐渡で文化=風習や言葉などに違いがあるといわれたが、今は殆んど一体である。越後上杉氏の支配下にあった時代は短く、江戸期は幕府の直轄領であり、歴史的には越後よりも京・関西の影響を強く受け、その名残のある島といえる。

 

3、  古代・中世の主な流人

 この時代の代表的な流人の順徳上皇、日蓮、世阿弥については後述するが、その他の特徴的な人や事例をあげておきたい。

 

①   平安時代

三国真人広見――平安期の785年佐渡へ。謀反を誣告した罪。越後、能登の国司。佐渡国分寺の遺跡から三国真人の名と肖像画が彫られた瓦が出て、本人の作とされている。

 

4人組で――839年に「遣唐船への乗船を拒否し、共謀して逃亡した罪」で4人が一緒に流された。流人は1件1人が通常で、2人一緒は3件で4人はこれのみだった。4人は「従7位上伴宿祢有仁」など、今でいう高級官僚の人であった。

 源義綱――1109年佐渡へ。兄・八幡太郎義家とともに「前9年の役」などで戦った武将。義家と反目、源氏棟梁の地位をめぐる争いで流刑となる。

式部大輔・入道盛憲――1156年に続き

源蔵人太夫・小国頼行――1157年佐渡へ。二人は「保元の乱」(1156年)で天皇として初めて讃岐に流された祟徳上皇に連座して、佐渡への遠流の刑を受けた。

佐渡から伊豆への流刑――805年、佐渡国人・道公全成が官鵜を盗み伊豆に流された。平安時代、佐渡では鵜飼のための鵜を朝廷用に採り育てていた。佐渡から伊豆への流人はほかに無いようです。

 

②   鎌倉時代

 文覚・遠藤盛遠――1199年佐渡へ。北面の武士。源(渡辺)渡の妻・袈裟に恋慕、間違えて殺し、出家し文覚(もんがく)となった。流された伊豆で同じく流人だった源頼朝と共謀、後白河法皇を動かし平家を打つ。頼朝を頼りに後鳥羽上皇を排斥する動きをすすめ、失敗、佐渡へ。袈裟との関係が「平家物語」などに書かれ、謡曲「恋塚」や芥川龍之介の小説などで有名。

 法本坊行空――1208年佐渡へ。浄土念仏を唱えた法然の弟子。法然の教えは貴族階級の現世的幸福をもたらすことを目指す当時の南都諸宗の迫害を受けた。師の法然は1207年、後鳥羽上皇の怒りにふれ土佐に流され、親鸞も越後に流されていた(「承元の法難」)。

 権中納言・京極為兼――1298年佐渡へ。藤原定家の曽孫で歌人で持明院統(北朝)の歌の師範。持明院統は大覚寺統(南朝)と皇位を争っており、為兼の動きを幕府が不穏とみて佐渡配流となった。8年後に赦免、京に戻り勅撰和歌集「玉葉和歌集」の撰者となった。

権中納言・日野資朝――1325年佐渡へ。後醍醐天皇のもとで日野俊基らとともに起こした討幕運動「正中の変」で流罪となる。後醍醐天皇は1331年の2度目の倒幕運動に敗れ隠岐に流された。そのこともあり、資朝は1332年、佐渡で斬首された。その子・阿若丸の物語(「太平記」)は世阿弥の謡曲「檀風」となった。

 次に代表的な流人で私と縁がなくはない順徳上皇、日蓮、世阿弥について述べます。

 

 

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