<この記事は2019年のロバート・オウエン協会での報告を編集したものです。>
賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー
/ 石黒武重、中林貞男、高村勣
① 石黒 武重(第3代日本生協連会長)
<はじめに>
この報告は日本生協連資料室の土曜講座「生協運動の先駆者に学ぶ」で2017年10月から3回に分けて行った報告を基礎にしたものである。石黒武重、中林貞男、高村勣の3氏はそれぞれ日本生協連の第3代、4代、5代の会長であるが、たまたま私が日本生協連勤務時代をふくめ関係があってその人柄、業績などにつき私なりの評価が可能と考えた人であり、狭義の日本生協連会長としてだけでなく日本の生協運動の優れたリーダーだったと考えられる人である。
私が日本生協連の職員になった1960年は日本生協連会長が賀川豊彦から田中俊介に交代した年であり、田中は私の知った最初の日本生協連会長であるがその人柄、業績について評価するにたる知識がないため、また日本生協連常務理事として多々お世話になった竹本成徳会長は全国の生協人に尊敬されたリーダーであり評価も高いがご存命の方であり、取り上げなかった。この小論はこのように日本生協連の歴代会長について系統的に論じたものではないが、戦後すぐの混乱期から現在の市民生協群の発展成長の歴史を知るには、その時代の3人のリーダーの姿、果たした役割を知ることは有意義と考えた。
< 石黒 武重 >
-異色の大物、協同組合を愛し、力を尽くす―
異色の経歴
石黒武重は1897(明治30)年、石川県金沢市で生まれ、東京帝大卒業後農商務省のエリート官僚の道を歩み、終戦直前には枢密院書記官になり終戦を国家の中枢にいて迎え、終戦直後に国務大臣・法制局長官、衆議院議員、進歩党と民主党の幹事長を経験、官僚時代に当時官選だった山形県知事も務めた。その経歴からGHQから公職追放を受け、政界から身を引いた、といった経歴であるが、農商務省の時代から協同組合へのかかわりを持ち、戦後すぐの衆議院議員の時代に東京の職域生協の連合会の会長になり、その後一貫して生協運動にかかわることとなった。生協運動のリーダーの中では異色の経歴であり、その経歴と人柄から生協関係者からは生涯、親しく「先生」と呼ばれた。
石黒は父親が陸軍将校だった関係で横須賀の小学校に入学、東京の府立四中、第一高等学校から東京帝大法学部に入学、1921(大正10)年に優秀な成績で卒業した。当時は大正デモクラシーの時代で、ロシア革命、米騒動、労働運動の高揚といったなかで家庭購買組合や神戸消費組合が設立され、日本の生協の本格的な台頭、発展期だった。石黒は「大正デモクラシーの動きの中で、私は中学時代から社会問題への関心は強かった」という。
有能な官吏として
東大を出た石黒は“世の中の人のためになることをやりたい”と公僕=官吏(農商務省)の道を選んだ。幼少のころに母や祖母から、お米を一粒でも残したりすると「汗水たらして働いている人たちのことを考えなさい、偉いのは働いている人たち」だと教えられていたためだった。
石黒は農商務省水産局の水産講習所(後の東京水産大学)の教授兼事務官になり、そこでの業績が認められ海外視察として誕生間もない社会主義国・ソ連に行った。当時の官僚にはない発想で新しいソ連を見て、ヨーロッパ各国とアメリカを回り、国際的な視野を広げた。帰国後、生糸関連の職務に従事し、ニューヨーク生糸調査事務所長として日本の農民の立場でアメリカ政府との交渉に力を尽くした。このころから協同組合に関心を持ち、神戸の生糸検査所の時代に神戸消費組合や農協の組合員になったが、1937(昭和12)年には産業組合課長に就任し、産業組合=農協の管轄となり、ロッチデール組合のことなど協同組合関係の勉強もした。
1939年、42歳で山形県の知事に任命された。短い期間だったが県民や農民のための施策で高い評価をうけた。その後、商工省の繊維関係の仕事や貿易局の長官にもなったが、その経験はのちの日本協同組合貿易株式会社(日協貿)の仕事に生かされた。1941年、物価局長の時代に日本はハワイに奇襲攻撃をかけ太平洋戦争に突入したが、アメリカをはじめ世界の情勢を知る石黒は、無謀な戦争で勝てる戦争ではないと局員を集めて話をした。1942年、官吏として最高位の農林事務次官となった。
枢密院書記官長、国務大臣などと公職追放
1945年、石黒は2週間後に終戦となる8月はじめに枢密院の書記官長に就任した。枢密院は内閣がなにかをやろうとする時に天皇の諮問をうけ、天皇のもとに主要メンバーが集まって議論する国の中枢機関だった。8月6日の広島に続き長崎に原爆が落とされた9日、ポツダム宣言の受諾をめぐり最高戦争指導会議が開かれた。会議は3回開かれたが、徹底抗戦の軍部の抵抗で10日の早暁まで結論が出ず、枢密院の平沼騏一郎議長が参加、ポ宣言受諾を主張し、やっと決定をみた。早期停戦の意見だった石黒は枢密院書記官長として平沼議長と一緒にこの会議に立ち会い平沼を補佐した。
14日の御前会議でポ宣言受諾がきまり、15日の玉音放送のための皇居での録音とそのレコード盤のNHKへの搬送などをめぐり軍の一部の妨害の動きや受諾に賛成した平沼などのメンバーを抗戦派の軍人が狙う動きがあり、石黒は平沼をどう守るか何日間も一緒に身を隠すなど苦労した。
終戦直後の東久邇宮内閣が10月に幣原内閣に代わると、戦後もっとも緊急な課題の憲法問題調査会(松本委員長)が設置され、石黒はその委員になった。しかし、この憲法問題調査会が検討した「試案」はGHQに問題にされず、GHQは戦争放棄など3原則を示し、それを受けて新憲法が作成されることになった。(「土曜講座」での報告では憲法調査会への参加は「法制局長官として」となっているが間違いで「枢密院書記長として」の参加だった。)
1946年2月、石黒は幣原内閣の国務大臣・法制局長官に就任した。その閣議にはGHQと協議中の憲法草案がはかられたが、石黒は「僕は象徴天皇制に賛成だ」と発言した。のちに私たちにも「天皇が象徴制になって明治憲法からの憲法の位置づけが変わったことは大変いいことだ」と言っている。4月には戦後初めての総選挙があり、石黒はかって知事をした山形から無所属で立候補し当選した。この選挙で勝った自由党の吉田茂の内閣となったため石黒の国務大臣は短期間でおわり、石黒は結成時から参加していた進歩党の政調会長となり、翌47年2月に幹事長になった。
戦後すぐに社会党、自由党と並び結成された進歩党には翼賛国会で反東条軍閥演説をした安倍寛(安倍信三の祖父ー岸信介は母方の祖父ー。総選挙準備中に急死)や同様に反戦演説で有名な斎藤隆夫など平和主義者もいたが、多くが戦争協力者として追放を受けたため自由党の一部と合流し、47年3月に民主党となった。石黒は民主党初代幹事長になり、新憲法の下での総選挙の準備に入るが、その最中にGHQから「望ましくない」と言われ政界から身を引くこととなった。GHQの判断は「東条内閣のもとで農林次官だったためであろう」と石黒は述べている。民主党幹事長として最後の仕事は「田中角栄や中曽根康弘を党として公認したこと」だった。
2.生協運動のリーダーとして
戦後混乱期のリーダーとして
石黒は衆議員議員で進歩党のトップとして多忙だった1946年9月に東京都の職域生協の連合会の会長を引き受けた。戦後すぐに全国で5千を超える数の生協が誕生、東京でも47年末までに地域で370、職域で100もの生協が創られた。連合会も東購連という家庭購買などを引きついだ戦前からの連合会、新設地域生協の東協連、勤労者生協の勤協連、職域生協の東職連、町内会生協の地区連の5つが誕生した。東職連には各省庁に作られた生協が加入、農林省生協が中心的役割を果たしており、石黒が会長に推された。民間企業中心の勤協連は賀川豊彦が会長になった。当時の圧倒的な食糧・物資の不足と経済混乱のなかで生協が物資を獲得するために連合会が5つもあっては市場や行政の協力を得られない。ということで46年12月、5つの連合会の上に全東連(全東京都購買利用組合連合会)という連合会をつくることになり、石黒がその会長になった。勤協連会長の賀川は日本協同組合同盟の会長として多忙であり、賀川も石黒を推した。この時、石黒はまだ政党の要職に在り総選挙の準備にも力を注いでいた。 47年の春、政界から身を引くことになった石黒には実業界からの誘いも種々あり、第一火災海上の会長などを務めるが(のち横浜生糸取引所理事長、郡是産業取締役など)、生協の方は殆んど無償で、地元世田谷の砧生協理事長を引き受けるなど役割を広げていった。
戦後インフレとデフレ政策の強行といったなかで生協もその連合会も経営の危機が続き、そのなかで労働運動への弾圧や公務員へのレッドパージといった嵐が生協運動にも影響を与えた。経営再建が課題で都の支援をうけていた全東連に対し都から役職員のレッドパージの要求が出た。石黒は「協同組合は思想信条の自由を組合員に対しても役職員にも守っている」とこれをはねつけた。その直後、公職追放中ということで石黒が全東連会長を降りた時には、都内の生協の関係者はそろって石黒の「公職追放を解除しろ」という陳情運動を展開した。
1951年、既存連合会を合併して新連合会(現東京都生協連)が設立され、石黒は再び生協だけでなく都の方からも要請され会長に就任した。ただ、東京都生協連は1953年に商品取引上の失敗で負債を負い和議団体となり、商品事業はできなくなった。石黒会長は行政に火災共済事業を認めさせ、連合会の活動を維持存続させた。まだ生協での共済事業の経験もないなかで都県連合会が共済事業をするというのははじめてであり、現在のコープ共済事業につながるものだった。
日協貿の設立と日ソ貿易
1954年のICA総会で日本生協連代表の田中俊介副会長は協同組合間の貿易の推進の提案と原水爆禁止のアピールをした。その時にソ連の代表から招請を受け、55年に石黒を団長とする代表団が訪ソした。石黒は東京都生協連会長であり日本生協連顧問だったが、かつての商工省貿易局長の経験やソ連の理解者ということでソ連がわから協同組合間貿易の働きかけがあり、石黒は関係のあった郡是産業の支援をえて貿易実務を始めることにした。当時の日本生協連は「役員の報酬もまともに出せない」状況であり、石黒は日ソ友好といった意義だけでなく「日本生協連の財政に役立てたい」と考えた。1956年日本協同組合貿易株式会社が設立されるが、ソ連貿易の開始の作業は経験者が誰もいない中で石黒が奮闘することとなった。交渉のためモスクワに行った石黒は「日本生協連やグンゼと相談しようにも国際電話をかける電話代もなく、朝食はホテルで食べるものの夜は部屋に持ち帰ったパンとチーズをかじりながら水を飲んで過ごした」と話している。大臣までやった人が、そのようななかで商談を進め、木材の輸入からニシンの輸入と事業は軌道に乗って行った。石黒によると日協貿が稼ぐようになって「6,7年間は日本生協連の役員報酬は日協貿から支払っていた」という。
事業連会長から日本生協連会長へ
1958年、日本の生協にとって悲願だった卸売連合会=全国事業生協連が設立され石黒は会長に就任した。当時、全国学校生協連、鉱山生協連はそれぞれ卸売事業をしており、それらの事業の事業連への統合と合わせ事業連の日本生協連との合併が進められた。1965年に合併した新しい日本生協連の会長は田中俊介から石黒に交代した。事業をやる連合会ということと学校生協連と鉱山生協連と合併した時期の会長であり「石黒先生以外にない」と期待された。石黒会長のもと日本生協連の事業はコープ商品の開発などで60年代後半から70年代の新しい市民生協の誕生と発展に応えて行った。
3.協同組合と平和を愛した“偉い人”
以下、私の私的な感想を含む石黒評である。私が石黒に最初にお世話になったのは1960年代、石黒の日協貿社長時代であるが、親しくご指導いただいたのは1979年からの3年間の東京都生協連の常勤常務理事時代である。たまたま「東京の生協運動史」の執筆を担当し、都生協連会長の石黒から戦後の東京の生協の歴史を聞き、あわせてご本人の枢密院書記官長や国務大臣としての苦労話なども伺った。
石黒は大臣としての車は新宿駅で返して「小田急電車に乗り貧しそうな親子に閣議に出たお菓子を分けて話を聞きながら成城学園まで帰った」という。お酒などやらない石黒の唯一の趣味は「追放時代に学んだ」というマージャンであり、私ら若輩ともよくやったが「君らから頂くことがあれば寄付している」と言っていたのが啓明学園という戦災で生まれた浮浪児=戦災孤児の施設への支援だった。石黒はこのように社会的な弱者への熱い思いを持ち、「公僕」として官吏の道を歩み、後半生を生協運動にささげた。石黒は「私の社会観は修正資本主義だ。」「協同組合が発展している国は健全で平和だ。」と言い、生協運動への期待を折に触れ述べている。
私が編集に関わった「努力を楽しもう-石黒武重先生小伝-」という本のなかで、啓明学園の標語になっている「努力を楽しもう」という石黒の言葉について述べている。石黒は「私は賀川豊彦とは違って理想主義者でもないし、そういう立派な思想を語るというのも好きではない」と語っている。いろんな努力をしながら楽しみながら生きる、一歩一歩理想を実現していくということが一番性にあっているということで、そういう人柄の方だった。勲一等瑞宝章を受けた時も祝賀会ではなく私ども生協関係者とのマージャン会を希望したが、そのように庶民的な人だった。石黒は各分野で大きな仕事をされた能力が高く見識の広い方であるが、気さくで偉ぶることのない人、そういう点では業績だけでなく、人間として本当の意味の“偉い人”でした。
(注、参考文献=「努力を楽しもう―石黒武重先生小伝」1991年日本生協連。ほか)
<私の思い出―石黒先生と佐渡>
生協の先輩たちは皆な石黒さんのことを“先生”と呼んでおり、私もそうでした。私は生協に就職して1年後に結婚することになり、生意気なことに専務の中林さんに仲人役をお願いし、当時日協貿社長だった先生に来賓としてのご挨拶をお願いした。大変失礼なお願いに応じていただき、息子の就職先の生協が理解できなかった両親を安心させることができた。その先生には「偉い人だ」と感心させられたことが何回もあるが、東京都生協連を経て日本生協連に戻って間もない83年の夏、役員室の厚生旅行で佐渡に行った時も驚かされた。
先生は会長を中林さんに交代し名誉会長だったが、旅行は先生と勝部専務など10人ほどで、宿は両津港に近い新潟総合生協の保養所だった。その宿に自転車に乗った男性が1ダースのビールを持参、石黒先生に差し上げてほしいという。その人は両津高校の校長で先生は「わが高校設立の時の恩人です」という。勝部さんが当日連絡したらしく「日曜なので何もできなくて」と校長は恐縮していた。聞くと、終戦直後の両津町で町長はこの戦争の痛手から立ち上がるため町立女子高校を造りたいと決意、たまたま町長と先生が親しくしていた方との縁で国務大臣だった先生に依頼があり、先生が町長と面談、文部大臣・安部能成に話をして急きょ認可されたのだという。先生は「敗戦の混乱期に女子高を造ろうとした町長は立派だよ」と一言。佐渡ではご一行を実家の本光寺に案内(写真)、重要文化財の観音菩薩像とともに両親にもあっていただき、私にとっては大変うれしい旅行だった。
このことでは後日談がある。私は60年安保直後の大学生協連総会で議長を務めたが、その時共同議長を務めたのが東北大生協の学生・浅井康男君だった。そのおりに彼が佐渡の両津高校(女子から共学になった。浅井夫人も同校卒)の出身だと知り、その後、生協で長い付き合いとなった。彼は私が東京都生協連をやめてしばらくして都連の専務(のち会長)になり、先生とはよくマージャンをやる関係だったが、先生が高校の恩人だと知ったのは私より後だった。
石黒武重
1897年 金沢市生まれ
1821年 東京帝国大学法学部卒業、農商務省水産局勤務、水産講習所教授
1925年 ソ連邦および欧米視察 27年以降 蚕糸局、大臣秘書官、ニューヨーク生糸調査事務所長、産業組合課長、経済厚生部長など。
39年 山形県知事
1940年 商工省繊維局長、貿易局長、物価局長、 42年 農林次官
1945年 枢密院書記官長、46年 国務大臣兼法制局長官、衆議院議員、
47年進歩党幹事長、民主党幹事長(総選挙準備中に公職追放)
1946年 東京職域購買組合連合会会長 48年 全東京都購買利用組合連合会会長
49年 砧生活協同組合理事長 51年東京都生活協同組合連合会会長
56年 日本協同組合貿易㏍社長 58年全国事業生活協同組合連合会会長
1965年 日本生活協同組合連合会会長 71年同名誉会長
67年 勲一等瑞宝章授与
(他に日ソ協会会長、中央蚕糸協会会長、第一火災海上保険㏍会長など)
1995年 逝去 98歳