かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー② 中林貞男

2020年05月26日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと
 
 ② 中林 貞男
     ―「平和とよりよい生活のために」を体現
 
 
1、学生時代、新聞記者、産業報国会
 
 石黒武重についで日本生協連会長となる中林貞男は1907(明治40)年富山県生まれで、早稲田大学を出て報知新聞の記者となり、戦時中は産業報国会につとめ、終戦とともに日本協同組合の設立に参加、以後、生協運動に生涯をささげた中林は1926年、賀川の指導のもと東京学生消費組合が発足した年に早稲田学院に入学した。その年、早大では大山郁夫教授が大学から追放されるという事件が起きたが、雄弁会幹事だった中林は雄弁会会長だった大山追放に抗議し「暴圧反対学生雄弁大会」を28,29年と続けて開催するなど学生運動に挺身した。1928年には共産党党員が一斉に投獄される事件(3・15事件)が起き、また悪名高い特高警察ができた年であり、反戦思想を理由に賀川豊彦らキリスト教関係者も弾圧されていった。
 中林は「軍事教練反対」の弁論をやり職業軍人だった父から「お前がそんなことをやるなら俺は切腹する」と叱責されることもあった。雄弁会や「早稲田新聞」も解散させられ、自由・民主の気概をもつ学生は行き場がなく、東京学消早稲田支部の売店に集まっていた。中林は学消には関わらなかったが、学消の店に集まるだけで特高に捕まるという事態となっていた。
 中林は1932年、大学を卒業、報知新聞社会部の記者になり、2・26事件などかなり生臭い事件をふくめあちこち駈けずり回った。日本は日中戦争、太平洋戦争に向かうが、新聞記者としての後半は当時新しい省だった厚生省担当となった。
 
新聞記者から産業報国会へ
 1940年には国を挙げての戦時体制の仕上げとして大日本産業報国会や大政翼賛会ができるが、中林はその大日本産業報国会の事務局に入ることになった。産業報国会は、挙国一致体制のため企業とか労働組合とか産業と言われる分野を縦割りで一本化した組織だった。例えば、生協でいうと日立造船因島工場にあった因島労働購買組合は日本産業報国会因島支部ということになった。横の社会が町内会と隣組、縦は大日本産業報国会、その上に大政翼賛会ができて政党は解散、戦時ファシズム社会が完成した。
 この時期、中林は旧友の藤井丙午(のち新日本製鉄、参院議員)から産業報国会(産報)の会長平生釟三郎の秘書にならないかと誘われて産報に入った。文部大臣もやった平生釟三郎は賀川豊彦の活動も支援し灘生協の設立も手伝った人だが、日本製鉄や川崎造船のトップもつとめ産報の会長に祭り上げられた。中林の肩書は最後は連絡部長兼組織部長であったが、産報には当時の労働組合の関係者も働いたり協力しており、中林はその人脈は「のちの生協での活動に役に立った」と述べている。
 
2.日協同盟、日本生協連創立のころ
 
 1945年8月、日本の敗戦となり、中林は産報は労働組合等を統合してできた組織なので、即刻解散し、その財産等も労働組合に移管すべきだと主張した。産報は持っていた現金は国庫に納入し、残った財産は神田の事務所の借地権と机と椅子とか文房具ぐらいだった。終戦直後で労働組合の統一的な中央組織はまだ生まれておらず、中林は旧知の東京学消の専務だった山岸晟などから生協の動きとして「協同組合の連中が中央組織をつくろうと賀川を入れて話し合いをすすめている」との情報を聞き、産報の幹部に残った財産は協同組合の中央組織に任せてはという提案をし、関わっていた厚生省も含め了解され、その話を賀川など日協同盟設立のメンバーに伝えた。「それは結構なことだからぜひ君も一緒に来て生協の再建を手伝え」ということになり、本人も事務局長ということで日協同盟に入った。
日協同盟は45年11月に賀川を会長として創立され、46年2月に産報の入っていた救世軍ビルに入った。そこで譲り受けた財産で一番役に立ったのは紙の割当の権利で、日協同盟はその紙を使って新聞を作り、生協づくりや食糧獲得闘争の宣伝をした。「雨後の筍」と言われたように全国の地域、職域で生協が誕生したが、何よりの課題は食糧・物資の確保であり、日協同盟は食糧獲得のための闘争を労働組合と一緒になって取り組んだ。日協同盟の事務局には戦前からの生協経験者が入ったが、生協の経験のない中林は食糧獲得闘争などで中心的な役割を果たした。
 
 日協同盟から日本生協連へ
 日協同盟は重要な課題として生協法制定の取り組みをすすめ、戦前、関東消費組合連盟のリーダーだった山本秋を中心に本位田祥男(協同組合学者)が協力し法案づくりをし、中林たちはその制定実現に取り組んだ。生協法に先立って制定された農協法には信用事業が認められていたが、1948年に成立した生協法には信用事業が認められず、日協同盟は「生協法改正運動を翌日から始めた」状況だった。それが埒があかないまま、中林は労働組合関係者と話し合い、労働金庫づくりに取り組むこととなった。
1948年に生協法が成立し、新たな生協法による連合会・日本生協連の設立準備がはじまったが、この時日協同盟は破産寸前で100人いた事務局が6人まで減っていた。新連合会の発起人の東大の学生で東大生協専務だった福田繁が東大の講堂教室を日本生協連設立総会の会場として確保し、創立総会のスローガンとして「平和とより良き生活のために」のスローガンを提案した。当時の国際学連のスローガン「平和とよりよき未来のために」の「未来」を「生活」にかえての提案だったが、賀川の「それはいい」という一言で「平和とよりよき生活のために」が採用されることになった。
 日本生協連がスタートした時の常勤幹部は中林と木下保雄で、木下は戦前の家庭購買組合と全国消費組合協会(全消協)にいた人で中林とのコンビで事務局を支えた。1960年、私が日本生協連に就職したころは中林と木下が専務理事で、常勤役職員が10人ほどの事務局で、設立間もない日協貿が石黒社長のもと数人で頑張っていた。
 
 労金づくり、事業連の設立
 中林は生協法で欠落した信用事業を何とかしたいと岡山の生協関係者、兵庫の労組のリーダーたちと労金づくりを進め、さらに各方面に働きかけて労働金庫法を成立させた。産報時代からの労働組合関係者などを含む中林の人脈が生かされた成果であり、1957年に全国労金協会ができると事務局長になった。しかし、中林が労金協会事務局長として活動し、報酬の一部も得ていたことは「日本生協連のトップが2足の草鞋をはいている」と批判もでた。
日協貿が設立された1956年、共同仕入れ機関として関西本部が設置され、全国的な卸売事業への期待が高まった。日本生協連理事会でその議論がされたが「今の日本生協連幹部では事業はできない、事業に失敗して指導連までつぶれてはまずい」と別連合会を設立することになった。中林は「私が信用されなかった」と不満だったが、58年、全国事業生協連が設立された。
 
 生協規制反対、全国消団連結成
 1950年代は地域勤労者生協が各地に設立され、労金から資金を借りてわりに大きな店舗をつくったりしたので小売商に衝撃を与え、小売商業特別措置法という法律で生協を規制しようという論議が国会でも論じられるようになった。一方で物価の問題や独禁法の改正など消費者の権利が話題になる社会情勢があり、日本生協連は主婦連などと協議し1957年全国消費者団体連絡会を結成し中林が代表になった。物価値上げ反対闘争と合わせて生協規制反対の運動が消費者団体と一緒に取り組まれた。
 1959年の2月26日には生協規制をねらう特別措置法を阻止しようと日本生協連は雪の降るなか国会前にテントを張って座りこみをした。学生で大学生協連常任理事であった私も仲間と参加したが「勲一等をもらった元国務大臣の石黒さんという人も来ている」と聞いて驚いた。学生の私は先輩たちのその行動をみて「卒業しても生協を続けようか」とも考えさせられた「私の2・26事件」だったが、戦時中「記者をやめたら大衆運動をやりたい」と考えていたという中林にとっても、この取り組みや同年に消団連として全国的に展開した新聞代値上げ闘争などは学生時代を思い出すものだったと考える。
 
3、成長期の生協の時代
 
 消費者運動、反核平和の取り組み
 中林は1963年に日本生協連の専務から副会長になるが、64年に大学生協の支援で京都の洛北生協が誕生すると札幌市民生協、埼玉の所沢生協などの設立が続き、60年代末から新設生協が全国的に誕生していった。65年に事業連と合併した日本生協連は消費者・組合員の立場で開発したコープ商品の開発、提供でその発展を支え、事業も拡大し会員の支持も強まっていった。日本生協連自身も首都圏に日本を代表する生協をつくろうと「首都圏大生協構想」を打ち立て、東京生協づくりを始めた。その支援のための関連人事で私は日本生協連から早大生協に移り、専務として職員を何人か東京生協に派遣した。しかし、設立後出店した2店舗の経営がうまくいかず、その計画は挫折、見直されることとなった。日本生協連は副会長の中林が中心になって起案し総括を70年の福島総会に「総会結語」として提案した。それは組合員に依拠しない事業、店づくりは間違いだったというものだったが、直後に札幌市民生協の多店舗展開による経営破綻などが問題になり、生協の出店への批判、共同購入こそ本道といった論議を生んだ。しかし、東京生協の失敗の基本は連合会が直接生協組織をつくり、組合員代表の参加しない理事会がすべてを執行したことにあり、店舗か共同購入かといった問題ではなかった。早大生協はじめ大学生協は同時期に再建支援を要請されていた生協や新たな生協設立の動きに、「組合員に依拠」ではなく「組合員が主人公」の原則で支援活動を強化することとなった。
 71年に中林は石黒の後を継いで日本生協連会長になるが、70年代は有害商品とか環境問題等多くの消費者問題が出てくる時期で、誕生・発展する生協が消費者運動の中心になっていく時代だった。消団連に長らく関わってきた中林は国民生活審議会等のメンバーでもあり、日本生協連の中で指導性を発揮するとともに米価など物価問題、灯油裁判など国政に関わる問題について重要な役割を果たした。
 もうひとつ大きかったのは原水爆禁止の運動を中心に平和運動ではたした役割で、ソ連の核実験をめぐり分裂していた原水協が1977年に統一世界大会開催の機運が生まれると、中林は地婦連や青年団協議会等市民団体と協議、統一を促進した。原水禁運動が統一されると全国の生協の運動参加は急速に高まり、署名運動やヒロシマ、ナガサキ行動の中心を担うこととなった。中林自身もSSDⅡにはニューヨークに出かけ、全国からの署名を国連に届け主要なメンバーと会談するなど、最後まで「平和とよりよい生活のために」献身した。中林は1957年のICAストックホルム大会に参加した以降、ICA大会や各種の国際会議に参加、原水爆禁止や冷戦下の協同組合間の協同連帯の強化などを訴え続けた。
 
4.戦後の困難な時代のリーダーとして
 
 中林はよく「統一と団結」ということを強調した。最後までかかわった原水禁運動でもそうだったが、最初の日協同盟の時から中林が言葉にし、努力したのは全国の生協運動の統一と団結だった。日協同盟には戦前の関消連という労働者生協のグループの地下活動に入った闘士から、賀川豊彦のキリスト教のグループ、もうすこし穏やかに運動を進めていたグループ、ここには後に首相となる漁協組合の鈴木善幸などもいた。その後も日教組や炭労が関わる学校生協や炭鉱生協の連合会の日本生協連への統合、地域生協と職域生協、大学生協、医療生協を含む多様性に富む日本生協連の運営と全国生協の統一と団結に貢献した。戦前、協同組合全体としても生協陣営のなかでも統一した連合会活動ができなかったこと、逆に上からの統合のみが進んだことの苦い思いからだったと思われる。その思いからか中林は「国の世話になるな。官僚の世話になるな」が口癖で、政党などとの関係でも生協運動の独立性を強調した。
 中林は苦しい時代に日協同盟を維持し日本生協連を発展させた。新聞記者や産報時代に培った広い人脈と視野を生かし、日本生協連の活動をはじめ全労済や労金など労働者福祉運動の分野でも大きな役割を果した。全国消団連をつくり消費者団体をまとめ、その後の反核平和でも市民団体の協同連帯をまとめていった。賀川会長の平和への思いを発展させ、反核平和の活動で果たした役割は大変大きなもので、賀川さんが強く支持した「平和とよりよい生活のために」のスローガンを体現したリーダーだった。
 中林は石黒と同様に日ソ協会の会長を務めるなど国際活動にも熱心で、協同組合の場ではICA生協委員長としての役割を果たした。平和と国際友好の貢献に対し日本生協連は国連から「ピースメッセンジャー」の称号をもらったが、中林の果たした役割が評価されたものと考えられる。
(注―参考文献―中林貞男の著書「平和とよりよき生活を求めて」1985年日本評論社、「心の語り合いー中林貞男対談集」1984年同時代、ほか)

中林貞男 略歴

1907年 富山県小杉町生まれ

1932年 早稲田大学政経学部卒、報知新聞社社会部勤務

1941年 大日本産業報国会参事、連絡部長兼組織部長

1945年 日本協同組合同盟中央委員 51年 日本生活協同組合連合会専務理事 

 56年 全国全国消費者団体連絡会会長、60年ICA中央委員、

     61年 国民生活審議会委員、以降、経済審議会、米価審議会、物価安定政策会議等の委員歴任

1971年 同連合会会長 85年同名誉会長

    74年 勲2等瑞宝章授与

(労金ほか 1952年東京労金副理事長、中央労福協副会長、57年全国労金協会事務局長)

2002年 逝去94歳
 

<私の思い出―東京学消と石田博英>

   日本生協連は1965年に全国事業連と合併、その事業部がCOOP商品の開発などを手掛けはじめることになった。日本生協連出版部にいた私は事業部に移り雑貨担当となり、COOP洗剤などの開発に夢中になっていた。資生堂とCOOPブランドのシャンプー開発の話を進めたが、単協はCOOPだけでなく資生堂が入らないと売れないからダブルチョップにならないかといった話で苦労していた頃だった。日本生協連はそれまで進めていた首都圏大生協構想のもと東京生協の設立を決め、1968年の暮れにその人事に着手、その関連人事で私に古巣の早大生協に行くよう求めた。

  私はCOOP商品開発の仕事に未練はあったが、人事提案は受け入れた。そのことで専務の中林さんが一席設けるという。酒が飲めない人がどうしたのかと指定の料亭―そんなところは初めてだったーに行くと衆議院議員で、長く労働大臣を務めた石田博英さんが同席されていた。石田さんは早大で中林さんの少し後輩で学生消費組合にかかわっていたことは聞いていたが初対面だった。その石田さんは「君は早大生協の専務になるそうだが、戸塚署には世話になったことはあるのか」と聞く。60年安保の頃、早大の学生仲間には戸塚署に世話になった者もいたが自分はそんな学生ではなかったと返事すると「それで生協の専務は務まるのか」と自民党議員らしからぬことをいう。

 石田さんの話では当時の東京学消早稲田支部は特高警察にマークされており、店舗の専従(石田さんの言葉)はたびたび検挙され戸塚署にこう留された。石田さんは学生だったがリヤカーで横山町の問屋街に仕入れにも行ったそうだが、「戸塚署にはたびたび連れていかれ、そのたびに組合長の賀川豊彦さんにもらい下げてもらった」と話された。中林さんの学生時代から数年たち、東京学消の各支部は弾圧の下で次々に解散させられ赤門(東大)と早稲田が最後の孤塁を守っていた時期だったという。当時の早稲田では雄弁会や新聞部など学生の自主的組織はすべて解散させられており、学消が最後の砦であり、石田さんはその砦を守った一人だった。

 その夜は、恐縮している私を肴にして中林さんは後輩の石田さんと気持ちよさそうに昔の早稲田の話から少し生臭い政治の話などを楽しんでいた。普段の中林さんは反自民だが、石田さんはじめ多くの友人、人脈を自民党にも持っていること、石田さんが賀川豊彦を大変尊敬されている協同組合支持者であることなどを知り、勉強になった。

 翌1969年、早大生協の専務になった私は大学紛争の中で大学のロックアウト、警官導入、革マルと中核の紛争といった激動に見舞われたが、戸塚署には世話になることはなかった。東京生協はじめ地域生協支援は予想以上に困難が続いたが、私の生協人生では楽しい年月であった。(斎藤)

 
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賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー<石黒武重、中林貞男、高村勣>

2020年05月25日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

<この記事は2019年のロバート・オウエン協会での報告を編集したものです。>

 

賀川豊彦につぐ生協の3人のリーダー 

 / 石黒武重、中林貞男、高村勣

 

  

 ① 石黒 武重(第3代日本生協連会長)

 

  <はじめに>

 この報告は日本生協連資料室の土曜講座「生協運動の先駆者に学ぶ」で2017年10月から3回に分けて行った報告を基礎にしたものである。石黒武重、中林貞男、高村勣の3氏はそれぞれ日本生協連の第3代、4代、5代の会長であるが、たまたま私が日本生協連勤務時代をふくめ関係があってその人柄、業績などにつき私なりの評価が可能と考えた人であり、狭義の日本生協連会長としてだけでなく日本の生協運動の優れたリーダーだったと考えられる人である。

 私が日本生協連の職員になった1960年は日本生協連会長が賀川豊彦から田中俊介に交代した年であり、田中は私の知った最初の日本生協連会長であるがその人柄、業績について評価するにたる知識がないため、また日本生協連常務理事として多々お世話になった竹本成徳会長は全国の生協人に尊敬されたリーダーであり評価も高いがご存命の方であり、取り上げなかった。この小論はこのように日本生協連の歴代会長について系統的に論じたものではないが、戦後すぐの混乱期から現在の市民生協群の発展成長の歴史を知るには、その時代の3人のリーダーの姿、果たした役割を知ることは有意義と考えた。

 

 < 石黒 武重 >

  -異色の大物、協同組合を愛し、力を尽くす―

 

 異色の経歴

  石黒武重は1897(明治30)年、石川県金沢市で生まれ、東京帝大卒業後農商務省のエリート官僚の道を歩み、終戦直前には枢密院書記官になり終戦を国家の中枢にいて迎え、終戦直後に国務大臣・法制局長官、衆議院議員、進歩党と民主党の幹事長を経験、官僚時代に当時官選だった山形県知事も務めた。その経歴からGHQから公職追放を受け、政界から身を引いた、といった経歴であるが、農商務省の時代から協同組合へのかかわりを持ち、戦後すぐの衆議院議員の時代に東京の職域生協の連合会の会長になり、その後一貫して生協運動にかかわることとなった。生協運動のリーダーの中では異色の経歴であり、その経歴と人柄から生協関係者からは生涯、親しく「先生」と呼ばれた。

 石黒は父親が陸軍将校だった関係で横須賀の小学校に入学、東京の府立四中、第一高等学校から東京帝大法学部に入学、1921(大正10)年に優秀な成績で卒業した。当時は大正デモクラシーの時代で、ロシア革命、米騒動、労働運動の高揚といったなかで家庭購買組合や神戸消費組合が設立され、日本の生協の本格的な台頭、発展期だった。石黒は「大正デモクラシーの動きの中で、私は中学時代から社会問題への関心は強かった」という。

 有能な官吏として

 東大を出た石黒は“世の中の人のためになることをやりたい”と公僕=官吏(農商務省)の道を選んだ。幼少のころに母や祖母から、お米を一粒でも残したりすると「汗水たらして働いている人たちのことを考えなさい、偉いのは働いている人たち」だと教えられていたためだった。

 石黒は農商務省水産局の水産講習所(後の東京水産大学)の教授兼事務官になり、そこでの業績が認められ海外視察として誕生間もない社会主義国・ソ連に行った。当時の官僚にはない発想で新しいソ連を見て、ヨーロッパ各国とアメリカを回り、国際的な視野を広げた。帰国後、生糸関連の職務に従事し、ニューヨーク生糸調査事務所長として日本の農民の立場でアメリカ政府との交渉に力を尽くした。このころから協同組合に関心を持ち、神戸の生糸検査所の時代に神戸消費組合や農協の組合員になったが、1937(昭和12)年には産業組合課長に就任し、産業組合=農協の管轄となり、ロッチデール組合のことなど協同組合関係の勉強もした。

 1939年、42歳で山形県の知事に任命された。短い期間だったが県民や農民のための施策で高い評価をうけた。その後、商工省の繊維関係の仕事や貿易局の長官にもなったが、その経験はのちの日本協同組合貿易株式会社(日協貿)の仕事に生かされた。1941年、物価局長の時代に日本はハワイに奇襲攻撃をかけ太平洋戦争に突入したが、アメリカをはじめ世界の情勢を知る石黒は、無謀な戦争で勝てる戦争ではないと局員を集めて話をした。1942年、官吏として最高位の農林事務次官となった。

 

 枢密院書記官長、国務大臣などと公職追放

 1945年、石黒は2週間後に終戦となる8月はじめに枢密院の書記官長に就任した。枢密院は内閣がなにかをやろうとする時に天皇の諮問をうけ、天皇のもとに主要メンバーが集まって議論する国の中枢機関だった。8月6日の広島に続き長崎に原爆が落とされた9日、ポツダム宣言の受諾をめぐり最高戦争指導会議が開かれた。会議は3回開かれたが、徹底抗戦の軍部の抵抗で10日の早暁まで結論が出ず、枢密院の平沼騏一郎議長が参加、ポ宣言受諾を主張し、やっと決定をみた。早期停戦の意見だった石黒は枢密院書記官長として平沼議長と一緒にこの会議に立ち会い平沼を補佐した。

 14日の御前会議でポ宣言受諾がきまり、15日の玉音放送のための皇居での録音とそのレコード盤のNHKへの搬送などをめぐり軍の一部の妨害の動きや受諾に賛成した平沼などのメンバーを抗戦派の軍人が狙う動きがあり、石黒は平沼をどう守るか何日間も一緒に身を隠すなど苦労した。

 終戦直後の東久邇宮内閣が10月に幣原内閣に代わると、戦後もっとも緊急な課題の憲法問題調査会(松本委員長)が設置され、石黒はその委員になった。しかし、この憲法問題調査会が検討した「試案」はGHQに問題にされず、GHQは戦争放棄など3原則を示し、それを受けて新憲法が作成されることになった。(「土曜講座」での報告では憲法調査会への参加は「法制局長官として」となっているが間違いで「枢密院書記長として」の参加だった。)

 1946年2月、石黒は幣原内閣の国務大臣・法制局長官に就任した。その閣議にはGHQと協議中の憲法草案がはかられたが、石黒は「僕は象徴天皇制に賛成だ」と発言した。のちに私たちにも「天皇が象徴制になって明治憲法からの憲法の位置づけが変わったことは大変いいことだ」と言っている。4月には戦後初めての総選挙があり、石黒はかって知事をした山形から無所属で立候補し当選した。この選挙で勝った自由党の吉田茂の内閣となったため石黒の国務大臣は短期間でおわり、石黒は結成時から参加していた進歩党の政調会長となり、翌47年2月に幹事長になった。

 戦後すぐに社会党、自由党と並び結成された進歩党には翼賛国会で反東条軍閥演説をした安倍寛(安倍信三の祖父ー岸信介は母方の祖父ー。総選挙準備中に急死)や同様に反戦演説で有名な斎藤隆夫など平和主義者もいたが、多くが戦争協力者として追放を受けたため自由党の一部と合流し、47年3月に民主党となった。石黒は民主党初代幹事長になり、新憲法の下での総選挙の準備に入るが、その最中にGHQから「望ましくない」と言われ政界から身を引くこととなった。GHQの判断は「東条内閣のもとで農林次官だったためであろう」と石黒は述べている。民主党幹事長として最後の仕事は「田中角栄や中曽根康弘を党として公認したこと」だった。

 

2.生協運動のリーダーとして

 戦後混乱期のリーダーとして

 石黒は衆議員議員で進歩党のトップとして多忙だった1946年9月に東京都の職域生協の連合会の会長を引き受けた。戦後すぐに全国で5千を超える数の生協が誕生、東京でも47年末までに地域で370、職域で100もの生協が創られた。連合会も東購連という家庭購買などを引きついだ戦前からの連合会、新設地域生協の東協連、勤労者生協の勤協連、職域生協の東職連、町内会生協の地区連の5つが誕生した。東職連には各省庁に作られた生協が加入、農林省生協が中心的役割を果たしており、石黒が会長に推された。民間企業中心の勤協連は賀川豊彦が会長になった。当時の圧倒的な食糧・物資の不足と経済混乱のなかで生協が物資を獲得するために連合会が5つもあっては市場や行政の協力を得られない。ということで46年12月、5つの連合会の上に全東連(全東京都購買利用組合連合会)という連合会をつくることになり、石黒がその会長になった。勤協連会長の賀川は日本協同組合同盟の会長として多忙であり、賀川も石黒を推した。この時、石黒はまだ政党の要職に在り総選挙の準備にも力を注いでいた。 47年の春、政界から身を引くことになった石黒には実業界からの誘いも種々あり、第一火災海上の会長などを務めるが(のち横浜生糸取引所理事長、郡是産業取締役など)、生協の方は殆んど無償で、地元世田谷の砧生協理事長を引き受けるなど役割を広げていった。

 戦後インフレとデフレ政策の強行といったなかで生協もその連合会も経営の危機が続き、そのなかで労働運動への弾圧や公務員へのレッドパージといった嵐が生協運動にも影響を与えた。経営再建が課題で都の支援をうけていた全東連に対し都から役職員のレッドパージの要求が出た。石黒は「協同組合は思想信条の自由を組合員に対しても役職員にも守っている」とこれをはねつけた。その直後、公職追放中ということで石黒が全東連会長を降りた時には、都内の生協の関係者はそろって石黒の「公職追放を解除しろ」という陳情運動を展開した。

 1951年、既存連合会を合併して新連合会(現東京都生協連)が設立され、石黒は再び生協だけでなく都の方からも要請され会長に就任した。ただ、東京都生協連は1953年に商品取引上の失敗で負債を負い和議団体となり、商品事業はできなくなった。石黒会長は行政に火災共済事業を認めさせ、連合会の活動を維持存続させた。まだ生協での共済事業の経験もないなかで都県連合会が共済事業をするというのははじめてであり、現在のコープ共済事業につながるものだった。

 

日協貿の設立と日ソ貿易

 1954年のICA総会で日本生協連代表の田中俊介副会長は協同組合間の貿易の推進の提案と原水爆禁止のアピールをした。その時にソ連の代表から招請を受け、55年に石黒を団長とする代表団が訪ソした。石黒は東京都生協連会長であり日本生協連顧問だったが、かつての商工省貿易局長の経験やソ連の理解者ということでソ連がわから協同組合間貿易の働きかけがあり、石黒は関係のあった郡是産業の支援をえて貿易実務を始めることにした。当時の日本生協連は「役員の報酬もまともに出せない」状況であり、石黒は日ソ友好といった意義だけでなく「日本生協連の財政に役立てたい」と考えた。1956年日本協同組合貿易株式会社が設立されるが、ソ連貿易の開始の作業は経験者が誰もいない中で石黒が奮闘することとなった。交渉のためモスクワに行った石黒は「日本生協連やグンゼと相談しようにも国際電話をかける電話代もなく、朝食はホテルで食べるものの夜は部屋に持ち帰ったパンとチーズをかじりながら水を飲んで過ごした」と話している。大臣までやった人が、そのようななかで商談を進め、木材の輸入からニシンの輸入と事業は軌道に乗って行った。石黒によると日協貿が稼ぐようになって「6,7年間は日本生協連の役員報酬は日協貿から支払っていた」という。

事業連会長から日本生協連会長へ

 1958年、日本の生協にとって悲願だった卸売連合会=全国事業生協連が設立され石黒は会長に就任した。当時、全国学校生協連、鉱山生協連はそれぞれ卸売事業をしており、それらの事業の事業連への統合と合わせ事業連の日本生協連との合併が進められた。1965年に合併した新しい日本生協連の会長は田中俊介から石黒に交代した。事業をやる連合会ということと学校生協連と鉱山生協連と合併した時期の会長であり「石黒先生以外にない」と期待された。石黒会長のもと日本生協連の事業はコープ商品の開発などで60年代後半から70年代の新しい市民生協の誕生と発展に応えて行った。

 

3.協同組合と平和を愛した“偉い人”

 以下、私の私的な感想を含む石黒評である。私が石黒に最初にお世話になったのは1960年代、石黒の日協貿社長時代であるが、親しくご指導いただいたのは1979年からの3年間の東京都生協連の常勤常務理事時代である。たまたま「東京の生協運動史」の執筆を担当し、都生協連会長の石黒から戦後の東京の生協の歴史を聞き、あわせてご本人の枢密院書記官長や国務大臣としての苦労話なども伺った。

 石黒は大臣としての車は新宿駅で返して「小田急電車に乗り貧しそうな親子に閣議に出たお菓子を分けて話を聞きながら成城学園まで帰った」という。お酒などやらない石黒の唯一の趣味は「追放時代に学んだ」というマージャンであり、私ら若輩ともよくやったが「君らから頂くことがあれば寄付している」と言っていたのが啓明学園という戦災で生まれた浮浪児=戦災孤児の施設への支援だった。石黒はこのように社会的な弱者への熱い思いを持ち、「公僕」として官吏の道を歩み、後半生を生協運動にささげた。石黒は「私の社会観は修正資本主義だ。」「協同組合が発展している国は健全で平和だ。」と言い、生協運動への期待を折に触れ述べている。

 私が編集に関わった「努力を楽しもう-石黒武重先生小伝-」という本のなかで、啓明学園の標語になっている「努力を楽しもう」という石黒の言葉について述べている。石黒は「私は賀川豊彦とは違って理想主義者でもないし、そういう立派な思想を語るというのも好きではない」と語っている。いろんな努力をしながら楽しみながら生きる、一歩一歩理想を実現していくということが一番性にあっているということで、そういう人柄の方だった。勲一等瑞宝章を受けた時も祝賀会ではなく私ども生協関係者とのマージャン会を希望したが、そのように庶民的な人だった。石黒は各分野で大きな仕事をされた能力が高く見識の広い方であるが、気さくで偉ぶることのない人、そういう点では業績だけでなく、人間として本当の意味の“偉い人”でした。

(注、参考文献=「努力を楽しもう―石黒武重先生小伝」1991年日本生協連。ほか)

<私の思い出―石黒先生と佐渡>

 生協の先輩たちは皆な石黒さんのことを“先生”と呼んでおり、私もそうでした。私は生協に就職して1年後に結婚することになり、生意気なことに専務の中林さんに仲人役をお願いし、当時日協貿社長だった先生に来賓としてのご挨拶をお願いした。大変失礼なお願いに応じていただき、息子の就職先の生協が理解できなかった両親を安心させることができた。その先生には「偉い人だ」と感心させられたことが何回もあるが、東京都生協連を経て日本生協連に戻って間もない83年の夏、役員室の厚生旅行で佐渡に行った時も驚かされた。

 先生は会長を中林さんに交代し名誉会長だったが、旅行は先生と勝部専務など10人ほどで、宿は両津港に近い新潟総合生協の保養所だった。その宿に自転車に乗った男性が1ダースのビールを持参、石黒先生に差し上げてほしいという。その人は両津高校の校長で先生は「わが高校設立の時の恩人です」という。勝部さんが当日連絡したらしく「日曜なので何もできなくて」と校長は恐縮していた。聞くと、終戦直後の両津町で町長はこの戦争の痛手から立ち上がるため町立女子高校を造りたいと決意、たまたま町長と先生が親しくしていた方との縁で国務大臣だった先生に依頼があり、先生が町長と面談、文部大臣・安部能成に話をして急きょ認可されたのだという。先生は「敗戦の混乱期に女子高を造ろうとした町長は立派だよ」と一言。佐渡ではご一行を実家の本光寺に案内(写真)、重要文化財の観音菩薩像とともに両親にもあっていただき、私にとっては大変うれしい旅行だった。

 このことでは後日談がある。私は60年安保直後の大学生協連総会で議長を務めたが、その時共同議長を務めたのが東北大生協の学生・浅井康男君だった。そのおりに彼が佐渡の両津高校(女子から共学になった。浅井夫人も同校卒)の出身だと知り、その後、生協で長い付き合いとなった。彼は私が東京都生協連をやめてしばらくして都連の専務(のち会長)になり、先生とはよくマージャンをやる関係だったが、先生が高校の恩人だと知ったのは私より後だった。

 

石黒武重

1897年 金沢市生まれ 

1821年 東京帝国大学法学部卒業、農商務省水産局勤務、水産講習所教授

1925年 ソ連邦および欧米視察 27年以降 蚕糸局、大臣秘書官、ニューヨーク生糸調査事務所長、産業組合課長、経済厚生部長など。

39年 山形県知事

1940年 商工省繊維局長、貿易局長、物価局長、 42年 農林次官

1945年 枢密院書記官長、46年 国務大臣兼法制局長官、衆議院議員、

 47年進歩党幹事長、民主党幹事長(総選挙準備中に公職追放)

1946年 東京職域購買組合連合会会長 48年 全東京都購買利用組合連合会会長

 49年 砧生活協同組合理事長 51年東京都生活協同組合連合会会長 

 56年 日本協同組合貿易㏍社長 58年全国事業生活協同組合連合会会長 

1965年 日本生活協同組合連合会会長 71年同名誉会長 

 67年 勲一等瑞宝章授与 

(他に日ソ協会会長、中央蚕糸協会会長、第一火災海上保険㏍会長など)

1995年 逝去 98歳 

 

 

 

 

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60年前の国会周辺=生協の2・26

2020年05月24日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

写真=59年2月26日、商調法に反対し国会まえに雪の中座り込む生協の代表(「現代日本

生協運動史」から)

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60年前の“60年安保”のことをこのブログに書いたが、もうひとつの60年前の国会周辺の出来事として生協の“2・26行動”のことを書いておきたい。
正確には61年前の1959年2月26日であるが、日本生協連は生協の規制強化をうたう小売商業調整特措置法(商調法)の成立を阻止するため、国会構内の旧参謀本部跡地にテントを張り、早朝から座り込みのデモンストレーションを行った。当時、学生で大学生協東京地連の理事だった私は数人の仲間とこの活動に参加したが、戦前の2・26事件の時のように雪が降り、日本生協連の理事を中心に全国の代表たちは寒さに耐えながら、交代で国会内の各政党、議員に陳情活動を繰り返していた。が、初めて国会構内に入った学生には状況は分からず、先輩たちの話をきいていた。国会では奥むめおさん(参議院議員、日本生協連副会長)が頑張っているとか、元国務大臣の石黒武重さん(東協連会長、日協貿社長)も来ているとか聞いて、私は奥さんや石黒さんが大変偉い人であり、そんな人が頑張っている生協は凄いなと思った。雪の降るなか夕方になると先輩たちは交代で新橋方面に食事に行き、寒いテントで留守番をしながら「若い我々は徹夜だ」と覚悟していたが、夜になると解散、撤退となった。
この雪の中の座り込みは当日の夕刊に写真つきで報道され、世論は生協に同情的となり、その後の国会審議にプラスした。許可なしの構内での座り込みも当局は咎めず、黙認した。これも生協の、その先輩たちの凄いところと感心した。商調法では一定の成果があったが、員外利用規制については生協法を改悪する形で規制が強化されることになった。生協規制の動きは労働組合の支援で各地に設立された地域勤労者生協が発展を見せた1950年代中ごろから始まり、規制反対の取り組みは生協だけでなく、日本生協連が総評や主婦連などと56年に結成した全国消費者団体連絡会(全国消団連)も当初から取り組んでいた。地域勤労者生協は大型セルフ店を出店するなど元気な地方もあり商業者を刺激したが、全体的には事業的には失敗するところが多く、日本生協連はその対策に追われていた。
この2・26行動で「生協は凄いなあ」と思った私は、卒業後も生協に残ることを最終的に決め、翌60年、日本生協連の試験を受けた。その日本生協連は「総会で年度予算が決まらないと最終決定できない」というので私は卒論の提出をやめ留年、大学生協の役員として6月までの任期を務めることにした。日本生協連が職員一人を採用するのに総会での決定が必要という、そんなに貧乏団体だということには「凄いなあ」と思いつつ、前回書いたように6月の総会には傍聴者として参加、予算等の議案の無事可決を喜びながら、総会参加の皆さんと一緒に安保反対の国会請願デモに参加した。
余談①―8月から日本生協連職員となった私の給料は卒論保留で卒業していないため「高卒資格だが、学生時代の生協経験を特別に認め短大卒待遇にする」と優遇?された。私の入所で日本生協連の常勤者が役員を含めはじめて10人を超えた年であり、地域勤労者生協の倒産が続き新しい地域生協の誕生などの動きはまだどこにも見えない60年前だった。
余談②-この間、毎月の19日行動で国会周辺に行くようになってから「あの時のテントを張った場所はどこだろうか?」と元参謀本部跡を探すが分からない。当時は国会の構内と構外に今のような道路と柵で明確な区分がされていなかった記憶である。いずれにせよ現在は勝手にテントを張れそうな場所はどこにも見当たらない。

 

 

 

 

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60年前の5月19日(続)=岸は退陣、安倍は?

2020年05月23日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

 

  60年前の5月19日、500人の警官を国会内に導入しての強行採決で新安保条約は批准されたが、その日をもって焦点は「民主主義を守れ、平和・民主の憲法を守れ」に移り、生協関係でも取り組みが広がった。当時は労働組合との関係が強い地域勤労者生協が多く、安保闘争でも群馬労生協や鶴岡生協などが地域の共闘組織のなかで大きな役割を果たしていた。6月3、4日に開催された日本生協連の総会では大学生協連と東京、群馬、山形、福島の各県生協連から共同で「安保条約改定反対・岸内閣退陣・アイク訪日反対・ゼネスト支持の決議と国会請願」が提案され、4日の総会終了後、総会参加者は国会に向けての請願デモに参加した(写真)。この日は統一行動として総評、中立労連が「6・4ゼネスト」を行い、時限ストなどに460万人が、中小企業、商業、学生や市民の諸団体の100万人が集会等に、計560万人が参加したと発表された(参加数等は日高六郎「1960年5月19日」から)。
これまでの総評傘下労組の安保反対のストなどは賃金や権利等の要求と合わせて取り組まれることが多かったが「6・4ゼネスト」は対政府に向けた政治ストであった。5・19の岸内閣の暴挙はそのストを強く支持するほどに国民の怒りをかっていた。私が学生理事だった早大生協は国鉄労組の始発からの時限ストを激励・支援するため労組員と生協の呼びかけに応えた学生の400人が新宿駅に前夜から結集した。全学連の学生は共闘から排除されていたため、この時は生協の学生を代表して私が連帯の挨拶をしたが、政治的な演説など嫌いで下手な自分が街宣車の上に立った時は「ここまで運動が広がったのだ」と自らを励ました。5・19以降は「声なき声の会」の女性たちなど、これまで政治的な行動に参加していなかった人々の参加が一気に増えていた。
  国民会議の統一行動は第18次第1波(11日250万人参加)、第2波(15日580万人参加)と続き、15日には国会突入をはかった全学連と警官隊の衝突で東大生の樺美知子が死亡した。その直前、請願デモの後尾にいた劇団など文化人グループに日本刀を振りかざす右翼・維新行動隊をのせたトラックが突っ込んだ。その襲撃で80人の負傷者がでたが、大学生協東京地連の学生と生協労組員はその最後尾におり、早大と東大の生協職員3人がケガを負った。デモの責任者だった私はその対応で忙しく、樺美知子死亡のことなどは後で知った。維新行動隊は「警察に頼まれた」と弁明したが、この日の警官隊や右翼の暴挙はさらに国民の怒りをかうこととなり、抗議集会・デモが全国で展開された。
訪日のためのアイクは18日に台湾、19日に沖縄に来たが、東京はあきらめ帰国した。6月19日、新安保条約は参議院で自然成立し、翌20日、岸首相は引退を表明した。それに抗議する22日の統一行動には6・4ストを上回る620万人が参加し、翌7月14日には最後の第21次統一行動が行われ、18日には「所得倍増」を掲げる池田勇人が首相になった。
   60年前の安保条約改定と、2014年7月の「集団的自衛権」に関する憲法違反の解釈変更にはじまる15年9月19日の戦争法(安保法)=安全保障関連2法の強行採択は、国民の反対や疑問が多いにも拘らず欺瞞的、暴力的、反民主的手法で行われたことが共通する。5年前の9月19日、国会を取り囲んだ人々とともに議事堂内の動きを聞きながら60年前の5月19日のことを思い出していた。安倍首相は新安保条約の成立をアイクと握手しながら祝いたかった祖父岸の無念な思いをどのように聞かされ、現在の政治に生かそうとしているのだろうか?と嫌な気がした。
60年前の安保闘争は総評を中心とする労組、過激な行動で批判された全学連と後半からの全学連反主流派学生をはじめ学者・文化人、婦人、市民のさまざまな団体・個人、商業者などに広がり、保守反動のシンボルだった岸の退陣を実現した。ストで国鉄や私鉄の電車がたびたび停まる安保闘争は国民にとって他人事として傍観していられない出来事であった。今は、社会問題や政治にかかわりを持とうとする労働運動や学生運動が消えて久しい日本の現状では、60年前の安保阻止国民会議のような強力な行動力をもつ共闘組織と闘い方は望めないし、この間の「戦争させない・9条壊すな!総がかり実行委員会」を中心とする取り組みは“60年安保闘争“とは様変わりしている。
   しかし、戦争反対・平和と民主主義・憲法守れの国民の意思は60年前と変わらないし、個人の人権意識、社会的な市民意識は60年前にないものになっていると思う。集団的自衛権や秘密保護法などを契機に結成あるいは活発化した組織を束ねて2015年から総がかり実行委員会が活動を始めたが、それは既存の政党や全国団体などではなく個人が呼びかけ、賛同者が運営に参加するものであり、60年前の国民会議とは異質のものであった。集団的自衛権を契機に仲間と一緒に“生協だれでも9条ネットワーク”を立ち上げ、総がかり実行委員会の毎月19日の行動を中心に活動に参加しているが、60年安保闘争の経験者としては、その行動や規模に心細さを感じているのは事実である。しかし、国民の個人としての権利意識がエゴではなく、政治的主権者意識として高まりつつあること、それは集団としての行動としては見えにくくとも政治を変える大きな力であると考えられる。かっては「今日は200万人がストや各種の集会、デモなどに参加した」との発表に、今は「抗議のツイッターが600万を超えた」にもろ手を挙げている。政治的意思表示はデモや集会だけでなく、SNSなどを活用してどんどん広がる状況になっている。
もう一つ60年前と違うのは「市民と野党の連帯」に支えられ、野党共闘が国政選挙から議会活動で広がっていることである。60年前は岸は倒したが自民党政治は変えられなかった。今はまだ野党の力は弱いがその連帯は強まっており、そこに新しい政治を期待し、新型コロナで支持率を落とし、検察庁法で大失態をしている安倍に退陣を迫っていきたいと思う。
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60年前の5・19-岸首相と安保闘争

2020年05月19日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

  昨日の18日の朝日新聞の「天声人語」に60年前の5月19日の深夜のことが「日米安保条約改定法案をめぐり、警官数百人が議場を固める中、岸信介首相率いる自民が採決を強行する。」と書かれていた。安倍首相の祖父である岸は階層年齢にかかわりなく多くの国民に広がった安保反対の声ではなく「声なき声に耳を傾けたい」と述べ、それに反発、さらに高まった非難の声に退陣させられた。「天声人語」は岸を「堂々たる愚直さ」を持っていたとし、安倍は「ウイルス禍のさなか、検察庁を手なずけるかのような法案を通そうとする姑息さ」を持つと書いている。岸はA級戦犯容疑者であり、憲法改正を政治信条としたナショナリストであるが、人柄はまだ安倍よりましだと言っていると理解した。岸が自分は安保反対の声を聞こうとせず「声なき声」に支持されていると言ったと同様に、安倍も検察庁法改正に反対するツイッターなどの声に耳をふさごうとしたが、時期が悪いと採択を延期した。しかし、断念はしないと明言している。60年前には安保条約改定は許したが、さらに憲法改正を狙う岸を退陣させた。が、祖父の夢=憲法改正を狙っている安倍は退陣させられないのであろうか。

 たまたま新型コロナ騒ぎのなか古い写真や資料の整理を続けており、60年前に学生として参加した60年安保闘争のことは記憶にあるので、「現在」を考えるために少し振り返ってみたいと思った。

 日米安保条約の改定交渉が1958年秋に始まり、翌59年、国民会議は10次にわたる統一行動に取り組んだが、それは総評参加の労組の春闘などに合わせたものだった。しかし、学者・文化人あるいは婦人や市民の参加は回ごとに増えていき、地方の共闘組織と統一行動も広がった。勤評、警職法に学生自治会とともに取り組んでいた各大学生協は安保闘争においても全学連とともに国民会議の統一行動に参加しており、大学生協連の常務理事だった私も統一行動にはほぼ毎回参加した。

11月27日の第8次統一行動の国会請願デモで、先頭部隊の学生とそれに続く労働者が警官のバリケードの隙間を破り構内に入った。予想外の事態にデモの指揮者は構内からの撤退を呼びかけ、私をふくめ生協関係者や労組員はまもなく撤退したが、全学連指導部は構内での抗議行動をやめようしなかった。翌60年1月、全学連は独自に岸訪米阻止の羽田闘争を決行、警官隊との衝突を繰り返した。社会党・総評の国民会議と全学連の関係は悪化し、共産党も全学連批判を強めた。以降、大学生協連は国民会議の統一行動を発展させる立場を確認、文化人・市民団体と行動を共にすることとにした。

 60年1月19日、日米政府は新安保条約を調印、国会ではそれを批准する審議が始まった。4月の春闘時には数次の統一行動が組まれ、時限ストを含め安保反対の行動には150万人が参加(15日)、国会請願デモは8万人(26日)の規模となった。5月の統一行動には商業者の商店ストも加わるなどさらに幅広い運動となった。そのような状況の中で5月19日、自民党は新安保の強行採決を狙い、警官4000人の派出を要請、院内に500人の警官を入れ、抵抗して座り込む社会党議員などを排除し、深夜(20日0時過ぎ)に強行採決、新条約を承認した。

 のちに「1960年5月19日」(岩波新書)を書いた日高六郎は、この5月19日という日は太平洋戦争開戦の12月8日と並んで「国民にとって永久に忘れることのできない日であろう」、それは真珠湾攻撃の奇襲と同じ、岸首相による「国民と民主主義にたいする政治的奇襲攻撃」の日だったと述べている。岸はアメリカのアイゼンハワー大統領を国賓として招いており、その訪日予定日が6月19日であり、衆議院で採択されれば1ヶ月後の6月19日には参議院で新安保条約は自然成立するからであった。

 この日の国会で警官が座り込む野党議員をごぼう抜きする映像を見て、国民は日高同様に「国民と民主主義に対する攻撃」と受け止めた。警察官の出動要請のまえに国会周辺警備のために自衛隊の出動を要請したが、これは自衛隊の方から「国民の信頼を失いたくない」と断られたという事実も知らされ、国民の思いは安保の是非から民主主義を守れに移り、その怒りはさらに広がった。国会請願デモは10万人(20日)から17万5000人(26日)となり、終日、国会周辺や銀座などでデモ行進が続いた。

 このような緊迫した状況の中で6月3,4日、日本生協連総会が市ヶ谷の自治労会館で開催され、その総会には大学生協連などの代議員から出された国会請願に行こうとの動議が可決され、多くの総会参加者が国会に向かってのデモ行進に参加した。そして6・19を迎えるが、その経過と私の認識は次回に述べたい。(写真は「大学生協の歩み」大学生協連創立25周年記念誌から)

 

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