76年前の8月15日、私は国民学校3年生だった。熱い夏のその日、ラジオのある我が家には近所の大人たちも集まり、「天皇陛下のお言葉」を固い顔をして聞いていた。聞こえてきた言葉は一言も理解できなかったが、母親が日本はアメリカに負け、戦争が終わったらしいと教えてくれた。不機嫌な大人たちから逃れるように子供たちは「泳ぎにいこう」と5人ほどで海に向かった。
家からから海辺までは、坂道を転がるように走って行くと20分くらいで着いた。防風林の松の木の根元にシャツとズボンを脱ぎ捨てると熱い白砂を踏んで海に駆け込む。しばらく経って松の木の下に集まる。皆な「戦争に負けた」ということが気になり、神妙な顔つきだった。1年生が「戦争に負けたらどうなるの」と聞く。5年生が「アメリカが飛行機や軍艦で押し寄せてくるんだろう」という。アメリカ人は鬼のように大きく赤い顔をしていると教えられていたので、みんな怖そうな顔になった。「それでどうなるの」という問いには誰も答えられない。「どこから来るの」という問いに、私が「あの沖からだろう」と入道雲の浮かぶ沖を指さした。私はこの真野湾が北海道からニシンなどを運んできて、味噌や酒などを関西方面に運んでいく海路だということを聞いていた(「北前船」のことはまだ教えられていなかったが)。アメリカは太平洋の先にあると聞いていたが、アメリカが来そうな別の港は知らなかったので、この真野湾の沖に大きな軍艦が並んでこちらに向かう姿を思い浮かべ怖くなった。
しかし、アメリカの軍艦は佐渡の真野湾にはやってこなかった。空襲があるというので防空壕をつくり、避難や消火の訓練もしたが、佐渡には空襲もなかった。勤労奉仕で神社などの掃除をしたり、天皇陛下万歳と叫び、日の丸の旗を振る行事には沢山参加した、軍国少年の卵だった私の戦争は終わった。