西武新宿線の西武園駅から八国山緑地公園に上る傾斜地にはしゃれた住宅が並んでいる。この絵はその一画。
散策には八国山の森があり、子どもには西武遊園地があり、暇があれば西武球場が、金があれば西武園ゴルフが目のまえに見える近さである。小平からも近いが、球場もゴルフ場も1度行っただけで、何度も訪ねているのはスケッチのための多摩湖周辺である。秋の狭山丘陵も素敵なので紅葉のころまた行きたい。
西武新宿線の西武園駅から八国山緑地公園に上る傾斜地にはしゃれた住宅が並んでいる。この絵はその一画。
散策には八国山の森があり、子どもには西武遊園地があり、暇があれば西武球場が、金があれば西武園ゴルフが目のまえに見える近さである。小平からも近いが、球場もゴルフ場も1度行っただけで、何度も訪ねているのはスケッチのための多摩湖周辺である。秋の狭山丘陵も素敵なので紅葉のころまた行きたい。
昭和記念公園でのスケッチの2枚目は”こもれびの里”の先、砂川口の近くにある”こもれびの池”で描いた。黄色と白の曼殊沙華が咲き、柳の揺れる風情に秋を感じた。スケッチの仕上げは帰宅してからと腰を上げ、砂川口の休憩所でコーヒーを飲みながらが学生時代にテレビで見た砂川闘争の映像を思い出していた。それはこの穏やかな風景から想像できない荒らしいものだった。
昭和記念公園はJR西立川駅からの西立川口から西武線の武蔵砂川駅にちかいこの砂川口まで直線で約2キロ、公園の広さは180ヘクタールだがそれが米軍立川飛行場であったころはさらに一回り広かった。しかし、それでは狭いと米軍から拡張要求が出され、そのため周辺の農地への立ち入り測量が始まり、反対する農民と支援する労組員、学生との”砂川闘争”となった。1956年、早大に入学し東伏見寮に入寮した時期がその闘争のさなかであり、西武新宿線にあり砂川に近かった東伏見寮はその闘争の拠点の一つだった。幸か不幸かその寮の先輩から様子は教えられたがアルバイトに忙しく授業にも出られない貧乏学生であったため、現地の闘争に参加することはなかった。が、”政治”と”運動”を考えさせられ最初だった。その闘争は数千人の農民と支援者対警官隊の流血者を出す衝突となり、政府は強制測量を中止した。翌57年、基地内に農地を持つ農民が基地内に入ったということで逮捕、起訴され裁判となり、東京地裁はそれに憲法違反の判断を示した(「砂川事件」)。それは最高裁で覆らせられたが、立川基地拡張阻止の成果は反戦平和の闘争として大きな意味を持ち、学生運動としてもその後の安保闘争につながる「原点」と言われた。58年、生協にかかわるようになり、「生協労組もお握りをたくさん作り闘争支援に行った」と聞かされた。(立川飛行場は米軍から返還後、1969年飛行場としての使用をやめ83年国立公園になった。)
空や赤い曼殊沙華は写真とは違うが、「全部違う」と言わないで。
こもれびの池
こもれびの里には赤い曼殊沙華があったが、池のまわりは黄色と白だった。