かしょうの絵と雑記

ときどき描いている水彩スケッチや素人仲間の「絵の会」で描いている油絵などを中心に雑記を載せます。

佐渡・流人の歴史①佐渡の概要と歴史

2019年04月18日 | 雑記ー自分のこと、世の中のこと

       

    < 三水会で報告した小論です >

 

佐渡・流人の歴史

―順徳上皇・日蓮・世阿弥―

 

 

                (かしょうのスケッチです)

 

       三水会報告      斎藤嘉璋

        2019320日 神田・学士会館

 

 

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佐渡・流人の歴史 ―①佐渡の概要と歴史

 

<はじめに>

  佐渡の真野町生まれの私は戦時中の国民学校のころ順徳上皇が祀られている真野宮やその奥にある真野御陵に行き、拝礼と掃除の奉仕をしました。終戦後、寺の住職になった父と金井町泉の本光寺に移りましたが、その寺は佐渡に流された日蓮の直弟子が開祖の日蓮宗の寺で、本尊としている観世音菩薩像は順徳上皇が京から持ってきたといわれる仏像でした。その寺のすぐ前に順徳上皇が25歳から46歳で亡くなるまでいたと言われている黒木御所蹟があり、5、6分ほど歩くと世阿弥が70歳で流されてきて8年間いたといわれる正法寺がありました。

  という縁があり、佐渡・流人の歴史を3人のことを中心に調べ、まとめてみたいと思いました。その縁のため、それぞれの方の歴史に個人的思いがなくはないのですが、そのためにこの報告が偏ったものにならないよう心掛けました。幼い時から聞たり見たりしたことが間違っていることもあるので、資料なども調べ直してみました。知らなかったことが多く、勉強になりました。

  古代から中世までの佐渡・流人の歴史は当然、当時の日本の歴史を反映しており、改めて日本の歴史の勉強になりました。また、順徳上皇、日蓮、世阿弥はたまたま政治、宗教、文化の分野を象徴する存在であり、その3分野の出来事を一緒に学べたのが有意義でした。

三水会でこのような報告の機会をあたえられたことに感謝いたします。

 

 

佐渡の概要

①   佐渡の概要

2004年に佐渡島全部の1市7町2村が合併、佐渡市になった。面積855平方キロ・東京23区

の1.5倍。周囲約260キロ。人口5万⒍000人、1950年代の半分以下(江戸期、金山のあった合川町だけで5万人)。

*地形と気候―大佐渡、国仲平野、小佐渡。最高峰・金北山1172m。(地図参照)

*新潟港~両津港 約50㎞(高速艇で1時間、カーフェリーで2時間30分)

 (古代・中世の流人の経路=越後・渡戸(寺泊)~佐渡・松ヶ崎約40km)

                         

     真野湾に面した国仲平野。順徳上皇、日蓮、世阿弥の配所など

 

佐渡の古い歴史

佐渡が島には1万年前から人が住んでいたと考えられているが、紀元前5000年ころの縄文遺跡や前2500年ころの貝塚遺跡があり、弥生時代の玉作り遺跡、古墳時代の古墳群の存在など、その歴史は古い。

古い歴史書には古事記の国造り神話に登場、544年に「佐渡島に粛慎人(大陸のツングース族)が来た」(日本書紀)とか、752年には渤海国の使節が佐渡に来た(続日本紀)と書かれた。

764年(天平宝字8年)は佐渡国分寺が建立された。律令国家としての一大事業であり、天平文化の象徴。その国分寺建立の前から佐渡への「遠流」は始まっており、大和政権は早くから佐渡に関する認識を持っていたと思われる。

その後「今昔物語」(12世紀半ば)や「宇治拾遺集」(13世紀前半)には佐渡で金が取れた話などが記載されている。

 

 

 

 

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