(承前)
(注)
(注1)頭全体に大きなお面をすっぽりかぶった劇について、我々は真剣に取り扱ってこなかった。仮面一般のこととしてはこれまでにもいくつか論じられている。
和辻2007.に、「[伎楽面の]顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面に自然のままの人に顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。」(263頁)とある。筆者は、今日、ゆるキャラと呼ばれる被り物をしたご当地キャラクターに、和辻氏のペルソナ論とは別の意味合いを見る。ゆるキャラはイリュージョンであって、生身の人間と比較する対象に当たらない。観光の思い出に一緒に写真を撮れば、我々がどんなにいい笑顔をしても、おちゃめなピースサインを出しても、ゆるキャラが主役のスナップ写真でありつづける。我々は、まるで、行道の菩薩面を被った人を介添えする舎人の立場に立たされているようである。つまり、人は、伎楽面や能面、行道面、その他の被り物に、顔面の延長とは言えないものを感じている。化粧やプリクラの自動補正機能は、人間の顔面の延長である。したがって、オフ会やお見合いで、ふだんの顔やすっぴんの顔を見た時、落差を感じて当惑させられることがある。けれども、伎楽面などを被ることは、仮面が仮面であると予め納得の上のことである。儀式や演劇の舞台において、他界を含めた世界秩序が確認されているわけで、終わったからといって混乱することはない。化粧とコスプレは意味するところの次元が違うという見解は正しいのであろう。
木村2000.に、「牧畜民であろうが、農耕民であろうが、超越的存在を意識する。しかし、その超越的存在に近づくに際して、農耕民は仮面を用いる。仮面は……中間的な存在であるから、ある意味では類概念だといえよう。つまり農耕民は仮面という類概念を媒介するのに対して、牧畜民はそういう中間項なしに、いきなり超越的存在に向かう。……農耕民にせよ、牧畜民にせよ、あるいは狩猟民にせよ、人間の集団が他界観をもつ、つまり死生観をもつことは、ある意味でかなり人類のユニヴァーサルな文化と考えていいが、その場合に、ユニヴァースな因子の一環として必ず出てくるのは、そういう超越的存在とどうやって行き来するかという問題である。その際に、農耕民は仮面を用い、遊牧民は現実の家畜を用いるわけである。したがって、私のいう類概念というのは、一種の媒介項であって、ある意味で役ないし役割の概念と考えられる。」(30頁)とある。美術評論の域を突き出た鋭い見解である。
民族学の立場からは、吉田2009.に、次のようにある。
地域や民族、さらには時代を問わず、世界の仮面に共通する特徴としてまずあげられるのが、ほかでもない、それが、人びとにとっての「外」の世界、言い換えれば人間の知識や力の及ばない世界、つまり「異界」の存在を目に見える形に仕立て上げたものだという点なのである。……アフリカやメラネシアにおける葬儀や成人儀礼に登場する死者の霊や精霊、動物を表す仮面だけではない。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルや越年際に登場する異形の仮面や魔女の仮面に至るまで、また、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみの仮面から、現代の月光仮面や仮面ライダー、ウルトラマンに至るまで、仮面は常に、世界の変わり目や時間の変わり目において、「異界」から一時的にやって来て、人とまじわって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。そこにあるのは、「異界」を、「村」と区別される「森」に設定するか、「町」と区別される「山」に設定するか、「地球」と区別される「月」に設定するか、あるいは「銀河系」と区別される「別の星雲」に設定するかの違いだけである。確かに、入手できる知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬ領域=「異界」は、村や町をとりまく森や山から、月へ、そして宇宙の果てへと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての「異界」の力に対する人々の憧憬、「異界」からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。(131~132頁)
お練り供養で菩薩面を被って練り歩くとは、「浄土(あの世)」から「娑婆(この世)」へ来て再び「浄土」へ還る、異界からの来訪者を演じることである。異界に近しい適役は、生産年齢から外れたお年寄りか幼子である。附随する形で、各地で稚児行列も行われる。神に近しい存在と認められる。お練り供養の場合も、あの世という異界に近しい存在だから、年長者に委ねられて然るべきである。木村氏の指摘するように、仮面が超越的存在の類概念であること、吉田氏の指摘するように、異界の力を形にしたものであると捉えると、菩薩面を被ることとは、仏教的な世界観のなかで超人的存在を演じること、それはまさしく菩薩になるということである。
和辻氏の議論を引く坂部2009.に、「〈ペルソナ〉としての〈わたし〉は、〈わたし〉─〈他者〉、〈主語〉─〈述語〉の分離的統一という構造、〈他者〉という述語による限定ないし刻印という、〈仮面〉の構造を、その根本において、もっている。このことは、精神分裂症を典型とするいわゆる人格の解体という現象において、いわば裏側から照し出すという形で、一層あきらかにたしかめられることになるだろう。」(91頁)とあるが、仮面という語の譬えられ方を考慮したうえで、慎重に検討されなければなるまい。コミュニケーション事典に、「現代人は様々な日常生活の状況に応じて〈仮面=人格〉を使い分けるという比喩的な意味で〈仮面〉ということばがよく用いられる.この〈人格〉の語源ペルソナも,エトルリア地方の死者にかぶせるマスクの呼名に由来するといわれる.しかし,具体的なものとして,儀礼や祭りに用いられる仮面の特徴は,日常生活とは異質な状況の中に〈出現〉してくる点にある.」(140頁、この項、渡辺公三)とある。譬えとしての「仮面」という用語を宛がう際、語が独り歩きしないように見極めなければならない。
幸いなことに、社会学においては、アーヴィング・ゴッフマンが役割と自己像とについて興味深い検討を加えている。そこでは、「自己」という概念の上位概念に「個人」という語を当てている。ゴッフマン1985.に、「個人は、それぞれ一つ以上のシステムまたはパターンに関与させられており、したがって、一つ以上の役割を演じているというのが、役割分析の基本的仮定になっている。それぞれ個人は、いくつかの自己を持つことになり、それらの自己がどのように関係しあっているかという興味ある問題が生じてくる。役割についての伝統的なパースペクティブによれば、人間のモデルは、意味的な関連を互いに持たない、いくつかの役割からなる持ち株会社 holding company のようなものである。そして、われわれの新しいパースペクティブにおける関心事は、個人がこの持ち株会社をどのように経営していくかということを見い出すことである。」(91頁)とある。お練り供養において、菩薩の面を被って行道することは、菩薩という役割を担うこと、すなわち、その人が菩薩という会社を買収して子会社化することである。さて、この菩薩株式会社は、経営実態のない、それこそ仮面カンパニーである。富を産まない。役に立たない役である。そんな会社を傘下に置いて何が面白いのかと考えるのは、おそらく青二才の着想である。すなわち、逆に、生産性が高くてROEの高い会社、すばらしい役割を担っていると思っていた自己たちは、実のところ、あの世へは持って行かれないことに気づかされる。何を齷齪しているのか、不思議な悟りに導かれる。そのとき、いわば、人生の修練が起こる。人生というものを練り上げる。そのネリにもってこいの役割が、菩薩株式会社のCEOを兼務して橋を練り歩くことなのであろう。練れた人になるには、むろん、他の役割(自己)をきちんと果たしていなければならないし、一緒に歩く「舎人(とねり)」を買って出てもらえるだけの人望も必要である。
人間が仮面(マスク)をつけて演じることの意味は逆説的である。仮面は、素顔との関係で短絡的に想定されるほど簡単なものではない。むしろ、逆に、お祭りで仮面をつけて演ずることによって、自己(セルフ)とは、実は世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだという真実を、身をもって実感することができる。自己というものを相対化するテクニックの一つになり得るのである。日常の陥穽に重く埋没してのっぴきらならないと感じて心理的に落ち込んでしまわずに、多様に生まれ変わることは可能でありながら、“今”を選んで生きているのだと再確認できる絶好のチャンスである。すると、お練り供養でお面を被って練り歩くこととは、この世とあの世という宗教的な意味合いばかりか、自己と他者という社会的な意味合いをもっても、その境界を溶解させてしまう契機と位置付けられる。お練り供養に参加すれば、極楽往生が約束される、という平板な議論はもはや正解とは言えない。すでに極楽往生できてしまったと錯覚される点、何のことはないのだと思えてしまう点が重要なのではないか。張子の虎のような菩薩の種明かしが悟られるのである。自己=菩薩である。そして、そのお祭りの行われるれんぞ、お練り供養の日が、耕作のために水田にべったりとへばりつけられ始める前日であることの意味は深い。セルフをセルフケアし、予防注射の効果を継続させてセルフをセルフコントロールするには、一年のうちで最もかなった日である。れんぞに行かなければ、地道にしんどい田仕事に耐えられなくなり、収穫までこぎつけることができなくてトラレヌゾどころか、発狂してトラのように叫びお隣さんへ襲いかかるような転落人生が待っているのであった。お隣さんとしても困るので、レンゾには皆して当麻寺へ詣でようと誘いあったことであろう。
(注2)美術史的解説としては、大西2007.、金2015.参照。製作者の意図が必ずしも観覧者の受け取り方に一致しないことはよくあることであろう。本稿は、当麻曼荼羅とお練り供養がともに当麻寺に由縁としている謎について検討を加えるものである。
(注3)その昔、人々が綴織当麻曼荼羅を拝観したとき、それは図像としてとても大きなスクリーンに包まれるような思いがしたのではないか。阿弥陀浄土の世界のなかに入った感覚を懐いたかと感じられる。絵本について解説する志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)、「絵本の世界像は、「地」に属する「図」をもつ「地」表現、つまりストーリーには直接絡まず「地」世界に属する活気ある事象をもつ「地」表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が「地」に属する「図」の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者自身の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明されている。
この議論はそのまま、綴織当麻曼荼羅にも当てはまることであろう。綴織当麻曼荼羅は、絵本の特定の見開き1ページである。「こんな世界」とは阿弥陀浄土である。大きすぎるほど大きくて、そのにぎやかなパーティのなかに入りこんでしまう。お練り供養を伴えば、パーティ感はさらに高まる。きれいごとで言えば、聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽のまんまである。俗にいえば、舎人にエスコートされて、かしずかれてお酒を注いでもらっているほどにおもてなし感を味わえる。あの世の顕在化が起こっている。それに対して、当麻曼荼羅縁起のようなスクロールしてみる絵巻物は、絵本の見開き1ページのようなダイレクトさ、明解さがない。浄土が観想できるのであれば、後講釈のストーリーなど必要ないと思われる。綴織当麻曼荼羅の周囲に配されるコママンガ部も、人々が見たとして思うのは、それで、結局のところ、阿弥陀浄土とはどんなところなの? という問いに尽きるであろう。それが中心に大画面を成して織り成されている。視線が絵すごろくを進んで行って、あがりのところが中央の浄土パノラマである。
この世からあの世への引っ越し、橋渡りを確かならしめて描く山越阿弥陀仏図や二十五菩薩来迎図は、布教をねらうための方便として作られた講釈がましい図像である。なぜなら、その図のなかに、観る者は立ち入ることができないからである。引っ越しのキャンペーンは、引っ越しをする人、臨終間際の人や病気がちの人には効いても、どんなに死亡率が高い時代であったとしても、その予定がない人には他人事であったろう。その点、綴織当麻曼荼羅は、お練り供養という行事とも重ねあわせて見るとすれば、あの世とは「こんな世界」で、いつ行っても構わないパラダイスだと思うことができる。譬えるなら、住む家はそのままに旅行(travel)に行く感覚である。今日、旅行を誘う観光地のポスターが、ただ美しくて魅力的に写されているのに似ている。ストーリーを含む図と含まない図とは異質である。志村氏の指摘する「図」(figure)と「地」(ground)の用語に従って誤解を恐れずに言うなら、当麻曼荼羅縁起や各種来迎図には「図」と「地」があるが、綴織当麻曼荼羅やそれを縮小コピーした当麻曼荼羅図は、近づいて見て周囲のコママンガ部が視界から外れれば、「地」しかない。実際に当麻曼荼羅図を見ると、コママンガ部は地味で縁模様のように背景へと消えていく。藤田美術館蔵当麻曼荼羅(鎌倉時代、13~14世紀)を見ると、「根本曼荼羅(394.8×396.9cm)の4分の1より少し小さい縮尺本であるが、原本の図様をよく伝える。金泥塗に裁金(きりかね)を重ねる諸尊がきらびやかである。」(サントリー美術館「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(2015年)解説ボード)とおりである。真正面から見るより、下の方から見上げ拝むほうが、光線の具合で照り輝いてわかりやすくなっている。殿上に三尊のほか、三十三の菩薩が体をくねらせている。お顔とはだけた上半身は黄金色である。こんなに座れるかと思えるほどラッシュアワー並みの混雑である。長い髪を首の脇から後ろへ垂らし、宝冠を被っている。遠近法などはないから、殿上の菩薩ばかりクローズアップされて目に入ってくる。これぞ極楽浄土、スーパービュー極楽浄土である。
人によって受け取り方は違い、好き嫌いの問題もあろう。あるいは、図像における源信派と証空派にわかれるものと言えるかもしれない。そして、当麻のれんぞ、当麻のお練り供養に参加する人たちにとっては、練り歩くこと自体がストーリーであって、それが「図」に当たり、自らが主役である。説明調の来迎図など見せられるよりも、極楽往生が叶うと信じることができたに違いあるまい。図様の作り手と見る側とが互いに交渉し合って、豊かな世界像が成立していると言える。
(注4)厩牧令の義解に、「謂。脳者、馬脳也。胆者、牛胆也。」と注されている。馬の胆嚢を取ることはないが、牛の脳を取ることは十分に考えられる。永瀬1992.に、鹿皮の脳漿鞣し技術が詳しく紹介されている。牛脳を用いるとし、さらには脊髄のほうが不純物が少なくて上等であったともしている(118頁)。
(注5)応神紀に「麋鹿」(応神紀十三年三月)とある。ほかに、「是の野に麋鹿甚だ多し。気(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩りたまへ。」(景行紀四十七年是歳)とある。和名抄に、「麋 四声字苑に云はく、麋〈音は眉、漢語抄に於保之可(おほしか)と云ふ〉は、鹿に似て大きく、毛斑ならず、冬至を以て角を解く者也といふ。」、新撰字鏡に、「麞 諸羊反、平、久自加(くじか)、又於保自加(おほじか)」とある。このオホジカが現在の何に同定されるか筆者は知らない。箋注倭名抄は、漢籍に当たっているばかりである。和名抄の、毛に斑点がないという記述はわからなくさせるとともにわかるようにもさせている。列島には現在、大きな鹿としては、北海道にエゾシカがいる。ホンシュウジカよりも体が大きいから、第一候補として挙げられる。体の大きさは、ベルクマンの法則により北へ行って寒くなるほど大きくなる。ただ、エゾシカも夏毛には鹿の子模様がある。とはいえ、アイヌの人たち、古墳時代や飛鳥時代の蝦夷(えみし)は、エゾシカの毛皮を使う際、目的は防寒用である。すると、毛の量の豊富な冬毛を好んだであろう。それをヤマトへの貢物にもしていたとすると、ヤマトの人は、エゾシカには斑紋はないと錯覚させるに十分であったろう。そして、和名抄に、冬至に角を解くとあるのは、春に自然と脱落することではなく、ヤマトでの“常識”、五月五日に袋角を薬猟して、同時に鹿の子模様の毛皮を鞣して手に入れる方法をとらず、蝦夷が冬場に肉や毛皮を目当てに狩ることを指しているものである可能性がある。角は別に骨角器として利用されたのではないか。特殊品としてトロフィーを製作し、それがヤマトにもたらされたということかもしれない。
織田東禹「コロポックルの村」(部分)(水彩・額装、明治40年(1907)、東博展示品)
第二候補に、トナカイが挙げられる。トナカイは斑点が明らかではなく、しかも、オスの場合には角が冬に入ると落ちてしまう。クリスマスに角を生やしてサンタクロースを導いているのはメスである。シカの仲間でメスに角が生える珍しい例である。シベリアからサハリン北部、カムチャッカ半島に生息しており、アイヌの人たちは毛皮を活用してトナカイと呼んでいるから、それがヤマトへもたらされていたことがあった可能性がある。
村上貞助筆・北夷分界余話、文化7年(1810)、国立公文書館展示品)
第三候補として、大陸のシカがもたらされた可能性もある。もともと、ニホンジカは、大陸から列島へ人為的に連れて来られたという説がある。大陸のシカが、本邦にふつうに見られるシカよりも大きいのかどうか、これまた不勉強でわからない。また、シフゾウかもしれない。
シフゾウ(Tim Felce (Airwolfhound) “Pere David Deer” at Woburn Deer Park, Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/P%C3%A8re_David%27s_deer)
いま、人の頭が「麋鹿」の頭部で作ったマスク(トロフィーのようにしたもの)に入るかどうか、被れるかどうかを問題にしている。応神紀に記される日向の諸県君牛が被ったそれは、記述に「唯以二著レ角鹿皮一、為二衣服一耳。」と明記されているから、木製や乾漆製の動物仮面ではなく、実際のシカの頭部付きの毛皮であったに違いない。正倉院などにその類のものは何ら見られないが、皮革製品はとても残りにくい。しかるに、諸県君牛は日向からの再訪途中で播磨まで来た時、淡路島で狩りをしていた天皇に見つけられている。宮崎県のほうにエゾシカやトナカイはいない。キュウシュウジカはホンシュウジカよりも少し小さい。古墳時代から飛鳥時代にどうであったかについては動物考古学の問題となる。筆者は、彼がそれ以前に宮仕えしていた時の賜物として、エゾシカかトナカイかシフゾウの全身毛皮かトロフィーを頂戴していたのであろうと推測する。大事な賜物だから、髪長媛を献上するに際しても被ってきたという話ではないか。ホンシュウジカ、キュウシュウジカのなかでも大きなシカのことを「麋鹿」と呼んでいる可能性がないわけではないが、景行紀の記事も、駿河でその地の賊が日本武尊を欺くために語られた事柄である。「気は朝霧の如く、足は茂林の如し。」などという形容が使われている。形容が過剰である。雄略前紀の、「鹿」狩りに連れ出して暗殺する際の誘い文句にも、「其の戴(ささ)げたる角、枯樹(かれき)の末(えだ)に類(に)たり。其の聚(つど)へたる脚、弱木株(しもとはら)の如し。呼吸(いぶ)く気息(いき)、朝霧に似れり。」とある。生きている姿を見たことがない大きなシカを「麋鹿」という言葉で表わしていると知られよう。以上から、「麋鹿」はエゾシカ、トナカイ、シフゾウなどである蓋然性が高いといえる。そして、「麋鹿」の頭部だけの剥製を目にしたヤマトの人は、慣れ親しんでいるホンシュウジカに当てはめて考えたとき、不自然に頭の大きなもの、すなわち、ネコ型にして大きな頭を持つ、トラについて伝え聞くことによく似ていると感じられたのではないか。
だだおしの赤鬼(あべのハルカス美術館「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展館外展示品)
人は、人や擬人化可能性のある相手の特徴を顔に負っている。仮面の役目を強調するためには、頭部をすっぽり被うべく比重を大きくし、印象強くアピールする。神に近しい童子・童女の体型の化け物となる。頭にすっぽりと被る伎楽面の場合、5頭身になり動きも少なくなる。演技という面で制約が課されるが、存在自体が十分に演技である。それを目にしたヤマトの人たちにとって、伎楽の呉女や崑崙、酔胡従などは、いわゆるきもかわの唐様かぶれである。かぶっているからかぶれている。乾漆製のものなど漆にもかぶれている。だから頭部が腫れている。張りぼてである。言葉の上では理の当然の現象が起こっている。ゆるキャラは動きも緩く、子供っぽく感じられ、わざとらしい。伎楽では、聞き慣れない音楽に囃したてられ、ばかばかしいドラマが演じられる。見物客は、あれは異国のもの、ひょっとすると異界のもの、大げさで虎みたいなものと思ったであろう。騙されたと思ってお芝居を見ていればいい。それぐらいの適当さ、鷹揚さをもって受け取られたのであろう。お練り供養も騙されたようなものであるが、浄土教の思想や中将姫の物語など、いろいろな“心”まで複合させ、演技する人々の“心”のお芝居として永続したと考えられる。
(注6)白川1995.に、「四段。ねばり強さを与えるために、強い力を加えてきたえること。「ねやす」ともいう。糸・布・土・金属などの類に対して、加工するときにも用いる。またそのように、ものを強く握ることをいう。「ねり」はその名詞形。「ねりぎぬ」「ねりかね」はその加工したもの。「とねる」「くねる」「ひねる」はのちの派生語である。「ねらふ」は「ねる(徐歩)」の再活用形。気づかれないように、注意深く目的物をうかがうことをいう。」(594頁)とある。
(注7)tatemeoyaji2011様「20130302 浜松市動物園・アムールトラのミーの常同行動」https://www.youtube.com/watch?v=FFzJOrZNyag参照。
(注8)古代エジプトでは、紀元前2000年頃には、チターやライオンを狩猟や戦争に使うために飼っており、古代のインドでもライオンやヒョウ、トラ、ゾウが飼われていたとされている。Baratay and Hardouin-Fugier 2000.に、‘In the fourteenth century BC, the emperors of China collected animals from various regions and gathered them together in their palaces. In the ninth century BC, Emperor Wen-Wang established a park of 375 hectares ― called the Garden of Intelligence since it was thought of as a divine creation ― for hunting and fishing.’(17p)とある。Emperor Wen-Wangは、周の文王のことかと思われる。
トラとはどのような動物であるかについて、ヤマトの人は朝鮮半島へ古墳時代にたびたび行っており、それで知ったと考える説も立てられよう。そこに、朝鮮語のタイラ→トラ説も立脚点を置くことができる。ウマがマ(馬)に頭音ウを冠して言いやすくした外来語であるとの考えにも近いものである。しかし、新しいヤマトコトバ、いわゆる和訓は、聞いた人がその“新語”を納得しなければならない。無文字社会ゆえの“頓智”があって分かり合えなければ、音声だけによる言葉は流通し得ない。外来語を記号変換のように利用できるのは、文字に慣れ親しんだ頭脳には容易でも、列島的範囲で決してピジン・クレオール的な環境下にはなかった人たちには難しいものと思われる。万葉語に「双六(すぐろく)」、「過所(くわそ)」といった漢語が見られ、朝鮮語であると確かにわかる語としては、紀に、「王(コニキシ)」、「王子(セシム)」、「太子(コヨシム)」ほか、官位に関する語が多くあるばかりである。それらは、特殊なればこそ面白がられて使われた例外である。
(注9)出口・竹之内・奥村・小澤2006.、出口2006.、竹之内・奥村・福永・向久保・実森・ジョンソン・本出2015.参照。
(注10)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。江戸時代のお練り供養で介添え人がついているさまは、歌川芳豊・大念佛煉供養(花暦浪花自慢のうち)に描かれている(大阪eコレクション「錦絵に見る大阪の風景」の「大念仏煉供養」http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000007-00010229参照。)。
(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)『特別展 極楽へのいざない─練り供養をめぐる美術─』に載る菩薩面は、木造のものばかりである。お練り供養に用いられたお面は、時代的に言って乾漆のものはなかったと推測される。仏像の脱乾漆像も、八世紀までに限られる。筆者が乾漆技法にこだわるのは、ネルという語の二義性を統合的に把握する試みからである。副島氏の夾紵の解説に、中国で、「仏像を奉じて練り歩くための行道像」とあった。お練り供養の菩薩面のプロトタイプは、本邦では乾漆の伎楽面に求められるのではないかと推論している。伎楽面では、頭にすっぽりと被るタイプのお面に、法隆寺献納宝物の楠製は2㎏と重い。桐を使って軽くなるように工夫したもののほか、乾漆製によるものが正倉院や法隆寺に伝わっている。美術・工芸的研究は正倉院にて行われている。山崎・岡田2014.、山片2014.参照。実用・観念的研究は、“科学”ではないので進展に乏しい。
乾漆像作成段階で、麻布製の漆塗りした張りぼてを一度切り離し、再び接合する際にペースト状の木屎漆は用いられる。当初、粘着力の強い麦漆で何層にも塗り貼りを繰り返していったん形が出来上がる。そのときの漆は接着剤とコーティング剤の機能を果している。原型であった塑土を掻き出したのち、新たに心木を入れて固定し、開口部を縫い閉じて木屎漆を塗る。それを“共練濃・共練粉(トネリコ)”とも呼べる「練物」を使って接合する。仕上げに必要なコーキング剤としての役割までプラスされている。ネリという言葉の素材が用いられることに、仏教に曰く因縁のある作業であるように感じられる。さらには、浄土教の練る行為とのつながりも見て取れる。それは、毛皮の仕上げの過程が、ヘラ(後に剪)を使ってタンパク質、膠質、脂質をきれいにこそぎ落とす作業が、鞣すという言葉で表されることと相同している。乾漆(夾紵)の技法も、漆を、ヘラや刷毛を使ってなめるように施したに違いあるまい。ねばねば感から、古語にナムという感覚であったであろう。
(注13)紙漉きにおいて、ネリという粘剤は重要とされる。増田2010.に、「粘剤の役割として、簀の水漏れ時間をコントロールすること、繊維同士の凝集を防いで分散を促し地合を良好にすることの、2点が指摘されているが、実験の結果からは、繊維層の簀上への定着にも大きな効果があることが確認できた。」(95頁)とある。紙を乾かす時に板に貼りつけ、剥がす時にも、ネリがあるのとないのとでは違いがあるのであろう。増田氏は、「漉桁の操作に関しては、東洋の手漉き紙では、簀の上を紙料水位が流れることにおいて共通しており、東洋に広く見られる技術的特徴と言える。しかし、漉桁枠を置いて、比較的長い時間紙料水を留め置いて揺動を繰り返して紙料水の流動を促し、良好な繊維配向を得ることについては、東洋の中でも日本に特徴的に見られる操作である。……現代の手漉き技術が奈良時代から連綿と続く技術であること、また日本の手漉き紙の特徴は、紙漉きの中でも特異的な、上枠にため込んだ紙料水を積極的に揺動させるところに、あると言えるのではなかろうか。そうであれば、この和紙の技術を揺動法即ち「揺り漉き」と呼ぶことを提唱したい。」(93頁)としている。
kougeihinjp様「漉く-越前和紙2/2」(https://www.youtube.com/watch?v=-f4ID_7NM1Uをトリミング)
古代の紙漉きの技術について、溜漉きか流漉きかといった議論が行われている。言葉の感覚からすると、揺動させることで粘剤のネリがなくてもうまい具合に紙が漉ける技術は、熟練の技によるものであると想定することができる。つまり、漉桁枠の上手な動かし方は、練れた技術でネリである。漉桁枠を揺り動かすとき、簀上の繊維を確認するために顔を左右に面練るのは、溜漉きの技法かと思われる。紙漉きの漉枠の動きとトラのなわばり巡回活動、踊念仏のそれは、相似するということである。そして、熟練せずとも上手に紙漉きができる添加粘剤が見つかって、同じくネリと呼ばれ出したということであろう。同じことなのだから、同じ言葉で表す。言=事であるとする言霊信仰に適っている。なにしろ、ネリなる語は、ネル(練・錬)の連用形として成立していると考えられる。科学的に証明することはできないが、語学的には正しいと考える。推古紀に、紙と墨の伝来記事がある。
十八年春三月、高麗の王(きし)、僧(ほふし)曇徴(どむてう)・法定(ほふぢゃう)を貢上(たてまつ)る。曇徴は五経を知れり。且(また)能く彩色(しみのもののいろ)及び紙墨(かみすみ)を作り、并せて碾磑(みづうす)造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始るか。(推古紀十八年三月)
このときの技術がどのようなものであったかはわからない。墨を固めて形にするのに、共練濃=トネリコを使ったとすると、紙の粘剤にもトネリコを使ったかもしれないが、不明である。「并造二碾磑一」の碾磑が、水車による臼のことで、叩き潰すのに使われた可能性は残る。あるいは、むしろ、熟練の練れた技術を互換していしまう材料のことをトネリコと呼んで、タモという木から採れるので樹種の名もトネリコというようになったのかもしれない。
「紙漉録」(大関増業編・止戈枢要(文化11年~文政5年))に、紙作りにおいて「ねり」を活用することが記されている。「又ねりといふもの布袋江入、図のごとく船の片隅江入置、折々志ぼり出しかき廻し、更に是に加減有事也。右ねりハ山より持来り上皮を削取、真ンの木と皮との間に白キ所有。其真白処を削取、袋ニ入、甚宜し也。木の肌山卯の木に類し而卯の木に非ず。又作りねりと云あり。是ハ畑江彼岸の比蒔置、其秋彼岸のごろ出来、もの也。花ハ夏中さくもの也。楮を入かき廻しねり袋の躰。」(寿岳2008.付録25頁)とある。
トロロアオイの根によって作られるネリは、「作りねり」といい、山で採ってきた樹液由来のものは、「ねり」である。熟練者がその技量を以て首尾よく巧みにしなやかに作り上げること、それがネル(練)ことで、技術的に未熟な者でも、漉くときに入れると即席的に上手に漉ける魔法の粘剤、アンチョコ的な材料を、ネリと呼んでいたようである。
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※本稿は、2015年9月稿を2021年5月に加筆、改稿したものである。
(注)
(注1)頭全体に大きなお面をすっぽりかぶった劇について、我々は真剣に取り扱ってこなかった。仮面一般のこととしてはこれまでにもいくつか論じられている。
和辻2007.に、「[伎楽面の]顔面は実際に生きている人の顔面よりも幾倍か強く生きてくるのである。舞台で動く伎楽面に自然のままの人に顔を見いだすならば、その自然の顔がいかに貧弱な、みすぼらしい、生気のないものであるかを痛切に感ぜざるを得ないであろう。芸術の力は面において顔面の不思議さを高め、強め、純粋化しているのである。」(263頁)とある。筆者は、今日、ゆるキャラと呼ばれる被り物をしたご当地キャラクターに、和辻氏のペルソナ論とは別の意味合いを見る。ゆるキャラはイリュージョンであって、生身の人間と比較する対象に当たらない。観光の思い出に一緒に写真を撮れば、我々がどんなにいい笑顔をしても、おちゃめなピースサインを出しても、ゆるキャラが主役のスナップ写真でありつづける。我々は、まるで、行道の菩薩面を被った人を介添えする舎人の立場に立たされているようである。つまり、人は、伎楽面や能面、行道面、その他の被り物に、顔面の延長とは言えないものを感じている。化粧やプリクラの自動補正機能は、人間の顔面の延長である。したがって、オフ会やお見合いで、ふだんの顔やすっぴんの顔を見た時、落差を感じて当惑させられることがある。けれども、伎楽面などを被ることは、仮面が仮面であると予め納得の上のことである。儀式や演劇の舞台において、他界を含めた世界秩序が確認されているわけで、終わったからといって混乱することはない。化粧とコスプレは意味するところの次元が違うという見解は正しいのであろう。
木村2000.に、「牧畜民であろうが、農耕民であろうが、超越的存在を意識する。しかし、その超越的存在に近づくに際して、農耕民は仮面を用いる。仮面は……中間的な存在であるから、ある意味では類概念だといえよう。つまり農耕民は仮面という類概念を媒介するのに対して、牧畜民はそういう中間項なしに、いきなり超越的存在に向かう。……農耕民にせよ、牧畜民にせよ、あるいは狩猟民にせよ、人間の集団が他界観をもつ、つまり死生観をもつことは、ある意味でかなり人類のユニヴァーサルな文化と考えていいが、その場合に、ユニヴァースな因子の一環として必ず出てくるのは、そういう超越的存在とどうやって行き来するかという問題である。その際に、農耕民は仮面を用い、遊牧民は現実の家畜を用いるわけである。したがって、私のいう類概念というのは、一種の媒介項であって、ある意味で役ないし役割の概念と考えられる。」(30頁)とある。美術評論の域を突き出た鋭い見解である。
民族学の立場からは、吉田2009.に、次のようにある。
地域や民族、さらには時代を問わず、世界の仮面に共通する特徴としてまずあげられるのが、ほかでもない、それが、人びとにとっての「外」の世界、言い換えれば人間の知識や力の及ばない世界、つまり「異界」の存在を目に見える形に仕立て上げたものだという点なのである。……アフリカやメラネシアにおける葬儀や成人儀礼に登場する死者の霊や精霊、動物を表す仮面だけではない。ヨーロッパでいえば、ギリシアのディオニソスの祭典に用いられた仮面から、現代のカーニヴァルや越年際に登場する異形の仮面や魔女の仮面に至るまで、また、日本でいえば、能・狂言や民俗行事のなかで用いられる神がみの仮面から、現代の月光仮面や仮面ライダー、ウルトラマンに至るまで、仮面は常に、世界の変わり目や時間の変わり目において、「異界」から一時的にやって来て、人とまじわって去っていく存在を可視化するために用いられてきた。そこにあるのは、「異界」を、「村」と区別される「森」に設定するか、「町」と区別される「山」に設定するか、「地球」と区別される「月」に設定するか、あるいは「銀河系」と区別される「別の星雲」に設定するかの違いだけである。確かに、入手できる知識の増大とともに、人間の知識の及ばぬ領域=「異界」は、村や町をとりまく森や山から、月へ、そして宇宙の果てへと、どんどん遠くへ退いていく。しかし、世界を改変するものとしての「異界」の力に対する人々の憧憬、「異界」からの来訪者への期待が変わることはなかったのである。(131~132頁)
お練り供養で菩薩面を被って練り歩くとは、「浄土(あの世)」から「娑婆(この世)」へ来て再び「浄土」へ還る、異界からの来訪者を演じることである。異界に近しい適役は、生産年齢から外れたお年寄りか幼子である。附随する形で、各地で稚児行列も行われる。神に近しい存在と認められる。お練り供養の場合も、あの世という異界に近しい存在だから、年長者に委ねられて然るべきである。木村氏の指摘するように、仮面が超越的存在の類概念であること、吉田氏の指摘するように、異界の力を形にしたものであると捉えると、菩薩面を被ることとは、仏教的な世界観のなかで超人的存在を演じること、それはまさしく菩薩になるということである。
和辻氏の議論を引く坂部2009.に、「〈ペルソナ〉としての〈わたし〉は、〈わたし〉─〈他者〉、〈主語〉─〈述語〉の分離的統一という構造、〈他者〉という述語による限定ないし刻印という、〈仮面〉の構造を、その根本において、もっている。このことは、精神分裂症を典型とするいわゆる人格の解体という現象において、いわば裏側から照し出すという形で、一層あきらかにたしかめられることになるだろう。」(91頁)とあるが、仮面という語の譬えられ方を考慮したうえで、慎重に検討されなければなるまい。コミュニケーション事典に、「現代人は様々な日常生活の状況に応じて〈仮面=人格〉を使い分けるという比喩的な意味で〈仮面〉ということばがよく用いられる.この〈人格〉の語源ペルソナも,エトルリア地方の死者にかぶせるマスクの呼名に由来するといわれる.しかし,具体的なものとして,儀礼や祭りに用いられる仮面の特徴は,日常生活とは異質な状況の中に〈出現〉してくる点にある.」(140頁、この項、渡辺公三)とある。譬えとしての「仮面」という用語を宛がう際、語が独り歩きしないように見極めなければならない。
幸いなことに、社会学においては、アーヴィング・ゴッフマンが役割と自己像とについて興味深い検討を加えている。そこでは、「自己」という概念の上位概念に「個人」という語を当てている。ゴッフマン1985.に、「個人は、それぞれ一つ以上のシステムまたはパターンに関与させられており、したがって、一つ以上の役割を演じているというのが、役割分析の基本的仮定になっている。それぞれ個人は、いくつかの自己を持つことになり、それらの自己がどのように関係しあっているかという興味ある問題が生じてくる。役割についての伝統的なパースペクティブによれば、人間のモデルは、意味的な関連を互いに持たない、いくつかの役割からなる持ち株会社 holding company のようなものである。そして、われわれの新しいパースペクティブにおける関心事は、個人がこの持ち株会社をどのように経営していくかということを見い出すことである。」(91頁)とある。お練り供養において、菩薩の面を被って行道することは、菩薩という役割を担うこと、すなわち、その人が菩薩という会社を買収して子会社化することである。さて、この菩薩株式会社は、経営実態のない、それこそ仮面カンパニーである。富を産まない。役に立たない役である。そんな会社を傘下に置いて何が面白いのかと考えるのは、おそらく青二才の着想である。すなわち、逆に、生産性が高くてROEの高い会社、すばらしい役割を担っていると思っていた自己たちは、実のところ、あの世へは持って行かれないことに気づかされる。何を齷齪しているのか、不思議な悟りに導かれる。そのとき、いわば、人生の修練が起こる。人生というものを練り上げる。そのネリにもってこいの役割が、菩薩株式会社のCEOを兼務して橋を練り歩くことなのであろう。練れた人になるには、むろん、他の役割(自己)をきちんと果たしていなければならないし、一緒に歩く「舎人(とねり)」を買って出てもらえるだけの人望も必要である。
人間が仮面(マスク)をつけて演じることの意味は逆説的である。仮面は、素顔との関係で短絡的に想定されるほど簡単なものではない。むしろ、逆に、お祭りで仮面をつけて演ずることによって、自己(セルフ)とは、実は世を忍ぶ仮の姿にすぎないのだという真実を、身をもって実感することができる。自己というものを相対化するテクニックの一つになり得るのである。日常の陥穽に重く埋没してのっぴきらならないと感じて心理的に落ち込んでしまわずに、多様に生まれ変わることは可能でありながら、“今”を選んで生きているのだと再確認できる絶好のチャンスである。すると、お練り供養でお面を被って練り歩くこととは、この世とあの世という宗教的な意味合いばかりか、自己と他者という社会的な意味合いをもっても、その境界を溶解させてしまう契機と位置付けられる。お練り供養に参加すれば、極楽往生が約束される、という平板な議論はもはや正解とは言えない。すでに極楽往生できてしまったと錯覚される点、何のことはないのだと思えてしまう点が重要なのではないか。張子の虎のような菩薩の種明かしが悟られるのである。自己=菩薩である。そして、そのお祭りの行われるれんぞ、お練り供養の日が、耕作のために水田にべったりとへばりつけられ始める前日であることの意味は深い。セルフをセルフケアし、予防注射の効果を継続させてセルフをセルフコントロールするには、一年のうちで最もかなった日である。れんぞに行かなければ、地道にしんどい田仕事に耐えられなくなり、収穫までこぎつけることができなくてトラレヌゾどころか、発狂してトラのように叫びお隣さんへ襲いかかるような転落人生が待っているのであった。お隣さんとしても困るので、レンゾには皆して当麻寺へ詣でようと誘いあったことであろう。
(注2)美術史的解説としては、大西2007.、金2015.参照。製作者の意図が必ずしも観覧者の受け取り方に一致しないことはよくあることであろう。本稿は、当麻曼荼羅とお練り供養がともに当麻寺に由縁としている謎について検討を加えるものである。
(注3)その昔、人々が綴織当麻曼荼羅を拝観したとき、それは図像としてとても大きなスクリーンに包まれるような思いがしたのではないか。阿弥陀浄土の世界のなかに入った感覚を懐いたかと感じられる。絵本について解説する志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)、「絵本の世界像は、「地」に属する「図」をもつ「地」表現、つまりストーリーには直接絡まず「地」世界に属する活気ある事象をもつ「地」表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が「地」に属する「図」の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者自身の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明されている。
この議論はそのまま、綴織当麻曼荼羅にも当てはまることであろう。綴織当麻曼荼羅は、絵本の特定の見開き1ページである。「こんな世界」とは阿弥陀浄土である。大きすぎるほど大きくて、そのにぎやかなパーティのなかに入りこんでしまう。お練り供養を伴えば、パーティ感はさらに高まる。きれいごとで言えば、聖衆倶会(しょうじゅくえ)の楽のまんまである。俗にいえば、舎人にエスコートされて、かしずかれてお酒を注いでもらっているほどにおもてなし感を味わえる。あの世の顕在化が起こっている。それに対して、当麻曼荼羅縁起のようなスクロールしてみる絵巻物は、絵本の見開き1ページのようなダイレクトさ、明解さがない。浄土が観想できるのであれば、後講釈のストーリーなど必要ないと思われる。綴織当麻曼荼羅の周囲に配されるコママンガ部も、人々が見たとして思うのは、それで、結局のところ、阿弥陀浄土とはどんなところなの? という問いに尽きるであろう。それが中心に大画面を成して織り成されている。視線が絵すごろくを進んで行って、あがりのところが中央の浄土パノラマである。
この世からあの世への引っ越し、橋渡りを確かならしめて描く山越阿弥陀仏図や二十五菩薩来迎図は、布教をねらうための方便として作られた講釈がましい図像である。なぜなら、その図のなかに、観る者は立ち入ることができないからである。引っ越しのキャンペーンは、引っ越しをする人、臨終間際の人や病気がちの人には効いても、どんなに死亡率が高い時代であったとしても、その予定がない人には他人事であったろう。その点、綴織当麻曼荼羅は、お練り供養という行事とも重ねあわせて見るとすれば、あの世とは「こんな世界」で、いつ行っても構わないパラダイスだと思うことができる。譬えるなら、住む家はそのままに旅行(travel)に行く感覚である。今日、旅行を誘う観光地のポスターが、ただ美しくて魅力的に写されているのに似ている。ストーリーを含む図と含まない図とは異質である。志村氏の指摘する「図」(figure)と「地」(ground)の用語に従って誤解を恐れずに言うなら、当麻曼荼羅縁起や各種来迎図には「図」と「地」があるが、綴織当麻曼荼羅やそれを縮小コピーした当麻曼荼羅図は、近づいて見て周囲のコママンガ部が視界から外れれば、「地」しかない。実際に当麻曼荼羅図を見ると、コママンガ部は地味で縁模様のように背景へと消えていく。藤田美術館蔵当麻曼荼羅(鎌倉時代、13~14世紀)を見ると、「根本曼荼羅(394.8×396.9cm)の4分の1より少し小さい縮尺本であるが、原本の図様をよく伝える。金泥塗に裁金(きりかね)を重ねる諸尊がきらびやかである。」(サントリー美術館「国宝 曜変天目茶碗と日本の美」展(2015年)解説ボード)とおりである。真正面から見るより、下の方から見上げ拝むほうが、光線の具合で照り輝いてわかりやすくなっている。殿上に三尊のほか、三十三の菩薩が体をくねらせている。お顔とはだけた上半身は黄金色である。こんなに座れるかと思えるほどラッシュアワー並みの混雑である。長い髪を首の脇から後ろへ垂らし、宝冠を被っている。遠近法などはないから、殿上の菩薩ばかりクローズアップされて目に入ってくる。これぞ極楽浄土、スーパービュー極楽浄土である。
人によって受け取り方は違い、好き嫌いの問題もあろう。あるいは、図像における源信派と証空派にわかれるものと言えるかもしれない。そして、当麻のれんぞ、当麻のお練り供養に参加する人たちにとっては、練り歩くこと自体がストーリーであって、それが「図」に当たり、自らが主役である。説明調の来迎図など見せられるよりも、極楽往生が叶うと信じることができたに違いあるまい。図様の作り手と見る側とが互いに交渉し合って、豊かな世界像が成立していると言える。
(注4)厩牧令の義解に、「謂。脳者、馬脳也。胆者、牛胆也。」と注されている。馬の胆嚢を取ることはないが、牛の脳を取ることは十分に考えられる。永瀬1992.に、鹿皮の脳漿鞣し技術が詳しく紹介されている。牛脳を用いるとし、さらには脊髄のほうが不純物が少なくて上等であったともしている(118頁)。
(注5)応神紀に「麋鹿」(応神紀十三年三月)とある。ほかに、「是の野に麋鹿甚だ多し。気(いき)は朝霧の如く、足は茂林(しもとはら)の如し。臨(いでま)して狩りたまへ。」(景行紀四十七年是歳)とある。和名抄に、「麋 四声字苑に云はく、麋〈音は眉、漢語抄に於保之可(おほしか)と云ふ〉は、鹿に似て大きく、毛斑ならず、冬至を以て角を解く者也といふ。」、新撰字鏡に、「麞 諸羊反、平、久自加(くじか)、又於保自加(おほじか)」とある。このオホジカが現在の何に同定されるか筆者は知らない。箋注倭名抄は、漢籍に当たっているばかりである。和名抄の、毛に斑点がないという記述はわからなくさせるとともにわかるようにもさせている。列島には現在、大きな鹿としては、北海道にエゾシカがいる。ホンシュウジカよりも体が大きいから、第一候補として挙げられる。体の大きさは、ベルクマンの法則により北へ行って寒くなるほど大きくなる。ただ、エゾシカも夏毛には鹿の子模様がある。とはいえ、アイヌの人たち、古墳時代や飛鳥時代の蝦夷(えみし)は、エゾシカの毛皮を使う際、目的は防寒用である。すると、毛の量の豊富な冬毛を好んだであろう。それをヤマトへの貢物にもしていたとすると、ヤマトの人は、エゾシカには斑紋はないと錯覚させるに十分であったろう。そして、和名抄に、冬至に角を解くとあるのは、春に自然と脱落することではなく、ヤマトでの“常識”、五月五日に袋角を薬猟して、同時に鹿の子模様の毛皮を鞣して手に入れる方法をとらず、蝦夷が冬場に肉や毛皮を目当てに狩ることを指しているものである可能性がある。角は別に骨角器として利用されたのではないか。特殊品としてトロフィーを製作し、それがヤマトにもたらされたということかもしれない。
織田東禹「コロポックルの村」(部分)(水彩・額装、明治40年(1907)、東博展示品)
第二候補に、トナカイが挙げられる。トナカイは斑点が明らかではなく、しかも、オスの場合には角が冬に入ると落ちてしまう。クリスマスに角を生やしてサンタクロースを導いているのはメスである。シカの仲間でメスに角が生える珍しい例である。シベリアからサハリン北部、カムチャッカ半島に生息しており、アイヌの人たちは毛皮を活用してトナカイと呼んでいるから、それがヤマトへもたらされていたことがあった可能性がある。
村上貞助筆・北夷分界余話、文化7年(1810)、国立公文書館展示品)
第三候補として、大陸のシカがもたらされた可能性もある。もともと、ニホンジカは、大陸から列島へ人為的に連れて来られたという説がある。大陸のシカが、本邦にふつうに見られるシカよりも大きいのかどうか、これまた不勉強でわからない。また、シフゾウかもしれない。
シフゾウ(Tim Felce (Airwolfhound) “Pere David Deer” at Woburn Deer Park, Wikipedia: https://en.wikipedia.org/wiki/P%C3%A8re_David%27s_deer)
いま、人の頭が「麋鹿」の頭部で作ったマスク(トロフィーのようにしたもの)に入るかどうか、被れるかどうかを問題にしている。応神紀に記される日向の諸県君牛が被ったそれは、記述に「唯以二著レ角鹿皮一、為二衣服一耳。」と明記されているから、木製や乾漆製の動物仮面ではなく、実際のシカの頭部付きの毛皮であったに違いない。正倉院などにその類のものは何ら見られないが、皮革製品はとても残りにくい。しかるに、諸県君牛は日向からの再訪途中で播磨まで来た時、淡路島で狩りをしていた天皇に見つけられている。宮崎県のほうにエゾシカやトナカイはいない。キュウシュウジカはホンシュウジカよりも少し小さい。古墳時代から飛鳥時代にどうであったかについては動物考古学の問題となる。筆者は、彼がそれ以前に宮仕えしていた時の賜物として、エゾシカかトナカイかシフゾウの全身毛皮かトロフィーを頂戴していたのであろうと推測する。大事な賜物だから、髪長媛を献上するに際しても被ってきたという話ではないか。ホンシュウジカ、キュウシュウジカのなかでも大きなシカのことを「麋鹿」と呼んでいる可能性がないわけではないが、景行紀の記事も、駿河でその地の賊が日本武尊を欺くために語られた事柄である。「気は朝霧の如く、足は茂林の如し。」などという形容が使われている。形容が過剰である。雄略前紀の、「鹿」狩りに連れ出して暗殺する際の誘い文句にも、「其の戴(ささ)げたる角、枯樹(かれき)の末(えだ)に類(に)たり。其の聚(つど)へたる脚、弱木株(しもとはら)の如し。呼吸(いぶ)く気息(いき)、朝霧に似れり。」とある。生きている姿を見たことがない大きなシカを「麋鹿」という言葉で表わしていると知られよう。以上から、「麋鹿」はエゾシカ、トナカイ、シフゾウなどである蓋然性が高いといえる。そして、「麋鹿」の頭部だけの剥製を目にしたヤマトの人は、慣れ親しんでいるホンシュウジカに当てはめて考えたとき、不自然に頭の大きなもの、すなわち、ネコ型にして大きな頭を持つ、トラについて伝え聞くことによく似ていると感じられたのではないか。
だだおしの赤鬼(あべのハルカス美術館「長谷寺の名宝と十一面観音の信仰」展館外展示品)
人は、人や擬人化可能性のある相手の特徴を顔に負っている。仮面の役目を強調するためには、頭部をすっぽり被うべく比重を大きくし、印象強くアピールする。神に近しい童子・童女の体型の化け物となる。頭にすっぽりと被る伎楽面の場合、5頭身になり動きも少なくなる。演技という面で制約が課されるが、存在自体が十分に演技である。それを目にしたヤマトの人たちにとって、伎楽の呉女や崑崙、酔胡従などは、いわゆるきもかわの唐様かぶれである。かぶっているからかぶれている。乾漆製のものなど漆にもかぶれている。だから頭部が腫れている。張りぼてである。言葉の上では理の当然の現象が起こっている。ゆるキャラは動きも緩く、子供っぽく感じられ、わざとらしい。伎楽では、聞き慣れない音楽に囃したてられ、ばかばかしいドラマが演じられる。見物客は、あれは異国のもの、ひょっとすると異界のもの、大げさで虎みたいなものと思ったであろう。騙されたと思ってお芝居を見ていればいい。それぐらいの適当さ、鷹揚さをもって受け取られたのであろう。お練り供養も騙されたようなものであるが、浄土教の思想や中将姫の物語など、いろいろな“心”まで複合させ、演技する人々の“心”のお芝居として永続したと考えられる。
(注6)白川1995.に、「四段。ねばり強さを与えるために、強い力を加えてきたえること。「ねやす」ともいう。糸・布・土・金属などの類に対して、加工するときにも用いる。またそのように、ものを強く握ることをいう。「ねり」はその名詞形。「ねりぎぬ」「ねりかね」はその加工したもの。「とねる」「くねる」「ひねる」はのちの派生語である。「ねらふ」は「ねる(徐歩)」の再活用形。気づかれないように、注意深く目的物をうかがうことをいう。」(594頁)とある。
(注7)tatemeoyaji2011様「20130302 浜松市動物園・アムールトラのミーの常同行動」https://www.youtube.com/watch?v=FFzJOrZNyag参照。
(注8)古代エジプトでは、紀元前2000年頃には、チターやライオンを狩猟や戦争に使うために飼っており、古代のインドでもライオンやヒョウ、トラ、ゾウが飼われていたとされている。Baratay and Hardouin-Fugier 2000.に、‘In the fourteenth century BC, the emperors of China collected animals from various regions and gathered them together in their palaces. In the ninth century BC, Emperor Wen-Wang established a park of 375 hectares ― called the Garden of Intelligence since it was thought of as a divine creation ― for hunting and fishing.’(17p)とある。Emperor Wen-Wangは、周の文王のことかと思われる。
トラとはどのような動物であるかについて、ヤマトの人は朝鮮半島へ古墳時代にたびたび行っており、それで知ったと考える説も立てられよう。そこに、朝鮮語のタイラ→トラ説も立脚点を置くことができる。ウマがマ(馬)に頭音ウを冠して言いやすくした外来語であるとの考えにも近いものである。しかし、新しいヤマトコトバ、いわゆる和訓は、聞いた人がその“新語”を納得しなければならない。無文字社会ゆえの“頓智”があって分かり合えなければ、音声だけによる言葉は流通し得ない。外来語を記号変換のように利用できるのは、文字に慣れ親しんだ頭脳には容易でも、列島的範囲で決してピジン・クレオール的な環境下にはなかった人たちには難しいものと思われる。万葉語に「双六(すぐろく)」、「過所(くわそ)」といった漢語が見られ、朝鮮語であると確かにわかる語としては、紀に、「王(コニキシ)」、「王子(セシム)」、「太子(コヨシム)」ほか、官位に関する語が多くあるばかりである。それらは、特殊なればこそ面白がられて使われた例外である。
(注9)出口・竹之内・奥村・小澤2006.、出口2006.、竹之内・奥村・福永・向久保・実森・ジョンソン・本出2015.参照。
(注10)拙稿「舎人(とねり)とは何か─和訓としての成り立ちをめぐって─」参照。江戸時代のお練り供養で介添え人がついているさまは、歌川芳豊・大念佛煉供養(花暦浪花自慢のうち)に描かれている(大阪eコレクション「錦絵に見る大阪の風景」の「大念仏煉供養」http://e-library2.gprime.jp/lib_pref_osaka/da/detail?tilcod=0000000007-00010229参照。)。
(注11)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」参照。
(注12)『特別展 極楽へのいざない─練り供養をめぐる美術─』に載る菩薩面は、木造のものばかりである。お練り供養に用いられたお面は、時代的に言って乾漆のものはなかったと推測される。仏像の脱乾漆像も、八世紀までに限られる。筆者が乾漆技法にこだわるのは、ネルという語の二義性を統合的に把握する試みからである。副島氏の夾紵の解説に、中国で、「仏像を奉じて練り歩くための行道像」とあった。お練り供養の菩薩面のプロトタイプは、本邦では乾漆の伎楽面に求められるのではないかと推論している。伎楽面では、頭にすっぽりと被るタイプのお面に、法隆寺献納宝物の楠製は2㎏と重い。桐を使って軽くなるように工夫したもののほか、乾漆製によるものが正倉院や法隆寺に伝わっている。美術・工芸的研究は正倉院にて行われている。山崎・岡田2014.、山片2014.参照。実用・観念的研究は、“科学”ではないので進展に乏しい。
乾漆像作成段階で、麻布製の漆塗りした張りぼてを一度切り離し、再び接合する際にペースト状の木屎漆は用いられる。当初、粘着力の強い麦漆で何層にも塗り貼りを繰り返していったん形が出来上がる。そのときの漆は接着剤とコーティング剤の機能を果している。原型であった塑土を掻き出したのち、新たに心木を入れて固定し、開口部を縫い閉じて木屎漆を塗る。それを“共練濃・共練粉(トネリコ)”とも呼べる「練物」を使って接合する。仕上げに必要なコーキング剤としての役割までプラスされている。ネリという言葉の素材が用いられることに、仏教に曰く因縁のある作業であるように感じられる。さらには、浄土教の練る行為とのつながりも見て取れる。それは、毛皮の仕上げの過程が、ヘラ(後に剪)を使ってタンパク質、膠質、脂質をきれいにこそぎ落とす作業が、鞣すという言葉で表されることと相同している。乾漆(夾紵)の技法も、漆を、ヘラや刷毛を使ってなめるように施したに違いあるまい。ねばねば感から、古語にナムという感覚であったであろう。
(注13)紙漉きにおいて、ネリという粘剤は重要とされる。増田2010.に、「粘剤の役割として、簀の水漏れ時間をコントロールすること、繊維同士の凝集を防いで分散を促し地合を良好にすることの、2点が指摘されているが、実験の結果からは、繊維層の簀上への定着にも大きな効果があることが確認できた。」(95頁)とある。紙を乾かす時に板に貼りつけ、剥がす時にも、ネリがあるのとないのとでは違いがあるのであろう。増田氏は、「漉桁の操作に関しては、東洋の手漉き紙では、簀の上を紙料水位が流れることにおいて共通しており、東洋に広く見られる技術的特徴と言える。しかし、漉桁枠を置いて、比較的長い時間紙料水を留め置いて揺動を繰り返して紙料水の流動を促し、良好な繊維配向を得ることについては、東洋の中でも日本に特徴的に見られる操作である。……現代の手漉き技術が奈良時代から連綿と続く技術であること、また日本の手漉き紙の特徴は、紙漉きの中でも特異的な、上枠にため込んだ紙料水を積極的に揺動させるところに、あると言えるのではなかろうか。そうであれば、この和紙の技術を揺動法即ち「揺り漉き」と呼ぶことを提唱したい。」(93頁)としている。
kougeihinjp様「漉く-越前和紙2/2」(https://www.youtube.com/watch?v=-f4ID_7NM1Uをトリミング)
古代の紙漉きの技術について、溜漉きか流漉きかといった議論が行われている。言葉の感覚からすると、揺動させることで粘剤のネリがなくてもうまい具合に紙が漉ける技術は、熟練の技によるものであると想定することができる。つまり、漉桁枠の上手な動かし方は、練れた技術でネリである。漉桁枠を揺り動かすとき、簀上の繊維を確認するために顔を左右に面練るのは、溜漉きの技法かと思われる。紙漉きの漉枠の動きとトラのなわばり巡回活動、踊念仏のそれは、相似するということである。そして、熟練せずとも上手に紙漉きができる添加粘剤が見つかって、同じくネリと呼ばれ出したということであろう。同じことなのだから、同じ言葉で表す。言=事であるとする言霊信仰に適っている。なにしろ、ネリなる語は、ネル(練・錬)の連用形として成立していると考えられる。科学的に証明することはできないが、語学的には正しいと考える。推古紀に、紙と墨の伝来記事がある。
十八年春三月、高麗の王(きし)、僧(ほふし)曇徴(どむてう)・法定(ほふぢゃう)を貢上(たてまつ)る。曇徴は五経を知れり。且(また)能く彩色(しみのもののいろ)及び紙墨(かみすみ)を作り、并せて碾磑(みづうす)造る。蓋し碾磑を造ること、是の時に始るか。(推古紀十八年三月)
このときの技術がどのようなものであったかはわからない。墨を固めて形にするのに、共練濃=トネリコを使ったとすると、紙の粘剤にもトネリコを使ったかもしれないが、不明である。「并造二碾磑一」の碾磑が、水車による臼のことで、叩き潰すのに使われた可能性は残る。あるいは、むしろ、熟練の練れた技術を互換していしまう材料のことをトネリコと呼んで、タモという木から採れるので樹種の名もトネリコというようになったのかもしれない。
「紙漉録」(大関増業編・止戈枢要(文化11年~文政5年))に、紙作りにおいて「ねり」を活用することが記されている。「又ねりといふもの布袋江入、図のごとく船の片隅江入置、折々志ぼり出しかき廻し、更に是に加減有事也。右ねりハ山より持来り上皮を削取、真ンの木と皮との間に白キ所有。其真白処を削取、袋ニ入、甚宜し也。木の肌山卯の木に類し而卯の木に非ず。又作りねりと云あり。是ハ畑江彼岸の比蒔置、其秋彼岸のごろ出来、もの也。花ハ夏中さくもの也。楮を入かき廻しねり袋の躰。」(寿岳2008.付録25頁)とある。
トロロアオイの根によって作られるネリは、「作りねり」といい、山で採ってきた樹液由来のものは、「ねり」である。熟練者がその技量を以て首尾よく巧みにしなやかに作り上げること、それがネル(練)ことで、技術的に未熟な者でも、漉くときに入れると即席的に上手に漉ける魔法の粘剤、アンチョコ的な材料を、ネリと呼んでいたようである。
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※本稿は、2015年9月稿を2021年5月に加筆、改稿したものである。