古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「始馭天下之天皇」(神武紀)はハツクニシラススメラミコトか?

2025年02月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古代において、ハツクニシラススメラミコトは二人いたとされている。神武天皇(神日本磐余彦天皇、神倭伊波礼毘古命)と崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇、御真木入日子印恵命)(注1)である。神武紀の古訓にある「始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと(注2)は「はじめて天下あめのしたをさめたまひし天皇すめらみこと」と訓むのが本来の姿であろうと指摘されている。ハツクニシラスノスメラミコトという訓みは、二次的な理由から起こったとも考えられる。記に、該当する命名由来譚が載らず、紀の本文を読む限り「天下」はアメノシタとばかり訓まれている。
 本稿では、神武紀の訓みにおいて、「始馭天下之天皇」を何と訓んだらいいのかについて、筆録者の視点、工夫を顧慮しながら検証を試みる。同じ名前の人が二人いるのは矛盾であるとの現代人の先入観を排除し、最終的に上代の人のものの考え方に辿り着くべく、結論を先に提示せずに回りくどい議論を行っている。その回りくどさは実は記述自体にもともと内包されていると言えるものだから、回りくどさまでも正しく理解することが求められると考える。
神武天皇(大蘇芳年・大日本名将鑑、東京都立図書館デジタルアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00009550)
 神武紀元年条の原文には次のようにある。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年。尊正妃為皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大来目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖気。倒語之用、始起乎茲。(神武紀元年正月)

 これをいかに訓むか、特に、「故」以降の、「古語称之曰」がどこまでを指すのか、定まっているわけではない。

 ゆゑ古語ふることほめまうしてまうさく、「うね橿原かしはらに、宮柱みやはしら底磐したついはふとしきたて、高天原たかまのはら搏風ちぎたかりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことを、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまうす」。(大系本日本書紀240頁、兼右本に準ずる)
 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天たかまはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみこと」とまをし、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす。(新編全集本日本書紀233頁)

 「故」で始まる文章である。前の文章を理由としてそういうことにした、と叙述している構文ととれる。前にある文章で、天皇は橿原宮に即位して皇后を立て、皇子が生まれたと言っている。だからそれゆえ、古語で称えて次のように言った、と捉えられている。古語とあるのは、慣用的な表現が古くから行われていたことを物語っている。よく似た表現は、記に二例見える。

 「……おれ、大国主神おほくにぬしのかみり、また宇都志うつし国玉神くにたまのかみと為りて、其のむすめ須勢理毘売すせりびめ適妻むかひめて、宇迦能うかのやま山本やまもとに、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷椽ひぎたかしりてれ。是のやつこや」といひき。(記上)
 「……ただやつかれ住所すみかのみは、あまかみ御子みこ天津あまつ日継ひつぎ知らすとだるあめ御巣みすごとくして、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷木ひぎたかしりておさたまはば、僕はももらず八十やそ坰手くまでかくりてはべらむ。……」と如此かくまをして、……。(記上)

 第一例は、大穴牟遅神おほあなむぢのかみ黄泉よもつひら坂から逃げ帰り脱出したときに、須佐之男大神すさのをのおほかみから投げかけられている。葦原中国に建てた建物の、千木ちぎをあたかも高天原に届くがごとく高く突き立てよ、と言っている。第二例は、大国主神の国譲りの記事であり、やはり葦原中国の安住する立派な建物を作ってくれたらそこに隠居しようと言っている。どちらも建物は葦原中国にある。ただし、これらは会話文中の言葉であり、負けを認めたときの捨て台詞として用いられている。この点は注意が必要である。
千木のある家形埴輪(高槻市立今城塚古代歴史館展示品)
 建物の建て方として同じような記述である。それになぞらえて語られているから、「古語称之曰」と表現されているのだろう。場所は、葦原中国の畝傍の橿原である。そこに立派な宮殿を造営して即位した。実際にどのようなものが造られたか記述はなく、しかも会話文の中に出てくる言葉である。実状としては、「規-摹大壮」、「披払山林、経-営宮室」、「可治之」との注意があり、「命有司、経-始帝宅」、「即-帝-位於橿原宮」と抽象的に説明されているだけである。

 ……のりごとを下してのたまはく、「……誠に帝都みやこひらひろめて、大壮おほとのはかつくるべし。しかるを……。巣に棲み穴に住みて、習俗しわざこれ常となりたり。……。且当まさやまはやしひらき払ひ、宮室おほみや経営をさめつくりて、つつしみて宝位たかみくらのぞみて、元元おほみたからしづむべし。……。しかうして後に、六合くにのうちを兼ねて都を開き、八紘あめのしたおほひていへにせむこと、亦からずや。れば、畝傍山うねびやま 畝傍山、此には宇禰縻夜摩うねびやまと云ふ。東南たつみのすみの橿原のところは、けだし国の墺区もなかのくしらか。みやこつくるべし」とのたまふ。是の月に、即ち有司つかさみことおほせて、帝宅みやこつくはじむ。(神武前紀己未年三月)

 だから、古語を用いて称賛しているように呼んでいることになっている。ここまでを考えるなら、「古語称之曰」がかかるのは、大系本、新編全集本とも違い、「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」までと考えられる。そういうふうに「古語」を使って言っておいて、そして、「而始馭天下之天皇」のを、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とした(注3)。そういう見方が妥当だろう。建物を建てたことが求められるのは、「天下あめのした」を統治していることを既成事実化したいからとみられる(注4)
 「古語称之曰」が後にくる「而始馭天下之天皇」という語までかかると考えるには、神武紀以前からそのような言い方があることが条件となる。「天下あめのした」の用法としては三貴子の分治の話などがある。

 すでにして、伊弉諾尊いざなきのみことみはしらみこ勅任ことよさしてのたまはく、「天照大神あまてらすおほみかみは、高天原たかまのはらしらすべし。月読尊つくよみのみことは、以て滄海原あをうなはらしほ八百重やほへを治すべし。素戔嗚尊すさのをのみことは、以て天下あめのしたを治すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 一書あるふみはく、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原たかまのはらしらすべし。月夜見尊つくよみのみことは、日にならべてあめの事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原あをうなはらを御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)
 此の時に、いざなきのみことおほきに歓喜よろこびてのりたまはく、「あれは子をみ生みて、生みへにみはしらたふとき子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠みくびたまの玉の、もゆらに取りゆらかして、天照大御神あまてらすおほみかみたまひて、詔はく、「みことは、高天原を知らせ」とことして賜ふぞ。かれ、其の御頸珠の名は、御倉みくら板挙之たなのかみと謂ふ。次に月読命に詔はく、「汝が命は、夜之よるの食国をすくにを知らせ」と事依すぞ。次に建速須佐之男命たけすさのをのみことに詔はく、「汝が命は、海原うなはらを知らせ」と事依すぞ。(記上)

 「天下あめのした」などを「治」、「御」、「知」するように書いてある。「馭」も同義である(注5)。神代紀第五段一書第六「治天下」と同じ意味で、神武紀元年の「馭天下」もあると考えられる。天皇は天照大神の末裔ではあるが、天孫降臨以降、高天原ではなくて地上を治めることになっている。そして、「天下あめのした」を治めることを始めた天皇について、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とすると言っていると考えられる。
 
 神代紀において「天下」は上述の例を含めて六例ある。すべてアメノシタと訓んでいる。

 われすで大八洲国おほやしまのくに及び山川やまかは草木くさきめり。いかに天下あめのした主者きみたるものを生まざらむ。(吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。)(神代紀第五段本文)
 是の時に、素戔嗚尊、とし已にいたり。また八握やつか鬚髯ひげ生ひたり。然れども天下あめのしたしらさずして、常にいさ恚恨ふつくむ。(是時素戔嗚尊、年已長矣。復生八握鬚髯、雖然不治天下、常以啼泣恚恨。)(神代紀第五段一書第六)
 大己貴命おほあなむちのみことと、少彦名命すくなびこなのみことと、力をあはせ心をひとつにして、天下あめのした経営つくる。(夫大己貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下。)(神代紀第八段一書第六)
 今此の国ををさむるは、ただわれ一身ひとりのみなり。其れ吾と共に天下あめのしたを理むべきものけだし有りや。(今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。)(神代紀第八段一書第六)
 次に狭野尊さののみこと。亦は神日本磐余彦尊かむやまといはれびこのみことまをす。狭野と所称まをすは、これみとしわかくまします時のみななり。後に天下あめのしたはらたひらげて、八洲やしま奄有しろしめす。故、また号をくはへて、神日本磐余彦尊とまをす。(次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者、是年少時之号也。後撥平天下奄有八洲。故復加号曰神日本磐余彦尊。)(神代紀第十一段一書第一)

 以上のことから、問題の部分は次のように訓むのが正統的かと思われる。途中にある「而」字の前で区切った。(後述のとおり、この訓みは正されるべきである。)

 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」とまをす。しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。(故、古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇号曰、神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 すでに述べたとおり、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」なる言い方は、「古語」において、負けを認めたときの捨て台詞であり、此畜生こんちくしょう的な意味合いを帯びたものである点は留意されなければならない。すなわち、「称之曰」として何ら橿原宮を賛美するものでないのである。不思議に思われるかもしれないが、天皇の名の話の後に続く文を見れば疑念は氷解する。

 はじめて、天皇すめらみこと天基あまつひつぎ草創はじめたまふ日に、大伴氏おほとものうぢ遠祖とほつおや道臣命みちのおみのみこと大来目おほくめひきゐて、しのびみこと奉承けて、諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。倒語の用ゐらるるは、始めてここおこれり。(神武紀元年正月)

 即位式典の日に、「奉-承密策、能以諷歌倒語、掃-蕩妖気。」なる不可思議なことが行われている。「倒語之用、始起乎茲。」と、最初の出来事だと言っている。少しもハッピーな雰囲気ではない。内々でしか通じない暗号文を交わし、意味が表に立たないような歌を歌ったり、意味が反対になる言葉を発している。単純、単細胞な輩には通じないような言葉の使い方、修辞法における高等テクニックを用いることで、事態が悪い方へ傾かないように努めている。言葉の意味を反対にして使ったのはこのときが最初であるとしている。
 すなわち、負け惜しみの捨て台詞で此畜生的な文言、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」を使っているのは、虚仮威しのためのものなのである。実際の宮殿は大したことない建物なのであるが、財政的にも軍事的にも、敵方やそうなる可能性のある相手に対し、強いと受け取られるべく画策している。嘘称え、フェイクプレイズ(fake praise)である。なぜか。東征の途中、兄猾えうかし弟猾おとうかし兄磯城えしき弟磯城おとしき長髄彦ながすねびこなど、ずるがしこい奴らと戦ってきた。そして、相手以上にずるがしこくたちまわって勝ってきたのであった。情報戦を制するものが実戦を制する。だから、勝って兜の緒を締めるように、残党として必ずいるであろう周囲の仮想敵に対して油断しないようにしている。相手をだますような情報を流しているのであり、時にはそれ以前に味方からだまして難を逃れようとしている。本当は大したことはないのであるがすごいものであるように、また、内心はもう少し立派なものを建てる余裕が欲しいのであるが、そのことも了解している人の間でなら通じるように、古くからの形容表現としての「古語」を用いている。「諷歌倒語」の精神とは、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに伝えるレトリックを用いることである。それによって、賊勢を排除しながら自らの党派の結束力、求心力を高めている。「妖気」を掃って溶かしている。
 ものすごい宮室が建てられているわけではない。都としても立派とは言えない。人がたくさん集まっているとまでは言えない。しかし、それがばれると、周囲に潜在する敵から攻撃を受ける。そうならないために、「古語」を使って「称」した。と同時に、天皇の名前も相手を怖がらせるようにしておいた。「しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。」(注6)と訓むと仮定できる。人はあまりいないけれど、あたかも大勢いるようにアピールするには、天皇の名を大仰にして脅かしておけばよい。「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」である。「始馭天下」すことをしたから、こと(葉)としてもそれに合わせて「号曰」したということである。それは、ひるがえって、「号曰」したから「馭天下」できているともいえるのである。それが、言霊信仰の本質(注7)、言=事であることによる既成事実化である。
 「神日本磐余彦火火出見天皇」は「かむ」と付いていて神々しい。「日本やまと」とついていてヤマト地域の首長らしい。「磐余いはれ」と付いているのには、その謂われ譚におぼしく、たくさんの人、特に軍勢が集まっていることを言っている。強そうに聞こえるではないか(注8)

 また兄磯城えしきいくさ有りて、磐余邑いはれのむらいはめり。磯、此にはと云ふ。賊虜あたる所は、皆これ要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 我が皇師みいくさあたを破るにいたりて、大軍いくさびとどもつどひて其の地にいはめり。因りて改めてなづけて磐余いはれとす。(神武前紀己未年二月)
 是の時に、磯城しき八十やそ梟帥たける彼処そこ屯聚いはたり。屯聚居、此には怡波瀰萎いはみゐと云ふ。……故、なづけて磐余邑いはれのむらと曰ふ。(神武前紀己未年二月)

 「磐余」の謂われ譚が述べられている。ということは、それも冒頭から検討している「古語」に当たるのではないか。そう言われてみればそういうことになる、ということである。無意識化下に沈静していた言葉の内実を呼び起こしているから、それは深層の「古語」ということになる。すると、「古語称之曰」は、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」までかかる可能性が出てきており、改めて考え直さなければならない。追究してみると、途中の「而始馭天下之天皇」も「古語」となるはずである。ここに、ハツクニシラススメラミコトという紀の傍訓の正しさが再発見される。
 ハツクニは初国の意と考えられる。

 「くもつ出雲の国は、狭布さの稚国わかくになるかも。初国はつくにさく作らせり。かれつくはな」(出雲風土記・意宇郡)(注9)

 「初国はつくに」の確例である。ヤマト朝廷の中央の人々にこの話が知られていたか不明ながら、「初国」という使い方があったことは想定される。「初国」は大系本風土記に「初めに作った国。」(100頁)、岩波古語辞典に「はじめて作った国。」(1069頁)と説明されている。
 そして、とても興味深いことに、神武天皇の幼名は、「狭野尊さののみこと(最初のノは甲類)」であった。「狭布さの(ノは甲類)」に同じである。すなわち、ヤマトの国の首長として君臨することになった神武天皇の版図は、後に大和国と呼ばれる一行政単位に当たるところ、それもその中心部分にすぎない。出雲風土記では、機織りした布地は狭いものだから、それを縫い合わせて服を作ろうということを比喩にしていて、いわゆる国引き伝承を伝えている。国引きの結果、島根半島は固まったというのである。同様に、狭野尊が統治した場所は、とても狭い範囲であったことを物語っている。幼名が「狭野尊」であり、長じて「神日本磐余彦尊」という名が「加」わっただけで、変わったわけではない。
 以上のことから、「故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」は、大系本日本書紀の括弧の取り方が正しかったことが理解された。ただし、大系本日本書紀の補注にある解説は当たらない。

 
植村清二[『神武天皇─日本の建国─』]のいうように、元来、大和朝廷が成立して、かなり時代が降れば、その建設者・始祖という観念が生ずるのは自然であり、ハツクニシラススメラミコトとは、単にそうした観念を示す呼称に過ぎず、かかる具体的な物語の持主である[神武・崇神]両天皇に、共に与えられたもので、ある個人の特定の呼称が他の個人に移されたものではなく、またこの呼称の成立もさほど古いものではないと見るのがよいか。孝徳[紀大化]三年四月条に「始治国皇祖(はつくにしらししすめみおや)」とあるのを参照。(405頁)


 後代の人たちが「初国」の小ささを顕彰する理由は思いつかない。風土記は日本書紀と同じ頃に成ったと考えられている。
 また、神武と崇神を別けようとするあまり、不思議な解釈を試みることもいただけない。新編全集本日本書紀は、「初めて(最初に)国を治められた天皇。ハツ+国知ラスの形で、「馭」は「御」に同じく、使いこなす、おさめる意。崇神天皇もハツクニシラス天皇と呼ばれるが、崇神記に「所初国之…」、崇神紀には「御肇国天皇」……とあるように、ハツクニ+知ラスの語形ゆえ、国の初めを治めたということで、必ずしも初代を意味しない。その点に差異がある。」(233頁)(注10)とし、新釈全訳日本書紀は、「始めて天下を治めた天皇。国の中心に都を置き、正妃を立て帝位に就いたことをもっていう。神武紀冒頭の「恢弘大業、光宅天下」せんとしたことがいまここに実現され、東征の完了となる。」(339頁)、「[神武の]「始馭天下之天皇」が初めて天下を治めた天皇の意であるのに対し、[崇神の]「御肇国天皇」は祭祀・税制が確立しかたちをととのえた国家を治めた天皇の意。」(401頁)としている。ハツクニは「初国」であり、初めに作った国であることに変わらない。それを治めたのである。「初雁はつかり」、「初垂はつたり」、「初子はつね」、「初花はつはな」、「初春はつはる」、「初穂はつほ」といった例しか見られない中、副詞のように考えた「ハツ+国知ラス」の形を認めることには無理がある。
 「称之曰」については、紀にある他の三例ですべてコトアゲシテと訓んでいる。「故古語称之曰、……」の場合もそう訓まれるべきであろう(注11)。以下に示す紀の例では「うけひ」に対照する箇所に用いられており、言葉を発することでそのようになることを期待して大声をあげたものと考えられている。万葉集の例は、無理やり大声を上げて唱えることを言っている。

 則ちことあげしてのたまはく、「正哉まさかわれちぬ」とのたまふ。かれりてなづけて、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことまをす。(神代紀第六段一書第三)
 すでにして其の用ゐるべきものを定む。乃ちことあげしてのたまはく、「杉及び櫲樟くす、此のふたつは、以て浮宝うくたからとすべし。ひのきは以て瑞宮みつのみやつくにすべし。まきは以て顕見蒼生うつしきあをひとくさ奥津棄戸おきつすたへさむそなへにすべし。くらうべき八十木種やそこだね、皆能くほどこう」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 しかうして後に、いろは吾田鹿葦津姫あたかしつひめ火燼ほたくひの中より出来でて、きてことあげしてはく、「が生めるみこ及び妾が身、おのづからに火のわざはひへども、少しもそこなふ所無し。天孫あめみまあにみそなはしつや」といふ。(神代紀第九段一書第五)
 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国は かむながら 言挙ことあげせぬ国 しかれども 言挙ことあげがする 言幸ことさきく 真幸まさきせと つつみなく さきいまさば 荒磯波ありそなみ ありても見むと 百重波ももへなみ 千重ちへなみしきに 言挙すわれは 言挙すわれは(万3253)
 りし 雨は降りぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ(万4124)

 したがって、課題の文章は次のように訓むべきことが結論される。

 かれ古語ふることことあげしてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことなづけてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす」とまをす。(故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 この訓みに対する傍証として、祝詞の形式、「まをたまはく……たまへと称辞たたへごとまつらくとまをす」があげられる。すなわち、この箇所は、神武元年正月一日の賀で寿いだ物言いなのである。祝詞風に朗誦することほどふさわしいものはない。無文字時代のヤマトコトバ文化圏にはことことであるとする言霊信仰が行きわたっており、括弧内の言葉を言うことで、言葉=事柄たらしめんと定義している。だから、「~とまをす」と言っているのである。
 「古語」を使いながら祝詞のようにコトアゲして、どこから攻撃を受けるかわからない状況のなかで、何とか好ましい方向へと導こうと知恵を絞っている様子がうまく活写されている。そもそも、ヤマトという国は、原則、武力で制圧して成った国ではない。「こと和平やは」(景行記)した末に統合を勝ち取っている。言葉の力によって従わせたということであるが、ヤマトコトバの巧みな使い方をもってヤマトコトバ語族を平定したということであろう。各地に住まう人々が一つにまとまっている状態を何と言うか。クニである。クニがハッと現れ出た最初の瞬間、それがハツクニである(注12)
 神武天皇時代、苦労した東征が終わり、凶賊を誅滅して都を置くまでに安定を勝ち取ったとき、クニなるものがハッと現れている(注13)。崇神天皇時代、長引いた疫病がようやく鎮まり、四道将軍が遣わされて天下太平となり、租税徴収が可能となったとき、クニなるものがハッと現れている。天皇が領有するから初めて一つにまとまってクニとなるという洒落を掛けている。そんな御代の天皇のことを、ハツクニシラススメラミコトと呼んだ、つまりは名をもって体となしているのであった(注14)。忠実にことことであるようにめぐらされ使われている。ヤマトコトバの真髄の表れと言える(注15)

(注)
(注1)崇神紀に、「始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て、天神地祇、 共に和享にこみて、風雨時にしたがひ、百穀もものたなつものて成りぬ。いへいへひとびと足りて、天下あめのした大きにたひらかなり。故、ほめまをして御肇国天皇とまをす。」(十二年九月)とあり、崇神記に、「爾くして、天下あめのしたおほきにたひらぎ、人民おほみたから富み栄えき。是に、初めてをとこ弓端ゆはず調つきをみな手末たなすゑの調を貢らしめき。故、其の御世みよたたへて、初国はつくに知らす御真木天皇みまきのすめらみことと謂ふぞ。」(崇神記)に対応するから「御肇国天皇」をハツクニシラススメラミコトと訓んでいる。
(注2)紀の古訓にハツクニシラススメラミコトとあり、日本書紀私記甲本にハツクニシロシメスタカラノ爪ヘラノミコト(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247543/14?ln=ja)ともあることなどによっている。矢嶋1989.は「タカラ」は「スメラ」の誤写と推定している。
(注3)神代紀第十一段一書第一にある「復加号曰神日本磐余彦尊。」記事は、「後撥平天下奄有八洲。」の「故」であるとしている。広いところを治めることになったのだから、「狭野尊」という名に「加」えて「号」したといっている。これを昔、そう言われたからというので神武紀の記述の「古語称之曰」と絡めて考えるのは適当ではない。新たな名前が「加」えているだけだからである。幼少時の「狭野尊」という呼び名が抹消されたわけではない。
(注4)文脈上の読解が問題であって、実際にいかなる版図まで統治しているのかという史学についてはかかわらない。
(注5)紀の文中に、「馭」字が音仮名以外で用いられている例は、次のとおりである。「治」、「御」、「知」と同義である。「馭大亀」は、馬を御す、制御するに同じである。

 故、其の父母かぞいろはみことのりしてのたまはく、「仮使たとひいまし此の国をらば、必ずそこなやぶる所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国ねのくにしらすべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
 来到いたりて即ち顕国玉うつしくにたま女子むすめ下照姫したでるひめ 亦の名は高姫たかひめ、亦の名は稚国玉わかくにたまりて、因りて留住とどまりて曰はく、「われ亦、葦原中国をらむとおもふ」といひて、遂に復命かへりことまをさず。(神代紀第九段本文)
 いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀にりて、女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、海をてらして来到きたる。(神代記第十段一書第三)
 則ち田村皇子を召して謂りて曰はく、「天位たかみくらに昇りて鴻基あまつひつぎをさととのへ、万機よろづのまつりごとしらして黎元おほみたから亭育やしなふことは、本よりたやすく言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、いまし慎みてあきらかにせよ。かるがるしく言ふべからず」とのたまふ。(推古紀三十六年三月)

(注6)ホホデミについては、拙稿「二人の彦火火出見について」参照。
(注7)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照。
(注8)神代紀第十一段一書第一に、「後撥-平天下-有八洲。」したから、それ「故」に、「復加号曰神日本磐余彦尊。」とあった。「神」や「日本」と冠することに不思議はないが、「磐余」が付く点は謂われは、その語自体に秘められていると考えて然りである。
(注9)りごととして語られている。なお、沖森・佐藤・矢嶋2016.は、「くも出雲国いづものくには、ぬのつもれるくにるかも。初国はつくにちひさくつくれり。かれつくはむ」(101頁)と訓んでいる。
(注10)矢嶋1989.は、「天下」はクニとは訓めないとし、語構成が「始馭天下之天皇」(神武紀)と「御肇国天皇」(崇神紀)とでは異なるから、「始馭天下之天皇」はハジメテアメノシタシラシシ(シラシメシシ、[ヲ]サメタマヒシ)スメラミコトと訓むべきとしている。筆者の当初案において採ったが、「はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみこと」を「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」と名づけたというのは、命名法としておかしなところがある。名前は、何かに由来して名づけられるものだろう。この例で言えば、「はじめびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」などとなければ何を言っているのかわからない。
(注11)紀では、「称之曰」はコトアゲシテイハク、コトアゲシテノタマハクが通例である。祝詞の「称辞」はタタヘゴトと訓まれるが、実際には当初、貧相な建物しか建てられていないのだから、「称」を賞讃の意味をもってタタヘテと訓むのは皮肉になってしまい不適切である。言葉を躍らせてそうなるようにと強弁している。
(注12)ハツ(初)という語が擬態語に由来するであろう点については、拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/417311a243b4108b1fc20b9eed9c8db1参照。
(注13)矢嶋1989.は、「天下」という字面はクニとは訓み難いとしている。しかし、逆に、「国家」と書いてアメノシタと訓む例は見える(憲法十七条の四)。「天神地祇」でアマツカミクニツカミとなり、クニとは「地」のこと、「地」は「天」の「下」にあるものとの認識は間違ってはいないだろう。そして、「始治国はつくにしらしし皇祖すめみおや」(孝徳紀大化三年四月)と訓まれ、慣わされている。ハツクニシラスというひとまとまりの言葉が通行していたと考えられる。
 神代紀、記上の三貴士分治の記事で、「国」という字は「根国ねのくに」(神代紀第五段本文、同一書第一)、「夜之食国よるのをすくに」(記上)と使われている。記では、スサノヲが成人してもなお啼きわめき、命じられた「夜之食国よるのをすくに」を治めずに「ははが国の根之ねの堅州国かたすくに」へ行きたいと言ったので、イザナキは大いに怒り、「此の国」に住んでいてはいけないと追い払っている。「国」字はこのように使われていた。神武天皇が治めるところは天上の高天原でも根国ねのくに夜之食国よるのをすくにでもない。話が現実的になって急に注目を浴びている地上世界に関して、ある部分を区切って統治することを言おうとしている。オホアナムチとスクナビコナがつくった天下あめのしたについてばかりが問われる御代になったということである。統治することはシル(知、領)でその尊敬語がシラスであって、その対象として地上世界があげられている。もはや「根国ねのくに」や「夜之食国よるのをすくに」は問題とされない。新しくカテゴライズされた言葉、クニが出現したのである。意訳して記した形が「始馭天下之天皇」である。古事記本文冒頭の「天地初発」と同様の状況、「ハッ(💡)クニ」であると認められる。(注12)の参照論文に詳述している。
(注14)倉野1978.は本居宣長説に即しつつ、神武紀にいうハツクニシラススメラミコトは人皇第一代の意、崇神記にいうハツクニシラススメラミコトは人の国家の開始を物語るものとしている。そのような講釈調の言葉づかいが上代に行われていたとは考えられない。聞いた相手が直観的にわかるものでなければ話にならない。書記としても、当時のリテラシーとして、「始馭天下之天皇」と書いてあってハッ(💡)と気づかないとは思っていなかったから、訓注など付けずにそう記したものと考える。
(注15)語構成の違いは表記法の問題である。音声言語として爛熟したヤマトコトバの後に位置づけられる。言葉を交わすだけで互いに通じて社会が成り立っていたのだから、書き方の工夫はヤマトコトバ研究において二の次のことである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
沖森・佐藤・矢嶋2016. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(「『日本書紀』β群の編述順序─神武紀・景行紀の比較から─」『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年11月、國學院大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000609)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本風土記 秋本吉郎校注『風土記』岩波書店、1958年。
谷口2006. 谷口雅博「神武天皇と崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)」『国文学 解釈と教材の研究』第51巻1号、平成18年1月。
矢嶋1989. 矢嶋泉「ハツクニシラススメラミコト」『青山語文』19号、平成元年3月。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。

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