古代において、ハツクニシラススメラミコトは二人いたとされている。神武天皇(神日本磐余彦天皇、神倭伊波礼毘古命)と崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇、御真木入日子印恵命)(注1)である。神武紀の古訓にある「始馭天下之天皇」(注2)は「始めて天下を馭ひし天皇」と訓むのが本来の姿であろうと指摘されている。ハツクニシラスノスメラミコトという訓みは、二次的な理由から起こったとも考えられる。記に、該当する命名由来譚が載らず、紀の本文を読む限り「天下」はアメノシタとばかり訓まれている。
本稿では、神武紀の訓みにおいて、「始馭天下之天皇」を何と訓んだらいいのかについて、筆録者の視点、工夫を顧慮しながら検証を試みる。同じ名前の人が二人いるのは矛盾であるとの現代人の先入観を排除し、最終的に上代の人のものの考え方に辿り着くべく、結論を先に提示せずに回りくどい議論を行っている。その回りくどさは実は記述自体にもともと内包されていると言えるものだから、回りくどさまでも正しく理解することが求められると考える。
神武天皇(大蘇芳年・大日本名将鑑、東京都立図書館デジタルアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00009550)
神武紀元年条の原文には次のようにある。
辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年。尊正妃為皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大来目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖気。倒語之用、始起乎茲。(神武紀元年正月)
これをいかに訓むか、特に、「故」以降の、「古語称之曰」がどこまでを指すのか、定まっているわけではない。
故に古語に称して曰さく、「畝傍の橿原に、宮柱底磐の根に太立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」。(大系本日本書紀240頁、兼右本に準ずる)
故、古語に称へて曰さく、「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇」とまをし、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。(新編全集本日本書紀233頁)
「故」で始まる文章である。前の文章を理由としてそういうことにした、と叙述している構文ととれる。前にある文章で、天皇は橿原宮に即位して皇后を立て、皇子が生まれたと言っている。だからそれゆえ、古語で称えて次のように言った、と捉えられている。古語とあるのは、慣用的な表現が古くから行われていたことを物語っている。よく似た表現は、記に二例見える。
「……おれ、大国主神と為り、亦、宇都志国玉神と為りて、其の我が女須勢理毘売を適妻と為て、宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。是の奴や」といひき。(記上)
「……唯に僕が住所のみは、天つ神御子の天津日継知らすとだる天の御巣の如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に隠りて侍らむ。……」と如此白して、……。(記上)
第一例は、大穴牟遅神が黄泉ひら坂から逃げ帰り脱出したときに、須佐之男大神から投げかけられている。葦原中国に建てた建物の、千木をあたかも高天原に届くがごとく高く突き立てよ、と言っている。第二例は、大国主神の国譲りの記事であり、やはり葦原中国の安住する立派な建物を作ってくれたらそこに隠居しようと言っている。どちらも建物は葦原中国にある。ただし、これらは会話文中の言葉であり、負けを認めたときの捨て台詞として用いられている。この点は注意が必要である。
千木のある家形埴輪(高槻市立今城塚古代歴史館展示品)
建物の建て方として同じような記述である。それになぞらえて語られているから、「古語称之曰」と表現されているのだろう。場所は、葦原中国の畝傍の橿原である。そこに立派な宮殿を造営して即位した。実際にどのようなものが造られたか記述はなく、しかも会話文の中に出てくる言葉である。実状としては、「規二-摹大壮一」、「披払二山林一、経二-営宮室一」、「可レ治之」との注意があり、「命二有司一、経二-始帝宅一」、「即二-帝-位於橿原宮一」と抽象的に説明されているだけである。
……令を下して曰はく、「……誠に帝都を恢き廓めて、大壮を規り摹るべし。而るを……。巣に棲み穴に住みて、習俗惟常となりたり。……。且当に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むべし。……。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。観れば、夫の畝傍山 畝傍山、此には宇禰縻夜摩と云ふ。の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。治るべし」とのたまふ。是の月に、即ち有司に命せて、帝宅を経り始む。(神武前紀己未年三月)
だから、古語を用いて称賛しているように呼んでいることになっている。ここまでを考えるなら、「古語称之曰」がかかるのは、大系本、新編全集本とも違い、「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」までと考えられる。そういうふうに「古語」を使って言っておいて、そして、「而始馭天下之天皇」のを、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とした(注3)。そういう見方が妥当だろう。建物を建てたことが求められるのは、「天下」を統治していることを既成事実化したいからとみられる(注4)。
「古語称之曰」が後にくる「而始馭天下之天皇」という語までかかると考えるには、神武紀以前からそのような言い方があることが条件となる。「天下」の用法としては三貴子の分治の話などがある。
已にして、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、以て高天原を治すべし。月読尊は、以て滄海原の潮の八百重を治すべし。素戔嗚尊は、以て天下を治すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第六)
一書に曰はく、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原を御すべし。月夜見尊は、日に配べて天の事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原を御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)
此の時に、いざなきのみこと、大きに歓喜びて詔はく、「吾は子を生み生みて、生み終へに三の貴き子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠の玉の緒、もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて、詔はく、「汝が命は、高天原を知らせ」と事依して賜ふぞ。故、其の御頸珠の名は、御倉板挙之神と謂ふ。次に月読命に詔はく、「汝が命は、夜之食国を知らせ」と事依すぞ。次に建速須佐之男命に詔はく、「汝が命は、海原を知らせ」と事依すぞ。(記上)
「天下」などを「治」、「御」、「知」するように書いてある。「馭」も同義である(注5)。神代紀第五段一書第六「治天下」と同じ意味で、神武紀元年の「馭天下」もあると考えられる。天皇は天照大神の末裔ではあるが、天孫降臨以降、高天原ではなくて地上を治めることになっている。そして、「天下」を治めることを始めた天皇について、「号曰二神日本磐余彦火火出見天皇一焉。」とすると言っていると考えられる。
神代紀において「天下」は上述の例を含めて六例ある。すべてアメノシタと訓んでいる。
吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ。(吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。)(神代紀第五段本文)
是の時に、素戔嗚尊、年已に長いたり。復八握鬚髯生ひたり。然れども天下を治さずして、常に啼き泣ち恚恨む。(是時素戔嗚尊、年已長矣。復生八握鬚髯、雖然不治天下、常以啼泣恚恨。)(神代紀第五段一書第六)
夫の大己貴命と、少彦名命と、力を戮せ心を一にして、天下を経営る。(夫大己貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下。)(神代紀第八段一書第六)
今此の国を理むるは、唯し吾一身のみなり。其れ吾と共に天下を理むべき者、蓋し有りや。(今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。)(神代紀第八段一書第六)
次に狭野尊。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す。(次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者、是年少時之号也。後撥平天下奄有八洲。故復加号曰神日本磐余彦尊。)(神代紀第十一段一書第一)
以上のことから、問題の部分は次のように訓むのが正統的かと思われる。途中にある「而」字の前で区切った。(後述のとおり、この訓みは正されるべきである。)
故、古語に称へて曰さく、「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙る」とまをす。而して、始めて天下を馭しし天皇を号けて曰さく、神日本磐余彦火火出見天皇とまをす。(故、古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇号曰、神日本磐余彦火火出見天皇焉。)
すでに述べたとおり、「底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙る」なる言い方は、「古語」において、負けを認めたときの捨て台詞であり、此畜生的な意味合いを帯びたものである点は留意されなければならない。すなわち、「称之曰」として何ら橿原宮を賛美するものでないのである。不思議に思われるかもしれないが、天皇の名の話の後に続く文を見れば疑念は氷解する。
初めて、天皇、天基を草創めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大来目部を帥ゐて、密の策を奉承けて、能く諷歌倒語を以て、妖気を掃ひ蕩せり。倒語の用ゐらるるは、始めて兹に起れり。(神武紀元年正月)
即位式典の日に、「奉二-承密策一、能以二諷歌倒語一、掃二-蕩妖気一。」なる不可思議なことが行われている。「倒語之用、始起二乎茲一。」と、最初の出来事だと言っている。少しもハッピーな雰囲気ではない。内々でしか通じない暗号文を交わし、意味が表に立たないような歌を歌ったり、意味が反対になる言葉を発している。単純、単細胞な輩には通じないような言葉の使い方、修辞法における高等テクニックを用いることで、事態が悪い方へ傾かないように努めている。言葉の意味を反対にして使ったのはこのときが最初であるとしている。
すなわち、負け惜しみの捨て台詞で此畜生的な文言、「底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙る」を使っているのは、虚仮威しのためのものなのである。実際の宮殿は大したことない建物なのであるが、財政的にも軍事的にも、敵方やそうなる可能性のある相手に対し、強いと受け取られるべく画策している。嘘称え、フェイクプレイズ(fake praise)である。なぜか。東征の途中、兄猾・弟猾、兄磯城・弟磯城、長髄彦など、ずるがしこい奴らと戦ってきた。そして、相手以上にずるがしこくたちまわって勝ってきたのであった。情報戦を制するものが実戦を制する。だから、勝って兜の緒を締めるように、残党として必ずいるであろう周囲の仮想敵に対して油断しないようにしている。相手をだますような情報を流しているのであり、時にはそれ以前に味方からだまして難を逃れようとしている。本当は大したことはないのであるがすごいものであるように、また、内心はもう少し立派なものを建てる余裕が欲しいのであるが、そのことも了解している人の間でなら通じるように、古くからの形容表現としての「古語」を用いている。「諷歌倒語」の精神とは、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに伝えるレトリックを用いることである。それによって、賊勢を排除しながら自らの党派の結束力、求心力を高めている。「妖気」を掃って溶かしている。
ものすごい宮室が建てられているわけではない。都としても立派とは言えない。人がたくさん集まっているとまでは言えない。しかし、それがばれると、周囲に潜在する敵から攻撃を受ける。そうならないために、「古語」を使って「称」した。と同時に、天皇の名前も相手を怖がらせるようにしておいた。「而して、始めて天下を馭しし天皇を号けて曰さく、神日本磐余彦火火出見天皇とまをす。」(注6)と訓むと仮定できる。人はあまりいないけれど、あたかも大勢いるようにアピールするには、天皇の名を大仰にして脅かしておけばよい。「神日本磐余彦火火出見天皇」である。「始馭二天下一」す事をしたから、言(葉)としてもそれに合わせて「号曰」したということである。それは、ひるがえって、「号曰」したから「馭二天下一」できているともいえるのである。それが、言霊信仰の本質(注7)、言=事であることによる既成事実化である。
「神日本磐余彦火火出見天皇」は「神」と付いていて神々しい。「日本」とついていてヤマト地域の首長らしい。「磐余」と付いているのには、その謂われ譚におぼしく、たくさんの人、特に軍勢が集まっていることを言っている。強そうに聞こえるではないか(注8)。
復、兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き満めり。磯、此には志と云ふ。賊虜の拠る所は、皆是要害の地なり。(神武前紀戊午年九月)
我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。(神武前紀己未年二月)
是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚み居たり。屯聚居、此には怡波瀰萎と云ふ。……故、名けて磐余邑と曰ふ。(神武前紀己未年二月)
「磐余」の謂われ譚が述べられている。ということは、それも冒頭から検討している「古語」に当たるのではないか。そう言われてみればそういうことになる、ということである。無意識化下に沈静していた言葉の内実を呼び起こしているから、それは深層の「古語」ということになる。すると、「古語称之曰」は、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」までかかる可能性が出てきており、改めて考え直さなければならない。追究してみると、途中の「而始馭天下之天皇」も「古語」となるはずである。ここに、ハツクニシラススメラミコトという紀の傍訓の正しさが再発見される。
ハツクニは初国の意と考えられる。
「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」(出雲風土記・意宇郡)(注9)
「初国」の確例である。ヤマト朝廷の中央の人々にこの話が知られていたか不明ながら、「初国」という使い方があったことは想定される。「初国」は大系本風土記に「初めに作った国。」(100頁)、岩波古語辞典に「はじめて作った国。」(1069頁)と説明されている。
そして、とても興味深いことに、神武天皇の幼名は、「狭野尊(最初のノは甲類)」であった。「狭布(ノは甲類)」に同じである。すなわち、ヤマトの国の首長として君臨することになった神武天皇の版図は、後に大和国と呼ばれる一行政単位に当たるところ、それもその中心部分にすぎない。出雲風土記では、機織りした布地は狭いものだから、それを縫い合わせて服を作ろうということを比喩にしていて、いわゆる国引き伝承を伝えている。国引きの結果、島根半島は固まったというのである。同様に、狭野尊が統治した場所は、とても狭い範囲であったことを物語っている。幼名が「狭野尊」であり、長じて「神日本磐余彦尊」という名が「加」わっただけで、変わったわけではない。
以上のことから、「故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」は、大系本日本書紀の括弧の取り方が正しかったことが理解された。ただし、大系本日本書紀の補注にある解説は当たらない。
後代の人たちが「初国」の小ささを顕彰する理由は思いつかない。風土記は日本書紀と同じ頃に成ったと考えられている。
また、神武と崇神を別けようとするあまり、不思議な解釈を試みることもいただけない。新編全集本日本書紀は、「初めて(最初に)国を治められた天皇。ハツ+国知ラスの形で、「馭」は「御」に同じく、使いこなす、おさめる意。崇神天皇もハツクニシラス天皇と呼ばれるが、崇神記に「所レ知二初国一之…」、崇神紀には「御二肇国一天皇」……とあるように、ハツクニ+知ラスの語形ゆえ、国の初めを治めたということで、必ずしも初代を意味しない。その点に差異がある。」(233頁)(注10)とし、新釈全訳日本書紀は、「始めて天下を治めた天皇。国の中心に都を置き、正妃を立て帝位に就いたことをもっていう。神武紀冒頭の「恢弘大業、光宅天下」せんとしたことがいまここに実現され、東征の完了となる。」(339頁)、「[神武の]「始馭天下之天皇」が初めて天下を治めた天皇の意であるのに対し、[崇神の]「御肇国天皇」は祭祀・税制が確立しかたちをととのえた国家を治めた天皇の意。」(401頁)としている。ハツクニは「初国」であり、初めに作った国であることに変わらない。それを治めたのである。「初雁」、「初垂」、「初子」、「初花」、「初春」、「初穂」といった例しか見られない中、副詞のように考えた「ハツ+国知ラス」の形を認めることには無理がある。
「称之曰」については、紀にある他の三例ですべてコトアゲシテと訓んでいる。「故古語称之曰、……」の場合もそう訓まれるべきであろう(注11)。以下に示す紀の例では「祈」に対照する箇所に用いられており、言葉を発することでそのようになることを期待して大声をあげたものと考えられている。万葉集の例は、無理やり大声を上げて唱えることを言っている。
則ち称して曰はく、「正哉吾勝ちぬ」とのたまふ。故、因りて名けて、勝速日天忍穂耳尊と曰す。(神代紀第六段一書第三)
已にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち称して曰はく、「杉及び櫲樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以て瑞宮を為る材にすべし。柀は以て顕見蒼生の奥津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。夫の噉うべき八十木種、皆能く播し生う」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
然して後に、母吾田鹿葦津姫、火燼の中より出来でて、就きて称して曰はく、「妾が生める児及び妾が身、自づからに火の難に当へども、少しも損ふ所無し。天孫豈見しつや」といふ。(神代紀第九段一書第五)
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国 然れども 言挙ぞ吾がする 言幸く 真幸く坐せと 恙なく 幸く坐さば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙す吾は 言挙すわれは(万3253)
我が欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ(万4124)
したがって、課題の文章は次のように訓むべきことが結論される。
故、古語に称して曰さく、「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇を号けて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」とまをす。(故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。)
この訓みに対する傍証として、祝詞の形式、「白し給はく……給へと称辞竟へ奉らくと申す」があげられる。すなわち、この箇所は、神武元年正月一日の賀で寿いだ物言いなのである。祝詞風に朗誦することほどふさわしいものはない。無文字時代のヤマトコトバ文化圏には言=事であるとする言霊信仰が行きわたっており、括弧内の言葉を言うことで、言葉=事柄たらしめんと定義している。だから、「~と曰す」と言っているのである。
「古語」を使いながら祝詞のようにコトアゲして、どこから攻撃を受けるかわからない状況のなかで、何とか好ましい方向へと導こうと知恵を絞っている様子がうまく活写されている。そもそも、ヤマトという国は、原則、武力で制圧して成った国ではない。「言向け和平」(景行記)した末に統合を勝ち取っている。言葉の力によって従わせたということであるが、ヤマトコトバの巧みな使い方をもってヤマトコトバ語族を平定したということであろう。各地に住まう人々が一つにまとまっている状態を何と言うか。クニである。クニがハッと現れ出た最初の瞬間、それがハツクニである(注12)。
神武天皇時代、苦労した東征が終わり、凶賊を誅滅して都を置くまでに安定を勝ち取ったとき、クニなるものがハッと現れている(注13)。崇神天皇時代、長引いた疫病がようやく鎮まり、四道将軍が遣わされて天下太平となり、租税徴収が可能となったとき、クニなるものがハッと現れている。天皇が領有するから初めて一つにまとまってクニとなるという洒落を掛けている。そんな御代の天皇のことを、ハツクニシラススメラミコトと呼んだ、つまりは名をもって体となしているのであった(注14)。忠実に言=事であるようにめぐらされ使われている。ヤマトコトバの真髄の表れと言える(注15)。
(注)
(注1)崇神紀に、「始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て、天神地祇、 共に和享みて、風雨時に順ひ、百穀用て成りぬ。家給ぎ人足りて、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す。」(十二年九月)とあり、崇神記に、「爾くして、天下太きに平ぎ、人民富み栄えき。是に、初めて男の弓端の調、女の手末の調を貢らしめき。故、其の御世を称へて、初国知らす御真木天皇と謂ふぞ。」(崇神記)に対応するから「御肇国天皇」をハツクニシラススメラミコトと訓んでいる。
(注2)紀の古訓にハツクニシラススメラミコトとあり、日本書紀私記甲本にハツクニシロシメスタカラノミコト(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247543/14?ln=ja)ともあることなどによっている。矢嶋1989.は「タカラ」は「スメラ」の誤写と推定している。
(注3)神代紀第十一段一書第一にある「復加号曰神日本磐余彦尊。」記事は、「後撥平天下奄有八洲。」の「故」であるとしている。広いところを治めることになったのだから、「狭野尊」という名に「加」えて「号」したといっている。これを昔、そう言われたからというので神武紀の記述の「古語称之曰」と絡めて考えるのは適当ではない。新たな名前が「加」えているだけだからである。幼少時の「狭野尊」という呼び名が抹消されたわけではない。
(注4)文脈上の読解が問題であって、実際にいかなる版図まで統治しているのかという史学についてはかかわらない。
(注5)紀の文中に、「馭」字が音仮名以外で用いられている例は、次のとおりである。「治」、「御」、「知」と同義である。「馭二大亀一」は、馬を御す、制御するに同じである。
故、其の父母、勅して曰はく、「仮使、汝此の国を治らば、必ず残ひ傷る所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国を馭すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
来到りて即ち顕国玉の女子下照姫 亦の名は高姫、亦の名は稚国玉。を娶りて、因りて留住りて曰はく、「吾亦、葦原中国を馭らむと欲ふ」といひて、遂に復命さず。(神代紀第九段本文)
屋の蓋未だ合へぬに、豊玉姫、自ら大亀に馭りて、女弟玉依姫を将て、海を光して来到る。(神代記第十段一書第三)
則ち田村皇子を召して謂りて曰はく、「天位に昇りて鴻基を経め綸へ、万機を馭して黎元を亭育ふことは、本より輙く言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、汝慎みて察にせよ。軽しく言ふべからず」とのたまふ。(推古紀三十六年三月)
(注6)ホホデミについては、拙稿「二人の彦火火出見について」参照。
(注7)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照。
(注8)神代紀第十一段一書第一に、「後撥二-平天下一奄二-有八洲一。」したから、それ「故」に、「復加レ号曰二神日本磐余彦尊一。」とあった。「神」や「日本」と冠することに不思議はないが、「磐余」が付く点は謂われは、その語自体に秘められていると考えて然りである。
(注9)詔りごととして語られている。なお、沖森・佐藤・矢嶋2016.は、「八雲立つ出雲国は、狭布の堆れる国在るかも。初国小さく作れり。故、作り縫はむ」(101頁)と訓んでいる。
(注10)矢嶋1989.は、「天下」はクニとは訓めないとし、語構成が「始馭二天下一之天皇」(神武紀)と「御二肇国一天皇」(崇神紀)とでは異なるから、「始馭天下之天皇」はハジメテアメノシタシラシシ(シラシメシシ、オサメタマヒシ)スメラミコトと訓むべきとしている。筆者の当初案において採ったが、「始めて天下を馭しし天皇」を「神日本磐余彦火火出見天皇」と名づけたというのは、命名法としておかしなところがある。名前は、何かに由来して名づけられるものだろう。この例で言えば、「始彦火火出見天皇」などとなければ何を言っているのかわからない。
(注11)紀では、「称之曰」はコトアゲシテイハク、コトアゲシテノタマハクが通例である。祝詞の「称辞」はタタヘゴトと訓まれるが、実際には当初、貧相な建物しか建てられていないのだから、「称」を賞讃の意味をもってタタヘテと訓むのは皮肉になってしまい不適切である。言葉を躍らせてそうなるようにと強弁している。
(注12)ハツ(初)という語が擬態語に由来するであろう点については、拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/417311a243b4108b1fc20b9eed9c8db1参照。
(注13)矢嶋1989.は、「天下」という字面はクニとは訓み難いとしている。しかし、逆に、「国家」と書いてアメノシタと訓む例は見える(憲法十七条の四)。「天神地祇」でアマツカミクニツカミとなり、クニとは「地」のこと、「地」は「天」の「下」にあるものとの認識は間違ってはいないだろう。そして、「始治国皇祖」(孝徳紀大化三年四月)と訓まれ、慣わされている。ハツクニシラスというひとまとまりの言葉が通行していたと考えられる。
神代紀、記上の三貴士分治の記事で、「国」という字は「根国」(神代紀第五段本文、同一書第一)、「夜之食国」(記上)と使われている。記では、スサノヲが成人してもなお啼きわめき、命じられた「夜之食国」を治めずに「妣が国の根之堅州国」へ行きたいと言ったので、イザナキは大いに怒り、「此の国」に住んでいてはいけないと追い払っている。「国」字はこのように使われていた。神武天皇が治めるところは天上の高天原でも根国、夜之食国でもない。話が現実的になって急に注目を浴びている地上世界に関して、ある部分を区切って統治することを言おうとしている。オホアナムチとスクナビコナがつくった天下についてばかりが問われる御代になったということである。統治することはシル(知、領)でその尊敬語がシラスであって、その対象として地上世界があげられている。もはや「根国」や「夜之食国」は問題とされない。新しくカテゴライズされた言葉、クニが出現したのである。意訳して記した形が「始馭天下之天皇」である。古事記本文冒頭の「天地初発」と同様の状況、「ハッ(💡)クニ」であると認められる。(注12)の参照論文に詳述している。
(注14)倉野1978.は本居宣長説に即しつつ、神武紀にいうハツクニシラススメラミコトは人皇第一代の意、崇神記にいうハツクニシラススメラミコトは人の国家の開始を物語るものとしている。そのような講釈調の言葉づかいが上代に行われていたとは考えられない。聞いた相手が直観的にわかるものでなければ話にならない。書記としても、当時のリテラシーとして、「始馭天下之天皇」と書いてあってハッ(💡)と気づかないとは思っていなかったから、訓注など付けずにそう記したものと考える。
(注15)語構成の違いは表記法の問題である。音声言語として爛熟したヤマトコトバの後に位置づけられる。言葉を交わすだけで互いに通じて社会が成り立っていたのだから、書き方の工夫はヤマトコトバ研究において二の次のことである。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
沖森・佐藤・矢嶋2016. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(「『日本書紀』β群の編述順序─神武紀・景行紀の比較から─」『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年11月、國學院大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000609)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本風土記 秋本吉郎校注『風土記』岩波書店、1958年。
谷口2006. 谷口雅博「神武天皇と崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)」『国文学 解釈と教材の研究』第51巻1号、平成18年1月。
矢嶋1989. 矢嶋泉「ハツクニシラススメラミコト」『青山語文』19号、平成元年3月。
※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。
本稿では、神武紀の訓みにおいて、「始馭天下之天皇」を何と訓んだらいいのかについて、筆録者の視点、工夫を顧慮しながら検証を試みる。同じ名前の人が二人いるのは矛盾であるとの現代人の先入観を排除し、最終的に上代の人のものの考え方に辿り着くべく、結論を先に提示せずに回りくどい議論を行っている。その回りくどさは実は記述自体にもともと内包されていると言えるものだから、回りくどさまでも正しく理解することが求められると考える。
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神武紀元年条の原文には次のようにある。
辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年。尊正妃為皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大来目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖気。倒語之用、始起乎茲。(神武紀元年正月)
これをいかに訓むか、特に、「故」以降の、「古語称之曰」がどこまでを指すのか、定まっているわけではない。
故に古語に称して曰さく、「畝傍の橿原に、宮柱底磐の根に太立て、高天原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇を、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」。(大系本日本書紀240頁、兼右本に準ずる)
故、古語に称へて曰さく、「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇」とまをし、号けたてまつりて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す。(新編全集本日本書紀233頁)
「故」で始まる文章である。前の文章を理由としてそういうことにした、と叙述している構文ととれる。前にある文章で、天皇は橿原宮に即位して皇后を立て、皇子が生まれたと言っている。だからそれゆえ、古語で称えて次のように言った、と捉えられている。古語とあるのは、慣用的な表現が古くから行われていたことを物語っている。よく似た表現は、記に二例見える。
「……おれ、大国主神と為り、亦、宇都志国玉神と為りて、其の我が女須勢理毘売を適妻と為て、宇迦能山の山本に、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷椽たかしりて居れ。是の奴や」といひき。(記上)
「……唯に僕が住所のみは、天つ神御子の天津日継知らすとだる天の御巣の如くして、底津石根に宮柱ふとしり、高天原に氷木たかしりて治め賜はば、僕は百足らず八十坰手に隠りて侍らむ。……」と如此白して、……。(記上)
第一例は、大穴牟遅神が黄泉ひら坂から逃げ帰り脱出したときに、須佐之男大神から投げかけられている。葦原中国に建てた建物の、千木をあたかも高天原に届くがごとく高く突き立てよ、と言っている。第二例は、大国主神の国譲りの記事であり、やはり葦原中国の安住する立派な建物を作ってくれたらそこに隠居しようと言っている。どちらも建物は葦原中国にある。ただし、これらは会話文中の言葉であり、負けを認めたときの捨て台詞として用いられている。この点は注意が必要である。
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建物の建て方として同じような記述である。それになぞらえて語られているから、「古語称之曰」と表現されているのだろう。場所は、葦原中国の畝傍の橿原である。そこに立派な宮殿を造営して即位した。実際にどのようなものが造られたか記述はなく、しかも会話文の中に出てくる言葉である。実状としては、「規二-摹大壮一」、「披払二山林一、経二-営宮室一」、「可レ治之」との注意があり、「命二有司一、経二-始帝宅一」、「即二-帝-位於橿原宮一」と抽象的に説明されているだけである。
……令を下して曰はく、「……誠に帝都を恢き廓めて、大壮を規り摹るべし。而るを……。巣に棲み穴に住みて、習俗惟常となりたり。……。且当に山林を披き払ひ、宮室を経営りて、恭みて宝位に臨みて、元元を鎮むべし。……。然して後に、六合を兼ねて都を開き、八紘を掩ひて宇にせむこと、亦可からずや。観れば、夫の畝傍山 畝傍山、此には宇禰縻夜摩と云ふ。の東南の橿原の地は、蓋し国の墺区か。治るべし」とのたまふ。是の月に、即ち有司に命せて、帝宅を経り始む。(神武前紀己未年三月)
だから、古語を用いて称賛しているように呼んでいることになっている。ここまでを考えるなら、「古語称之曰」がかかるのは、大系本、新編全集本とも違い、「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」までと考えられる。そういうふうに「古語」を使って言っておいて、そして、「而始馭天下之天皇」のを、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とした(注3)。そういう見方が妥当だろう。建物を建てたことが求められるのは、「天下」を統治していることを既成事実化したいからとみられる(注4)。
「古語称之曰」が後にくる「而始馭天下之天皇」という語までかかると考えるには、神武紀以前からそのような言い方があることが条件となる。「天下」の用法としては三貴子の分治の話などがある。
已にして、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、以て高天原を治すべし。月読尊は、以て滄海原の潮の八百重を治すべし。素戔嗚尊は、以て天下を治すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第六)
一書に曰はく、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原を御すべし。月夜見尊は、日に配べて天の事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原を御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)
此の時に、いざなきのみこと、大きに歓喜びて詔はく、「吾は子を生み生みて、生み終へに三の貴き子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠の玉の緒、もゆらに取りゆらかして、天照大御神に賜ひて、詔はく、「汝が命は、高天原を知らせ」と事依して賜ふぞ。故、其の御頸珠の名は、御倉板挙之神と謂ふ。次に月読命に詔はく、「汝が命は、夜之食国を知らせ」と事依すぞ。次に建速須佐之男命に詔はく、「汝が命は、海原を知らせ」と事依すぞ。(記上)
「天下」などを「治」、「御」、「知」するように書いてある。「馭」も同義である(注5)。神代紀第五段一書第六「治天下」と同じ意味で、神武紀元年の「馭天下」もあると考えられる。天皇は天照大神の末裔ではあるが、天孫降臨以降、高天原ではなくて地上を治めることになっている。そして、「天下」を治めることを始めた天皇について、「号曰二神日本磐余彦火火出見天皇一焉。」とすると言っていると考えられる。
神代紀において「天下」は上述の例を含めて六例ある。すべてアメノシタと訓んでいる。
吾已に大八洲国及び山川草木を生めり。何ぞ天下の主者を生まざらむ。(吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。)(神代紀第五段本文)
是の時に、素戔嗚尊、年已に長いたり。復八握鬚髯生ひたり。然れども天下を治さずして、常に啼き泣ち恚恨む。(是時素戔嗚尊、年已長矣。復生八握鬚髯、雖然不治天下、常以啼泣恚恨。)(神代紀第五段一書第六)
夫の大己貴命と、少彦名命と、力を戮せ心を一にして、天下を経営る。(夫大己貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下。)(神代紀第八段一書第六)
今此の国を理むるは、唯し吾一身のみなり。其れ吾と共に天下を理むべき者、蓋し有りや。(今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。)(神代紀第八段一書第六)
次に狭野尊。亦は神日本磐余彦尊と号す。狭野と所称すは、是、年少くまします時の号なり。後に天下を撥ひ平げて、八洲を奄有す。故、復号を加へて、神日本磐余彦尊と曰す。(次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者、是年少時之号也。後撥平天下奄有八洲。故復加号曰神日本磐余彦尊。)(神代紀第十一段一書第一)
以上のことから、問題の部分は次のように訓むのが正統的かと思われる。途中にある「而」字の前で区切った。(後述のとおり、この訓みは正されるべきである。)
故、古語に称へて曰さく、「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙る」とまをす。而して、始めて天下を馭しし天皇を号けて曰さく、神日本磐余彦火火出見天皇とまをす。(故、古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇号曰、神日本磐余彦火火出見天皇焉。)
すでに述べたとおり、「底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙る」なる言い方は、「古語」において、負けを認めたときの捨て台詞であり、此畜生的な意味合いを帯びたものである点は留意されなければならない。すなわち、「称之曰」として何ら橿原宮を賛美するものでないのである。不思議に思われるかもしれないが、天皇の名の話の後に続く文を見れば疑念は氷解する。
初めて、天皇、天基を草創めたまふ日に、大伴氏の遠祖道臣命、大来目部を帥ゐて、密の策を奉承けて、能く諷歌倒語を以て、妖気を掃ひ蕩せり。倒語の用ゐらるるは、始めて兹に起れり。(神武紀元年正月)
即位式典の日に、「奉二-承密策一、能以二諷歌倒語一、掃二-蕩妖気一。」なる不可思議なことが行われている。「倒語之用、始起二乎茲一。」と、最初の出来事だと言っている。少しもハッピーな雰囲気ではない。内々でしか通じない暗号文を交わし、意味が表に立たないような歌を歌ったり、意味が反対になる言葉を発している。単純、単細胞な輩には通じないような言葉の使い方、修辞法における高等テクニックを用いることで、事態が悪い方へ傾かないように努めている。言葉の意味を反対にして使ったのはこのときが最初であるとしている。
すなわち、負け惜しみの捨て台詞で此畜生的な文言、「底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙る」を使っているのは、虚仮威しのためのものなのである。実際の宮殿は大したことない建物なのであるが、財政的にも軍事的にも、敵方やそうなる可能性のある相手に対し、強いと受け取られるべく画策している。嘘称え、フェイクプレイズ(fake praise)である。なぜか。東征の途中、兄猾・弟猾、兄磯城・弟磯城、長髄彦など、ずるがしこい奴らと戦ってきた。そして、相手以上にずるがしこくたちまわって勝ってきたのであった。情報戦を制するものが実戦を制する。だから、勝って兜の緒を締めるように、残党として必ずいるであろう周囲の仮想敵に対して油断しないようにしている。相手をだますような情報を流しているのであり、時にはそれ以前に味方からだまして難を逃れようとしている。本当は大したことはないのであるがすごいものであるように、また、内心はもう少し立派なものを建てる余裕が欲しいのであるが、そのことも了解している人の間でなら通じるように、古くからの形容表現としての「古語」を用いている。「諷歌倒語」の精神とは、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに伝えるレトリックを用いることである。それによって、賊勢を排除しながら自らの党派の結束力、求心力を高めている。「妖気」を掃って溶かしている。
ものすごい宮室が建てられているわけではない。都としても立派とは言えない。人がたくさん集まっているとまでは言えない。しかし、それがばれると、周囲に潜在する敵から攻撃を受ける。そうならないために、「古語」を使って「称」した。と同時に、天皇の名前も相手を怖がらせるようにしておいた。「而して、始めて天下を馭しし天皇を号けて曰さく、神日本磐余彦火火出見天皇とまをす。」(注6)と訓むと仮定できる。人はあまりいないけれど、あたかも大勢いるようにアピールするには、天皇の名を大仰にして脅かしておけばよい。「神日本磐余彦火火出見天皇」である。「始馭二天下一」す事をしたから、言(葉)としてもそれに合わせて「号曰」したということである。それは、ひるがえって、「号曰」したから「馭二天下一」できているともいえるのである。それが、言霊信仰の本質(注7)、言=事であることによる既成事実化である。
「神日本磐余彦火火出見天皇」は「神」と付いていて神々しい。「日本」とついていてヤマト地域の首長らしい。「磐余」と付いているのには、その謂われ譚におぼしく、たくさんの人、特に軍勢が集まっていることを言っている。強そうに聞こえるではないか(注8)。
復、兄磯城の軍有りて、磐余邑に布き満めり。磯、此には志と云ふ。賊虜の拠る所は、皆是要害の地なり。(神武前紀戊午年九月)
我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて号けて磐余とす。(神武前紀己未年二月)
是の時に、磯城の八十梟帥、彼処に屯聚み居たり。屯聚居、此には怡波瀰萎と云ふ。……故、名けて磐余邑と曰ふ。(神武前紀己未年二月)
「磐余」の謂われ譚が述べられている。ということは、それも冒頭から検討している「古語」に当たるのではないか。そう言われてみればそういうことになる、ということである。無意識化下に沈静していた言葉の内実を呼び起こしているから、それは深層の「古語」ということになる。すると、「古語称之曰」は、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」までかかる可能性が出てきており、改めて考え直さなければならない。追究してみると、途中の「而始馭天下之天皇」も「古語」となるはずである。ここに、ハツクニシラススメラミコトという紀の傍訓の正しさが再発見される。
ハツクニは初国の意と考えられる。
「八雲立つ出雲の国は、狭布の稚国なるかも。初国小さく作らせり。故、作り縫はな」(出雲風土記・意宇郡)(注9)
「初国」の確例である。ヤマト朝廷の中央の人々にこの話が知られていたか不明ながら、「初国」という使い方があったことは想定される。「初国」は大系本風土記に「初めに作った国。」(100頁)、岩波古語辞典に「はじめて作った国。」(1069頁)と説明されている。
そして、とても興味深いことに、神武天皇の幼名は、「狭野尊(最初のノは甲類)」であった。「狭布(ノは甲類)」に同じである。すなわち、ヤマトの国の首長として君臨することになった神武天皇の版図は、後に大和国と呼ばれる一行政単位に当たるところ、それもその中心部分にすぎない。出雲風土記では、機織りした布地は狭いものだから、それを縫い合わせて服を作ろうということを比喩にしていて、いわゆる国引き伝承を伝えている。国引きの結果、島根半島は固まったというのである。同様に、狭野尊が統治した場所は、とても狭い範囲であったことを物語っている。幼名が「狭野尊」であり、長じて「神日本磐余彦尊」という名が「加」わっただけで、変わったわけではない。
以上のことから、「故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」は、大系本日本書紀の括弧の取り方が正しかったことが理解された。ただし、大系本日本書紀の補注にある解説は当たらない。
植村清二[『神武天皇─日本の建国─』]のいうように、元来、大和朝廷が成立して、かなり時代が降れば、その建設者・始祖という観念が生ずるのは自然であり、ハツクニシラススメラミコトとは、単にそうした観念を示す呼称に過ぎず、かかる具体的な物語の持主である[神武・崇神]両天皇に、共に与えられたもので、ある個人の特定の呼称が他の個人に移されたものではなく、またこの呼称の成立もさほど古いものではないと見るのがよいか。孝徳[紀大化]三年四月条に「始治国皇祖(はつくにしらししすめみおや)」とあるのを参照。(405頁)
後代の人たちが「初国」の小ささを顕彰する理由は思いつかない。風土記は日本書紀と同じ頃に成ったと考えられている。
また、神武と崇神を別けようとするあまり、不思議な解釈を試みることもいただけない。新編全集本日本書紀は、「初めて(最初に)国を治められた天皇。ハツ+国知ラスの形で、「馭」は「御」に同じく、使いこなす、おさめる意。崇神天皇もハツクニシラス天皇と呼ばれるが、崇神記に「所レ知二初国一之…」、崇神紀には「御二肇国一天皇」……とあるように、ハツクニ+知ラスの語形ゆえ、国の初めを治めたということで、必ずしも初代を意味しない。その点に差異がある。」(233頁)(注10)とし、新釈全訳日本書紀は、「始めて天下を治めた天皇。国の中心に都を置き、正妃を立て帝位に就いたことをもっていう。神武紀冒頭の「恢弘大業、光宅天下」せんとしたことがいまここに実現され、東征の完了となる。」(339頁)、「[神武の]「始馭天下之天皇」が初めて天下を治めた天皇の意であるのに対し、[崇神の]「御肇国天皇」は祭祀・税制が確立しかたちをととのえた国家を治めた天皇の意。」(401頁)としている。ハツクニは「初国」であり、初めに作った国であることに変わらない。それを治めたのである。「初雁」、「初垂」、「初子」、「初花」、「初春」、「初穂」といった例しか見られない中、副詞のように考えた「ハツ+国知ラス」の形を認めることには無理がある。
「称之曰」については、紀にある他の三例ですべてコトアゲシテと訓んでいる。「故古語称之曰、……」の場合もそう訓まれるべきであろう(注11)。以下に示す紀の例では「祈」に対照する箇所に用いられており、言葉を発することでそのようになることを期待して大声をあげたものと考えられている。万葉集の例は、無理やり大声を上げて唱えることを言っている。
則ち称して曰はく、「正哉吾勝ちぬ」とのたまふ。故、因りて名けて、勝速日天忍穂耳尊と曰す。(神代紀第六段一書第三)
已にして其の用ゐるべきものを定む。乃ち称して曰はく、「杉及び櫲樟、此の両の樹は、以て浮宝とすべし。檜は以て瑞宮を為る材にすべし。柀は以て顕見蒼生の奥津棄戸に将ち臥さむ具にすべし。夫の噉うべき八十木種、皆能く播し生う」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
然して後に、母吾田鹿葦津姫、火燼の中より出来でて、就きて称して曰はく、「妾が生める児及び妾が身、自づからに火の難に当へども、少しも損ふ所無し。天孫豈見しつや」といふ。(神代紀第九段一書第五)
葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙せぬ国 然れども 言挙ぞ吾がする 言幸く 真幸く坐せと 恙なく 幸く坐さば 荒磯波 ありても見むと 百重波 千重波しきに 言挙す吾は 言挙すわれは(万3253)
我が欲りし 雨は降り来ぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ(万4124)
したがって、課題の文章は次のように訓むべきことが結論される。
故、古語に称して曰さく、「畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太立て、高天之原に搏風峻峙りて、始馭天下之天皇を号けて神日本磐余彦火火出見天皇と曰す」とまをす。(故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。)
この訓みに対する傍証として、祝詞の形式、「白し給はく……給へと称辞竟へ奉らくと申す」があげられる。すなわち、この箇所は、神武元年正月一日の賀で寿いだ物言いなのである。祝詞風に朗誦することほどふさわしいものはない。無文字時代のヤマトコトバ文化圏には言=事であるとする言霊信仰が行きわたっており、括弧内の言葉を言うことで、言葉=事柄たらしめんと定義している。だから、「~と曰す」と言っているのである。
「古語」を使いながら祝詞のようにコトアゲして、どこから攻撃を受けるかわからない状況のなかで、何とか好ましい方向へと導こうと知恵を絞っている様子がうまく活写されている。そもそも、ヤマトという国は、原則、武力で制圧して成った国ではない。「言向け和平」(景行記)した末に統合を勝ち取っている。言葉の力によって従わせたということであるが、ヤマトコトバの巧みな使い方をもってヤマトコトバ語族を平定したということであろう。各地に住まう人々が一つにまとまっている状態を何と言うか。クニである。クニがハッと現れ出た最初の瞬間、それがハツクニである(注12)。
神武天皇時代、苦労した東征が終わり、凶賊を誅滅して都を置くまでに安定を勝ち取ったとき、クニなるものがハッと現れている(注13)。崇神天皇時代、長引いた疫病がようやく鎮まり、四道将軍が遣わされて天下太平となり、租税徴収が可能となったとき、クニなるものがハッと現れている。天皇が領有するから初めて一つにまとまってクニとなるという洒落を掛けている。そんな御代の天皇のことを、ハツクニシラススメラミコトと呼んだ、つまりは名をもって体となしているのであった(注14)。忠実に言=事であるようにめぐらされ使われている。ヤマトコトバの真髄の表れと言える(注15)。
(注)
(注1)崇神紀に、「始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て、天神地祇、 共に和享みて、風雨時に順ひ、百穀用て成りぬ。家給ぎ人足りて、天下大きに平なり。故、称して御肇国天皇と謂す。」(十二年九月)とあり、崇神記に、「爾くして、天下太きに平ぎ、人民富み栄えき。是に、初めて男の弓端の調、女の手末の調を貢らしめき。故、其の御世を称へて、初国知らす御真木天皇と謂ふぞ。」(崇神記)に対応するから「御肇国天皇」をハツクニシラススメラミコトと訓んでいる。
(注2)紀の古訓にハツクニシラススメラミコトとあり、日本書紀私記甲本にハツクニシロシメスタカラノミコト(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247543/14?ln=ja)ともあることなどによっている。矢嶋1989.は「タカラ」は「スメラ」の誤写と推定している。
(注3)神代紀第十一段一書第一にある「復加号曰神日本磐余彦尊。」記事は、「後撥平天下奄有八洲。」の「故」であるとしている。広いところを治めることになったのだから、「狭野尊」という名に「加」えて「号」したといっている。これを昔、そう言われたからというので神武紀の記述の「古語称之曰」と絡めて考えるのは適当ではない。新たな名前が「加」えているだけだからである。幼少時の「狭野尊」という呼び名が抹消されたわけではない。
(注4)文脈上の読解が問題であって、実際にいかなる版図まで統治しているのかという史学についてはかかわらない。
(注5)紀の文中に、「馭」字が音仮名以外で用いられている例は、次のとおりである。「治」、「御」、「知」と同義である。「馭二大亀一」は、馬を御す、制御するに同じである。
故、其の父母、勅して曰はく、「仮使、汝此の国を治らば、必ず残ひ傷る所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国を馭すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
来到りて即ち顕国玉の女子下照姫 亦の名は高姫、亦の名は稚国玉。を娶りて、因りて留住りて曰はく、「吾亦、葦原中国を馭らむと欲ふ」といひて、遂に復命さず。(神代紀第九段本文)
屋の蓋未だ合へぬに、豊玉姫、自ら大亀に馭りて、女弟玉依姫を将て、海を光して来到る。(神代記第十段一書第三)
則ち田村皇子を召して謂りて曰はく、「天位に昇りて鴻基を経め綸へ、万機を馭して黎元を亭育ふことは、本より輙く言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、汝慎みて察にせよ。軽しく言ふべからず」とのたまふ。(推古紀三十六年三月)
(注6)ホホデミについては、拙稿「二人の彦火火出見について」参照。
(注7)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照。
(注8)神代紀第十一段一書第一に、「後撥二-平天下一奄二-有八洲一。」したから、それ「故」に、「復加レ号曰二神日本磐余彦尊一。」とあった。「神」や「日本」と冠することに不思議はないが、「磐余」が付く点は謂われは、その語自体に秘められていると考えて然りである。
(注9)詔りごととして語られている。なお、沖森・佐藤・矢嶋2016.は、「八雲立つ出雲国は、狭布の堆れる国在るかも。初国小さく作れり。故、作り縫はむ」(101頁)と訓んでいる。
(注10)矢嶋1989.は、「天下」はクニとは訓めないとし、語構成が「始馭二天下一之天皇」(神武紀)と「御二肇国一天皇」(崇神紀)とでは異なるから、「始馭天下之天皇」はハジメテアメノシタシラシシ(シラシメシシ、オサメタマヒシ)スメラミコトと訓むべきとしている。筆者の当初案において採ったが、「始めて天下を馭しし天皇」を「神日本磐余彦火火出見天皇」と名づけたというのは、命名法としておかしなところがある。名前は、何かに由来して名づけられるものだろう。この例で言えば、「始彦火火出見天皇」などとなければ何を言っているのかわからない。
(注11)紀では、「称之曰」はコトアゲシテイハク、コトアゲシテノタマハクが通例である。祝詞の「称辞」はタタヘゴトと訓まれるが、実際には当初、貧相な建物しか建てられていないのだから、「称」を賞讃の意味をもってタタヘテと訓むのは皮肉になってしまい不適切である。言葉を躍らせてそうなるようにと強弁している。
(注12)ハツ(初)という語が擬態語に由来するであろう点については、拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/417311a243b4108b1fc20b9eed9c8db1参照。
(注13)矢嶋1989.は、「天下」という字面はクニとは訓み難いとしている。しかし、逆に、「国家」と書いてアメノシタと訓む例は見える(憲法十七条の四)。「天神地祇」でアマツカミクニツカミとなり、クニとは「地」のこと、「地」は「天」の「下」にあるものとの認識は間違ってはいないだろう。そして、「始治国皇祖」(孝徳紀大化三年四月)と訓まれ、慣わされている。ハツクニシラスというひとまとまりの言葉が通行していたと考えられる。
神代紀、記上の三貴士分治の記事で、「国」という字は「根国」(神代紀第五段本文、同一書第一)、「夜之食国」(記上)と使われている。記では、スサノヲが成人してもなお啼きわめき、命じられた「夜之食国」を治めずに「妣が国の根之堅州国」へ行きたいと言ったので、イザナキは大いに怒り、「此の国」に住んでいてはいけないと追い払っている。「国」字はこのように使われていた。神武天皇が治めるところは天上の高天原でも根国、夜之食国でもない。話が現実的になって急に注目を浴びている地上世界に関して、ある部分を区切って統治することを言おうとしている。オホアナムチとスクナビコナがつくった天下についてばかりが問われる御代になったということである。統治することはシル(知、領)でその尊敬語がシラスであって、その対象として地上世界があげられている。もはや「根国」や「夜之食国」は問題とされない。新しくカテゴライズされた言葉、クニが出現したのである。意訳して記した形が「始馭天下之天皇」である。古事記本文冒頭の「天地初発」と同様の状況、「ハッ(💡)クニ」であると認められる。(注12)の参照論文に詳述している。
(注14)倉野1978.は本居宣長説に即しつつ、神武紀にいうハツクニシラススメラミコトは人皇第一代の意、崇神記にいうハツクニシラススメラミコトは人の国家の開始を物語るものとしている。そのような講釈調の言葉づかいが上代に行われていたとは考えられない。聞いた相手が直観的にわかるものでなければ話にならない。書記としても、当時のリテラシーとして、「始馭天下之天皇」と書いてあってハッ(💡)と気づかないとは思っていなかったから、訓注など付けずにそう記したものと考える。
(注15)語構成の違いは表記法の問題である。音声言語として爛熟したヤマトコトバの後に位置づけられる。言葉を交わすだけで互いに通じて社会が成り立っていたのだから、書き方の工夫はヤマトコトバ研究において二の次のことである。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
沖森・佐藤・矢嶋2016. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(「『日本書紀』β群の編述順序─神武紀・景行紀の比較から─」『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年11月、國學院大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000609)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本風土記 秋本吉郎校注『風土記』岩波書店、1958年。
谷口2006. 谷口雅博「神武天皇と崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)」『国文学 解釈と教材の研究』第51巻1号、平成18年1月。
矢嶋1989. 矢嶋泉「ハツクニシラススメラミコト」『青山語文』19号、平成元年3月。
※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。