(注)
(注1)鎌倉時代に、中宮寺の尼僧、信如が、同寺の復興にあたって、寺の本願と伝えられる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の忌日を知りたくなった。夢のお告げに繍帳の銘文に記されていると教えられ、法隆寺綱封蔵の泥棒騒ぎのおかげで調査ができ明らかとなった。繍帳はすでに劣化が始まっていたが、当時の専門家が銘文を解読した。それが、上宮聖徳法王帝説に記され、他に、宮内庁書陵部蔵の中宮寺尼信如祈請等事(定円の解読)、西尾市立図書館内岩瀬文庫蔵の松下見林本天寿国曼荼羅銘文(平野神社兼輔の解読)などがあって、それらの異同を校訂した飯田2000.の水を漏らさぬ考究の結果、全400字が復原されている。
建治元年(1275)には補修されて新繍のものも作られ、弘安元年(1278)に中宮寺で供養が行われた。現在見られる繍帳のうち、汚い部分のほうが鎌倉時代の後補部分であるとされている。「原本の下地裂(したじぎれ)は、紫地平絹(むらさきじへいけん)に紫地羅(むらさきじら)(羅はもじり組織の織物)を重ねた部分と、白地羅(しろじら)の部分からなる。」(『日本美術全集』、267頁。この項、三田寛之)。建治の新繍の生地は紫綾、部分的に白平絹と異なり、繍糸の撚り方も異なっていると研究されている。江戸時代、安永年間(1772~1782)頃に、残片を集めて縦二尺九寸(約87cm)×横二尺七寸(約81cm)の軸装となり、大正時代に現在の額装にされたという。また、沢田2010.に、「もと法隆寺にあった『天寿国繡帳』の残欠をはじめ、法隆寺系の幡や「法隆寺」、「鵤(いかるが)寺波羅門(ばらもん)」……などの墨書銘が記された作品など、法隆寺の列品に含まれている裂の一部が混入されているのです。正倉院から刊行された図書にも図版とともに掲載されています。」(20頁)とあり、注に、『正倉院の宝物一〇』、『正倉院の宝物六』を掲げ、「これらの図書に掲載されている作品以外にもまだあるものと推測されます。」(31頁)との見解を示す。(沢田2015.参照。70頁に刺繍についての若干のコメントも載せる。)きっとそうであろうが、こと天寿国繍帳の“銘文”に関しては、上宮聖徳法王帝説等以上のものはないであろう。
(注2)日本書紀に、「帷」とあるのは、寝屋を囲むパーテーションの意、ないし、葬儀の際の幔幕の意で用いられている。「帷幕(おほとの)」(景行紀四年二月)、「帷内(ねどころ)」(仁徳紀十六年七月)、「帷幕(きぬまく)」(継体紀九年四月)、「帷帳(かたびらかきしろ)」(孝徳紀大化二年三月)とある。孝徳紀の例について、大系本日本書紀に、「棺をおおうためのものか。」((四)279頁)、新編全集本日本書紀にも、「棺を蔽うとばり。」(③150頁)とある。しかし、少し前に、「夫(そ)れ葬(はぶり)は蔵(かく)すなり。人の見ること得ざらむことを欲す。」という中国の故事を載せる。葬儀を行っている様を傍観されないように、今日、事件現場でブルーシートをめぐらせて見えないようにするようなことが推奨されたようである。天寿国を図にした「繡帷二張」は、太子の葬儀に用いられたものではないから、前者の、寝屋を囲むものとして用いられたと考えられる。継体紀の記事は、半島情勢の話なので、キヌマクなる訓が付けられているが、意は同じである。寝込みを襲われて這う這うの体で逃げ出したという記述である。
帷に囲われて眠る(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起、明治時代(19世紀)、原本は明応6年(1497)、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055244をトリミング)
橘大女郎の依頼、要請を受けて、推古天皇配下の采女たちが制作したと明記されている。その「帷」は橘大女郎に下賜されて、彼女の寝屋を仕切るよう、几帳などに掛けられて用いられたのであろう。そのような図例は、石山寺縁起絵巻に見られる。第三段の詞書に、「伝(めのとの)大納言道綱の母〈陸奥守藤原倫寧朝臣女〉、法興院(ほこいん)の禅閤(ぜんこう)かれがれにならせ給し比(ころ)、七月十日あまりの程にや、当寺に詣でて、よもすがらこの事を祈申けるが、しばしうちまどろみたる夢に、寺務とおぼしき僧、銚子に水をいれて、右の膝にかくるとみて、ふとうちおどろきぬ。仏の御しるへとたのもしくおほえけるに、……」とある。夢見の場面が、眠っている人とその夢とが同じ空間に描かれている。西郷2012.に、「昔の人たちは、夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。蜻蛉日記の作者は石山寺に詣でてある夢を見たとき、「仏のみせ給ふにこそはあらめと思ふに……」と記しているが、昔の人にとっては、夢はこうして神や仏という他者が人間に見させるものであった。夢が神的なものとして信じられるのはこのためで、だからそれは「夢の告げ」であり「夢のさとし」でありえた。「夢の教」という言葉も、すでに記紀に何度か用いられている。」(16~17頁)とある。
夢が神仏からのメッセージとして訪れると信じられていた時、石山寺縁起絵巻は、一般に、絵巻の描き方の特徴とされる異時同図法ではなく、夢と現実との“夢現同図法”によって描いた。これは、本稿で疑問とした<図>と<地>の混淆状態、溶融状態である。(注19)に、「世界」を「発見」するための絵本の見開き1ページと考えた点である。frame の溶解を意図的に引き起こしている、ないしは、絵本の見開き1ページには、最初から frame といったコマはないと言える。そもそも non-frame に作りたいとき、「繍帷」という形式は卓抜であり、撚り糸をもって刺繍することは、ヨリテユク「天寿国」の表現にはもってこいであったろう。「視」えないという橘大女郎に、審らかに「観」る道具として作られた。そして、彼女は寝る前と起き抜けとに観て、しばらくして、夢にまで見ることができた。微睡(まどろ)むことがあれば、夢うつつに「天寿国」が観想できる。当たり前である。半分起きていて実見しているのであるが、半分眠っているのであるから夢に見た。夢に見たほうこそが大事で、それが神仏からのメッセージとして“本当のこと”と受け止めることができた。神仏とは、最近仏さまになった太子のことに他ならない。夢現同図がここにかなった。悟ることができた。なぜ繍帷が「二張」なのか。それは、密教の両界曼荼羅が、座る人の左右に掲げて宇宙を感得するのと同様に、橘大女郎が、寝屋のなかで、寝返りをうっても、左右のどちらにも「帷」があるから、いつでも見えるように設置させるためである。
繍帳はしばらく使われた後、彼女のノイローゼは治癒して用は足したので、住んでいる斑鳩宮から、お隣の斑鳩寺(法隆寺)へ奉納された。そのような次第であると考える。その際、焼失前の寺側が、救世観音像とどのように関連づけられたかなど、法隆寺等に記録が残っているなら別であるが、詮索できるものではない。
(注3)マンガとは何かについては、なかなか難しい問題である。棚田2014.では、「読者の想像/創造によって、コマの間が埋められている=繋がれている……この〈繋ぐ〉ということにマンガの本質を見る……。つまり、マンガの基本はコマであって、その中に何が描かれているかはまずは問題外だということである。」(118頁)とする。ところが、新聞のオピニオン欄などに、風刺漫画として、1コマ(コマは記されずに周囲は論説に埋め尽くされている)が描かれている。中田2014.に、「「どのようなものがマンガなのか」ということについては、だれもが秘かに自信をもっている。……自分にとってのマンガらしさというものは、しばしば個人の確信の次元にあって、議論をしてたしかめたいような事柄だとは思われない。しかし反対に、「マンガ表現とはどのようなものか」ということになると、われわれは一気に自信がなくなってしまう。」(185頁)とあり、「現在のわれわれは、マンガ的表現と言えばまずコマの連続性にもとづく表象を自然に想像してしまう……。しかし、フィギュラシオン・ナラティヴの作品、とりわけアダミの絵画などを見ていると、マンガ表現には連続性や運動を表象するだけではなく、カリカチュアや文体の権能と、造型言語のもつ叙情性や寓意性といった力が、たしかに備わっていたのを思いだすようだ(たとえば、われわれは panpanya のマンガの一コマを見るだけで、登場人物が世界に畏れをいだいていることを了解するが、それはキャラと背景の絵の文体にそれぞれ籠められている、叙情性を感得するからだろう)。」(214頁)と論じている。
(注4)「公」の字体については、以下に垣間見た。
王勃集巻二十九(紙本墨書、中国、唐時代、7~8世紀、東博展示品)
何紹基筆「臨張遷碑・石門頌冊」(中国、清時代・同治元年(1862年)、東博展示品)
三体石経残石(魏・正始年間(240~248)、『中国書道全集 第二巻 魏・晋・南北朝』平凡社、1986年、図版10)
筆者には、天寿国繍帳の「公」の字、「‥」の下に「△」の形の例を、天寿国繍帳以外に見つけることができない。
(注5)絵巻物は、一般に「異時同図」ということばで解説されることが多い。この解説概念も厄介な問題をはらんでいる。千野2010.は、「絵画を見ることは、世界を見ることである。」(225頁)と断言する。そして、「日本の絵画は、多くの場合、異時同図的に描かれていると考えてよい。それはつまり、過去、現在、未来と移り動いていく時間のなかにあって、現在という単一の視点からではなく、過去も未来も含めた複数の視点から、画中の情景が捉えられているということである。また、仮りに同じ時点であっても、上下、左右、遠近、と、さまざまな位置から捉えられた情景が、やはり一画面のなかに複合的に描かれていることが多い。……要するに、視点の位置は自由自在であり、しかも基本的に複数の視点から眺められた情景を一画面のうちにまとめた作品が、日本絵画史の主流を占めているということである。」(226頁)とされる。すなわち、日本の絵画というものとして、多くの絵巻物、屏風絵、玉虫厨子の捨身飼虎図などが射程におさめられている。
野田2014.に、「『異時同図』はどうやら、……複数の時間と同じ画面のうちにおさめるだけでなく、さまざまな空間をひとつの図に(いわば『異空間同図』として)とらえたり、時間も空間もどちらも異なるものをひとつの図に(いわば『異次元同図』として)とらえたりする、きわめて広範で曖昧な概念として使用されてきたようなのだ。」(112頁)とある。また、加藤2011.は、「「異時同図」ないしは、「連続的物語叙述」をめぐる研究が面白いのは、それが言語テクストと視覚表現という二つの異なったメディアが巧みに組み合われながら紡ぎだされてくるものだからである。その意味でも、いまのわたしたちにとってさらに必要になるのは、「日本(東洋)」と「西洋」あるいは「芸術」と「視覚文化」という枠組みを越えること、そして、そのような一般化を経たうえで個別事例に接近して分析を行うことなるのではないだろうか?」(26頁)と展望を語る。
これらは、「異時同図」概念の曖昧さをうまく活用して、日本絵画を“読む”行いであると筆者は考える。その射程のなかに、天寿国繍帳は含まれていないように思われる。銘文中に、「看」、「観」とあって、それがそのまま「図像」中に記されるとなると、「天寿国繍帳とは何か」に迫ることは、“絵画を読む”行為では果しえない。画中画ならぬ画外画をどこかで析出してみなければならない。そのためには、銘文を“読む”行為しか残されていない。本稿は、そこを突破口として、天寿国繍帳とは何かに迫る。
(注6)筆者とは違う考え方もある。例えば、日野2017.に、「天寿国繡帳にみられる亀甲文とその背上文字のデザインとの関係において把握しようとすれば、そこには霊亀長寿の理想を説く神仙思想がつよく影響している事実が窺われ、天寿国という理想世界の図相の由来を物語る文字を象徴的に表現するのにふさわしいものとして着想された趣意が理解できるであろう。」(178頁)とある。お葬式ばかりという次第を書いても、霊亀長寿の神仙思想へと転化されてしまう。
(注7)「世間虚仮 唯仏是真」を音読みしたに違いないことを窺わせる語が記されている。「玩味」である。橘大女郎が口のなかで言葉を弄んでいる。何と言っているのか自身よくわからないけれど、響きを頼りに味を確かめている。「世間虚仮 唯仏是真」なるガムを噛んでいると思えばよい。ここを訓読みすると、「玩味」という語が生きて来ない。訓読みとは、ヤマトコトバそのままである。ヤマトコトバは分かり切っているから、口のなかで玩具にして味わうことはできない。即座に腑に落ちてしまう。胃袋へ直行である。仏典に典拠があるならそのままにない限りあり得ない。
真流1981.に、「……「世間虚仮 唯仏是真」の句は『勝鬘経義疏』一巻の,更に言えばその顚倒真実章の要約に外ならない.『勝鬘経』を典據とするものであることが明らかとなった以上,他に「出典」を求める必要のないものであり,否,そうすることは誤りであると言ってもよいであろう.諸種の史料に伝えられる此の経の講讃のこともここに想い合せられる.天寿国繡帳亀甲文において橘妃によって伝えられたこの一句を妃はある時その講筵に列して聴聞したのかもしれない.あるいは太子に侍した日々の折りふしに胸底にしみいった親しい言葉ば[ママ]であったかもしれない.そして太子の死に直面して,生死無常の嵐の中で太子を追慕する時,太子の天上からの呼び声として妃の耳によみがえり,鳴り響いたであろう.そしてそれは永遠の太子自身であった。」(274頁)とある。「世間虚仮 唯仏是真」の句はそういった背景があったかもしれない。ただし、天寿国繍帳に描かれている「天寿国」の「図像」は、橘大女郎自身が作ったものではない。推古天皇の勅命のもと、「諸采女等」や「東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利」、あるいは「椋部秦久麻」が作ったのであり、どのような理解にあったか知れたものではない。互いに打ち合わせなどしていないと考えられる。患者はそれどころではない状態だから、急ぎ制作されたものである。適当に考えておかないといけないことを強調しておきたい。
(注8)飯田2000.のほか、思想大系本聖徳太子集には、年月日や干支の表記では音読みを、他の多くは訓読みを重視された読み方が行われ、東野2013.にはより音読みを採り入れた訓読文が提示されている。
(注9)義江2000.に、「『天寿国繡帳銘』の系譜を「A娶レB生C」の基本要素に着目して分析することにより、双方的に対称的に広がる複数の祖から発して親子関係の連鎖をたどりつつ自己へと収斂する、典型的両属系譜の一事例を検出することができた。」(79頁)とある。出自論や父系制、系譜意識について述べられている。他方、北2017.に、「まさに「自分を娶った太子のこと」と「自己の出自の神聖さ」、さらに「間人母王の出自」という三点をアピールした文章だといえるのである。」(585頁)とある。そして、「このような仰々しい系譜、銘文全体の半分以上を占める長大な系譜が、なぜ聖徳太子の死を機に作られた繡帳の如き物に克明に書き込まれる必要があったか、―このことを説明しなければ問題は解決したことにはならない。」(585~586頁)と続けている。「如き物」であることを忘れて、この“過去帳”に重みを持たそうとしている。
(注10)赤尾2003.に、「[天寿国とされる]この『華厳経』は六世紀の写本ではなく、二十世紀初頭に造られた偽写本と判定すべきという結論に至り、延昌二年(五一三)の書写奥書も基本的には北魏の延昌年間の本奥書と考えられるのである。また「西方天寿国」……と読まれてきた奥書に関しては、『摩訶般若波羅蜜優婆提舎』(大谷探検隊将来、京都国立博物館所蔵)に見られる「无」の字すがた……―これが五世紀の写本という時代差はあるにしても―を見ると、先の奥書を読む場合にも「西方天寿国」ではなく、「西方无寿国」と読むべきであろう。そして、これらはいずれも二十世紀初頭に書写された偽写本と考えざるを得ない状況なのである。」(44~46頁)とある。
(注11)拙稿「多武峰の観(たかどの)とは何か=両槻宮&天宮考」で述べたように、斉明紀の「天宮」はアマツミヤばかりでなく、テムノミヤと言っていた可能性が高い。そこがタムノミネだからであり、とても近い訛った音構成である。タムノミネのタム(訛)という語を含んだ地名だから、それを意識して洒落てみている。言葉が自己言及的に用いられている。
(注12)大橋1995.に、「蓮華の中でもっとも注目すべきは、光焔を発する蓮華化生図であろう。前者は天寿国への往生人が生を受けようとしている直前の姿の蓮華で、後者は往生人が今まさに蓮華の中から天寿国へ生れようとしている場面である。経典によると化生とは四生(化生・胎生・卵生・湿生)の一つで、浄土における生命現象であって、無から忽然と生れる超自然的な出生と考えられていた。……私はこの蓮華化生図こそ、天寿国が無量寿仏の無量寿国であることを強く示唆するもっとも重要の図像であると考えている。」(136頁)とある。無量寿国であるなら、なぜ「天寿国」と言い換えたのか理解できず、その点を考察された論考も管見にして見られない。むしろ、蓮華化生の考えを方便として、橘大女郎の言う「生於天寿国之中」の「中」を示そうとしただけなのではないか。行政単位としてのクニ(国)の国府、国衙は、クニの境界ではなく、テムジクニ(天竺国)の中にある。ヨリテユク(従遊)とは連なって逝ったこと、ハス(蓮)の音のレン(連)と同じで、ハスの様子が、周辺の葉、花などが根(レンコン)を通じて続いて行って池の中から花茎を伸ばすことをもって似つかわしいと感じたからデザイン化したのではないか。インドは暑い国で、ハスの咲く日本の夏季が一年中続く国だと知られていたに相違あるまい。
(注13)上宮王家で数カ月中に亡くなっているのは、「母王」こと穴穂部間人皇女、膳夫人(干食王后、膳菩岐々美郎女)、「大王」こと太子の3人である。膳夫人は、病の床についた太子の看病にあたったものの、看病疲れから太子の亡くなる前日に亡くなっている。続けざまに亡くなっているという橘大女郎の言い分からすると、むしろ膳夫人を当てる方がふさわしい。「法隆寺金堂釈迦三尊の銘文が、母王・太子・膳妃を「三王」とまで言うのとは大いに異なっている。……当然そこには制作主体の相違が反映しており、釈迦三尊は膳氏の強い影響下に造像が行われ、天寿国繡帳は橘大女郎の一族の存在を背景に制作されたことが考えられよう。」(東野2017.、13頁)といった意見や、橘大女郎が膳妃に嫉妬していたための言動であろうという臆説まで生じている。北康2017.に、「太子と共に仲睦まじく死んでいった膳妃に対する橘妃のさびしい嫉妬から作られたのが、この天寿国繍帳なのではないかと考えられてくる。」(591頁)、「天寿国繡帳は太子の葬送に際して作られた葬具の帷帳であり、そこに記された銘文の文脈や系譜には、太子と共に没した膳妃に対する橘妃の強い対抗感情が表出している。」(593頁)などとある。石井2016.でも、亀の上の銘の名前の配置を検討された三田2008.の釈迦三尊像的な塩梅を考慮に入れ、「干食王后に対する、皇女としての強烈な自己主張と見るべきでしょう。」(221頁)とある。
天寿国繍帳の制作主体は、銘文を読む限り推古天皇である。週刊誌ネタのように、太子の本妻は自分であると主張したのだという勘繰りも、繍帳を作らせたのが橘大女郎ではなく推古天皇であることを説明できない。推古天皇が膳妃をいなかったことにする理由が解かれない。正妻であったことを太子が亡くなってから推古天皇に訴える理由としては、相続財産の問題があるかもしれない。しかし、銘文に記されている内容、橘大女郎の主張の主旨は、母王と太子の住む天寿国を見たいということである。嫉妬や財産目当てから、天寿国なる訳の分からぬテーマを持ち出し、事もあろうに天皇にぶつけるとは思われない。園遊会に招かれて、突拍子もない意見を開陳したのではない。自分から小墾田宮を訪れ、恐る恐る庭の遠いところから、奥の宮殿の御簾の向こうの天皇に申し上げている。話を聞いて診察すれば、橘大女郎は精神を病んでいると扱うしかない。財産は後見人が管理することにし、お大事にして頂こう。
天寿国繍帳は物証である。推古天皇が橘大女郎の言い分をきちんと聞いて、その言葉を捉え返して天寿国繍帳を作らせている。天皇は社会秩序を安定させる方へ舵を切る。ゴシップ騒ぎに後追い的に加担したりはしない。憔悴しきった橘大女郎が、錯乱し、太子の亡くなる前日に枕を並べていた膳夫人の亡骸を、殯中で葬らずにいた母王、穴穂部間人皇女だと思いこんでしまったに過ぎない。統合失調症状態である。上宮王家の家来も、橘大女郎の狂気を悟り、近づけないようにしていて、詳細を伝えなかったのかもしれない。推古天皇もさぞかし心配したことであろう。
(注14)そのようなジョークの例は、東森2015.に、興味深い例がいくつも記載されている。
(注15)釈日本紀に、「書字乃訓於不美止読。其由如何。答、師説、昔新羅所レ上之表。其言詞太不敬、仍怒擲二地面一踏。自其後訓云二文美(ふみ)一也。今案、蒼頡見下鳥踏二地面一所レ往之跡上作二文字一。不美止云、訓依レ此而起歟」とある。
(注16)渡来人が登場している点は、繍帳銘の音仮名などから理解される。西崎2006.に、「繍帳銘文所用の字音仮名、助辞「之」の不読にするという訓法の若干の考察から見られる「勘点文」について整理しておく。①『繍帳銘』に所用される字音仮名については、古代朝鮮固有名(人名・地名)等に用いられた音仮名に一致するものが多いという事実は、『繍帳銘』の書記・加点に関わった人物として朝鮮半島からの渡来人が想定される。②推古遺文にしか見られない古韓音が多く所用されている点も左証となる。③「弥」字が「ミ甲」「メ甲」に両用されている点は古代朝鮮音との関係が想定される。この点も左証となる。④文末助辞「之」を不読とする訓法も朝鮮漢文の影響によるものと考えられるが、この点も左証となる。」(56頁)とある。
(注17)山田1935.のタイトルにもなっている「よりて」という語は、「接続副詞の如き形式に用ゐること少からず。これは「よる」といふ動詞に複語尾「て」のつける語なること勿論にして、かくの如く固形的に、しかも、接続副詞の如くに頻繁に用ゐらるるに至れるものはこれ亦漢籍の訓読により馴致せられしものなるべきなり。……即ちその漢文の訓読には、恐らくははじめより簡便を尚びて「よりて」とよみ来りしものなること殆ど疑ふべからざるなり。……これ実に漢文訓読の為に新に按出せられし一種の語遣にしてそれが、普通文に用ゐらるるに至りしものといはざるべからざるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586(115~118/200)、漢字の旧字体は改めた。)と説明されている。
とても便利だから使おうよということで、早い段階からヤマトコトバに侵入していたものと思われる。本稿で「従」字をヨリテと訓じた。推古朝の訓点例は知られないが、参考となる用例をあげる。
予悪二夫涕之無一レ従也。 予(われ)夫(そ)の涕(なみだ)の従る無きを悪(にく)む。(礼記・檀弓上)
金剛般若経一切諸佛之所二従生一。 金剛般若経は一切諸佛の従りて生れたまふ所なり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝)
是吾剣之所二従墜一。 是、吾が剣の従りて墜ちし所なり。(呂氏春秋・察今)
見二漁人一、乃大驚、問レ所二従来一。 漁人(ぎょじん)を見て、乃ち大いに驚き、従りて来たる所を問ふ。(陶潜・桃花源記)
所二由入一者隘、所二従帰一者迂、彼寡可三以撃二吾之衆一者、為二囲地一。 由(よ)りて入る所の者隘(せま)く、従りて帰る所の者迂(う)にして、彼れ寡(か)にして以て吾の衆を撃つ可き者を、囲地(ゐち)と為す。(孫氏・九地)
無三以聴二其説一、則所二従来一者遠而貴レ之耳。 以て其の説を聴くこと無ければ、則ち従りて来たる所の者遠くして之れを貴ぶのみ。(淮南子・修務訓)
従レ此観レ之、齊楚之事、豈不レ哀哉。 此れに従りて之れを観れば、齊楚の事、豈(あに)哀しからずや。(文選・上林賦)
業不二従レ縁生一、不下従二非縁一生上。 業は縁に従りても生ぜず、非縁に従りても生ぜず。(中観論・観業品)
我等所二従来一 五百万億国 我等が従り来る所は 五百万億国なり(妙法蓮華経・化城喩品)
(注18)原文に、「我大王與母王如レ期従遊」とあり、どのようなところかはさておいてもあの世へ行っている。そして、「我大王応生二於天寿国之中一」と言い、「彼国之形眼所叵レ看」と言っている。そして、「欲レ観二大王住生之状一」と言っている。「住生」を「往生」と通用すると捉える説もあるが、「往生之状」とは、阿弥陀如来に導かれる場面が連想される。彼女の訴えは、「我大王與母王」がすでに辿りついて生活している「天寿国」の「国之形」を「視」ようとしたが見えないから、よりどころとなる「図像」が欲しいと言っている。「住生」は「往生」ではなく、スマヒである。
相撲の四つ相撲と糸との言語的関連について推論する。ヨ(四、ヨは乙類)は、古典基礎語辞典に、「数詞。ヤ(八)と母音交替による倍数関係をなす語。無限を意味するイヨ(弥)と同根。「四方(よも)」で、天下至る所、一点を中心として広がりのある世界を表しえたように、ヨ(四)は元来、無限の数量・程度を意味したものと思われる。」(1287頁、この項、筒井ゆみ子)とある。そして、イヤ(弥・最・益)の項には、「イヤはイヨの母音交替形(iya ― iyö)。上代から確例のある語で、もともとは事柄や状態が無限であることを表し、数詞のヤ(八)にも通じる。転じて、物事の状態が、以前よりも、しだいにはなはだしくなるさまや、程度の激しさが増すのを表す。」(155頁、この項、我妻多賀子)とある。これらの語と直接の関係はないかもしれないが、相撲の四つに組むことが、力が強ければ強いほど引きつけあって very な感覚を表している。これは、古語に、イト(甚・最)な状態にある。また、「頂点や極限を意味するイタ(甚)の母音交替形。上代から一字一音の例があり、中古・中世の和文体の作品で非常に多く使われたが、和歌や漢文訓読文ではほとんど用いられない。程度のはなはだしいさまについていい、非常にの意を表す場合が最も多く、用例の八割以上を占める。そのほか、程度の高さに対する詠嘆、強調の気持ちを表して、ほんとうにの意。さらに下に打消の語を伴うと、たいしての意でも用いられた。上代には、イトのトに、甲類の仮名が使われているものと、乙類の仮名が使われているものと二種出てくるが、意味上の明確な差は認められない。用例数からいうと、乙類の仮名で書かれたものが多い。」(132~133頁、この項、我妻多賀子)とある。糸の製作過程の大変さを思えば、以上のヨ(四)、イヤ(弥)、イト(甚)は、撚って作った糸と関連があるのではないかと、飛鳥時代の人には思い及んだのではないかと推測される。なお、「糸(いと)」=LH、「甚(いと)」=HLとアクセントに違いがあり、同系の語とは考えられない。それでも、推古天皇は、橘大女郎のことに心が痛み、イトホシク(愛)てイトフ(厭)気持ちになって、イトマナク(暇無)イトナム(営)ことにより仕上がった作品、それが天寿国繍帳ではなかったかと思われるのである。互いの言葉の相関関係については、さらなる検討が必要である。
(注19)絵本なる概念については、天才的な研究が行われている。上にあげた(注3)や(注5)の議論の地平からは到達しえない水準である。志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)というところから解き起こしている。そして、「絵本の世界像は、『地』に属する『図』をもつ『地』表現、つまりストーリーには直接絡まず『地』世界に属する活気ある事象をもつ『地』表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が『地』に属する『図』の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者独自の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明している。
志村2004.の解明によって、天寿国繍帳とは、絵本の特定の見開き1ページであり、推古天皇側の創造性と橘大女郎の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、天寿国という世界像が生成されるという営みが絶えず行われ続けているものであったとわかる。繍帳はアート作品として下手である。下手だから、天寿国なる世界像をありありと想い浮かばせる営みが行えると言ってよい。上手いということは、作家の側が全体から細部まで決めてしまうということであり、ひとたび読者側が違和感を覚えたら、世界像を結うことはなくなる。相互の営みが繰り広げられることが、「こんな世界」=「天寿国」を想い起させる契機なのである。イトナミ(営)とは、イト(暇)+ナシ(無)→イトナシを動詞化した言葉である。休む暇なく続けて仕事をすること、大規模造営工事を行うこと、また、葬儀を執り行うことである。橘大女郎は、葬儀続きで疲れて精神を病んでいるが、その精神は、天寿国を大工事で造り上げようと自ら求めていた。休ませた方がいいこともあるが、思い詰めているのだから話を流れに従って進めた。絲の撚り合いというほどに営むしか他に手はなかった。絲という語のトの甲乙は決め難いとされているが、ここに営(いとな、トは甲類)むことが行われていることから、甲類である可能性が高い。そして、糸という、ヤマトコトバのうちでも基本語彙に入るはずの語の秘密(筆者は語源を探究するという立場に立たない)も隠されているのではないだろうか。
(注20)天皇号については、ここに「天皇」とあるから推古朝からあったのであるとか、そうではないとか、議論されてきた。筆者は、いわゆる「天皇号」とは何か、可解していない。この漢字表記は、ヤマトコトバでスメラミコトと訓ずる。上代において、それがすべてであったろうと考える。
(注21)三田2008.に、「現存する外区図像は少なくとも『弥勒大成仏経』によって解釈することが可能である。だが、現存断片があまりに少ないこともあり、同経への比定を確信することはできない。しかし、『法華経』や浄土三部経など有力な仏典中に対応し得る記述が見られないことは注目すべきで、その分『弥勒大成仏経』が典拠である可能性は期待される。」(272~273頁)とある。「天寿国」という文言ではなく、図像から典拠を求めようとしている。筆者には、図像並びに文字の下描きをした「東漢末賢(やまとのあやのめけ)、高麗加西溢(こまのかせい)、又、漢奴加己利(あやのぬかこり)」という人にどれほど仏教の知識があったのかわからない。そもそも推古天皇の指示は、橘大女郎の言い出しているテムジクニ(天寿国)なるものを、いいように再現する試みであったのではないか。適当に考えておくことが望ましい。
(注22)松浦2006.に、「繡仏である天寿国繡帳は太子薨去の六二二年二月二十二日から一年以内には完成されていたはずである。」(同14頁)、「聖徳太子の浄土往生のさまを刺繡した帷であるから、当然その帷を垂らした御帳内には聖徳太子の御影が祀られたはずである。また天寿国繡帳は鎌倉時代まで法隆寺に伝来したものであるから、これは法隆寺に祀られた聖徳太子の御影に相当する仏像を荘厳するための「繡帳二張」であったと考えるべきであろう。その聖徳太子の御影に相当する仏像とは、『法隆寺東院資材帳』に「上宮王等身観世音菩薩木像」とある夢殿本尊の救世観音像……に他ならないと考えられる。」(15頁)とある。
筆者は、天寿国繍帳のようなアニメキャラに作られた「繡仏」があるのか知らない。橘大女郎の容体は悪いのである。一刻を争って作られたに違いないと考える。また、北2017.にいう「葬具の帷帳」でもないであろう。銘文にそのようにないからである。
太子と妃の遺骸を科長の墓へ埋葬する場面(聖徳太子絵伝、絹本着色、南北朝時代、14世紀、個人蔵、東博展示品)
(注23)「公主」という語について議論されている。語についての議題には2通りある。一つは、「公主」と同類の、「天皇」、「崩」などに対してである。第二は、「弥己等」という言い方である。前者は、漢語を問題にしている。表意文字の表記を問題にしている。「天皇」号はいつからあるのか、安易な問題設定がされて議論が盛んである。天皇の意味で仮に記せば、上代の字音に「弖牟和有(てむわう)」なる語を問うことはない。本邦において「天皇」と書いてある例を探し、なかなか見つからなくて天寿国繍帳銘に目につくと、天寿国繍帳は後の時代に作られたと推論されてしまう。短絡的な臆断が罷り通ってしまう。漢字の字面を問題にしているだけである。
後者の「弥己等(みこと)」号(?)は、それとは問題の性質が異なる。ヤマトコトバの発声音を俎上に載せている。前者は、漢語の字面を問題にしている。聴覚と視覚は別次元である。繍帳銘に「天皇」とあるのが、筆者には「号」なるものであるとは理解できない。スメラミコトというヤマトコトバに漢字を当てた、その当て方の一種であろう。今日いわゆる天皇号がいつ始まったか、筆者は知らない。スメラミコトという語は、紀や万葉集の標目に記されているから、それなりに古くからあった。それは、あくまでも、スメラミコトというヤマトコトバであって、字面が問題になるものではない。字面を問題にすると取り決めたとき、万葉集の原文を“読む”ことはできない。「籠毛與美籠母乳……」(万1)の字面が問題となり得るのは、歌の内容が下ネタの可能性があるかも知れないという点に過ぎない。
「公主」という「号」について、そのように記された例が本邦に乏しい。乏しいから、繍帳は遅れて成立したものであるとの主張が見られる。他に、百済の例があるともされている。ところが、唐代初期に成った芸文類聚に、「公主」の項が立てられ、たくさんの用例が載っている。漢籍のアンチョコに項として載っていくほど近寄りやすい漢語である。意味は、天子の娘のことを指す。ヤマトにおいて、天子とは、アメノコ、つまり、スメラミコト(天皇)のこと、その娘は、ヒメミコ(皇女)のことである。ならば、ヒメミコのことを、「公主」と書いて何ら間違いではない。律令や令義解に定めがあったとして、推古朝のことであるならそもそも時代的に無関係である。書いてはいけないと禁じられていたということがなければ、どう書いても構わない。文科省の常用漢字表などと違う書き方でガス工事店の手書きの領収書に「煙凸代」とあったとき、誰しも「煙突代」のことと認める。上代、ヤマトコトバに漢字を当てた。「公主」をコウシュと読んだのではなく、ヒメミコに「公主」という字を当てた。
繍帳銘に、「宮治天下天皇名」とある。漢字の意味をとりながら表記されている。表意文字である。それぞれ、「宮」(みや、palace)、「治」(をさむ、reign)、「天下」(あめのした、country)、「天皇」(すめらみこと、emperor)、「名」(な、name)の意味である。それぞれのヤマトコトバの意味を表して、漢字に記している。ヤマトコトバで考えている。「治天下」という表記が漢籍に見られ、それがヤマトコトバにしてみてヤマトコトバに適うならそれを採り入れる。採り入れ方はヤマトコトバが基準である。自己中心的である。自分の国にいて、よその国の書き方に準じなければならないと拘束される筋合いはない。条約でもなければ植民地化されているわけでもない。ヤマトの人の間で互いに通じればいい。「天下」という概念は、神代紀第五段本文に、「天上(あめ)」と対比で「天下(あめのした)」、神代紀第五段一書第六に、「高天原(たかまのはら)」、「滄海原(あをうなはら)の潮(しほ)の八百重(やほへ)」との兼ね合いで位相、範疇を決められていく。アメノシタとは、概ね、大地、地上のことを意味するツチの概念を膨らませた地上全体、そこから派生して、国事、国政のことを指すようになっていっている。字で表した時、見た目が和製漢語の状態になっているに過ぎない。ヤマトコトバが母語である。
「大王」、「公主」、「天皇」、……といった言葉は、オホキミ、ヒメミコ、スメラミコト、……を表記したものである。表記法について、一般の人に及ぶ規制は知られない。義務教育などない。「「天皇」号」について推古朝にあったかなかったかという議論は、銘文を“読まない”姿勢と裏腹の関係にある。キティちゃんのマンガの吹き出しか、絵本のデザインのような剽軽なカーテンの柄として書いてある言葉が、「号」に当たるような事柄の次元のこととして書かれてあるのだろうか。それは、「吉多斯比弥乃弥己等」、「乎阿尼乃弥己等」にミコト(命)とあったり、「吉多斯比弥乃弥己等」を「太后」と書き表わすことが、太子の伝説化以降のことではないかとの考えにも当てはまる。そういう議論をして欲しいと、繍帳銘400字を捻り出した人は望み、練り上げたものだろうか。“読む”ということは、捻り出し、練り上げた人の心を読むという作業である。漢籍という膨大な文例集によりながら、字を当てているに過ぎない。珍しい書き方だからと見た目で判断することはできない。
日本書紀には早くから古訓が付されている。漢語で書いたものをヤマトコトバで言い換えたとか、無理やりに訳したと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀の編纂を命じた天武朝は、国粋主義まっただ中にある。国粋主義にあるから、自国の歴史書の編纂に目覚めている。そこで、ヤマトコトバでヤマトの歴史を記すに当たって、あくまでも表記において、漢字、漢語、漢文を用いた。固有の文字を持たないから仕方がない。それが原則である。紀の古訓とされるものは、もともと日本書紀を記すに当たってヤマトコトバで考えていた内容について、再現させてかなり正確なものといえる。小学館の新編全集本日本書紀に、漢籍からのまるごと引用部分とされている文章について、音読みするという暴挙が行われている。古訓は無視されている。母国の歴史は、母語で考えて書こうとする。ちょうどいい文案が見られたから、文例集のように引用している。字面をパクったに過ぎない。ヤマトコトバの読み方、訓読みが行われず、音読みが行われたとする解釈は、事の本質をはき違えている。
それに遡る推古朝に天寿国繍帳が作られたとするなら、漢字、漢語、漢文で書いてあるからといって、漢語で読んでいてはお話にならない。逆に言うと、漢語でしか読めないなら、推古朝に書かれた銘文ではないと証明できることになる。つまり、“読む”ことで、制作年代はわかる。万葉集のように、ヤマトコトバばかりなのか、続日本紀や律令のように、漢語を音読みしなければ通じないか、確かめれば知れる。漢文訓読に由来する助辞の「所」字をトコロと読むとしか考えられないのであれば、それは奈良時代後期以降のことであると認められる。その点については、拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」で詳述した。銘文を内部から“読む”ことが求められている。
石井2016.では、当然の疑問が呈されている。
[後代の]偽作であるとすると不思議なのは、紙に書いたり金属板に彫ったりすれば簡単なのに、広げれば縦二メートル、横四メートルになる帳(とばり)を二つも作り、薄地の布の上に色彩豊かな絵柄を刺繍で描き、また多くの亀を刺繡してその背中に銘文を四文字ずつ縫い取りするような面倒なことをする必要がなぜあったのか、という点です。また、奈良時代の高度な工芸品とは比べようもない素朴な絵柄と刺繍技法、銘文の内容も、その古さを示しています。中世には山ほどある太子関連の偽文書のように、聖徳太子との関係を強調して寺の権威を高めたり、聖徳太子によって田を施入されたなどとして寺の権利を主張したり、太子の超人さを強調した文物を作って参詣客を集めたりするなら分かりますが、天寿国繍帳銘はそうした偽文献とは性格が全く異なっているのです。……前半の系図の[ママ]この[下絵を描いた者と監督者の名の]末尾の部分を合わせると、全体の六十一・五パーセントとなります。いったい何のための銘文なのでしょう。……そもそも、この銘文は、太子を尊崇して書かれたものでしょうか。素直に見る限り、前半は、太子と橘大郎女とが、欽明天皇と蘇我稲目の両方の血を引くことを強調した系譜です。肝心な真ん中の部分では、まず母王が十二月二十一日に亡くなったと述べ、その母王と約束したように太子も翌年の二月二十二日に後を追ってしまわれたので悲しくて仕方ない、となっています。確かに十二月二十一日と二月二十二日となれば、約束したかのようにと言えるかもしれませんが、もっと近い人物がいます。釈迦三尊像銘によれば、上宮法皇が正月廿二日に病で倒れ、干食王后が看病したものの自らも病んで並んで床についてしまい、王后は二月廿一日に亡くなり、翌日、法皇も亡くなられた、とありました。こちらこそ、あらかじめの約束通り、最愛の妃が亡くなると太子もすぐ後を追ったように見えます。(215~220頁)
今日、躍起になって議論されている研究者の言を捨て去り、虚心坦懐に考えてみれば、至極当たり前の疑問であると言える。およそ学術に携わる方々は、主張有りきの議論からは立ち返る必要があろう。
(注24)鷹の調教の仕方において、『放鷹』(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512、204/398))に、「渡り」と「振替」の説明として次のように記されている。
渡(ワタ)り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡(オキワタ)りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡(ワタ)りと云ふ。
振替(フリカヘ) 丸鳩に、忍縄を附し、五六間離れたる処にて他の者に之れを投げしめ、鷹を放ちて之れを掴ます。又離れたる処より餌合子にて呼ばせ、鷹先方に到らば更に当方より餌合子にて呼び戻す。終に鷹に、水縄・忍縄等を附せずして行ふ事を得るに至る。之れを振替仕込と云ふ。(356頁。漢字旧字体は改めた。)
(注25)ワタル(渡る)という語について、古典基礎語辞典に、「風・雲・霧などがひと所に起こって徐々に広がり、やがては一面を埋め尽くす動きをいうのが原義。他の動詞と複合した「咲き渡る」「荒れ渡る」などの形で使われることが多い。」(1337頁、この項、須山名保子)とあるが、複合動詞の意が原義であるとは考えにくい。白川1995.に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく海(わた)。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。それよりして広く他に及ぶすことをいい、「かけわたす」「みわたす」のように補助動詞として用いる。」(805頁)とあるのが穏当であろう。古典基礎語辞典の指摘に、他動詞ワタス(渡す)には、「時間的範囲を示す用法はない。」(1334頁)と鋭い。タイムトラベルの発想がなかったらしいことが窺える。五十六億七千万年後へと「渡す」という考えはなかったということである。
渡り鳥という響きには、①季節によって日本へ集団で訪れる鳥(カモやツル、ハクチョウなど)、②外国から珍しいものとしては舶来した鳥(クジャクやオウム、インコなど)の2つのイメージが浮かぶ。百済のクチ、こと、日本にもいるタカが、鷹狩用に飼われた状態で舶来したことをも、「候鳥」=渡り鳥という概念は示している。訓練も“渡り”、その技術も“渡り”職人が伝えた。ひょっとすると、古墳時代後期から飛鳥時代にかけては、新技術を伝える渡来人のことを、“渡り”人などと通称していたのではなかろうか。
(注26)ハナシ(話・咄・噺・譚)という言葉は、自動詞ハナル(放・離)―他動詞ハナス(放・離)の関係のうち、他動詞ハナスの連用形から起こった言葉である点は、趣き深いものがある。ハナシとは、音声自らが離れていっているのではなく、放たれて飛んで行っているものである。話をするのは、人間である。口をついて出てきただけでも言葉となっていれば意味があるものと考えられる。それは当人が意識している、いないに関わらないとされる。「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」(神武紀十年九月)という「少女(をとめ)」、「童女(わらはめ)」の「歌」にしても、武埴安彦(たけはにやすびこ)とその妻吾田媛(あたひめ)の謀反の兆候であったことになっている。人間が人間であるからには、口から発せられる言葉には意味がある、ないしは、あるものと考えるのが人間の思考である。「誣妄(たはごと)・妖偽(およづれごと)を禁(いさ)ひ断(や)む。」(天智紀九年正月)などとあるのは、騙って詐欺や洗脳するのはいけませんよ、ということであろう。不良の意味で非行という言葉を使うが、精神鑑定によって判断能力を欠いている場合は「非行」という言葉は正しかろうが、夜中の暴走族などは「不良」であろう。言葉として聞こえるものは、良かれ悪しかれ人間の行為である。言い換えれば、狂人はもはや人間ではないものとされる。言語がコードとなってコミュニケーションが成り立ち、人間社会は存立する。
三保2016.は、万葉集の定訓「手放(たばな)れ」(万4011)に異議を唱えられている。「《手放》は、西園寺入道前太政大臣公経『鷹百首』に、「一よりに手はなしぬれは追さまに鶉むれ立小田のかりつめ」(七一番)と見え、西園寺公経の『鷹百首謌』(後掲、小林祥次郎氏翻字[筆者未見])には「一よりとは。(中略)荒鷹を合事也。大鷹はへ緒などもさゝざる間たばなすを大事とよくなつくる也。合始をいへり。つねにも手よりはなすをいへども、たばなしと云ははじめて合すると心得べし。(後略)」との注釈がある。臂の鷹を放す意である。右[岩波書店古典文学]『大系』[万4011番歌](その他)は「手放(たばな)れ」と補読するが、「手(た)はなし」(他動詞形)と読むのが穏当だろう。」(1901~1902頁)とある。
…… 鷹はしも 数多あれども 矢形尾の 我が大黒に〔大黒は蒼鷹の名也〕白塗の 鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも[手放毛] をちもかやすき これをおきて またはあり難し さならへる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑まひつつ 渡る間に 狂(たぶ)れたる 醜つ翁の 言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥狩(とがり)すと 名のみを告りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去(い)にきと 帰り来て 咳(しはぶ)れ告ぐれ 招(を)く由(よし)の そこに無ければ ……(万4011)
万4011番歌は、狩りを好んだ大伴家持の歌である。三保2016.の指摘は当を得ている。鷹狩で、鷹匠は鷹を自在に操る。操る主体が鷹匠であり、鷹が勝手に手から離れていったのでは、おそらく鷹は野生に帰っていくであろう。自動詞のはずがない。そして、鷹の鷹たる特徴とは、その嘴である。「山辺之大鶙(やまのべのおほたか)」(垂仁記)の登場する説話の概略は、物を言わない御子、誉津別王のことを案じていたところ、鳥が鳴くのを聞いてモグモグ言ったので、その鳥を捕まえて連れて来ればまた物を言うのではないかと考え、探しに出掛けさせたという話である。記紀により説話の展開は少し異なるが、記では山辺之大鶙という人物が、「和那美之水門」に網を張って捕まえたという話になっている。鳥を捕まえる方法として、「大鶙」=オオタカという人が、罠、網を使っている。鷹狩はまだ行われていなかったことの証左であろう。
木村2011.に、「「手放(たはな)す」という鷹詞は、獲物のゆく方へ鷹を手放す、という意味である。その早い用例は、南北朝時代の宗良(むねよし)親王の『宗良千首』の中の一首、
あふことも又やなからむかり人のたはなす鷹の心しらねば(『宗良千首』・七三二・「寄鷹恋」)
である。これは『万葉集』巻十七の大伴家持の長歌、……[万4011番歌]の中の「手放(たばな)れ」を踏まえて詠まれた歌であろう。」(171~172頁)とある。せっかく問題の本質に気づかれておりながら、万葉集の訓の方を疑うことはされていない。同書では、鷹の飼育・調養において、鷹を架(ほこ)につなぐこともした(新修鷹経・中・「繫(つな)グレ鷹ヲ法」)ことが、「契ても心ゆるさじ箸鷹のほこのきづなの絶んと思へば(『後京極殿鷹三百首』・恋部)という歌では架に鷹を結びつける「絆(きづな)」に、恋人同士の絆の意を掛けている。」(175頁)と解説されている。同じ鷹三百首・恋部には、「契のみ朽せぬためしあればこそとしとしかけて鷹わたるらめ」ともある。鷹が野生へと帰ってしまわずに人から人へと“渡る”ことを詠っている。“渡り鳥”と観念されていたことの傍証である。ただ、他の作者の鷹百首和歌の類に、「渡る」の用例の乏しいことは気がかりではある。
(注27)日本三代実録、光孝天皇の仁和元年十二月条に、「七日丁巳。天皇幸二神泉苑一。放二鷹隼一。拂二水禽一。」とある。ミヅノトトリを「水の鳥取」に当て得る例はこの例に限られる。天皇の遊獵記事の場所は、ほとんど「野」である。野行幸ばかりである。江戸時代も将軍家の「御鷹野」が定められている。鷹狩が素晴らしいことをもって、「瑞の鳥取」と捉えたものとするのがぴったりである。
(注28)儀鳳暦が何であるとか、「癸酉」をクヰイウなどと読んだり、「日入」を日暮れ時のことであるといった知識積み上げ式の解釈は、すべてナンセンスである。文献の書き方に、今日の人たちとは異なる書き方が行われた可能性を排除し、杜撰な“読み”が行われ、銘文の成立時期をめぐって議論されてしまう事態が起こっている。歴史学の議論が、meta-history、原典の後に来るものとなってしまっている。端的に言えば、それは“読まない”姿勢である。銘文自体を、銘文の内部へ踏み込んで、書いた人の意図を汲まなければならない。最初から“読む”気がないのでは、アナホベノハシヒトさんも、トヨトミミノオホキミさんも、タチバナノイラツメさんも、トヨミケカシキヤヒメノミコトさんも、いないことにしようと思えばいないことになる。哲学の存在論の話ではない。議論している人の心(頭)の中にはじめからいないということに他ならない。
書いた人は知恵が優っている。上代の人のものの考え方は、今日の人のそれとは多分に異なる。上代のテキストを“読む”姿勢をとる場合、なぞなぞ解読の考え方を習得する必要があるであろう。養老律令が制定され、続日本紀に日記風に歴史が記される頃から、母語である日本語に、漢語を用いた言い方が日常的に採り入れられるようになっていた。それまで文字を意識することが後回しであったヤマトコトバは、あたかも文字を前提にするように衣替えをして行った。平仮名の成立、定着化によって、位相を異にするヤマトコトバ文学、女流文学が起こり、不思議な展開が繰り広げられてはいるが、上代の記紀万葉における言葉の捉え方は、無文字を前提に、音としてしかない言葉を繰り広げること、すなわち、ハナシ(話・咄・噺・譚)ばかりである。話半分で聞かなければ、頓狂な議論を構築しかねないことになる。
トヨミケカシキヤヒメという名について、研究者によってよく分からない議論が行われている。亡くなった後の諡か、生前からの尊号か、に二分している。トヨミケカシキヤヒメという名を現代語訳すると、キッチンガール、台所姉ちゃん、お勝手女、などであろう。トヨ(豊)+ミケ(御食)+カシキヤ(炊屋)+ヒメ(姫)である。最初のトヨは尊称かもしれないが、全体が「尊号」であるというには当たりにくく思われる。「諡」というにはやけに身近でフレンドリーな名前である。すなわち、名とは何か。呼ばれるものに過ぎない。
東野2004.に、「内題の称号が諡であることは、「気長足姫尊」(神功皇后)について、この称が追尊の号であることを書紀自身が明記していることから明らかである。」(151頁)とある。神功皇后の諡の記事は次のとおりである。
是の日に、皇太后(おほきさき)を追ひ尊(たふと)びて、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と曰(まを)す。(神功紀六十九年十月)
この記事を読み、紀の巻や章立てのタイトルにあたる「内題」と同じだから、紀の内題はすべて諡なのだとすることはできない。何年何月何日に、○○と言った、という記事は、その日の出来事を記している。歴史書だからである。法令集、判例集ではない。日本書紀の書き方について、日本書紀自身がすべてに及ぶように記す仕方は、次のようにある。
至りて貴(たふと)きをば尊(そん)と曰ふ。自(これより)余(あまり)をば命(めい)と曰ふ。並(ならび)に美挙等(みこと)と訓(い)ふ。下(しも)皆(みな)此れに效(なら)へ。(神代紀第一段本文)
「尊」という称号について、日本書紀全巻で最初の字に注されている。念が入っていて、「下皆效レ此」と定めている。神功皇后の巻は、日本書紀巻第九である。「追ひ尊」ぶことについても、もし、それぞれの天皇で行われていったとしたら、それぞれの天皇について、「是の日に」という記述が行われないと、つまり、儀式が行われたと記さないと歴史書としては芳しくない。神功紀にしか見られない一例から、紀のすべてに敷衍できるものではない。東野2004.も指摘する推古天皇の「幼」名記事は、次のとおりである。
幼くましまししときに額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と曰す。(推古紀即位前紀)
幼い時、ヌカタベノヒメミコと呼ばれていた。この記事を全面的に信用すると、長じてからはヌカタベノヒメミコとは別の呼び名があったかもしれない気になる。しかし、ヌカタベノヒメミコと呼ばれなくなったとは記されていないから、そう呼ばれなくなったかどうかはわからない。しかし、残念ながら、他にそれらしい名は記されていない。そして、生前、トヨミケカシキヤヒメと呼ばれることはなかった、あるいは、禁止されていた、という文章はどこにもない。生前からの尊号を諡にしてはならないとする規定もない。不吉だからやめるようにとの慣わしも知られない。では、トヨミケカシキヤヒメ(The キッチンガール)という名とはなにか。それは、名前である。呼ばれるものである。The キッチンガールをもって、尊号とする考え方について、筆者には研究者の議論の前提するところの意味がわからない。訳がわからない。紀の内題に何が書いてあるか。名前が書いてある。それだけではないか。「天皇」“号”が特別視されたり、諡“号”が格式付けられたりするためには、文字表記が前提となる。漢字に囚われることがなければ、成立しない概念である。
(注29)「読む」ということは、「訓読する」、「訳す」ということと同じことではない。意味内容を深く理解しなければならない。そのためには留学も必要である。飛鳥時代へ行ってみる必要がある。古事記の真似をして落とし噺をひとつ書いてみると良い。漢語を使わずにヤマトコトバだけで文章を作ることは至難の業である。さらには、和習万葉仮名混交文など書いていたらばかばかしくなって投げ出したくなるであろう。
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(注1)鎌倉時代に、中宮寺の尼僧、信如が、同寺の復興にあたって、寺の本願と伝えられる穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)の忌日を知りたくなった。夢のお告げに繍帳の銘文に記されていると教えられ、法隆寺綱封蔵の泥棒騒ぎのおかげで調査ができ明らかとなった。繍帳はすでに劣化が始まっていたが、当時の専門家が銘文を解読した。それが、上宮聖徳法王帝説に記され、他に、宮内庁書陵部蔵の中宮寺尼信如祈請等事(定円の解読)、西尾市立図書館内岩瀬文庫蔵の松下見林本天寿国曼荼羅銘文(平野神社兼輔の解読)などがあって、それらの異同を校訂した飯田2000.の水を漏らさぬ考究の結果、全400字が復原されている。
建治元年(1275)には補修されて新繍のものも作られ、弘安元年(1278)に中宮寺で供養が行われた。現在見られる繍帳のうち、汚い部分のほうが鎌倉時代の後補部分であるとされている。「原本の下地裂(したじぎれ)は、紫地平絹(むらさきじへいけん)に紫地羅(むらさきじら)(羅はもじり組織の織物)を重ねた部分と、白地羅(しろじら)の部分からなる。」(『日本美術全集』、267頁。この項、三田寛之)。建治の新繍の生地は紫綾、部分的に白平絹と異なり、繍糸の撚り方も異なっていると研究されている。江戸時代、安永年間(1772~1782)頃に、残片を集めて縦二尺九寸(約87cm)×横二尺七寸(約81cm)の軸装となり、大正時代に現在の額装にされたという。また、沢田2010.に、「もと法隆寺にあった『天寿国繡帳』の残欠をはじめ、法隆寺系の幡や「法隆寺」、「鵤(いかるが)寺波羅門(ばらもん)」……などの墨書銘が記された作品など、法隆寺の列品に含まれている裂の一部が混入されているのです。正倉院から刊行された図書にも図版とともに掲載されています。」(20頁)とあり、注に、『正倉院の宝物一〇』、『正倉院の宝物六』を掲げ、「これらの図書に掲載されている作品以外にもまだあるものと推測されます。」(31頁)との見解を示す。(沢田2015.参照。70頁に刺繍についての若干のコメントも載せる。)きっとそうであろうが、こと天寿国繍帳の“銘文”に関しては、上宮聖徳法王帝説等以上のものはないであろう。
(注2)日本書紀に、「帷」とあるのは、寝屋を囲むパーテーションの意、ないし、葬儀の際の幔幕の意で用いられている。「帷幕(おほとの)」(景行紀四年二月)、「帷内(ねどころ)」(仁徳紀十六年七月)、「帷幕(きぬまく)」(継体紀九年四月)、「帷帳(かたびらかきしろ)」(孝徳紀大化二年三月)とある。孝徳紀の例について、大系本日本書紀に、「棺をおおうためのものか。」((四)279頁)、新編全集本日本書紀にも、「棺を蔽うとばり。」(③150頁)とある。しかし、少し前に、「夫(そ)れ葬(はぶり)は蔵(かく)すなり。人の見ること得ざらむことを欲す。」という中国の故事を載せる。葬儀を行っている様を傍観されないように、今日、事件現場でブルーシートをめぐらせて見えないようにするようなことが推奨されたようである。天寿国を図にした「繡帷二張」は、太子の葬儀に用いられたものではないから、前者の、寝屋を囲むものとして用いられたと考えられる。継体紀の記事は、半島情勢の話なので、キヌマクなる訓が付けられているが、意は同じである。寝込みを襲われて這う這うの体で逃げ出したという記述である。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/0f/56/94af1d1ab5ed78c89f4bd059dddd33d6_s.jpg)
橘大女郎の依頼、要請を受けて、推古天皇配下の采女たちが制作したと明記されている。その「帷」は橘大女郎に下賜されて、彼女の寝屋を仕切るよう、几帳などに掛けられて用いられたのであろう。そのような図例は、石山寺縁起絵巻に見られる。第三段の詞書に、「伝(めのとの)大納言道綱の母〈陸奥守藤原倫寧朝臣女〉、法興院(ほこいん)の禅閤(ぜんこう)かれがれにならせ給し比(ころ)、七月十日あまりの程にや、当寺に詣でて、よもすがらこの事を祈申けるが、しばしうちまどろみたる夢に、寺務とおぼしき僧、銚子に水をいれて、右の膝にかくるとみて、ふとうちおどろきぬ。仏の御しるへとたのもしくおほえけるに、……」とある。夢見の場面が、眠っている人とその夢とが同じ空間に描かれている。西郷2012.に、「昔の人たちは、夢は人間が神々と交わる回路であり、そこにあらわれるのは他界からの信号だと考えていた。蜻蛉日記の作者は石山寺に詣でてある夢を見たとき、「仏のみせ給ふにこそはあらめと思ふに……」と記しているが、昔の人にとっては、夢はこうして神や仏という他者が人間に見させるものであった。夢が神的なものとして信じられるのはこのためで、だからそれは「夢の告げ」であり「夢のさとし」でありえた。「夢の教」という言葉も、すでに記紀に何度か用いられている。」(16~17頁)とある。
夢が神仏からのメッセージとして訪れると信じられていた時、石山寺縁起絵巻は、一般に、絵巻の描き方の特徴とされる異時同図法ではなく、夢と現実との“夢現同図法”によって描いた。これは、本稿で疑問とした<図>と<地>の混淆状態、溶融状態である。(注19)に、「世界」を「発見」するための絵本の見開き1ページと考えた点である。frame の溶解を意図的に引き起こしている、ないしは、絵本の見開き1ページには、最初から frame といったコマはないと言える。そもそも non-frame に作りたいとき、「繍帷」という形式は卓抜であり、撚り糸をもって刺繍することは、ヨリテユク「天寿国」の表現にはもってこいであったろう。「視」えないという橘大女郎に、審らかに「観」る道具として作られた。そして、彼女は寝る前と起き抜けとに観て、しばらくして、夢にまで見ることができた。微睡(まどろ)むことがあれば、夢うつつに「天寿国」が観想できる。当たり前である。半分起きていて実見しているのであるが、半分眠っているのであるから夢に見た。夢に見たほうこそが大事で、それが神仏からのメッセージとして“本当のこと”と受け止めることができた。神仏とは、最近仏さまになった太子のことに他ならない。夢現同図がここにかなった。悟ることができた。なぜ繍帷が「二張」なのか。それは、密教の両界曼荼羅が、座る人の左右に掲げて宇宙を感得するのと同様に、橘大女郎が、寝屋のなかで、寝返りをうっても、左右のどちらにも「帷」があるから、いつでも見えるように設置させるためである。
繍帳はしばらく使われた後、彼女のノイローゼは治癒して用は足したので、住んでいる斑鳩宮から、お隣の斑鳩寺(法隆寺)へ奉納された。そのような次第であると考える。その際、焼失前の寺側が、救世観音像とどのように関連づけられたかなど、法隆寺等に記録が残っているなら別であるが、詮索できるものではない。
(注3)マンガとは何かについては、なかなか難しい問題である。棚田2014.では、「読者の想像/創造によって、コマの間が埋められている=繋がれている……この〈繋ぐ〉ということにマンガの本質を見る……。つまり、マンガの基本はコマであって、その中に何が描かれているかはまずは問題外だということである。」(118頁)とする。ところが、新聞のオピニオン欄などに、風刺漫画として、1コマ(コマは記されずに周囲は論説に埋め尽くされている)が描かれている。中田2014.に、「「どのようなものがマンガなのか」ということについては、だれもが秘かに自信をもっている。……自分にとってのマンガらしさというものは、しばしば個人の確信の次元にあって、議論をしてたしかめたいような事柄だとは思われない。しかし反対に、「マンガ表現とはどのようなものか」ということになると、われわれは一気に自信がなくなってしまう。」(185頁)とあり、「現在のわれわれは、マンガ的表現と言えばまずコマの連続性にもとづく表象を自然に想像してしまう……。しかし、フィギュラシオン・ナラティヴの作品、とりわけアダミの絵画などを見ていると、マンガ表現には連続性や運動を表象するだけではなく、カリカチュアや文体の権能と、造型言語のもつ叙情性や寓意性といった力が、たしかに備わっていたのを思いだすようだ(たとえば、われわれは panpanya のマンガの一コマを見るだけで、登場人物が世界に畏れをいだいていることを了解するが、それはキャラと背景の絵の文体にそれぞれ籠められている、叙情性を感得するからだろう)。」(214頁)と論じている。
(注4)「公」の字体については、以下に垣間見た。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/43/20/616beb52fdb05a9c6c45f0d22ae0d551_s.jpg)
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筆者には、天寿国繍帳の「公」の字、「‥」の下に「△」の形の例を、天寿国繍帳以外に見つけることができない。
(注5)絵巻物は、一般に「異時同図」ということばで解説されることが多い。この解説概念も厄介な問題をはらんでいる。千野2010.は、「絵画を見ることは、世界を見ることである。」(225頁)と断言する。そして、「日本の絵画は、多くの場合、異時同図的に描かれていると考えてよい。それはつまり、過去、現在、未来と移り動いていく時間のなかにあって、現在という単一の視点からではなく、過去も未来も含めた複数の視点から、画中の情景が捉えられているということである。また、仮りに同じ時点であっても、上下、左右、遠近、と、さまざまな位置から捉えられた情景が、やはり一画面のなかに複合的に描かれていることが多い。……要するに、視点の位置は自由自在であり、しかも基本的に複数の視点から眺められた情景を一画面のうちにまとめた作品が、日本絵画史の主流を占めているということである。」(226頁)とされる。すなわち、日本の絵画というものとして、多くの絵巻物、屏風絵、玉虫厨子の捨身飼虎図などが射程におさめられている。
野田2014.に、「『異時同図』はどうやら、……複数の時間と同じ画面のうちにおさめるだけでなく、さまざまな空間をひとつの図に(いわば『異空間同図』として)とらえたり、時間も空間もどちらも異なるものをひとつの図に(いわば『異次元同図』として)とらえたりする、きわめて広範で曖昧な概念として使用されてきたようなのだ。」(112頁)とある。また、加藤2011.は、「「異時同図」ないしは、「連続的物語叙述」をめぐる研究が面白いのは、それが言語テクストと視覚表現という二つの異なったメディアが巧みに組み合われながら紡ぎだされてくるものだからである。その意味でも、いまのわたしたちにとってさらに必要になるのは、「日本(東洋)」と「西洋」あるいは「芸術」と「視覚文化」という枠組みを越えること、そして、そのような一般化を経たうえで個別事例に接近して分析を行うことなるのではないだろうか?」(26頁)と展望を語る。
これらは、「異時同図」概念の曖昧さをうまく活用して、日本絵画を“読む”行いであると筆者は考える。その射程のなかに、天寿国繍帳は含まれていないように思われる。銘文中に、「看」、「観」とあって、それがそのまま「図像」中に記されるとなると、「天寿国繍帳とは何か」に迫ることは、“絵画を読む”行為では果しえない。画中画ならぬ画外画をどこかで析出してみなければならない。そのためには、銘文を“読む”行為しか残されていない。本稿は、そこを突破口として、天寿国繍帳とは何かに迫る。
(注6)筆者とは違う考え方もある。例えば、日野2017.に、「天寿国繡帳にみられる亀甲文とその背上文字のデザインとの関係において把握しようとすれば、そこには霊亀長寿の理想を説く神仙思想がつよく影響している事実が窺われ、天寿国という理想世界の図相の由来を物語る文字を象徴的に表現するのにふさわしいものとして着想された趣意が理解できるであろう。」(178頁)とある。お葬式ばかりという次第を書いても、霊亀長寿の神仙思想へと転化されてしまう。
(注7)「世間虚仮 唯仏是真」を音読みしたに違いないことを窺わせる語が記されている。「玩味」である。橘大女郎が口のなかで言葉を弄んでいる。何と言っているのか自身よくわからないけれど、響きを頼りに味を確かめている。「世間虚仮 唯仏是真」なるガムを噛んでいると思えばよい。ここを訓読みすると、「玩味」という語が生きて来ない。訓読みとは、ヤマトコトバそのままである。ヤマトコトバは分かり切っているから、口のなかで玩具にして味わうことはできない。即座に腑に落ちてしまう。胃袋へ直行である。仏典に典拠があるならそのままにない限りあり得ない。
真流1981.に、「……「世間虚仮 唯仏是真」の句は『勝鬘経義疏』一巻の,更に言えばその顚倒真実章の要約に外ならない.『勝鬘経』を典據とするものであることが明らかとなった以上,他に「出典」を求める必要のないものであり,否,そうすることは誤りであると言ってもよいであろう.諸種の史料に伝えられる此の経の講讃のこともここに想い合せられる.天寿国繡帳亀甲文において橘妃によって伝えられたこの一句を妃はある時その講筵に列して聴聞したのかもしれない.あるいは太子に侍した日々の折りふしに胸底にしみいった親しい言葉ば[ママ]であったかもしれない.そして太子の死に直面して,生死無常の嵐の中で太子を追慕する時,太子の天上からの呼び声として妃の耳によみがえり,鳴り響いたであろう.そしてそれは永遠の太子自身であった。」(274頁)とある。「世間虚仮 唯仏是真」の句はそういった背景があったかもしれない。ただし、天寿国繍帳に描かれている「天寿国」の「図像」は、橘大女郎自身が作ったものではない。推古天皇の勅命のもと、「諸采女等」や「東漢末賢、高麗加西溢、又漢奴加己利」、あるいは「椋部秦久麻」が作ったのであり、どのような理解にあったか知れたものではない。互いに打ち合わせなどしていないと考えられる。患者はそれどころではない状態だから、急ぎ制作されたものである。適当に考えておかないといけないことを強調しておきたい。
(注8)飯田2000.のほか、思想大系本聖徳太子集には、年月日や干支の表記では音読みを、他の多くは訓読みを重視された読み方が行われ、東野2013.にはより音読みを採り入れた訓読文が提示されている。
(注9)義江2000.に、「『天寿国繡帳銘』の系譜を「A娶レB生C」の基本要素に着目して分析することにより、双方的に対称的に広がる複数の祖から発して親子関係の連鎖をたどりつつ自己へと収斂する、典型的両属系譜の一事例を検出することができた。」(79頁)とある。出自論や父系制、系譜意識について述べられている。他方、北2017.に、「まさに「自分を娶った太子のこと」と「自己の出自の神聖さ」、さらに「間人母王の出自」という三点をアピールした文章だといえるのである。」(585頁)とある。そして、「このような仰々しい系譜、銘文全体の半分以上を占める長大な系譜が、なぜ聖徳太子の死を機に作られた繡帳の如き物に克明に書き込まれる必要があったか、―このことを説明しなければ問題は解決したことにはならない。」(585~586頁)と続けている。「如き物」であることを忘れて、この“過去帳”に重みを持たそうとしている。
(注10)赤尾2003.に、「[天寿国とされる]この『華厳経』は六世紀の写本ではなく、二十世紀初頭に造られた偽写本と判定すべきという結論に至り、延昌二年(五一三)の書写奥書も基本的には北魏の延昌年間の本奥書と考えられるのである。また「西方天寿国」……と読まれてきた奥書に関しては、『摩訶般若波羅蜜優婆提舎』(大谷探検隊将来、京都国立博物館所蔵)に見られる「无」の字すがた……―これが五世紀の写本という時代差はあるにしても―を見ると、先の奥書を読む場合にも「西方天寿国」ではなく、「西方无寿国」と読むべきであろう。そして、これらはいずれも二十世紀初頭に書写された偽写本と考えざるを得ない状況なのである。」(44~46頁)とある。
(注11)拙稿「多武峰の観(たかどの)とは何か=両槻宮&天宮考」で述べたように、斉明紀の「天宮」はアマツミヤばかりでなく、テムノミヤと言っていた可能性が高い。そこがタムノミネだからであり、とても近い訛った音構成である。タムノミネのタム(訛)という語を含んだ地名だから、それを意識して洒落てみている。言葉が自己言及的に用いられている。
(注12)大橋1995.に、「蓮華の中でもっとも注目すべきは、光焔を発する蓮華化生図であろう。前者は天寿国への往生人が生を受けようとしている直前の姿の蓮華で、後者は往生人が今まさに蓮華の中から天寿国へ生れようとしている場面である。経典によると化生とは四生(化生・胎生・卵生・湿生)の一つで、浄土における生命現象であって、無から忽然と生れる超自然的な出生と考えられていた。……私はこの蓮華化生図こそ、天寿国が無量寿仏の無量寿国であることを強く示唆するもっとも重要の図像であると考えている。」(136頁)とある。無量寿国であるなら、なぜ「天寿国」と言い換えたのか理解できず、その点を考察された論考も管見にして見られない。むしろ、蓮華化生の考えを方便として、橘大女郎の言う「生於天寿国之中」の「中」を示そうとしただけなのではないか。行政単位としてのクニ(国)の国府、国衙は、クニの境界ではなく、テムジクニ(天竺国)の中にある。ヨリテユク(従遊)とは連なって逝ったこと、ハス(蓮)の音のレン(連)と同じで、ハスの様子が、周辺の葉、花などが根(レンコン)を通じて続いて行って池の中から花茎を伸ばすことをもって似つかわしいと感じたからデザイン化したのではないか。インドは暑い国で、ハスの咲く日本の夏季が一年中続く国だと知られていたに相違あるまい。
(注13)上宮王家で数カ月中に亡くなっているのは、「母王」こと穴穂部間人皇女、膳夫人(干食王后、膳菩岐々美郎女)、「大王」こと太子の3人である。膳夫人は、病の床についた太子の看病にあたったものの、看病疲れから太子の亡くなる前日に亡くなっている。続けざまに亡くなっているという橘大女郎の言い分からすると、むしろ膳夫人を当てる方がふさわしい。「法隆寺金堂釈迦三尊の銘文が、母王・太子・膳妃を「三王」とまで言うのとは大いに異なっている。……当然そこには制作主体の相違が反映しており、釈迦三尊は膳氏の強い影響下に造像が行われ、天寿国繡帳は橘大女郎の一族の存在を背景に制作されたことが考えられよう。」(東野2017.、13頁)といった意見や、橘大女郎が膳妃に嫉妬していたための言動であろうという臆説まで生じている。北康2017.に、「太子と共に仲睦まじく死んでいった膳妃に対する橘妃のさびしい嫉妬から作られたのが、この天寿国繍帳なのではないかと考えられてくる。」(591頁)、「天寿国繡帳は太子の葬送に際して作られた葬具の帷帳であり、そこに記された銘文の文脈や系譜には、太子と共に没した膳妃に対する橘妃の強い対抗感情が表出している。」(593頁)などとある。石井2016.でも、亀の上の銘の名前の配置を検討された三田2008.の釈迦三尊像的な塩梅を考慮に入れ、「干食王后に対する、皇女としての強烈な自己主張と見るべきでしょう。」(221頁)とある。
天寿国繍帳の制作主体は、銘文を読む限り推古天皇である。週刊誌ネタのように、太子の本妻は自分であると主張したのだという勘繰りも、繍帳を作らせたのが橘大女郎ではなく推古天皇であることを説明できない。推古天皇が膳妃をいなかったことにする理由が解かれない。正妻であったことを太子が亡くなってから推古天皇に訴える理由としては、相続財産の問題があるかもしれない。しかし、銘文に記されている内容、橘大女郎の主張の主旨は、母王と太子の住む天寿国を見たいということである。嫉妬や財産目当てから、天寿国なる訳の分からぬテーマを持ち出し、事もあろうに天皇にぶつけるとは思われない。園遊会に招かれて、突拍子もない意見を開陳したのではない。自分から小墾田宮を訪れ、恐る恐る庭の遠いところから、奥の宮殿の御簾の向こうの天皇に申し上げている。話を聞いて診察すれば、橘大女郎は精神を病んでいると扱うしかない。財産は後見人が管理することにし、お大事にして頂こう。
天寿国繍帳は物証である。推古天皇が橘大女郎の言い分をきちんと聞いて、その言葉を捉え返して天寿国繍帳を作らせている。天皇は社会秩序を安定させる方へ舵を切る。ゴシップ騒ぎに後追い的に加担したりはしない。憔悴しきった橘大女郎が、錯乱し、太子の亡くなる前日に枕を並べていた膳夫人の亡骸を、殯中で葬らずにいた母王、穴穂部間人皇女だと思いこんでしまったに過ぎない。統合失調症状態である。上宮王家の家来も、橘大女郎の狂気を悟り、近づけないようにしていて、詳細を伝えなかったのかもしれない。推古天皇もさぞかし心配したことであろう。
(注14)そのようなジョークの例は、東森2015.に、興味深い例がいくつも記載されている。
(注15)釈日本紀に、「書字乃訓於不美止読。其由如何。答、師説、昔新羅所レ上之表。其言詞太不敬、仍怒擲二地面一踏。自其後訓云二文美(ふみ)一也。今案、蒼頡見下鳥踏二地面一所レ往之跡上作二文字一。不美止云、訓依レ此而起歟」とある。
(注16)渡来人が登場している点は、繍帳銘の音仮名などから理解される。西崎2006.に、「繍帳銘文所用の字音仮名、助辞「之」の不読にするという訓法の若干の考察から見られる「勘点文」について整理しておく。①『繍帳銘』に所用される字音仮名については、古代朝鮮固有名(人名・地名)等に用いられた音仮名に一致するものが多いという事実は、『繍帳銘』の書記・加点に関わった人物として朝鮮半島からの渡来人が想定される。②推古遺文にしか見られない古韓音が多く所用されている点も左証となる。③「弥」字が「ミ甲」「メ甲」に両用されている点は古代朝鮮音との関係が想定される。この点も左証となる。④文末助辞「之」を不読とする訓法も朝鮮漢文の影響によるものと考えられるが、この点も左証となる。」(56頁)とある。
(注17)山田1935.のタイトルにもなっている「よりて」という語は、「接続副詞の如き形式に用ゐること少からず。これは「よる」といふ動詞に複語尾「て」のつける語なること勿論にして、かくの如く固形的に、しかも、接続副詞の如くに頻繁に用ゐらるるに至れるものはこれ亦漢籍の訓読により馴致せられしものなるべきなり。……即ちその漢文の訓読には、恐らくははじめより簡便を尚びて「よりて」とよみ来りしものなること殆ど疑ふべからざるなり。……これ実に漢文訓読の為に新に按出せられし一種の語遣にしてそれが、普通文に用ゐらるるに至りしものといはざるべからざるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1173586(115~118/200)、漢字の旧字体は改めた。)と説明されている。
とても便利だから使おうよということで、早い段階からヤマトコトバに侵入していたものと思われる。本稿で「従」字をヨリテと訓じた。推古朝の訓点例は知られないが、参考となる用例をあげる。
予悪二夫涕之無一レ従也。 予(われ)夫(そ)の涕(なみだ)の従る無きを悪(にく)む。(礼記・檀弓上)
金剛般若経一切諸佛之所二従生一。 金剛般若経は一切諸佛の従りて生れたまふ所なり。(興福寺本大慈恩寺三蔵法師伝)
是吾剣之所二従墜一。 是、吾が剣の従りて墜ちし所なり。(呂氏春秋・察今)
見二漁人一、乃大驚、問レ所二従来一。 漁人(ぎょじん)を見て、乃ち大いに驚き、従りて来たる所を問ふ。(陶潜・桃花源記)
所二由入一者隘、所二従帰一者迂、彼寡可三以撃二吾之衆一者、為二囲地一。 由(よ)りて入る所の者隘(せま)く、従りて帰る所の者迂(う)にして、彼れ寡(か)にして以て吾の衆を撃つ可き者を、囲地(ゐち)と為す。(孫氏・九地)
無三以聴二其説一、則所二従来一者遠而貴レ之耳。 以て其の説を聴くこと無ければ、則ち従りて来たる所の者遠くして之れを貴ぶのみ。(淮南子・修務訓)
従レ此観レ之、齊楚之事、豈不レ哀哉。 此れに従りて之れを観れば、齊楚の事、豈(あに)哀しからずや。(文選・上林賦)
業不二従レ縁生一、不下従二非縁一生上。 業は縁に従りても生ぜず、非縁に従りても生ぜず。(中観論・観業品)
我等所二従来一 五百万億国 我等が従り来る所は 五百万億国なり(妙法蓮華経・化城喩品)
(注18)原文に、「我大王與母王如レ期従遊」とあり、どのようなところかはさておいてもあの世へ行っている。そして、「我大王応生二於天寿国之中一」と言い、「彼国之形眼所叵レ看」と言っている。そして、「欲レ観二大王住生之状一」と言っている。「住生」を「往生」と通用すると捉える説もあるが、「往生之状」とは、阿弥陀如来に導かれる場面が連想される。彼女の訴えは、「我大王與母王」がすでに辿りついて生活している「天寿国」の「国之形」を「視」ようとしたが見えないから、よりどころとなる「図像」が欲しいと言っている。「住生」は「往生」ではなく、スマヒである。
相撲の四つ相撲と糸との言語的関連について推論する。ヨ(四、ヨは乙類)は、古典基礎語辞典に、「数詞。ヤ(八)と母音交替による倍数関係をなす語。無限を意味するイヨ(弥)と同根。「四方(よも)」で、天下至る所、一点を中心として広がりのある世界を表しえたように、ヨ(四)は元来、無限の数量・程度を意味したものと思われる。」(1287頁、この項、筒井ゆみ子)とある。そして、イヤ(弥・最・益)の項には、「イヤはイヨの母音交替形(iya ― iyö)。上代から確例のある語で、もともとは事柄や状態が無限であることを表し、数詞のヤ(八)にも通じる。転じて、物事の状態が、以前よりも、しだいにはなはだしくなるさまや、程度の激しさが増すのを表す。」(155頁、この項、我妻多賀子)とある。これらの語と直接の関係はないかもしれないが、相撲の四つに組むことが、力が強ければ強いほど引きつけあって very な感覚を表している。これは、古語に、イト(甚・最)な状態にある。また、「頂点や極限を意味するイタ(甚)の母音交替形。上代から一字一音の例があり、中古・中世の和文体の作品で非常に多く使われたが、和歌や漢文訓読文ではほとんど用いられない。程度のはなはだしいさまについていい、非常にの意を表す場合が最も多く、用例の八割以上を占める。そのほか、程度の高さに対する詠嘆、強調の気持ちを表して、ほんとうにの意。さらに下に打消の語を伴うと、たいしての意でも用いられた。上代には、イトのトに、甲類の仮名が使われているものと、乙類の仮名が使われているものと二種出てくるが、意味上の明確な差は認められない。用例数からいうと、乙類の仮名で書かれたものが多い。」(132~133頁、この項、我妻多賀子)とある。糸の製作過程の大変さを思えば、以上のヨ(四)、イヤ(弥)、イト(甚)は、撚って作った糸と関連があるのではないかと、飛鳥時代の人には思い及んだのではないかと推測される。なお、「糸(いと)」=LH、「甚(いと)」=HLとアクセントに違いがあり、同系の語とは考えられない。それでも、推古天皇は、橘大女郎のことに心が痛み、イトホシク(愛)てイトフ(厭)気持ちになって、イトマナク(暇無)イトナム(営)ことにより仕上がった作品、それが天寿国繍帳ではなかったかと思われるのである。互いの言葉の相関関係については、さらなる検討が必要である。
(注19)絵本なる概念については、天才的な研究が行われている。上にあげた(注3)や(注5)の議論の地平からは到達しえない水準である。志村2004.に次のようにある。「多くの子どもにはそれぞれ、繰り返し読むお気に入りの絵本がある。彼らは時折感嘆の声をあげ、ぶつぶつ小さく呟きながら、まるで初めての本を見ているように長時間熱心に見入っている。その様子をよく観察すると、ページを次々とめくるのではなく、幾つかの特定の画面に長いこと留まっていることが多い。子どもたちは繰り返し読む絵本を、実際どのように体験しているのだろうか?「この絵本のどこが面白いの?」と問うと、「こんな世界にいきたいなぁ」とか「どうやったらここに行けるの?」など意外な答えが、数多く返ってきた。どうやら、子どもたちは、絵本の中のストーリーを繰り返したどっているのではなく、絵本の中に「こんな世界」を発見して、それに繰り返し見入っているらしい。」(40頁)というところから解き起こしている。そして、「絵本の世界像は、『地』に属する『図』をもつ『地』表現、つまりストーリーには直接絡まず『地』世界に属する活気ある事象をもつ『地』表現の、連続的変化の中に表わされていることがわかった。さらに絵本の世界像の中には、読者が『地』に属する『図』の視覚表現を発見して関係付けるという、読者自身の想像力を駆使する主体的な活動の余地があることがわかった。絵本を読むという営みの中で、作家の創造性と読者の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、その読者独自の豊かな世界像が生成されて享受されるのである。このように、絵本の創造性の働きを、作家と読者の双方から捉える視座の重要性も、新たに明らかになった。」(57頁)と究明している。
志村2004.の解明によって、天寿国繍帳とは、絵本の特定の見開き1ページであり、推古天皇側の創造性と橘大女郎の創造性という双方向からの働きが出会うことによって、天寿国という世界像が生成されるという営みが絶えず行われ続けているものであったとわかる。繍帳はアート作品として下手である。下手だから、天寿国なる世界像をありありと想い浮かばせる営みが行えると言ってよい。上手いということは、作家の側が全体から細部まで決めてしまうということであり、ひとたび読者側が違和感を覚えたら、世界像を結うことはなくなる。相互の営みが繰り広げられることが、「こんな世界」=「天寿国」を想い起させる契機なのである。イトナミ(営)とは、イト(暇)+ナシ(無)→イトナシを動詞化した言葉である。休む暇なく続けて仕事をすること、大規模造営工事を行うこと、また、葬儀を執り行うことである。橘大女郎は、葬儀続きで疲れて精神を病んでいるが、その精神は、天寿国を大工事で造り上げようと自ら求めていた。休ませた方がいいこともあるが、思い詰めているのだから話を流れに従って進めた。絲の撚り合いというほどに営むしか他に手はなかった。絲という語のトの甲乙は決め難いとされているが、ここに営(いとな、トは甲類)むことが行われていることから、甲類である可能性が高い。そして、糸という、ヤマトコトバのうちでも基本語彙に入るはずの語の秘密(筆者は語源を探究するという立場に立たない)も隠されているのではないだろうか。
(注20)天皇号については、ここに「天皇」とあるから推古朝からあったのであるとか、そうではないとか、議論されてきた。筆者は、いわゆる「天皇号」とは何か、可解していない。この漢字表記は、ヤマトコトバでスメラミコトと訓ずる。上代において、それがすべてであったろうと考える。
(注21)三田2008.に、「現存する外区図像は少なくとも『弥勒大成仏経』によって解釈することが可能である。だが、現存断片があまりに少ないこともあり、同経への比定を確信することはできない。しかし、『法華経』や浄土三部経など有力な仏典中に対応し得る記述が見られないことは注目すべきで、その分『弥勒大成仏経』が典拠である可能性は期待される。」(272~273頁)とある。「天寿国」という文言ではなく、図像から典拠を求めようとしている。筆者には、図像並びに文字の下描きをした「東漢末賢(やまとのあやのめけ)、高麗加西溢(こまのかせい)、又、漢奴加己利(あやのぬかこり)」という人にどれほど仏教の知識があったのかわからない。そもそも推古天皇の指示は、橘大女郎の言い出しているテムジクニ(天寿国)なるものを、いいように再現する試みであったのではないか。適当に考えておくことが望ましい。
(注22)松浦2006.に、「繡仏である天寿国繡帳は太子薨去の六二二年二月二十二日から一年以内には完成されていたはずである。」(同14頁)、「聖徳太子の浄土往生のさまを刺繡した帷であるから、当然その帷を垂らした御帳内には聖徳太子の御影が祀られたはずである。また天寿国繡帳は鎌倉時代まで法隆寺に伝来したものであるから、これは法隆寺に祀られた聖徳太子の御影に相当する仏像を荘厳するための「繡帳二張」であったと考えるべきであろう。その聖徳太子の御影に相当する仏像とは、『法隆寺東院資材帳』に「上宮王等身観世音菩薩木像」とある夢殿本尊の救世観音像……に他ならないと考えられる。」(15頁)とある。
筆者は、天寿国繍帳のようなアニメキャラに作られた「繡仏」があるのか知らない。橘大女郎の容体は悪いのである。一刻を争って作られたに違いないと考える。また、北2017.にいう「葬具の帷帳」でもないであろう。銘文にそのようにないからである。
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(注23)「公主」という語について議論されている。語についての議題には2通りある。一つは、「公主」と同類の、「天皇」、「崩」などに対してである。第二は、「弥己等」という言い方である。前者は、漢語を問題にしている。表意文字の表記を問題にしている。「天皇」号はいつからあるのか、安易な問題設定がされて議論が盛んである。天皇の意味で仮に記せば、上代の字音に「弖牟和有(てむわう)」なる語を問うことはない。本邦において「天皇」と書いてある例を探し、なかなか見つからなくて天寿国繍帳銘に目につくと、天寿国繍帳は後の時代に作られたと推論されてしまう。短絡的な臆断が罷り通ってしまう。漢字の字面を問題にしているだけである。
後者の「弥己等(みこと)」号(?)は、それとは問題の性質が異なる。ヤマトコトバの発声音を俎上に載せている。前者は、漢語の字面を問題にしている。聴覚と視覚は別次元である。繍帳銘に「天皇」とあるのが、筆者には「号」なるものであるとは理解できない。スメラミコトというヤマトコトバに漢字を当てた、その当て方の一種であろう。今日いわゆる天皇号がいつ始まったか、筆者は知らない。スメラミコトという語は、紀や万葉集の標目に記されているから、それなりに古くからあった。それは、あくまでも、スメラミコトというヤマトコトバであって、字面が問題になるものではない。字面を問題にすると取り決めたとき、万葉集の原文を“読む”ことはできない。「籠毛與美籠母乳……」(万1)の字面が問題となり得るのは、歌の内容が下ネタの可能性があるかも知れないという点に過ぎない。
「公主」という「号」について、そのように記された例が本邦に乏しい。乏しいから、繍帳は遅れて成立したものであるとの主張が見られる。他に、百済の例があるともされている。ところが、唐代初期に成った芸文類聚に、「公主」の項が立てられ、たくさんの用例が載っている。漢籍のアンチョコに項として載っていくほど近寄りやすい漢語である。意味は、天子の娘のことを指す。ヤマトにおいて、天子とは、アメノコ、つまり、スメラミコト(天皇)のこと、その娘は、ヒメミコ(皇女)のことである。ならば、ヒメミコのことを、「公主」と書いて何ら間違いではない。律令や令義解に定めがあったとして、推古朝のことであるならそもそも時代的に無関係である。書いてはいけないと禁じられていたということがなければ、どう書いても構わない。文科省の常用漢字表などと違う書き方でガス工事店の手書きの領収書に「煙凸代」とあったとき、誰しも「煙突代」のことと認める。上代、ヤマトコトバに漢字を当てた。「公主」をコウシュと読んだのではなく、ヒメミコに「公主」という字を当てた。
繍帳銘に、「宮治天下天皇名」とある。漢字の意味をとりながら表記されている。表意文字である。それぞれ、「宮」(みや、palace)、「治」(をさむ、reign)、「天下」(あめのした、country)、「天皇」(すめらみこと、emperor)、「名」(な、name)の意味である。それぞれのヤマトコトバの意味を表して、漢字に記している。ヤマトコトバで考えている。「治天下」という表記が漢籍に見られ、それがヤマトコトバにしてみてヤマトコトバに適うならそれを採り入れる。採り入れ方はヤマトコトバが基準である。自己中心的である。自分の国にいて、よその国の書き方に準じなければならないと拘束される筋合いはない。条約でもなければ植民地化されているわけでもない。ヤマトの人の間で互いに通じればいい。「天下」という概念は、神代紀第五段本文に、「天上(あめ)」と対比で「天下(あめのした)」、神代紀第五段一書第六に、「高天原(たかまのはら)」、「滄海原(あをうなはら)の潮(しほ)の八百重(やほへ)」との兼ね合いで位相、範疇を決められていく。アメノシタとは、概ね、大地、地上のことを意味するツチの概念を膨らませた地上全体、そこから派生して、国事、国政のことを指すようになっていっている。字で表した時、見た目が和製漢語の状態になっているに過ぎない。ヤマトコトバが母語である。
「大王」、「公主」、「天皇」、……といった言葉は、オホキミ、ヒメミコ、スメラミコト、……を表記したものである。表記法について、一般の人に及ぶ規制は知られない。義務教育などない。「「天皇」号」について推古朝にあったかなかったかという議論は、銘文を“読まない”姿勢と裏腹の関係にある。キティちゃんのマンガの吹き出しか、絵本のデザインのような剽軽なカーテンの柄として書いてある言葉が、「号」に当たるような事柄の次元のこととして書かれてあるのだろうか。それは、「吉多斯比弥乃弥己等」、「乎阿尼乃弥己等」にミコト(命)とあったり、「吉多斯比弥乃弥己等」を「太后」と書き表わすことが、太子の伝説化以降のことではないかとの考えにも当てはまる。そういう議論をして欲しいと、繍帳銘400字を捻り出した人は望み、練り上げたものだろうか。“読む”ということは、捻り出し、練り上げた人の心を読むという作業である。漢籍という膨大な文例集によりながら、字を当てているに過ぎない。珍しい書き方だからと見た目で判断することはできない。
日本書紀には早くから古訓が付されている。漢語で書いたものをヤマトコトバで言い換えたとか、無理やりに訳したと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀の編纂を命じた天武朝は、国粋主義まっただ中にある。国粋主義にあるから、自国の歴史書の編纂に目覚めている。そこで、ヤマトコトバでヤマトの歴史を記すに当たって、あくまでも表記において、漢字、漢語、漢文を用いた。固有の文字を持たないから仕方がない。それが原則である。紀の古訓とされるものは、もともと日本書紀を記すに当たってヤマトコトバで考えていた内容について、再現させてかなり正確なものといえる。小学館の新編全集本日本書紀に、漢籍からのまるごと引用部分とされている文章について、音読みするという暴挙が行われている。古訓は無視されている。母国の歴史は、母語で考えて書こうとする。ちょうどいい文案が見られたから、文例集のように引用している。字面をパクったに過ぎない。ヤマトコトバの読み方、訓読みが行われず、音読みが行われたとする解釈は、事の本質をはき違えている。
それに遡る推古朝に天寿国繍帳が作られたとするなら、漢字、漢語、漢文で書いてあるからといって、漢語で読んでいてはお話にならない。逆に言うと、漢語でしか読めないなら、推古朝に書かれた銘文ではないと証明できることになる。つまり、“読む”ことで、制作年代はわかる。万葉集のように、ヤマトコトバばかりなのか、続日本紀や律令のように、漢語を音読みしなければ通じないか、確かめれば知れる。漢文訓読に由来する助辞の「所」字をトコロと読むとしか考えられないのであれば、それは奈良時代後期以降のことであると認められる。その点については、拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」で詳述した。銘文を内部から“読む”ことが求められている。
石井2016.では、当然の疑問が呈されている。
[後代の]偽作であるとすると不思議なのは、紙に書いたり金属板に彫ったりすれば簡単なのに、広げれば縦二メートル、横四メートルになる帳(とばり)を二つも作り、薄地の布の上に色彩豊かな絵柄を刺繍で描き、また多くの亀を刺繡してその背中に銘文を四文字ずつ縫い取りするような面倒なことをする必要がなぜあったのか、という点です。また、奈良時代の高度な工芸品とは比べようもない素朴な絵柄と刺繍技法、銘文の内容も、その古さを示しています。中世には山ほどある太子関連の偽文書のように、聖徳太子との関係を強調して寺の権威を高めたり、聖徳太子によって田を施入されたなどとして寺の権利を主張したり、太子の超人さを強調した文物を作って参詣客を集めたりするなら分かりますが、天寿国繍帳銘はそうした偽文献とは性格が全く異なっているのです。……前半の系図の[ママ]この[下絵を描いた者と監督者の名の]末尾の部分を合わせると、全体の六十一・五パーセントとなります。いったい何のための銘文なのでしょう。……そもそも、この銘文は、太子を尊崇して書かれたものでしょうか。素直に見る限り、前半は、太子と橘大郎女とが、欽明天皇と蘇我稲目の両方の血を引くことを強調した系譜です。肝心な真ん中の部分では、まず母王が十二月二十一日に亡くなったと述べ、その母王と約束したように太子も翌年の二月二十二日に後を追ってしまわれたので悲しくて仕方ない、となっています。確かに十二月二十一日と二月二十二日となれば、約束したかのようにと言えるかもしれませんが、もっと近い人物がいます。釈迦三尊像銘によれば、上宮法皇が正月廿二日に病で倒れ、干食王后が看病したものの自らも病んで並んで床についてしまい、王后は二月廿一日に亡くなり、翌日、法皇も亡くなられた、とありました。こちらこそ、あらかじめの約束通り、最愛の妃が亡くなると太子もすぐ後を追ったように見えます。(215~220頁)
今日、躍起になって議論されている研究者の言を捨て去り、虚心坦懐に考えてみれば、至極当たり前の疑問であると言える。およそ学術に携わる方々は、主張有りきの議論からは立ち返る必要があろう。
(注24)鷹の調教の仕方において、『放鷹』(国会図書館デジタルコレクション(http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512、204/398))に、「渡り」と「振替」の説明として次のように記されている。
渡(ワタ)り 渡りとは、餌を適当の大きさに切り、地上に落し、其の処に鷹を放ち、餌合子又は、丸鳩にて手元に呼び寄するなり。最初は、丸鳩にて呼び、鷹の様子に依り、餌合子にて呼ぶ。初め鷹には大緒を附し、馴るゝに従ひ、距離を延ばし、水縄又は忍縄を鷹に附して行ふ。之れを、呼渡(オキワタ)りと云ふ。尚馴るゝに従ひ、木の枝に肉を置き、其場所に鷹を止まらせ、丸鳩又は餌合子にて手元に呼ぶ。之れを、渡(ワタ)りと云ふ。
振替(フリカヘ) 丸鳩に、忍縄を附し、五六間離れたる処にて他の者に之れを投げしめ、鷹を放ちて之れを掴ます。又離れたる処より餌合子にて呼ばせ、鷹先方に到らば更に当方より餌合子にて呼び戻す。終に鷹に、水縄・忍縄等を附せずして行ふ事を得るに至る。之れを振替仕込と云ふ。(356頁。漢字旧字体は改めた。)
(注25)ワタル(渡る)という語について、古典基礎語辞典に、「風・雲・霧などがひと所に起こって徐々に広がり、やがては一面を埋め尽くす動きをいうのが原義。他の動詞と複合した「咲き渡る」「荒れ渡る」などの形で使われることが多い。」(1337頁、この項、須山名保子)とあるが、複合動詞の意が原義であるとは考えにくい。白川1995.に、「水面などを直線的に横切って、向う側に着くことをいう。此方から向うまでの間を含めていい、時間のときにも連続した関係をいう。「わた」はおそらく海(わた)。「わたす」「わたる」は、海を渡ることが原義であろう。それよりして広く他に及ぶすことをいい、「かけわたす」「みわたす」のように補助動詞として用いる。」(805頁)とあるのが穏当であろう。古典基礎語辞典の指摘に、他動詞ワタス(渡す)には、「時間的範囲を示す用法はない。」(1334頁)と鋭い。タイムトラベルの発想がなかったらしいことが窺える。五十六億七千万年後へと「渡す」という考えはなかったということである。
渡り鳥という響きには、①季節によって日本へ集団で訪れる鳥(カモやツル、ハクチョウなど)、②外国から珍しいものとしては舶来した鳥(クジャクやオウム、インコなど)の2つのイメージが浮かぶ。百済のクチ、こと、日本にもいるタカが、鷹狩用に飼われた状態で舶来したことをも、「候鳥」=渡り鳥という概念は示している。訓練も“渡り”、その技術も“渡り”職人が伝えた。ひょっとすると、古墳時代後期から飛鳥時代にかけては、新技術を伝える渡来人のことを、“渡り”人などと通称していたのではなかろうか。
(注26)ハナシ(話・咄・噺・譚)という言葉は、自動詞ハナル(放・離)―他動詞ハナス(放・離)の関係のうち、他動詞ハナスの連用形から起こった言葉である点は、趣き深いものがある。ハナシとは、音声自らが離れていっているのではなく、放たれて飛んで行っているものである。話をするのは、人間である。口をついて出てきただけでも言葉となっていれば意味があるものと考えられる。それは当人が意識している、いないに関わらないとされる。「言(ものもい)はず。唯(ただ)歌ひつらくのみ」(神武紀十年九月)という「少女(をとめ)」、「童女(わらはめ)」の「歌」にしても、武埴安彦(たけはにやすびこ)とその妻吾田媛(あたひめ)の謀反の兆候であったことになっている。人間が人間であるからには、口から発せられる言葉には意味がある、ないしは、あるものと考えるのが人間の思考である。「誣妄(たはごと)・妖偽(およづれごと)を禁(いさ)ひ断(や)む。」(天智紀九年正月)などとあるのは、騙って詐欺や洗脳するのはいけませんよ、ということであろう。不良の意味で非行という言葉を使うが、精神鑑定によって判断能力を欠いている場合は「非行」という言葉は正しかろうが、夜中の暴走族などは「不良」であろう。言葉として聞こえるものは、良かれ悪しかれ人間の行為である。言い換えれば、狂人はもはや人間ではないものとされる。言語がコードとなってコミュニケーションが成り立ち、人間社会は存立する。
三保2016.は、万葉集の定訓「手放(たばな)れ」(万4011)に異議を唱えられている。「《手放》は、西園寺入道前太政大臣公経『鷹百首』に、「一よりに手はなしぬれは追さまに鶉むれ立小田のかりつめ」(七一番)と見え、西園寺公経の『鷹百首謌』(後掲、小林祥次郎氏翻字[筆者未見])には「一よりとは。(中略)荒鷹を合事也。大鷹はへ緒などもさゝざる間たばなすを大事とよくなつくる也。合始をいへり。つねにも手よりはなすをいへども、たばなしと云ははじめて合すると心得べし。(後略)」との注釈がある。臂の鷹を放す意である。右[岩波書店古典文学]『大系』[万4011番歌](その他)は「手放(たばな)れ」と補読するが、「手(た)はなし」(他動詞形)と読むのが穏当だろう。」(1901~1902頁)とある。
…… 鷹はしも 数多あれども 矢形尾の 我が大黒に〔大黒は蒼鷹の名也〕白塗の 鈴取り付けて 朝狩に 五百つ鳥立て 夕狩に 千鳥踏み立て 追ふ毎に 許すことなく 手放れも[手放毛] をちもかやすき これをおきて またはあり難し さならへる 鷹は無けむと 心には 思ひ誇りて 笑まひつつ 渡る間に 狂(たぶ)れたる 醜つ翁の 言だにも 我には告げず との曇り 雨の降る日を 鳥狩(とがり)すと 名のみを告りて 三島野を 背向(そがひ)に見つつ 二上の 山飛び越えて 雲隠り 翔り去(い)にきと 帰り来て 咳(しはぶ)れ告ぐれ 招(を)く由(よし)の そこに無ければ ……(万4011)
万4011番歌は、狩りを好んだ大伴家持の歌である。三保2016.の指摘は当を得ている。鷹狩で、鷹匠は鷹を自在に操る。操る主体が鷹匠であり、鷹が勝手に手から離れていったのでは、おそらく鷹は野生に帰っていくであろう。自動詞のはずがない。そして、鷹の鷹たる特徴とは、その嘴である。「山辺之大鶙(やまのべのおほたか)」(垂仁記)の登場する説話の概略は、物を言わない御子、誉津別王のことを案じていたところ、鳥が鳴くのを聞いてモグモグ言ったので、その鳥を捕まえて連れて来ればまた物を言うのではないかと考え、探しに出掛けさせたという話である。記紀により説話の展開は少し異なるが、記では山辺之大鶙という人物が、「和那美之水門」に網を張って捕まえたという話になっている。鳥を捕まえる方法として、「大鶙」=オオタカという人が、罠、網を使っている。鷹狩はまだ行われていなかったことの証左であろう。
木村2011.に、「「手放(たはな)す」という鷹詞は、獲物のゆく方へ鷹を手放す、という意味である。その早い用例は、南北朝時代の宗良(むねよし)親王の『宗良千首』の中の一首、
あふことも又やなからむかり人のたはなす鷹の心しらねば(『宗良千首』・七三二・「寄鷹恋」)
である。これは『万葉集』巻十七の大伴家持の長歌、……[万4011番歌]の中の「手放(たばな)れ」を踏まえて詠まれた歌であろう。」(171~172頁)とある。せっかく問題の本質に気づかれておりながら、万葉集の訓の方を疑うことはされていない。同書では、鷹の飼育・調養において、鷹を架(ほこ)につなぐこともした(新修鷹経・中・「繫(つな)グレ鷹ヲ法」)ことが、「契ても心ゆるさじ箸鷹のほこのきづなの絶んと思へば(『後京極殿鷹三百首』・恋部)という歌では架に鷹を結びつける「絆(きづな)」に、恋人同士の絆の意を掛けている。」(175頁)と解説されている。同じ鷹三百首・恋部には、「契のみ朽せぬためしあればこそとしとしかけて鷹わたるらめ」ともある。鷹が野生へと帰ってしまわずに人から人へと“渡る”ことを詠っている。“渡り鳥”と観念されていたことの傍証である。ただ、他の作者の鷹百首和歌の類に、「渡る」の用例の乏しいことは気がかりではある。
(注27)日本三代実録、光孝天皇の仁和元年十二月条に、「七日丁巳。天皇幸二神泉苑一。放二鷹隼一。拂二水禽一。」とある。ミヅノトトリを「水の鳥取」に当て得る例はこの例に限られる。天皇の遊獵記事の場所は、ほとんど「野」である。野行幸ばかりである。江戸時代も将軍家の「御鷹野」が定められている。鷹狩が素晴らしいことをもって、「瑞の鳥取」と捉えたものとするのがぴったりである。
(注28)儀鳳暦が何であるとか、「癸酉」をクヰイウなどと読んだり、「日入」を日暮れ時のことであるといった知識積み上げ式の解釈は、すべてナンセンスである。文献の書き方に、今日の人たちとは異なる書き方が行われた可能性を排除し、杜撰な“読み”が行われ、銘文の成立時期をめぐって議論されてしまう事態が起こっている。歴史学の議論が、meta-history、原典の後に来るものとなってしまっている。端的に言えば、それは“読まない”姿勢である。銘文自体を、銘文の内部へ踏み込んで、書いた人の意図を汲まなければならない。最初から“読む”気がないのでは、アナホベノハシヒトさんも、トヨトミミノオホキミさんも、タチバナノイラツメさんも、トヨミケカシキヤヒメノミコトさんも、いないことにしようと思えばいないことになる。哲学の存在論の話ではない。議論している人の心(頭)の中にはじめからいないということに他ならない。
書いた人は知恵が優っている。上代の人のものの考え方は、今日の人のそれとは多分に異なる。上代のテキストを“読む”姿勢をとる場合、なぞなぞ解読の考え方を習得する必要があるであろう。養老律令が制定され、続日本紀に日記風に歴史が記される頃から、母語である日本語に、漢語を用いた言い方が日常的に採り入れられるようになっていた。それまで文字を意識することが後回しであったヤマトコトバは、あたかも文字を前提にするように衣替えをして行った。平仮名の成立、定着化によって、位相を異にするヤマトコトバ文学、女流文学が起こり、不思議な展開が繰り広げられてはいるが、上代の記紀万葉における言葉の捉え方は、無文字を前提に、音としてしかない言葉を繰り広げること、すなわち、ハナシ(話・咄・噺・譚)ばかりである。話半分で聞かなければ、頓狂な議論を構築しかねないことになる。
トヨミケカシキヤヒメという名について、研究者によってよく分からない議論が行われている。亡くなった後の諡か、生前からの尊号か、に二分している。トヨミケカシキヤヒメという名を現代語訳すると、キッチンガール、台所姉ちゃん、お勝手女、などであろう。トヨ(豊)+ミケ(御食)+カシキヤ(炊屋)+ヒメ(姫)である。最初のトヨは尊称かもしれないが、全体が「尊号」であるというには当たりにくく思われる。「諡」というにはやけに身近でフレンドリーな名前である。すなわち、名とは何か。呼ばれるものに過ぎない。
東野2004.に、「内題の称号が諡であることは、「気長足姫尊」(神功皇后)について、この称が追尊の号であることを書紀自身が明記していることから明らかである。」(151頁)とある。神功皇后の諡の記事は次のとおりである。
是の日に、皇太后(おほきさき)を追ひ尊(たふと)びて、気長足姫尊(おきながたらしひめのみこと)と曰(まを)す。(神功紀六十九年十月)
この記事を読み、紀の巻や章立てのタイトルにあたる「内題」と同じだから、紀の内題はすべて諡なのだとすることはできない。何年何月何日に、○○と言った、という記事は、その日の出来事を記している。歴史書だからである。法令集、判例集ではない。日本書紀の書き方について、日本書紀自身がすべてに及ぶように記す仕方は、次のようにある。
至りて貴(たふと)きをば尊(そん)と曰ふ。自(これより)余(あまり)をば命(めい)と曰ふ。並(ならび)に美挙等(みこと)と訓(い)ふ。下(しも)皆(みな)此れに效(なら)へ。(神代紀第一段本文)
「尊」という称号について、日本書紀全巻で最初の字に注されている。念が入っていて、「下皆效レ此」と定めている。神功皇后の巻は、日本書紀巻第九である。「追ひ尊」ぶことについても、もし、それぞれの天皇で行われていったとしたら、それぞれの天皇について、「是の日に」という記述が行われないと、つまり、儀式が行われたと記さないと歴史書としては芳しくない。神功紀にしか見られない一例から、紀のすべてに敷衍できるものではない。東野2004.も指摘する推古天皇の「幼」名記事は、次のとおりである。
幼くましまししときに額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)と曰す。(推古紀即位前紀)
幼い時、ヌカタベノヒメミコと呼ばれていた。この記事を全面的に信用すると、長じてからはヌカタベノヒメミコとは別の呼び名があったかもしれない気になる。しかし、ヌカタベノヒメミコと呼ばれなくなったとは記されていないから、そう呼ばれなくなったかどうかはわからない。しかし、残念ながら、他にそれらしい名は記されていない。そして、生前、トヨミケカシキヤヒメと呼ばれることはなかった、あるいは、禁止されていた、という文章はどこにもない。生前からの尊号を諡にしてはならないとする規定もない。不吉だからやめるようにとの慣わしも知られない。では、トヨミケカシキヤヒメ(The キッチンガール)という名とはなにか。それは、名前である。呼ばれるものである。The キッチンガールをもって、尊号とする考え方について、筆者には研究者の議論の前提するところの意味がわからない。訳がわからない。紀の内題に何が書いてあるか。名前が書いてある。それだけではないか。「天皇」“号”が特別視されたり、諡“号”が格式付けられたりするためには、文字表記が前提となる。漢字に囚われることがなければ、成立しない概念である。
(注29)「読む」ということは、「訓読する」、「訳す」ということと同じことではない。意味内容を深く理解しなければならない。そのためには留学も必要である。飛鳥時代へ行ってみる必要がある。古事記の真似をして落とし噺をひとつ書いてみると良い。漢語を使わずにヤマトコトバだけで文章を作ることは至難の業である。さらには、和習万葉仮名混交文など書いていたらばかばかしくなって投げ出したくなるであろう。
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