古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「始馭天下之天皇」(神武紀)はハツクニシラススメラミコトか?

2025年02月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 古代において、ハツクニシラススメラミコトは二人いたとされている。神武天皇(神日本磐余彦天皇、神倭伊波礼毘古命)と崇神天皇(御間城入彦五十瓊殖天皇、御真木入日子印恵命)(注1)である。神武紀の古訓にある「始馭天下之天皇はつくにしらすすめらみこと(注2)は「はじめて天下あめのしたをさめたまひし天皇すめらみこと」と訓むのが本来の姿であろうと指摘されている。ハツクニシラスノスメラミコトという訓みは、二次的な理由から起こったとも考えられる。記に、該当する命名由来譚が載らず、紀の本文を読む限り「天下」はアメノシタとばかり訓まれている。
 本稿では、神武紀の訓みにおいて、「始馭天下之天皇」を何と訓んだらいいのかについて、筆録者の視点、工夫を顧慮しながら検証を試みる。同じ名前の人が二人いるのは矛盾であるとの現代人の先入観を排除し、最終的に上代の人のものの考え方に辿り着くべく、結論を先に提示せずに回りくどい議論を行っている。その回りくどさは実は記述自体にもともと内包されていると言えるものだから、回りくどさまでも正しく理解することが求められると考える。
神武天皇(大蘇芳年・大日本名将鑑、東京都立図書館デジタルアーカイブhttps://archive.library.metro.tokyo.lg.jp/da/detail?tilcod=0000000003-00009550)
 神武紀元年条の原文には次のようにある。

辛酉年春正月庚辰朔、天皇即帝位於橿原宮、是歳為天皇元年。尊正妃為皇后、生皇子神八井命・神渟名川耳尊。故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。初、天皇草創天基之日也、大伴氏之遠祖道臣命、帥大来目部、奉承密策、能以諷歌倒語、掃蕩妖気。倒語之用、始起乎茲。(神武紀元年正月)

 これをいかに訓むか、特に、「故」以降の、「古語称之曰」がどこまでを指すのか、定まっているわけではない。

 ゆゑ古語ふることほめまうしてまうさく、「うね橿原かしはらに、宮柱みやはしら底磐したついはふとしきたて、高天原たかまのはら搏風ちぎたかりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことを、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまうす」。(大系本日本書紀240頁、兼右本に準ずる)
 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天たかまはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみこと」とまをし、なづけたてまつりてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす。(新編全集本日本書紀233頁)

 「故」で始まる文章である。前の文章を理由としてそういうことにした、と叙述している構文ととれる。前にある文章で、天皇は橿原宮に即位して皇后を立て、皇子が生まれたと言っている。だからそれゆえ、古語で称えて次のように言った、と捉えられている。古語とあるのは、慣用的な表現が古くから行われていたことを物語っている。よく似た表現は、記に二例見える。

 「……おれ、大国主神おほくにぬしのかみり、また宇都志うつし国玉神くにたまのかみと為りて、其のむすめ須勢理毘売すせりびめ適妻むかひめて、宇迦能うかのやま山本やまもとに、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷椽ひぎたかしりてれ。是のやつこや」といひき。(記上)
 「……ただやつかれ住所すみかのみは、あまかみ御子みこ天津あまつ日継ひつぎ知らすとだるあめ御巣みすごとくして、底津そこつ石根いはね宮柱みやばしらふとしり、高天原たかあまのはら氷木ひぎたかしりておさたまはば、僕はももらず八十やそ坰手くまでかくりてはべらむ。……」と如此かくまをして、……。(記上)

 第一例は、大穴牟遅神おほあなむぢのかみ黄泉よもつひら坂から逃げ帰り脱出したときに、須佐之男大神すさのをのおほかみから投げかけられている。葦原中国に建てた建物の、千木ちぎをあたかも高天原に届くがごとく高く突き立てよ、と言っている。第二例は、大国主神の国譲りの記事であり、やはり葦原中国の安住する立派な建物を作ってくれたらそこに隠居しようと言っている。どちらも建物は葦原中国にある。ただし、これらは会話文中の言葉であり、負けを認めたときの捨て台詞として用いられている。この点は注意が必要である。
千木のある家形埴輪(高槻市立今城塚古代歴史館展示品)
 建物の建て方として同じような記述である。それになぞらえて語られているから、「古語称之曰」と表現されているのだろう。場所は、葦原中国の畝傍の橿原である。そこに立派な宮殿を造営して即位した。実際にどのようなものが造られたか記述はなく、しかも会話文の中に出てくる言葉である。実状としては、「規-摹大壮」、「披払山林、経-営宮室」、「可治之」との注意があり、「命有司、経-始帝宅」、「即-帝-位於橿原宮」と抽象的に説明されているだけである。

 ……のりごとを下してのたまはく、「……誠に帝都みやこひらひろめて、大壮おほとのはかつくるべし。しかるを……。巣に棲み穴に住みて、習俗しわざこれ常となりたり。……。且当まさやまはやしひらき払ひ、宮室おほみや経営をさめつくりて、つつしみて宝位たかみくらのぞみて、元元おほみたからしづむべし。……。しかうして後に、六合くにのうちを兼ねて都を開き、八紘あめのしたおほひていへにせむこと、亦からずや。れば、畝傍山うねびやま 畝傍山、此には宇禰縻夜摩うねびやまと云ふ。東南たつみのすみの橿原のところは、けだし国の墺区もなかのくしらか。みやこつくるべし」とのたまふ。是の月に、即ち有司つかさみことおほせて、帝宅みやこつくはじむ。(神武前紀己未年三月)

 だから、古語を用いて称賛しているように呼んでいることになっている。ここまでを考えるなら、「古語称之曰」がかかるのは、大系本、新編全集本とも違い、「於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原」までと考えられる。そういうふうに「古語」を使って言っておいて、そして、「而始馭天下之天皇」のを、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とした(注3)。そういう見方が妥当だろう。建物を建てたことが求められるのは、「天下あめのした」を統治していることを既成事実化したいからとみられる(注4)
 「古語称之曰」が後にくる「而始馭天下之天皇」という語までかかると考えるには、神武紀以前からそのような言い方があることが条件となる。「天下あめのした」の用法としては三貴子の分治の話などがある。

 すでにして、伊弉諾尊いざなきのみことみはしらみこ勅任ことよさしてのたまはく、「天照大神あまてらすおほみかみは、高天原たかまのはらしらすべし。月読尊つくよみのみことは、以て滄海原あをうなはらしほ八百重やほへを治すべし。素戔嗚尊すさのをのみことは、以て天下あめのしたを治すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第六)
 一書あるふみはく、伊弉諾尊、三の子に勅任して曰はく、「天照大神は、高天之原たかまのはらしらすべし。月夜見尊つくよみのみことは、日にならべてあめの事を知らすべし。素戔嗚尊は、蒼海之原あをうなはらを御すべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第十一)
 此の時に、いざなきのみことおほきに歓喜よろこびてのりたまはく、「あれは子をみ生みて、生みへにみはしらたふとき子を得つ」とのりたまひて、即ち其の御頸珠みくびたまの玉の、もゆらに取りゆらかして、天照大御神あまてらすおほみかみたまひて、詔はく、「みことは、高天原を知らせ」とことして賜ふぞ。かれ、其の御頸珠の名は、御倉みくら板挙之たなのかみと謂ふ。次に月読命に詔はく、「汝が命は、夜之よるの食国をすくにを知らせ」と事依すぞ。次に建速須佐之男命たけすさのをのみことに詔はく、「汝が命は、海原うなはらを知らせ」と事依すぞ。(記上)

 「天下あめのした」などを「治」、「御」、「知」するように書いてある。「馭」も同義である(注5)。神代紀第五段一書第六「治天下」と同じ意味で、神武紀元年の「馭天下」もあると考えられる。天皇は天照大神の末裔ではあるが、天孫降臨以降、高天原ではなくて地上を治めることになっている。そして、「天下あめのした」を治めることを始めた天皇について、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」とすると言っていると考えられる。
 
 神代紀において「天下」は上述の例を含めて六例ある。すべてアメノシタと訓んでいる。

 われすで大八洲国おほやしまのくに及び山川やまかは草木くさきめり。いかに天下あめのした主者きみたるものを生まざらむ。(吾已生大八洲国及山川草木。何不生天下之主者歟。)(神代紀第五段本文)
 是の時に、素戔嗚尊、とし已にいたり。また八握やつか鬚髯ひげ生ひたり。然れども天下あめのしたしらさずして、常にいさ恚恨ふつくむ。(是時素戔嗚尊、年已長矣。復生八握鬚髯、雖然不治天下、常以啼泣恚恨。)(神代紀第五段一書第六)
 大己貴命おほあなむちのみことと、少彦名命すくなびこなのみことと、力をあはせ心をひとつにして、天下あめのした経営つくる。(夫大己貴命与少彦名命、戮力一心、経営天下。)(神代紀第八段一書第六)
 今此の国ををさむるは、ただわれ一身ひとりのみなり。其れ吾と共に天下あめのしたを理むべきものけだし有りや。(今理此国、唯吾一身而巳。其可与吾共理天下者、蓋有之乎。)(神代紀第八段一書第六)
 次に狭野尊さののみこと。亦は神日本磐余彦尊かむやまといはれびこのみことまをす。狭野と所称まをすは、これみとしわかくまします時のみななり。後に天下あめのしたはらたひらげて、八洲やしま奄有しろしめす。故、また号をくはへて、神日本磐余彦尊とまをす。(次狭野尊。亦号神日本磐余彦尊。所称狭野者、是年少時之号也。後撥平天下奄有八洲。故復加号曰神日本磐余彦尊。)(神代紀第十一段一書第一)

 以上のことから、問題の部分は次のように訓むのが正統的かと思われる。途中にある「而」字の前で区切った。(後述のとおり、この訓みは正されるべきである。)

 かれ古語ふることたたへてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」とまをす。しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。(故、古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原。而始馭天下之天皇号曰、神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 すでに述べたとおり、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」なる言い方は、「古語」において、負けを認めたときの捨て台詞であり、此畜生こんちくしょう的な意味合いを帯びたものである点は留意されなければならない。すなわち、「称之曰」として何ら橿原宮を賛美するものでないのである。不思議に思われるかもしれないが、天皇の名の話の後に続く文を見れば疑念は氷解する。

 はじめて、天皇すめらみこと天基あまつひつぎ草創はじめたまふ日に、大伴氏おほとものうぢ遠祖とほつおや道臣命みちのおみのみこと大来目おほくめひきゐて、しのびみこと奉承けて、諷歌そへうた倒語さかしまごとを以て、妖気わざはひはらとらかせり。倒語の用ゐらるるは、始めてここおこれり。(神武紀元年正月)

 即位式典の日に、「奉-承密策、能以諷歌倒語、掃-蕩妖気。」なる不可思議なことが行われている。「倒語之用、始起乎茲。」と、最初の出来事だと言っている。少しもハッピーな雰囲気ではない。内々でしか通じない暗号文を交わし、意味が表に立たないような歌を歌ったり、意味が反対になる言葉を発している。単純、単細胞な輩には通じないような言葉の使い方、修辞法における高等テクニックを用いることで、事態が悪い方へ傾かないように努めている。言葉の意味を反対にして使ったのはこのときが最初であるとしている。
 すなわち、負け惜しみの捨て台詞で此畜生的な文言、「底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしる」を使っているのは、虚仮威しのためのものなのである。実際の宮殿は大したことない建物なのであるが、財政的にも軍事的にも、敵方やそうなる可能性のある相手に対し、強いと受け取られるべく画策している。嘘称え、フェイクプレイズ(fake praise)である。なぜか。東征の途中、兄猾えうかし弟猾おとうかし兄磯城えしき弟磯城おとしき長髄彦ながすねびこなど、ずるがしこい奴らと戦ってきた。そして、相手以上にずるがしこくたちまわって勝ってきたのであった。情報戦を制するものが実戦を制する。だから、勝って兜の緒を締めるように、残党として必ずいるであろう周囲の仮想敵に対して油断しないようにしている。相手をだますような情報を流しているのであり、時にはそれ以前に味方からだまして難を逃れようとしている。本当は大したことはないのであるがすごいものであるように、また、内心はもう少し立派なものを建てる余裕が欲しいのであるが、そのことも了解している人の間でなら通じるように、古くからの形容表現としての「古語」を用いている。「諷歌倒語」の精神とは、わかる人にはわかるように、わからない人にはそのままに伝えるレトリックを用いることである。それによって、賊勢を排除しながら自らの党派の結束力、求心力を高めている。「妖気」を掃って溶かしている。
 ものすごい宮室が建てられているわけではない。都としても立派とは言えない。人がたくさん集まっているとまでは言えない。しかし、それがばれると、周囲に潜在する敵から攻撃を受ける。そうならないために、「古語」を使って「称」した。と同時に、天皇の名前も相手を怖がらせるようにしておいた。「しかして、はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみことなづけてまをさく、かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこととまをす。」(注6)と訓むと仮定できる。人はあまりいないけれど、あたかも大勢いるようにアピールするには、天皇の名を大仰にして脅かしておけばよい。「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」である。「始馭天下」すことをしたから、こと(葉)としてもそれに合わせて「号曰」したということである。それは、ひるがえって、「号曰」したから「馭天下」できているともいえるのである。それが、言霊信仰の本質(注7)、言=事であることによる既成事実化である。
 「神日本磐余彦火火出見天皇」は「かむ」と付いていて神々しい。「日本やまと」とついていてヤマト地域の首長らしい。「磐余いはれ」と付いているのには、その謂われ譚におぼしく、たくさんの人、特に軍勢が集まっていることを言っている。強そうに聞こえるではないか(注8)

 また兄磯城えしきいくさ有りて、磐余邑いはれのむらいはめり。磯、此にはと云ふ。賊虜あたる所は、皆これ要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 我が皇師みいくさあたを破るにいたりて、大軍いくさびとどもつどひて其の地にいはめり。因りて改めてなづけて磐余いはれとす。(神武前紀己未年二月)
 是の時に、磯城しき八十やそ梟帥たける彼処そこ屯聚いはたり。屯聚居、此には怡波瀰萎いはみゐと云ふ。……故、なづけて磐余邑いはれのむらと曰ふ。(神武前紀己未年二月)

 「磐余」の謂われ譚が述べられている。ということは、それも冒頭から検討している「古語」に当たるのではないか。そう言われてみればそういうことになる、ということである。無意識化下に沈静していた言葉の内実を呼び起こしているから、それは深層の「古語」ということになる。すると、「古語称之曰」は、「号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」までかかる可能性が出てきており、改めて考え直さなければならない。追究してみると、途中の「而始馭天下之天皇」も「古語」となるはずである。ここに、ハツクニシラススメラミコトという紀の傍訓の正しさが再発見される。
 ハツクニは初国の意と考えられる。

 「くもつ出雲の国は、狭布さの稚国わかくになるかも。初国はつくにさく作らせり。かれつくはな」(出雲風土記・意宇郡)(注9)

 「初国はつくに」の確例である。ヤマト朝廷の中央の人々にこの話が知られていたか不明ながら、「初国」という使い方があったことは想定される。「初国」は大系本風土記に「初めに作った国。」(100頁)、岩波古語辞典に「はじめて作った国。」(1069頁)と説明されている。
 そして、とても興味深いことに、神武天皇の幼名は、「狭野尊さののみこと(最初のノは甲類)」であった。「狭布さの(ノは甲類)」に同じである。すなわち、ヤマトの国の首長として君臨することになった神武天皇の版図は、後に大和国と呼ばれる一行政単位に当たるところ、それもその中心部分にすぎない。出雲風土記では、機織りした布地は狭いものだから、それを縫い合わせて服を作ろうということを比喩にしていて、いわゆる国引き伝承を伝えている。国引きの結果、島根半島は固まったというのである。同様に、狭野尊が統治した場所は、とても狭い範囲であったことを物語っている。幼名が「狭野尊」であり、長じて「神日本磐余彦尊」という名が「加」わっただけで、変わったわけではない。
 以上のことから、「故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。」は、大系本日本書紀の括弧の取り方が正しかったことが理解された。ただし、大系本日本書紀の補注にある解説は当たらない。

 
植村清二[『神武天皇─日本の建国─』]のいうように、元来、大和朝廷が成立して、かなり時代が降れば、その建設者・始祖という観念が生ずるのは自然であり、ハツクニシラススメラミコトとは、単にそうした観念を示す呼称に過ぎず、かかる具体的な物語の持主である[神武・崇神]両天皇に、共に与えられたもので、ある個人の特定の呼称が他の個人に移されたものではなく、またこの呼称の成立もさほど古いものではないと見るのがよいか。孝徳[紀大化]三年四月条に「始治国皇祖(はつくにしらししすめみおや)」とあるのを参照。(405頁)


 後代の人たちが「初国」の小ささを顕彰する理由は思いつかない。風土記は日本書紀と同じ頃に成ったと考えられている。
 また、神武と崇神を別けようとするあまり、不思議な解釈を試みることもいただけない。新編全集本日本書紀は、「初めて(最初に)国を治められた天皇。ハツ+国知ラスの形で、「馭」は「御」に同じく、使いこなす、おさめる意。崇神天皇もハツクニシラス天皇と呼ばれるが、崇神記に「所初国之…」、崇神紀には「御肇国天皇」……とあるように、ハツクニ+知ラスの語形ゆえ、国の初めを治めたということで、必ずしも初代を意味しない。その点に差異がある。」(233頁)(注10)とし、新釈全訳日本書紀は、「始めて天下を治めた天皇。国の中心に都を置き、正妃を立て帝位に就いたことをもっていう。神武紀冒頭の「恢弘大業、光宅天下」せんとしたことがいまここに実現され、東征の完了となる。」(339頁)、「[神武の]「始馭天下之天皇」が初めて天下を治めた天皇の意であるのに対し、[崇神の]「御肇国天皇」は祭祀・税制が確立しかたちをととのえた国家を治めた天皇の意。」(401頁)としている。ハツクニは「初国」であり、初めに作った国であることに変わらない。それを治めたのである。「初雁はつかり」、「初垂はつたり」、「初子はつね」、「初花はつはな」、「初春はつはる」、「初穂はつほ」といった例しか見られない中、副詞のように考えた「ハツ+国知ラス」の形を認めることには無理がある。
 「称之曰」については、紀にある他の三例ですべてコトアゲシテと訓んでいる。「故古語称之曰、……」の場合もそう訓まれるべきであろう(注11)。以下に示す紀の例では「うけひ」に対照する箇所に用いられており、言葉を発することでそのようになることを期待して大声をあげたものと考えられている。万葉集の例は、無理やり大声を上げて唱えることを言っている。

 則ちことあげしてのたまはく、「正哉まさかわれちぬ」とのたまふ。かれりてなづけて、勝速日天忍穂耳尊かちはやひあまのおしほみみのみことまをす。(神代紀第六段一書第三)
 すでにして其の用ゐるべきものを定む。乃ちことあげしてのたまはく、「杉及び櫲樟くす、此のふたつは、以て浮宝うくたからとすべし。ひのきは以て瑞宮みつのみやつくにすべし。まきは以て顕見蒼生うつしきあをひとくさ奥津棄戸おきつすたへさむそなへにすべし。くらうべき八十木種やそこだね、皆能くほどこう」とのたまふ。(神代紀第八段一書第五)
 しかうして後に、いろは吾田鹿葦津姫あたかしつひめ火燼ほたくひの中より出来でて、きてことあげしてはく、「が生めるみこ及び妾が身、おのづからに火のわざはひへども、少しもそこなふ所無し。天孫あめみまあにみそなはしつや」といふ。(神代紀第九段一書第五)
 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国は かむながら 言挙ことあげせぬ国 しかれども 言挙ことあげがする 言幸ことさきく 真幸まさきせと つつみなく さきいまさば 荒磯波ありそなみ ありても見むと 百重波ももへなみ 千重ちへなみしきに 言挙すわれは 言挙すわれは(万3253)
 りし 雨は降りぬ かくしあらば 言挙げせずとも 年は栄えむ(万4124)

 したがって、課題の文章は次のように訓むべきことが結論される。

 かれ古語ふることことあげしてまをさく、「うね橿原かしはらに、底磐之根そこついはね宮柱みやばしら太立ふとしきたて、高天之原たかまのはら搏風ちぎ峻峙たかしりて、始馭天下之はつくにしらす天皇すめらみことなづけてかむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみことまをす」とまをす。(故古語称之曰、於畝傍之橿原也、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而始馭天下之天皇、号曰神日本磐余彦火火出見天皇焉。)

 この訓みに対する傍証として、祝詞の形式、「まをたまはく……たまへと称辞たたへごとまつらくとまをす」があげられる。すなわち、この箇所は、神武元年正月一日の賀で寿いだ物言いなのである。祝詞風に朗誦することほどふさわしいものはない。無文字時代のヤマトコトバ文化圏にはことことであるとする言霊信仰が行きわたっており、括弧内の言葉を言うことで、言葉=事柄たらしめんと定義している。だから、「~とまをす」と言っているのである。
 「古語」を使いながら祝詞のようにコトアゲして、どこから攻撃を受けるかわからない状況のなかで、何とか好ましい方向へと導こうと知恵を絞っている様子がうまく活写されている。そもそも、ヤマトという国は、原則、武力で制圧して成った国ではない。「こと和平やは」(景行記)した末に統合を勝ち取っている。言葉の力によって従わせたということであるが、ヤマトコトバの巧みな使い方をもってヤマトコトバ語族を平定したということであろう。各地に住まう人々が一つにまとまっている状態を何と言うか。クニである。クニがハッと現れ出た最初の瞬間、それがハツクニである(注12)
 神武天皇時代、苦労した東征が終わり、凶賊を誅滅して都を置くまでに安定を勝ち取ったとき、クニなるものがハッと現れている(注13)。崇神天皇時代、長引いた疫病がようやく鎮まり、四道将軍が遣わされて天下太平となり、租税徴収が可能となったとき、クニなるものがハッと現れている。天皇が領有するから初めて一つにまとまってクニとなるという洒落を掛けている。そんな御代の天皇のことを、ハツクニシラススメラミコトと呼んだ、つまりは名をもって体となしているのであった(注14)。忠実にことことであるようにめぐらされ使われている。ヤマトコトバの真髄の表れと言える(注15)

(注)
(注1)崇神紀に、「始めて人民を校へて、更調役を科す。此を男の弭調、女の手末調と謂ふ。是を以て、天神地祇、 共に和享にこみて、風雨時にしたがひ、百穀もものたなつものて成りぬ。いへいへひとびと足りて、天下あめのした大きにたひらかなり。故、ほめまをして御肇国天皇とまをす。」(十二年九月)とあり、崇神記に、「爾くして、天下あめのしたおほきにたひらぎ、人民おほみたから富み栄えき。是に、初めてをとこ弓端ゆはず調つきをみな手末たなすゑの調を貢らしめき。故、其の御世みよたたへて、初国はつくに知らす御真木天皇みまきのすめらみことと謂ふぞ。」(崇神記)に対応するから「御肇国天皇」をハツクニシラススメラミコトと訓んでいる。
(注2)紀の古訓にハツクニシラススメラミコトとあり、日本書紀私記甲本にハツクニシロシメスタカラノ爪ヘラノミコト(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100247543/14?ln=ja)ともあることなどによっている。矢嶋1989.は「タカラ」は「スメラ」の誤写と推定している。
(注3)神代紀第十一段一書第一にある「復加号曰神日本磐余彦尊。」記事は、「後撥平天下奄有八洲。」の「故」であるとしている。広いところを治めることになったのだから、「狭野尊」という名に「加」えて「号」したといっている。これを昔、そう言われたからというので神武紀の記述の「古語称之曰」と絡めて考えるのは適当ではない。新たな名前が「加」えているだけだからである。幼少時の「狭野尊」という呼び名が抹消されたわけではない。
(注4)文脈上の読解が問題であって、実際にいかなる版図まで統治しているのかという史学についてはかかわらない。
(注5)紀の文中に、「馭」字が音仮名以外で用いられている例は、次のとおりである。「治」、「御」、「知」と同義である。「馭大亀」は、馬を御す、制御するに同じである。

 故、其の父母かぞいろはみことのりしてのたまはく、「仮使たとひいまし此の国をらば、必ずそこなやぶる所多けむとおもふ。故、汝は、以て極めて遠き根国ねのくにしらすべし」とのたまふ。(神代紀第五段一書第二)
 来到いたりて即ち顕国玉うつしくにたま女子むすめ下照姫したでるひめ 亦の名は高姫たかひめ、亦の名は稚国玉わかくにたまりて、因りて留住とどまりて曰はく、「われ亦、葦原中国をらむとおもふ」といひて、遂に復命かへりことまをさず。(神代紀第九段本文)
 いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀にりて、女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、海をてらして来到きたる。(神代記第十段一書第三)
 則ち田村皇子を召して謂りて曰はく、「天位たかみくらに昇りて鴻基あまつひつぎをさととのへ、万機よろづのまつりごとしらして黎元おほみたから亭育やしなふことは、本よりたやすく言ふものに非ず。恒に重みする所なり。故、いまし慎みてあきらかにせよ。かるがるしく言ふべからず」とのたまふ。(推古紀三十六年三月)

(注6)ホホデミについては、拙稿「二人の彦火火出見について」参照。
(注7)拙稿「上代語「言霊」と言霊信仰の真意について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a1f84d8258d12f94ccbfa54b1183b530参照。
(注8)神代紀第十一段一書第一に、「後撥-平天下-有八洲。」したから、それ「故」に、「復加号曰神日本磐余彦尊。」とあった。「神」や「日本」と冠することに不思議はないが、「磐余」が付く点は謂われは、その語自体に秘められていると考えて然りである。
(注9)りごととして語られている。なお、沖森・佐藤・矢嶋2016.は、「くも出雲国いづものくには、ぬのつもれるくにるかも。初国はつくにちひさくつくれり。かれつくはむ」(101頁)と訓んでいる。
(注10)矢嶋1989.は、「天下」はクニとは訓めないとし、語構成が「始馭天下之天皇」(神武紀)と「御肇国天皇」(崇神紀)とでは異なるから、「始馭天下之天皇」はハジメテアメノシタシラシシ(シラシメシシ、[ヲ]サメタマヒシ)スメラミコトと訓むべきとしている。筆者の当初案において採ったが、「はじめて天下あめのしたしらしし天皇すめらみこと」を「かむ日本やまと磐余いはれびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」と名づけたというのは、命名法としておかしなところがある。名前は、何かに由来して名づけられるものだろう。この例で言えば、「はじめびこ火火出ほほでみの天皇すめらみこと」などとなければ何を言っているのかわからない。
(注11)紀では、「称之曰」はコトアゲシテイハク、コトアゲシテノタマハクが通例である。祝詞の「称辞」はタタヘゴトと訓まれるが、実際には当初、貧相な建物しか建てられていないのだから、「称」を賞讃の意味をもってタタヘテと訓むのは皮肉になってしまい不適切である。言葉を躍らせてそうなるようにと強弁している。
(注12)ハツ(初)という語が擬態語に由来するであろう点については、拙稿「古事記本文冒頭「天地初発之時」について─アメツチ、ハッ(💡)ノトキニと訓む説─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/417311a243b4108b1fc20b9eed9c8db1参照。
(注13)矢嶋1989.は、「天下」という字面はクニとは訓み難いとしている。しかし、逆に、「国家」と書いてアメノシタと訓む例は見える(憲法十七条の四)。「天神地祇」でアマツカミクニツカミとなり、クニとは「地」のこと、「地」は「天」の「下」にあるものとの認識は間違ってはいないだろう。そして、「始治国はつくにしらしし皇祖すめみおや」(孝徳紀大化三年四月)と訓まれ、慣わされている。ハツクニシラスというひとまとまりの言葉が通行していたと考えられる。
 神代紀、記上の三貴士分治の記事で、「国」という字は「根国ねのくに」(神代紀第五段本文、同一書第一)、「夜之食国よるのをすくに」(記上)と使われている。記では、スサノヲが成人してもなお啼きわめき、命じられた「夜之食国よるのをすくに」を治めずに「ははが国の根之ねの堅州国かたすくに」へ行きたいと言ったので、イザナキは大いに怒り、「此の国」に住んでいてはいけないと追い払っている。「国」字はこのように使われていた。神武天皇が治めるところは天上の高天原でも根国ねのくに夜之食国よるのをすくにでもない。話が現実的になって急に注目を浴びている地上世界に関して、ある部分を区切って統治することを言おうとしている。オホアナムチとスクナビコナがつくった天下あめのしたについてばかりが問われる御代になったということである。統治することはシル(知、領)でその尊敬語がシラスであって、その対象として地上世界があげられている。もはや「根国ねのくに」や「夜之食国よるのをすくに」は問題とされない。新しくカテゴライズされた言葉、クニが出現したのである。意訳して記した形が「始馭天下之天皇」である。古事記本文冒頭の「天地初発」と同様の状況、「ハッ(💡)クニ」であると認められる。(注12)の参照論文に詳述している。
(注14)倉野1978.は本居宣長説に即しつつ、神武紀にいうハツクニシラススメラミコトは人皇第一代の意、崇神記にいうハツクニシラススメラミコトは人の国家の開始を物語るものとしている。そのような講釈調の言葉づかいが上代に行われていたとは考えられない。聞いた相手が直観的にわかるものでなければ話にならない。書記としても、当時のリテラシーとして、「始馭天下之天皇」と書いてあってハッ(💡)と気づかないとは思っていなかったから、訓注など付けずにそう記したものと考える。
(注15)語構成の違いは表記法の問題である。音声言語として爛熟したヤマトコトバの後に位置づけられる。言葉を交わすだけで互いに通じて社会が成り立っていたのだから、書き方の工夫はヤマトコトバ研究において二の次のことである。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
沖森・佐藤・矢嶋2016. 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編著『風土記 常陸国・出雲国・播磨国・豊後国・肥前国』山川出版社、2016年。
倉野1978. 倉野憲司『古事記全註釈 第五巻 中巻篇(上)』三省堂、昭和53年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2024. 瀬間正之『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(「『日本書紀』β群の編述順序─神武紀・景行紀の比較から─」『國學院雑誌』第121巻第11号、2020年11月、國學院大学学術情報リポジトリhttps://doi.org/10.57529/00000609)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本風土記 秋本吉郎校注『風土記』岩波書店、1958年。
谷口2006. 谷口雅博「神武天皇と崇神天皇(ハツクニシラススメラミコト)」『国文学 解釈と教材の研究』第51巻1号、平成18年1月。
矢嶋1989. 矢嶋泉「ハツクニシラススメラミコト」『青山語文』19号、平成元年3月。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。

二人の彦火火出見について

2025年02月13日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、彦火火出見ひこほほでみという名がつけられている。山幸こと彦火火出見尊ひこほほでみのみことと神武天皇のただのみな彦火火出見ひこほほでみである(注1)。紀の本文に、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊あまつひこひこほのににぎのみことが降臨し、鹿葦津姫かしつひめ木花之開耶姫このはなのさくやひめ)と結婚、火闌降命ほのすそりのみこと、彦火火出見尊、火明命ほのあかりのみことが生まれたという彦火火出見と、その子、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊ひこなぎさたけうがやふきあへずのみことの子である神武天皇として知られる彦火火出見である。
 この点については従前より議論されている。

 神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
 神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
 神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)

 「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは、考え方として疑問である。中臣なかとみの烏賊津使主いかつのおみという人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭はたびの皇女ひめみこは、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
 神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「神日本磐余彦天皇かむやまといはれびこのすめらみことただのみなは彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら、二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
 神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項が見出されたようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截に見出すことはできない。違う視点が必要である。
 山幸こと彦火火出見尊と神武天皇のただのみなの彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)

 時に彦火火出見尊ひこほほでみのみことたまとを受けて、本宮もとつみやに帰りでます。ある海神わたつみをしへまにまに、先づ其の鉤を以てこのかみに与へたまふ。兄いかりて受けず。故、おとのみこと潮溢瓊しほみちのたまいだせば、潮大きにちて、兄みづか没溺おぼほる。因りてひてまをさく、「われまさいましみことつかへまつりて奴僕やつこらむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。おとのみこと潮涸瓊しほひのたまを出せば、潮おのづからにて、このかみ還りて平復たひらぎぬ。すでにして、兄、さきことを改めて曰はく、「吾はこれいましみことの兄なり。如何いかにぞ人の兄としておととに事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山たかやまげ登る。則ち潮、亦、山をる。兄、高樹たかきのぼる。則ち潮、亦、る。兄、既に窮途せまりて、去る所無し。乃ち伏罪したがひてまをさく、「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、つねいましみこと俳人わざひとらむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。ふ、かなしびたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからにぬ。(神代紀第十段一書第二)
 是夜こよひみみづかうけひてみねませり。みいめ天神あまつかみしてをしへまつりてのたまはく、「天香山あまのかぐやまやしろの中のはにを取りて、香山、此には介遇夜摩かぐやまと云ふ。天平瓮あまのひらか八十枚やそちを造り、平瓮、此には毗邏介ひらかと云ふ。あはせて厳瓮いつへを造りて天神あまつやしろ地祇くにつやしろゐやまひ祭れ。厳瓮、此には怡途背いつへと云ふ。亦、厳呪詛いつのかしりをせよ。如此かくのごとくせば、あたおのづからにしたがひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離いつのかしりと云ふ。天皇すめらみことつつしみて夢のをしへうけたまはりたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
 是に、天皇すめらみことにへさよろこびたまひて、乃ち此のはにつちを以て、八十やそ平瓮ひらか天手抉あまのたくじり八十枚やそち 手抉、此には多衢餌離たくじりと云ふ。厳瓮いつへ造作つくりて、丹生にふ川上かはかみのぼりて、天神あまつかみ地祇くにつかみいはひまつりたまふ。則ち菟田うだがは朝原あさはらにして、たとへば水沫みなはの如くして、かしけること有り。(神武前紀戊午年九月)

 ふつう、神に祈りを捧げることは、自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「とごふ」や「かしる」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
 神に祈る際、我々は柏手かしわでを打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手はくしゅのことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。
 同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に、朴木ほおのきがある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐ほほかしはのきと云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波ほほのかは〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
左:カシワ(ズーラシア)、右:落葉しないで越冬するカシワ(民家)
左:ホオノキ、右:朴落葉
 以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。よって、両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなったことだろう。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶にあたる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草あをひとくさ」(記上)、「名をもらせり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
 近世の国学者と近代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。

(注)
(注1)古事記には、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は、実は古代には見られない。ただ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。

※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。

万葉集のウケヒと夢

2025年02月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 ウケヒについての現在の通説は次のようなものである。

 ウケヒは、本来、神意を判断する呪術・占いをいう。その動詞形がウケフ。 あらかじめ「Aという事態が生ずれば、神意はaにある。Bが生ずれば、神意はbにある」というように生ずる事態とその判断を条件として定め、得られた結果を神意と見なして、物事の真偽や吉凶、禍福などを占うものである。条件を口に出してから行うため、言葉の力を発揮させる言語呪術と認められる。狩猟を行い、獲物が得られるかどうかで神意を判断する「うけひ狩り」の例も見える。しかし、次第に意味が広く派生して行き、神にかけて誓いを行うことや、神に祈り願うことも表すようになる。(『万葉語誌』66頁、この項、新谷正雄)

 この説明には小さな誤謬がたくさん見られる。ウケヒは古代の占いの一種であるが、神意を求めるものとするのは短絡的である。あらかじめ言葉で言っておいて眼前の事態がどうなるかによって、将来の事態を予測しようと試みている。ヤマトコトバ(の使用)は、ことことであることを公理としていた。言葉と事柄とは相即の関係にあるものとし、使用した言語体系がヤマトコトバである。何でもかんでも言ってしまえばそのとおりになるということではない。「言霊ことだま」という言葉は多く誤解されているが、発した言葉に霊が宿っているのではなく、ヤマトコトバの使い手たちはことことであるように志向しており、言葉が現実の事態となることはあたかも霊が宿っているようだと見立てられて「言霊ことだま」と言われるようになっていただけで、用例としては数が少ない。逆に、前もって言っていたとおりにしない有言不実行をすると、ことことということになり、その人は信用を失う。そのような人がたくさん現れると、誰もが不信感をいだいてコミュニケーションはとれなくなる。言葉によって成り立っている世界の秩序は乱れ、発せられている言葉はもはや奇声にしか聞こえない。言葉が言葉でなくなるのである。社会は成り立たずにカオスに陥る。そうならないよう、ことことであるように努めていた。それが無文字時代のヤマトコトバを支える前提条件であった。
 そのような言語活動のなかで行われた占い法がウケヒである。将来のことでAになるかB(多くは¬A)になるかわからなくて困った時、試しにAになるなら目の前でもαとなり、B(多くは¬A)になるなら目の前でもβ(多くは¬α)になると言っておく。あらかじめ言っておいて実験をする。言っておいたことことなのだから、将来A、Bいずれのことになるかα、βからわかるという考え方である。夢も占いとして活用されたのは、夢のなかでα、βなら実際にA、Bとなることだろうと類推思考が働いたからである。夢のなかに神が現れることがあり、神意を告げることがあるが、夢から覚めて現実世界でどうするかは人間の行いである。人間が行わなければ実際に神意どおりにはならない。神のお告げをこととして、ことが同じになるように努めた当時の人たちの考え方、実践を伴うヤマトコトバ使用こそが占法を支えていたのである。
 万葉集のなかで使われているウケヒの例は次の四例である。みな動詞ウケフの形で使われ、四例中三例が夢と関わる形で詠まれている。

 都路みやこぢを 遠みかいもが このころは うけひて宿れど いめに見えぬ〔都路乎遠哉妹之比来者得飼飯而雖宿夢尒不所見来〕(万767)
 水の上に 数書く如き 吾が命 いもに逢はむと うけひつるかも〔水上如數書吾命妹相受日鶴鴨〕(万2433)
 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ〔核葛後相夢耳受日度年経乍〕(万2479)
 あひ思はず 君はあるらし ぬばたまの いめにも見えず うけひて宿れど〔不相思公者在良思黒玉夢不見受旱宿跡〕(万2589)

 これらの意味合いについて、祈り願う意に拡張されたものと捉えられているが誤解である。
 上に述べたとおり、夢のなかは現実のシミュレーションとなっている。歌の作者は寝る前に思い人に逢えるかどうかウケヒをして占っている。夢の中に現れて見る(α)のであれば現実にも本当に逢えて見ることになる(A)、現れずに見ることがない(β)のであれば現実にも逢えずに見ることはない(B)、これがウケヒの前言に当たる。実際に布団の周辺できちんと言葉にして発する必要はない。夢は当人しか知り得ないことなので、自分の頭のなかで決めているだけで事態は定まる。ウケヒの簡易版が夢占ということになる。
 万767・2589番歌では残念ながら夢に見ることはない。遠距離になって彼女の心も遠くなってしまったからだろうか、相思ではないらしい、と失恋の情を歌っている。
 万2479番歌はもう少し念の入った作り方がされている。現状の解釈は間違っている(注1)

 さねかづら のちも逢はむと いめのみに うけひわたりて 年はにつつ(万2479)
 (訳)(さね葛)後にも逢おうと、夢に見ることを祈誓(うけひ)し続けて年はいたずらに過ぎて行く。(新大系文庫本271頁)

 稲岡1998.は、「「もし後に逢うことを許されるなら、今夜の夢の中でも逢わせ給え。もし後に逢うことが許されぬものなら、今夜の夢の中でも逢わぬようにさせ給え」というようなウケヒをしたものと思われる。……夢の中で逢えても現実に逢えるわけでもなく、いたずらにウケヒを繰り返すばかりでの意味。」(327頁)と解説している。この考え方には矛盾がある。毎晩寝る前に夢に現れてくれ、そうしたら実際にも逢うことができる、とウケヒを続けたというのだろうか。ウケヒという占い法は確立している。夢で逢えたら現実にも逢えなくてはならない。夢で逢えているのに現実に逢えないということは、ことことであることを容認することになる。ヤマトコトバの根本原則から逸脱する。αなのにBだからといって再度ウケヒをくり返すとしたら、それはもはやすでにウケヒの信頼性は失墜している。騙されたとわかっても騙され続けて吉凶のおみくじを引き続ける、ということを歌にしたものではない。もし仮にそうなら、もはやウケヒという言葉など使わないであろう。神のお告げを夢に見たときも実践するのは人間である。ウケヒの占いをして夢に逢ったならば、現実においても待ちの姿勢ではなく、雨が降ろうが槍が降ろうが、どんな支障も乗り越えて逢わなければならない。そうしないと、言=事とする言霊信仰に反し、神やらいにやらわれる存在に堕すことになる。
 二句目の「後も逢はむと」という言い回しは、また逢おうと思いながら、そう言っておきながら、実際には逢わずにいることの表現として使われている。言っていることとやっている事が異なるなら、言=事とする言霊信仰に反するのではないかと思われるであろう。天罰は当たらないかと心配されるかもしれない。そういう時、人はいろいろ言い訳をする。

 …… さねかづら 後も逢はむと 大船の 思ひたのみて 玉かぎる 磐垣淵いはかきふちの こもりのみ 恋ひつつあるに ……(万207)
 ことのみを 後も逢はむと ねもころに 吾を頼めて 逢はざらむかも(万740)
 月草の れる命に ある人を いかに知りてか 後も逢はむとふ(万2756)
 恋ひつつも 後も逢はむと 思へこそ おのが命を 長くりすれ(万2868)
 恋ひ恋ひて 後も逢はむと なぐさもる 心しなくは 生きてあらめやも(万2904)
 ありありて 後も逢はむと ことのみを かため言ひつつ 逢ふとは無しに(万3113)
 …… さな葛 後も逢はむと 慰むる 心を持ちて ま袖持ち とこうち払ひ うつつには 君には逢はね いめにだに 逢ふと見えこそ あま足夜たるよを(万3280)
 …… さな葛 後も逢はむと 大船の 思ひたのめど うつつには 君には逢はず 夢にだに 逢ふと見えこそ 天の足夜に(万3281)
 ありさりて 後も逢はむと 思へこそ 露の命も ぎつつ渡れ(万3933)

 また逢おうねと言っておきながら逢わずにいることは許されるのか。そこには大人の知恵がある。時間を味方につけている。つまり、いずれ逢うのではあるが、今のところはまだ逢っていない、そういう中途半端な状態に今はあると述べている。あげた例では、残念ながらまだ逢うに至っていないと言っている。その場合、傾向として、本当に逢う気でいながらまだ逢っていないと思われる例に万2904・3933番歌があり、逢う気は醒めてしまっているが「後も逢はむ」とかつて言った、あるいは思った都合上の宙ぶらりんの状況にある意を表していると思われる例に万740・3113がある。もちろん、捉え方によってどうとでも取れるところがある。本心か否かは別であって、そういう歌が作られるならいとなっている。歌は言語遊戯の性格を持つ。言葉巧みなマニピュレーターということではなく、誰もがふつうに行う言語活動である。
 万2479番歌の場合は、一応のところまた逢おうねという気持ちは持ち続けていて、寝る前のウケヒの儀式は、あるいは形骸化しているかもしれないが、続けているにもかかわらず夢に見ることがないからそのままあなたと逢わずに年月が経ってしまった、と逢っていないことの言い訳をしていて、それが歌となっている。
 万葉集において夢にウケヒをしている三例で、ウケヒの語義はウケヒ本来の意である。ウケヒという言葉を使っている以上それはウケヒである。単に祈ったり、誓いを立てたりする意なら、イノリテヌレド、チカヒテヌレドなどと直截に歌えばいい。短歌形式の三十一音しかないところで間の抜けた言葉づかいをするべくもない。

(注)
(注1)内田1988.も、「ウケヒワタルとは、夢に相手を期待しつつ、かなわぬままに幾夜をも過すのであろう。ウケヒは、右の二例[万2589・2479]で、一方的に望ましい帰結を願うことへと傾いている。しかし、同様のホクと異なり、その実現への期待はむしろ裏切られるものと予想されている。或いは、それが適ったからといって(夢に相手を見たからといって)、それが逢瀬を約束すると本気で信じているわけでもない。ウケヒは、ここでその少ない可能性への果敢ない期待としてある。」(36頁)とやはり誤解している。
(注2)万2433番歌について拙稿「万葉集2433番歌「如数書吾命」とウケヒについて」参照。

(引用文献)
稲岡1998. 稲岡耕二『萬葉集全注 巻第十一』有斐閣、平成10年。
内田1988. 内田賢徳「ウケヒの論理とその周辺─語彙論的考察─」『萬葉』第128号、昭和63年2月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1988
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(三)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。

※本稿は、2018年11月稿を2025年2月に改稿したものである。

「家内に養ふ鶏の雄者を殺せ」(雄略紀)の真相

2025年02月03日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略紀の朝鮮半島との関連記事に、これまでの解釈では意味の通じない記述がある。
 
 天皇すめらみことみくらゐかせたまひしより、是歳ことしに至るまでに、新羅国しらきのくにそむいつはりて、苞苴みつきたてまつらざること、今までに八年やとせなり。しかるを大きに中国みかどみこころおそりたてまつりて、よしみ高麗こまをさむ。是に由りて、高麗のこきし精兵ときいくさ一百人ももたりりて新羅を守らしむ。
 しばらく有りて、高麗の軍士いくさびと一人、取仮あからしまに国に帰る。時に新羅人を以て典馬うまかひ 典馬、此には于麻柯比うまかひと云ふ。とす。しかうしてひそかかたりて曰はく、「いましの国は、吾が国の為に破られむことひさに非じ」といふ。一本あるふみに云はく、汝が国、果して吾がくにに成ること久に非じといふ。其の典馬、聞きて、いつはりて其の腹をむまねにして、退まかりて在後おくれぬ。遂に国に逃げ入りて、其のかたらへるを説く。
 ここに新羅のこきしすなはち高麗のいつはまもることを知りて、使つかひつかはしてせて国人くにひとげてはく、「ひと家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」といふ。国人、こころりて、ことごとく国内くにのうち高麗人こまひところす。ここのこれる高麗こまひと一人有りて、ひまに乗りてまぬかるること得て、其の国に逃げ入りて、皆つぶさ為説ふ。高麗の王、即ち軍兵いくさおこして、……(雄略紀八年二月)

 新羅と高麗(高句麗)との間の攻防についての記述である。新羅は、倭が攻めてくるだろうと恐れ、高麗に精鋭部隊を派遣するように友好条約を結んだ。その時、一人の高麗兵が休暇をとって帰ることがあった。馬の世話をさせた新羅人とともに帰路についていたが、その兵士はいずれ高麗は新羅を滅ぼすだろうとひそひそ話をした。新羅の馬の世話人は、おなかの具合が悪いと言って列から遅れ離れて国へ帰ってその旨を説いた。情報は新羅王のもとに届き、王は高麗との間の条約は偽計であったと悟り、国中の人に対して国内にいる高麗人を殺そうと図った。そのときに用いた布告の言葉が三段落目にある。「人殺家内所養鶏之雄者」である。その結果、「国人知意、尽殺国内所有高麗人」ということになった。それでも一人生き残った高麗人がいて、国へ帰って状況を話した。そこで高麗国は兵をあげ、全面戦争へとつながっている。
 話の肝となる部分が理解されていない。どうして「人殺家内所養鶏之雄者」という言葉が、高麗人一斉殺害の暗号として機能したのか。これまでに検討された見解を三つ示す。

 「水戸公所修史新羅伝曰悉人頭折風形如士人捕二鳥新羅諷告蓋指乎」(河村秀根ほか・書紀集解、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100258449/447?ln=ja)
 「「鶏之雄者」は高句麗の将兵を示唆した表現であることは明らかである。……高句麗人を「鶏之雄者」といったのは、……[軍人の]服飾や標識によったとも考えられる。……[また、]新羅では軍隊の単位をと呼んだ。幢は……「毛thŏrŏk, mo」、現訓は thŏr で、鷄の古訓 tork, tok, tak と通用する。……進駐中の高句麗軍に対して、「鶏の雄者」すなわち tork(鶏→幢・対盧)を謎々的に示唆したものと解し得るのである。話そのものが謎的であるから、むしろこの方の解釈が妥当しよう。」(三品2002.103頁)
 「[三品氏の]いずれの説を採るにせよ、「人殺家内所養鶏之雄者」の表現は、三韓の習俗、言語に精通していなければ為し得ない表現であることに違いない。とすれば、この記事は半島系の原資料に依拠した可能性が高い。」(瀬間2024.23頁) 

 「人殺家内所養鶏之雄者」→「国人知意、尽殺国内所有高麗人」という流れである。「高麗人」が殺され、生き残った「高麗一人」が生還している。これは、「精兵一百人」のうちの「高麗軍士一人」が休暇で帰り、残りの99人を殺そうと謀ったが、98人は殺したものの1人は生還したということなのだろうか。そうではなく、新羅国王は、民間人を含めて国中にいる「高麗人」を一掃しようとしたということなのではないか。三品氏の前提は誤っていると考える(注1)
 そもそも、朝鮮半島記事だからといって、ヤマトの末裔である日本人がよくわからないのは仕方がないと考えるのは間違いである。なぜなら、日本書紀は、対外的に流布させようと企図して作られたものではなく、ヤマトの人が理解できるように書かれた書物だからである。自己満足の史書であると言っても過言ではない。つまり、読者として想定されているヤマトの人がわかるように暗号文を創作しているはずなのである。朝鮮半島の風習や言語に依拠していてよくわからないというのでは話にならない(注2)
 ヤマトコトバで考えた時、ヲトリとは囮(媒鳥)のこと、すなわち、ヲキ(招)+トリ(鳥)の約であるとされている。鳥をもって鳥を捕まえる猟法である。いざ高麗との間で戦争になれば、派兵されている高麗の精鋭部隊だけでなく新羅国内の親高麗派の人たちも呼応蜂起して混乱に陥れ、新羅は敗れることになるだろうというのである(注3)。国家存続の危機感をいだいて新羅王はお触れを出している。
 「所養鶏」の部分、「やしなふ鶏」と訓まれている。ヤシナフは、やすに複語尾のナフが付いた形で、す~うしなふ、ふ~まひなふ、ぐ~ねぎらふ、と同様の語形変化であるとする説がある。幼児を育て養うことはヒダスといい、また、ハグクムという。ヤシナフは生活全般に及ぶ語で語義が広いとされている(注4)。問題は、鶏を飼うことをヤシナフと言っていることにある。聞いただけで何か変だなと気づくことであろう。「所飼鶏」ではなく「所養鶏」と明示してある。
 鶏はヤシナフという言葉で表されるような対象なのか。家畜として動物を飼う場合、ウカヒ(鵜飼)、タカカヒ(鷹飼)、ウマカヒ(馬飼)などといい、また、コ(蚕)を飼うからカヒコ(蚕)という(注5)。ヤシナフトリとは豪勢なことである。
 鶏の雌鳥は卵を産むから大事にされた。民家の内に鶏を飼う場合、一羽飼うのなら、昼間は家の外へ出していても夜はイタチなどに襲われかねないから家へ入れ、高い止り木に掴まらせて身の安全を確保した。その場合、飼っているのは雌鳥で、卵を取っていた。記事では「雄鶏」と指定されているから数多く飼育していたことになる。多数鶏がいれば、人との同居は収拾がつかなく困難だから別にヤカ(宅、舎)を設けて鶏舎で飼ったと思われる(注6)。一部は孵らせて雛鳥として育てて大きくし、雌鳥ならさらに卵を取ろうと目論んでいる。求められているのはもっぱら雌鶏である。飼育され続けている雄鶏は何をしているのか。卵を取るためでも若鶏の肉を取るためでもなく、動物として本来の寿命、すなわち、繁殖のため、受精のために生かされている。雄鶏一羽で雌鶏五羽の相手ができるそうである。自然界と同じ営みである。ただし、鶏は家畜化された鳥類であり、人間のもとでのみ生を永らえている。しかも雄鶏は、去勢された畜牛馬のように人間のために使役されることもない。それをヤシナフトリと呼んでいる。われているのではなくやしなわれていると言えるのである。
 ヤシナフトリとしての雄鶏は何不自由なく暮らしている。止り木にとまってコケコッコーと鳴き叫んだり、けたたましくせわしなく動き回っている。止り木を備えた鳥小屋が与えられ、その小屋は騒がしく揺れんばかりである。ヤ(屋、舎)+シナフ(撓)ほどなのである。中にいる雄鶏をとりは、をどりでも踊っているように見える。踊るとは、足で弾みをつけてジャンプするような動きをいう。歩きながら小刻みに上体、顔を上下に、また前後に動かしている。足踏みして跳躍する動きをしている(注7)
 飼育動物のなかでそのような動きをするものとしては馬があげられる。馬が驚いて跳びあがるさまは踊っているように見える。単発的な跳躍だけでなく、継続的な跳躍も馬はする。細かな足さばきをしながら軽く走る軽速歩である。この軽速歩を操るためには、騎乗者は馬上で立ったり座ったりして上下の反動を抜く乗り方をする。騎乗者が立ったり座ったりするというのは、立つのはあぶみに着けた足を踏ん張ること、座るのはそれを緩めて鞍に座ることである。馬が踊っているとともに騎乗する人も踊っている。それを細かくくり返す。だから、踊りをする雄鶏とは、馬のことをいうこまのこと、また騎乗している精兵、軍士のことを言っていて、つまりは高麗こまのことを指しているとわかる。植民者として高麗人はすでに存在していた。
 高麗の野心が伺い知れたのも、出張中の高麗精鋭が新羅で雇った典馬うまかひが送っていった時に聞きつけたからであった。馬を飼うこととは、ただその馬に食事を与えたり洗ってあげたりするメンテナンスに限らず、交尾させて繁殖させることも含まれる。馬が年を取って死んでしまったら、典馬は馬飼いでなくなってしまう。産まれてきた仔馬のことは特にこまとも呼ぶ。典馬が高麗軍から聞き出した秘密は信憑性が高いとわかるのである。
 典馬になった新羅人は高麗兵が連れてきた馬の世話をしていただけだと思っていたが、高麗が考えていたのは新羅で高麗人こまを繁殖させて「うまはる」(注8)ことなのだと悟ったのである。駒(仔馬)が来て、牡馬と牝馬に育てば繁殖して数が増える。そこらじゅう駒だらけになって、つまりは高麗人だらけに陥り新羅は滅亡する。そういうシナリオを描いて精鋭部隊を駐屯させている。上げ膳据え膳で養っていては大変なことになる。高麗の陽動作戦に引っ掛かったら国は傾くということである。だから、「家内いへのうちやしなとり雄者をとりころせ」と命じて、皆、殺すようにと言っている。それぞれの家は人間(新羅人)の家よりも鶏舎を大事にしていてはいけない、本末転倒になると警鐘を鳴らしている。

(注)
(注1)高麗から民間人は来ていなかったとする考え方もなくはないが、国境に壁が作られていたわけでもパスポートやビザの制度があったわけでもない。
(注2)三品氏や瀬間氏は朝鮮半島の習俗、言語によった表現であるとし、半島系の原資料に依った表現であると考えているが、そのような資料は見出せていない。
(注3)現今の世界情勢を鑑みても、親ロシア派が住む地域はロシアの占領下に入って行っている。在留ロシア人の保護のために戦うというのがロシア側の言い分である。
(注4)白川1995.766頁。
(注5)「養」字でカフと訓む例もあるが、雄略紀のこの部分、書陵部本、前田本、熱田本ともヤシナフと訓んでいる。
(注6)鶏の飼い方は、宮崎安貞・農業全書に記されている。

  にはとり第二
 には鳥は人家に必ずなくて叶はぬ物なり。鶏犬の二色は田舎に殊に畜ひ置くべし。……
 多く畜はんとする者は、広き園の中にきびしくかき[垣]をし廻し、狐狸犬猫の入らざる様に堅く作り、戸口を小さくしたる小屋を作り、其中にとやを数多く作りて、高下それぞれの心に叶ふべし。尤わらあくたを多く入れ置きて、巣に作らすべし。さて園の一方に粟黍稗を粥に煮てちらし置き、草を多くおほ[覆]へば、やがて虫多くわき出づるを餌とすべし。是時分によりて三日も過ぎずして虫となる。其虫を喰尽すべき時分に、又一方かくのごとく、年中絶えず此餌にて養へば、鶏肥へて卵を多くうむ物なり。園の中を二つにしきりをくべし。又雑穀のしいら[しひな]、其外人牛馬の食物ともならざる物を多く貯へて、[喰]み物常に乏しからざる様にすべし。卵も雛も繁昌する事限なし。甚だ利を得る物なれども、屋敷の広き余地なくては、多く畜ふ事なり難し。凡雄鳥二つ雌鳥四つ五つ程畜ふを中分とすべし。春夏かいわりて廿日程の間はひな[雛]巣を出でざる物なり。飯をかはかして入れ、水をも入れて飼ひ立つべし。
 甚だ多く畜ひ立つるは、人ばかりにては夜昼共に守る事なり難く、狐猫のふせぎならざる故、能よき犬を畜ひ置きてならはし守らすべし(但しかやうにはいへども、農人の家に鶏を多く飼へば、穀物を費し妨げ多し。つねのもの是をわざ[業]としてもすぐしがたし。しかれば多くかふ事は其人の才覚によるべし)。(325〜326頁、漢字の旧字体は改めた)
近世の養鶏場の例(佐藤信季述・培養秘録、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/839587/1/36をトリミング結合)

(注7)踊るように見えない雄鶏は元気がないということで、繁殖用には適さない。
(注8)雄略紀には次のような用例がある。

 是に高麗こま諸将もろもろのいくさのきみこにきしまをしてまをさく、「百済くだら心許こころばへ非常おもひのほかにあやし。やつこ、見るごとに、おもほえず自づからにまとふ。恐るらくは、また蔓生うまはりなむか。こひねがはくは、逐除おひはらはむ」とまをす。(雄略紀二十年冬)

 高麗は百済を滅ぼしたが、残党は飢えに苦しみながらもそのままでいた。これを許してその地に留めたら、再興しようとするに違いないから、この期に一掃してしまってはどうかと進言している。地盤があるところに居続けたら次の選挙の時どうなるかというのと同じである。どぶ板活動をして支持者を増やしていく。それを「蔓生うまはる」という言葉で表している。高麗こまの諸将は、駒が増えていくこととはウマハルことなのだと自覚、認識していたのである。

(引用・参考文献)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
瀬間2024. 瀬間正之「雄略紀朝鮮半島記事の編述」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝承』雄山閣、令和6年。
三品2002. 三品彰英『日本書紀朝鮮関連記事考證 下巻』天山舎、2002年。
宮崎安貞・農業全書 宮崎安貞編録、貝原楽軒刪補、土屋喬雄校訂『農業全書』岩波書店(岩波文庫)、昭和11年。

山部赤人の不尽山の歌

2025年01月20日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 山部赤人が富士山を詠んだ歌はあまりにもよく知られている。

  山部やまべの宿禰すくね赤人あかひと尽山じのやまを望む歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕
 天地あめつちの わかれし時ゆ かむさびて 高くたふとき 駿するなる 布士ふじたかを あまの原 振りけ見れば 渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり 時じくそ 雪は降りける 語りぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽ふじの高嶺は〔天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将徃不盡能高嶺者〕(万317)
  反歌〔反謌〕
 田児たごの浦ゆ うちでて見れば しろにそ 不尽の高嶺に 雪は降りける〔田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留〕(万318)

 中央の官人層に当たる人が富士山について作歌したものは、上の山部赤人とそれに続く高橋虫麻呂の歌(注1)だけである。ほかにも富士〔不尽、布士〕を詠んだ歌はあるが、東歌の駿河国の相聞往来の歌(万3355・3356・3357・3358)と、古今相聞往来の歌の類として採られた寄物陳思歌(万2695・2697)に属する。後者は、燃えるような恋心の比喩として噴火するさまを詠んでいる。結局のところ、中央では歌のテーマとして流行っていない。この点には注意が必要である。
 都から遠く離れている富士山を類歌の乏しいなか赤人は歌にしている。旅行する人もガイドブックもない時代、意味が通じたか心許ない。そんななか長歌・反歌の組の歌を作り、都において人前で披露しているらしい。歌として歌うだけで意味が通じたようである。万葉集の編纂の際には、高橋虫麻呂の伝歌もついでに採録されている。
 歌を聞いただけでわかるとは、歌の中の言葉をもって描写が行き届いているということである。その場合、旅行記として聞いているわけではない。富士山のことは初めて聞き知ったが、これから訪れる機会もなければ関心もない。題詞に経緯を細かく記して伝説を伝えているものでもない。それなのにわかるということは、歌のなかで話が完結しているということである。言葉をもって言葉が説明され、皆の納得に至っている。地誌に疎く興味もない都の人がフジという高い山のあることを耳にし、なるほどそういうことなのね、と腑に落ちるような歌ということになる。
 フジは地名である。語源はわからない。フジという山が厳然とあって、その名の意味するところを謎解きしようとしたのがこれらの歌であったろう。それ以外に作歌の動機や表明の意図は考えられない(注2)。歌を聞いた人がちんぷんかんぷんではどうしようもないからである。
 フジを、フ(斑)+ジ(形容詞化する語尾)の意ととって説明しているらしい。フは、しま、特に横縞になっていることを指す(注3)。ジは、~のようなさまである、~のような感じがする、~らしい格好である、の意にする接尾辞である。ジモノの形をとることが多い。別のものなのに本当にそれらしい感じ、様子をしていることを示す(注4)。すなわち、フジの山はどうしたって横縞の様子を示しているとおもしろがって歌っているのである。今日でも多くの人が思い浮かべる富士山の姿は、絵文字🗻にあるように横縞柄である(注5)。ヨコシマという言葉は、雲などが横向きに水平にただよってさまを表すとともに、邪悪な思いを抱いていること、正常でない状態を表す。 
富士山
 日をかへりてまをさく、「西北いぬゐのかたに山有り。帯雲くもゐにしてよこしまわたれり。けだし国有らむか」とまをす。(神功前紀仲哀九年九月)
 一書あるふみに曰はく、天照大神あまてらすおほみかみ天稚彦あめわかひこみことのりしてのたまはく、「豊葦原中国とよあしはらのなかつくには、是みこきみたるべきくになり。しかれどもおもひみるに、残賊強暴ちはやぶる横悪よこしまなあしき神者かみども有り。かれいましきてけよ」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一、日本書紀私記乙本訓)

 ということは、フジという山にいます神を想定すると、それは悪しき神なのである。ヤマトの国は、中央から遠く離れたところへ征討しては従わせ、版図を拡大していった。だからこのフジの山へも討伐するために攻めて行かなければならない。それが反歌で歌われている内容、長歌で縷々述べられたことのオチとして歌われている。
 「田児たごの浦」から「うちでて」いる。タゴ(ゴは甲類)という言葉は、田子たご、すなわち、田を耕し稲作をする農民のことである。そのウラがどういうところかと考えれば、田んぼではなく畑(畠)であろう。お百姓さんは表向き田を耕し稲を作って田租を納めているが、裏の畑では芋や豆、蔬菜類を作っていたりする。二毛作をすれば裏作では田が畑になる。そんなタコノウラからフジノタカネへとち出でてみたら(注6)、フジノタカネは雪が降ってすでに真っ白く横縞を成していた。ハタ(畑)から出陣したら直ちにシロハタ(白旗)をあげて降伏していた、という頓智話を作為しているのである。
 長歌はそのオチへと至るなぞなぞ咄である。
 「天地あめつちの わかれし時ゆ」などと大仰に始まっている。古事記や日本書紀に残されているように、天地が分れて世界は生まれたと思われていた。イザナキ・イザナミ両神が天の浮橋から矛を下ろしてかき混ぜ、滴った塩が固まってできた最初の島はオノゴロ島である。そこへ降り立ち柱を立て、その周りを右から廻ったり左から廻ったり試行錯誤しながら国生みが行われている。ところが、赤人の長歌では、「……かむさびて 高くたふとき」と、天地が分かれた時から古色蒼然と高貴に感じられると形容されている。その対象は「駿する」という言葉である。そこにあるのが「布士ふじたか」である。「駿する」がどうしてそんなに持ちあげられているかといえば、スルガという言葉がスル(擂、摺、擦)+ガ(処の意)を思わせるからである。イザナキ・イザナミの国生みは、右へ左へと廻っている。それぞれの特徴、「成り成りて成り余れる処」と「成り成りて成り合はぬ処」とを合体させてぐるぐる回すことは、ちょうど火鑽杵を火鑽臼に合わせてぐるぐる回して火を熾す作業に当たる。富士山はときおり噴火していたから国生みの場所と類推され、スルガ(駿河)は讃美されて然るべきだろうと頓智を言っている。ジョークなのだから聞く人も真に受けたりはしない。創世神話が書き換えられているのではなく、言葉遊びの語呂合わせが楽しまれているにすぎない。
 つづく「あまの原 振りけ見れば」はそれまで述べてきた天地創世、国生みの舞台である高天原たかまのはら、天空を仰ぎ見ることを大袈裟に表現している。こういったわざとらしさもジョークの一環である。そうして見てみると、「渡る日の 影もかくらひ 照る月の 光も見えず 白雲しらくもも いきはばかり」している。標高の高い山で雲がかかって日月とも隠れてしまうというのである。そして、「時じくそ 雪は降りける」としている。間断なく雪は降っていると気がついた(注7)という。このことを、「語りぎ 言ひ継ぎ行かむ」と主張している。
 そのようなことを伝承していく必要などどこにあるというのだろうか。これも赤人のジョークである。「不尽ふじの高嶺」の特徴は、雪が降っているということである。ユキ(雪、キは甲類)はユキ(行、キは甲類)と同音である。雪がある山のことはユキ(行)していかなければならない。都の皆さんにあらせられましては、遠方の駿河へユキ(行)することはなかなかできないでしょうから、せめて今、歌いました事柄を末永く語り継ぎ言い継ぎしてユキ(行)してください、というのである。
 赤人は長歌で富士山の雪についてジョークを並べ立て、反歌でさらにひねりを利かせている。富士山の「高嶺」のところ、頂部分が雪化粧して横縞になっているからフジ(+ジ(~らしいさま))というのだと語呂合わせをし、よこしまな賊を田んぼのウラに当たるハタ(畑)から攻撃したらすぐに白旗を掲げたというのもそのとおりなのだという話にしてまとめたのだった。
 万葉の時代、歌は声に出して歌われて、その場で人々に理解されて楽しまれた。機知に富んでおもしろく思われたから伝え残そうと万葉集に採られ、編まれている。理屈をこねた言い分を主張してみたとて、一回しか歌われない歌は耳に届かず、心に残らない。へぇー、スルガにはフジという山があるんだって、とても高い山で常に雪が降っているんだって、初耳のその山のことを雪があるから語り継いで行こうって、なになに横縞になっているからフジと言うんだって、邪だから攻撃したら白旗をあげているように見える理由はそこにあるって、ははは赤人さん、おもしろいことを言うねえ(注8)

(注)
(注1)巻三の目録に、「詠不盡山歌一首〈并短歌 笠朝臣金村歌中之出〉」とあり、歌の左注にある「右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此」と異動があるが、要は、どちらの作でもかまわないと思われていたということである。今日では、高橋虫麻呂説が多く採られている。
(注2)特に万318番歌が短歌として切り離され、新古今集にも字句を変えて採られ、百人一首にも選ばれている。近代以降、叙景歌であると見なされてきたが、長歌・反歌の組として捉えなければならないとされて叙景歌なのかも疑問視する傾向が出てきた。また、富士山を賞美するようなことは、江戸時代にまで下らなければ一般に広まっていないとも指摘された。21世紀になると、赤人のこれらの歌に関して、「国土讃美の様式を用いて土地の風物の描写がなされるようになった」(井上2010.36頁)のであるとも、「一見風景を描写しているように見える内容であるが、これは讃美目的の虚構表現である。従って叙景歌であるとはみなされない。」(吉村2015.343頁)とも、「当該歌は、東アジア的世界観のなかで、聖武天皇の東国支配の正統性を保証し、讃美する新たな国見歌として、漢詩文の山岳讃美表現を取り込みつつ、神代から雪が降り続ける不尽の永続的な神聖性を構図的に幻視したものと考える。」(遠藤2022.9~10頁)とも、「一見すれば旅先の景を叙したように見える当該歌にも実は国家意識が潜在していたのであった。」(鈴木2024.197頁)とも説かれている。取ってつけた講釈が優勢になってしまっている。教育勅語のようなものが歌に作られていたとして、覚えられるはずがないではないか。
(注3)時代別国語大辞典に、「ふ」は、「まだらな斑点を意味するフチとは区別されていたものか。後世、矢羽の横縞をいうキリや、虎の毛皮をいうトラなどの語があることから考えても、横縞の意であろう。」(628頁) とある。
参考図「切文(切斑)」(伊勢貞丈『貞丈雑記』(味の素食の文化センター所蔵、国文学研究資料館・国書データベースhttps://doi.org/10.20730/100249523(615~616 of 1093)をトリミング結合)
(注4)歌中にある「時じく」の形も、名詞「時」にジをつけて形容詞化したものである。
(注5)富士山は噴火をくり返し形を変えていっているが、有史以降でみると大勢としては変化は少ない。絵画化された例として残されているものとしては聖徳太子絵伝や一遍聖絵などが古いが、絵文字のさまと大差ない。殊更に三峰あるように描かれるようになったのは富士信仰に基づくもので、そのような考え方は古代にはなかった。
(注6)陸路説と海路説が唱えられ定説を見ない。「でて見れば」ではなく、「うちでて見れば」とあり、意を決して海上へ出てみたら、という意味合いになる点が、外海を進むわけではないことにそぐわないと、廣岡2005.は疑問を抱いている。
(注7)「雪は降りける」について、降雪説と積雪説があり、長歌と反歌とで異なる見方をすることが多い。赤人が富士山に登山したことや誰かが登山して経験談を教えてもらったことから作歌しているようには思われない。富士山初冠雪の便りも麓から見て確認できた日に発表されるもので、雲がかかっている日には確認できない。富士山に雪が降っていることは雪が積もっていることによって知られることである。
 助動詞の「けり」について、小田2015.は、「テンス的意味として、①「継承相」(過去に起こって現在まで 持続している、または結果の及んでいる事を表す)と、②「伝承相」(発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態を表す)を、認識的意味として、➂「確認相」(気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得を表す[=「気づき」])を表す。」(152頁)としている。認識的意味を示す語釈としては、古典基礎語辞典に、「①過去の事柄や過去からあったという事実に、はじめてそうだったのだと気づいて、あらためて過去を思いめぐらす意。回想(気づき)の意。…た。…てきた。…ている。……②今まで意識していなかったことに、はじめて気づき、感動と驚きの気持ちを表す。詠嘆(気づき)の意。…だったのだなあ。…ていたのだなあ。…だったよ。……➂はじめて聞いた話や伝説などについて、そうだったのだとあらためて確認する意。伝聞(気づき)の意。…だったそうだ。…とかいうことだ。…たとさ。」(473頁、この項、我妻多賀子)としている。どんな内容であれ「気づき」を表している。詠嘆の視点から語釈を考えることは、「有り」の転と考えられる語の出自からして不適当である。
 赤人の用いている当該「雪は降りける」の「けり」については、どちらの歌でも話を作為しているのだから、自分で歌いながら「気づき」を演出しているわけで、回想でも詠嘆でも伝聞でもあると言えるのである。とぼけた赤人の歌声が聞こえてくる。
(注8)この歌は長らく叙景歌の代表として君臨してきた。遅くとも藤原定家の頃にはそう捉えることで名歌と思われていたようである。しかし、本稿により、頓智、なぞなぞ、ジョーク、駄洒落の歌であると確かめられ、コペルニクス的転回を来した。
 万葉集の時代には、歌は声に出して歌われ、その場において耳で聞いている人たちの間で楽しまれた。機知に富んだ言葉の使い方が好まれていた。ところが、文字の時代に入って目で読んで言葉を理解するようになると、すぐにそれまでの言語芸術のあり方がわからなくなってしまった。文字という記号はやがて科学的な思考を生み、文明は高度に発展した。今や機械学習の助けも得てスピーディにして快適な生活を手に入れている。現代人にとって必要な情報処理にはアップデートが欠かせないわけだが、記紀万葉の時代のものの考え方を探るためにはダウンデートが求められる。その結果得られるものは、一般には「くだらない」と評価される代物である。そこに何かの意味を見出すとするなら、多くの人類が辿ったのとは別種の地平があったという文化人類学的興味である。
 人間は言葉で考える。その根本の言葉について、まったく別の方向へと使い方を進化させていた文化が存在していた。その貴重な姿を万葉集は留めてくれている。もはやそれは「文学」という範疇では語れない。高座で話した洒落を落語家が後で解説するのを嫌がるようなもの、学術研究の対象にして高説を垂れてはお門違いになる。

(引用・参考文献)
井上2010. 井上さやか『山部赤人と叙景』新典社、平成22年。
遠藤2022. 遠藤耕太郎「不尽の雪─赤人不尽山歌の「雪は降りける」をめぐって─」『日本文学』第71号第2号、2022年2月。
小田2015. 小田勝『実用詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂本2001. 坂本信幸「赤人の富士の山の歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
鈴木2019. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」─享受と創造─」『都留文科大学研究紀要』第90号、2019年10月。都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000485
鈴木2021. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」と高橋虫麻呂の「富士の山を詠む歌」の影響関係」『都留文科大学大学院紀要』第25号、都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000758
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
廣岡2005. 廣岡義隆『萬葉のこみち』塙書房(はなわ新書)、2005年。
廣川2019. 廣川晶輝「山部赤人「不尽山を望む歌」 について」『甲南大學紀要 文学編』第169号、2019年3月。甲南大学機関リポジトリhttps://doi.org/10.14990/00003249
吉村2015. 吉村誠「研究の現状と教材化─『万葉集』山部赤人「不盡山」歌を通して─」『研究論叢 芸術・体育・教育・心理』第64巻、山口大学教育学部、2015年1月。山口大学共同リポジトリ https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/24941
※2000年以前の論考については割愛した。梶川1997.の議論や井上2010.の山部赤人関係文献目録を参照されたい。

万葉集の序詞の「鳥」が「目」を導く歌

2025年01月15日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集のなかに、序詞で「鳥」と言い、「目」を導いた歌が二首ある。巻十二「古今相聞往来の歌の類の下」の「物に寄せて思ひを陳ぶる歌」と巻十四「東歌」の「常陸国の相聞往来の歌十首」のなかのそれぞれ一首である。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり〔小竹之上尓来居而鳴鳥目乎安見人妻姤尓吾恋二来〕(万3093)
 小筑波をつくはの しげよ 立つ鳥の 目ゆかを見む さざらなくに〔乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左祢射良奈久尓〕(万3396)

 万3096番歌から見ていく。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり(万3093)

 一・二句の「小竹しのうへ来居きゐとり」が序詞で、「」を導いていると考えられている。四・五句は、人妻なのに私は恋したことだ、と「故に」の「に」は逆接と解されている。万葉集中の「人妻故に」三例の内、万21・1999番歌が類例である。

 紫草むらさきの にほへるいもを にくくあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
 あからひく しきたへの子を しば見れば 人妻故に 吾恋ひぬべし(万1999)
 うち日さす 宮道みやぢに逢ひし 人妻故に 玉の緒の 思ひ乱れて しそおほき(万2365)(注1)

 序詞のかかり方については諸説ある。結果、三句目の「目を安み」の意が定まらない。見るに快い(美しい)、見た目が安らかなので、見ることがたやすいので、と捉え方に差が出ている。

 ①むれの意のメにかかる序詞とする説(賀茂真淵・冠辞考(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/864336/1/22))。
 ②ささの末に巻いた葉があるのを「芽」というので、そこへ来て居る鳥の心は安かるからとする説(契沖・代匠記精撰本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979064/1/282))。
 ➂初二句は「目安し」(見た目がよい、一目見たすばらしさ、姿がよい、見にくからず)を起こす序と考えればよいとする説(北村季吟・萬葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/727?ln=ja)、土屋1977.、稲岡2006.、阿蘇2010.)。
 ➃笹の葉の上に来て鳴く鳥はありふれていて、ありふれて逢うことがしやすい人妻であるとする説(折口信夫・口訳萬葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1663261/1/61))。
 ➄「目を安み」の「目」について、鳥の名にメ(乙類)という接尾語が付く例が多い(カマメ、スズメ、ヒメ、ツバメなど)ので、メは古く鳥を意味したのではないかと考えて序詞とする説。安心した気持で逢えるので、の意(大系本)。
 ⑥「目」を網の目と捉え、羅網、鳥網の目の危険がないので心安らかなように、見ることが易しいので、の表裏の意をかけ合わせた修辞とする説(井手1957.)。
 ⑥´羅網が張られていないので小鳥たちが安心して篠の上にやってくる、その夫人に逢う機会が多かった(澤瀉1963.)。
 ⑥´´網目にかかる心配がない、見た印象がよい(集成本、伊藤1997.)。
 ⑥´´´網の目を気にしていない、人目に立つことはないと気を許して(中西1981.)。
 ➆篠の上に止まっている鳥のように、目にすることが容易であるとする説(武田1956.、新大系本)。
 ⑧「目」は人目のことで、篠の葉末にいる鳥は人目に立つことがないので、人目を安心なものと見、ひそかに思いを寄せる意を重ねたとする説(多田2009.)。

 どの説も歯切れが悪い。
 古代の人たちは鳥をよく観察し、それに基づいて言葉にして歌に表し、聞いた人もなるほどうまいことを言うねえと感心したのだと思う。コミュニケーションが成り立っているから歌としてあり、4500首余りが万葉集に収められている。
 この歌で、「鳥」が「来居て鳴く」場所は、「小竹しのの上」である。篠とも書くシノは竹の類のなかで小型のもので、笹よりは大型のものを指したようである。小鳥でも笹の上には止まることはできず、シノの上になんとか止まっていると想定しているらしい。湾曲した指を使ってシノを握っている。どこでも止まれるかといえばそうではない。指が回ってしまう細いところではかなり苦労する。飼育されている文鳥の例で考えれば、8㎜の枝にはつかまりたがらず、指が止まり木の三分の一程度を余す12㎜程度以上あるものが好まれている。シノに適用して考えれば、節間の部分では指が回ってしまい、盛り上がっているふしのところを握るようにして止まることになる。むろん、歌は写生によって成っているのではなく、相手をおもしろがらせるための機知として言葉を継いでいる。
鳥の止まり木模式図(左:細すぎて止まれない、右:ちょうど良い)
 鳥が来て止まって鳴いているのはシノのフシ(節)ということである。フシ(節)に止まれば安定しくつろげ、鳥はフシ(伏、臥)の状態に入ることができる。目を閉じて寝られるのである(注2)。だから、「目を安み」と続けている。しっかり握りつかめ、体が安定するから、ストレスなく目を休めて寝ることができる。「目を安み」の「目」は人間が鳥を見る「目」などではなく、鳥自身の「目」である。それがこの序詞のかかり方の妙である。よって「寄物陳思歌」として成り立っている。

 小竹しのうへに 来居きゐとり やすみ 人妻ひとづまゆゑに われひにけり(万3093)
 篠の上に来て止まって鳴く鳥は、そのふしのところを握って体が安定するので目を休めてして寝るというように、相手がたとえ人妻であっても共寝をしたくなるような恋を私はしたことだ。

 万3396番歌も、同様に「鳥」の「目」を比喩として使っていると考えられる。

 小筑波をつくはの しげよ 立つ鳥の 目ゆかを見む さざらなくに(万3396)
 小筑波をつくはの山の繁茂した木々の間から一斉に飛び立っていく多数の鳥のなかの一羽のようにしか、あなたのことを見られないことになるのだろうか、共寝しなかったわけではないのに(注3)

 「目ゆか」の「ゆ」は経由を表し、手段を示すとする説が通行している。類例として次の歌があげられている。

 赤駒あかごまを 山野やまのはがし りかにて 多摩の横山 徒歩かしゆからむ(万4417)

 徒歩で、というのと、鳥の目で、というのはちょっと勝手が違う(注4)。助詞「ゆ」は本来、動作の行われるところ、経過するところを表したり、動作の起点を表す。場所の場合でも時間の場合でも同じように使っている。現代語では、ヲ、カラに当たる。

 巻向まきむくの 痛足あなしの川ゆ く水の 絶ゆることなく またかへり見む(万1100)
 ……… 白たへの 手本たもとを別れ にきびにし 家ゆもでて 緑児みどりごの 泣くをも置きて ……(万481)

 川を行く水、家から出て、の意であるが、「動作が行なわれる対象そのものを指すという性格はヨリよりも濃い。」(時代別777頁)ものである。川をこそ通って行く水、家からまでも出て、のような自己言及的、陳述副詞的な意味合いを持っている。「立つ鳥の 目ゆかを見む」という言い方は、立つ鳥の目なんかから○○○○○あなたを見ることになるのだろうか、の意であると考えられる。つまり、あなたを見ることが、異性として見ることさえかなわず、人ではない鳥として見る、それも群れを成して飛び立つうちの一羽の目からしか見ることができない、ということを言おうとしている。そういう扱いをあなたは私にされるのでしょうか、共寝をした間柄だのに、と愚痴っていると解される。そんな比喩を使っているところからすれば、相手はとても人気のある人だったのだろう。たくさんの人たちの注目を浴びている。そのなかから選ばれて自分は共寝する関係になった。なのに相手は過去のこと、なかったことにしてきた。どうでもいい有象無象にされてしまったと未練がましい歌を歌っているのである。
 そんな群鳥の居場所を小筑波をつくはとしている。ヲ(尾)にハ(羽)がツク(着)と聞こえ、鳥が密集しているとわかるのである。

 うちなびく 春さり来れば 小竹しのうれに 尾羽をはうち触れて うぐひす鳴くも(万1830)

(注)
(注1)万2365番歌も、「人妻故に」が「玉の緒の思ひ乱れて」までにかかると考えれば、ふつうなら恋しく思うはずのない人妻なのに思いが乱れる、という意とも解される。「宮道みやぢ」は「玉」砂利が敷かれているところを言い、「玉の緒」が切れたから道に散乱しているのだと譬えている。今日までのところ、そのように解した注釈書は管見に入らない。
(注2)文鳥のほか小鳥の多くはスズメ目で、三前趾足をしている。我々には膝に見えつつ逆に曲がっているところは、骨格上、かかとに当たる。その踵を落とすと足裏側の腱が引っ張られて自動的に指が閉じるため、木の枝をぎゅっと握った状態で保つことができ、枝に止まったまま安定するので眠ることができている。
 フス(伏、臥、俯)という言葉は、「うつむいた状態で、床や地面に接する意」(岩波古語辞典1156頁)で、腹ばいになること、うつぶすこと、横たわることや寝ること、を指す。眠っているとは限らないわけだが、居眠りが体勢を立て直しながら行うように落ち着かないことに比べ、伏して横たわることが身を安んずることにつながる。小鳥の場合は踵を落とした姿勢である。

 さ雄鹿をしかの 朝小野をのの 草わかみ かくろひかねて 人に知らゆな(万2267)
 むし衾 なごやがしたに せれども 妹としねば はださむしも(万524)
 家人いへびとの 待つらむものを つれもなき 荒磯ありそをまきて せる君かも(万3341)

 なお、竹類には例外的に、節間の部分が膨らんだホテイチク、ブッタンチクのような品種もある。
(注3)水島1986.は、「一首は男の歌で、一度ならず自分に許したことのある女性が、如何なる事情によるのか、共寝を拒むようになったことを、いぶかしみ、悲しく思うのであろう。」と解している。阿蘇2011.は個人的抒情歌としての理解は疑問であるとしているが、歌で歌いたいことはその内容ではなく形容である。うまいこと言えているだろうと誇示しているだけで、経験や本心とは無関係であって何ら問題ない。作者を問わずに収集している東歌には、採用の観点からして言葉遊びを重視する傾向が強くなって当然である。
(注4)「加志由加也良牟」を「徒歩かしゆからむ」と訓んで、「徒歩かし」は徒歩かちの上代東国方言であるとされている。ただし、「かしゆからむ」、足枷をつけて送致するようなことになるのだろうか、の意と解することもできる。新撰字鏡に「鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、あし加志かし、又加奈保太志かなほだし」とある。「多摩の横山」は多摩川沿いの丘陵地でアップダウンがきつく、足が棒になるほど疲れることを歌っていることに違いはなく、防人に赴任することはまるで罪を犯して流刑になるようなものだという認識があったなら、囚人の護送のようだと歌ったとした方が比喩表現としてより巧みであると考える。

(引用・参考文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第6巻』笠間書院、2010年。
阿蘇2011. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第7巻』笠間書院、2011年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釈注 六』集英社、1997年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
井手1957. 井手至「目をやすみ」『萬葉』第24号、昭和32年7月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1957(『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1963. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第十二巻』中央公論社、昭和38年。
時代別 上代語辞典編修委員会編『時代別国語時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎『新潮日本古典集成 萬葉集 三』新潮社、昭和55年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 九』角川書店、昭和31年。
土屋1977. 土屋文明『萬葉集私注 六 新訂版』筑摩書房、昭和52年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
水島1956. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

2025年01月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺に産屋うぶやを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたといって、トヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)
 是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に、名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは、本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺き屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)に、水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜、cormorant)という鳥の名がことさらに叫ばれており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に、「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点で、ススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。
羽を乾かす鵜
 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は、陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていて、絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は、疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとは一体全体どういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものである以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそなるほど納得の言葉遣いであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語で、ヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか〈三方沙弥〉(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。完成には至らない。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。練供養ねりくようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思ったであろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とは、ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているものと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、海辺うみへ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはら海辺うみへへの移動は何を物語るのか。海辺うみへ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として、同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「其の剣を号けて草薙剣くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋うぶやを作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「鵜川うかは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだが、それがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方は、その言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一書第一に、「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、一書第三の「屋蓋未合」もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
カワウの巣(大阪市立自然史博物館「日本の鳥の巣と卵427」展展示品)
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、和カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミには、ヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ち天之瓊あまのぬ 瓊は玉なり。此にはと云ふ。ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の記述の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得るのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けることによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、面白がることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0c9178d94e7bad106c7159a74fd78ad1参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはら海辺うみへ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もし海辺うみへではなく川辺かはへへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。川辺かはへのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは、防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。産屋を造る伝とは別に、かやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからであろう。ただし、茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考えられる。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)
 家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかになっている。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものについて、2025年1月に誤りを正した新稿である。

大伴家持の「亡妾」歌(万462)─夏六月に秋風が寒く吹く理由を中心に─

2025年01月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴家持がまだ若い頃に「妾」を亡くして詠んだとされる歌が万葉集の巻三に載る。万462番歌を皮切りに、弟の書持の「即和歌」一首を含めて万474番歌まで計十三首(長歌一首)あり、家持は深い悲嘆に暮れたと捉える見方が大勢を占めている。ここでは、そのうち最初の四首をあげる。歌い始めの最初の歌、万462番歌を詳しく読み解くためである。

  十一年己卯の夏六月みなつき大伴宿禰おほとものすくね家持やかもちの、みまかりしをみなめ悲傷かなしびて作る歌一首〔十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首〕
 今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにかひとり 長きむ〔従今者秋風寒将吹焉如何獨長夜乎将宿〕(万462)
  おと大伴宿禰書持ふみもちの即ちこたふる歌一首〔弟大伴宿祢書持即和謌一首〕
 長きを ひとりやむと 君が言へば 過ぎにし人の おもほゆらくに〔長夜乎獨哉将宿跡君之云者過去人之所念久尓〕(万463)
  又、家持の、みぎりの上の瞿麦なでしこの花を見て作る歌一首〔又家持見砌上瞿麦花作謌一首〕
 秋さらば 見つつしのへと いもゑし 屋前やど石竹なでしこ 咲きにけるかも〔秋去者見乍思跡妹之殖之屋前乃石竹開家流香聞〕(万464)
  つきたちに移りて後に、秋風を悲嘆かなしびて家持の作る歌一首〔移朔而後悲嘆秋風家持作謌一首〕
 うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み しのひつるかも〔虚蟬之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞〕(万465)

 書持の万463番歌の一・二句目にある「長きひとりやむ」は、家持の万462番歌の四・五句目の「いかにかひとり長きむ」を受けて言い換えているだけである。亡くなった人のことが思われるねえ、と言ったところで、そもそも家持は「悲-傷亡妾作歌」を歌っているのだから当たり前のことをくり返しているだけである。兄貴、あなたが寝られないと訴えている理由がわかるよ、亡くなったあの娘のことが自然と思われるよ、と同情した、それをわざわざ歌に拵えて周囲に聞かせたというのだろうか。書持の歌の意図は理解できないし、言語芸術になっていないことになる(注1)
 最初の一首に疑問がある。題詞に、夏六月のこととされながら歌詞に「秋風」とある。大切な人を亡くしたから夏でもうすら寒い風が吹いたと感じられたのだろうとか、暦のめぐりあわせだろうと考える向きがある(注2)。個人的な感慨は思うのは勝手でも、歌に作り声に出して訴えられたら心理カウンセリングの対象としなければならない。弟の書持はそこに狂気も不自然さも感じずに「即和歌」を作っている(注3)。暦意識が根づいていてその妙を捉えた歌とするなら、書持もそれに倣っていていいはずだがそうはしていない。そして、万465番歌に至っては、「移朔而後、悲-嘆秋風」と、性懲りもなく再び「秋風」の寒いことを歌っている。「移朔」、つまり、月が改まって秋七月一日になったら「秋風寒み」と詠んでも何の不思議もない。
 そうなると、夏六月時点での万462番歌は、暦の話ではなく特別な修辞によって歌が作られていると考えなければならない(注4)。聞いている人がすぐにわかることが歌われている。相手が、そして周囲の人が理解できないことが仮に歌われたとしても、そのようなものはすぐに忘れられるから万葉集に残されることはない。
 どういう状況のもと歌われたかは題詞に明記されている。題詞は歌の設定、枠組みを示すために置かれている。
 ヲミナ○○メ(妾)のことをミナ○○ツキ(六月)に歌っている。ミはともに甲類である。ミナという言葉が歌の全編を覆う仕掛けということだろう。ミナ(ミは甲類)には蜷という言葉がある。今日、ニナと呼んでいる巻貝である。巻貝のことを連想しているのは、マク(巻、纏)という動詞を意識してのことと考えられる(注5)。共寝することをマクと言った。歌っているのは大伴さんである。オホトモなのだから、トモに寝ることに齟齬はない。共寝、つまり、纏くみなに当たるヲミナ○○メ(妾)が突然亡くなった。ミマカル(亡)という言葉も、ミ(身、ミは乙類)+マカル(罷)の意で、マカル(罷)はマク(任)と同根の言葉である。ミナ○○ツキ(六月)なのに纏いて寝る相手がいなくなって独り寝を強いられている。そのことを歌っているのである。
水槽に吸着するカワニナ
 人が亡くなっているのをネタにして駄洒落の歌を歌っている。倫理的にどうなのかと思うかもしれないが、この「をみなめ」が家持とどのような関係にあったのかについては議論がある(注6)。実際に男女の関係にあったかは推測の域を出るものではない。家持が独り寝のことを歌っているからと言って、家持が実際にこのをみなめと共寝をしていたという証拠にはならない。なにしろ家持は、一連の「亡妾」の歌の冒頭で駄洒落の歌を歌っている。考え方によっては、身分が低く名も明かされないをみなめのことを追悼するのに歌に作って歌うということは、良い供養であると思われたかも知れないのである。
 廣川2003.は宴席の場での歌だとしている。万462・463番歌は宴の晩に詠まれたものであろう。家持が、今からは秋風が寒く吹くことだろうよ、どうやって一人で長い夜を寝るつもりなのか、寝ないで宴を楽しもうよ、と歌ったのに対して書持は、長い夜を一人で寝るのか、いやいや寝ることなんてできないよ、蜷を食べていると亡ったを妾のことが自然と思い出されるもの、と答えている。楊枝のようなもので一生懸命にくるくるっと巻きながら「みなわた」(万804・1277・3295・3649・3791)(注7)を引き出していたところだったらしい。一人で寝られないとは、宴会で酒を飲んで酔っぱらい、寝そうになっている参加者を無理やり起こしていたということである。家持は最初の歌で、今、お配りしたのは蜷ですよ。宴も酣ではございますが、夜も押し詰まって参りますと六月なのに季節外れの秋風が寒く吹くことでしょうから、と言っている。亡くなった妾を弔うために、この長い夜、一人で寝るなんてことできないでしょう、いつまでも起きていて飲み明かしましょう、と盛り上げようとしていたのであった。
 家持は地口、駄洒落で歌を作り、その意図が書持にも伝わり「即和歌」し、二人とも歓喜している。ミナ(ミは甲類)のことを言っているのだね、と書持がピンと来て「即和歌」して言語芸術は成立し、万葉集はその歌を収録している。万葉歌は知的な言語ゲームの成果であった(注8)

(注)
(注1)秋風が吹いたら悲しくなるものだ、という日本的情緒(?)がこの歌で初めて表明されたのだといった感想は現在も語られるが、実証的でなく、学問の名に値しない。上野誠「『万葉集』はいかなる歌集か…日本文化+中国文明=万葉集?」(テンミニッツTV - 1話10分で学ぶ大人の教養講座)https://www.youtube.com/watch?v=M-BRU6YPc24(10:04~10:21、2024年12月25日閲覧)参照。
(注2)この天平十一年は、暦の上で六月二十四日が立秋のため、暦月と節月のずれを述べているとする見解(大濱1991.や廣岡2020.)がある。「年のうちに 春はにけり ひととせを 去年こぞとやいはむ 今年ことしとやいはむ」(古今集1)と同様だと考えるわけだが、題詞に「ふる年に春たちける日よめる」と断られている。家持にはホトトギスの歌をはじめ暦に基づいた歌があるが、その場合も題詞などに明記されている。そうしないと歌意がわからないからである。
(注3)廣川2003.は、「即和歌」とある場合、儀礼や宴席という場が存在するという。
(注4)鉄野2017.は、暦の上での立秋によって歌っているとする説を追認し、「父旅人の歌の表現や方法を踏襲し、それを露わに見せながら、一方ではそれと異なって、季節やそれによる景物の変化とともに妻の死を捉えようとする姿勢が見られる。」(8頁)という。
(注5)古典基礎語辞典には、「まく【負く】自動カ下二/他動カ下二 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。」(1103~1104頁。この項、須山名保子)とある。
(注6)この歌群については虚構論議が行われた。例えば中西1963.に、「第三者の「亡妾」であったか、全く架空であったかは不明だが、少くとも家持自身の事ではなかろうと考える。」(451頁)とある。現在、「亡妾」は実在したのか、家持との関係はいかなるものか、という事実をめぐる議論は下火となっている。例えば、鉄野2017.は、家持との間に「若子みどりご」(万467)を成しているはずとの立場から、「思うに、妻のような身近な人の死を悲しむ情は、時を経て初めて歌いうるのではないだろうか。死別の直後の悲哀は、後から振り返って自らを造形し直す以外には表現しえない。」(17頁)という。
(注7)「みなわた」は枕詞で「か黒き髪」を導いている。実体として使われている言葉ではないものの、身近な存在だったから形容するために用いられたのだろう。
(注8)歌人大伴家持について、その経歴と歌作とを結びつけて考えようとする傾向が強くなっている。しかし、そのようなことは可能なのか、また、有効なのか。現今でもドラマや舞台で活躍する俳優や、ライブや配信で人気の歌手がいる。顔、声、演技、歌唱に魅せられることがあるが、その人の真の人柄を知らないことも多い。親戚でも近所に住んでいるわけでもなく、会ったことすらないのがほとんどである。彼ら彼女らの実生活とその表現との間に強いて関連するところを探ることなど、週刊誌的、パパラッチ的、SNS的関心でしかないのではなかろうか。万葉集研究は変な方向へ向いていないだろうか。

(引用・参考文献)
有木1970. 有木節子「「亡妾歌」の真実─家持文学のアプローチとして─」『国文目白』第9号、1970年1月。
大濱1991. 大濱眞幸「大伴家持作「三年春正月一日」の歌─「新しき年の初めの初春の今日」をめぐって─」『日本古典の眺望 吉井巖先生古稀記念論集』桜楓社、平成3年。
小野寺1972. 小野寺静子「「悲傷亡妾歌」歌」『国語国文研究』第50号、北海道大学国語国文学会、昭和47年10月。
倉持・身崎2002. 倉持しのぶ・身崎寿「亡妾を悲傷しびて作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐藤1993. 佐藤隆『大伴家持作品論説』おうふう、平成5年。
鉄野2017. 鉄野昌弘「結節点としての「亡妾悲傷歌」」『萬葉』第224号、平成29年8月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2017
中西1936. 中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、昭和38年。(『万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
橋本2000. 橋本達雄『万葉集の時空』笠間書房、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。(「家持の亡妾悲傷歌─作品形成における季の展開について─」『三重大学日本語学文学』第4号、1993年5月。三重大学学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/10076/6466)
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
松田2017. 松田聡『家持歌日記の研究』塙書房、2017年。(「家持亡妾悲傷歌の構想」『国文学研究』第118巻、1996年3月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43573)
身﨑1985. 身﨑壽「「家持の表現意識─「亡妾悲傷歌」を例として─」『日本文学』第34巻第7号、日本文学協会、1985年7月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.34.7_23
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、平成22年。(「大伴家持亡妾を悲傷する歌群の特質」『広島女学院大学日本文学』第15号、2005年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/567)

八咫烏(頭八咫烏)について 其の三

2024年12月31日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
(注)
(注1)上代文学における、記の八咫烏記事の先行研究の一つに坂根2011.がある。発話文の解釈を定めるものである。
 「八咫烏」、「頭八咫烏」の訓みについては、紀の古訓にヤタカラス、ヤタノカラスなどとあるが、「八尺鏡八尺、云八阿多やあた」(記上)と訓注で指定され、「尺」は「咫」と通用していると考えられてヤアタカガミとしているのに従ってヤアタカラスとした。
(注2)アタとアダの清濁の違いについて無視することはできない。古典基礎語辞典に、「アタは近世中期までは清音であったが、敵対するものの意をカタキが表すようになるにつれ、アタは主に、害やうらみなどのよくないことを表すようになった。一方、アダ(徒)も無益・無用の意を表すので両者の混同が起こり、アタ[(仇・敵)]がアダになったと考えられる。」(32頁。この項、白井清子)とある。五来2004.は、言葉の時代考証を欠いている。
(注3)「「儒者に曰く、「日中に三足の烏有り、月中に兔・蟾蜍有り」と。(儒者曰、日中有三足烏、月中有兔蟾蜍。)」(論衡・説日)、「一日いちぢつまさに至り、一日方に出で〈交会し相代るを言ふ也〉、皆烏〈中に三足の烏有り〉を載す。(一日方至、一日方出〈言交会相代也〉、皆載于烏〈中有三足烏〉。)」(山海経・大荒東経)などとある。
(注4)無文字時代のヤマトコトバにおける思惟に、言葉は事柄を表す、あるいは、極力同じにしようと志す傾きがあった。その時、言葉には言霊が宿るものと考えていた。ところが、今日一般に古代の言霊信仰といえば、言葉にはすべからく霊力や呪力が備わっているものと信じられていたことと捉えられている。誤解である。文字がないとき言葉は音でしかない。発する言葉、受け取る言葉に担保となるものが見当たらない。証文をとることもできなければ、漢字でどう書くかによって言葉の理解の一助にすることもできない。そこでヤマトの人々は、言葉と事柄とが必ず同一になるように使おうとした。その結果、言葉には事柄が必ず貼りついているようになり、嘘偽りがなく社会の安定に資することとなった。
 しかし、言葉には同音異義語がある。音の数は限られているから生じている。そうなると言葉が必ずしも事柄を表さない誤解が起こってしまう。大前提が崩れてしまうことをヤマトの人は嫌ったから、その不協和な事態を解消するために音が同じなら同じ事柄を表していると認められるべく、概念規範のほうを展開、駆使させた。すなわち、同音なら同事という命題を遵守して言葉を使い、言葉を定義しながら逐次言葉を用いるような仕業をくり広げていったのである。そういう次第で言葉にはまるで霊魂でもあるかのように感じられたから、それを言霊と呼んだのである。
 大浦2019.に、「上代における「言霊」という語の用法が万葉集の三例に限られること、その他の文献には全く見られないことを認識しつつ、「言霊信仰」を当時の民俗生活全般に及ぼし、また始原的に存在したものとして捉えることは、古代の「言霊」というものに対して現代の側に形作られた信仰─現代における「言霊」信仰─の様相すら呈しているように思われてならないのである。」(125頁)とある。大浦のいう「言霊」ならびに「言霊信仰」は、従来の考え方に基づいている。万葉集の「言霊」三例は、次の歌である。

 …… そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことだまの さきはふ国と 語りぎ 言ひ継がひけり ……(万894)
 言霊の 八十やそちまたに 夕占ゆふけ問ひ うらまさる いもあひ寄らむ(万2506)
 磯城島しきしまの 倭の国は 言霊の たすくる国ぞ まさきくありこそ(万3254)

 万894・3254番歌は、対外交渉の結果から、我が国の言葉の特徴が、言=事、それも口に発した音声言語が事柄と同じであることの優位性に気づいたことから使われている。中国の漢字は、一字→一音→一義として決められている。しかし、例えば同じ音の「提」と「啼」、「災」と「栽」が同じ事柄を表すとは言えない。それに対してヤマトコトバは、同じ音なら同じ概念に基づいていると丸めこんでしまう戦略をとったのである。
 無文字時代におけるヤマトコトバの特徴によって、巧みに操る者が優位な地位を得て、知恵にまさることで勢力の拡大を見た。音声でしかない言葉を発したその時点で相手を納得、調伏させるには、こと向けやはす言語能力が必要であった。そして、「名に負ふ」人はその名のとおりに行動することが求められ、逆にまた、あり方や行動に従って命名されてもいた。一見、無関係に思われる言葉に関しても、互いに関連づけるような説話が物語られたり一口話が作られて、こじつけにも思える洒落や地口が横行しており、現代の感覚ではおよそ無意味に感じられる地名譚も数多く残されている。
 カラス(烏)とカラス(枯)とが同じ音だからといって同根の言葉であったかどうかはわからない。それでも言葉を一から理解しようとする人にとっては、crow は水を好まないように見えて wither 的な鳥だろう、wither は kill と同等の意であろう(注5参照)、kill をいうコロス(殺)とその鳥の鳴き声のコロクはよく似ているだろう、ということになれば、アハ、なるほどね! と腑に落ちるのである。そのとき、カラスという鳥の名は、まったくもって他の言い方では示すことのできない揺るぎないヤマトコトバとして人々の間で共有される。
 これは決して語源という形で突き止められるものではない。そもそも語源なるものは証明できるものではなく、縄文時代からとするなら5000年、10000年の単位で使われているヤマトコトバのうち、たかだか1300年ほど前に表れた文字資料によって何となく理解しているに過ぎない。そうではなく、記紀万葉に残されている上代資料から、当時の人々がどのような感覚でヤマトコトバを用いていたか、その語感を探るべきである。そのことは、彼らの概念規範を理解することになる。ものの考え方がわかるということは、その時代のことがまるごとわかるということである。しかし、今日では、ロゴスの学よりもマテリアルの学が好まれる時代になってしまっている。言語においても、文字というマテリアルな次元でばかり思考されており、上代人の思惟に近づくことはできずにいる。
(注5)白川1995.に、「鳥獣の類に「殺す」というのは、草木の類を「枯らす」というのと相対するものであろう。」(346頁)とある。
(注6)この個所の訓読について、現在通行しているものに誤りがあるので改めている。拙稿「神武東征譚における熊野での熊の話」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/85d0190d2bc4024b9c0144cf1986c2db参照。
(注7)赤羽2008.に、「熊は隈に宿る」、「隈に潜むもの」と小題があり、「熊の語源に「くま」がある。「奥まった暗い場所」「光と闇の接するところ」「かたすみ」「ふち」などの意味を綴っていくと、熊の行動の跡をなぞっていることになるのである。」(257頁)としている。語源説は際限がないため論じても仕方がないが、連関をもって用いられていたことは確かであろう。
(注8)「委曲」について、マツブサニ、ツバヒラケキコトといった訓が試みられている。マツブサニは、十分に、完全に、の意、ツバヒラケシは、くわしい、ものの端々までよくわかることをいう。状況としては、天神と雉とでは声の高さや音色は違えども、雉の鳴女は天神の詔を一言半句違えずに伝えていることを言っている。雉が言葉を理解してこんこんと説いているのではなく、理解はしていないがそのとおりにオウム返しをしていると考えられる。すると、ここでは、ツバラニ、ツバラカニ、また、ツバラツバラニという訓み方がふさわしいと考えられる。隈なく、まんべんなく、しみじみと、の意である。鳴女は間諜なのだから隈に潜みながら偵察活動をしている。意味合いを考えればそれらの訓みは正しいと明かされる。雉は一音一音再現してみせているのだから、ツバラツバラニと訓みたいところである。

 浅茅原あさぢはら つばらつばらに〔曲曲二〕 物思へば りにしさとし 思ほゆるかも(万333)
 朝びらき 入江ぐなる かぢおとの つばらつばらに〔都波良都波良尓〕 吾家わぎへし思ほゆ(万4065)
 …… 山のに いかくるまで 道のくま いつもるまでに つばらにも〔委曲毛〕 見つつ行かむを ……(万17)
 …… 筑波嶺つくはねを さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに〔委曲尓〕 示したまへば ……(万1753)
 難波潟なにはがた 潮干しほひのなごり よくも見む〔委曲見〕 家なるいもが 待ち問はむため(万976)

(注9)本当にスパイらしいスパイとして諜報活動している記事としては、紀では、上にあげた推古紀にある新羅の者ばかりとされている。
 直木2009.は、古代の日本では、スパイについて「せいぜい宮廷貴族内での勢力争いに利用されただけで、国際的な活動をしていた朝鮮半島の諜者とは、スケールがちがう。」(103頁)とする。これは、滝川1984.の、「推古天皇の御代、我が朝廷が百済の僧観勒を貢進せしめて、遁甲の術を伝習せしめられたのは、半島にある我が軍が、新羅の間諜のために屢々悩まされた苦い経験によって、我が国人も遁甲の術を学んでこれに対抗する必要が痛感されたからである。」(295頁)とする説に対抗するものである。直木2009.は、滝川1984.が、間諜者迦摩多の渡来と、翌推古十年に百済僧の観勒の来日して遁甲方術の書を貢したこととをあわせて、我が国の忍術の源流を求めた点について、「間諜と遁甲の術とをむすびつけ、忍者の源流とする構想は、古代における間諜の役目や性格を矮小化するもの」(104頁)と批判する。筆者は、忍術の源流であるウカミ(間諜、斥候)は、天佐具女(天探女)やヤアタカラスにすでに現れていると考えている。スパイ活動に身を紛らせることは当たり前のことで、遁甲の術に通じていておかしくないし、誰だかわからないのが間諜の要件なのだから、失敗例の迦摩多をもってスパイ活動の全貌を知ろうとすることは本末転倒である。
 偵察による諜報活動は、よほどの功績や政権の大転換でもない限り、歴史の表舞台に詳解されることはない。今日でも、英国の諜報員は、逆スパイになってバレでもしなければ名前すら知られずに終わる。程度の差はあれ、本邦でも従前より当然のこととして行われていたものと考えられる。武家名目抄・第二に、「忍者〈又間者・諜者と称す〉……按忍者はいはゆる間諜なり、故に或は間者といひ又諜者とよふ。……古来間諜の術をなせしもの諸書に注する所少なからすといへとも其名目を載せさるは悉くこゝにもらせり」(170~175頁、漢字の旧字体は改め、適宜訓み下し句読点を補った)とある。
(注10)オニ(鬼)という言葉については判断が難しい。時代別国語大辞典に、「仮名書きの確例はなく、オニの上代語としての存在が疑われている。……しかし、日本書紀古訓から遡って、……「鬼・魑魅」がオニとして考えられたものとすることに特に支障もない。第三例[霊異記中二五話]の鬼は仏教的なものであるが、それも含めて上代に近い用例として引き得るすべてのオニが鬼人としての形態を示している。「……天皇崩于朝倉宮…是夕於朝倉山上鬼、著大笠視喪儀ミモノヨソホヒ」(斉明紀七年)の「鬼」は神が姿をあらわしたものかと思われる。現在、法隆寺金堂増長天の邪鬼が残ることから、上代人が鬼に対する概念をもっていたことがわかる。「続断於尓乃也加良オニノヤガラ」(鬼の矢柄か)「馬勃於尓布須倍オニフスベ」(鬼燻べであろう) (本草和名)のような植物名もオニのイメージを知る手がかりになろう。」(152~153頁)、古典基礎語辞典に、「オニという語は中古から見える。オニを表す漢字「鬼」は、中国で死者の霊をいう。「鬼」の字を『万葉集』ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。……オニは冥界に属する、姿を見せない存在だったが、仏教の羅刹らせつ(大力・暴虐で人を食うという)などとの混同が起こり、中古末期以後は、異形の怪物で人を害する恐ろしい賊などもオニというようになった。中世末期の『日葡辞書』には、オニは「悪魔。または、悪魔のように見える恐ろしい形相」とある。上代以来、陰陽道による年中行事として、朝廷では十二月三十日に追儺ついな(鬼遣おにやらい)をして疫鬼を追う儀式をした。これがのちに節分の豆まきとして行われるものとなった。中国から入った「鬼」という観念と、日本のモノ(怨霊。のちに物怪もののけという)という観念とが影響し合って、オニが成り立った。」(246頁、この項、須山名保子)とある。国際日本文化センター・怪異・妖怪画像データベース「鬼;オニ,牛車;ギッシャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0061_0003_0000.html)、ならびに拙稿「オニ(鬼)のはじまり」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/495a4403b1942d7a8abc633cdf510b99参照。
(注11)なかでもコクマルガラスの賢さについては、ローレンツ1963.に詳しい。
(注12)例えば、チビという蔑称のような愛称は、「ちひさし」によっている。
(注13)狐を稲荷の神の使いとするのは、御食津神みけつかみ三狐神みけつかみと付会した俗信からとする説がある。天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記に、「御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神」とあり、三狐神をミケツカミと訓み、御饌津神のことであろうとすることによっている。五来2010.は、「『物類称呼』(二)には、「関西にてしべて、けつねと呼ぶ也」とあり、れっきとした登録語なのである。……動物としての狐をはなれてケツネということばを詮索せんさくしてみると、御饌津神みけつかみと言うように、ケは食物や稲のことである。……ツは「の」という意味で、ネは根元、あるいは先祖ということだから、ケツネは「食物の根元」あるいは「食物をあたえる先祖」ということになる。ことばとしてのケツネは、すでに稲荷神の宇迦之魂神や保食神と同体なのである。」(29~30頁)とする。また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘している。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったとする。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
 論としては興味深いが、狐をケツネという例は、関西地方の方言や江戸期の本朝食鑑などにあるばかりで、上代にそのような言い方がされていた証左はない。万葉3824番歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。

 さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津いちひつの 檜橋ひばしよりむ きつねむさむ(万3824)

 本草和名に「狐陰茎 和名岐都禰きつね」、和名抄に「狐 考声切韻に云はく、狐〈音は胡、岐豆禰きつね〉は獣の名にして射干なり、関中に呼びて野干と為るは語の訛れるなりといふ。孫愐に曰はく、狐は能く妖怪と為り、百歳に至りて化けて女と為る者なりといふ。」、名義抄に「狐 キツネ クツネ」とある。説文には、「狐 䄏獣也、鬼の乗れる所、三つの徳有り、其の色中和、小さき前大きなる後、死するに則ち丘に首むかふ、犬に从ひ瓜声」とある。稲荷社とキツネとの語学的関係については、拙稿「稲荷信仰と狐」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/e922fd95ff532a8e2f55e3db6ea885dc参照。本稿で、稲荷社と狐、専女の関係が意識されていることが理解されたことは、稲荷信仰と狐との結びつきが、語学的に言って、相当に根深いものであることを予感させる。イナリに稲荷という字を当てた魂胆は、上代からすでに指向されていたということになる。
(注14)国際日本文化研究センター・怪異・妖怪画像データベース「牛鬼;ウシオニ,火車;カシャ,亡者;モウジャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0379_0001_0006.html)参照。
(注15)奈良国立博物館収蔵品データベース(https://www.narahaku.go.jp/collection/644-0.html)参照。
(注16)「火車 西国雲州薩州の辺。又は東国にも間々ある事にて。葬送のとき。俄に大風雨ありて。往来人を吹き倒す程の烈しき時。葬棺を吹き上げ吹き飛ばす事あり。其時。守護の僧珠数を投げかくれば異事なし。若左なきときは。葬棺を吹き飛ばし。其尸を失ふ事あり。是を火車クハシャに捉まれたるとて。大に恐れ恥づる事なり。愚俗の言伝に。其人生涯に悪事を多くせし罪により。地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後に其尸を引き裂き。山中の樹枝。又は岩頭イハカドなどに掛け置く事あり。火車と名付くるは。仏者よりいひ出だしたる事にて。……其火車に捉まれたるといふは。和漢とも多くある事にて。是は魍魎といふ獣の所為シハザなり。罔両とも。方良とも書く。酉陽雑俎に。周礼方相氏歐罔象。好食亡者肝。而畏虎与レ柏。墓上樹柏。路口致石虎此也とあり。此獣葬送の時。間々出でゝ災をなす。故に漢土にては聖人の時より。方相氏といふものありて。熊皮をかぶり。目四つある形に作り。大喪の時は。柩に先立ちて墓所に至り。壙に入りて戈を以て。四隅をうち。此獣をる事あり。是を険道神ケムダウシムといふ。事物紀原に見えたり。此邦にても。親王一品は方相轜車を導く事。喪葬令に見ゆ。 今俗葬送に龍頭タツガシラを先きに立つるも。其遺意なり。時珍の綱目に。述異記を引きて。秦の時陳倉の人。猟して此獣を得たり。形に若彘若羊とあり。古より。愚俗の誤りて火車クハシャと名くるゆゑ。地獄の火車ヒノクルマと思ふ。笑ふべし……」(茅窓漫録・下巻)とある。
(注17)拙稿「轜車について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd57f8689ef57db4f0ca8bdc742ae16参照。
(注18)古典基礎語辞典に、「あたり【辺り】……アタル(当たる)と同根。上代には、人や動物の居る場所として見当をつけた所を表した。」(34頁、この項、白井清子)、白川1995.に、「あたり〔辺(邊)〕 その一帯のところ。周辺をいう。「あたる」と同根の語で、いわゆる見当というのに近い。」(70頁)とある。
(注19)それが他の諸言語の無文字時代の説話の多くにも該当することなのか、不勉強でわからない。
(注20)日本霊異記・上・「狐をとして子を生ましむる縁 第二」に、「故、其の相生ましめし子の名を岐都禰きつねなづく。亦、其の子の姓をあたへほす。」とある。「直」に「狐直」と校訂されることがあるが誤りである。狐は伊賀専女のことだとわかっているから、アタアタ話として「あたへ」を「与へ」るに「あたひ」するという地口である。語用論的調和(pragmatic symmetry)の極みと言える。この点が理解されなければ無文字に生きた人々の言語観には到達できない。
(注21)この追儺や午王符に関しては、言葉の連関の可能性を示唆しているにすぎない。時代考証的に、すべての項目が無文字的発想に基づいているとは認めきれない。追認する形で成り立っている印象を受けることを述べた。
(注22)発語において、「ちん……」といえば天皇のそれであるし、『暴れん坊将軍』に「……」といえば徳川将軍吉宗のそれとわかるのと同じである。
(注23)蒲谷・松田1996.に、コクマルガラスの鳴き声は、英文では、“t’yak,t’yak”、“tchak-ak”、“kia”、“kraare”、“chaair”、“tchak-ak”などの記載があり、日本人には、キャッ、キャッという甲高い音に聞こえるとしている。
(注24)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a4da9b05e9aee34901bb20e05d7878aほか参照。
 山上憶良の貧窮問答歌に、甑の話が載る。

 …… かまどには 火気ほけふき立てず こしきには 蜘蛛くもの巣きて いひかしく 事も忘れて ……(万892)

 甑の形と蜘蛛の巣の形とを掛けた高次の修辞表現である。
(注25)景行紀に、「八月に、的邑いくはむらに到りて進食みをしたまふ。是の日に、膳夫等かしはでたちうきわする。かれ時人ときのひと、其の盞を忘れし処をなづけて浮羽うきはと曰ふ。今いくはと謂ふはよこなばれるなり。昔筑紫つくしくにひと、盞を号けて浮羽うきはひき。」(景行紀十八年八月)とある。膳夫かしはでという職掌名は、神饌に餅を供える食器の「葉盤ひらで」などがカシハ(柏・槲)の葉を重ねてできていることによる。ヒラデについては、新撰字鏡に「𦲤〓(𦲤の亻の代わりに石) 比良天ひらで久保天くぼて」、和名抄に「葉手 漢語抄に葉手〈比良天ひらで〉と云ふ。」とある。イクハ~ウキハという音韻的なジョークは、豊後風土記に知られる的と餅との密接な関係に支えられている。
槲御膳かしはのみけ(木村孔恭・蒹葭堂雑録・巻一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2562884/1/28をトリミング)
 そして、甑で蒸した餅米から酒を造り、やはり神に捧げた。その容器が盞である。新編全集本日本書紀の「浮羽うきは」の注に、「「盃うきは(どうしたか)」の意であったかとする説がある。」(363頁)とあり、飯田武郷・日本書紀通釈・第三に、「-哉ハヤアカ酒盞ウキと宣し所なりと云。……〈此紀に朕之酒盞者也アカウキハヤ。なと詔ひし御言なけれは。羽ノ字の義解かたし。……〉さてかく盞者也ウキハヤと詔ひ出て。惜しみ玉へるは。尋常の御物にはあらし。世に珍き大御酒坏にてそありけらし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933890/1/120~121)とある。新釈全訳日本書紀は、「盞を忘れたことからウキハとなる理由は、サカヅキをウキハということによると次文にある。『釈紀』述義「公望私記」に引く「筑後国風土記』逸文では、天皇がこの村に酒盞を忘れたといい、「天皇勅して曰はく、惜(アタラ)しかな、朕が酒盞(ウキ)はや〈俗の語に、酒盞を云ひて宇枳(ウキ)と為す〉。困りて宇枳波夜(ウキハヤ)の郡と曰ふ。後の人、誤りて生葉(イクハ)の郡と号づく」という。ウキということばから地名を説明しようとするものである。『風土記』は、盞(ウキ)とイクハとをつなぐべく、ウキハヤ(ウキよ、ああ、という天皇のことばとうけとられる)がイクハに訛ったという。『日本書紀』が、盞をいう「筑紫俗」のことばがウキハだったとして説明するのに対して、天皇とつなぐために別な解釈をもとめたか。古訓ウクハとあるが、「浮」字にひかれたものか、イクとの音通をもとめたか。」(481頁)と迷宮入りしている。
 膳夫等は、的邑での食事会なのだから、餅ばかり作ればいいと思っていた。だから酒の用意をしなかった。土器や木器の盞は持って行かないで、葉盤ばかり用意していた。そんな葉盤は、水に「浮き葉」である。複数の葉っぱで編み作って水に浮かぶ大きな葉っぱの姿に作られている。的邑なのだから、餅をいくはにしたら鳥になって飛んでいったように、軽くて「浮き羽」になるものがふさわしいと考えていた。しかし、主人たちがしたいのは風流の宴席である。曲水の宴などできたら最高なのに、「浮き葉」では「浮きは」するが、酒を酌んで流したら漏れ出て水に置き換わる。さかずきを揚げて酌み交わそうにも肝心の中身の酒が漏れてしまう。弓の的に餅を使うことが本末転倒で死絶荒廃したように、浮きはするが酒が保てない容器も本末転倒で台無しである。きわめて論理学的な思考から、イクハ~ウキハのジョークがたしなまれている。
(注26)無文字文化に暮らしていた人と、文字を獲得してからの人とでは、言葉に対する感覚は様相を異にする。いったん文字に慣れてしまうと、無文字時代の言葉の感覚は理解しにくいものになる。記紀の話の多くにおいて、現代人の頭でっかちな捉え方では、肌感覚として腑に落ちないものばかりである。記紀の話は、今日の人とは別の文化圏に暮らしていた人たちが残した、異世界のテキストということになる。記紀研究の目標とは何か。ヤマトコトバのジグソーパズルを並べ当てはめ、一枚の絵を完成させることである。現代人が手中にある設計図を当てがってみても何の意味もない。オング1991.参照。

(引用・参考文献)
赤羽2008. 赤羽正春『熊』法政大学出版局、2008年。
大浦2019. 大浦誠士「コトと「言霊」」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
大森2011. 大森惠子『稲荷信仰の世界』慶友社、2011年。
オング1991. W・J・オング、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991年。
蒲谷・松田1996. 蒲谷鶴彦・松田道生『日本野鳥大鑑 鳴き声333【下】』小学館、1996年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
五来2004. 五来重『熊野詣─三山信仰と文化─』講談社(講談社学術文庫)、2004年。
五来2010. 五来重『宗教歳時記』角川書店(角川ソフィア文庫)、平成22年。
坂根2011. 坂根誠「『古事記』八咫烏の先導段における発話文」『古事記年報』53、古事記学会、平成23年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
集成本古事記 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
滝川1984. 滝川政次郎『公事師・公事宿の研究』赤坂書院、昭和59年。
直木2009. 直木孝次郎「古代朝鮮における間諜について」『古代の動乱』吉川弘文館、2009年。
武家名目抄・第二 故実叢書編集部編『新訂増補 故実叢書』明治図書出版、昭和30年。
柳田国男「産婆を意味する方言」 『柳田国男全集 第二十七巻』筑摩書房、2001年所収。
ローレンツ1963. コンラート・ローレンツ、日高敏隆訳『ソロモンの指環』早川書房、1963年。

※本稿は、2014年3~4月稿を2019年10月に改稿し、さらに2024年12月に加筆してルビ形式にしたものである。

八咫烏(頭八咫烏)について 其の二

2024年12月30日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
鬼・的

 オニ(鬼)という言葉は、もともとのヤマトコトバにはなかったとされる。万葉集では鬼の字をモノと訓む(注10)。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神は鬼と曰ふといふ〈居偉反、於邇おに。或説に云はく、和名の於邇おには隠奇の訛れるなり、鬼物は隠れて形を顕すことを欲せず、故に以て称するなりといふ〉。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は𩴆〈音は蟻、一音に祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神魂なりといふ。」とある。漢字の隠(隱)の古い字音 on に、母音 i をつけた語という説が根強い。鬼が隠と密接に関係するものと考えられるなら、姿を隠して探りを入れる斥候に通じるものである。紀に、次のような例がある。

 これ、桃をちておにやらことのもとなり。(神代紀第五段一書第九)
 是のよひに、朝倉山あさくらのやまの上に、鬼有りて、大笠おほかさを着て、喪のよそほひのぞる。ひとびと嗟怪あやしぶ。(斉明紀七年八月)
 皇太子ひつぎのみこいま大臣おほおみの心のなほただしくいさぎよきことを知り、追ひてづることをして、かなしなげくことがたし。即ち[蘇我]日向ひむか臣を筑紫大宰帥つくしのおほみこともちのかみす。世人ひとあひかたりて曰はく、「是隠流しのびながしか」といふ。(孝徳紀大化五年三月)

 二例目は天皇客死後の九州北部の記事である。カササギの笠や、後述する火車という語と関係しそうである。三例目のシノビナガシについては、包み隠した流罪の意であるとする説がある。出世の形をとった左遷、つまり、本稿で述べている反転、転倒の義に相当する。そしてシノビという語は、忍者のことをいうシノビにも負っていよう。じっとこらえる、秘密にするという意のシノブという語は、忍・隠が常訓の字である。忍び隠れている邪鬼のような存在が具現したものである。蘇我日向という人物は、讒言する輩で性根があまのじゃくである。そして、筑紫大宰帥は九州北部の話で、間諜の盛んな新羅を意識した外国への窓口であり、倭国の諜報機関のうかみの拠点に当たる。そこはコクマルガラスやカササギの分布地でもある。外来語のような新設のポスト「筑紫大宰帥」は、「筑紫大宰つくしのおほみこともちのつかさ」(推古紀十七年四月)、「筑紫率つくしのかみ」(天智紀七年七月)ともある。率の字は、紀の頭八咫烏の鳴き声、イザワの意とされる感動詞イザに当てられている。いずれにせよ、オニ同様、大陸からの外来語をもとにして飛鳥時代に新しい言葉が生まれていることを示唆する。間諜活動をすると形容されるに値するほどに、カラスは知恵が発達していると思われていたのだろう(注11)
 「無名雉」(紀)、「鳴女」(記)はキジである。キジは、まっすぐに駆け飛ぶところから矢のイメージがあり、使者にふさわしいと連想されたとされている。アメワカヒコの説話の末尾で、「雉の頓使ひたつかひ」(記)、「反矢かへしやむべし」(紀)という諺は、この話によるものであるとそれぞれ述べられている。反転の話として総括されているのである。命令を受けて行ったのに行ったきりで、かえって、逆に命令に反して逆賊になってしまったことが一連の話の教訓である。矢が当たらなければみすみす相手に武器を供給していることになる。だから、射返してくることができる。本稿の冒頭にあげた五来2004.の指摘にあったアタとアダの関係は、同一の言葉ではなく、反転を示して生きた言葉になる。アダは空、徒、仇である。濁音化は悪い意味や侮蔑の意味をこめるときに起こることが多い(注12)。つまり、アタアタ烏の話の続きとしてアダな話が記されている。スパイは寝返って逆スパイ、二重スパイになることが間々ある。アメワカヒコに矢が当たったのが寝ている時であるのは、寝返るという言葉の含意を伝えたかったからに違いない。孫子・用間篇に「反間」とある。敵のスパイの逆利用である。
 矢は、アメワカヒコの胸に「あた」っている。当たる意味で、的中することを表す。アタアタの話であるし、コクマルガラスの正面図像は的であった。古語では、弓矢の的のことをイクハという。「くふ」弓を引くときに狙うべきなのは、的の真ん中だから、それをイクハと呼んだらしい。餅の的伝説が風土記に載る。

 田野たの こほり西南ひつじさるのかたにあり。此の野は広く大きく、土地つち沃腴えたり。開墾あらき便たより、此のところたぐふものなし。昔者むかし郡内くぬち百姓おほみたから、此の野に居りて、多く水田こなたを開きしに、糧に余りて、畝に宿とどめき。大きに奢り、已に富みて、もちひちていくはと為しき。時に、餅、白き鳥とりて、発ちて南に飛びき。当年そのとしほどに、百姓死に絶えて、水田を造らず、遂に荒れてたりき。それより以降このかた、水田に宜しからず。今、田野といふ。これ其のことのもとなり。(豊後風土記・国埼郡)
 風土記に曰はく、伊奈利いなりふは、秦中家はたのなかつへの忌寸いみき等が遠つおや伊侶具いろぐ秦公はたのきみ稲粱いねを積みて富みゆたけし。乃ち、餅をちていくはと為ししかば、白き鳥と化成りて飛び翔りて山の峯に居り、伊禰奈利いねなりひき。遂にやしろの名と為しき。其の苗裔すゑに至り、先のあやまちを悔いて、社の木をねこじて、家にゑてみ祭りき。今、其の木を殖ゑてきばさきはひを得、其の木を殖ゑて枯れば福あらず。(山城風土記逸文)

 この伝承は、もともとは、コクマルガラスのよく見られる九州の話として伝わったものであろう。山城風土記では、子孫が過ちを悔いて、稲荷社として祭ったとある(注13)。稲荷信仰に神の使いとされる狐は、隈にいる熊とは異なり、人間の生活圏にときおり現れる存在である。そのアンビバレントな存在から、超人的な力を持った鬼に類似したものととらえられるに至る。すなわち、狐のイメージは専女たくめ・たうめに近しい。狐にはタウメという訓み方がある。

専女・火車・婆

 語義の詳細は不明ながら「伊賀専女いがたうめ」という言葉がある。①狐の異名で、タウメだけで狐の意を表すこともある。イガは、稲の意の古語、ウカと同根、稲荷の祭神である宇賀御魂うがのみたまと関係するという。おそらくは、伊賀は古来より忍者に縁あるところとされていたのだろう。「野干きつね坂ノ伊賀専いがたうめ男祭をまつりニハ、鮑苦本あはびくぼヲ叩イテ舞ヒ、……」(新猿楽記・第一、本の妻〈老女〉)、「延久四年於伊勢斎宮寮前大和守成資三男藤原仲季射殺霊狐、〈号白専女シラタウメ〉」(山槐記・治承二年閏六月五日)などとある。②狐が人を騙すように、仲人口をきいて人を誑かす媒酌人のことをいう。「……「ふりはへ、さかしらめきて、心しらひのやうに、思はれ侍らんも、今更に、「伊賀たうめにや」と、つゝましくてなむ」と、聞ゆ」(源氏物語・東屋)とある。上の意と含み併せて、人を誑かす老練な鬼婆的存在をいったようである。
 人を誑かす狐を象徴とする媒酌人でありつつ、古来、忍者の郷として名高い伊賀の地名を冠している。となれば、それは、間諜、スパイのことを指している。それが老練な女であるとすると、鬼婆おにばばと呼ばれる存在になる。鬼婆は火車婆かしやばばともいう。火車婆は、遊郭の女性を取り仕切る遣り手婆をいう。身近にいるにもかかわらず遊女には一切情をかけず、地獄行きの仕事をしているためであろう。また、花車くわしや香車きやうしやともいう。将棋の駒の香車は、遣り手婆と同じヤリ(槍)である。ただし、コロコロと回転させる対象が、遊女のほうか客のほうかは定かではない。重箱読みならカクルマである。
 火車とはもともと、①仏語で、火炎をあげて燃えながら走る車のことである(注14)。悪事を働いた者は責め立てられ乗せられ、地獄へと運ばれるという。大智度論・第十四に、「去らむと欲ひ未だ王舎城の中にきて、地自然おのづから破裂し、火車来迎し、生きながら地獄に入る。(欲去未到王舍城中。地自然破裂火車来迎生入地獄。)」とある。地獄へと追いやる遣り手婆としての鬼婆の様子は、地獄草紙の第二段、函量所に、三つ目の総白髪姿で描かれている(注15)。②葬送の時、暴風を起して棺を吹きあげたり、屍を引き裂いたりする妖怪のこともいう。この意の火車も、人が死ぬ時、あの世へ旅立つ時に起こるものである。茅原定・茅窓漫録に、酉陽雑俎の記事を引きながら魍魎という獣のことを指すとしている(注16)
 ②の意については、葬儀のときに、にわかに風が起こって棺が吹き飛ぶ話が、天稚彦のもがりの箇所に見える。

 是の時に天国玉あまつくにたま、其のおらぶ声を聞きて、則ち天稚彦あめわかひこの已にかくれたることを知りて、乃ち疾風はやちつかはして、かばねげてあめに致さしむ。便ち喪屋もやを造りてもがりす。(神代紀第九段本文)

 下から上への風は、飄や飆と書いたつむじ風、巻き上げる旋風である。古語にツムジといい、頭頂にある旋毛と同根の語である。旋回とは回転しながら巻き上がるものである。転の字の本字は轉で、旁に通用している專と云とは、まわりめぐることである。云は雲の初文で、説文では「雲」の項に、「云は雲の回轉する形に象る」とある。入道雲の巻き上がって上昇していくさまを描いて上下逆さまにした形という。回転と反転がダブルになっている。
 ばばという言葉自体、元来が経験豊富な遣り手を指す。その意を焦点のように表すのは産婆の仕事である。柳田国男「産婆を意味する方言」によれば、前近代の産婆は、トリアゲババ、コトリババ、コナサセババなどと、各地でいろいろな呼び方がされている。そして、「其以外の一つの方言群は九州に在つて、是のみは東北との一致が無い。コズリババ(博多) コーヂーババ(筑後三瀦郡) コゼンボウ(佐賀地方)などの僅かの例を見ると、何とでも臆説は立てられるが、比較をして見ると疑の余地は少ない。即ち、コゼンボ、コゼンバ(肥前北高来郡) コゼンバ(同平戸辺) コゼウバ、コゼバンバ(同五島魚目) コウゾエバンバ(同三井楽) コゼババサン(長崎) コゾイババ(肥後球磨郡) コズヱババ、コゼンボ(鹿児島県) コズヱババ(宮崎県) コズイ(豊後日田郡)の諸例が示す如く、もとは子をスヱルという語の、色々に変化したものである。而うしてスヱルということは、「手に取りすゑる」即ち把持することで、粗末な語を使ふならば「生存の承認」であつたらうかと思ふ。」(410~411頁、漢字の旧字体は改めた)とする。九州地方でコズヱババは、子を人間の仲間に据える、ないし、添えるという意味を表すらしい。方言に九州にあって東北にないことを問うのは、方言集圏説による。コクマルガラスや防人などと同様、九州に特徴的な意味合いを示し述べるための語群であることを予感させる。
 他の言い方としてヒキアゲババとあるのも、この世に引き上げるという意味で、単に出産の介助をするという物理的なことにとどまらず、呪術的という言い方で表されている。前近代のお産は、現在の医学水準からはかけ離れており、死産の確率が非常に高かった。子供をこの世のものとするか、あの世のものとするか、それを決めるおそろしい存在を婆という言葉に込めた。したがって、婆は鬼でもある。すなわち、婆は原初から鬼婆であった。そして、子をこの世かあの世か、いずれかに分けることとは、コ(子)+クマル(分)という言葉で表されよう。コクマルガラスは産婆を象徴する名称である。
 産婆は、子どもを頭から引っ張り出す。足からの場合は逆子で危ない。古語では頭部全体をカシラと呼び、頭髪を含めて頸から上辺をカウベ、頭の前頂部、わけても乳児のひよめきのことをアタマと言った。和名抄に、「顖会 針灸経に云はく、顖会は一名に天窓といふ〈顖の音は信、字は亦、囱に作る。和名は阿太万あたま〉。楊氏漢語抄に云はく、䫜〈訓は上と同じ、音は於交反〉といふ。」とあり、おつむのことである。ひよひよと動いていることが大事である。全体が出てきたら産湯に浸からせる。出産の際は火事場のような忙しさでもある。アタアタと熱いから泣いてアタマが動いているのが確認される。それによってこの世に入れる。他方、あの世への送りに際しても、葬儀は打ちひしがれながら忙しい。湯灌をして体を清め、まわりの人が泣く。朝鮮半島では葬儀で泣く専門職がいる。ヤマトの文献に見られるのは、やはりアメワカヒコの殯の箇所である。

 きぎし哭女なきめとし……(記上)
 鷦鷯さざきを以て哭者なきめとし、……烏を以て宍人部ししひととし……(神代紀第九段本文・分注)

 鷦鷯も雉もすでに本稿で検討した鳥である。霊柩車の車輪はキーキーと軋むところから、「轜車きぐるま」(孝徳紀大化二年三月)と呼ばれる(注17)が、サザキ、キギシも軋んだような名前である。キは甲類である。言葉の体系がかなり見えてきた。

他のアタアタ

 他のアタアタ関連語を検討してみる。
 「あたり」とは、基準とする所から近い範囲、また、おおよその目安、目当てを指して漠然とそのへんのことをいう(注18)

 天離あまざかる ひな長道ながぢを 恋ひれば 明石あかしより 家のあたり見ゆ(万3608)
 春の野に あさるきぎしの 妻ひに おのあたりを 人に知れつつ(万1446)

 人はおおよその目安を辿って行って、目的とするところへ到達する。見当をつけていって推し量って生きている。忍者に使う忍という字は、シノブ・シノビ以外にオシとも訓む。最初からわかっていること、わかり切っていることは世界に少ない。よくわからないけれどわずかな手掛かりを頼りとして、その先の不分明なところまで敷衍していき、そうではないかと推測しながら進んで行く。軍事作戦においてその役割を担ったのが斥候である。鳥獣に対する狩りにおいても同じことをする。狩猟において、手負いの獣が逃げて行ったあとに血がしたたり落ちて跡が点々と残っていることがある。それを蹤血はかりという。どこへ逃げたか推し量ることができるからである。

 射ゆ鹿ししを つな川辺かはへの 和草にこぐさの 身のわかかへに さらはも(万3874)
 照射 〈蹤血附〉 続捜神記に云はく、聶支はをさなき時、家貧しく常に照射ともし、一つの白き鹿を見て之れを射てつ。明くるあしたに蹤血を尋ぬといふ。〈今案ふるに、俗に照射は土毛之ともし、蹤血は波加利はかり〉(和名抄)

 蹤血が獲物までのあいだをつないでいる。認識とは、本来を知ることで、失ったものを探し当ててつながりを回復させることをいう。
 また、「あたふ」は、賜予のことで、「上よりして与えるときに用いる。」(白川1995.69頁)のである。神武記に、「於是亦、高木大神之命以覚白之『天神御子、……』」とある文章は、坂根2011.が「(高倉下が)高木大神のお言葉によって、(天神御子に)教え申し上げることには、」(60頁)と解説するとおりである。上よりして与えられている状況を一致的、同包的に表している。その状況に一致する形で出現しているのが、上空を飛行するカラスである。ヤアタカラスにナビしてもらうことは、「高木大神之命以覚白之」を具現化することへと自己循環する。この循環論法の連続によって、口頭に発せられているヤマトコトバの確からしさは規定されていく。逐次的、随時的に、まるで辞書のように文が構成されて行っている。無文字文化に伝承された説話らしい特徴である(注19)
 さらに、「あたひ(値)」とは、物の価値に相等しいこと、「あた(適)ふ」の名詞形である(注20)。能は任によく堪え忍ぶこと、能手とは遣り手のことである。適は適宜、適当の義、相匹敵することをいい、正面からの敵対者をいう「あた(賊)」のことである。敵はまたカタキという。二つで一組を作るものの一方の意で、憎悪・怨恨の相手のことにも使われている。憎悪・怨恨は、相手が鬼が見え、自分の心にも鬼が巣くうようになる。鬼をやらう行事に、追儺ついながある。上述の火車②の意では、その魍魎くわしゃを撃退する役目を方相氏が担うとされている。周礼・夏官に、「方相氏。熊皮を蒙り、黄金の四つの目あり、玄衣と朱裳もて、戈を執り盾を揚げ、百隸を帥ひて時に儺し、以て室を索めて疫をることを掌る。(方相氏。掌熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隸而時儺、以索室敺。)」とある。本邦では、民間行事として節分の夜に豆まきをする。禁中の追儺の儀式は、桃の弓、葦の矢を使い悪鬼を追い遣る行事であった。各地に残る追儺の一例として、法隆寺に今でも残る追儺では、黒鬼、青鬼、赤鬼が斧、棒、剣を持ち、松明を振りかざして暴れまわった後、毘沙門天が法力で調伏する。最後に信者に厄除けの牛玉札ごおうふだが配られている。熊野三山の牛玉宝印のお札は、八咫烏の文様でよく知られる。この行事は、「悔過けくわ」の修二会後の結願の鬼追いの式である。過ちを悔いる話は、本稿ではすでに孝徳紀大化五年三月条、山城風土記逸文で紹介した。いろいろな事柄が、循環するかのようにめぐりめぐってそれぞれの言葉を相互自縛的に説明しているように感じられる(注21)
熊野速玉大社の牛王符(カラスの目は白く描く)

イザワ(イザクワ)

 頭八咫烏の鳴き声として、神武前紀戊午年十一月条の、兄磯城、弟磯城との交渉場面で、「天神あまつかみみこいましを召す。いざわ、率わ」と同じことをそれぞれに言っている。それに対して、兄磯城は鳴き声を悪いものと聞いて弓を弾いて矢を射てきた。反対に、弟磯城は、鳴き声を良いものと聞いて食器を用意して饗宴に招いている。同じ言葉(鳴き声)が二通りに解釈されている。

 兄磯城、忿いかりて曰はく、「天圧神あめおすのかみいましつと聞きて、慨憤ねたみつつある時に、奈何いか烏鳥からす若此かくしく鳴く」といひて、……
 弟磯城、惵然ぢて改容かしこまりて曰はく、「やつこ、天圧神至りますと聞きて、旦夕あしたゆうへかしこまる。きかな烏。若此かく鳴く」といひて、……

 「慨憤ねたみ」と「かしこまる」との違いである。ネタム(妬・嫉・嫌)は、「他人より劣る、不幸であるという競争的な意識があって、心にうらみなげくことをいう。」(白川1995.592頁)から、兄磯城は天圧神と競り合う気があったが負けているためにうらやみ、いまいましく思っている。オヅ(怖・懼・畏)は、「驚きおびえ、自ら委縮して動作しがたいことをいう。」(白川1995.182頁)から、弟磯城は天圧神を最初から恐ろしいと思っていて、その前で身動きが取れずにカチカチになっている。
 紀の原文に、「天神子召汝。怡奘過、怡奘過。過音倭。」とある。大系本日本書紀は、「イザは、人を勧誘する辞。ワは、間投詞。万葉三三四六に「見欲しきは雲居に見ゆるうるはしき十羽の松原、小子ども率和(いざわ)出で見む」と例がある。過は、集韻に戸果反という反切もあり、γwaの音と推定される。これとアクセントだけを異にする文字に「和」があり、呉音以前ではワと発音する。それによれば、過にもワの音があったと推定される。ただしこの巻は古写本に乏しいから、何かの誤写かと推測するとすれば、濄または㗻という字がある。濄は倭と同音、㗻は和と同音の字である。下文に特に「過音、倭」と注があるが、この注記の形式は一般の例に合わないものである。」(227頁)とする。また、新編全集本日本書紀には、「イザは勧誘の語。ワは感動の助詞。本来一人称代名詞ワで、我われを含めた「我等」に呼び掛ける用法であったのが、文末・語末に用いられ、感動・確認の意を表す助詞となったか。イザワの例は『万葉集』三三四六に「うるはしき十羽とばの松原童わらはども率和いざわ出で見む」がある。」、「『万象名義』に「過、古貨反」とあるから、音はクヮ。従ってイザクヮと訓まれ、烏の鳴声であるとの説もある。ただし神武紀の編者は率いざワ……の意味で鳴いたと理解させたかったので、ワの音注を施した。原資料の文字に「過」が用いられ、その古韻がワであることが忘れられた時代になっていたか。」(219頁)とある。新釈全訳本日本書紀では、「……「過」字をクヮと読ませないための指示だが、この注記の形式は異例。ワは「過」字の古音と推定されるというが(大系)、明証があげられない。『集解』は、「過」を「濄」にあらため、『広韻』をあげる。『広韻』によれば「濄」は小韻「倭」(反切は「烏禾切」。音はワ)と同音であり、「音は倭」がそのような『切韻』系の韻書にもとづいている可能性は十分にある。」(323頁)としている。
 イザについては、諸説のとおり、人を誘ったり、自分から何かしようとする際に発する語で、さあ、どれ、などの意味が第一義であろう。ただ、イザワがイザ+ワ(助詞)の連続した形に限って捉えられるとは言えない。新撰字鏡に、「専為 伊佐和いざわ」とあり、専為とは、ほしいままにすることをいう。荘子・山木篇に、「肯へて専為する無く、一は上り一は下り、和を以て量と為す。(無肯専為、一上一下、以和為量。)」とある。ホシキママという言葉は、タクメという言葉とセットで使われ、すでにあげた例に、「たくめ国政をほしきままにして、……」(武烈前紀仁賢十一年八月・皇極紀元年是歳)、「……詎か情のほしきままに、たくめ奉仕らむと言ふこと得む。……」(用明紀元年五月)とあった。両者は親和的な言葉であると言える。したがって、熟語イザワについても、一方的に、専一に、自分に都合のいい誘い掛けの声と言えよう。ヤアタカラスが、自分が専女たくめであること、遣り手婆であること、間諜であることを自供的に示唆していることになる(注22)
 イザを動詞化した形はイザナフである。率・誘を常訓の字とする。誘の字をイザナフと訓む例は上代には見られない。ただ、誘の正字は㕗で、説文に、「㕗 相いざなひ呼ぶなり、ムに从ひ、羑に从ふ」とある。紀では、誘の字は、ヲコツル(ワカツル)、アザムクと訓じている。新撰字鏡に、「サソフアサムク(詴の旁の上にノがつく字)、二字同、以酒反、上美、上古字、訸也、導也、引也、教也、進也」とあって、騙したり惑わしたりしてさそい、良くない方向へ誘導する意とされている。上手なセールストークに引っかかって悪徳商法の餌食に遭うようなケースに当たる。同じセールストークでも、受けた側にとっても利益につながり、互恵関係になる場合もあるだろうが、その場合は純粋な勧誘を表すイザ、イデなどといった掛け声になるのであろう。
 用字に「過」とある。過の音はあくまでもクワである。k音が入っている。ローレンツ1963.に、ニシコクマルガラスはお気に入りの雌を、巣を作ろうとするところへ誘おうとして、高く鋭い声で、ツィック、ツィック(注23)と呼びかけるとの観察記事が載る。その行動は多分に象徴的なものに過ぎず、そこがほんとうに巣を作るのに適しているかどうかは問題ではないという。騙し欺くような誘惑である。紀の編者が用字「過」を選択しているのは、コクマルガラスの誘いの声は、イザクワなのかもしれないと主張している可能性が高い。コクマルガラスのキャッ、キャッという鳴き声を醸しつつ、その鳴き声が騙しなのかもしれないということを、その書記においても「過」一字にこだわって過不足なく伝えようとしている。単にイザワと訓ませたいだけなら、紀の編者は過の字を用いる必要はなく、一般の形式と異なる訓注を施すこともしないであろう。
 くわという語は、養老令・考課令に、「功過くうくわ」、「過失くわしち」、令義解に、「公務廃闕をくわ」とあり、あやまち、失敗を表す。修二会の儀式で触れた「悔過けくわ」とは、仏教で懺悔する行事のことであった。また、通行手形のことを指すものとして、養老令・関市令、公式令に「過所くわしよ」、万葉集に「過所くわそ」(万3754)とあり、通過を表す。生まれた子がこの世にか、あの世にか「くまる(分)」ことをするとは、そのいずれかへの通行手形を発していることに当たる。産道は関所であった。紀に「怡奘過」と書いた過の用字は、その義にまでも自己言及している。あたかも筆があやまちを犯したようにしながらそれを見過ごしやり過ごして、真に迫った表現に努めようとしている。
 クワ音は、火車に出てきたくわと同じである。養老令・軍防令に、「凡そ兵士は、十人を一火いちくわ。」とあって、軍兵集団の最小単位をいい、野営の際に一つの火を囲んだものである。その統率者を火長くわちゃうという。防人歌の万葉4373~4375番歌左注に、「火長くわちゃう」として、今奉部いままつりべの与曽布よそふ大田部おほたべの荒耳あらみみ物部もののべの真嶋ましまの名がある。つまり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)を示唆して、小隊長を表している。防人は、10人単位で小隊を構成していた模様である。コクマルガラスの棲息する九州の話である。火が熱くてアタアタを表すことは言うまでもない。
 火を率いる小隊長は、養老令・職員令に「主殿寮しゆでんれう」として載る役割に相当する。殿守りの意で、トノモヅカサ、トノモリヅカサと訓んでいる。神武紀二年二月条の論功行賞記事は、ヤアタカラスの苗裔が葛野>かづのの主殿県主あがたぬしとし、地名の後に「主殿」と限定している不自然な記事である。火長という語は、また、後に検非違使けんびゐしに所属した看督長かどのをさ案主長あんじゆちやうの総称でもある。平安時代、看督長は、牢獄の看守を本来の職務としたが、のちには罪人追捕を主とするようになった。カドは看督の字音の音転とされている。つまり、カヅノノトノモリノアガタヌシラのカヅノとは、鹿角のことを示唆し、罪人を捕える刺又や首枷のような刑具を思わせる。拘束された囚人を入れて運ぶ牢獄も仏教思想にある。火車である。この世で悪行を犯した罪人を地獄へと導く火車の横に控えた看守役として、頭八咫烏の末裔は役職を得たということになる。防人に召集されることは、部領使ことりづかひにうまいことを言われて連れて行かれるのだが、実際には、地獄行きほどの苦痛と思われることであった。
 神武紀二年二月条に、「又頭八咫烏、亦入賞例。」とあった。神武紀で間者の性格は、「日臣命ひのおみのみこと」、改め、「道臣命みちのおみのみこと」に引き継がれており、二年二月条でも「道臣命みちのおみのみこと宅地いへどころたまひて、築坂邑つきさかのむらはべらしめたまひて、寵異ことにめぐみたまふ。」と最初に行賞されている。これらは、孫子・用間篇に、「故に三軍の事、間より親しきは莫く、賞は間より厚きは莫く、……(故三軍之事、莫親於間、賞莫厚於間、……)」とあるのに倣うものであろう。間諜の話として一貫している。
 紀の分注にイザワと読ませるように表記しつつ、兄磯城、弟磯城にもイザクワとも聞こえたものとして記したのだと考えられる。鳴き声がイザクワと烏流になっていることによって特別な意味合いが生まれている。兄磯城は、頭八咫烏がイザクワと鳴いたことを、イ(射)+サク(割)+ワ(輪)、すなわち、流鏑馬などで使われる鏑矢の的のような同心円と捉えたのだろう。彼がヤアタカラスの声を聞いた時、「吾為慨憤時」と敵愾心をいだいている。アタ(仇敵)のことを考えていた。自分の名、エシキ(エはヤ行のエ、キは乙類)とは、エ(役)+シキ(磯城)のことで、北部九州に築かれた大野城のように、環濠をめぐらせて防御する防人駐屯の城であると思っていたからである。そこへヤアタカラスが舞い込んだのだから、射かけることになって当然である。コクマルガラスを頭を正面にして見れば、中心が黒、その周りが白、さらにその周りが黒の模様になっており、矢の的と見立てられる。ヤアタカラス自身が、ほらほら的ですよ、と言っていると聞いたのである。
 兄磯城は、天神の子をわざわざ天圧神あめおすのかみと呼び、「圧、此云飫蒭」と訓注が付されている。その前段に、兄宇迦斯えうかし(兄猾)・弟宇迦斯おとうかし(弟猾)の話があり、オシ(圧・圧機・機・押機・押)が登場している。獣を捕獲するために圧死させてしまう猟具である。棒竿を格子状に組んで上に大きな石を載せたものや、大きな重い板状のものを支柱に立て掛け、下に餌を置いておき、熊などの獲物が餌を銜えてひくと支柱が倒れて重量物によって圧しつぶされる仕掛けである。奸計を道臣命に見破られた兄宇迦斯(兄猾)は、言い逃れができずに自らが作ったそれに入り、押しつぶされて滅んでいる。

 ……つかまつらむと欺陽いつはりて、大殿おほとのを作り、其の殿のうち押機おしを作りて待ちし時に、……「……殿を作り、其の内に押機を張りて待ち取らむとす。……」……「いが作り仕へ奉れる大殿の内に、おれ、先づ入りて、其のまさに仕へ奉らむとかたちを明かしまをせ」といひて、即ち横刀たち手上たかみを握り、矛ゆけ、矢して、追ひ入れし時に、乃ちおのが作れるおしに打たえて死にき。(神武記)
 「……皇師みいくさいきほひ望見おせるに、へてあたるまじきことをぢて、乃ちひそかに其のいくさかくし、かり新宮にひみやを作りて、殿おほとのの内におしき、みあへたてまつらむとまをすに因りて作難まちとらむとす。……」……乃ちおのれおしみて圧死おされしにき。(神武前紀戊午年八月)
左:圧機おし(木村孔恭、蔀関月・日本山海名産図会・「陸弩捕熊」の図、国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200021673/61?ln=jaをトリミング)、右:「棝斗」、別名「鼠弩おし」(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2569715/1/54をトリミング)
 防人が勤務したエシキ(役城)は、そのような殺傷能力のある防御装置を備えていない。ただ水城になっているだけである。うらやましくていまいましい。
 一方、弟磯城は、コクマルガラスの円い輪の模様を、車輪を表していると捉えた。すなわち、イザクワの音を、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)と聞いて、こしきのことと考えた。轂は、蒸し器のこしきと同根の語であり、いずれもコは乙類、キは甲類である。中心に穴が開いてスポークが放射し、周囲に輪がつく形になっている。語源は不明だが、その形は、蜘蛛の巣のように見える。蜘蛛の巣が張って丸く完成したことを、花が咲くことに譬えたのである。その譬え方は、記上の「木花このはな佐久夜比売さくやびめ」、神代紀第九段の「木花このはなの開耶姫さくやひめ」において行われており、「木の花の阿摩比能微あまひのみさむ」(記上)という不思議な語として記されている(注24)。蜘蛛の巣を持ち出しているのは、コクマルガラスの誘いの鳴き声によって巣へと導かれるからである。巧みに木の葉などを編みこんで作られている。
 弟磯城は、イ(蛛網)+サク(咲)+ワ(輪)→コシキ(甑)のことだと鳴いているつもりになり、柏の葉でお皿を作って甑で蒸しあげたお餅を並べ、一緒に御馳走を食べたという話に展開していっている。コクマルガラスから続く的の話である。的と餅とは、上代の説話に循環的に説明されている(注25)蜘蛛くも(モは甲類)の一種は、グルグルと回りながら巣を懸けていく。同音のくも(モは甲類)について、説文に「云は雲の回轉する形に象る」とある点が、火車の意の一つ、葬送の時の暴風と関係することについてはすでに見たとおりである。同音の言葉は同じ概念のもとに培われていると考えた、ないしは、そう志向していた。あるいは、そうこじつけることでヤマトコトバを体系として自得していたのである。
 弟磯城は、天神の子が来たと聞いておぢかしこまった。弟磯城(ト・キは乙類)は、オト(音、トは乙類)+シキ(磯城)なる名を負っている。防御方法が敵の襲来を音で知らせるだけであった。鳴子のようなものを周囲に廻らせているだけの警備であり、本気で攻められたらどうすることもできない。
 音をアラームとするであると自認する弟磯城は、攻め立てて来た敵を圧機おしで押しつぶして殺傷までする強力な警備とわたりあえるはずがないことを悟っている。今日でも都会のカラス対策に音を用いるものがあるが、一時的に逃げることはあっても根本的な対策にはつながらず、すぐに慣れてしまう。だから、弟磯城はヤアタカラスの鳴き声を聞いたとき、圧機が生贄用の獣を用意し、甑が餅を用意するものなのだと了解した。自らが生贄の獣扱いにされたらたまらないからである。「惵然改容」っている。と同時に神事のために葉盤ひらでを作って使者の烏を饗応している。畏まって行う厳粛な儀式の後、打ち上げの宴席が催される。その豊明節会とよのあかりのせちえと同じ作法である。柏の葉を用いたお皿を作り、神さまに餅をお供えし、そのあと降ろしてきて皆で宴会を開くのである。豊後風土記の餅を的にしたとの言い伝えと齟齬なく連動している。
 イザクワ、コシキ、餅、的は、それぞれ関連する一連の言葉群である。それらは稲荷社との関係もあって、その使いは人を誑かす狐、伊賀専女であった。これらのヤマトコトバの語義の連鎖を総括すれば、ヤアタカラスとは烏は烏でもコクマルガラスで、九州筑紫に関係が深い話であり、イザクワとは、イザ(率)+クワ(火)という意味合いの、防人を表す鳴き声で鳴いていたということになる。
 以上のように、記紀に伝わるヤアタカラスの話は、さまざまなヤマトコトバの義をひとまとめに説解したものなのである。換言すれば、言葉から創話してヤマトコトバの体系を簡潔な形に組み立てたものが、記紀の説話ということになる。内容としてだけなら、ウカミ(間諜、斥候)のことを指しているにすぎないことを、ヤアタカラス(八咫烏、頭八咫烏)と譬えることで、ヤマトコトバという言語の深奥へと誘ってくれている。ある言葉がわからないとき辞書を引くが、そこに記された説明もまたわからなければ、さらにまた引き直す。そのくり返しのような作業がひとつの説話のなかにほどこされている。上代の人にとっては、糸口さえ見出されれば、一つの説話の理解によって、出てくる多くの言葉が皆なるほどと納得できるのである。そういう仕掛けになっているから人から人へと伝えらえ続けることができたのであった(注26)。言葉で世界は構成されているのだから、言葉がわかれば世界が分かるのである。ここに、言=事とする言霊信仰の真髄がある。記紀の説話はヤマトコトバの辞書として構成され、世界を物語っているのであった。
(つづく)

八咫烏(頭八咫烏)について 其の一

2024年12月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
八咫烏問題の焦点

 記紀のなかで神武天皇(神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと・神日本磐余彦尊)は日向の高千穂を出発し、大和の橿原宮で即位する。その間の道中を東征説話という。竺紫(筑紫)、阿岐(安芸)、吉備、浪速(難波)へと順調に進むが、日神ひのかみの御子が日に向かって戦をしたためか前途を阻まれ、紀伊半島を南へ迂回する。そして、熊野においても危ない目に遭い、どちらへ行ったらいいのかわからなくなる。そのとき、高木神たかぎのかみの言い付け、ないし天照大神の夢のお告げにしたがって派遣された八咫烏やあたからす(頭八咫烏)が現われ、それを先導にした結果、進軍することができた。さらに、宇陀うだ(菟田)の土豪勢力の反抗にも八咫烏を派遣し、その計略を見破って討伐することができた。記紀において、八咫烏についての記事は、以下に示すものばかりである。

 是に、亦、高木大神たかぎのおほかみみことを以て、さとしてまをさく、「あまかみ御子みここれより奥つ方に便ち入りいでますことなかれ。あらぶる神、いと多し。今、あめより八咫烏やあたからすつかはさむ。かれ、其の八咫烏、引道みちびきてむ。其の立たむしりへより幸行いでますべし」とまをす。故、其のをしさとしのまにまに、其の八咫烏の後より幸行せば、……。故、しかくして、宇陀うだ兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしの二人有り。故、づ八咫烏を遣はし二人に問はしてはく、「今、天つ神御子幸行しぬ。なれつかまつらむや」といふ。是に、兄宇迦斯、鳴鏑なりかぶらを以て其の使つかひを待ち射返しき。故、其の鳴鏑の落ちしところは、訶夫羅かぶらさきふ。(神武記)
 時に夜いめみらく、天照大神あまてらすおほみかみ天皇すめらみことをしへまつりてのたまはく、「われ今し頭八咫烏やあたからすを遣さむ。以て郷導者くにのみちびきとしたまへ」とのたまふ。はたして頭八咫烏有りて、おほぞらよりくだる。天皇ののたまはく、「此の烏の来ること、おのづからにき夢にかなへり。大きなるかな、さかりなるかな。我が皇祖みおや天照大神、以て基業あまつひつぎを助け成さむとおもほせるか」とのたまふ。是の時に、大伴氏おほとものうぢ遠祖とほつおや日臣命ひのおみのみこと大来目おほくめひきゐて、元戎おほつはもの督将いくさのきみとして、山をみちをわきて、乃ち烏のむかひのままに、仰ぎて追ふ。(神武前紀戊午年六月)
 十有一年しもつきの癸亥の朔にして己巳に、皇師みいくさおほきにこぞりて、磯城彦しきひこめむとす。先づ使者つかひつかはして兄磯城えしきさしむ。兄磯城、おほみことけず。さらに、頭八咫烏を遣してす。時に烏、其のいほりに到りて鳴きてはく、「天神あまつかみみこいましを召す。いざわ、率わ」といふ。過のこゑ兄磯城忿いかりて曰はく、「天圧神あめおすのかみいましつと聞きて、慨憤ねたみつつある時に、奈何いかに烏鳥からす若此かくしく鳴く」といひて、圧、此には飫蒭をすと云ふ。乃ち弓をひきまかなひて射る。烏即ち避去たちさりぬ。つぎ弟磯城おとしきいへに到りて鳴きて曰はく、「天神の子、汝を召す。率わ、率わ」といふ。時に弟磯城、惵然ぢて改容かしこまりて曰はく、「やつこ、天圧神至りますと聞きて、旦夕あしたゆうへかしこまる。きかな烏。若此かく鳴く」といひて、即ち葉盤ひらで八枚やつして、くらひものを盛りてふ。葉盤、此には毗羅耐ひらでと云ふ。因りて烏のままに、詣到まういたりてまをしてまをさく、「やつここのかみ、兄磯城、天神の子でますとうけたまはりて、すなは八十梟帥やそたけるあつめて、兵甲つはものそなへて、とも決戦たたかはむとす。すみやかたばかりたまふべし」とまをす。(神武前紀戊午年十一月)
 又、頭八咫烏、亦たまひものつらる。其の苗裔のちは、即ち葛野かづのの主殿とのもりの県主あがたぬし是なり。(神武紀二年二月)

 八咫烏についての研究(注1)としては、舞台となる熊野の信仰との関係から説かれることも多い。議論の導入として、五来2004.を引用する。

 八咫烏のあたは周の尺度で八寸の長さをさしたものらしいので、六尺に余る大きな烏という意味と、八つの頭をもった烏という二つの解釈がおこなわれた。また日本の原始時代にトーテミズムがあったとして、熊野に大烏をトーテムとする部族がおったと解する説もある。神魂命かむみむすびのみことの孫、鴨健角身命かものたけつぬみのみことは八咫烏で、鴨族はその子孫だとするのである。しかしいずれも神話的で歴史事実とはかんがえられない。ただ「やあた」を「あた」をつよめた語とすれば、「あた」は「いやらしい」「にくにくしい」「いまわしい」などの古語だから、きわめて不吉な烏ということで、風葬にともなう烏にふさわしい名称になる。また「あた」は「あだ」とおなじで、あたし野(化野)、あたしが原(安達原)、あたし身(徒身)、あたし世(徒世)など「むなしい」「はかない」意であるから、死に関係ある烏ということになろう。すなわち神武天皇東征伝説から解放されて八咫烏をかんがえると、隠国の熊野にふさわしい「死者の国の烏」ということになる。(56~57頁)

 新撰姓氏録は、鴨県主かものあがたぬし(賀茂県主)が八咫烏の子孫であるとする。そこから、氏族伝承のトーテム説話であるという説が生まれるが、上にあるとおり歴史事実とは無縁であろう。話として成立している記紀の叙述について、何が言いたいのかを探ることのみが「読む」行為の本来の姿勢である。当然ながら、この説話を動物寓話とみて、鳥類のカラスが人間の道先案内人になったと考えることはできない。上の引用に、「あた」と「あだ」とが関わるのではないかとの指摘がある(注2)が、音の清濁を加味した検討が行われなければならない。。そもそもの捉え方として、中世に盛んとなった熊野信仰は時代が隔たっており、記紀万葉と直接の関係はない。ヤアタカラスは記紀に語られたのち、かなり経ってから熊野信仰にとり入れられたと考えるのが妥当である。
 ここでは熊野信仰のなかでのヤアタカラスではなく、あくまでも神武天皇東征説話にまつわるヤアタカラスについて考えていく。飛鳥時代の人々が想念したヤアタカラスとは何であったか、それが本稿のテーマである。それを知るためには、書記された「八咫烏(頭八咫烏)」という特殊極まりない表現に収斂された過程を遡ってゆくことが求められる。記紀の記事では、ヤアタカラスは軍の先導役、また、敵族への使者の役割を果たしている。
 日神の末裔が神武天皇ゆえ、烏は日神の使いであるとする信仰から生れた表現であるとする説がある。はやくは源順・和名抄に、「陽烏 歴天記に云はく、日の中に三足の烏有りて赤色なりといふ。〈今案ふるに文選に之れを陽烏と謂ひ、日本紀に之れを頭八咫烏なりと謂ひ、田氏私記に夜太加良須やたからすと云ふ〉」とある。日の中に足が三本の烏がいるとあるのは中国の説話による。山海経・大荒東経、論衡・説日以下、謂われがある(注3)。本邦でも、法隆寺の玉虫厨子の須弥山図の日像や、サッカー協会のシンボルマークに三足烏は描かれている。しかし、記紀において、ヤアタカラスの足が三本であったとする記述はない。源順は、和漢の伝承を混同して解釈し、勇み足をおかしたのであろう。わざわざ「八咫烏」、「頭八咫烏」と記してある根拠を考えなければならない。

アタ

 あたは親指と中指とをひろげた幅のことである。説文に、「尺 ……周の制に、寸・尺・咫・尋・常・仭の諸度量、皆人の体を以て法と為す。凡そ尺の属、皆尺に从ふ」、「咫 中婦人の手の長さ八寸、之れを咫と謂ふ。周の尺なり。尺に从ひ只声」とある。「八咫烏」とは長さを表した表現である。紀に「頭八咫烏」と書いてあるのは、頭が大きかったことを示すものとも、寸法を頭の大きさで測ったからとも言われている。しかし、鳥の大きさは、ふつう、頭から尾までの長さや、翼を広げたときの幅で測る。ずんぐりむっくりや八頭身美人を登場させなければならない理由は見当たらないから、頭と冠して書いた理由は他に求めなければならない。
 紀でわざわざ頭という字を冠しているのは、第一に、頭部に注目すべき特徴があるという指示語の意味合いを含めたいから、第二に、アタマ(頭)+ヤ(八)+アタ(咫)+カラス(烏)と記すことによって、アタアタと音が重なることに注目させたいからであろう。
 アタという音で表されるものには、まず、熱いことがあげられる。神武紀二年条の論功行賞の記事の最後に、頭八咫烏の末裔が「葛野かづのの主殿とのもりの県主あがたぬし」であると記されている。古代、山城国の葛野県かづののあがたは広大で、葛野、愛宕の諸郡を含んだものと考えられている。「葛野県主部」とあるなら地方領主になるが、わざわざ間に「主殿とのもり」と挿入され、役割が限定されている。養老令・職員令に、「主殿寮しゆでんれう 頭一人。供御くご輿輦よれん蓋笠かいりふ繖扇さんせん帷帳ゆいちやう湯沐たうもくのこと、殿庭でんぢやう栖掃さいさうせむこと、及び燈燭とうそく松柴しようし炭燎たんれう等の事を掌る。」などとある。殿舎、また、行幸の際の施設の維持管理を担った。火を扱ったから熱かったものとみられる。京都の愛宕神社は、火伏せ、防火に霊験があると知られる。「火迺要慎ひのようじん」と書かれた火伏札は、台所、厨房、茶室などに貼られる。また、愛宕の三つ参りという風習があり、数え年の三歳までに参拝すると一生火事に遭わないとされていた。ヤアタカラスも熱いものに関連するのであろう。その証拠に、語源はどうあれ、カラス(烏)は、カラス(枯、涸)と関連する語と思念される(注4)。火で熱すれば枯らすことができる。カラスは、烏の行水という言葉どおり、あまり水を好まないように見え、また、乾燥したところを好んでか樹上に巣を作る。自ら、身をカラカラにし向ける傾きがあるように見える。
左:おくどさん「火迺要慎」お守り(東京・愛宕神社で正月に配られる。唐辛子の欠けた部分は筆者が食した)、右:太郎坊社(同神社内末社、修験道の行者の上座の者の名で、猿田彦神の化身(本地、化身がどちらなのかは説により異なる))
 和名抄には、「烏 唐韻に云はく、烏〈哀都反、加良須からす〉は孝鳥なりといふ。爾雅に云はく、すべて黒にして反哺する者は之れを烏〈哺の音は簿故反、食は口に在るなり〉と謂ふといふ。兼名苑に云はく、一名に鵶〈音は䃁、字は亦、鴉に作る、広韻に見ゆ〉といふ。」とある。この「烏」はハシボソガラスのこととされている。中国では、カラスは生まれると母親鳥に哺育され、成長すると逆に母親鳥を哺育するものと考えられていた。それを反哺という。したがって、慈孝な鳥ということになっている。寺島良安・和漢三才図会では、「凡そ烏の類に四種有り。慈烏からす〈小さくして純黒、小さき觜の反哺する者〉、鴉烏はしぶと〈慈烏に似て大きく、觜・腹の下の白くして反哺せざるもの〉、燕烏ひぜんがらす〈鴉烏に似て大きく白き項の者〉、山烏やまがらす〈鴉烏に似て小さく、赤き觜にして穴居する者〉。」と分類している。ヤアタカラスはこのいずれかが当てられたものではないか。
射垛あづちの的(寺島良安・和漢三才図会、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569715/30をトリミング)
 ヤアタカラスと言って、アタが八回ほども重ねる点については、何かが当たることも関係しよう。的に命中させること、正鵠を射ることである。ヤアタカラスは、エウカシ(兄宇迦斯、兄磯城)に射かけられている。矢の的の模様は、黒と白の同心円状になった霞的がよく知られている。そんなカラスといえば、和漢三才図会に「燕烏」と記されるコクマルガラスが思い浮かぶ。「案ずるに、燕は乃ち国の名なり〈燕雀の燕に非ざるなり〉。九州肥前に多く之れ有り。故に肥前烏と称す。」と解されている。大陸に広く分布し、列島には多くは九州北部に冬鳥として、ないし、迷鳥として飛来する。体長は33㎝ほどで、ハシボソガラス、ハシブトガラス、ミヤマガラスの50㎝内外と比べると小さく、ハトほどの大きさである。ふつうのカラスの小ぶりなもの、雌雄に譬えるとカラスの雌に相当するとも捉えられる。和漢三才図会の大きさの記述は誤りらしい。コクマルガラスには淡色型と暗色型があるが、白黒がはっきりしている個体を見ると、額から顔の前面、喉から胸までは黒く、後頭から首側、腹にかけては白く、背や尾のほうになると再び黒くなっている。つまり、頭のほうから見れば、外側から黒、白、黒の三重丸になっている。的の印に見え、黒丸烏と記されることもある。爾雅・釈鳥に「燕は白脰烏こくまるがらす」、註に「小爾雅に云はく、白きうなにしてむらがり飛ぶは之れを燕烏こくまるがらすと謂ふといふ」とある。黒丸烏をコクマルガラスと訓むのは重箱読みである。コクマルガラスと古くからヤマトコトバに呼ばれていたとすれば、コクマルは、コ(子)+クマル(分)の意味として名づけられた可能性がある。後述する。
左:コクマルガラス(ウィキスピーシーズhttps://species.wikimedia.org/w/index.php?title=Coloeus_dauuricus&uselang=ja、christoph_moning様画像をトリミング)、右:カササギ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/カササギ画像を左右反転)
 コクマルガラスは、止まっている限りにおいて、体の模様はカササギ(鵲)とよく似る。カササギは鵲烏とも書く。カササギが七夕の夜に列をなして天の川に架かって橋となり、牽牛と織姫とが出会っているとした旨の詩が懐風藻に見える。漢籍に依拠している。日本では現在、佐賀平野にのみ生息し、天然記念物に指定されている。歴史的にも、九州北部に在来していたか、いたとしても極めて数が少なかったようである。豊臣秀吉の朝鮮出兵の折に移入、定着したとする説もある。江戸期には、カチガラス、唐ガラス、高麗ガラス、朝鮮ガラス、肥後ガラスとも呼ばれていた。古代の文献にはわずかに散見される。

 其[倭]の地に牛・馬・虎・豹・羊・かささぎ無し。(魏志・倭人伝)
 難波なにはの吉師きし磐金いはかね、新羅より至りて、鵲二隻ふたつを献る。乃ち難波杜なにはのもりはしむ。因りて枝にすくひてこうめり。(推古紀六年四月)
 新羅王しらきのこにきし献物たてまつるもの、馬二匹ふたぎ・犬三頭みつ・鸚鵡二隻ふたつ・鵲二隻、また種々くさぐさの物あり。(天武紀十四年五月)
 此の[船引]山に鵲住めり。また韓国からくにの烏といふ。枯木の穴に栖み、春時はる見えて、夏は見えず。(播磨風土記・讃容郡)

 和漢三才図会にコクマルガラスは肥前烏であるから、この両者は兄弟のような間柄と捉えられていたのではないか。カササギの名の由来については、朝鮮語との関連から解かれることが多いが、和名抄に、「鵲 本草に云はく、鵲〈且略反、加佐々岐かささぎ〉は、飛駮、馬泥は鵲の脳の名なりといふ。」、また、新撰字鏡に、「嘖 側伯反、至也、呼也、烏鳴く、又加左々支かささぎ鳴く」とある。紀で、新羅から贈られたものと記されており、ヤマト朝廷の人にとっては、新羅や九州北部と関連が深い鳥であると考えられたと目される。
 カササギとよく似た名として、ミソサザイの古語、サザキ(鷦鷯、雀)がある。新撰字鏡に「鷯 聊音、鷦、加也久支かやくき、又左々支さざき」、和名抄に「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼の二音、佐々岐さざき〉は小鳥なり、蒿萊の間に生れ、藩籬のもとに長ずといふ。」とある。このサザキとカササギの共通点は、巣の形にある。一般的に鳥の巣はお椀形をしていると理解されているのに対し、球状に作っている。サザキは巣作りのプロとされ、タクミドリと呼ばれる。和名抄に「巧婦 兼名苑注に云はく、巧婦〈太久美止利たくみどり〉は好く葦皮を割きて中の虫を食ふ、故に亦、蘆虎と名づくといふ。」とある。タクミ(巧、匠、工)なる語は、第一義的に工具を使った手仕事の巧みさを表すものと考えられよう。そして、カササギも樹上にたくさんの枝を重ね、その体が見えなくなるほどの大きな球状の巣を作る。カササギはカサザキから音の清濁に転倒が起こったものかもしれない。カササギの巣は、実はなかにもうひとつお椀形の巣が入っていて、外側に見えるのは巣を隠す柵である。コクマルガラスの巣も、樹上に小枝などを組み合わせてボール状の巣を作る。巣作りが巧みだと認められる。

タクメ(専)とクマ(熊・隈)

 タクミに似た音の言葉にタクメ(専女、メは甲類)がある。音便化してタウメともいう。和名抄に「専 日本紀私記に云はく、専領〈多宇女乎佐女たうめをさめ、今案ふるに俗に老女を呼びて専と為、故に負に継ぐのみ〉といふ。」とある。
 また、副詞のモハラ、今日、もっぱらという意味のタクメ・タウメ(専)という古語は、日本書紀の傍訓ばかりにしばしば見られる。

 此[紀9~11番歌謡]皆、密旨しのびのみことを承けて歌ふ。へてみづかたくめなるにあらず。(神武前紀戊午年十月)
 ……「……故、いましたうめ東国あづまのくにをさめよ」とのたまふ。(景行紀五十六年八月)
 大臣おほおみ平群真鳥臣へぐりのまとりのおみたくめ国政くにのまつりごとほしきままにして、日本やまときみとあらむとおもふ。(武烈前紀仁賢十一年八月)
 「……たくめ賞罰たまひものつみおこなへ。しきりまをすことにわづらひそ」とのたまふ。(継体紀二十一年八月)
 つつしみてたくめ皇后きさきの為に、伊甚いじみの屯倉みやけたてまつりて、闌入之罪みだれがはしくまゐれるつみあがなはむとまをす。(安閑紀元年四月)
 「……あにたくめ蘇我臣そがのおみ仏法ほとけのみのりおこし行ふにれるにあらずや」とまをす。(敏達紀十四年三月)
 「……たれこころほしきままに、たくめ奉仕つかへまつらむと言ふこと得む。……」といふ。(用明紀元年五月)
 「蘇我臣、たくめ国政を擅にして、さは行無礼ゐやなきわざす。……」といふ。(皇極紀元年是歳)
 「入鹿いるか極甚はなは愚痴おろかにして、たくめ行暴悪あしきわざす。身命いのち、亦あやふからずや」といふ。(皇極紀二年十一月)
 「……廼者このごろ、我がおほみたからの貧しくともしきこと、たくめはかつくるに由れり。……」とのたまふ。(孝徳紀大化二年三月)

 時代別国語大辞典に、「副詞としての意味と、老女を意味するタウメ(土左日記などに見える)との関係はわからない。」(416頁)と解釈を諦めている。二十巻本和名抄では、「……今案ふるに、専は訓〈毛波良もはら〉、専は一の義なり、太宇女たうめ毛波良もはらの古語なり……とかんがふ。」としている。新編全集本日本書紀に、「『和名抄』に……タウメはモハラの古語というが未詳。また「老女たうめ」と「負」(=刀自とじ)との説明も不審。」(478頁)とあり、白川1995.は、モハラの「「も」には深くうちに蔵する意があり、「はら」は「ひら」「はる」と同源の語で、おしなべての意を持つ語であろう。」(756頁)とする。「…… おしなべて 吾こそ居れ ……」(万1)とあるように、威圧的なニュアンスがある。これをなぜタクメと訓んだのか、上代人の理解を探らなければならない。
 紀の例を見ると、ほとんどのたくめ・たうめは口語調の文章で用いられている。武烈前紀、安閑紀の例も、「と欲ふ」、「と請す」と、会話を想起する文章にある。神武前紀の例は、歌についての解説だから、口に出して言う言葉が引きずられて出ているものとも考えられる。なお、「天皇すめらみこと専使たくめつかひつかはして、髪長媛かみながひめさしむ」(応神紀十三年三月)とある「専使たくめつかひ」は、「そのことだけのために遣わされる使者。」(大系本日本書紀(二)201頁)のこととされているが、文書を持って行っただけの子供の使いではない。無文字時代だから暗記して行き、言葉巧みに交渉したネゴシエーターのことを言っている。
 政治的で口語的な事柄といえば、天皇のみことのりがあげられる。臣下は天皇の御前にあって控えている。束帯を身にまとい、天皇のお言葉、ミコトをうかがう。その際、しゃくという板片を手に捧げ持って恭しくする。笏の音はコツであるが、骨と通じるというので嫌われて、その長さがおよそ一尺(約30㎝)だからシャクと言うとされる。もともとは中国に発祥し、官人が備忘のための書きつけをした板であった。6世紀頃伝来し、朝廷の公事の式次第を、備忘のために笏紙しゃくがみ・しゃくしという紙に書いて笏の裏に貼りつけ、カンニングペーパーにしていた。やがて、儀式や神事に際して威儀を正すために持つようになった。恭しく手を組んでいる。タ(手)+クメ(組)である。問題は「たくめ(メは甲類)」である。上代、四段活用の動詞「組む」は、已然形ならメは乙類、命令形なら甲類である。儀式なのだから手を組め! と命令している意に当たる。式典で君が代を斉唱する場合に、起立することが強制されるようにである。
笏を持つ姿(巨萬福信像、府中郷土の森博物館展示品)
 タクメという訓を当てる専の字は、説文に、「專 六寸の簿なり、寸に从ひ叀声、一に專は紡專なりと曰ふ」とある。段注には二尺六寸の笏をいうとするが、本当に六寸、約18cmで、一般の笏より小さいものをいったのではないか。簿は、文字を書く薄い竹の札である。それを綴じたものが簡、すなわち竹簡や木簡である。簿も笏も手版である。説文の咫の説明に、「中婦人手長八寸謂之咫」とあった。男性よりも小さめである。つまり、尺よりも専のほうが短い。また、シャクフ(杓)という近世以降に文献に見られる語は、手やひしゃくで液体や浮遊物を汲み取ることを言うが、ちょろっとひっかけるように、不完全にスクフ(掬)ことを指す。すなわち、専という字で表される意は、笏と同じく手控えのメモ帳として用いられながら、人には持っていることさえ気づかれない用途に用いられた本当の意味でのカンニングペーパーということになる。
 専の字の上部の叀は、まるく平らな素焼きの紡錘のおもりをつり下げたさまを描いた象形である。鏄という字は、金属製の紡錘、ツムのことで、ひとりでに回っていく。転(轉)の字は、車軸をつけて回ることを表す。下部の寸は手の形で、紡錘のおもりに手を添えて回転させ、糸をひとすじにまとめて紡ぐことを表す。また、一説に、糸巻きの形をした素焼きの玩具のことともいう。紡錘のミニチュアで、幼子の手のなかに持たせて喜ばせた。これも手組めである。
 回転を表す擬音語は、カラカラ鳴る、クルクル回る、コロコロ転がるなどと使われる。それぞれ母音と子音の交替した形である。また、古代人の農耕にまつわる観念から、カラス(枯)とコロス(殺、コ・ロは乙類)は密着していた語であると考えられている(注5)。そして、カラス(烏)の別名をコロク(コ・ロは乙類)という。

 からすとふ 大をそどりの 真実まさでにも まさぬ君を ころくとそ鳴く(万3521)

 カラスというたいへんな慌てものの鳥が、本当にいらっしゃらないあなただのに、コロクとこそ鳴くよ、という歌である。コロクは、自分のほうから転がるようにやってくるの意で、来訪を得ないことをなじる歌になっている。紀には「専用威命ころたちぬ」(雄略紀九年五月)という古訓がある。コロ(自、コ・ロは乙類)+タツ(立)の意で、自分勝手に振舞うこと、権勢の専横をいう。以上から考えると、八咫烏(頭八咫烏)という存在は、「専使たくめつかひ」(応神紀十三年三月)を象徴した形容に由来して想定されていると理解できる。
 カラスを絵として描くと最後に目を入れたくなるが、カラスは全身が黒いから全体が真っ黒になって絵にならない。だから、烏という象形文字は目のところを反転させて描かない。「大をそ」(万3521)して慌てて目を描いたら、何だかわからなくなる。コクマルガラスの場合は、項が白いから頭部が黒い目になっている。コクマルガラスは、烏という象形においては描かれない目が描かれてそれが頭になっている。ヤアタカラスがそのことを言いたいなら、「頭八咫烏」(紀)と記すことは知恵のある書き方である。土台ごとの反転、転倒を伴って表している。
 話は、熊野での出来事である。神武天皇の一行が熊野で遭難したときの記事に次のようにある。

 かれ神倭伊波礼毘古命かむやまといはれびこのみこと其地そこよりめぐいでまして、熊野の村に到りましし時、大熊おほくまかみ、出で入りて即ち失せぬ。しかくして、神倭伊波礼毘古命、儵忽たちまちにをえまし、また御軍みいくさ、皆をえてしき(注6)。(神武記)

 毒気に当てられて正気を失ったというのである。和名抄に、「熊 陸詞切韵に云はく、熊〈音は雄、久万くま〉は獣の羆に似て小さきなりといふ。」とある。本州の熊は、北海道にいる全身が黒褐色のひぐまよりもひとまわり小さく、一般にツキノワグマと呼ばれる。胸のところに三日月形の白い模様が入っている。カラーデザインは白黒ばかりで、コクマルガラスとオーバーラップしている。隈、阿、曲などと書くクマは、山や川、道などが入り込んだり、曲がりくねったりした先で見えにくいところを指す。籠ったり、隠れたりすることができ、神隠れに隠れ住む聖所となり、畏怖の念を起こさせるほど暗かったり、黒かったりする。そんな熊が下りてくるところは、森蔭になった山の隈の部分である(注7)
 熊野とはまさしくそのような場所であった。そして、神武天皇の一行は、ヲエ、すなわち、くたびれ果てていた。疲れたとき、目の下に三日月形の隈ができることがある。目の下が黒ずんでくる。なのに、ツキノワグマは、クマと呼ばれながらその模様は逆に白い。白黒反転、転倒している。むろん、隈が白いからといってシロクマとは呼ばない。クマという語に自己撞着が起こっている。あえていえば、コロクマとでも形容するのだろうか。
左:鳥居清長(1752~1815)「鉞をかつぎ熊に乗る金太郎」(江戸時代、18世紀、東博展示品)、右:クマザサ

間諜うかみ

 その熊野の地で、神武天皇の一行は、その「大熊」に象徴されるような賊に遭遇している。その際に活躍するのが、先導役兼交渉役のヤアタカラスである。敵が白黒反転しているクマだから、こちらも白黒反転していてなおかつその義において真をついているコクマルガラスで対抗したというわけである。敵と交渉するそのようなやりとりとしては、記紀には先例がある。高天原側の神々は、葦原中国を平定するために、天菩比神あめのほひのかみ天穂日命あまのほひのみこと)を派遣するが大国主神おほくにぬしのかみ大己貴神おほあなむちのかみ)に付いてしまう。そこで、アメワカヒコ(天若日子、天稚彦)を派遣するが、これもシタデルヒメ(下照比売、下照姫)を娶って葦原中国を専有しようとしていた。真意をただそうときぎし鳴女なきめ無名雉ななしきぎし)を遣わしたところ、アメワカヒコ側は、天佐具売あめのさぐめ天探女あまのさぐめ)が様子を見聞きし、射殺すべきであると上申している。この、鳴女と天佐具売のやりとりが、軍同士の衝突の前にある情報戦にあたる。

 故、しかくして、天照大御神あまてらすおほみかみ高御産巣日神たかみむすひのかみ、亦、もろもろ神等かみたちを問はく、「天若日子あめわかひこ、久しく復奏かへりことまをさず。又、いづれの神をつかはしてか天若日子がひさしく留まれる所由ゆゑを問はむ」ととふ。是に、諸の神と思金神おもひかねのかみと、答へてまをさく、「きぎし、名は鳴女なきめを遣すべし」とまをす時に、のりたまはく、「なむちきて、天若日子を問はむかたちは、『汝を葦原中国あしはらのなかつくに使つかはせる所以ゆゑは、其の国の荒振あらぶ神等かみどもことやはせとぞ。なにとかも八年やとせに至るまで復奏さぬ』ととへ」とのりたまふ。故、爾くして、鳴女、あめよりくだり到りて、天若日子がかど湯津ゆつかつらうへて、委曲つばらつばら(注8)に天つ神の詔命みことのりごと言ひき。爾くして、天佐具女あめのさぐめ、此の鳥のことを聞きて、天若日子に語りて言はく、「此の鳥は、其の鳴くおといとし。故、射殺すべし」と云ひ進むるに、即ち天若日子、天つ神のたまへるあめのはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉を射殺しき。……天若日子が朝床あさどこねたる高胸坂たかむなさかあたりて死にき 此、還矢かへりやもと。亦、其のきぎしかへらず。故、今に、ことわざに「雉の頓使ひたつかひ」と曰ふもとは是ぞ。(記上)
 是の時に高皇産霊尊たかみむすひのみこと、其のひさひさかへりことまをしまうこざるをあやしびて、乃ち無名雉ななしきぎしを遣し伺はしめたまふ。其の雉、飛びくだり、天稚彦あめわかひこ門前かどさきてる 植、此には多底屡たてると云ふ。湯津ゆつ杜木かつらすゑり。杜木、此には可豆邏かつらと云ふ。時に天探女 天探女、此には阿麻能左愚謎あまのさぐめと云ふ。見て、天稚彦にかたりてはく、「あやしき鳥きたり、かつらの杪に居り」といふ。……其の矢くだりて、則ち天稚彦が胸上たかむなさかちぬ。時に天稚彦、新嘗にひなへして休臥いねふせる時なり。矢にあたりてたちどころみまかる。此、世人よのひと所謂いはゆる反矢かへしやむべし」といふことのもとなり。(神代紀第九段本文)

 天孫降臨に先立って葦原中国を平定させるために、高天原から二人目として派遣されたのがアメワカヒコである。前人と同様、復命することなく、シタデルヒメを娶って寝返ってしまった。そして、天神から言伝を携えて遣わされた鳴女という名の雉を、下賜されていた弓矢を使って射殺した。矢が雉の胸を突き通って天上に達したため、逆につき返されて朝寝している彼の胸に当たって命を落としたというのである。
 「雉、名鳴女」(「無名雉」)と「天佐具売」(「天探女」)の情報戦において、記では、天佐具女は「此鳥[鳴女]者其鳴音甚悪」、紀では、天探女は無名雉を「奇鳥」といってアメワカヒコに射殺すようにと入れ知恵をしている。大将、ないし軍隊が進むよりも先に探るのは、間諜、斥候、隠密、すなわち、スパイである。サグメのメは甲類で、女スパイを表しているらしい。間諜は女性扱いされている。説文の、「咫 中婦人手長八寸謂之咫」が思い起こされる。紀ではウカミ、ウカミヒトと訓み、窺い見る意である。

 ……新羅の間諜うかみひと迦摩多かまた対馬つしまに到れり。則ちとらへてたてまつる。上野かみつけののくにに流す。(推古紀九年九月)
 其[改新之詔]のつぎのたまはく、初めて京師みやこをさめ、畿内国うちつくにみこともち郡司こほりのみやつこ関塞せきそこ斥候うかみ防人さきもり駅馬はゆま伝馬つたはりうまを置き、また鈴契すずしるしを造り、山河を定めよ。(孝徳紀大化二年正月)
 近江京あふみのみやこより倭京やまとのみやこに至るまでに、処処ところどころうかみを置けり。(天武紀元年五月是月)

 白川1995.に、「うかみ〔候〕 敵情をさぐること、またその人をいう。「うか」は「うかがふ」「うかねらふ」の「うか」。「穿く」「穿うかつ」と同根の語で、ものの内部を意味する。「うかみる」という動詞もあった。ミは甲類。……こうこう声。矦が候の初文。……その字義は矢を以て悪邪をはらうこと、すなわち候禳こうじょうを任務とするものである。もとは辺境にあって、そのような宗教的な任務を以て外族と対したものであるが、のち外族の動静をうかがうことから、「うかがふ」意となり、すべて斥候のことをもいう。」(139~140頁)とある。密かに覗き見て様子を探るのである。見ていることを敵に悟られてはいけないから、姿、とりわけその目を隠そうとした。目のところだけをあけて頭巾をかぶり、黒ずくめの衣装を身にまとった忍者の姿はかなりの伝統があるらしい。それは、烏という文字の象形において、全身が黒いから目を入れないでおいたとする考え方とよく似ており、コクマルガラスが頭部をもって目としていることに通じている。すなわち、ヤアタカラスとは斥候のことを指している。女性の手の大きさに由来する咫という尺度を用いていたのは、それが体の小ぶりなコクマルガラスをよく表し、女スパイであることを示している(注9)
 忍者という概念を広義に捉え、間諜する者にその起源を求めるとするなら、記紀においては天探女(天佐具女)が忍者第一号に当たるといえよう。天探女は、やがて仏教由来の天邪鬼あまのじゃくと通じていく。あまのじゃくとは、人の邪魔をする悪い精霊であり、自分の心に逆らって素直な行動が取れない性格のことを表す。スパイのやっていること、ないし、スパイにしてやられてしまうことをうまく言い当てている。邪鬼は、仏教では四天王像の足下の像として知られる。本来は、仏教的コスモロジーにおけるさまざまな神たちの階層を表しているが、彫像の印象が強いから、踏まれてもがきうなっているように見える。いずれにせよ鬼である。
(つづく)

俀人(ねぶひと)を謗る歌(万3836)

2024年12月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十六、3836番歌は「ねぢけびとそしる歌」とされている。

  ねぢけびとそしる歌一首〔謗侫人歌一首〕
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも ねぢけびととも〔奈良山乃兒手柏之兩面尓左毛右毛侫人之友〕(万3836)
  右の歌一首は、博士はかせなのぎやうもんの大夫まへつきみ作れり。〔右歌一首博士消奈行文大夫作之〕
「謗俀人歌一首」(西本願寺本萬葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242469/1/21をトリミング)
 本文校訂により、「俀」字を尼崎本などにより「侫」(「佞」の俗字)に改めている。
 これが理解を阻む原因となった(注1)
 「佞人」ではなく「俀人」であったなら、「倭人」のことになる。魏志に「倭人」とあったのを、隋書では「俀人」としている。歌の作者、博士はかせなのぎやうもんは大学寮の教員を勤めた養老年間の学者であり、新羅の人であった。すなわち、「倭人」の特徴を捉えて歌を作っていると解し得るのである。
 康煕字典に、「俀」は「集韻、吐猥切、音腿。シナヤカ也。」とある。ヤマトの人のことを中国では「倭人」「俀人」としている。「倭」については、説文に「倭 したがかほなり、人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遲ゐちたり。」とあり、しなだれるような姿を特徴として捉えていたということのようである。
 歌にはなぜか「児手柏このてがしは」が持ち出されている。葉が縦に立っていて、左右どちらが表とも裏とも言えない。そこで、八方美人に振舞う喩えとして使われている。他の似たような葉ではなく、コノテガシハが選ばれている。カシハ(柏)の類であることが求められているものと思われる。カシハ(柏)は、葉が大きく、神事においてなどに料理をよそう器として利用された。だから、料理人のことを膳夫かしはでという。カシハデには拍手かしはでの意もある。神さまの前で拍手を打って挨拶する。儀式的には二礼二拍手一礼をとることが多く、四拍手することもある。一般には、二回手を打ち合わせて頭を下げて拝むことが多い。この拍手の挨拶は、倭人の慣行として中国、東アジアに知られていた。魏志倭人伝に、「大人のうやまへるにふときは、但だ手をちて以てはいに当つ。(見大人所敬、但搏手以当跪拝。)」とある。「搏手」=拍手の礼は我が国独自の法である。
 周礼・春官・大祝に「辨九拝、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉拝、六曰凶拝、七曰奇拝、八曰褒拝、九曰粛拝、以享右祭祀。」とある。その「振動」の語について、鄭玄の注に「動読為董、書亦或為董、振董、以両手相撃也」、唐初の陸徳明の釈に「振動、如字李音董、杜徒弄反、今俀人拝、以両手相撃、如鄭大夫之説、蓋古之遺法。」とある。唐初においても、拍手礼が倭人特有の儀礼であると考えられていたようである(注2)。下記の例、大安寺資財帳の例は、筑紫朝倉宮で病に倒れた斉明天皇が百済大寺の造営を中大兄に託して崩御した時の記事である。

 爾の時に、手をちて慶び賜ひてかむあがり賜ひき。(爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之)(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)
 公卿まへつきみ百寮つかさつかさ羅列あまねをがみたてまつりて、手つ。(持統紀四年正月)
 乙酉、参河国みかはのくにまをさく、「慶雲けいうんあらはる」とまをす。ほふし六百口をくつして西宮さいくう寝殿しむでん設斎をがみす。慶雲見るるを以てなり。是の日、りよの進退、また法門ほふもんおもぶき無し。手を拍ちて歓喜くわんきすることもは俗人ぞくじんに同じ。(続紀・神護景雲元年八月)

 日本在来の儀礼として、慶賀・歓喜を表現するのに拍手礼が行われていたことを示している。これが新羅人の消奈行文(注3)には珍しかったから歌に詠んでいる。彼は新羅から来日する前に、漢籍を読んで倭国のことを勉強していたのだろう。文献にはほかにも次のようにも書いてある。

 俗はばん無く、くにかしを以てす。食ふに手を用ゐてくらふ。(俗無盤爼、藉以檞葉、食用手餔之。)(隋書・俀国伝)

 俀人はカシハを食器にして手づかみで食べているという。実際に目にしてみると少し事情は異なるが、勉強した本の内容が完全に誤りであったわけではなさそうである。書物には祭祀場面ばかり重視して書いてあったということのようである。多少のギャップを埋めるべく、頓智を利かせた歌を詠もうとした。漢籍に「俀人」と書いてあったことを「そしる歌」としている。単にそういう人をけしからんと言っているのではなく、ヤマトの人のことをそのように記していることが不親切だと指摘しつつ、当然ながら人前で座興として歌を歌うのだからおもしろくなくてはならない。歌の勘所は頓知にある。
 「倭人」≒「俀人」である。ヤマトの人は礼をして頭を下げたり上げたりしつつパチパチと手を叩いている。「俀」という字は、人偏に妥の旧字体である。礼の仕方として「妥」という言葉は使われている。「天子にはることかふよりのぼらず、おびよりくださず。国君には妥視だしし、大夫にはかうし、士には視ること五歩ばかりす。(天子視不上於袷、不下於帯。国君、妥視、大夫、衡視、士視五歩。)」(礼記・曲礼下)とある。「妥」は「綏」の意である。えりもとの上あたりを見ることを言った。挨拶の礼として頭を下げたり上げたりしている。そういう人たちなのだというのが、「俀人」と記された理由なのだろうと解釈している。
 そして、手を拍つ様子を植物のコノテガシハと絡めて語るとするならば、葉がどちらからも表となって剥げないのとは異質な状態、手を打ち合わせるように葉を合わせて裏だけになる植物のことを思い浮かべて対比させていると考えられる。ネムノキである。ネムノキは夜になると葉を閉じて眠る。古語ではネブリ、ネブリノキ、ネブと言った。ネムノキのことを「合歓木」と記すところは、歓喜を表すのに拍手礼が行われていたことをよく表すものである。拍手かしはでを打って手を合わせるように寝ている。

 昼は咲き 夜は恋ひる 合歓木ねぶの花 君のみ見めや 戯奴わけさへに見よ(万1461)
 合歓樹 无採時、祢夫利ねぶり(新撰字鏡)
 合歓木 唐韻に云はく、棔〈音は昏、禰布利乃岐ねぶりのき〉は合歓木、其の葉は朝に舒び暮にをさむる者なりといふ。(和名抄)
 眲 莫卑反、眠也、目合也、祢夫留ねぶる、又伊奴いぬ(新撰字鏡)
 ひてねぶる。(神代紀第八段本文)
 既にして穴穂あなほの天皇すめらみこと皇后きさきの膝に枕したまひて、昼ひて眠臥みねぶりしたまへり。是に、眉輪まよわのおほきみ、其の熟睡とけてみねませるを伺ひて、刺しせまつれり。(雄略前紀安康三年八月)
 猿、なほ合眼ねぶりて歌ひて曰はく、……(皇極紀三年六月)
左:コノテガシワ、右:ネムノキ(夜間)
 すなわち、万3836番歌は、「倭人」≒「俀人」がお辞儀をしたり手を叩いたりする礼について、居眠りをしては手を叩いて起こそうとしている、または、それでも上瞼と下瞼がついて寝入りそうになるうところと見て取ったのである。ヤマトの人はカシハデを重んじている。神さまに祈りを捧げる時、拍手を打ち、膳夫にお供えを作らせ、串を使って柏の葉を器の形に象って饌物を供えている。拍手を打ってお祈りをするのにどこの神さまと分け隔てすることなく、その時その時で都合のいい神さまに対して「両面ふたおもに」お願いをしている。その都度お辞儀をして手を打っていて、その都度居眠りをしては手を打って起きている。ことほど左様に「かにもかくにも」、「倭人」は眠くてたまらない「俀人ねぶひと」なのだと洒落ている。その一大集団がヤマトの人である。ヤマトの人たちは本に書いてあったように、「俀人ねぶひととも」だと気づいたというのである。

  俀人ねぶひとそしる歌一首
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも 俀人ねぶひととも〔奈良山乃児手柏之両面尓左毛右毛俀人之友〕(万3836)
  ヤマトの人のことを隋書に「俀人」と書いてあるところから着想を得たが、「俀人」の意味するところの居眠りする人のことを感心しないと思う歌
 奈良山のコノテガシワが両面とも表を見せるのと同じように、膳夫が料理を供えては拍手を打ってはお辞儀するのがヤマトの人の習わしのようだが、その仕種、実際のいずれにせよ、居眠りをこいている人ばかりの集団のようになっていて東アジア世界で浮いていないかなあ。

(注)
(注1)「佞人」をネヂケビトと訓むと字余りになるから、他の訓み、コビヒト、カダヒト、また、音読みしてネイジンも試みられている。
 「ねぢけびと」に限らずいずれの訓みでも、皆、権力者に対して媚びへつらい、あちらにもこちらにもいい顔をする人のこと、右顧左眄のおべっか野郎の意味と捉えられ、それを揶揄、非難する歌であろうとする解釈は定着している。「なら坂や児の手がしはのふたおもてとにもかくにもねぢり人かな」(南都名所集)、「奈良坂や児の手柏の二おもてとにもかくにも侫人ましけひとかな」(南都名所八重桜)などへと流伝している。
(注2)西本1987.に負っている。西本氏は内裏儀式の「両段再拝・拍手・揚賀声」が内裏式で「再拝・舞踏・称万歳」へと変わっていることを指摘している。
(注3)又詔して曰はく、「文人ぶんじん武士ぶしは国家の重みする所なり。……百僚きやくれうの内より学業がくげふ優遊いういうし師範とあるに堪ふるひとぬきいだして、こと賞賜しやうしを加へて後生こうせいを勧めはげますべし。」とのたまふ。因りて、……第二の博士正七位上背奈せな行文かうぶん・……に、各あしぎぬ十五疋、糸十五絇、布卅端、鍬廿口。(続紀・養老五年正月)
 従五位下大学助背奈王行文 二首(懐風藻)

(引用・参考文献)
白川・字通 白川静『字通』平凡社、1996年。
西本1987. 西本昌弘「古礼からみた内裏儀式の成立」『史林』第70巻第2号、1987年3月。京都大学学術情報レポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/238914
橋本2006. 橋本亜佳子「佞人を「謗る」歌─萬葉集巻十六・第二部の題詞の特質─」『古代中世文学論考 第17集』新典社、平成18年。
山﨑2024. 山﨑福之「「佞人」とネヂケビト」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。
※上記、橋本、山﨑論文に引く参考文献は割愛した。「佞人」ではなく「俀人」について論じた。

山部赤人の難波宮の歌(万933)について─巻六配列付け足し説─

2024年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻第六の万928~934番歌において、笠金村、車持千年、山部赤人の作歌がつづいている。

  冬十月、難波宮なにはのみやいでましし時に、笠朝臣金村かさのあそみかなむらの作る歌一首〈并せて短歌〉〔冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作謌一首〈并短謌〉〕
 おしてる 難波なにはの国は 葦垣あしかきの りにし里と 人皆の 思ひ休みて つれも無く ありしあひだに 続麻うみをなす 長柄ながらの宮に 真木柱まきばしら 太高ふとたか敷きて 食国をすくにを をさめたまへば 沖つ鳥 味経あぢふの原に もののふの 八十やそともは いほりして 都なしたり 旅にはあれども〔忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都礼母無有之間尓續麻成長柄之宮尓真木柱太高敷而食國乎治賜者奥鳥味経乃原尓物部乃八十伴雄者廬為而都成有旅者安礼十方〕(万928)
  反歌二首〔反謌二首〕
 荒野あらのらに 里はあれども 大君おほきみの 敷きます時は 都となりぬ〔荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿〕(万929)
 海人あま娘子をとめ 棚なし小舟をぶね 漕ぎらし 旅の宿りに かぢおと聞こゆ〔海未通女棚無小舟榜出良之客乃屋取尓梶音所聞〕(万930)
  車持朝臣千年くるまもちのあそみちとせの作る歌一首〈并せて短歌〉〔車持朝臣千年作謌一首〈并短哥〉〕
 鯨魚いさなとり 浜辺はまへを清み うちなびき ふる玉藻たまもに 朝凪あさなぎに 千重ちへなみ寄せ 夕凪ゆふなぎに 五百重いほへ波寄す つ波の いやしくしくに 月にに 日に日に見とも 今のみに 飽きらめやも 白波の い咲きめぐれる 住吉すみのえの浜〔鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻尓朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布尓月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開廻有住吉能濱〕(万931)
  反歌一首〔反歌一首〕
 白波の 千重に来寄きよする 住吉の 岸の黄土はにふに にほひてかな〔白浪之千重来縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名〕(万932)
  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉〕
 天地あめつちの 遠きがごとく 日月ひつきの 長きがごとく おしてる 難波なにはの宮に わご大君おほきみ 国知らすらし 御食みけつ国 日の御調みつきと 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば〔天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮尓和期大王國所知良之御食都國日之御調等淡路乃野嶋之海子乃海底奥津伊久利二鰒珠左盤尓潜出船並而仕奉之貴見礼者〕(万933)
  反歌一首〔反謌一首〕
 朝凪あさなぎに かぢおと聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし〔朝名寸二梶音所聞三食津国野嶋乃海子乃船二四有良信〕(万934)

 これらの歌は、神亀二年(725)の聖武天皇難波行幸の際に詠まれたものと考えられている。なかには、金村、千年、赤人の「三歌人による連作的なものを感じる」(久米1970.668頁)とされることもあるが、それぞれの歌を吟味すると、「赤人は金村、千年の作を聞き知った上で(前々からの分担としてではなく)、自己の歌の内容を工夫していったことになる。」(坂本1989.49頁)との指摘もある。題詞に「冬十月、幸于難波宮時」と期日指定があるのは最初の笠金村の歌(万928~930)である。車持千年と山部赤人の歌についてはただ後に続けて記されているだけのこと、いつ詠まれたのかは不明である。車持千年の歌(万931・932)には「住吉」と地名が出てきて難波宮から行っていると考えられるわけだが、それがいつのことか本当のところはわからない。ただ、歌意に特段際立ったところはなく、笠金村同様、神亀二年十月の、平城京から行幸した時の作と見ても齟齬は起こさない(注1)
 一方、山部赤人の歌(万932・933)の場合、歌の言葉に「難波宮」とあり、笠金村の歌にある「長柄の宮」とは呼び方が異なっている。笠金村が行幸に従って歌ったとき、そこはいまだ天皇が常在する都ではなく、あくまで「行幸」である。対して、山部赤人が歌っている時は、「難波宮」が既成事実化している後期難波宮の時、あるいはそこへの遷都が現実味を帯びていた時の歌であると考えられるのである(注2)。つまり、赤人歌は、正式な都にふさわしく造営工事をした後に歌われているということになる。実際、神亀四年以降、造成工事が進められている(「造難波宮雇民、免課役并房雑徭。」(神亀四年二月)、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等已下、仕丁已上、賜物各有差。」(天平四年三月)、「正五位下石川朝臣枚夫為造難波宮長官。」(天平四年九月)、「陪従百官衛士已上、并造難波宮司・国郡司・楽人等、賜禄有差。免-奉難波宮東西二郡今年田租調、自余十郡調。」(天平六年三月)、「班-給難波京宅地。三位以上一町以下、五位以上半町以下、六位以下四-分一町之一以下。」(天平六年九月)、「任装束次第司。為難波宮也。」(天平十六年正月))。
 難波京遷都は、恭仁京遷都同様、聖武天皇が決めたことである。だが、天平十六年(744)に恭仁京にあって、都をどこにするか朝議に諮っている。不思議なことが行われている。

○閏正月乙丑の朔に、詔して百官を朝堂に喚し会へ、問ひて曰はく、「恭仁・難波の二京、いづれをか定めて都とむ。おのおの、其の志をまをせ」とのたまふ。是に、恭仁京の便宜へんぎぶるひと、五位已上廿四人、六位已下百五十七人なり。難波京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿三人、六位已下一百卅人なり。○戊辰に、従三位巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣し、市に就きて京を定むる事を問ふ。市の人、皆恭仁京を都と為むことを願ふ。但し、難波を願ふ者一人。平城ならを願ふ者一人有り。(続紀・天平十六年閏正月)

 こうなってくると俄然形勢が変わる。遷都のために「行幸」しそうな気配が出てくる。正式な都をどこと定めているのか、以下、続紀の行幸、遷都、宮にまつわる記事を見ていく。

天平十六年(744)閏正月
○乙亥(11日)、天皇行-幸難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・民部卿従四位上藤原朝臣仲麻呂留守。是日、安積親王、縁脚病桜井頓宮還。
同二月
○二月乙未(1日)、遣少納言従五位上茨田王于恭仁宮、取駅鈴・内外印。又追諸司及朝集使等於難波宮
○丙申(2日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弖麻呂、持留守官所給鈴印、詣難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・木工頭従五位上小田王・兵部卿従四位上大伴宿禰牛養・大蔵卿従四位下大原真人桜井、大輔正五位上穂積朝臣老五人、為恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人・左京亮外従五位下巨勢朝臣嶋村二人、為平城宮留守
○甲辰(10日)、幸和泉宮
○丁未(13日)、車駕自和泉宮至。
○甲寅(20日)、運恭仁宮高御座并大楯於難波宮、又遣使取水路-漕兵庫器仗
○乙卯(21日)、恭仁京百姓情-願遷難波宮者、恣聴之。
○丙辰(22日)、幸安曇江-覧松林。百済王等奏百済楽
○戊午(24日)、取三嶋路、行-幸紫香楽宮。太上天皇及左大臣橘宿禰諸兄、留在難波宮焉。
○庚申(26日)、左大臣宣勅云、今以難波宮定為皇都。宜此状、京戸百姓任意往来
同三月
○三月甲戌(11日)、石上・榎井二氏、樹大楯槍於難波宮中外門
○丁丑(14日)、運金光明寺大般若経、致紫香楽宮。比朱雀門、雑楽迎奏、官人迎礼。引導入宮中、奉安殿。請僧二百、転読一日。
○戊寅(15日)、難波宮東西楼殿、請僧三百人、令大般若経
同四月
○夏四月丙午(13日)、紫香楽宮西北山火。城下男女数千余人、皆趣伐山。然後火滅。天皇嘉之、賜布人一端。
○丙辰(23日)、以始営紫香楽宮、百官未成、司別給公廨銭。惣一千貫。交閞取息、永充公用。不-失其本。毎年限十一月、細録本利用状、令太政官
同七月
○秋七月癸亥(2日)、太上天皇幸智努離宮
○戊辰(7日)、太上天皇幸仁岐河。陪従衛士已上、無男女、賜禄各有差。
○己巳(8日)、車駕還難波宮
同十月
○庚子(11日)、太上天皇行-幸珎努及竹原井離宮
○壬寅(13日)、太上天皇還難波宮
同十一月
○癸酉(14日)、太上天皇幸甲賀宮
○丙子(17日)、太上天皇自難波至。

 「和泉宮」や「紫香楽宮」、「智努離宮」などはこの時点で都ではなく、あくまでも行幸したり法事をさせた先の行宮である。天平十五年十二月には「至是、更造紫香楽宮。仍停恭仁宮造作焉。」こととなり、あまり恭仁京の居心地は良くなかったようである。そして、天平十六年二月には難波京へ遷都し、天平十六年時点で「還」る所として「難波宮」をあげている。ただし、「恭仁京」、また、「平城宮」に「留守」官を置いている。
 この情勢を総合的に勘案すると、二京態勢(複都制)をとって難波京を定めたものと考えられる。複数の都を置く形をとって新たに「難波宮」にて天皇が「国知らす」時、天平十六年に歌われたのが、赤人歌であったと推定される。以下、その仮説を検証する。
 長歌では、前半に難波宮で天皇が統治することが歌われている。後半では淡路の野島の海人が鰒を取って珠を献上することが歌われている。一首だけある反歌では、長歌後半の野島の海人のことだけを承けてその船の楫の音が聞こえると歌っている。長歌と反歌との関係として、後半だけしか反映していないところは不審と言わざるをえない(注3)
 この関係をどう捉えたらいいか。上代の人の身になって検討する。事は上代の人の常識において理解されなければならない。そうでなければこの歌が歌われることも、万葉集に採録されることもないからである(注4)
 長歌前半部の冒頭四句「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」については、慶雲四年七月の詔(第三詔)にある、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く不改常典あらたむましじきつねののり」が意識されているとする説(注5)が有力視されている。
 この「不改常典あらたむましじきつねののり」については、嫡系相続の原理を天智天皇が定めたフカイジョウテンなるものがあったと推測され、ほとんど定説化している。大宝令以前に近江令があったと推測されもするが、記録に見られない。筆者は、そのようなものはなかったと考えている。天皇の位は、親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが自然な流れとされよう。しかし、後継者として皇太子が定められているにもかかわらず、事情があって時にイレギュラーな嗣ぎ方をすることがある。天智天皇(中大兄)は舒明・皇極天皇の子であり成人していたが、蘇我氏を滅ぼしたクーデターの後、自分では位を継がずに叔父に当たる孝徳天皇(軽皇子)に譲り、自らは皇太子の地位のまま政治に参与した。同様のことが起きていたことについて、文武天皇が語っているのが第三詔である。祖母の持統天皇の言葉として、幼い自分が持統から位を譲られつつ共治する形をとったことを述べている。第五詔では、元明天皇がその娘でありながらも独身の元正天皇へ位を譲ったことについて述べていて、以後は元明系列の子孫を天皇にするようにと言っている。聖武天皇(首皇子)はまだ幼かった。第十四詔では、聖武天皇が叔母に当たる元正天皇から譲位されたときに聞いたことを述べている。それらを「不改常典あらたむましじきつねののり」と呼んでいる。すなわち、「不改常典あらたむましじきつねののり」とは、世の中にはいろいろと決まりがあって天皇位の継嗣順も親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが通例だと決まってはいるが、そんな決まり事を超えて臨機応変に対処すべきであることを指している。時に超法規的な措置を講ずることによって世の中は丸くおさまり、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」天皇代は続くのである。情勢により、決まりに縛られないでうまく進めること、それこそが、どんなことがあっても改めるには及ばない、決まりごとを超えた決まりごとなのである(注6)
 「不改常典」という典範が存在していたわけではなかった。歌においてももちろん、それに従った文言として「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しが歌われているわけではない。そもそも、詔に登場する「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」という文言とは言い方が違うではないか。言葉が違えば言い表したいことは違う。一般には、「天地が悠遠であるように、日月が長久であるように、」難波宮で我が天皇は国をお治めになるらしい、という意に解されている。けれども、そう捉えることには障りがある。短期間に遷都をくり返している聖武天皇に対して、今度こそ難波宮に落ち着いてくださいね、と言っているように疑われてしまう。臣下の分際で何を抜かすかということになる。
 歌は言葉でできている。歌われて言葉は空中を飛んでいる。聞き返すということがない。「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しの後、「おしてる難波なには……」と聞いたなら、それはただの形容にすぎないとすぐに理解されたであろう。すなわち、「おしてる」と言えば「難波なには」と続くことは、天地が遠いように、日や月が長いようにあることなのである。「おしてる」は枕詞で、しかも他の言葉にかかることのないものである(注7)。将来的にもこの決まり文句は揺るがない。そのことを形容して「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」と大仰に述べている。言っていることがその時その場で理解可能になっている。恭仁京へ遷都したのが天平十二年(740)、四年後の天平十六年(744)には難波宮へと遷っている。宮都を造りながら遷ることに節操がないと非難する意見もあっただろうし、天皇自身も自らの首都計画がうまく行っていないことに忸怩たる思いがあったかもしれない。そういう不協和音を自動的に消す働きを担うことになりそうな言い回しが、「おしてる難波なには」という常套句である。「おしてる」は絶対に「難波」にかかり、今後ともそうであろうから、それと同様に、難波宮の新都経営も悠久の時を刻むことになる可能性を秘めていると隠し述べることになっている。そこがこの赤人歌の真骨頂ということになる。
 では、なぜ続けて野島の海人のことが歌われているのか。
 すでに指摘されているように、野島の海人の真珠取りのことが関係する。故事として允恭紀に載るとおりである。允恭天皇は淡路島へ狩りに出かけた。しかし、嶋の神のたたりで一向に獲れず、神の言にしたがって赤石あかし(明石)の海底の真珠を捧げることとなった(注8)

 十四年の秋九月の癸丑の朔にして甲子に、天皇すめらみこと淡路嶋あはぢのしまかりしたまふ。時に、麋鹿おほしかさる莫々紛々ありのまがひに、山谷にてり。ほのほのごと起ちはへのごとさわく。然れども終日ひねもすひとつししをだに獲たまはず。是に、かり止めて更にうらなふ。嶋の神、たたりてのたまはく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石あかしの海の底に真珠しらたま有り。其の珠を我にまつらば、ふつくに獣を得しめむ」とのたまふ。ここに更に処々ところどころ白水郎あまつどへて、赤石の海の底をかづかしむ。海深くして底に至ることあたはず。唯しひとり海人あま有り。男狭磯をさしと曰ふ。これ阿波国あはのくに長邑ながのむらの人なり。もろもろの白水郎にすぐれたり。是、腰に縄をけて海の底に入る。やや須臾しばらくありて出でてまをさく、「海の底に大蝮おほあはび有り。其の処れり」とまをす。諸人もろひと、皆はく、「嶋の神のこはする珠、ほとほとに是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。ここに男狭磯、大蝮をむだきてうかび出でたり。乃ちおきえて、浪の上にみまかりぬ。既にして縄をおろして海の深さを測るに、六十むそひろなり。則ち蝮をく。まことに真珠、腹のなかに有り。其の大きさ、桃子もものみの如し。乃ち嶋の神をまつりて猟したまふ。さはに獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りてみまかりしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚くはぶりぬ。其の墓、なほ今までうせず。(允恭紀十四年九月)

 淡路島は狩りの盛んな猟場かりにはであった(注9)。ニハがとり上げられている。そして、今、赤人が歌にしようとしているところは、ナニハ(難波)である。難波のニハは朝廷(朝庭)のニハ、朝から政をするニハである。
 歌は言葉でできていて空中を飛んでいる。だからその瞬間にわかるものでなければどうにもならない。ニハのことを言っているんだ、おもしろいことをいうねぇ、と皆思ったから、歌として聞かれて拍手喝采され、記憶に留まるに至っている。題詞に「山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉」とあって「山部宿祢赤人讃難波宮歌一首〈并短歌〉」などとないのは当然のことである。ニハの洒落を歌にしただけであり、難波宮讃歌でも天皇を寿いだ歌でもない。ナニハがニハとしてあるためには、対岸の淡路島についても由緒あるところなのだからニハとしてきちんと機能してもらわなければならず、嶋の神の祟りをやすめ祀るため鰒を取って真珠を捧げる必要があった。淡路島がニハであることを強調するためにとってつけたように「御食みけつ国」として定位し、毎日、御調みつきを献上する役目を果していることに話を作っている。言いたいことはニハの洒落だけであり、毎日、実際に食べ物を運んでいたと考える必要はない。「鰒珠」を真珠とすると食べられないから矛盾するので別案をあげる向きもあるが、洒落の通じない輩は相手にならない。毎日でも海人の男狭磯をさしが深く海に潜って真珠をとっていれば淡路島はニハとして安泰ということになるからである。
 ナニハの宮についてニハをとり上げるため、淡路のことをとり立てている。それはそれで良いとしても、難波宮と淡路とは直接の関係はない。とり上げて述べた理由は何だろうか。
 その答えは、長歌のなかに出てくる「海石いくり」と反歌から窺うことができる。反歌には「かぢの音聞こゆ」とある。これも故事として伝わっていた。記紀に歌謡が載る。

 枯野からのを しほに焼き が余り 琴に作り くや 由良ゆらの 門中となか海石いくりに ふれ立つ なづの木の さやさや(記74、紀41)

 老朽化した大型船を塩焼きの燃料に使ったという話である。燃え残ったところを琴に作って奏でたところ、海のなかの「海石いくり」にふれた木が「さやさや」と音をたてたというのである。山部赤人の長歌の後半と反歌は、そのことを踏まえて詠んでいると考えられる。

 …… 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば(万933)
 朝凪あさなぎに かぢの音聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし(万934)

 「さやさや」という音のことを思っている。鞘鞘と二つ鞘がある。「二鞘の」という言い方がある。

 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの〔二鞘之〕 家をへなりて 恋ひつつをらむ(万685)

 刃物を二本、入れておく鞘があった。だからこそ、長歌で難波のことと淡路のことの二つを一緒に歌にしていた。そうするには意味があった。難波宮は複都である。都が二つあるから入れるところが二つある鞘のことを持ち出している。当時の人たちの考えにおいて、すべての辻褄が合う。過誤の余地なく歌は完成している。上代においてはそのことをもって名歌と呼んでも過言ではないだろう。

(注)
(注1)坂本氏ほか、これらの歌を「難波宮讃歌・・」とする前提で議論を始める向きがあり承服し難い。
(注2)その間にも神亀三年十月の印南野行幸の際に難波宮へ還って来ていたり、天平六年(734)三月、天平十二年二月にも難波宮へ行幸している。最後の例では「留守」を決めて出掛けている。
(注3)現行の解釈では、必ずしも不思議がられているわけではない。長歌前半の八句は「一首における総論の機能を果たしている」(伊藤1996.320頁)とし、「野島の海人」のさまを視覚的に詠まんがためのものであり、反歌も「野島の海人」のことを聴覚的に歌ったものであると捉えられている。車持千年が難波行幸時に住吉へも出向いたときに歌われているように、山部赤人も難波行幸時に海岸から淡路の野島を臨んで詠んだというのである。
(注4)万葉集編纂の際に、この山部赤人歌も神亀二年の作であると誤解されていた可能性もなくはない。都をどこに定めるか決められない天皇像を思い起こさせる歌だからこんなところへ引っ付けたのだと考える。
(注5)吉井1984.71頁。吉井氏は、不改常典を嫡子による皇位相続の原則と見、「今、文武天皇の嫡子である聖武天皇の即位の翌年、最初の難波宮行幸であるので、赤人が、聖武の即位を期待して即位した元明の詔を思わせる表現で、聖武の治政を讃えたのはきわめて適切であったといえる。聖武天皇の難波宮造営は、複都制を定めた天武天皇の継承といえる。」(同71〜72頁)と述べている。この議論はあり得ない。赤人は何様のつもりで上から目線で天皇を讃えているのか想像がつかず、けっして許されるものとは思われない。
(注6)拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注7)拙稿「枕詞「おしてる」「おしてるや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/966680300fa50239c38ae3a90e1588a5参照。枕詞のなかには、「ももづたふ」のように「角鹿つぬが」、「度会わたらひ」、「ぬて」、「磐余いはれ」などさまざまな語にかかるものがあるが、「おしてる」や「おしてるや」は必ず「難波なには」にかかり、他の語にはかからない。
(注8)この話については、拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/17d842a2bc10d3783b29a39e7b44b4e8参照。
(注9)応神紀二十二年九月にも記載がある。猟場のことも漁場のこともニハという。

 武庫むこの海の 庭よくあらし いざりする 海人あま釣船つりふね 波のうへゆ見ゆ(万3609)
 猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。(雄略紀二年十月)

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 三』集英社、1996年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
久米1970. 久米常民『万葉集の文学論的研究』桜楓社、昭和45年。
神野志1975. 神野志隆光「赤人の難波行幸歌─天皇の世界と海人─」『萬葉の風土・文学』塙書房、平成7年。
栄原2006. 栄原永遠男「行幸からみた後期難波宮の性格」栄原永遠男・仁木宏編『難波宮から大坂へ』和泉書院、2006年。
坂本1987. 坂本信幸「山部赤人─難波宮従駕作歌をめぐって─」『論集万葉集 和歌文学の世界 第十一集』笠間書院、昭和62年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中野渡2014. 中野渡俊治「天平十六年難波宮皇都宣言をめぐる憶説」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』塙書房、2014年。
橋本2018. 橋本義則『日本古代宮都史の研究』青史出版、平成30年。
仁藤2015. 仁藤敦史「留守官について」舘野和己編『日本古代のみやこを探る』勉誠出版、2015年。
吉井1984. 吉井巌『万葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

世の常に 聞くは苦しき 呼子鳥(万1447)

2024年11月25日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  大伴坂上郎女の歌一首〔大伴坂上郎女謌一首〕
 世のつねに 聞くは苦しき よぶどり 声なつかしき 時にはなりぬ〔尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴〕(万1447)
  右の一首は、天平四年三月一日に佐保のいへにして作れり。〔右一首天平四年三月一日佐保宅作〕

 初句の「尋常」をヨノツネニと訓む説が大勢を占めている(注1)。トコトハニと訓む説(注2)、また、ヨノツネニを世のならいとして、という意味と、平生、ふだん、いつも、という意とではニュアンスに違いがあるとして疑義を呈する向きもある(注3)。次の万葉歌は、世の中の常のことを言い表しており参照すべき歌である。

 世間よのなかの つね道理ことわり くさまに なりにけらし ゑし種子たねから(万3761)

 万1447番歌の場合、題詞で作者のこと、左注で詠まれた日と場所が明記されている。特に日時が指定されていることは珍しいことである。三月一日とは、一月から三月を春と決めていた令制において、「孟春はじめのはる」、「仲春なかのはる」、「季春すゑのはる」の別のうちの「季春すゑのはる」の最初の日に当たる。スヱという言葉の語義は、漢字で書いた時、「末」、「陶」、「須恵」、「据」に限られる(注4)。万3761番歌にもこのスヱという言葉が見え、世の常のこと、ものごとの道理のことは、スヱという言葉で言い表す対象であると考えられていたようである。時間が経って、スヱ(末)となっても世の常の道理は変わらないからであろう。万1447番歌の場合、時間が経ってスヱ(季)の春になったら状況が一転したと言っている。その機知を歌に詠んでいる。
 動詞「据う」を用いた万葉歌に、次のような例がある。

 大君おほきみの さかひたまふと 山守やまもり据ゑ るといふ山に 入らずはまじ(万950)
 矢形尾やかたをの 鷹を手に据ゑ 三島野に 狩らぬ日まねく 月そにける(万4012)

 「据う」という言葉は、ものごとを根を下ろさせるようにしっかりとその場に置きつけること、人間を含めた生き物をそれにふさわしい位置に置くことをいう。三月一日、スヱの春になったのであらためて据え置いてみた。何をどこに据え置いたか。ス(巣)にヱ(餌)を置いたのである。巣に餌を運んで育てることは鳥として当たり前のこと、世の常のことである。それまで世の常のこととして嫌な鳴き声をあげて鳴いていた呼子鳥がいたのだが、この時、呼子鳥はすでに巣立ってしまっていたというのだろう。親鳥は呼子鳥がいなくなっているので、その声が懐かしいと思っている。
 呼子鳥については、万葉集中での用法としては、呼んでも答えてくれないのになお呼び続ける鳥として片恋の苦しさを表すことがある(注5)。ただし、それがすべてではない。実際の鳥類の何に当たるのかについては諸説あるが、カッコウではないかとする説が有力である。カッコウは生態として特徴的なところがある。托卵である。別の鳥の巣に卵を産んで育ててもらうのである。カッコウは大きくなる鳥だから、体の小さな代理の親鳥が体の大きなカッコウの雛に給餌することになる。はたから見ていれば実に滑稽である。大きさからしてみれば、どちらが親でどちらが子なのかわからないことになっている。そこでヨブコドリ(呼子鳥)と洒落た命名をしたらしい。呼子鳥という名は、巣にいる体の大きなカッコウが、その子のような体の小さな鳥を呼んでいるような変なことだというわけである。巣のなかで餌をねだる声が汚く聞こえるというよりも、托卵は詐欺行為であり、それが進行してなお騙し続けていて、大きな体をしているのに小さな鳥に餌を運ばせているところが「聞くは苦しき」存在なのである。
自分より大きなカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/托卵、Per Harald Olsen氏撮影)
 三月一日、スヱの春になると、今までどおり甲斐甲斐しく偽られたままに自分の子だと思っていたカッコウのもとへ、巣に餌を運んできた代理親鳥は、自分の子だと思っていた鳥が、飛び方も教えぬまま突然いなくなってしまっていたため育児ロスに陥っている。この時、親鳥はすべてを悟ることになる。自分とは比べ物にならないほど大きくなっているのに餌をねだっていた。変だなあと思ってはいた。そうか、あれは自分の子ではなく、カッコウだったのだ。自分の実の子、産んだ卵は巣から蹴落とされて死んでしまった。いまいましいことである。とはいえ、育てたことには違いがなく、あれほど大きくなるまで手がかかったことを思えばかえって情が湧くのも当然のことである。道理としてこのようになるものだというのが言い方として通例である。万3761番歌では「くさまになりにけらし」と言っている。
 このようにあるのは尤もなことだと言っている。斯くある、は、上代語でラ変動詞カカリといった。似た言葉に、かかっている、よりかかる、関係がある、という意味の四段動詞カカル(懸)があり、形容詞カカラハシという語に派生している。

 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かる思ひに はましものか(万620)
 要仮たとひ縄にかかるとも、進みありくことあたはず。(顕宗紀二年九月)
 …… 世の中は くぞ道理ことわり 黐鳥もちどりの かからはしもよ ゆく知らねば ……(万800)

 第三例のように、世の常としての道理を説くのに、カク(斯)と一緒にカカラハシという言葉を使うのは、高度に修辞的な用法と言えるだろう。
 万1447番歌の場合も、いた時には「聞くは苦しき」といい、いなくなったら「声なつかしき」と言っていて、呼子鳥の鳴き声のことに注意が向いている。呼子鳥はどのように鳴いたか。おそらく、その鳴き声をカカと聞きなしていたのであろう。古代には、鳥の鳴き声として「かか鳴く」とする例が見られる。そう捉えれば、カカリ(斯有)、カカル(懸)と音が通じ、言葉の使用のすべてにおいて理にかなった修辞となっていることになる。

 つく波嶺はねに かか鳴く鷲の のみをか 泣き渡りなむ 逢ふとはなしに(万3390)
 嚇 唐韻に云はく、鳴〈音は名、奈久なく〉は鳥の啼くなり、囀〈音は転、佐閉都流さへづる〉は鳥のうたふなりといふ。文選蕪城賦に寒鴟嚇鶵と云ふ。〈嚇の音は呼格反、師説に賀々奈久かかなく〉(和名抄)

 世のつねに 聞くは苦しき よぶどり 声なつかしき 時にはなりぬ(万1447)
 世の常のこととして、托卵して育てられている体の大きくなったカッコウの雛の鳴く声を聞くと、あんまりだと苦しい思いがするものだが、日時は三月一日となり、春も末の時季を迎えて雛は勝手に巣立って行ってしまった。きっと親鳥はス(巣)にヱ(餌)を運んできて、ほらお食べと上げ膳据え膳をしていることだろうが、いつの間にかいなくなっていて、切なくなつかしく思っていることだろう(注6)

(注)
(注1)「尋常」字に対してヨノツネと訓む例は、名義抄、遊仙窟に見られる。
(注2)澤瀉1961.61〜62頁。
(注3)渡辺1978.、武市2004.、山﨑2024.参照。山﨑氏は、漢語「尋常」の歴史的転義を考証している。そして、文言と白話の意味の違いを見、両用の訓、解釈を試みている。
(注4)白川1995.は、「その間に何らかの関係があるかも知れない。」(427頁)としている。
(注5)渡辺1978.。
(注6)中西1980.は、「世の常として聞くのは不本意な呼子鳥だが、声に心ひかれて聞く時になったことだ。」(174頁)という訳は、肝心の言葉遊びの要点、三月=スヱの春、スヱ=巣餌の義を述べてはいないが、訳自体としては近似解と言える。

(引用・参考文献)
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第八巻』中央公論社、昭和36年。
高野1980. 高野正美「喚子鳥─坂上郎女覚書─」『太田善麿先生退官記念文集』太田善麿先生退官記念文集刊行会、昭和55年。
武市2004. 武市香織「巻八の大伴坂上郎女歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第十巻』和泉書院、2004年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論』塙書房、令和6年。
渡辺1978. 渡辺護「呼子鳥の歌九首」『岡山大学法文学部学術紀要』第39号、昭和53年12月。

飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─

2024年11月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。

  秦酒公はたのさけのきみを得たり〔得秦酒公〕
              外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕

 琴のの あはれなればや 天皇君すめらきみ 飛騨のたくみの 罪をゆるせる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
  幼武わかたけの天皇すめらみこと、飛騨の匠御田みたおほせて、楼閣たかどのを作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りてく走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭にたふれて、ささげたる饌物みけつものこぼしつ。天皇すめら、采女を御田がおかせるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公さけのきみ、琴をきて、そのこゑを天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。

 冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇すめらみこと木工こだくみ闘鶏つげの御田みた一本あるふみ猪名部いなべの御田みたと云ふは、けだあやまりなり。〉にみことおほせて、始めて楼閣たかどのつくりたまふ。是に、御田、たかどのに登りて、四面よも疾走はしること、飛びくがごときこと有り。時に伊勢の采女うねめ有りて、楼の上をあふぎてて、く行くことをあやしびて、庭に顛仆たふれて、ささげらるるみけつもの〈饌は、御膳之物みけつものなり。〉をこぼしつ。天皇、便たちまちに御田を、其の采女ををかせりと疑ひて、ころさむと自念おもほして、物部もののべたまふ。時に秦酒公はたのさけのきみおもとはべり。琴のこゑを以て、天皇に悟らしめむとおもふ。琴をよこたへて弾きて曰はく、
  神風かむかぜの 伊勢の 伊勢の野の 栄枝さかえを 五百経いほふきて が尽くるまでに 大君に 堅く つかまつらむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠たくみはや あたら工匠はや(紀78)
 是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪をゆるしたまふ。(雄略紀十二年十月)

 雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
 飛騨の匠(「飛騨工」)は、律令制のもとで実在している。

 凡そ斐陁国ひだのくには、庸調俱にゆるせ。里毎さとごとに匠丁十人てむせよ。〈四丁毎に、廝丁かしはで一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁よちやう米をいだして、匠丁しやうちやうじきに充てよ。〈正丁しやうちやうに六斗、次丁しちやうに三斗、中男ちうなむに一斗五升。〉(賦役令)

 実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給されて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)
 しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
 タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。

 是歳、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有りなむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて須弥山すみのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人をなづけて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 「芝耆摩呂しきまろ」という名は、おそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工みちこのたくみ」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
 この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋しほやの鯯魚このしろという家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからものを作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させて言っていると推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限みぎり(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。

 辛丑に、須弥山すみのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ覩貨邏人とくわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかひむかし川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥みちのくこしとの蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 又、石上池いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

 斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。
 そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張あぢはり忽然たちまち悋惜をしみて、勅使みかどのつかひ欺誑あざむきてまをさく、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)
左:埤湿ふけの田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、中:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)、右:樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(3/10))
 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、三刃みつはほこを持ちて、刺し殺すをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったとされる漏剋ろこくである。

 又、皇太子ひつぎのみこ、初めて漏刻ろこくを造る。おほみたからをして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
 夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋ろこくあらたしきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。鐘鼓かねつづみとどろかす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇すめらみことの、皇太子ひつぎのみこまします時に、始めてみづか製造つくれるぞと、云々しかしかいふ。(天智紀十年四月)
漏刻(桜井養仙・漏刻説并附録、九州大学附属図書館・九大コレクションhttps://hdl.handle.net/2324/6632075(6of19)をトリミング)
 漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水をげた時に、確かな時をげることができている。
 ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していただろうと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
 つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。ことことであると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書いてあるということの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。

(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工ひだのたくみについて次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ているように思う。
左:須弥山石、右:石人像(レプリカ再現、飛鳥資料館展示品)
 六十五年に、飛騨国ひだのくに一人ひとりのひと有り。宿儺すくなと曰ふ。其れ為人ひととなりむくろひとつにしてふたつかほ有り。面おのおのあひそむけり。いただき合ひてうなじ無し。各手足てあし有り。其れひざ有りてよほろくびす無し。力さはにしてかろし。左右ひだりみぎつるぎきて、よつの手にならびに弓矢をつかふ。是を以て、皇命みことに随はず。人民おほみたから掠略かすみてたのしびとす。是に、和珥臣わにのおみおや難波なにはの根子ねこ武振熊たけふるくまつかはしてころさしむ。(仁徳紀六十五年)
 又みことのりしてのたまはく、「新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ皇子みこ大津謀反みかどかたぶけむとするにくみせれども、われ加法つみするにしのびず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
 冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大肆しんだいしを以て、白き蝙蝠かはぼりたるひと飛騨国の荒城郡あらきのこほりのひと弟国部おとくにべの弟日おとひに賜ふ。あはせふとぎぬ四匹よむら・綿四屯よもぢ・布十端とむらを賜ふ。其の課役えつきは、身を限りてことごとくゆるす。(持統紀八年十月)
 白真弓しらまゆみ 斐太ひだ細江ほそえの 菅鳥すがとりの 妹に恋ふれか かねつる〔白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹尓恋哉寐宿金鶴〕(万3092)
  黒き色を嗤笑わらふ歌一首〔嗤咲黒色歌一首〕
 ぬばたまの 斐太ひだ大黒おほぐろ 見るごとに 巨勢こせ小黒をぐろし 思ほゆるかも〔烏玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞〕(万3844)
 斐太ひだひとの 真木まき流すといふ 丹生にふの川 ことかよへど 船そ通はぬ〔斐太人之真木流云尓布乃河事者雖通船曽不通〕(万1173)
 かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ墨縄すみなはの ただ一道ひとみちに〔云々物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二〕(万2648)

 語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、大層な技術を持っていたかどうかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったかもしれない。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。そういう前提に立たなければ、無文字社会はカオスに陥ったであろう。

(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115791/1/
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。