一
万葉集巻十七に、大伴家持と池主との間で交わされた、越中国の立山にまつわる歌のやりとりが載っている。当時はタチヤマと呼ばれていた。
立山の
賦一首〈并せて短歌、此の立山は
新川郡に有るぞ〉〔立山賦一首〈并短謌 此立山者有新川郡也〉〕
天離る
鄙に名
懸かす
越の
中 国内ことごと 山はしも
繁にあれども 川はしも
多に
行けども
皇神の
領きいます
新川の その
立山に
常夏に 雪降りしきて
帯ばせる
片貝川の 清き瀬に
朝夕ごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや あり
通ひ いや年のはに
外のみも 振り
放け見つつ
万代の
語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて
羨しぶるがね〔安麻射可流比奈尓名可加須古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自尓安礼登毛加波々之母佐波尓由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須尓比可波能曽能多知夜麻尓等許奈都尓由伎布理之伎弖於<婆>勢流可多加比河波能伎欲吉瀬尓安佐欲比其等尓多都奇利能於毛比須疑米夜安里我欲比伊夜登之能播仁余増能未母布利佐氣見都々余呂豆餘能可多良比具佐等伊末太見奴比等尓母都氣牟於登能未毛名能未<母>伎吉氐登母之夫流我祢〕(万4000)
立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず
神からならし〔多知夜麻尓布里於家流由伎乎登己奈都尓見礼等母安可受加武賀良奈良之〕(万4001)
片貝の 川の瀬清く
行く水の 絶ゆることなく あり
通ひ見む〔可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟〕(万4002)
四月二十七日に、大伴宿禰家持作れり。〔四月廿七日大伴宿祢家持作之〕
立山の賦を
敬みて
和ふる一首、并せて二絶〔敬和立山賦一首并二絶〕
朝日さし そがひに見ゆる
神ながら
御名に
帯ばせる 白雲の
千重を押し別け
天そそり 高き
立山 冬夏と
別くこともなく
白栲に 雪は降り置きて
古ゆ あり
来にければ こごしかも
岩の
神さび たまきはる
幾代経にけむ 立ちて
居て 見れどもあやし 峰
高み 谷を深みと 落ち
激つ 清き
河内に 朝去らず 霧立ちわたり 夕されば
雲居たなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひ
過さず
行く水の 音もさやけく
万代に 言ひ継ぎ
行かむ 川し絶えずは〔阿佐比左之曽我比尓見由流可無奈我良弥奈尓於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻曽々理多可吉多知夜麻布由奈都登和久許等母奈久之路多倍尓遊吉波布里於吉弖伊尓之邊遊阿理吉仁家礼婆許其志可毛伊波能可牟佐備多末伎波流伊久代經尓家牟多知氐為弖見礼登毛安夜之弥祢太可美多尓乎布可美等於知多藝都吉欲伎可敷知尓安佐左良受綺利多知和多利由布佐礼婆久毛為多奈毗吉久毛為奈須己許呂毛之努尓多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久与呂豆余尓伊比都藝由可牟加波之多要受波〕(万4003)
立山に 降り置ける雪の 常夏に
消ずてわたるは
神ながらとそ〔多知夜麻尓布理於家流由伎能等許奈都尓氣受弖和多流波可無奈我良等曽〕(万4004)
落ち
激つ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も
止まず通はむ〔於知多藝都可多加比我波能多延奴期等伊麻見流比等母夜麻受可欲波牟〕(万4005)
右は、
掾大伴宿禰池主和へたり、四月二十八日〔右掾大伴宿祢池主和之四月廿八日〕
家持が「
立山の
賦」
(注1)として作った万4000番歌は、これまで立山を賞讃する歌であるとばかり思われ、都から離れた鄙の地にありながらそれなりの素晴らしさを述べているものと考えられてきた。二上山の賦の流れを汲んでいるとも、人麻呂等によって歌われたいわゆる吉野讃歌や、赤人の「望不尽山歌」(万317〜318)、「登神岳歌」(万324〜325)の表現を踏襲しているとも捉えられている
(注2)。
もし仮にそうであったとしたら、これら立山を詠んだ歌には歌としての新鮮味はなく、前作を凡庸に引き継ぎながら立山を対象に替えて詠んだに過ぎないことになる。しかし、そのようなことは考えにくい。歌は、その時その場において声として発せられたものである。テーマを変えながら同じようなことを言っているだけだとしたら、作者も、その歌を周囲で聞いた人も、ましてその歌に対して敬して和した歌を歌った人も、それまでも周りで聞かされている人も、漫然と替え歌のど自慢を耳にしているだけということになる。耐えられない退屈さである。おもしろくないことは覚えられることはなく、編纂したとされる人は最初の歌を作った家持であるとされるが、誇りをもって自身の作を採録することはないだろう。
二
何がおもしろかったか。万葉の歌は言葉遊びである場合がきわめて多いから、それがおもしろかったのであろう。最初の万4000番歌の長歌後半部分に、歌句に現れていて明らかである。「
万代の
語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて
羨しぶるがね」。タチヤマという言葉を告げれば羨ましがること間違えなしと言っている。言葉が問題なのであって実景など適当に見繕っている程度ということになる。当該歌群はこれまで十分に理解されてこなかったのである。
最初の「立山賦一首」(万4000)の題詞には「此立山者有新川郡也」
(注3)と脚注があって殊更に強調されている。歌のなかで出てくる地名としては、「
越の
中」、「
新川」、「
立山」、「
片貝川」がある。これらの地名に関連した語呂合わせが行われていると考えられる。
最初の「
越の
中」は越中国のことで言わずもがななのであるが、解釈が定まっているわけではない。「
天離る
鄙に名
懸かす」はどこに懸かっているのかが問われている。「懸かす」の「「す」は「
越」の国の神に対する尊敬語。」(集成本98頁)なる説がある。そして、「立つ」ということを名に懸けて、名高い、の意ゆえ「その立山の」に掛かるとする説(橘千蔭・万葉集略解所引の本居宣長説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874431/1/145)、大系本229頁、全集本214頁、中西1983.121頁、橋本1985.239〜240頁、多田2010.312頁、新大系文庫本387頁、稲岡2015.230頁)があり、「以下九句は「その立山」を修飾する挿入句。」(多田2010.312頁)などと説明されている。他方、直下の「越の中」に掛かるとする説(契沖・萬葉代匠記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/146)、鴻巣盛広・萬葉集全釈(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259724/1/151)、武田1957.477頁、窪田1985.278~279頁、廣川2003.153〜154頁、阿蘇2013.221~222頁)がある。「「鄙に名懸かす」は、その地方で有名な、の意。」(阿蘇2013.222頁)などと説明し、「都から遠く離れた地方で名高い越の中の国の至る所に」(同221頁)と訳している。
言葉尻というものがわかっていない。次の歌は、柿本人麻呂が作った明日香皇女への挽歌である。
……
御名に
懸かせる
明日香川 ……(万196)
名に負っている、の意である。万196番歌の場合のスは尊敬の助動詞ととれはするが、万4000番歌の場合は自発の助動詞と捉えたほうがいいだろう。名に負うことについては、固有名詞である地名は、根拠が先にあって名づけられたわけではなく、すでにそう呼ばれていたものに対してこじつけをして理解の足しにすることが行われた。すなわち、「
鄙に名
懸かす」とは、
鄙という言葉に自発的に
懸かっている、の意である
(注4)。都ではなく鄙であるとは、都から国境を乗り越えてやってきたところのことである。乗り越えてやってくることは古語で「
越」というから、その名のとおり鄙に値するというわけである。鄙であることを地名「
越」は勝手に懸かっていると言っている。「
鄙に名
懸かす」は「
越」を導く枕詞的序詞とも呼び得るであろう。
これは歌である。だらだらと言葉を発し続けている時、九句飛ばして懸かっていることはあり得ない。聞いている人のメモリー機能のキャパシティを超えている。「
新川の その
立山に」の「その」を九句飛ばしの理由、思い出させるための指示詞と捉える説もあるが、題詞の脚注に「此立山者有
二新川郡
一也」と念を押しているように、ニヒカハとタチヤマとの意外な結びつきを暗示するための言葉であろう。この続き方の所以として考えられることは、ニヒカハが、ニヒ(新)+カハ(革)、新しく鞣された皮革を示唆している点にある。新しく作った鞣革を使って作った鞘におさめて整ったタチ(大刀)、そのタチという音を持ったタチヤマ(立山)に、云々、と続いて行くということである。その前にあるのは「
皇神の
領きいます」である。ウシハクとウシ(牛)が出てきていて、牛革がイメージされていたのだとわかる。これによって、越中国の二つの地名の地名譚がなるほどと思われるのである。タチヤマ(立山)はニヒカハ(新川)の郡にあって然るべしということであり、ゆえに、「
新川の
その立山に」と強調して言っている。
黒韋包金桐文糸巻太刀(室町時代、
東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035215をトリミング)
「
常夏に 雪降りしきて」
(注5)とあるのも、鞘の話をしているからである。サヤという音は、サヤ(清)、サヤカ(亮、涼)、サヤケシ(分明)などの意をも表す。サエ(冴)と同根の語で、冷たく、くっきりと澄んでいるさまをいう。冷たいから夏でも雪が降っておかしくないのであり、夏じゅう雪が消えないというのは印象的なできごとである。けっして消えることがなく、雪の存在がくっきりしている。それをサヤという状態言が表している。実際、雷鳥の生息域にある万年雪は氷河であることが確認されている。むろん、現実を写実的に表そうと意図したわけではないが、結果的に言葉巧みに言い当てている
(注6)。
タチヤマという音は、タチ(大刀)が山のようにあることを言っている。同じ刀剣類でも諸刃のツルギ(剣)のことではなく、片刃の大刀である
(注7)。越中国で立山(連峰)をめぐる川は片貝川である。
カタカヒカハの名のとおり、半分ぐらいしか立山をめぐっていない。川が交差して両側から包んでいるのでもなく、片側からしか流れていない、ないしは、その名を体するのに十分な流路を形成している。カタカヒの対義語はマガヒ(紛)である。マガフ(紛)という動詞のうち他動詞になると、入り乱れてあるものを他のものと見間違え、区別がつかなくなることの意になる。
吾が丘に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を
乱へつるかも(万1640)
マガフことがないのがカタカヒ状態である。二つの河川が交わる時、清流と濁流とが流れ込んでどちらの川の水であるか区別がつかなくなっていることがある。そういうことなく、上流から流れてきた水はどこの瀬をとってみても清らかなまま流れてきていると言っている。そして、そこから沸き立った霧も、けぶってよく見えずに紛うことへと影響を及ぼすことがない。なぜなら、タチヤマなのだから、そこの霧は必ずタツ(断、絶)に決まっているというのである。霧という言葉自体、キリ(切)と同音である。
地名譚としてこのように定めてしまえば、「
語らひぐさ」
(注8)として長く受け継がれ、皆羨ましがるであろうと述べている。「
万代の
語らひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ」は、都へ帰って土産話にしようということではない。興味深いことに、「人にも告げむ」と意志を表しているが、何を告げるかと言えば、いま歌にしているその歌の内容をである。歌のなかで歌っていることをそのまま告げると歌っている。
枠組みを設けずに論理階型を撞着させたもの言いである。このようなパラドキシカルなもの言いこそ、ヤマトコトバの論理術の特徴である。ある言葉が別の言葉と同じ音だからということでこじつけてしまう思考をくり返していれば、言葉は入れ籠構造としながら表に現れることになり、メビウスの輪、クラインの壺のような様相を呈することになるのである。
大伴家持の「立山賦」は立山の地名譚であった。中国詩文の「賦」は、万葉集の題詞において、いかにも万葉集らしく転義されて用いられている。立山の情景を歌い、讃えていつつ、その実、地名の由来を語呂合わせによるこじつけで新解釈として披露し、洒落が利いていておもしろいだろうと誇るものであった。
事=
言であり、その限りで誤謬なくカタル(語、騙)ることができた時、歌の場に居合わせた人たちは、言葉の魔術師にすべての興味を持って行かれたのであった
(注9)。
三
池主の「敬和」した一首、万4003番歌については議論が絶えない。「朝日さし そがひに見ゆる
神ながら
御名に
帯ばせる 白雲の
千重を押し別け
天そそり 高き
立山」を考えるとき、朝日のさす方向と立山の方向とばかりを見比べて、背中の方に当たると考えて「そがひに」関係を理解しようとしている。しかし、歌われて宙に放たれる言葉の連なりにおいては人々のメモリーの容量を超えている。そんなに離れている言葉どうしだけを対比させることはあり得ない。「そがひに」は背反している状態のことを指している
(注10)。何が背反しているのか。朝日がさし込んでいる方向と立山の見える方向とばかりでなく、「朝日さし」のサシ(刺)と「立山」のタチ(断)とである。立山はタチヤマ(大刀山)であると聞こえる。タチ(大刀)は刺すことを主眼に作られたものではなく、断ち切ることを主目的として作られた刃物である。その点が背反して見えることを「そがひに見ゆる」と言っている。「
神ながら
御名に
帯ばせる」とはもちろん「立山」という名のことを指している。実景として朝日はさしているのだろうが、それとは反対ごととしてタチヤマという名の山があり、日の差す方向とは違う方に見えている。その妙を示す言葉が「神ながら」である。神意のままに、の意であると無批判に受け止められているが、どこに神は存在すると考えているのだろうか。ヤマトコトバを第一に重んじた上代の人は、言葉のなかに神がいると考えた。もちろん、それぞれの言葉に恣意的に神が宿ると考えていたわけではなく、Aという言葉はどうしてそう言うのだろう、その音の意味するところは別の言葉Bでもある。すると、Aという言葉とBという言葉とはどこかに通底する意味合いを含んでいるはずだと、時には強引に理屈づけて考察に及んでいた。その時、考えオチとして頓知的解釈が成り立ったなら、なるほどヤマトコトバは神憑っていると納得し、それを「神ながら」と表現している。
池主は家持のモチーフを敬んで受け継ぐ形で和える歌にしている。タチ(大刀)の山のことをさらに深めて言おうと試みている。家持は「霧」としていたが、池主は「雲」と変えている。名刀「
天の
叢雲」
(注11)のことを思い浮かべているものと思われる。「
古ゆ あり
来にければ」という句が正しく成り立つためには、事実としてそうだというその土地の人の昔語りだけではなく、
古からの、今日、神話と呼ばれる言い伝えが必要である。「あり
来にけり」に推量を示す言葉は含まれていない。
しかし、それは「
天の
叢雲剣」であり、諸刃である。片刃のタチ(大刀)ではない。だからこそ、白雲を帯びていながらタチ(断、絶)てしまうところがあって、それこそがタチヤマ(立山)なのだと強弁している。白雲を断って、さらには突き抜けて、天に向けそそり立っている。遠く眺めてみると、なるほど言葉どおりにそうなっていて、白雲が何重にもかかるものの、その白雲を断って押し別けるように聳え立っている。すなわち、タチという一語(音)のもとにタチ(断)でありつつタチ(立)であるという、背反していながらも無矛盾な状態、すなわち、「そがひに」状態になっている
(注12)。
「そがひに」という語を持ち出して長歌を作った作者、大伴池主の修辞力は、今日から見れば異常に優れていると思われるかもしれない。けれども、上代の人、少なくとも歌をやりとりしている家持と池主、ならびにそれを聞いている人たちは、その時、その場で難なく理解したことであろう。つまり、理解を超えたものではなかった。うまくできているなと感心されはしても、それ以上のものではない。なぜなら、それ以前に誰かが、背反性、裏腹性を示す「そがひ(に)」という言葉を考案した時点で、すでに考え済みのことだからである。言葉の核心を突いてうまく応用して使っているから、おもしろいと思われ、皆が興ずることができたのである。
四
二首ずつ付けられている短歌(絶)も形、内容とも「敬和」して対称形を成している。
立山に 降り置ける雪を
常夏に 見れども飽かず
神からならし(万4001)
立山に 降り置ける雪の 常夏に
消ずてわたるは
神ながらとそ(万4004)
五句目の「
神からならし」、「
神ながらとそ」の意は、これまで、立山が神の山であってその性格に違わない、神そのままの姿としてある、などと解されてきた。これらは理解し難い。他に
神奈備山とされる山で万年雪をいただいているところは知られない。尋常ごとではないから神さまの仕業だろうと考えることも違和感がある。見てきたように、言葉の魔術師たちが言葉巧みに歌を作っている。彼らが専念して考えていることは修辞であり、語呂合わせである。そして、トコナツという言葉を用いている。雪は夏にはふつう見られないが、トコナツ二はあるのだと言っておもしろがっている。どうしてそんなことが言えるかと言えば、トコ(常)はトコ(床)と同音だからである。万年床のように雪が降り置いている。ヤマトコトバはこのようにうまい具合にできている。まさに神の性格ゆえらしい、神の意向ということである、と言っている。言葉のアヤを「
神から」、「
神ながら」と表現しているのである。
片貝の 川の瀬清く
行く水の 絶ゆることなく あり
通ひ見む(万4002)
落ち
激つ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も
止まず通はむ(万4005)
カタカヒの対義語がマガヒ(紛)だから、カタカヒは紛うことがないことを指していると上に述べた。家持は片貝川は他の濁った川と交わらないからどこの瀬でも清らかだと言っている。池主は片貝川は紛れもなく存在しているということで、絶えなく流れるさまを表している。この捉え返しのうまさは、第一に、「立山」をタチ(断)と絡めて考えていたこととあわさることになって意味の強化が図られている点にある。第二に、長歌で
古からの言い伝えを含意して歌っていたことを、ここで今後のことへと転じて時間軸の上に据えているところにある。
以上見てきたように、大伴家持の「立山賦」、大伴池主の「敬和立山賦」は、言葉遊び(Sprachspiel)の歌である。言葉だけでやりとりし得る限りで最大限の言語ゲーム(Sprachspiel)のあり方としてヤマトコトバの歌は歌われ、それをもって歓びとしていた(らしい)。無文字時代の言葉は、耳に届くものでしかやりとりできなかったのである
(注13)。
(注)
(注1)「賦」と記されている三首(また池主の「敬和」歌を含めて五首)について、山田孝雄『万葉五賦』の、「都人士に語らひ草として見せむの下心もありしならむ思はる。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1340920/1/23)とする指摘が罷り通っている。鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』の、「任地にある名所を賦して、都への土産とする考であつたかも知れない。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1225871/1/51、漢字の旧字体は改めた)を承けている。
家持が「賦」と記した越中での長歌三首には、題詞に小注が付けられていて地理的情報を記している(「此山者有
二射水郡
一也」(二上山賦)、「此海者有
二射水郡旧江村
一也」(遊
二-覧布勢水海
一賦)、「此山者有
二新川郡
一也」(立山賦))。歌中でも風土にまつわる歌いまわしが行われており、それをもって山田氏のような言い分は生まれているわけだが、そんなことが行われたとは思われない。越中の地誌的知識を都で語ったとして誰が聞くだろうか。知らない土地の、今後とも交わることのない場所について、想像の翼を広げて思いを致すほど暇ではない。わざわざ小注を付けているのは念を押しているのである。そこにあるイミヅ(射水)、フルエ(旧江)、ニヒカハ(新川)という音が及ぼすヤマトコトバの膨らみを駆使して歌を作っている。だからそれをヒントになぞなぞを解いて欲しいと断っているのである。上代びとにとっての歌とは、音声言語の戯れであった。
歌はその時、その場で聞いて意が理解され、共有されるものである。後になってよくよく考えて意が通じても役に立たない。周りにいる人を巻き込んで場を盛り上げる形で命脈を保つものが一回性の芸術、上代の歌である。そのために詠まれている。したがって、家持が越中でどのように暮らし、どのような人事があって異動となるのかを調べてみても、歌の内容を繙くことに資することはほとんどない。なぜ題詞に「賦」と称されているのかについても、文選などの中国詩文の影響があり、池主との間で詩歌の応酬をすることで中国趣味が高まっていた(辰巳1987.)といえばそのとおりであろうけれども、それは記述の問題で、人々の前で歌を披露した時に表明されたものではない。池主は「敬和」と承け、「并二絶」とあって、「賦」に対して「絶」という中国詩文の用語を持ち出している。これとても、周囲の人にとって「絶」として聞かれたのではなく、ウタとして聞かれたことに違いあるまい。ちょっと格好をつけて書いてはみたものの、結局流行らずに終わっている。
行幸で宮廷人が連れ立って行っている地の地名を持ち出しているのではなく、ただ家持が赴任しているところの地名を持ち出しているにすぎない。ヤマトコトバの中心地とは距離があるのに歌の文句にしていたら、ほとんど東歌レベルになるわけであるが、ただその地の景観を歌っているのではなく、都にいる人たちを含めてヤマトコトバを話す人なら誰にでもわかり、おもしろがられる歌を創案したから皆さん聞いてくださいね、という意図をもって「賦」などと特別な名称を付けているのであろう。中国詩文の「賦」は漢字でずらずら書き連ねられているが、漢字が皆読める(ことを前提としている)のが中国の学芸水準の基本であった。(芳賀1996.は文選の初めから見られる長い賦ではなく、小篇の賦、経国集に収められている藤原宇合・棗賦のように「乱」の添えられていないものを引き合いに出しているが、家持の意図するところは、ずらずらと連なっていて一見理解できないかも知れないと思われるということを示そうとして「賦」と書いているものと考える。)彼の地の人がいちいち漢字をたどっていけば理解できるように、一見知らない地名が出てきたとしても、ヤマトの人ならその言葉をいちいちたどっていけばわかるようになっている、そういう歌のことを示そうとして、中国詩文の「賦」という書き方を採用したものと思われる。中国に影響されて受動的に「賦」という書き方をしているのではない。
(注2)諸論による。数多くの論者が、歌句が同じである、または似ているということを理由にして、立山賦以前に歌われた歌からの影響を指摘している。以前歌われた歌の歌句を継ぎ接ぎした時、歌意も以前歌われた歌と同じであると言うことらしい。万葉の時代に換骨奪胎はなかったとの主張なのか。筆者自身はこの次元の議論に与しない。
(注3)翻って、万196番歌の「懸かす」も、明日香皇女のお名前につけておいでの明日香川、という意ではなく、明日香皇女のお名前に自発的に懸かっている、勝手に名前がゆかりあるものになっている明日香川、という意味に受け取るべきである。
(注4)原文は校訂において、西本願寺本のような「此山者……」ではなく、「此
立山者……」(元暦校本等)と「立」字があるのが正しいだろう。理由は以下に述べている。
(注5)「
常夏に」という語については、夏中通して、ととる説と、夏に限らずいつも、ととる説と、今を盛りの夏に、ととる説があげられている。雪を頂いている立山の表現を、常夏の島ハワイという現代語から推測することはできそうにない。「
常初花に」(万3978)が、いつも咲き始めの花のように初々しいことを言おうとした表現であることから鑑みれば、いつも夏である時のこと、つまり、毎年夏が来た時にその間じゅう、のことを言っていると考えられる。つまり、トコナツ二という言い回しは、助詞の二の意味が効いているのである。冬はもちろん、春や秋であっても雪が降ることはある。しかし、夏に雪が降ることは想定されない。だから、夏という季節の間にまでも、それは毎年のことであるが、雪が降りしきっているということを言っている。
(注6)言い当てることこそ、
事が
言と相即となるという点で上代の言語使用の根幹をなしている。無文字時代にあって、
事が
言と一致するように努めることが、上代の人たちが言葉を使うに当たっての第一目的であり、「
言霊の
幸はふ国」(万894)と呼べる言語空間の完成形であった。
(注7)全集本では、「立山」を現在の剱岳一帯を指すのではないかとするが、それがツルギダケと呼ばれていたとすると区別がついていないことになる。タチ(大刀)、ツルギ(剣)と別語としてあるのは、カテゴリー分けされていたことを物語る。
(注8)クサという言葉はどこにでもあって何の変哲もない有象無象のものであることを含意する。今後、特別な時、例えば祭礼において述べられる祝詞などの形で伝えられるのではなく、誰もが当たり前のこととして語られることを示す。ヤマトコトバに根を張ったクサ(草)ということである。
(注9)これが万葉集の歌の実相である。今日まで理解されていないのは、テキストがエクリチュールとしてあるため、文字文化のなかにある我々にとっては、空間をいっとき飛んだパロールであったという認識にたどり着きにくいからである。結果、現代の概念を持ち込んで、立山の聖性、国褒め、王権の讃美、漢詩文の影響などというキーワードによって解されている。これまで築いてきた研究土壌の上に皆立っている。しかし、それらは架空、幻想である。万葉集の歌を理解するということは駄洒落を理解することであると認め、高等教育の場に位置づけられる「万葉
学」なるものを解体していくこと、築いてきたものはみな虚構であったと気づいていかなければならない。
(注10)拙稿「そがひについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/02b50c2b4222ebe6fafcd500c7fbe8b3参照。
(注11)「時に
素戔嗚尊、乃ち
所帯かせる
十握剣を抜きて、
寸に其の
蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。
故、其の尾を
割裂きて
視せば、中に
一の剣有り。
此所謂草薙剣なり。
草薙剣、此には倶娑那伎能都留伎と云ふ。一書に曰はく、本の名は天叢雲剣。蓋し大蛇居る上に常に雲気有り。故、以て名くるか。日本武皇子に至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。素戔鳴尊の曰はく、「
是神しき剣なり。吾
何にぞ
敢へて
私に
安けらむや」とのたまひて、
天神に
上献ぐ。」(神代紀第八段本文)と見える。
(注12)万4003番歌で「そがひに」という言葉が「朝日さし」のサシと「御名」=「立山」のタチばかりでなく、「立山」が雲を帯びていながらそのたくさん重なっているのを押し分けてそそり立っているという背反性をも示していると考えている。万4000番歌で九句も飛び越えて懸かるはずはないとしていたのに、「そがひに」という言葉が六句先まで及んでいるのは矛盾しているという意見もあるだろう。だが、万4003番歌は万4000番歌をきちんと承けて「敬和」した作である。池主の「敬和」して漫然と同じことをくり返しているのではなく、違う角度から捉え直すとこういう見方もできるのではないですか、という歌を作っている。モチーフは「そがひに」の一語である。「そがひに」をもって立山を表現し、通奏低音のように「そがひに」という語を全編に響かせている。一見、どうでもいいような対句表現(「冬」と「夏」、「立ちて」と「居て」、「峯高み」と「谷を深み」、「朝去らず」と「夕されば」、「立つ霧の」と「行く水の」)が見えるのも、「そがひに」状況を申し述べていることを強調するために付加されているのだろう。
(注13)近代の識字教育の観点に囚われてこの点を卑下するには及ばない。なぞなぞ的な修辞のレベルは近現代人の理解をはるかに超えている。人類の別の道として、そういう言葉の世界もあったことを我々は知るべきである。
(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1992. 伊藤博「布勢の浦と乎布の崎─大伴家持の論─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
奥村2011. 奥村和美「家持の「立山賦」と池主「敬和」について」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
神堀1978. 神堀忍「家持と池主」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第八集』有斐閣、昭和53年。
窪田1985. 窪田空穂『萬葉集評釈 第十巻』東京堂出版、昭和60年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典文学集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。
鈴木2017. 鈴木道代「立山二賦の成立─家持と池主の越中賦をめぐって─」中西進編『東アジアの知─文化研究の軌跡と展望─』新典社、2017年。
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
大系本 高市市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系7 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
武田1957. 武田祐吉『増訂萬葉集全註釈十一』角川書店、昭和32年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
中西1983. 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。
芳賀1996. 芳賀紀雄「萬葉五賦の形成」伊藤博博士古稀記念会編『萬葉学藻』塙書房、平成8年。
橋本1985a. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
橋本1985b. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
波戸岡2016. 波戸岡旭「大伴家持「越中三賦」の時空」『奈良・平安朝漢詩文と中国文学』笠間書院、2016年。
原田2002. 原田貞義「立山の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
針原2004. 針原孝之「越中三賦」『家持歌の形成と創造』おうふう、平成16年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
藤田2011. 藤田富士夫「万葉集の「そがひ」に関する若干の考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2011年5月。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/701
藤田2012. 藤田富士夫「万葉集「敬和立山賦」の「そがひ」に関する実景論的考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2012年。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/720
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、2010年。(「大伴家持立山賦の特質」『 広島女学院大学論集』第52集、2002年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/807)