古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

俀人(ねぶひと)を謗る歌(万3836)

2024年12月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻十六、3836番歌は「佞人ねぢけびとそしる歌」とされている。

  佞人ねぢけびとそしる歌一首〔謗侫人歌一首〕
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも 佞人ねぢけびととも〔奈良山乃兒手柏之兩面尓左毛右毛侫人之友〕(万3836)
  右の歌一首は、博士はかせ消奈せなの行文ぎやうもんの大夫まへつきみ作れり。〔右歌一首博士消奈行文大夫作之〕
「謗俀人歌一首」(西本願寺本萬葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242469/1/21をトリミング)
 本文校訂により、「俀」字を尼崎本などにより「侫」(「佞」の俗字)に改めている。
 これが理解を阻む原因となった(注1)
 「佞人」ではなく「俀人」であったなら、「倭人」のことになる。魏志に「倭人」とあったのを、隋書では「俀人」としている。歌の作者、博士はかせ消奈せなの行文ぎやうもんは大学寮の教員を勤めた養老年間の学者であり、新羅の人であった。すなわち、「倭人」の特徴を捉えて歌を作っていると解し得るのである。
 康煕字典に、「俀」は「集韻、吐猥切、音腿。シナヤカ也。」とある。ヤマトの人のことを中国では「倭人」「俀人」としている。「倭」については、説文に「倭 したがかほなり、人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遲ゐちたり。」とあり、しなだれるような姿を特徴として捉えていたということのようである。
 歌にはなぜか「児手柏このてがしは」が持ち出されている。葉が縦に立っていて、左右どちらが表とも裏とも言えない。そこで、八方美人に振舞う喩えとして使われている。他の似たような葉ではなく、コノテガシハが選ばれている。カシハ(柏)の類であることが求められているものと思われる。カシハ(柏)は、葉が大きく、神事においてなどに料理をよそう器として利用された。だから、料理人のことを膳夫かしはでという。カシハデには拍手かしはでの意もある。神さまの前で拍手を打って挨拶する。儀式的には二礼二拍手一礼をとることが多く、四拍手することもある。一般には、二回手を打ち合わせて頭を下げて拝むことが多い。この拍手の挨拶は、倭人の慣行として中国、東アジアに知られていた。魏志倭人伝に、「大人のうやまへるにふときは、但だ手をちて以て跪拝きはいに当つ。(見大人所敬、但搏手以当跪拝。)」とある。「搏手」=拍手の礼は我が国独自の法である。
 周礼・春官・大祝に「辨九拝、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉拝、六曰凶拝、七曰奇拝、八曰褒拝、九曰粛拝、以享右祭祀。」とある。その「振動」の語について、鄭玄の注に「動読為董、書亦或為董、振董、以両手相撃也」、唐初の陸徳明の釈に「振動、如字李音董、杜徒弄反、今俀人拝、以両手相撃、如鄭大夫之説、蓋古之遺法。」とある。唐初においても、拍手礼が倭人特有の儀礼であると考えられていたようである(注2)。下記の例、大安寺資財帳の例は、筑紫朝倉宮で病に倒れた斉明天皇が百済大寺の造営を中大兄に託して崩御した時の記事である。

 爾の時に、手をちて慶び賜ひてかむあがり賜ひき。(爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之)(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)
 公卿まへつきみ百寮つかさつかさ羅列あまねをがみたてまつりて、手つ。(持統紀四年正月)
 乙酉、参河国みかはのくにまをさく、「慶雲けいうんあらはる」とまをす。ほふし六百口をくつして西宮さいくう寝殿しむでん設斎をがみす。慶雲見るるを以てなり。是の日、緇侶しりよの進退、また法門ほふもんおもぶき無し。手を拍ちて歓喜くわんきすることもは俗人ぞくじんに同じ。(続紀・神護景雲元年八月)

 日本在来の儀礼として、慶賀・歓喜を表現するのに拍手礼が行われていたことを示している。これが新羅人の消奈行文(注3)には珍しかったから歌に詠んでいる。彼は新羅から来日する前に、漢籍を読んで倭国のことを勉強していたのだろう。文献にはほかにも次のようにも書いてある。

 俗は盤爼ばんそ無く、くに檞葉かしはを以てす。食ふに手を用ゐてくらふ。(俗無盤爼、藉以檞葉、食用手餔之。)(隋書・俀国伝)

 俀人はカシハを食器にして手づかみで食べているという。実際に目にしてみると少し事情は異なるが、勉強した本の内容が完全に誤りであったわけではなさそうである。書物には祭祀場面ばかり重視して書いてあったということのようである。多少のギャップを埋めるべく、頓智を利かせた歌を詠もうとした。漢籍に「俀人」と書いてあったことを「そしる歌」としている。単にそういう人をけしからんと言っているのではなく、ヤマトの人のことをそのように記していることが不親切だと指摘しつつ、当然ながら人前で座興として歌を歌うのだからおもしろくなくてはならない。歌の勘所は頓知にある。
 「倭人」≒「俀人」である。ヤマトの人は礼をして頭を下げたり上げたりしつつパチパチと手を叩いている。「俀」という字は、人偏に妥の旧字体である。礼の仕方として「妥」という言葉は使われている。「天子にはることかふよりのぼらず、おびよりくださず。国君には妥視だしし、大夫には衡視かうしし、士には視ること五歩ばかりす。(天子視不上於袷、不下於帯。国君、妥視、大夫、衡視、士視五歩。)」(礼記・曲礼下)とある。「妥」は「綏」の意である。えりもとの上あたりを見ることを言った。挨拶の礼として頭を下げたり上げたりしている。そういう人たちなのだというのが、「俀人」と記された理由なのだろうと解釈している。
 そして、手を拍つ様子を植物のコノテガシハと絡めて語るとするならば、葉がどちらからも表となって剥げないのとは異質な状態、手を打ち合わせるように葉を合わせて裏だけになる植物のことを思い浮かべて対比させていると考えられる。ネムノキである。ネムノキは夜になると葉を閉じて眠る。古語ではネブリ、ネブリノキ、ネブと言った。ネムノキのことを「合歓木」と記すところは、歓喜を表すのに拍手礼が行われていたことをよく表すものである。拍手かしはでを打って手を合わせるように寝ている。

 昼は咲き 夜は恋ひる 合歓木ねぶの花 君のみ見めや 戯奴わけさへに見よ(万1461)
 合歓樹 无採時、祢夫利ねぶり(新撰字鏡)
 合歓木 唐韻に云はく、棔〈音は昏、禰布利乃岐ねぶりのき〉は合歓木、其の葉は朝に舒び暮にをさむる者なりといふ。(和名抄)
 眲 莫卑反、眠也、目合也、祢夫留ねぶる、又伊奴いぬ(新撰字鏡)
 ひてねぶる。(神代紀第八段本文)
 既にして穴穂天皇あなほのすめらみこと皇后きさきの膝に枕したまひて、昼ひて眠臥みねぶりしたまへり。是に、眉輪王まよわのおほきみ、其の熟睡とけてみねませるを伺ひて、刺しせまつれり。(雄略前紀安康三年八月)
 猿、なほ合眼ねぶりて歌ひて曰はく、……(皇極紀三年六月)
左:コノテガシワ、右:ネムノキ(夜間)
 すなわち、万3836番歌は、「倭人」≒「俀人」がお辞儀をしたり手を叩いたりする礼について、居眠りをしては手を叩いて起こそうとしている、または、それでも上瞼と下瞼がついて寝入りそうになるうところと見て取ったのである。ヤマトの人はカシハデを重んじている。神さまに祈りを捧げる時、拍手を打ち、膳夫にお供えを作らせ、串を使って柏の葉を器の形に象って饌物を供えている。拍手を打ってお祈りをするのにどこの神さまと分け隔てすることなく、その時その時で都合のいい神さまに対して「両面ふたおもに」お願いをしている。その都度お辞儀をして手を打っていて、その都度居眠りをしては手を打って起きている。ことほど左様に「かにもかくにも」、「倭人」は眠くてたまらない「俀人ねぶひと」なのだと洒落ている。その一大集団がヤマトの人である。ヤマトの人たちは本に書いてあったように、「俀人ねぶひととも」だと気づいたというのである。

  俀人ねぶひとそしる歌一首
 奈良山の 児手柏このてがしはの 両面ふたおもに かにもかくにも 俀人ねぶひととも〔奈良山乃児手柏之両面尓左毛右毛俀人之友〕(万3836)
  ヤマトの人のことを隋書に「俀人」と書いてあるところから着想を得たが、「俀人」の意味するところの居眠りする人のことを感心しないと思う歌
 奈良山のコノテガシワが両面とも表を見せるのと同じように、膳夫が料理を供えては拍手を打ってはお辞儀するのがヤマトの人の習わしのようだが、その仕種、実際のいずれにせよ、居眠りをこいている人ばかりの集団のようになっていて東アジア世界で浮いていないかなあ。

(注)
(注1)「佞人」をネヂケビトと訓むと字余りになるから、他の訓み、コビヒト、カダヒト、また、音読みしてネイジンも試みられている。
 「佞人ねぢけびと」に限らずいずれの訓みでも、皆、権力者に対して媚びへつらい、あちらにもこちらにもいい顔をする人のこと、右顧左眄のおべっか野郎の意味と捉えられ、それを揶揄、非難する歌であろうとする解釈は定着している。「なら坂や児の手がしはのふたおもてとにもかくにもねぢり人かな」(南都名所集)、「奈良坂や児の手柏の二おもてとにもかくにも侫人ましけひとかな」(南都名所八重桜)などへと流伝している。
(注2)西本1987.に負っている。西本氏は内裏儀式の「両段再拝・拍手・揚賀声」が内裏式で「再拝・舞踏・称万歳」へと変わっていることを指摘している。
(注3)又詔して曰はく、「文人ぶんじん武士ぶしは国家の重みする所なり。……百僚きやくれうの内より学業がくげふ優遊いういうし師範とあるに堪ふるひとぬきいだして、こと賞賜しやうしを加へて後生こうせいを勧めはげますべし。」とのたまふ。因りて、……第二の博士正七位上背奈せな行文かうぶん・……に、各あしぎぬ十五疋、糸十五絇、布卅端、鍬廿口。(続紀・養老五年正月)
 従五位下大学助背奈王行文 二首(懐風藻)

(引用・参考文献)
白川・字通 白川静『字通』平凡社、1996年。
西本1987. 西本昌弘「古礼からみた内裏儀式の成立」『史林』第70巻第2号、1987年3月。京都大学学術情報レポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/238914
橋本2006. 橋本亜佳子「佞人を「謗る」歌─萬葉集巻十六・第二部の題詞の特質─」『古代中世文学論考 第17集』新典社、平成18年。
山﨑2024. 山﨑福之「「佞人」とネヂケビト」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。
※上記、橋本、山﨑論文に引く参考文献は割愛した。「佞人」ではなく「俀人」について論じた。

山部赤人の難波宮の歌(万933)について─巻六配列付け足し説─

2024年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻第六の万928~934番歌において、笠金村、車持千年、山部赤人の作歌がつづいている。

  冬十月、難波宮なにはのみやいでましし時に、笠朝臣金村かさのあそみかなむらの作る歌一首〈并せて短歌〉〔冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作謌一首〈并短謌〉〕
 おしてる 難波なにはの国は 葦垣あしかきの りにし里と 人皆の 思ひ休みて つれも無く ありしあひだに 続麻うみをなす 長柄ながらの宮に 真木柱まきばしら 太高ふとたか敷きて 食国をすくにを をさめたまへば 沖つ鳥 味経あぢふの原に もののふの 八十やそともは いほりして 都なしたり 旅にはあれども〔忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都礼母無有之間尓續麻成長柄之宮尓真木柱太高敷而食國乎治賜者奥鳥味経乃原尓物部乃八十伴雄者廬為而都成有旅者安礼十方〕(万928)
  反歌二首〔反謌二首〕
 荒野あらのらに 里はあれども 大君おほきみの 敷きます時は 都となりぬ〔荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿〕(万929)
 海人あま娘子をとめ 棚なし小舟をぶね 漕ぎらし 旅の宿りに かぢおと聞こゆ〔海未通女棚無小舟榜出良之客乃屋取尓梶音所聞〕(万930)
  車持朝臣千年くるまもちのあそみちとせの作る歌一首〈并せて短歌〉〔車持朝臣千年作謌一首〈并短哥〉〕
 鯨魚いさなとり 浜辺はまへを清み うちなびき ふる玉藻たまもに 朝凪あさなぎに 千重ちへなみ寄せ 夕凪ゆふなぎに 五百重いほへ波寄す つ波の いやしくしくに 月にに 日に日に見とも 今のみに 飽きらめやも 白波の い咲きめぐれる 住吉すみのえの浜〔鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻尓朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布尓月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開廻有住吉能濱〕(万931)
  反歌一首〔反歌一首〕
 白波の 千重に来寄きよする 住吉の 岸の黄土はにふに にほひてかな〔白浪之千重来縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名〕(万932)
  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉〕
 天地あめつちの 遠きがごとく 日月ひつきの 長きがごとく おしてる 難波なにはの宮に わご大君おほきみ 国知らすらし 御食みけつ国 日の御調みつきと 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば〔天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮尓和期大王國所知良之御食都國日之御調等淡路乃野嶋之海子乃海底奥津伊久利二鰒珠左盤尓潜出船並而仕奉之貴見礼者〕(万933)
  反歌一首〔反謌一首〕
 朝凪あさなぎに かぢおと聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし〔朝名寸二梶音所聞三食津国野嶋乃海子乃船二四有良信〕(万934)

 これらの歌は、神亀二年(725)の聖武天皇難波行幸の際に詠まれたものと考えられている。なかには、金村、千年、赤人の「三歌人による連作的なものを感じる」(久米1970.668頁)とされることもあるが、それぞれの歌を吟味すると、「赤人は金村、千年の作を聞き知った上で(前々からの分担としてではなく)、自己の歌の内容を工夫していったことになる。」(坂本1989.49頁)との指摘もある。題詞に「冬十月、幸于難波宮時」と期日指定があるのは最初の笠金村の歌(万928~930)である。車持千年と山部赤人の歌についてはただ後に続けて記されているだけのこと、いつ詠まれたのかは不明である。車持千年の歌(万931・932)には「住吉」と地名が出てきて難波宮から行っていると考えられるわけだが、それがいつのことか本当のところはわからない。ただ、歌意に特段際立ったところはなく、笠金村同様、神亀二年十月の、平城京から行幸した時の作と見ても齟齬は起こさない(注1)
 一方、山部赤人の歌(万932・933)の場合、歌の言葉に「難波宮」とあり、笠金村の歌にある「長柄の宮」とは呼び方が異なっている。笠金村が行幸に従って歌ったとき、そこはいまだ天皇が常在する都ではなく、あくまで「行幸」である。対して、山部赤人が歌っている時は、「難波宮」が既成事実化している後期難波宮の時、あるいはそこへの遷都が現実味を帯びていた時の歌であると考えられるのである(注2)。つまり、赤人歌は、正式な都にふさわしく造営工事をした後に歌われているということになる。実際、神亀四年以降、造成工事が進められている(「造難波宮雇民、免課役并房雑徭。」(神亀四年二月)、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等已下、仕丁已上、賜物各有差。」(天平四年三月)、「正五位下石川朝臣枚夫為造難波宮長官。」(天平四年九月)、「陪従百官衛士已上、并造難波宮司・国郡司・楽人等、賜禄有差。免-奉難波宮東西二郡今年田租調、自余十郡調。」(天平六年三月)、「班-給難波京宅地。三位以上一町以下、五位以上半町以下、六位以下四-分一町之一以下。」(天平六年九月)、「任装束次第司。為難波宮也。」(天平十六年正月))。
 難波京遷都は、恭仁京遷都同様、聖武天皇が決めたことである。だが、天平十六年(744)に恭仁京にあって、都をどこにするか朝議に諮っている。不思議なことが行われている。

○閏正月乙丑の朔に、詔して百官を朝堂に喚し会へ、問ひて曰はく、「恭仁・難波の二京、いづれをか定めて都とむ。おのおの、其の志をまをせ」とのたまふ。是に、恭仁京の便宜へんぎぶるひと、五位已上廿四人、六位已下百五十七人なり。難波京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿三人、六位已下一百卅人なり。○戊辰に、従三位巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣し、市に就きて京を定むる事を問ふ。市の人、皆恭仁京を都と為むことを願ふ。但し、難波を願ふ者一人。平城ならを願ふ者一人有り。(続紀・天平十六年閏正月)

 こうなってくると俄然形勢が変わる。遷都のために「行幸」しそうな気配が出てくる。正式な都をどこと定めているのか、以下、続紀の行幸、遷都、宮にまつわる記事を見ていく。

天平十六年(744)閏正月
○乙亥(11日)、天皇行-幸難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・民部卿従四位上藤原朝臣仲麻呂留守。是日、安積親王、縁脚病桜井頓宮還。
同二月
○二月乙未(1日)、遣少納言従五位上茨田王于恭仁宮、取駅鈴・内外印。又追諸司及朝集使等於難波宮
○丙申(2日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弖麻呂、持留守官所給鈴印、詣難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・木工頭従五位上小田王・兵部卿従四位上大伴宿禰牛養・大蔵卿従四位下大原真人桜井、大輔正五位上穂積朝臣老五人、為恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人・左京亮外従五位下巨勢朝臣嶋村二人、為平城宮留守
○甲辰(10日)、幸和泉宮
○丁未(13日)、車駕自和泉宮至。
○甲寅(20日)、運恭仁宮高御座并大楯於難波宮、又遣使取水路-漕兵庫器仗
○乙卯(21日)、恭仁京百姓情-願遷難波宮者、恣聴之。
○丙辰(22日)、幸安曇江-覧松林。百済王等奏百済楽
○戊午(24日)、取三嶋路、行-幸紫香楽宮。太上天皇及左大臣橘宿禰諸兄、留在難波宮焉。
○庚申(26日)、左大臣宣勅云、今以難波宮定為皇都。宜此状、京戸百姓任意往来
同三月
○三月甲戌(11日)、石上・榎井二氏、樹大楯槍於難波宮中外門
○丁丑(14日)、運金光明寺大般若経、致紫香楽宮。比朱雀門、雑楽迎奏、官人迎礼。引導入宮中、奉安殿。請僧二百、転読一日。
○戊寅(15日)、難波宮東西楼殿、請僧三百人、令大般若経
同四月
○夏四月丙午(13日)、紫香楽宮西北山火。城下男女数千余人、皆趣伐山。然後火滅。天皇嘉之、賜布人一端。
○丙辰(23日)、以始営紫香楽宮、百官未成、司別給公廨銭。惣一千貫。交閞取息、永充公用。不-失其本。毎年限十一月、細録本利用状、令太政官
同七月
○秋七月癸亥(2日)、太上天皇幸智努離宮
○戊辰(7日)、太上天皇幸仁岐河。陪従衛士已上、無男女、賜禄各有差。
○己巳(8日)、車駕還難波宮
同十月
○庚子(11日)、太上天皇行-幸珎努及竹原井離宮
○壬寅(13日)、太上天皇還難波宮
同十一月
○癸酉(14日)、太上天皇幸甲賀宮
○丙子(17日)、太上天皇自難波至。

 「和泉宮」や「紫香楽宮」、「智努離宮」などはこの時点で都ではなく、あくまでも行幸したり法事をさせた先の行宮である。天平十五年十二月には「至是、更造紫香楽宮。仍停恭仁宮造作焉。」こととなり、あまり恭仁京の居心地は良くなかったようである。そして、天平十六年二月には難波京へ遷都し、天平十六年時点で「還」る所として「難波宮」をあげている。ただし、「恭仁京」、また、「平城宮」に「留守」官を置いている。
 この情勢を総合的に勘案すると、二京態勢(複都制)をとって難波京を定めたものと考えられる。複数の都を置く形をとって新たに「難波宮」にて天皇が「国知らす」時、天平十六年に歌われたのが、赤人歌であったと推定される。以下、その仮説を検証する。
 長歌では、前半に難波宮で天皇が統治することが歌われている。後半では淡路の野島の海人が鰒を取って珠を献上することが歌われている。一首だけある反歌では、長歌後半の野島の海人のことだけを承けてその船の楫の音が聞こえると歌っている。長歌と反歌との関係として、後半だけしか反映していないところは不審と言わざるをえない(注3)
 この関係をどう捉えたらいいか。上代の人の身になって検討する。事は上代の人の常識において理解されなければならない。そうでなければこの歌が歌われることも、万葉集に採録されることもないからである(注4)
 長歌前半部の冒頭四句「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」については、慶雲四年七月の詔(第三詔)にある、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く不改常典あらたむましじきつねののり」が意識されているとする説(注5)が有力視されている。
 この「不改常典あらたむましじきつねののり」については、嫡系相続の原理を天智天皇が定めたフカイジョウテンなるものがあったと推測され、ほとんど定説化している。大宝令以前に近江令があったと推測されもするが、記録に見られない。筆者は、そのようなものはなかったと考えている。天皇の位は、親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが自然な流れとされよう。しかし、後継者として皇太子が定められているにもかかわらず、事情があって時にイレギュラーな嗣ぎ方をすることがある。天智天皇(中大兄)は舒明・皇極天皇の子であり成人していたが、蘇我氏を滅ぼしたクーデターの後、自分では位を継がずに叔父に当たる孝徳天皇(軽皇子)に譲り、自らは皇太子の地位のまま政治に参与した。同様のことが起きていたことについて、文武天皇が語っているのが第三詔である。祖母の持統天皇の言葉として、幼い自分が持統から位を譲られつつ共治する形をとったことを述べている。第五詔では、元明天皇がその娘でありながらも独身の元正天皇へ位を譲ったことについて述べていて、以後は元明系列の子孫を天皇にするようにと言っている。聖武天皇(首皇子)はまだ幼かった。第十四詔では、聖武天皇が叔母に当たる元正天皇から譲位されたときに聞いたことを述べている。それらを「不改常典あらたむましじきつねののり」と呼んでいる。すなわち、「不改常典あらたむましじきつねののり」とは、世の中にはいろいろと決まりがあって天皇位の継嗣順も親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが通例だと決まってはいるが、そんな決まり事を超えて臨機応変に対処すべきであることを指している。時に超法規的な措置を講ずることによって世の中は丸くおさまり、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」天皇代は続くのである。情勢により、決まりに縛られないでうまく進めること、それこそが、どんなことがあっても改めるには及ばない、決まりごとを超えた決まりごとなのである(注6)
 「不改常典」という典範が存在していたわけではなかった。歌においてももちろん、それに従った文言として「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しが歌われているわけではない。そもそも、詔に登場する「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」という文言とは言い方が違うではないか。言葉が違えば言い表したいことは違う。一般には、「天地が悠遠であるように、日月が長久であるように、」難波宮で我が天皇は国をお治めになるらしい、という意に解されている。けれども、そう捉えることには障りがある。短期間に遷都をくり返している聖武天皇に対して、今度こそ難波宮に落ち着いてくださいね、と言っているように疑われてしまう。臣下の分際で何を抜かすかということになる。
 歌は言葉でできている。歌われて言葉は空中を飛んでいる。聞き返すということがない。「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しの後、「おしてる難波なには……」と聞いたなら、それはただの形容にすぎないとすぐに理解されたであろう。すなわち、「おしてる」と言えば「難波なには」と続くことは、天地が遠いように、日や月が長いようにあることなのである。「おしてる」は枕詞で、しかも他の言葉にかかることのないものである(注7)。将来的にもこの決まり文句は揺るがない。そのことを形容して「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」と大仰に述べている。言っていることがその時その場で理解可能になっている。恭仁京へ遷都したのが天平十二年(740)、四年後の天平十六年(744)には難波宮へと遷っている。宮都を造りながら遷ることに節操がないと非難する意見もあっただろうし、天皇自身も自らの首都計画がうまく行っていないことに忸怩たる思いがあったかもしれない。そういう不協和音を自動的に消す働きを担うことになりそうな言い回しが、「おしてる難波なには」という常套句である。「おしてる」は絶対に「難波」にかかり、今後ともそうであろうから、それと同様に、難波宮の新都経営も悠久の時を刻むことになる可能性を秘めていると隠し述べることになっている。そこがこの赤人歌の真骨頂ということになる。
 では、なぜ続けて野島の海人のことが歌われているのか。
 すでに指摘されているように、野島の海人の真珠取りのことが関係する。故事として允恭紀に載るとおりである。允恭天皇は淡路島へ狩りに出かけた。しかし、嶋の神のたたりで一向に獲れず、神の言にしたがって赤石あかし(明石)の海底の真珠を捧げることとなった(注8)

 十四年の秋九月の癸丑の朔にして甲子に、天皇すめらみこと淡路嶋あはぢのしまかりしたまふ。時に、麋鹿おほしかさる莫々紛々ありのまがひに、山谷にてり。ほのほのごと起ちはへのごとさわく。然れども終日ひねもすひとつししをだに獲たまはず。是に、かり止めて更にうらなふ。嶋の神、たたりてのたまはく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石あかしの海の底に真珠しらたま有り。其の珠を我にまつらば、ふつくに獣を得しめむ」とのたまふ。ここに更に処々ところどころ白水郎あまつどへて、赤石の海の底をかづかしむ。海深くして底に至ることあたはず。唯しひとり海人あま有り。男狭磯をさしと曰ふ。これ阿波国あはのくに長邑ながのむらの人なり。もろもろの白水郎にすぐれたり。是、腰に縄をけて海の底に入る。やや須臾しばらくありて出でてまをさく、「海の底に大蝮おほあはび有り。其の処れり」とまをす。諸人もろひと、皆はく、「嶋の神のこはする珠、ほとほとに是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。ここに男狭磯、大蝮をむだきてうかび出でたり。乃ちおきえて、浪の上にみまかりぬ。既にして縄をおろして海の深さを測るに、六十むそひろなり。則ち蝮をく。まことに真珠、腹のなかに有り。其の大きさ、桃子もものみの如し。乃ち嶋の神をまつりて猟したまふ。さはに獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りてみまかりしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚くはぶりぬ。其の墓、なほ今までうせず。(允恭紀十四年九月)

 淡路島は狩りの盛んな猟場かりにはであった(注9)。ニハがとり上げられている。そして、今、赤人が歌にしようとしているところは、ナニハ(難波)である。難波のニハは朝廷(朝庭)のニハ、朝から政をするニハである。
 歌は言葉でできていて空中を飛んでいる。だからその瞬間にわかるものでなければどうにもならない。ニハのことを言っているんだ、おもしろいことをいうねぇ、と皆思ったから、歌として聞かれて拍手喝采され、記憶に留まるに至っている。題詞に「山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉」とあって「山部宿祢赤人讃難波宮歌一首〈并短歌〉」などとないのは当然のことである。ニハの洒落を歌にしただけであり、難波宮讃歌でも天皇を寿いだ歌でもない。ナニハがニハとしてあるためには、対岸の淡路島についても由緒あるところなのだからニハとしてきちんと機能してもらわなければならず、嶋の神の祟りをやすめ祀るため鰒を取って真珠を捧げる必要があった。淡路島がニハであることを強調するためにとってつけたように「御食みけつ国」として定位し、毎日、御調みつきを献上する役目を果していることに話を作っている。言いたいことはニハの洒落だけであり、毎日、実際に食べ物を運んでいたと考える必要はない。「鰒珠」を真珠とすると食べられないから矛盾するので別案をあげる向きもあるが、洒落の通じない輩は相手にならない。毎日でも海人の男狭磯をさしが深く海に潜って真珠をとっていれば淡路島はニハとして安泰ということになるからである。
 ナニハの宮についてニハをとり上げるため、淡路のことをとり立てている。それはそれで良いとしても、難波宮と淡路とは直接の関係はない。とり上げて述べた理由は何だろうか。
 その答えは、長歌のなかに出てくる「海石いくり」と反歌から窺うことができる。反歌には「かぢの音聞こゆ」とある。これも故事として伝わっていた。記紀に歌謡が載る。

 枯野からのを しほに焼き が余り 琴に作り くや 由良ゆらの 門中となか海石いくりに ふれ立つ なづの木の さやさや(記74、紀41)

 老朽化した大型船を塩焼きの燃料に使ったという話である。燃え残ったところを琴に作って奏でたところ、海のなかの「海石いくり」にふれた木が「さやさや」と音をたてたというのである。山部赤人の長歌の後半と反歌は、そのことを踏まえて詠んでいると考えられる。

 …… 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば(万933)
 朝凪あさなぎに かぢの音聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし(万934)

 「さやさや」という音のことを思っている。鞘鞘と二つ鞘がある。「二鞘の」という言い方がある。

 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの〔二鞘之〕 家をへなりて 恋ひつつをらむ(万685)

 刃物を二本、入れておく鞘があった。だからこそ、長歌で難波のことと淡路のことの二つを一緒に歌にしていた。そうするには意味があった。難波宮は複都である。都が二つあるから入れるところが二つある鞘のことを持ち出している。当時の人たちの考えにおいて、すべての辻褄が合う。過誤の余地なく歌は完成している。上代においてはそのことをもって名歌と呼んでも過言ではないだろう。

(注)
(注1)坂本氏ほか、これらの歌を「難波宮讃歌・・」とする前提で議論を始める向きがあり承服し難い。
(注2)その間にも神亀三年十月の印南野行幸の際に難波宮へ還って来ていたり、天平六年(734)三月、天平十二年二月にも難波宮へ行幸している。最後の例では「留守」を決めて出掛けている。
(注3)現行の解釈では、必ずしも不思議がられているわけではない。長歌前半の八句は「一首における総論の機能を果たしている」(伊藤1996.320頁)とし、「野島の海人」のさまを視覚的に詠まんがためのものであり、反歌も「野島の海人」のことを聴覚的に歌ったものであると捉えられている。車持千年が難波行幸時に住吉へも出向いたときに歌われているように、山部赤人も難波行幸時に海岸から淡路の野島を臨んで詠んだというのである。
(注4)万葉集編纂の際に、この山部赤人歌も神亀二年の作であると誤解されていた可能性もなくはない。都をどこに定めるか決められない天皇像を思い起こさせる歌だからこんなところへ引っ付けたのだと考える。
(注5)吉井1984.71頁。吉井氏は、不改常典を嫡子による皇位相続の原則と見、「今、文武天皇の嫡子である聖武天皇の即位の翌年、最初の難波宮行幸であるので、赤人が、聖武の即位を期待して即位した元明の詔を思わせる表現で、聖武の治政を讃えたのはきわめて適切であったといえる。聖武天皇の難波宮造営は、複都制を定めた天武天皇の継承といえる。」(同71〜72頁)と述べている。この議論はあり得ない。赤人は何様のつもりで上から目線で天皇を讃えているのか想像がつかず、けっして許されるものとは思われない。
(注6)拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注7)拙稿「枕詞「おしてる」「おしてるや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/966680300fa50239c38ae3a90e1588a5参照。枕詞のなかには、「ももづたふ」のように「角鹿つぬが」、「度会わたらひ」、「ぬて」、「磐余いはれ」などさまざまな語にかかるものがあるが、「おしてる」や「おしてるや」は必ず「難波なには」にかかり、他の語にはかからない。
(注8)この話については、拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/17d842a2bc10d3783b29a39e7b44b4e8参照。
(注9)応神紀二十二年九月にも記載がある。猟場のことも漁場のこともニハという。

 武庫むこの海の 庭よくあらし いざりする 海人あま釣船つりふね 波のうへゆ見ゆ(万3609)
 猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。(雄略紀二年十月)

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 三』集英社、1996年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
久米1970. 久米常民『万葉集の文学論的研究』桜楓社、昭和45年。
神野志1975. 神野志隆光「赤人の難波行幸歌─天皇の世界と海人─」『萬葉の風土・文学』塙書房、平成7年。みけつくに
栄原2006. 栄原永遠男「行幸からみた後期難波宮の性格」栄原永遠男・仁木宏編『難波宮から大坂へ』和泉書院、2006年。
坂本1987. 坂本信幸「山部赤人─難波宮従駕作歌をめぐって─」『論集万葉集 和歌文学の世界 第十一集』笠間書院、昭和62年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中野渡2014. 中野渡俊治「天平十六年難波宮皇都宣言をめぐる憶説」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』塙書房、2014年。
橋本2018. 橋本義則『日本古代宮都史の研究』青史出版、平成30年。
仁藤2015. 仁藤敦史「留守官について」舘野和己編『日本古代のみやこを探る』勉誠出版、2015年。
吉井1984. 吉井巌『万葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

世の常に 聞くは苦しき 呼子鳥(万1447)

2024年11月25日 | 古事記・日本書紀・万葉集
  大伴坂上郎女の歌一首〔大伴坂上郎女謌一首〕
 世のつねに 聞くは苦しき 呼子鳥よぶこどり 声なつかしき 時にはなりぬ〔尋常聞者苦寸喚子鳥音奈都炊時庭成奴〕(万1447)
  右の一首は、天平四年三月一日に佐保のいへにして作れり。〔右一首天平四年三月一日佐保宅作〕

 初句の「尋常」をヨノツネニと訓む説が大勢を占めている(注1)。トコトハニと訓む説(注2)、また、ヨノツネニを世のならいとして、という意味と、平生、ふだん、いつも、という意とではニュアンスに違いがあるとして疑義を呈する向きもある(注3)。次の万葉歌は、世の中の常のことを言い表しており参照すべき歌である。

 世間よのなかの つね道理ことわり くさまに なりにけらし ゑし種子たねから(万3761)

 万1447番歌の場合、題詞で作者のこと、左注で詠まれた日と場所が明記されている。特に日時が指定されていることは珍しいことである。三月一日とは、一月から三月を春と決めていた令制において、「孟春はじめのはる」、「仲春なかのはる」、「季春すゑのはる」の別のうちの「季春すゑのはる」の最初の日に当たる。スヱという言葉の語義は、漢字で書いた時、「末」、「陶」、「須恵」、「据」に限られる(注4)。万3761番歌にもこのスヱという言葉が見え、世の常のこと、ものごとの道理のことは、スヱという言葉で言い表す対象であると考えられていたようである。時間が経って、スヱ(末)となっても世の常の道理は変わらないからであろう。万1447番歌の場合、時間が経ってスヱ(季)の春になったら状況が一転したと言っている。その機知を歌に詠んでいる。
 動詞「据う」を用いた万葉歌に、次のような例がある。

 大君おほきみの さかひたまふと 山守やまもり据ゑ るといふ山に 入らずはまじ(万950)
 矢形尾やかたをの 鷹を手に据ゑ 三島野に 狩らぬ日まねく 月そにける(万4012)

 「据う」という言葉は、ものごとを根を下ろさせるようにしっかりとその場に置きつけること、人間を含めた生き物をそれにふさわしい位置に置くことをいう。三月一日、スヱの春になったのであらためて据え置いてみた。何をどこに据え置いたか。ス(巣)にヱ(餌)を置いたのである。巣に餌を運んで育てることは鳥として当たり前のこと、世の常のことである。それまで世の常のこととして嫌な鳴き声をあげて鳴いていた呼子鳥がいたのだが、この時、呼子鳥はすでに巣立ってしまっていたというのだろう。親鳥は呼子鳥がいなくなっているので、その声が懐かしいと思っている。
 呼子鳥については、万葉集中での用法としては、呼んでも答えてくれないのになお呼び続ける鳥として片恋の苦しさを表すことがある(注5)。ただし、それがすべてではない。実際の鳥類の何に当たるのかについては諸説あるが、カッコウではないかとする説が有力である。カッコウは生態として特徴的なところがある。托卵である。別の鳥の巣に卵を産んで育ててもらうのである。カッコウは大きくなる鳥だから、体の小さな代理の親鳥が体の大きなカッコウの雛に給餌することになる。はたから見ていれば実に滑稽である。大きさからしてみれば、どちらが親でどちらが子なのかわからないことになっている。そこでヨブコドリ(呼子鳥)と洒落た命名をしたらしい。呼子鳥という名は、巣にいる体の大きなカッコウが、その子のような体の小さな鳥を呼んでいるような変なことだというわけである。巣のなかで餌をねだる声が汚く聞こえるというよりも、托卵は詐欺行為であり、それが進行してなお騙し続けていて、大きな体をしているのに小さな鳥に餌を運ばせているところが「聞くは苦しき」存在なのである。
自分より大きなカッコウの雛に餌を与えるオオヨシキリ(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/托卵、Per Harald Olsen氏撮影)
 三月一日、スヱの春になると、今までどおり甲斐甲斐しく偽られたままに自分の子だと思っていたカッコウのもとへ、巣に餌を運んできた代理親鳥は、自分の子だと思っていた鳥が、飛び方も教えぬまま突然いなくなってしまっていたため育児ロスに陥っている。この時、親鳥はすべてを悟ることになる。自分とは比べ物にならないほど大きくなっているのに餌をねだっていた。変だなあと思ってはいた。そうか、あれは自分の子ではなく、カッコウだったのだ。自分の実の子、産んだ卵は巣から蹴落とされて死んでしまった。いまいましいことである。とはいえ、育てたことには違いがなく、あれほど大きくなるまで手がかかったことを思えばかえって情が湧くのも当然のことである。道理としてこのようになるものだというのが言い方として通例である。万3761番歌では「くさまになりにけらし」と言っている。
 このようにあるのは尤もなことだと言っている。斯くある、は、上代語でラ変動詞カカリといった。似た言葉に、かかっている、よりかかる、関係がある、という意味の四段動詞カカル(懸)があり、形容詞カカラハシという語に派生している。

 初めより 長く言ひつつ 頼めずは かる思ひに はましものか(万620)
 要仮たとひ縄にかかるとも、進みありくことあたはず。(顕宗紀二年九月)
 …… 世の中は くぞ道理ことわり 黐鳥もちどりの かからはしもよ 行方ゆくへ知らねば ……(万800)

 第三例のように、世の常としての道理を説くのに、カク(斯)と一緒にカカラハシという言葉を使うのは、高度に修辞的な用法と言えるだろう。
 万1447番歌の場合も、いた時には「聞くは苦しき」といい、いなくなったら「声なつかしき」と言っていて、呼子鳥の鳴き声のことに注意が向いている。呼子鳥はどのように鳴いたか。おそらく、その鳴き声をカカと聞きなしていたのであろう。古代には、鳥の鳴き声として「かか鳴く」とする例が見られる。そう捉えれば、カカリ(斯有)、カカル(懸)と音が通じ、言葉の使用のすべてにおいて理にかなった修辞となっていることになる。

 筑波嶺つくはねに かか鳴く鷲の のみをか 泣き渡りなむ 逢ふとはなしに(万3390)
 嚇 唐韻に云はく、鳴〈音は名、奈久なく〉は鳥の啼くなり、囀〈音は転、佐閉都流さへづる〉は鳥のうたふなりといふ。文選蕪城賦に寒鴟嚇鶵と云ふ。〈嚇の音は呼格反、師説に賀々奈久かかなく〉(和名抄)

 世のつねに 聞くは苦しき 呼子鳥よぶこどり 声なつかしき 時にはなりぬ(万1447)
 世の常のこととして、托卵して育てられている体の大きくなったカッコウの雛の鳴く声を聞くと、あんまりだと苦しい思いがするものだが、日時は三月一日となり、春も末の時季を迎えて雛は勝手に巣立って行ってしまった。きっと親鳥はス(巣)にヱ(餌)を運んできて、ほらお食べと上げ膳据え膳をしていることだろうが、いつの間にかいなくなっていて、切なくなつかしく思っていることだろう(注6)

(注)
(注1)「尋常」字に対してヨノツネと訓む例は、名義抄、遊仙窟に見られる。
(注2)澤瀉1961.61〜62頁。
(注3)渡辺1978.、武市2004.、山﨑2024.参照。山﨑氏は、漢語「尋常」の歴史的転義を考証している。そして、文言と白話の意味の違いを見、両用の訓、解釈を試みている。
(注4)白川1995.は、「その間に何らかの関係があるかも知れない。」(427頁)としている。
(注5)渡辺1978.。
(注6)中西1980.は、「世の常として聞くのは不本意な呼子鳥だが、声に心ひかれて聞く時になったことだ。」(174頁)という訳は、肝心の言葉遊びの要点、三月=スヱの春、スヱ=巣餌の義を述べてはいないが、訳自体としては近似解と言える。

(引用・参考文献)
澤瀉1961. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第八巻』中央公論社、昭和36年。
高野1980. 高野正美「喚子鳥─坂上郎女覚書─」『太田善麿先生退官記念文集』太田善麿先生退官記念文集刊行会、昭和55年。
武市2004. 武市香織「巻八の大伴坂上郎女歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第十巻』和泉書院、2004年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論』塙書房、令和6年。
渡辺1978. 渡辺護「呼子鳥の歌九首」『岡山大学法文学部学術紀要』第39号、昭和53年12月。

飛騨の匠について─日本紀竟宴和歌の理解を中心に─

2024年11月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀は講書が行われ、竟宴和歌が作られている。ここにあげる葛井清鑒の歌は、天慶度(天慶六年(943))の作である。左注は院政期に付けられたものと考えられている。講書で教授された日本書紀の該当箇所は雄略紀十二年十月条である。併せて掲げる。

  秦酒公はたのさけのきみを得たり〔得秦酒公〕
              外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〔外従五位下行造酒正葛井宿祢清鑒〕

 琴のの あはれなればや 天皇君すめらきみ 飛騨のたくみの 罪をゆるせる〔己止能祢濃阿波麗那礼波夜数梅羅機㳽飛多能多久美濃都美烏喩留勢流〕(竟宴歌謡50)(注1)
  幼武わかたけの天皇すめらみこと、飛騨の匠御田みたおほせて、楼閣たかどのを作らしめ給ふに、御田、楼閣に登りてく走ること、飛ぶが如し。これを、伊勢の采女、あやしみ見るほどに、庭にたふれて、ささげたる饌物みけつものこぼしつ。天皇すめら、采女を御田がおかせるかと疑ひて、殺さんとする時に、酒公さけのきみ、琴をきて、そのこゑを天皇に悟らしめて、罪を赦さしめたり。

 冬十月の癸酉の朔にして壬午に、天皇すめらみこと木工こだくみ闘鶏つげの御田みた一本あるふみ猪名部いなべの御田みたと云ふは、けだあやまりなり。〉にみことおほせて、始めて楼閣たかどのつくりたまふ。是に、御田、たかどのに登りて、四面よも疾走はしること、飛びくがごときこと有り。時に伊勢の采女うねめ有りて、楼の上をあふぎてて、く行くことをあやしびて、庭に顛仆たふれて、ささげらるるみけつもの〈饌は、御膳之物みけつものなり。〉をこぼしつ。天皇、便たちまちに御田を、其の采女ををかせりと疑ひて、ころさむと自念おもほして、物部もののべたまふ。時に秦酒公はたのさけのきみおもとはべり。琴のこゑを以て、天皇に悟らしめむとおもふ。琴をよこたへて弾きて曰はく、
  神風かむかぜの 伊勢の 伊勢の野の 栄枝さかえを 五百経いほふきて が尽くるまでに 大君に 堅く つかまつらむと 我が命も 長くもがと 言ひし工匠たくみはや あたら工匠はや(紀78)
 是に、天皇、琴の声を悟りたまひて、其の罪をゆるしたまふ。(雄略紀十二年十月)

 雄略紀にある「闘鶏御田」がいつの間にか「飛騨の匠」であることになっている。不審であるというので、「[竟宴]和歌は『日本書紀』の内容を読み替えて歌われ、その解釈は同時期に実在する飛騨工とリンクしながらも、一方で実在から離れたイメージ(解釈)としての飛騨の匠を生み出していっているともいえる。」(水口2024.118頁)と認識されるに至っている。その分析では、「御田」=「飛騨の匠」という概念は、日本書紀講書の初期の段階から解されており、院政期に作成されたと思われる左注も疑いを抱いておらず、受け継がれていたことがわかるという。
 飛騨の匠(「飛騨工」)は、律令制のもとで実在している。

 凡そ斐陁国ひだのくには、庸調俱にゆるせ。里毎さとごとに匠丁十人てむせよ。〈四丁毎に、廝丁かしはで一人給へ。〉一年に一たび替へよ。余丁よちやう米をいだして、匠丁しやうちやうじきに充てよ。〈正丁しやうちやうに六斗、次丁しちやうに三斗、中男ちうなむに一斗五升。〉(賦役令)

 実態としては、「徴発された匠丁は、木工寮、造宮省、修理職などに配属され、一日に米二升を支給されて作業に従事したが、その労働条件は苛酷であったらしく、逃亡する匠丁も多く、またその技術のためか匠丁をかくまう者もあり、しばしばその禁令が出された。仕丁の制度の一変型とみられ、飛驒国が都に比較的近く、山林が多いので特に木工の供給地とされたらしい。」(国史大辞典936頁、この項、中村順昭)という(注2)
 しかし、「[賦役令の]この条のように一国のみを対象とした規定は律令のなかでも特異なものである。」(思想大系本律令593頁)と奇異に見るのが大勢である。竟宴和歌で「闘鶏御田」=「飛騨の匠」と同義とされて何の疑いも入れていないことも疑問である。どうしてそういう人がいるのか、どこから生まれてきた考え方なのか。その謎を解いて当時の人たちの考え方に迫ろうとするのでなければ、賦役令も竟宴和歌も理解したことにはならない。古代の人たちの心性に近づいていないからである。飛騨国に限らずとも大工や木工職人などは必ずいる。どうして飛騨の匠は特別扱いされて造宮や修理に重用されていたのか、それが問題である。
 タクミ(匠、工)の例としては次のような記事がある。

 是歳、百済国より化来おのづからにまうくる者有り。其の面身おもてむくろ、皆斑白まだらなり。しくは白癩しらはた有る者か。其の人になることをにくみて、海中わたなかの嶋にてむとす。然るに其の人の曰はく、「若しやつかれ斑皮まだらはだを悪みたまはば、白斑しろまだらなる牛馬をば、国の中にふべからず。また臣、いささかなるかど有り。能く山丘やまかたく。其れ臣を留めて用ゐたまはば、国の為にくほさ有りなむ。何ぞむなしく海の嶋に棄つるや」といふ。是に其のことばを聴きて棄てず。仍りて須弥山すみのやまの形及び呉橋くれはし南庭おほばに構かしむ。時の人、其の人をなづけて、路子工みちこのたくみと曰ふ。亦の名は芝耆摩呂しきまろ。(推古紀二十年是歳)

 「芝耆摩呂しきまろ」という名は、おそらく石畳を敷くことと関係させたもので、「路子工みちこのたくみ」は道路舗装職人の謂いであろう。この渡来人は、近世に城造りにたけた穴太衆のように、石材の加工に優れた石垣職人であったろう。
 この逸話は有間皇子事件のときに振り返られている。塩屋しほやの鯯魚このしろという家来が助命嘆願するのに、「願はくは右手みぎのてをして、国の宝器たからものを作らしめよ」(斉明紀四年十一月)と小理屈を述べている(注3)。右(ミ・ギの甲乙は不明)を指す言葉には、ヒダリ(左、ヒは甲類)に形を合わせたミギリという言い方がある。ここでは、みぎり(ミ・ギは甲類)と関係させて言っていると推測される。古語では、軒下の石畳や敷瓦(磚)を敷いたところ、また、水限みぎり(ミ・ギは甲類)の意もあって、境界にあたるところをいう。説文に「砌 階の甃なり。石に从ひ切声、千計切」とある。和名抄には、「堦 考声切韻に云はく、堦〈音は皆、俗に階の字を波之はし、一訓に之奈しな〉は堂に登る級なりといふ。兼名苑に云はく、砌は一名に階〈砌の音は細、訓は美岐利みぎり〉といふ。」とある。境のところにある瓦や石の端を切りそろえて重ねた階段のこと、推古紀にある「呉橋」はそれに相当するものではないか。また、「須弥山」は、仏教の世界観において世界の中心にそびえる高い山のことをいう。それを形象化して像として飛鳥の地に置いている。

 辛丑に、須弥山すみのやまかたを飛鳥寺の西に作る。また盂蘭瓫会うらんぼんのをがみまうく。ゆふへ覩貨邏人とくわらのひとへたまふ。(斉明紀三年七月)
 甲午に、甘檮丘あまかしのをかひむかし川上かはらに、須弥山を造りて、陸奥みちのくこしとの蝦夷えみしに饗へたまふ。(斉明紀五年三月)
 又、石上池いそのかみのいけほとりに須弥山を作る。高さ廟塔めうたふの如し。以て粛慎みしはせ四十七人に饗へたまふ。(斉明紀六年五月是月)

 斉明朝は土木・水利事業が推められた時代であった。石造の噴水も作られており、亀の形をした水の流れ出る祭祀遺跡も出土している。技術的要請として、生活用水、農業用水の適切な給排水を求めていたという時代背景が考えられる。
 そんな時、ヒダ(ヒは乙類)のタクミという音を聞けば、ヒ(樋)+タ(田)なる巧妙な仕掛けを作った人たちなのだと理解されよう。水田に用水を取排水するのに、それぞれの田の水位が一定になるように、樋(楲)が設けられているということである。溜池による用水の確保や、沖積平野への展開が進んでいったのがヤマトコトバの爛熟期、古墳時代から飛鳥時代に当たる。土木技術を駆使した灌漑、排水装置を伴った田が運営されて行っていた。「味張あぢはり忽然たちまち悋惜をしみて、勅使みかどのつかひ欺誑あざむきてまをさく、「此の田は、天旱ひでりするにみづまかせ難く、水潦いさらみづするにみ易し」とまをす。」(安閑紀元年七月)などと記述されている。溜池の底樋のつくりなどには確かな水密性が求められ、渡来人等によって伝えられた高度な技術の賜物と言えよう。そのための巧みな工作技術を担ったはずなのがヒダの匠ということになり、飛騨人というだけで重んじられた。実際にどのような形のヒ(樋)が行われていたか、必ずしも全体像がわかっているわけではないが、ヒ(樋)+タ(田)と呼ぶのに遜色ないものと思われる(注4)
左:埤湿ふけの田(深田)の排水方法(大蔵永常・農具便利論、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2556765/1/34をトリミング)、中:狭山池東樋(飛鳥時代、大阪府立狭山池博物館展示パネル)、右:樋の構造概念図(市川秀之「狭山池出土の樋の復元と系譜」狭山池埋蔵文化財編『狭山池出土の樋の復元と系譜(復元)』の東樋下層遺構(奈良時代)取水部復元図(部分)図http://skao.web.fc2.com/rack/ike/hi-fkgn.pdf(3/10))
 五年の夏六月に、人をしていけに伏せ入らしむ。に流れ出づるを、三刃みつはほこを持ちて、刺し殺すをたのしびとす。(武烈紀五年六月)

 水量を計測的に保って流す仕掛けとしては、都の人の周知するところとなっている。中大兄(天智天皇)が作ったとされる漏剋ろこくである。

 又、皇太子ひつぎのみこ、初めて漏刻ろこくを造る。おほみたからをして時を知らしむ。(斉明紀六年五月是月)
 夏四月の丁卯の朔にして辛卯に、漏剋ろこくあらたしきうてなに置く。始めて候時ときを打つ。鐘鼓かねつづみとどろかす。始めて漏剋を用ゐる。此の漏剋は、天皇すめらみことの、皇太子ひつぎのみこまします時に、始めてみづか製造つくれるぞと、云々しかしかいふ。(天智紀十年四月)
漏刻(桜井養仙・漏刻説并附録、九州大学附属図書館・九大コレクションhttps://hdl.handle.net/2324/6632075(6of19)をトリミング)
 漏刻(漏剋)は水の流れを正確に測って時間を告げている。きちんと水をげた時に、確かな時をげることができている。
 ここに、ツゲノミタ(闘鶏御田)という人は、漏刻(漏剋)のように正確に水流を測って流すことができる樋(楲)を造作していたということになる。言葉としてそう認識され、「名に負ふ」人として活躍していただろうと考えられるのである。時を告げるに値するように、田のなかでも天皇のための田、御田の生育をきちんと管理できるような導排水の仕組みを拵えたというのである。ツゲ(黄楊)の木は狂いが生じにくく、櫛のような細工物に多く用いられている。細密な木工である。
 つまり、並みいる諸国の匠のなかでもヒダの名を冠する飛騨の匠こそ、精密な樋を作るのに長けた匠であるということになる。これは、ヤマトコトバを常用しているヤマトの人たちにとって、通念であり、常識とされた。ことことであると認めていた人たちにとっては、言葉が証明していることになっている。飛騨の匠について日本書紀に書いてないのに講書の竟宴和歌に登場しているのは、日本書紀の精神、すなわち、ヤマトコトバの精神を汲んでいるからである。竟宴和歌に歌われて違和を唱えられずに伝えられていることから翻って考えれば、日本書紀はヤマトコトバで書いてあるということの紛れもない証明となっている(注5)。漢籍に字面を求める出典論は日本書紀研究の補足でしかない。

(注)
(注1)梅村2010.は、「琴の音色が素晴らしかったからであろうか、天皇が飛騨の匠の罪を許したのは。」(214頁)と訳している。「あはれなればや」の「や」は反語を表す。天皇が飛騨の匠の罪を許したのは、琴の音色が素晴らしかったからであろうか、いやいやそうではない、の意である。
(注2)水口2024.は、飛騨工ひだのたくみについて次のように位置づけている。すなわち、大宝令以降に定められたものであり、藤原宮の造営のように木工に対する需要が高まってきたことと関係がある。そして、木工寮は木作採材を司る宮内省被官の官司、また、八世紀初頭から史料に現れる造宮省(職)は、 宮城の造営を司る令外官であり、平城宮・平安宮などの造宮には大いに活動した。奈良朝から散見する修理職は弘仁期から常置され、宮殿の修理造作に従う令外官であった。飛騨工は、律令制定時ぐらいから造宮に携わり、奈良〜平安前半(少なくとも九世紀段階)の間、飛騨工は造宮(修理)に当たる者であるという認識があった。
(注3)拙稿「有間皇子謀反事件に斬首の塩屋鯯魚(しおやのこのしろ)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2cf5283bf20eb7d4cc3a0d3ea68114e7参照。
(注4)日本書紀や万葉集のなかで飛騨に関する記述としては次のようなものがある。筆者は、仁徳紀六十五年条の異様な人物は、飛鳥の石神遺跡出土の石人像の噴水の形とよく似ているように思う。
左:須弥山石、右:石人像(レプリカ再現、飛鳥資料館展示品)
 六十五年に、飛騨国ひだのくに一人ひとりのひと有り。宿儺すくなと曰ふ。其れ為人ひととなりむくろひとつにしてふたつかほ有り。面おのおのあひそむけり。いただき合ひてうなじ無し。各手足てあし有り。其れひざ有りてよほろくびす無し。力さはにしてかろし。左右ひだりみぎつるぎきて、よつの手にならびに弓矢をつかふ。是を以て、皇命みことに随はず。人民おほみたから掠略かすみてたのしびとす。是に、和珥臣わにのおみおや難波なにはの根子ねこ武振熊たけふるくまつかはしてころさしむ。(仁徳紀六十五年)
 又みことのりしてのたまはく、「新羅しらきの沙門ほふし行心かうじむ皇子みこ大津謀反みかどかたぶけむとするにくみせれども、われ加法つみするにしのびず。飛騨国の伽藍てらうつせ」とのたまふ。(持統前紀朱鳥元年十月)
 冬十月の辛亥の朔にして庚午に、進大肆しんだいしを以て、白き蝙蝠かはぼりたるひと飛騨国の荒城郡あらきのこほりのひと弟国部おとくにべの弟日おとひに賜ふ。あはせふとぎぬ四匹よむら・綿四屯よもぢ・布十端とむらを賜ふ。其の課役えつきは、身を限りてことごとくゆるす。(持統紀八年十月)
 白真弓しらまゆみ 斐太ひだ細江ほそえの 菅鳥すがとりの 妹に恋ふれか かねつる〔白檀斐太乃細江之菅鳥乃妹尓恋哉寐宿金鶴〕(万3092)
  黒き色を嗤笑わらふ歌一首〔嗤咲黒色歌一首〕
 ぬばたまの 斐太ひだ大黒おほぐろ 見るごとに 巨勢こせ小黒をぐろし 思ほゆるかも〔烏玉之斐太乃大黒毎見巨勢乃小黒之所念可聞〕(万3844)
 斐太ひだひとの 真木まき流すといふ 丹生にふの川 ことかよへど 船そ通はぬ〔斐太人之真木流云尓布乃河事者雖通船曽不通〕(万1173)
 かにかくに 物は思はじ 斐太人の 打つ墨縄すみなはの ただ一道ひとみちに〔云々物者不念斐太人乃打墨縄之直一道二〕(万2648)

 語呂合わせの地口にヒダノタクミと言っているに過ぎないから、大層な技術を持っていたかどうかは不明であり、ちょっとした水口用の細工だけでもかまわない。それまでの掛け流し灌漑と違う方法で、畦畔に樋口をつけるだけであっても一枚の田が崩壊せずに済むことは、場所によってはとてもすばらしい新技術であったかもしれない。
(注5)上代、人の名は、名に負う存在だからその体現に努めたとされるが、その名とは呼ばれるものであった。戸籍があって誕生と同時に命名されるものではなく、人にそう呼ばれることで名を体した。今日いう綽名に近いものである。そういうことだからそういうことにし、そういうことだからそういうこととして暮らしていた。文字を持たない文化は、言事一致、言行一致を求めることで確からしい全体状況に落ち着くことができた。そういう前提に立たなければ、無文字社会はカオスに陥ったであろう。

(引用・参考文献)
梅村2010. 梅村玲美『日本紀竟宴和歌─日本語史の資料として─』風間書房、2010年。
工楽1991. 工楽善通『水田の考古学』東京大学出版会、1991年。
国史大辞典 国史大辞典編集委員会編『国史大辞典 第11巻』吉川弘文館、平成2年。
思想大系本律令 井上光貞・関晃・土田直鎮・青木和夫校注『日本思想大系3 律令』岩波書店、1976年。
西崎1994. 西崎亨『本妙寺本日本紀竟宴和歌 本文・索引・研究』翰林書房、平成6年。
日本紀竟宴和歌・下 藤原国経ほか『日本紀竟宴和歌 下』古典保存会、昭和15年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115791/1/
水口2024. 水口幹記「日本書紀講書と竟宴和歌─「飛騨の匠」の形成と流布─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。

熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─ 其の三

2024年11月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 船団がどの程度の規模であったかはわからない。

 五月に、大将軍おほきいくさのきみ大錦中だいきむちう阿曇比羅夫連あづみのひらぶのむらじ船師ふないくさ一百七十艘ももあまりやそふなて、豊璋ほうしょう等を百済国に送りて、みことのりりて、豊璋等を以て其の位を継がしむ。(天智紀元年五月)

 「一百七十艘」という船の数は、後述する白村江の海戦の時の唐軍の船の数と同じである。なお、天智10年11月に唐領百済から倭に向かった船の数は、47隻、人数は2000人とある。そのまま行くとびっくりして一触即発になるだろうからと、事前通告のために使者が来ていると知らせている。この記事は信憑性が高い。斉明天皇の船団の船数を絞り込むことはできないものの、相当数であったことは確かである。
 船団を組んで進んでいた時、大海人皇子が水先案内人(パイロット)役を担っていたと考える。彼の乳母はその名から、丹後国加佐かさ凡海おほしあま郷、現在の京都府舞鶴市付近に拠点を置いていた凡海(大海)氏であり、いわゆる海人族に育てられたとされている。そのつてで航海技術を持った人は雇われていたに違いあるまい。誘導されるままに斉明天皇らの乗った御船号は進んだ。しかし、難波津のある大阪湾や山陰・北陸の日本海側の海岸の状況と、瀬戸内海西部とでは様子が違っていた。潮汐においてである。

※潮汐表a・bによる。*は「日本沿岸736港の潮汐表」「Anglrタイドグラフ」による。略最高高潮面:満潮時などにこれより高くならないと想定される潮位、大潮升:最低水面から大潮の平均高潮面までの高さ、大潮差:大潮の平均潮差、小潮升:最低水面から小潮の平均高潮面までの高さ、小潮差:小潮の平均潮差、平均水面:潮汐がないと仮定した海面、平均潮差:満潮位と干潮位の平均潮差、平均高潮間隔:月がその地の子午線を経過してから高潮となるまでの平均時間(注11)
 大潮差は、日本列島沿岸では九州の東シナ海側が最も大きく、有明海の佐ノ江では4.6mにも達する。ところが日本海側ではほとんどなく、舞鶴で20㎝に満たない。問題となる松山では2.8m、博多では1.6mである。難波津の値を現在の大阪にとると、1m弱である。潮の干満の大きさに驚いたことであろう。油断して接岸したところ、干潮になると沖合いはるかに干上がっていた。いちばん大きな「御船」号は干潟の奥に取り残された。大海人皇子は皮肉られて仕方のない立場に立たされている。
 古代の船の運航については、上述したように、潮の干満を利用した座礁形式の停泊が行われていた。それがうまくいくためには、船が泊まる津となる場所が、安定的な潮の干満を繰り返していることが望ましい。古代によく利用された難波津(大阪)をみると、大潮の時の平均的な水面の高さ(大潮升)は1.4m、小潮の時のそれ(小潮升)は1.1mである。わずかに30cmしか違わない。つまり、大潮、小潮にあまり関係なく、日に二回、定期的に潮が満ちてくる。これは、船の発着便として必ず日に二回チャンスがあるということであり、時刻表ができることを意味する。そして、海が荒れようとも、砂嘴によって守られているラグーン(潟湖)にある難波津は、天然の良港になっていた。
 日本で最も干満差の大きい有明海の住ノ江では、大潮升5.1m、小潮升3.5mである。1.6mも差がある。大潮の時に船で陸地いっぱいまで来て座礁式に停泊をすると、概念的には、15日後、30日後、45日後、といった日の満潮を待たなければ、船は再び海水の上に浮かぶことはなくて出航できないことになる。そこをタイダル・フラット(干潟)と呼ぶ。熟田津も同じであった。 
 白村江の戦いの様子は紀では簡潔に書かれている。天智2年(663)に戦局は急転回する。百済王に擁立された豊璋は、6月になって近侍の者の讒言を聞き入れてしまい、将軍の鬼室きしつ福信ふくしんと内輪揉めを起こす。福信は滅亡した百済を孤軍奮闘し、どうにか再興にこぎつけた英雄であった。結局彼は、「腐狗痴奴くちいぬかたくなやつこ」と奸侫な輩を罵りながら死刑に処せられた。8月13日には、良将のいなくなったことを知った新羅軍が、百済の王城、州柔つぬを目指して押し寄せる。三国史記・金庾信伝にも記載がある。豊璋は、そのとき牙城であるべき州柔城を抜け出して倭の援軍の来る白村江へ赴く。17日、敵軍は州柔城を包囲し、また唐の海軍も戦艦170艘が白村江に陣を堅固にして位置についた。
 27日に倭の海軍の先発隊が白村江に到着し、緒戦に敗れて退却する。決戦は翌28日である。

 秋八月の壬午の朔にして甲午(13日)に、新羅、百済王くだらのこしきおの良将よきいくさのきみを斬れるを以て、ただに国に入りて州柔つぬを取らむことをはかれり。是に、百済、あたの計る所を知りて、諸将もろもろのいくさのきみかたりて曰はく、「今聞く、大日本国やまとのくに救将すくひのいくさのきみ廬原君臣いほはらのきみおみ健児ちからひと万余よろづあまりを率て、まさに海を越えて至らむ。願はくは、諸の将軍等は、あらかじめ図るべし。我自らきて、白村はくすきに待ちへむ」といふ。
 戊戌(17日)に、賊将あたのいくさのきみ、州柔に至りて、其の王城こきしのさしかくむ。大唐もろこし軍将いくさのきみ戦船いくさふね一百七十艘ももあまりななそふなを率て、白村江はくすきのえ陣烈つらなれり。
 戊申(27日)に、日本やまと船師ふないくさづ至る者と、大唐の船師と合ひ戦ふ。日本、不利けて退く。大唐、つらかためて守る。
 己酉(28日)に、日本の諸将と、百済の王と、気象あるかたちを観ずして、相かたりて日はく、「我等先を争はば、彼おのづからに退くべし」といふ。更に日本のつら乱れたる中軍そひのいくさひとどもて、進みて大唐の陣を堅くせるいくさを打つ。大唐、便ち左右もとこより船をはさみてかくみ戦ふ。須臾之際ときのまに、官軍みいくさ敗続やぶれぬ。水におもぶきておぼほれ死ぬる者おほし。艫舳へとも廻旋めぐらすこと得ず。朴市えちの田来津たくつあめに仰ぎて誓ひ、歯をくひしばりていかり、数十人とをあまりのひとを殺しつ。ここたたかひせぬ。是の時に、百済の王豊璋、数人あまたひとと船に乗りて、高麗こまに逃げ去りぬ。(天智紀二年八月)

 豊璋は高句麗に逃げ、9月7日に州柔は落城する。百済側の内訌や王の単独行動も不可解であるが、倭の海軍も、戦術も何もあったものではない。白村江、錦江の河口を我も我もとただ進んで敗れている。唐の戦艦は十日も前から準備して待っていた。そこへ「気象」を考えないで進軍し、両側から挟まれてすぐに負けている。退却しようにも、「艪舳不廻旋。」となってしまった。
 舳艫とは、もとは船の大きさを示す熟語であった。それを舳と艫とに分解して、船首と船尾とを表そうとした。ところが、どちらがどちらか混乱していく。新撰字鏡には、「舳 以周・治六二反、艪舳、止毛とも」、「艫 力魯反、舟前鼻也、」、和名抄には、「舳 兼名苑注に云はく、船の前頭は之れを舳〈音は逐、楊氏漢語抄に、船の頭の水を制する処なりと云ふ。和名は〉と謂ふといふ。」、「艫 兼名苑注に云はく、船の後頭は之れを艫〈音は盧、楊氏に舟の後に櫂を刺す処と曰ふ。和語に度毛ともと曰ふ〉と謂ふといふ。」とある。名義抄では、区別をあきらめて「舳 ヘ、トモ」、「艫 トモ、ヘ」と両訓をつけている。紀では、「舳艫」・「艫舳」の例は、全部で5例あり、傍訓ではそれぞれ、トモヘ、ヘトモ、また後者はフネとも振られている。

 ……皇軍みいくさ遂にひむかしにゆく。舳艪ともへげり。まさ難波碕なにはのみさきに到るときに、……(神武前紀戊午年二月)
 又、筑紫の伊覩県主いとのあがたぬしおや五十迹手いとて、天皇のいでますをうけたまはりて、五百枝の賢木さかきじ取りて、船の舳艫ともへに立てて、……穴門あなと引嶋ひこしま参迎まうむかへて献る。(仲哀紀八年正月)
 是歳、新羅の貢調使みつきたてまつるつかひ知万沙飡ちまささん等、もろこしの国のきものを着て、筑紫に泊れり。朝庭みかどほしきまましわざ移せることをにくみて、訶嘖めて追ひ還したまふ。時に、巨勢大臣こせのおほおみ奏請まをしてまをさく、「まさに今新羅を伐ちたまはずは、後に必ず当にくい有らむ。其の伐たむかたちは、挙力なやむべからず。難波津より、筑紫海のうちに至るまでに、相ぎて艫舳ふねを浮けてて、新羅を徴召して、其の罪を問はば、やすく得べし」とまをす。(孝徳紀白雉二年是歳)
 是歳、百済の為に、まさに新羅を伐たむと欲して、乃ち駿河国に勅して船を造らしむ。已につくりをはりて、続麻郊をみのき至る時に、其の船、夜中にゆゑも無くして艫舳へともかへれり。ひとびとつひに敗れむことをさとりぬ。(斉明紀六年是歳)

 紀において、舳艫、艪軸の使い分けに意味があったかどうか、筆者には整理がつかない。斉明紀六年是歳条の例は、新造船を続麻郊、現在の宇治山田に近い三重県多気郡明和町まで航行させ、一晩浜辺に陸揚げしておいた。ところが、翌朝になってみると、船首と船尾が反対を向いていたというのである。「其船夜中無故艫舳相反」と書いてあるが、何のことはない、夜中に潮が満ちて船が浮かび、くるりと向きを変えて朝には潮が引いていたということである。宇治山田の大潮差(平均高高潮-平均低低潮)は1.7mである。十分にあり得る値である。「無故」とは理由がないのではなく、潮汐という自然現象がわかっていないことを示した記述に他ならない。前後不覚に「艫舳」と反してしまった。敗戦の予兆を表す記事にふさわしい。
 天智紀二年八月条の白村江の戦いにおいて、「艫舳不廻旋。」とある。みじめな敗戦記事を端的に表現している。実際に起ったのは、河口をいったん遡ったらUターンできずに壊滅したという事態である。引き返そうにも向きを変えられず、唐軍に殲滅せられた。百済を救うために新羅と戦うはずが、援軍の唐と戦って敗れている。戦術的にも外交的にも方向転換が利かなかったことを象徴的に表した記事である。
 「気象」とは、木や風向きなど大気中の変動を表す言葉であるが、ここでは潮位の変化、干満の差の大きさを指し示している。唐の海軍が陣を布いたのは8月17日である(注12)。月齢と潮汐の関係が、それも季節的な変化について経験的に理解されている。特に秋分点頃がいちばん上げ潮がきついと知っていたに違いない。ちょうどその条件のとき、唐軍は白村江において、干満の具合を確かめながら、艦船はそれぞれの持ち場についている。
 白村江、今の錦江クムガンの河口、群山クンサンでは、大潮差は6.0m、小潮差でも2.8mに及ぶ。単純計算で熟田津の二倍以上である。元嘉暦で記されていると推定する一般の説によれば、天智2年は閏月のない年で、8月は小月に当たって29日までである。白村江の決戦は、天智2年(663)8月28日、朔の2〜3日前に河口で戦っている。潮汐表bによって、韓国、全羅北道の群山(緯度35°59′N、経度126°43′E)における、新暦の2002年10月4日(旧暦8月28日)の値を参考にみると、月齢は27.0、月の南中時は10:25である。当日の潮位(潮時)は、614cm(1:33)、136cm(8:30)、574cm(13:51)、83cm(20:40)となっている。約5mもの潮位差がある。今日、セマングムという世界一長い防潮堤が築かれているところである。唐軍は、干満差の激しいことを17日に着いて知っている。2002年でいえば9月23日に当たり、612cm(4:29)、104cm(11:27)、606cm(16:41)、0.7m(23:30)とさらに激しい(注13)
 決戦の時刻が何時頃なのか記載がないが、昼間の戦いであったなら、朝、引いていた潮が、午前中にだんだんと上げ潮になっていって5mほど水位が高まり、その後は反対にどんどん引き潮に変わった。つまり、「艫舳不廻旋。」とは、午前中に川の逆流に乗って先を争って敵に進撃していったところ、両側に陣構えしていた唐の艦船は、川の中央へ向って並んで左右から進み、乱れ進んできたものの流れが止まって動けなくなった倭の艦船を挟み撃ちにした。向きも変えられない倭の艦船を俎上にとらえて、火矢で射、次々と焼いていった。唐側の資料では、旧唐書・劉仁軌伝に、「仁軌遇倭兵於白江之口、四戦捷、焚其舟四百艘。煙燄漲天、海水皆赤。賊衆大潰、余豊脱身而走。」とある。実際の戦闘がいかなるものであったのか確かめ切れないものの、日本書紀のこの部分を書いた人の表現としては、以上のように考えるのが妥当であろう。錦江の逆流を起こす役割を果しているのは、伍子胥ならぬ百済の福信である。海を知らない水軍が、海に敗れたのであった。
 もとより、万葉集の編者がこの熟田津の歌を撰んだのは、極めて杜撰な参戦体制を伝えるためであったろう。狂信的な斉明朝の本質に肉薄するのにとても鋭い切り口である。しかし、それだけを伝えたかったのではない。都に残っていた有力豪族の中には、天智天皇が位につき、中臣鎌足が引き続き内大臣の座に座ることに反感を覚えていた者もあったであろう。天智称制は6年5カ月に及んでいる。その後、近江遷都に批判的な勢力もいたはずである。しかし白村江の敗戦の責任は、司令官の中大兄1人にあるのではなかった。反旗を翻すにも担ぎ上げるに足る皇子がいなかった。大海人皇子の失策こそが敗因となれば大義が立たない。そういう政治力学を編者は伝えたかったのではないか。歌が予祝するもの、時代をリードするものと考えられたなら、斉明天皇代の皇子どうしの力関係だけでなく、次の天智朝を占う意味にも解釈されていたとして過言ではない。
 万葉集の最初の編者は、日本書紀と深く関わりを持っていると筆者は考えているが、紀が書かれたのは早くても天武紀十年(681)三月条にある詔以降のことである。額田王の熟田津の歌の斉明7年(661)から20年経っている。この歌の内実を知っている人が編んでいる。しかし、後の人のつけた左注は要領を得ていない。この額田王の歌は、歌われてからほんの少しの間だけ話題になり、しばらくしてからは人の口に上らなくなったのであろう。斉明天皇の崩御のこともある。戦時中にもかかわらず、政府の失敗からの解放を喜んでいる歌でもある。白村江の敗戦を迎え、熟田津のしくじりが後の戦況に大きく影響しているうえに、経験が教訓として少しも生かされていないとしたら、人々は口を緘したに違いない。潮の干満を、ヤマト朝廷が身に染みて知った最初が熟田津であったということである。そして、万葉集の当初の編纂は、当時の専制政治に対して危険を伴う私秘撰であったと考えられるのである。

(注)
(注1)7世紀の遺構については、橋本2012.参照。
(注2)多くの感染症は科学的知見を得るまで「神忿」として捉えられてきた。
(注3)不改常典の法については、皇位は天皇からその子や妻へと継嗣するとは限らず、臨機応変にふさわしい人を当てるのが望ましいというものであったことに関しては、拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注4)この「笠」については、新川1999.、拙稿「中大兄の三山歌について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/40096f25187bcf13d2a77224fe00e069ほか参照。
(注5)記紀のなかでも、大国主神おほくにぬしのかみはいろいろな名前を持っており、名を替えては変身を遂げ、それまでとは異なる役割を担っている。大己貴神おほあなむちのかみ大穴牟遅神おほあなむぢのかみ)となれば国作り、八千矛神やちほこのかみとなれば遠くまで婚活に出掛けていた。日本武尊やまとたけるのみこと(倭建命)は、もとは日本童男やまとをぐな倭男具那王やまとをぐなのみこ)といった。その名易えの意味合いについては、拙稿「ヤマトタケル論─ヤマトタケルは木霊してヤマトタケ…と聞こえる件─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/2be6869dc94a6cd22eab0ba37b3578dcほか参照。また、応神天皇は皇太子時代、角鹿つぬが(敦賀)の気比けひ神宮の大神と名を交換したという話がある。拙稿「古事記の名易え記事について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/484020bdb17fb44c8991eed6b4500207参照。
(注6)一例としてあげると、1944年に起きた大規模な昭和東南海地震も、情報統制され、被害は隠蔽されている。
(注7)旧暦で閏月の現れる年の前年で、新暦の日付との対応が新暦に2月29日があるという点からほぼ同じとみて参照した。
(注8)海上保安庁海洋情報部の「潮汐推算」(https://www1.kaiho.mlit.go.jp/KANKYO/TIDE/tide_pred/index.htm)から、斉明7年(661)の松山の潮汐模様が検索可能である。八木2010.、清原2013.らも3月15日説をとるが、座礁失態とは考えていない。「八番歌の夜の船出は、当事者たちが知恵と経験を縒り合わせ、満月の晩の月と潮の妙なる照応関係を行程上の要件に組み込んで演じたページェントであった」(八木2010.31頁)としている。船の航行において、海を横切ることをことさらに難事とするが、瀬戸内海の漁業者は当時も日常的に船を出して漁をしていたであろう。
(注9)動揺を隠せない発話とすれば、「不知所作有何事耶。」(皇極紀四年六月)は、「知らず。る。何事や有る。」と訓むとも考える。
(注10)不動明王像についての儀軌として伝わるもので、飛鳥時代にさかのぼるものは今日、見られない。
(注11)潮汐に関する用語については、海上保安庁第六管区海上保安本部・海の相談室「潮汐に関する用語について」(http://www1.kaiho.mlit.go.jp/KAN6/5_sodan/mame/topic28.htm)において、「広島港の潮位関係図」の図を用いたわかりやすい解説に負っている。
(注12)「銭塘江の海嘯」(http://china.hix05.com/now-2/now211.pororoca.html)参照。アマゾン川のポロロッカと並び称される潮津波、タイダル・ボアである。ポロロッカは春分の頃の朔月の大潮時、銭塘潮は秋分の頃の望月の大潮時に大波が見られる。この現象については、春秋時代、呉越の争いの最中に、奸侫な者の讒言によって、呉王夫差から死を賜った伍子胥の怨念のせいであるという迷信があったらしい。一世紀、王充の論衡・書虚篇には否定的な見解が述べられている。「伝書に言はく、呉王夫差は伍子胥を殺し、之をかまに煮て、乃ち鴟夷のふくろを以て之を江に投ず。子胥恚恨し、水を駆りて涛を為し、以て人を溺殺す。今時会稽の丹徒の大江、銭唐の浙江に、皆子胥の廟を立つ。蓋し其の恨心を慰め其の猛涛を止めんと欲するなりといふ。夫れ呉王の子胥を殺し、之を江に投ずは実なるも、其の恨、急に水を駆りて涛を為すと言ふ者は、虚なり。……涛の起るや、月の盛衰に随ひ、小大満損、齊同ならず。(伝書言、夫差殺伍子胥、煮之於鏤、乃以鴟夷橐投之於江。子胥恚恨、駆水為涛、以溺殺人。今時会稽丹徒大江、銭唐浙江、皆立子胥之廟。蓋欲慰其恨心止其猛涛也。夫殺子胥投、之於江実也、言其恨急駆水為涛者虚也。……涛之起也、随月盛哀、小大満損、不齊同。)」とある。
(注13)20世紀の朝鮮戦争時、仁川インチョン上陸作戦において、国連軍(アメリカ軍)は潮の干満差の大きいことを十分に検討している。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第1巻』笠間書院、2006年。
石井1983. 石井謙治『図説和船史話』至誠堂、昭和58年。
井上2000. 井上光貞著、吉村武彦編『天皇と古代王権』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。
圓仁・深谷1990. 圓仁・深谷憲一訳『入唐求法巡礼行記』中央公論社(中公文庫)、1990年。
折口1995. 折口信夫「額田女王」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集6』中央公論社、1995年。
折口1997. 折口信夫「女帝考」折口信夫全集刊行会編『折口信夫全集18』中央公論社、1997年。
梶川2009. 梶川信行『額田王』ミネルヴァ書房、2009年。
清原2013. 清原倫子「斉明天皇の筑紫西下の意義と行程に関する一考察─熟田津の船出を中心に─」『交通史研究』第80巻、2013年4月。https://www.jstage.jst.go.jp/article/kotsushi/80/0/80_KJ00010033444/_article/-char/ja/
日下1991. 日下雅義『古代景観の復原』中央公論社、1991年。
日下2012. 日下雅義『地形からみた歴史』講談社(講談社学術文庫)、2012年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
大系本日本書紀 大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
大系本万葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
澁澤1984. 澁澤敬三・神奈川大学日本常民文化研究所編『新版 絵巻物による日本常民生活絵引 第五巻』平凡社、1984年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新川1999. 新川登亀男「日羅間の調」『日本古代の対外交渉と仏教』吉川弘文館、1999年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山田福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
高見2004. 高見大地「熟田津とはどこか─古代の良港と微地形─」越境の会編『越境としての古代2』同時代社、2004年。
潮汐表a 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第1巻─日本及び付近─』海上保安庁発行、平成12年。
潮汐表b 海上保安庁水路部編『平成十二年 潮汐表 第2巻─太平洋及びインド洋─』海上保安庁発行、平成12年。
東野2010. 東野治之「古代在銘仏二題」稲岡耕二監修、神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十一集』塙書房、平成22年。
直木1985. 直木孝次郎『夜の船出─古代史からみた萬葉集─』塙書房、1985年。
西本願寺本万葉集 主婦の友社編『西本願寺本万葉集 巻第1』おうふう、1993年。
橋本2012. 橋本雄一『斉明天皇の石湯行宮か・久米官衙遺跡群』新泉社、2012年。
古橋1994. 古橋信孝『万葉集─歌のはじまり─』筑摩書房(ちくま新書)、1994年。
益田2006. 鈴木日出男・天野紀代子編『益田勝実の仕事3』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
身崎1998. 身崎壽『額田王』塙書房、1998年。
八木2010. 八木孝昌『解析的方法による万葉歌の研究』和泉書院、2010年。
山之口2013. 山之口貘『新編山之口貘全集第1巻 詩篇』思潮社、2013年。
吉井1990. 吉井巖『萬葉集への視覚』和泉書院、1990年。
吉田2008. 吉田金彦『吉田金彦著作選4─額田王紀行─』明治書院、平成20年。
吉村2012. 吉村武彦『女帝の古代日本』岩波書店(岩波新書)、2012年。

※本稿は、2015年1~2月稿を、趣旨に変更はないまま、新たに接した文献を加え、2020年11月に改稿し、2024年11月にルビ形式にしたものである。文字数が超過したため「其の三」を設けた。

家持の立山の賦と池主の敬和賦

2024年11月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 

 万葉集巻十七に、大伴家持と池主との間で交わされた、越中国の立山にまつわる歌のやりとりが載っている。当時はタチヤマと呼ばれていた。

  立山たちやま一首〈并せて短歌、此の立山は新川郡にひかはのこほりに有るぞ〉〔立山賦一首〈并短謌 此立山者有新川郡也〉〕
 天離あまさかる ひなに名かす こしなか 国内くぬちことごと 山はしも しじにあれども 川はしも さはけども 皇神すめかみの うしはきいます 新川にひかはの その立山たちやまに 常夏とこなつに 雪降りしきて ばせる 片貝川かたかひがはの 清き瀬に 朝夕あさよひごとに 立つ霧の 思ひ過ぎめや ありがよひ いや年のはに よそのみも 振りけ見つつ 万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね〔安麻射可流比奈尓名可加須古思能奈可久奴知許登其等夜麻波之母之自尓安礼登毛加波々之母佐波尓由氣等毛須賣加未能宇之波伎伊麻須尓比可波能曽能多知夜麻尓等許奈都尓由伎布理之伎弖於<婆>勢流可多加比河波能伎欲吉瀬尓安佐欲比其等尓多都奇利能於毛比須疑米夜安里我欲比伊夜登之能播仁余増能未母布利佐氣見都々余呂豆餘能可多良比具佐等伊末太見奴比等尓母都氣牟於登能未毛名能未<母>伎吉氐登母之夫流我祢〕(万4000)
 立山に 降り置ける雪を 常夏に 見れども飽かず かむからならし〔多知夜麻尓布里於家流由伎乎登己奈都尓見礼等母安可受加武賀良奈良之〕(万4001)
 片貝かたかひの 川の瀬清く く水の 絶ゆることなく ありがよひ見む〔可多加比能可波能瀬伎欲久由久美豆能多由流許登奈久安里我欲比見牟〕(万4002)
  四月二十七日に、大伴宿禰家持作れり。〔四月廿七日大伴宿祢家持作之〕
  立山たちやまの賦をつつしみてこたふる一首、并せて二絶〔敬和立山賦一首并二絶〕
 朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて いにしへゆ ありにければ こごしかも いはかむさび たまきはる 幾代いくよにけむ 立ちてて 見れどもあやし 峰だかみ 谷を深みと 落ちたぎつ 清き河内かふちに 朝去らず 霧立ちわたり 夕されば 雲居くもゐたなびき 雲居なす 心もしのに 立つ霧の 思ひすぐさず く水の 音もさやけく 万代よろづよに 言ひ継ぎかむ 川し絶えずは〔阿佐比左之曽我比尓見由流可無奈我良弥奈尓於婆勢流之良久母能知邊乎於之和氣安麻曽々理多可吉多知夜麻布由奈都登和久許等母奈久之路多倍尓遊吉波布里於吉弖伊尓之邊遊阿理吉仁家礼婆許其志可毛伊波能可牟佐備多末伎波流伊久代經尓家牟多知氐為弖見礼登毛安夜之弥祢太可美多尓乎布可美等於知多藝都吉欲伎可敷知尓安佐左良受綺利多知和多利由布佐礼婆久毛為多奈毗吉久毛為奈須己許呂毛之努尓多都奇理能於毛比須具佐受由久美豆乃於等母佐夜氣久与呂豆余尓伊比都藝由可牟加波之多要受波〕(万4003)
 立山に 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは かむながらとそ〔多知夜麻尓布理於家流由伎能等許奈都尓氣受弖和多流波可無奈我良等曽〕(万4004)
 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も まず通はむ〔於知多藝都可多加比我波能多延奴期等伊麻見流比等母夜麻受可欲波牟〕(万4005)
  右は、掾大伴宿禰池主和へたり、四月二十八日〔右掾大伴宿祢池主和之四月廿八日〕

 家持が「立山たちやま(注1)として作った万4000番歌は、これまで立山を賞讃する歌であるとばかり思われ、都から離れた鄙の地にありながらそれなりの素晴らしさを述べているものと考えられてきた。二上山の賦の流れを汲んでいるとも、人麻呂等によって歌われたいわゆる吉野讃歌や、赤人の「望不尽山歌」(万317〜318)、「登神岳歌」(万324〜325)の表現を踏襲しているとも捉えられている(注2)
 もし仮にそうであったとしたら、これら立山を詠んだ歌には歌としての新鮮味はなく、前作を凡庸に引き継ぎながら立山を対象に替えて詠んだに過ぎないことになる。しかし、そのようなことは考えにくい。歌は、その時その場において声として発せられたものである。テーマを変えながら同じようなことを言っているだけだとしたら、作者も、その歌を周囲で聞いた人も、ましてその歌に対して敬して和した歌を歌った人も、それまでも周りで聞かされている人も、漫然と替え歌のど自慢を耳にしているだけということになる。耐えられない退屈さである。おもしろくないことは覚えられることはなく、編纂したとされる人は最初の歌を作った家持であるとされるが、誇りをもって自身の作を採録することはないだろう。

 

 何がおもしろかったか。万葉の歌は言葉遊びである場合がきわめて多いから、それがおもしろかったのであろう。最初の万4000番歌の長歌後半部分に、歌句に現れていて明らかである。「万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ 音のみも 名のみも聞きて ともしぶるがね」。タチヤマという言葉を告げれば羨ましがること間違えなしと言っている。言葉が問題なのであって実景など適当に見繕っている程度ということになる。当該歌群はこれまで十分に理解されてこなかったのである。
 最初の「立山賦一首」(万4000)の題詞には「此立山者有新川郡也」(注3)と脚注があって殊更に強調されている。歌のなかで出てくる地名としては、「こしなか」、「新川にひかは」、「立山たちやま」、「片貝川かたかひがは」がある。これらの地名に関連した語呂合わせが行われていると考えられる。
 最初の「こしなか」は越中国のことで言わずもがななのであるが、解釈が定まっているわけではない。「天離あまさかる ひなに名かす」はどこに懸かっているのかが問われている。「懸かす」の「「す」は「こし」の国の神に対する尊敬語。」(集成本98頁)なる説がある。そして、「立つ」ということを名に懸けて、名高い、の意ゆえ「その立山の」に掛かるとする説(橘千蔭・万葉集略解所引の本居宣長説(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/874431/1/145)、大系本229頁、全集本214頁、中西1983.121頁、橋本1985.239〜240頁、多田2010.312頁、新大系文庫本387頁、稲岡2015.230頁)があり、「以下九句は「その立山」を修飾する挿入句。」(多田2010.312頁)などと説明されている。他方、直下の「越の中」に掛かるとする説(契沖・萬葉代匠記(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979065/1/146)、鴻巣盛広・萬葉集全釈(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1259724/1/151)、武田1957.477頁、窪田1985.278~279頁、廣川2003.153〜154頁、阿蘇2013.221~222頁)がある。「「鄙に名懸かす」は、その地方で有名な、の意。」(阿蘇2013.222頁)などと説明し、「都から遠く離れた地方で名高い越の中の国の至る所に」(同221頁)と訳している。
 言葉尻というものがわかっていない。次の歌は、柿本人麻呂が作った明日香皇女への挽歌である。

 …… 御名みなかせる 明日香川あすかがは ……(万196)

 名に負っている、の意である。万196番歌の場合のスは尊敬の助動詞ととれはするが、万4000番歌の場合は自発の助動詞と捉えたほうがいいだろう。名に負うことについては、固有名詞である地名は、根拠が先にあって名づけられたわけではなく、すでにそう呼ばれていたものに対してこじつけをして理解の足しにすることが行われた。すなわち、「ひなに名かす」とは、ひなという言葉に自発的にかっている、の意である(注4)。都ではなく鄙であるとは、都から国境を乗り越えてやってきたところのことである。乗り越えてやってくることは古語で「こし」というから、その名のとおり鄙に値するというわけである。鄙であることを地名「こし」は勝手に懸かっていると言っている。「ひなに名かす」は「こし」を導く枕詞的序詞とも呼び得るであろう。
 これは歌である。だらだらと言葉を発し続けている時、九句飛ばして懸かっていることはあり得ない。聞いている人のメモリー機能のキャパシティを超えている。「新川にひかはの その立山たちやまに」の「その」を九句飛ばしの理由、思い出させるための指示詞と捉える説もあるが、題詞の脚注に「此立山者有新川郡也」と念を押しているように、ニヒカハとタチヤマとの意外な結びつきを暗示するための言葉であろう。この続き方の所以として考えられることは、ニヒカハが、ニヒ(新)+カハ(革)、新しく鞣された皮革を示唆している点にある。新しく作った鞣革を使って作った鞘におさめて整ったタチ(大刀)、そのタチという音を持ったタチヤマ(立山)に、云々、と続いて行くということである。その前にあるのは「皇神すめかみの うしはきいます」である。ウシハクとウシ(牛)が出てきていて、牛革がイメージされていたのだとわかる。これによって、越中国の二つの地名の地名譚がなるほどと思われるのである。タチヤマ(立山)はニヒカハ(新川)の郡にあって然るべしということであり、ゆえに、「新川にひかはの その○○立山たちやまに」と強調して言っている。
黒韋包金桐文糸巻太刀(室町時代、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0035215をトリミング)
 「常夏とこなつに 雪降りしきて」(注5)とあるのも、鞘の話をしているからである。サヤという音は、サヤ(清)、サヤカ(亮、涼)、サヤケシ(分明)などの意をも表す。サエ(冴)と同根の語で、冷たく、くっきりと澄んでいるさまをいう。冷たいから夏でも雪が降っておかしくないのであり、夏じゅう雪が消えないというのは印象的なできごとである。けっして消えることがなく、雪の存在がくっきりしている。それをサヤという状態言が表している。実際、雷鳥の生息域にある万年雪は氷河であることが確認されている。むろん、現実を写実的に表そうと意図したわけではないが、結果的に言葉巧みに言い当てている(注6)
 タチヤマという音は、タチ(大刀)が山のようにあることを言っている。同じ刀剣類でも諸刃のツルギ(剣)のことではなく、片刃の大刀である(注7)。越中国で立山(連峰)をめぐる川は片貝川である。カタ○○カヒカハの名のとおり、半分ぐらいしか立山をめぐっていない。川が交差して両側から包んでいるのでもなく、片側からしか流れていない、ないしは、その名を体するのに十分な流路を形成している。カタカヒの対義語はマガヒ(紛)である。マガフ(紛)という動詞のうち他動詞になると、入り乱れてあるものを他のものと見間違え、区別がつかなくなることの意になる。

 が丘に 盛りに咲ける 梅の花 残れる雪を まがへつるかも(万1640)

 マガフことがないのがカタカヒ状態である。二つの河川が交わる時、清流と濁流とが流れ込んでどちらの川の水であるか区別がつかなくなっていることがある。そういうことなく、上流から流れてきた水はどこの瀬をとってみても清らかなまま流れてきていると言っている。そして、そこから沸き立った霧も、けぶってよく見えずに紛うことへと影響を及ぼすことがない。なぜなら、タチヤマなのだから、そこの霧は必ずタツ(断、絶)に決まっているというのである。霧という言葉自体、キリ(切)と同音である。
 地名譚としてこのように定めてしまえば、「かたらひぐさ」(注8)として長く受け継がれ、皆羨ましがるであろうと述べている。「万代よろづよの かたらひぐさと いまだ見ぬ 人にも告げむ」は、都へ帰って土産話にしようということではない。興味深いことに、「人にも告げむ」と意志を表しているが、何を告げるかと言えば、いま歌にしているその歌の内容をである。歌のなかで歌っていることをそのまま告げると歌っている。枠組みフレームを設けずに論理階型を撞着させたもの言いである。このようなパラドキシカルなもの言いこそ、ヤマトコトバの論理術の特徴である。ある言葉が別の言葉と同じ音だからということでこじつけてしまう思考をくり返していれば、言葉は入れ籠構造としながら表に現れることになり、メビウスの輪、クラインの壺のような様相を呈することになるのである。
 大伴家持の「立山賦」は立山の地名譚であった。中国詩文の「賦」は、万葉集の題詞において、いかにも万葉集らしく転義されて用いられている。立山の情景を歌い、讃えていつつ、その実、地名の由来を語呂合わせによるこじつけで新解釈として披露し、洒落が利いていておもしろいだろうと誇るものであった。ことことであり、その限りで誤謬なくカタル(語、騙)ることができた時、歌の場に居合わせた人たちは、言葉の魔術師にすべての興味を持って行かれたのであった(注9)

 

 池主の「敬和」した一首、万4003番歌については議論が絶えない。「朝日さし そがひに見ゆる かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま」を考えるとき、朝日のさす方向と立山の方向とばかりを見比べて、背中の方に当たると考えて「そがひに」関係を理解しようとしている。しかし、歌われて宙に放たれる言葉の連なりにおいては人々のメモリーの容量を超えている。そんなに離れている言葉どうしだけを対比させることはあり得ない。「そがひに」は背反している状態のことを指している(注10)。何が背反しているのか。朝日がさし込んでいる方向と立山の見える方向とばかりでなく、「朝日さし」のサシ(刺)と「立山」のタチ(断)とである。立山はタチヤマ(大刀山)であると聞こえる。タチ(大刀)は刺すことを主眼に作られたものではなく、断ち切ることを主目的として作られた刃物である。その点が背反して見えることを「そがひに見ゆる」と言っている。「かむながら 御名みなばせる」とはもちろん「立山」という名のことを指している。実景として朝日はさしているのだろうが、それとは反対ごととしてタチヤマという名の山があり、日の差す方向とは違う方に見えている。その妙を示す言葉が「神ながら」である。神意のままに、の意であると無批判に受け止められているが、どこに神は存在すると考えているのだろうか。ヤマトコトバを第一に重んじた上代の人は、言葉のなかに神がいると考えた。もちろん、それぞれの言葉に恣意的に神が宿ると考えていたわけではなく、Aという言葉はどうしてそう言うのだろう、その音の意味するところは別の言葉Bでもある。すると、Aという言葉とBという言葉とはどこかに通底する意味合いを含んでいるはずだと、時には強引に理屈づけて考察に及んでいた。その時、考えオチとして頓知的解釈が成り立ったなら、なるほどヤマトコトバは神憑っていると納得し、それを「神ながら」と表現している。
 池主は家持のモチーフを敬んで受け継ぐ形で和える歌にしている。タチ(大刀)の山のことをさらに深めて言おうと試みている。家持は「霧」としていたが、池主は「雲」と変えている。名刀「あま叢雲むらくもの(注11)のことを思い浮かべているものと思われる。「いにしへゆ ありにければ」という句が正しく成り立つためには、事実としてそうだというその土地の人の昔語りだけではなく、いにしへからの、今日、神話と呼ばれる言い伝えが必要である。「ありにけり」に推量を示す言葉は含まれていない。
 しかし、それは「あま叢雲むらくものつるぎ」であり、諸刃である。片刃のタチ(大刀)ではない。だからこそ、白雲を帯びていながらタチ(断、絶)てしまうところがあって、それこそがタチヤマ(立山)なのだと強弁している。白雲を断って、さらには突き抜けて、天に向けそそり立っている。遠く眺めてみると、なるほど言葉どおりにそうなっていて、白雲が何重にもかかるものの、その白雲を断って押し別けるように聳え立っている。すなわち、タチという一語(音)のもとにタチ(断)でありつつタチ(立)であるという、背反していながらも無矛盾な状態、すなわち、「そがひに」状態になっている(注12)
 「そがひに」という語を持ち出して長歌を作った作者、大伴池主の修辞力は、今日から見れば異常に優れていると思われるかもしれない。けれども、上代の人、少なくとも歌をやりとりしている家持と池主、ならびにそれを聞いている人たちは、その時、その場で難なく理解したことであろう。つまり、理解を超えたものではなかった。うまくできているなと感心されはしても、それ以上のものではない。なぜなら、それ以前に誰かが、背反性、裏腹性を示す「そがひ(に)」という言葉を考案した時点で、すでに考え済みのことだからである。言葉の核心を突いてうまく応用して使っているから、おもしろいと思われ、皆が興ずることができたのである。

 

 二首ずつ付けられている短歌(絶)も形、内容とも「敬和」して対称形を成している。

 立山たちやまに 降り置ける雪を 常夏とこなつに 見れども飽かず かむからならし(万4001)
 立山に 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは かむながらとそ(万4004)

 五句目の「かむからならし」、「かむながらとそ」の意は、これまで、立山が神の山であってその性格に違わない、神そのままの姿としてある、などと解されてきた。これらは理解し難い。他に神奈備山かむなびやまとされる山で万年雪をいただいているところは知られない。尋常ごとではないから神さまの仕業だろうと考えることも違和感がある。見てきたように、言葉の魔術師たちが言葉巧みに歌を作っている。彼らが専念して考えていることは修辞であり、語呂合わせである。そして、トコナツという言葉を用いている。雪は夏にはふつう見られないが、トコナツ二はあるのだと言っておもしろがっている。どうしてそんなことが言えるかと言えば、トコ(常)はトコ(床)と同音だからである。万年床のように雪が降り置いている。ヤマトコトバはこのようにうまい具合にできている。まさに神の性格ゆえらしい、神の意向ということである、と言っている。言葉のアヤを「かむから」、「かむながら」と表現しているのである。

 片貝かたかひの 川の瀬清く く水の 絶ゆることなく ありがよひ見む(万4002)
 落ちたぎつ 片貝川の 絶えぬごと 今見る人も まず通はむ(万4005)

 カタカヒの対義語がマガヒ(紛)だから、カタカヒは紛うことがないことを指していると上に述べた。家持は片貝川は他の濁った川と交わらないからどこの瀬でも清らかだと言っている。池主は片貝川は紛れもなく存在しているということで、絶えなく流れるさまを表している。この捉え返しのうまさは、第一に、「立山」をタチ(断)と絡めて考えていたこととあわさることになって意味の強化が図られている点にある。第二に、長歌でいにしへからの言い伝えを含意して歌っていたことを、ここで今後のことへと転じて時間軸の上に据えているところにある。

 以上見てきたように、大伴家持の「立山賦」、大伴池主の「敬和立山賦」は、言葉遊び(Sprachspiel)の歌である。言葉だけでやりとりし得る限りで最大限の言語ゲーム(Sprachspiel)のあり方としてヤマトコトバの歌は歌われ、それをもって歓びとしていた(らしい)。無文字時代の言葉は、耳に届くものでしかやりとりできなかったのである(注13)

(注)
(注1)「賦」と記されている三首(また池主の「敬和」歌を含めて五首)について、山田孝雄『万葉五賦』の、「都人士に語らひ草として見せむの下心もありしならむ思はる。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1340920/1/23)とする指摘が罷り通っている。鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』の、「任地にある名所を賦して、都への土産とする考であつたかも知れない。」(同https://dl.ndl.go.jp/pid/1225871/1/51、漢字の旧字体は改めた)を承けている。
 家持が「賦」と記した越中での長歌三首には、題詞に小注が付けられていて地理的情報を記している(「此山者有射水郡也」(二上山賦)、「此海者有射水郡旧江村也」(遊-覧布勢水海賦)、「此山者有新川郡也」(立山賦))。歌中でも風土にまつわる歌いまわしが行われており、それをもって山田氏のような言い分は生まれているわけだが、そんなことが行われたとは思われない。越中の地誌的知識を都で語ったとして誰が聞くだろうか。知らない土地の、今後とも交わることのない場所について、想像の翼を広げて思いを致すほど暇ではない。わざわざ小注を付けているのは念を押しているのである。そこにあるイミヅ(射水)、フルエ(旧江)、ニヒカハ(新川)という音が及ぼすヤマトコトバの膨らみを駆使して歌を作っている。だからそれをヒントになぞなぞを解いて欲しいと断っているのである。上代びとにとっての歌とは、音声言語の戯れであった。
 歌はその時、その場で聞いて意が理解され、共有されるものである。後になってよくよく考えて意が通じても役に立たない。周りにいる人を巻き込んで場を盛り上げる形で命脈を保つものが一回性の芸術、上代の歌である。そのために詠まれている。したがって、家持が越中でどのように暮らし、どのような人事があって異動となるのかを調べてみても、歌の内容を繙くことに資することはほとんどない。なぜ題詞に「賦」と称されているのかについても、文選などの中国詩文の影響があり、池主との間で詩歌の応酬をすることで中国趣味が高まっていた(辰巳1987.)といえばそのとおりであろうけれども、それは記述の問題で、人々の前で歌を披露した時に表明されたものではない。池主は「敬和」と承け、「并二絶」とあって、「賦」に対して「絶」という中国詩文の用語を持ち出している。これとても、周囲の人にとって「絶」として聞かれたのではなく、ウタとして聞かれたことに違いあるまい。ちょっと格好をつけて書いてはみたものの、結局流行らずに終わっている。
 行幸で宮廷人が連れ立って行っている地の地名を持ち出しているのではなく、ただ家持が赴任しているところの地名を持ち出しているにすぎない。ヤマトコトバの中心地とは距離があるのに歌の文句にしていたら、ほとんど東歌レベルになるわけであるが、ただその地の景観を歌っているのではなく、都にいる人たちを含めてヤマトコトバを話す人なら誰にでもわかり、おもしろがられる歌を創案したから皆さん聞いてくださいね、という意図をもって「賦」などと特別な名称を付けているのであろう。中国詩文の「賦」は漢字でずらずら書き連ねられているが、漢字が皆読める(ことを前提としている)のが中国の学芸水準の基本であった。(芳賀1996.は文選の初めから見られる長い賦ではなく、小篇の賦、経国集に収められている藤原宇合・棗賦のように「乱」の添えられていないものを引き合いに出しているが、家持の意図するところは、ずらずらと連なっていて一見理解できないかも知れないと思われるということを示そうとして「賦」と書いているものと考える。)彼の地の人がいちいち漢字をたどっていけば理解できるように、一見知らない地名が出てきたとしても、ヤマトの人ならその言葉をいちいちたどっていけばわかるようになっている、そういう歌のことを示そうとして、中国詩文の「賦」という書き方を採用したものと思われる。中国に影響されて受動的に「賦」という書き方をしているのではない。
(注2)諸論による。数多くの論者が、歌句が同じである、または似ているということを理由にして、立山賦以前に歌われた歌からの影響を指摘している。以前歌われた歌の歌句を継ぎ接ぎした時、歌意も以前歌われた歌と同じであると言うことらしい。万葉の時代に換骨奪胎はなかったとの主張なのか。筆者自身はこの次元の議論に与しない。
(注3)翻って、万196番歌の「懸かす」も、明日香皇女のお名前につけておいでの明日香川、という意ではなく、明日香皇女のお名前に自発的に懸かっている、勝手に名前がゆかりあるものになっている明日香川、という意味に受け取るべきである。
(注4)原文は校訂において、西本願寺本のような「此山者……」ではなく、「此山者……」(元暦校本等)と「立」字があるのが正しいだろう。理由は以下に述べている。
(注5)「常夏とこなつに」という語については、夏中通して、ととる説と、夏に限らずいつも、ととる説と、今を盛りの夏に、ととる説があげられている。雪を頂いている立山の表現を、常夏の島ハワイという現代語から推測することはできそうにない。「常初花とこはつはなに」(万3978)が、いつも咲き始めの花のように初々しいことを言おうとした表現であることから鑑みれば、いつも夏である時のこと、つまり、毎年夏が来た時にその間じゅう、のことを言っていると考えられる。つまり、トコナツ二という言い回しは、助詞の二の意味が効いているのである。冬はもちろん、春や秋であっても雪が降ることはある。しかし、夏に雪が降ることは想定されない。だから、夏という季節の間にまでも、それは毎年のことであるが、雪が降りしきっているということを言っている。
(注6)言い当てることこそ、ことことと相即となるという点で上代の言語使用の根幹をなしている。無文字時代にあって、ことことと一致するように努めることが、上代の人たちが言葉を使うに当たっての第一目的であり、「言霊ことだまさきはふ国」(万894)と呼べる言語空間の完成形であった。
(注7)全集本では、「立山」を現在の剱岳一帯を指すのではないかとするが、それがツルギダケと呼ばれていたとすると区別がついていないことになる。タチ(大刀)、ツルギ(剣)と別語としてあるのは、カテゴリー分けされていたことを物語る。
(注8)クサという言葉はどこにでもあって何の変哲もない有象無象のものであることを含意する。今後、特別な時、例えば祭礼において述べられる祝詞などの形で伝えられるのではなく、誰もが当たり前のこととして語られることを示す。ヤマトコトバに根を張ったクサ(草)ということである。
(注9)これが万葉集の歌の実相である。今日まで理解されていないのは、テキストがエクリチュールとしてあるため、文字文化のなかにある我々にとっては、空間をいっとき飛んだパロールであったという認識にたどり着きにくいからである。結果、現代の概念を持ち込んで、立山の聖性、国褒め、王権の讃美、漢詩文の影響などというキーワードによって解されている。これまで築いてきた研究土壌の上に皆立っている。しかし、それらは架空、幻想である。万葉集の歌を理解するということは駄洒落を理解することであると認め、高等教育の場に位置づけられる「万葉」なるものを解体していくこと、築いてきたものはみな虚構であったと気づいていかなければならない。
(注10)拙稿「そがひについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/02b50c2b4222ebe6fafcd500c7fbe8b3参照。
(注11)「時に素戔嗚尊すさのをのみこと、乃ち所帯かせる十握剣とつかのつるぎを抜きて、つだつだに其のをろちを斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。かれ、其の尾を割裂きてみそなはせば、中にひとつの剣有り。これ所謂いはゆる草薙剣くさなぎのつるぎなり。草薙剣、此には倶娑那伎能都留伎くさなぎのつるぎと云ふ。一書あるふみに曰はく、もとの名は天叢雲剣あまのむらくものつるぎけだ大蛇をろち居る上に常に雲気くも有り。故、以てなづくるか。日本武皇子やまとたけるのみことに至りて、名を改めて草薙剣と曰ふといふ。素戔鳴尊の曰はく、「これあやしき剣なり。吾いかにぞへてわたくしけらむや」とのたまひて、天神あまつかみのみもと上献たてまつりあぐ。」(神代紀第八段本文)と見える。
(注12)万4003番歌で「そがひに」という言葉が「朝日さし」のサシと「御名」=「立山」のタチばかりでなく、「立山」が雲を帯びていながらそのたくさん重なっているのを押し分けてそそり立っているという背反性をも示していると考えている。万4000番歌で九句も飛び越えて懸かるはずはないとしていたのに、「そがひに」という言葉が六句先まで及んでいるのは矛盾しているという意見もあるだろう。だが、万4003番歌は万4000番歌をきちんと承けて「敬和」した作である。池主の「敬和」して漫然と同じことをくり返しているのではなく、違う角度から捉え直すとこういう見方もできるのではないですか、という歌を作っている。モチーフは「そがひに」の一語である。「そがひに」をもって立山を表現し、通奏低音のように「そがひに」という語を全編に響かせている。一見、どうでもいいような対句表現(「冬」と「夏」、「立ちて」と「居て」、「峯高み」と「谷を深み」、「朝去らず」と「夕されば」、「立つ霧の」と「行く水の」)が見えるのも、「そがひに」状況を申し述べていることを強調するために付加されているのだろう。
(注13)近代の識字教育の観点に囚われてこの点を卑下するには及ばない。なぞなぞ的な修辞のレベルは近現代人の理解をはるかに超えている。人類の別の道として、そういう言葉の世界もあったことを我々は知るべきである。

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大伴家持の布勢水海遊覧賦

2024年10月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 越中国にあった大伴家持は、その地の地名を詠み込んだ「賦」を作って楽しんでいる。「遊-覧布勢水海賦一首〈并短歌〉」は、大伴池主の賛同を得て、「敬-和遊-覧布勢水海賦一首并一絶」を追和されている。

  布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそぶ賦一首〈あはせて短歌 此の海は、射水郡いみづのこほり旧江村ふるえむらに有るぞ〉〔遊覧布勢水海賦一首〈并短歌 此海者有射水郡舊江村也〉〕
 物部もののふの 八十やそともの 思ふどち 心らむと 馬めて うちくちぶりの 白波の 荒磯ありそに寄する 渋谿しぶたにの さき徘徊たもとほり まつ田江たえの 長浜ながはま過ぎて 宇奈比うなひかは 清き瀬ごとに 鵜川うかは立ち かきかく行き 見つれども そこもかにと 布施の海に 船ゑて 沖辺おくへぎ に漕ぎ見れば なぎさには あぢむらさわき 島廻しままには 木末こぬれ花咲き 許多ここばくも 見のさやけきか 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまに つたの きは別れず ありがよひ いや毎年としのはに 思ふどち かくし遊ばむ 今も見るごと〔物能乃敷能夜蘇等母乃乎能於毛布度知許己呂也良武等宇麻奈米氐宇知久知夫利乃之良奈美能安里蘇尓与須流之夫多尓能佐吉多母登保理麻都太要能奈我波麻須義氐宇奈比河波伎欲吉勢其等尓宇加波多知可由吉加久遊岐見都礼騰母曽許母安加尓等布勢能宇弥尓布祢宇氣須恵氐於伎敝許藝邊尓己伎見礼婆奈藝左尓波安遅牟良佐和伎之麻末尓波許奴礼波奈左吉許己婆久毛見乃佐夜氣吉加多麻久之氣布多我弥夜麻尓波布都多能由伎波和可礼受安里我欲比伊夜登之能波尓於母布度知可久思安蘇婆牟異麻母見流其等〕(万3991)
 布勢の海の 沖つ白波 ありがよひ いや毎年としのはに 見つつしのはむ〔布勢能宇美能意枳都之良奈美安利我欲比伊夜登偲能波尓見都追思努播牟〕(万3992)
  右は、かみ大伴宿禰家持作る。 四月二十四日〔右守大伴宿祢家持作之 四月廿四日〕

 布勢ふせ水海みづうみ遊覧あそぶ賦につつしこたふる一首〈あはせて一絶〉〔敬和遊覧布勢水海賦一首并一絶〕
 藤波ふぢなみは 咲きて散りにき の花は 今そ盛りと あしひきの 山にも野にも 霍公鳥ほととぎす 鳴きしとよめば うちなびく 心もしのに そこをしも うらこひしみと 思ふどち 馬うち群れて たづさはり 出で立ち見れば 射水いみづがは みなと洲鳥すどり 朝凪あさなぎに かたにあさりし しほ満てば 妻呼びかはす ともしきに 見つつ過ぎき 渋谿しぶたにの 荒磯ありその崎に 沖つ波 寄せ来る玉藻たまも 片縒かたよりに かづらに作り いもがため 手にき持ちて うらぐはし 布勢ふせ水海みづうみに 海人あまぶねに 真楫まかぢかいき 白栲しろたへの 袖振り返し あどもひて 我が漕ぎ行けば 乎布をふの崎 花散りまがひ なぎさには 葦鴨あしがもさわき さざれ波 立ちてもても 漕ぎめぐり 見れども飽かず 秋さらば 黄葉もみちの時に 春さらば 花の盛りに かもかくも 君がまにまと かくしこそ 見もあきらめめ 絶ゆる日あらめや〔布治奈美波佐岐弖知理尓伎宇能波奈波伊麻曽佐可理等安之比奇能夜麻尓毛野尓毛保登等藝須奈伎之等与米婆宇知奈妣久許己呂毛之努尓曽己乎之母宇良胡非之美等於毛布度知宇麻宇知牟礼弖多豆佐波理伊泥多知美礼婆伊美豆河泊美奈刀能須登利安佐奈藝尓可多尓安佐里之思保美弖婆都麻欲妣可波須等母之伎尓美都追須疑由伎之夫多尓能安利蘇乃佐伎尓於枳追奈美余勢久流多麻母可多与理尓可都良尓都久理伊毛我多米氐尓麻吉母知弖宇良具波之布施能美豆宇弥尓阿麻夫祢尓麻可治加伊奴吉之路多倍能蘇泥布里可邊之阿登毛比弖和賀己藝由氣婆乎布能佐伎波奈知利麻我比奈伎佐尓波阿之賀毛佐和伎佐射礼奈美多知弖毛為弖母己藝米具利美礼登母安可受安伎佐良婆毛美知能等伎尓波流佐良婆波奈能佐可利尓可毛加久母伎美我麻尓麻等可久之許曽美母安吉良米々多由流比安良米也〕(万3993)
 白波の 寄せ来る玉藻 世のあひだも 継ぎて見にむ 清き浜辺はまびを〔之良奈美能与世久流多麻毛余能安比太母都藝弖民仁許武吉欲伎波麻備乎〕(万3994)
  右は、じょう大伴宿禰池主作る。〈四月二十六日に追ひてこたふ。〉〔右掾大伴宿祢池主作〈四月廿六日追和〉〕
 神堀1978.、橋本1985.、伊藤1992.、廣川2003.などに、家持と池主との共同の営為の作品であると捉えられている。そして、池主の「敬和」とは家持の心を汲みつつ対応させながら補足するように歌い、両者が互いに補完しあって一つの作品として完結するとしている。
 コタフ(和)という語のダイアローグ性が理解されていない。コタフはコト(言)+アフ(合)の約と考えられ、言われたことに対して言葉で応じることをいう。一つの見方から言われたことに対して、それを十分に認めながら、別の見方からするとこうも言えるだろう、というのが「敬和」であろう。言葉の累積、累乗ではあっても補完し合ってようやく一となるという弁証法ではない。家持の歌だけでも、また、池主の歌だけでもきちんと一つの作として完成していると考える。

 

 まず家持の「遊‐覧布勢水海賦一首」(万3991)を見てみよう。この歌は前半と後半に分かれている。「物部もののふの …… そこもかにと」までと、「布施の海に …… 今も見るごと」とである。前半でいろいろと巡り見たが満足できなかった。そこで後半、布勢の海へと進んでいて、そこは遊覧するのにすばらしいところだからこれからも何度も通ってきては遊ぼうと言っている。題詞もそのように成っている。
 多数出てくる地名も、前半に「渋谿しぶたにの崎」、「松田江まつだえ」、「宇奈比川うなひかは」、後半に「布勢ふせうみ」、「二上山ふたがみやま」と分かれている。これらは地誌的知識として歌に交えられているようには思われない。そもそも、紀行歌を歌ったとしても聞いた人の興味にかからなければ場の共有に属すことはない。知らない地方の知らない地名を言われても困惑するばかりである。すなわち、自然詠として情景を歌いたくて入れているのではないのである。
 「渋谿しぶたに」とあれば、そこはシブという言葉の示すところであると言葉解きをしている。船の遅くなることをシブ(渋)といい、後には滞ることをシブク(渋)と言ったようである。万1205番歌の例では、船を沖合まで出せば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地、故郷の方を振り向いて見たいと思ったが、岬の陰になって望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。

 沖つかぢ やくやくしぶを 見まく欲り がする里の かくらくしも〔津梶漸々志夫乎欲見吾為里乃隠久惜毛〕(万1205)
 しとみのもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)

 つまり、「渋谿しぶたにの崎」というところは、ヤマトコトバにタモトホル(徘徊)ところ、同じ場所をぐるぐるめぐることになるに違いないところだからそう歌っている。「まつ田江たえ」という地名も、マツ(待)+タエ(絶)という意味、すなわち、長い時間が経過してもはや誰も待ってはいないことを意味しているはずだから、そこは「長浜」であって、時間は「過ぎて」いるというのである。同様に、「宇奈比うなひかは」というところも、ウ(鵜)+ナヒ(綯)するのがふさわしいところで、鵜飼の縄を綯って使うのが順当である。だから、「鵜川立ち」と続いていくわけである。「鵜川立つ」とは、鵜飼をする場所を決めて鵜飼を行うことをいう。鵜飼は、鵜にまつわるさまざまな漁法のことをいい、魚が鵜を怖がって逃げる習性を活かして行う漁すべてを言った。鵜の羽を竿の先や縄の各所にとりつけて川のなかに入れ、魚を脅かして網へと追い込みをかける漁もその一つである。宇奈比うなひかは=ウ(鵜)+ナヒ(綯)+カハ(川)のことだとすれば、「清き瀬ごとに」場所を決めて追い込み漁をしてはあちらこちらへ行ったということを言っていることになる。
 このように、渋谿しぶたにまつ田江たえ宇奈比うなひかはという地名をピックアップして駄洒落を言っている。そして、これらでは言辞として満足できないということを、遊覧するのにふさわしくはないと歌に昇華している。言葉遊びをしていることを、あたかも紀行しているかのように歌に取り繕っているものなのである。
 後半が歌の主意となる布勢水海遊覧への推奨部に当たる。後半で出てくる地名は、「布勢ふせうみ」、「二上山ふたがみやま」である。二上山についてはすでに「二上山賦」に詠まれている。赤ん坊が二つカミ(噛)する山に喩えられるチチ(乳)と、伝承されている海幸山幸のへの話で「一千」を作って償おうとしたのに受け取らなかったこととを掛けて歌にしている(注1)。この歌でも題詞の脚注に「此海者有射水○○郡舊江村也」と断られている。水に射ても魚は得られず釣り針()を失うばかりなのである。海幸山幸の話では、最終的にもとの釣り針を返せと責めたてていた相手を屈服させ、犬(狗)のように従わせたということになっている。犬を躾けて服従させた代表的なポーズに「伏せ」がある(注2)
「伏せ」のポーズ(埴輪 ひざまずく男子、古墳時代、6世紀、東京国立博物館特別展はにわ展示品、右:群馬県太田市塚廻り4号墳出土、文化庁(群馬県立歴史博物館保管)、左:茨城県桜川市青木出土、大阪歴史博物館保管)
 今、大伴家持は越中国に赴任していて、フセという地名のあることに思いを馳せている。すでに二上山賦で記紀の説話にある海幸山幸のへの話で「一千」について歌にしていた彼は、さらに「布勢ふせの水海」という地名を知り、さらに輪をかけて一連の話として歌に歌い込み楽しみとしている。「遊-覧布勢水海賦」で家持が歌いたいのはただそれだけである。言い伝えに伝えられていることが越中の地名としてあるから、そこへ行って遊ぼうと歌っている。彼が今しているのは言葉遊びである。
 「思ふどち」という言葉が家持長歌に二つ、池主敬和長歌に一つ出てくる。気の合った親しい人同士、の意と考えられており、ここではともに布勢水海に遊覧した越中国の国府に勤める官人のことを指すと思われている(注3)。しかし、「思ふどち」は文字どおり思う者同士の意であろう。布勢水海遊覧の意味を同じように理解する者同士のことである。海幸山幸の伝承の顛末の地として名のあるところ、目的地の布勢水海はを返した時に反抗してきたら溺れさせることのできる水海のことなのだ、と比喩のうちに理解し合えるということである。それがこの歌の主題である。「かくし遊ばむ」とは言葉遊びをすること、ヤマトコトバに戯れて作った歌のことと実際の地名のこととが重合するのを喜ぼうではないか、というのである。布勢水海でアクティビティを楽しもうというのではない。

 

 池主の「「敬-和遊-覧布勢水海賦一首」を見ていく。
 「真楫まかぢかいき」について解釈が定まっていない。筆者は、国府勤務の官人が「海人あまぶね」を借りて漕ぎ出していることを考え併せ、何艘かの船を出すなか、操作法がわからずに「かぢ」として船の左右にオールを出して漕いでいる人もいれば、一人乗りのせいなのか「かい」として掻いて使っている人もいるということを言いたくて変な言い方をしているものと考える。「かい」という語は奈良時代からイ音便で使われていた珍しい例として知られている。
 「うちくちぶり」は未詳の語である。諸説あるが不明である。「…… 馬めて うちくちぶりの 白波の ……」と続いている。万葉集長歌の性質として、尻取り式に言葉が数珠つながりになっていることが指摘されている。ただの尻取りであると考えるなら、馬と白波をつなぐことを示すものとして、馬の口の内のことが想起されるだろう。轡を嵌められながら歯を食いしばって息荒く進む時、口のなかは泡だらけになっている。「荒磯ありそに寄する」白波のような状態である。現代語ではあるが、何か言いたげな口ぶり、と言えば、何かを言いたそうにしている様子のことをいう。馬の口ぶりを想像するなら、ただ草を食べたいということだけだろう。よだれが垂れている口の内は、草をむことができずに馬銜はみばかり喰んでいる。白波が立っている。
 「花散りまがひ」の花は具体的に何の花かと特定はできないとされている。ではどうしてこのような句が出てくるか。そこが歌い方のミソである。ヲウノサキ○○(乎布の崎)と言ったから、サキ(咲)の次はチリ(散)ことになり、「散りまがひ」となるのである。その後でもだらだらと対義語を並べて述べ立てている。「さざれ波」は「立つ」を導いているだけなのであるが、すかさず「立ちてもても」と人間の姿勢へと話が転じている。論理展開をして行っているのではなく、音楽的に転調の妙とでも言うべき言葉を尻取り式に繰り出して進んでいる。そのことを池主も「敬和……賦」と言っている。だらだらとヤマトコトバの音声が続いているが聞いてゆけばわかる歌を、だらだらと漢字が続いているが読んでゆけばわかるものである「賦」になぞらえてそう呼んだということである(注4)
 大伴家持の言葉遊びは、この布勢遊覧賦において「敬和」する人を得た。ヤマトコトバの「賦」は、駄洒落、地口のオンパレードである。近現代の人にとっては、常日頃の感覚では近づくことのできない言語空間に、家持や池主は「賦」の歌のなかで「遊覧」(注5)していたということになる。言葉遊びの極みであった。

(注)
(注1)ここでは海幸山幸の話を再現させて歌に詠んでいる点しか示さない。詳細は拙稿「大伴家持の「二上山賦」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/70f132f85c9d58b6d26a0ec6f71effbe参照。海幸山幸の話の顛末は、ホヲリノミコトが地上に戻った時、相手のホデリノミコトを完全に屈服させている。そして、ホデリノミコトは隼人の阿多君あたのきみの祖であると断られている。職員令の定めとして、隼人は、宮門を守護する役を担うこと、溺れた時の様子で歌儛を演じること、竹笠を造作することが定められている。その様子は、狗(犬)のようであると譬えられ、隼人司が演じるべき職掌となっている。犬は「伏せ」と言われたら伏せてじっとしているように躾けられている。服従している。なお、隼人の吠声は犬が遠吠えをするように声を発することである。「本声」、「末声」、「細声」の実態を知りたければ、オオカミの飼育されている動物園を訪れるといい。数頭の飼犬に救急車のサイレンを聞かせても反応して遠吠えすることがある。サイレンが「本声」、応じて一斉に吠え返すのが「末声」、余韻をもって後でも鳴いている一頭のそれが「細声」である。隼人についての史学の議論には不可解な論調が多数見受けられる(補注1)
(注2)犬の調教用語は文献に残らない。ただし、今日でも「お座り」、「待て」、「おいで」、「お手」と並んで「伏せ」と言って躾けている。往時から番犬、猟犬として利用する場合に確実に行われていただろう。松井1995.は、長屋王の邸宅で鷹犬が米を餌にして飼われていたことを論証している。躾けられているから食べ物が目の前にあっても調理や狩猟の際、人間の邪魔をしない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
(注3)廣川2003.はさらに、官人の結束への願望が表出されて家持の歌に重出して用いられているとしている(151頁)。
(注4)「賦」と名づけた家持の考えについて、中国の詩文との関連を重く受け止める見解が多く見られる。文心彫龍・詮賦編に「賦者鋪也、鋪采檎文、体物写志也。」と説明されていることなどをどう捉えるか、真面目くさって議論している。実際に「賦」を目にしたダイレクトな印象から思い及んで名づけていると考えてはどうか。家持の作った「賦」の歌の特徴としては、言葉のつながりばかり重視されている点にある。内容面からまともに受け取ろうとすると空疎さが感じられ、歌としては低い評価が下されることが多い(補注2)。近現代の歌とは違う言葉づかいを実践しているのが万葉集の歌である。それは、長歌という形式が万葉集の終結をもって消滅したこととも関係する。尻取り式に言葉を継いで行って歌にしていることがあり得たのは、それが声に出して歌われたものだったからである。内容面から長歌を評価するなど、はじめからおよそナンセンス、まるで勘違いである。これらの長歌は、頓智話、なぞなぞの問題文として作られて歌われている。
 なお、本稿では万3991〜3994番歌の細部には検討を加えていない。家持と池主のやっていることが何なのかを探ることで完結とした。付き合いきれないという気持ちも浮かんでしまった。後考に俟ちたい。
(注5)「遊覧」という語について、中国文学の影響を指摘する説は根強い。例えば、山﨑2024.は、「萬葉集の「遊覧」の全……十例のうち八例までが家持と池主の好尚に関わっていること、それも「遊於松浦河序」に顕著な漢籍志向の「勝景を賛嘆する中に心の解放、遊びを求める」内容をそのまま取り入れたものであった。「遊覧」は、越中における家持の心を捉えていた詩想の一つであったと言えるかもしれない。」(166頁) とまとめている。漢字という形に溺れて按図索驥に陥っていないだろうか。
(補注)
(補注1)中村1993.は諸説をあげ考究している(「隼人の名義をめぐる諸問題」)。この点については拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4で詳述した。ハヤヒトと呼ばれていたことが重要で、「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)という発想が生まれている。上代の人はそのことについて疑問を持つことは少なく、否定することはまったくなく、「名に負ふ」状態にあり、その名に値する行動をとるようにと集合意識として求めている。
 海幸山幸の話の末尾で屈服した様子を「いぬ」に喩えている。官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である(「朱云、凡隼人者良人也。」(令集解))。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢は屈服を表し、最たる躾けの姿勢であるが、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする。意のままに動くさまを舞いと見立てたのが隼人舞である。舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、左右に分かれて位置して「吠声」を発している。元日や即位の際の儀礼に参与したのである。そんな掛け合いがなされるのはまるでオオカミの遠吠えのようであり、飼犬もつられて呼応したのを見て取っている。まことにうまい形容であると認められよう。
 ハヤという言葉は嘆く時に用いられる助詞である。いちばん嘆くのは身近な人が亡くなった時である。隼人は殯に参列している。また、犬なのだから番犬の役割を果すべく守護人となり、隼人司は衛門府に属している。
 これらのことを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことは史実として反乱を経てなのかといったことはあまり問題にならない。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。他との違いをあげるなら、南九州には古墳がない。墓制の問題であり、究極のところ生活誌の違いということになるだろう。だから殯に参列はしても埋葬には呼ばれていない。「山(陵)」を造らない理由として考えられるのは、彼らが「海」の民、海人族だったからということになろう。海人として海に潜って漁をしたとすれば、息継ぎをせずに長時間潜水をしていることになり、長い息をしていたということになる。ナガ(長)+イキ(息)を約してナゲキ(嘆)という言葉はできあがっている。嘆くからハヤという助詞に親和性がある。そんなこんなでハヤヒトという名を持つことになっていて、それに順ずる役回りを担うように要請されたということになる。「名に負ふ」ことの諸相によって語学的証明となっている。今日的な概念、例えば「服属儀礼」、「中華思想」、「呪力」といった術語ワードで考察しようとしても的外れである。関連事項を以下に列挙した。

 ここを以て火酢芹命ほのすせりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 隼人はやひとの 名に夜声よごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 …… 犬じもの 道に伏してや 命過ぎなむ〈一に云ふ、我が世過ぎなむ〉(万886、山上憶良)
 かきしに 犬呼び越して 鳥狩とがりする君 青山の しげ山辺やまへに 馬休め君(万1289)
 ……其の大県主、かしこみて、稽首ぬかつきて白さく、「奴にして有れば、奴ながら覚らずしてあやまち作れるはいたかしこし。故、のみの御幣物みまひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、己がやから、名を腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめてたてまつる。(雄略記)
 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・今来いまきの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿鬘ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

(補注2)高評価を与えている論考もある。風景描写として捉え、そこに讃美する精神を読み取って優れているとしている。論評に値しない。

(引用・参考文献)
伊藤1992. 伊藤博「布勢の浦と乎布の崎─大伴家持の論─」吉井巖編『記紀万葉論叢』塙書房、平成4年。(『萬葉歌林』塙書房、2003年。)
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
奥村2011. 奥村和美「家持の「立山賦」と池主の「敬和」について」神野志隆光・芳賀紀雄編『萬葉集研究 第三十二集』塙書房、平成23年。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
神堀1978. 神堀忍「家持と池主」伊藤博・稲岡耕二編『万葉集を学ぶ 第八集』有斐閣、昭和53年。
菊池2005. 菊池威雄「遊覧布勢水海賦」『天平の歌人 大伴家持』新典社、平成17年。
清原1994. 清原和義「家持の布勢水海─あぢ鴨の群れと藤波の花─」『高岡市万葉歴史館紀要』第4号、高岡市万葉歴史館、1994年3月。
島田2002. 島田修三「布勢水海遊覧の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
辰巳1987. 辰巳正明『万葉集と中国文学』笠間書院、昭和62年。
中西1994. 中西進『大伴家持 第三巻 越中国守』角川書店、平成6年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
橋本1985. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院、2003年。
西2001. 西一夫「大伴家持論─大伴池主との贈答・唱和作品を中心に─」(博士論文)、2001年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/3187651
山﨑2024. 山﨑福之『萬葉集漢語考証論─訓読・漢語表記・本文批判─』塙書房、2024年。
※隼人に関する参考文献は割愛した。拙稿「隼人(はやひと)について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/57ac57810198deb569ae55ab1f1ee5a4を参照されたい。

大伴家持の二上山の賦

2024年10月21日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 大伴家持は越中国司として赴任中、賦と称する長歌を三首作っている。それに大伴池主が「敬和」したものを含めて「越中五賦」と呼ばれている。「賦」は漢文学からとられた用語である。

  二上山ふたかみやま一首 此の山は射水郡いみづのこほりに有るぞ〔二上山賦一首 此山者有射水郡也
 射水川いみづがは いめぐれる 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまは 春花はるはなの 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて け見れば 神からや そこばたふとき 山からや 見がしからむ 皇神すめかみの 裾廻すそみの山の 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 朝凪あさなぎに 寄する白波 夕凪ゆふなぎに 満ち来る潮の いや増しに 絶ゆることなく いにしへゆ 今のをつつに かくしこそ 見る人ごとに けてしのはめ〔伊美都河伯伊由伎米具礼流多麻久之氣布多我美山者波流波奈乃佐家流左加利尓安吉能葉乃尓保敝流等伎尓出立氐布里佐氣見礼婆可牟加良夜曽許婆多敷刀伎夜麻可良夜見我保之加良武須賣加未能須蘇未乃夜麻能之夫多尓能佐吉乃安里蘇尓阿佐奈藝尓餘須流之良奈美由敷奈藝尓美知久流之保能伊夜麻之尓多由流許登奈久伊尓之敞由伊麻乃乎都豆尓可久之許曽見流比登其等尓加氣氐之努波米〕(万3985)
 渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ〔之夫多尓能佐伎能安里蘇尓与須流奈美伊夜思久思久尓伊尓之敞於母保由〕(万3986)
 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまに 鳴く鳥の 声のこひしき 時は来にけり〔多麻久之氣敷多我美也麻尓鳴鳥能許恵乃孤悲思吉登岐波伎尓家里〕(万3987)
  右は、三月三十日に、興に依りて作れり。大伴宿祢家持〔右三月卅日依興作之大伴宿祢家持〕

 「二上山賦」と銘打たれた長歌は、前半こそ二上山を題材にしているようでありつつ、後半にはせり出している海の様子を詠んでいる。それをまとめて「二上山○○○賦」と呼んでいて、題詞との間にズレがあるように思わせるものである(注1)
 題詞には脚注が付けられていて、二上山が射水郡に位置していることを殊更に印象づけている。とてもわざとらしい。おそらくは歌の内実を解くヒントゆえのことだろう。歌の最後の方に「いにしへゆ 今のをつつに」とあって、太古の昔から今に至るまでずっとのことであると述べられている。「いにしへ」という言葉は、イニ(往)+シ(助動詞キの連体形)+ヘ(方)のことで、過ぎ去ってしまってはるか遠い昔のこと、自分が実地に知ることのできない、言い伝えられている神話的説話の時代のことを指している。そんな大昔のことを持ち出すことができるのは、二上山があるのが射水郡だからということのようである。
 射水いみづという言葉から連想される言い伝えとしては、海幸・山幸の話がある。山で狩猟をしていた山幸が、海で漁撈をしていた海幸との間で、互いにサチを交換しようということになった。サチとは得られた獲物を表すと同時に、それを捕獲する手段となる、とっておきの道具のことも表した。それさえあれば獲物は捕れたも同然だからである。そのとっておきの道具とは、狩猟では弓矢の矢の先につける鏃であり、漁撈では釣りをするとき糸の先につける釣り針()のことと考えられた。鉄器で製作されるようになり、生産性が高まったことに基づいての考えからであろう。そして、鏃と釣り針を互いに交換し、持ち場も替えてみたのである。狩猟民が釣りにおいても弓矢を放つのと同じだろうと思い、魚をめがけて放ったところ、ただ失われるばかりのこととなった。水に向けて矢を射ることをした場所として、イ(射)+ミヅ(水)という言葉が想起されたのである。
 山幸こと、ホヲリノミコトは、兄である海幸こと、ホデリノミコトに、失くしてしまったを返すようにと責めたてられた。そこで、佩いていた十拳剣とつかのつるぎを鋳潰して、千個の鉤にリサイクルし、償いとしようとしたが受け取ってはもらえず、頑なにもとの鉤を求めてきた。途方に暮れて海辺に佇んでいると塩椎神しほつちのかみ塩土老翁しほつつのをぢ)が知恵を授けてくれた。その後、海神宮わたつみのみやを訪問する話へと展開していく。千個の鉤のことは、「一千」(記上)と言っていた。チチはちちと同音である。乳と言えば赤ん坊が求める女性のそれが代表であり、二つある。それを赤ん坊は噛んでは吸っている。フタガミヤマ(二上山)という言葉(音)から何をイメージしているか理解されよう。すなわち、「二上山賦」は、海幸・山幸の説話をもとにした地名譚を創案して朗々と歌われたものなのである。海幸・山幸の言い伝えが人口に膾炙していて、それをもとにすれば射水郡のいくつかの地名は繙くことができた。そのため、それらをつなぐ言葉として、「いめぐれる」(注2)と述べている。心のうちに想念として人々が共通して持っている昔語りを自然の景観に託しなぞらえて歌にしている。恋情を自然に託しなぞらえて歌にするのと同じ手法である。
 全集本は、「秋の葉」は「春花」の対偶語で、ともに翻訳語であろうという(206頁)。なぜ対偶的な言葉が求められているかといえば、フタ○○ガミヤマ(二上山)を詠んでいるからであろう。二つ対立するように述べ立てている。「春花はるはな」が「春花しゆんくわ」、「秋の葉」が「秋葉しうえふ」を訓んだ翻訳語かどうか決める決定打はない。春には植物が花を咲かせることが特徴としてある。対して、秋はどうかと言ったとき、色づいた「葉」が目につくと思うことに不自然なところはない。漢籍を知らなければ生まれることがない言葉であるとは考えにくい。その後も、フタ○○ガミヤマ(二上山)を強調して表すために、「神からや」、「山からや」というように対句形式を用いている。カラはから、本性、性格の意である。二上山ふたがみやまの神の性格、山の性格とは何か。乳のことであると見立てているのだから、貴いのはおっぱいが出て乳児はそれを飲むことができて健やかに育つことかとも思われる。見たいと思うのは男性がそう思うということであろう。今、乳を望んでではなく二上山を望んで歌にしている(注3)。したがって、あるいはそういうことであろうか、と疑問の意を含めるために「や」という疑問の助詞が付いている。
 「かむから」という言い方は、一般に、うまい具合に表現している常套句コロケーションなど、ヤマトコトバとして上手に連絡していて言い得て然りとする時に用いられる(注4)。おっぱいが出ることは自然の摂理だが、なかには出の悪い方もいる。神の性格、なせる業と考えることは用法として少し無理がある。二上山に見立てられる乳房の二つあることと「一千」という言い伝えの言葉とがうまく連動してわかりやすくなっているところこそ、まるでそこに神が実在しているかのようなからくりであると見て取って「かむから」と言っている。このヤマトコトバには神が宿っているようではないか、と言っている。
左:裳の襞がプリーツスカートのように凸凹している例(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/高松塚古墳)、右:飾襞付き裳裾部分をアップ(高松塚古墳壁画・女子群像、明日香村教育委員会)
 神代の時代に乳房をたくわえた神さまといえば、女神と限定され、その代表格はアマテラス(天照大御神、天照大神)である。そこで、「皇神すめかみ」という言い方で言い直している。スメカミは一地域を領する最高位の神のことも指すからである。女神を前提にしているから、山裾のことは女性が身につける裳の裾のことともイメージが重なって的確である。裳の裾にはたくさんの襞があり、裾を廻るには上り下りをくり返すことになりそうだと形容している。ちょうどそこに「渋谿しぶたに」という地名がある。シブ(渋)とは進行が遅くなることをいう言葉のようである。下にあげた万1205番歌の例では、船を沖合まで出してしまえば岩礁にぶつかる心配が減るから、一生懸命に漕ぐ必要はなくなって船の進行を遅くしても大丈夫になるが、力を抜いた水夫は出港した地やさらにその先の故郷の方を見たいと思い振り向いたが、岬の陰になっていて望み見ることができず惜しいことだと言っている。今昔物語の例では、逃げる際に蔀戸を外してそれに跨ってムササビのように滑空して行った時の様子を言っている。蔀のおかげで抵抗が増して落下速度が遅くなっている。

 沖つかぢ やくやくしぶを 見まくり がする里の かくらくしも(万1205)
 しとみのもとに風しぶかれて、谷底に鳥の居る様に漸く落ち入りにければ、……(今昔物語・十九・四十)

 山からすれば谷に当たる所、そこが凸凹していて浜を有さずに磯となって海に面している。「渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそ」とは、そういう海に埋没した山裾の様子を言っている。
 次にも対句形式が来ている。「朝凪あさなぎに」、「夕凪ゆふなぎ」である。しかし、凸凹した磯場では潮が引いても浜が現れることはない。いつも海水を被っている。「寄する白波」、「満ち来る潮」と言っている。そしてそのことをもって「いや増しに 絶ゆることなく」と続いて行っている。このように引くことのない様子を歌にしているのは、当初から歌に込めている元ネタ、海幸・山幸の話による。山幸こと、ホヲリノミコトは、を見出だせずに途方に暮れていると、海神の宮への行き方を教えられて行ってみた。何年か過ごした後、鉤が見つからずに責められていたことを打ち明けると、鯛の喉にあることがわかり、なおかつ海神から鉤の返し方を教えられた。念の入った呪詛法で、相手の兄が逆ギレして攻撃してきた時のことまで踏まえていた。すなわち、攻めてきたら相手を溺れさせることが可能になっていたのである。だから、いま越中の地で見えている光景も、白波が寄せたり潮が満ちて来たりして、「いや増しに 絶ゆることなく」という状態になっている。それは「いにしへ」以来のことであり、「今のをつつ」、現在の実景にも当てはまることだと言っている。まさにこのように、この地の有り様を目にする人は、言い伝えどおりであることを皆よくよく心に「かけてしのはめ」、海幸・山幸伝承をダブらせて思いを致すのだろう、と言っている(注5)
 短歌二首が添えられている。

渋谿しぶたにの 崎の荒磯ありそに 寄する波 いやしくしくに いにしへ思ほゆ(万3986)

 万3986番歌は長歌の内容を念を押した作である。同じく「いにしへ」とあって、言い伝えにある海幸山幸の話、を返した時の対応によっては溺れることになるという話が自然と思い出されると歌っている。「寄せる波」が「しくしく」、つまり、く寄せてくるように、呪詛の言葉により溺れる話が思い出されることとを言い重ねている(注6)

 玉櫛笥たまくしげ 二上山ふたがみやまに 鳴く鳥の 声のこひしき 時は来にけり(万3987)

 万3987番歌では、「鳴く鳥」が登場している。この鳥はホトトギスのことを指していると考えられている。この歌群の一つ前に前日の歌が載る。

  立夏りつか四月うづきは既に累日るいじつて、由未だ霍公鳥ほととぎすくを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既経累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
 あしひきの 山も近きを 霍公鳥ほととぎす 月立つまでに 何か鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
 玉にく 花橘はなたちばなを ともしみし このが里に 鳴かずあるらし〔多麻尓奴久波奈多知婆奈乎等毛之美思己能和我佐刀尓伎奈可受安流良之〕(万3984)
  霍公鳥は立夏の日に来鳴くこと必定ひつぢゃうなり。又、越中こしのみちのなかの風土は橙橘たうきつのあることまれなり。此れに因りて、大伴宿禰家持、おもひをこころおこしていささかに此の歌をつくる。三月二十九日〔霍公鳥者立夏之日来鳴必定又越中風土希有橙橘也因此大伴宿祢家持感發於懐聊裁此歌。三月廿九日

 二上山賦の反歌に「霍公鳥ほととぎす」が詠まれている理由は、ホトトギスが、ホト+トギ、と間髪を入れずに鳴く鳥であると聞き做されつつ、ほとんど時は過ぎる、というようにも解されていたからである(注7)。時が過ぎてしまうことを指す鳥が霍公鳥ほととぎすなのだから、いにしへの故事を偲ぶのにふさわしい鳥として登場させている。しかも、山幸ことホヲリノミコトの海神宮探訪は、いわゆる浦島伝説の本となるもので、いやがうえにも時の経過を思わせる故事であった。ほとんど時は過ぎるとされた鳥、霍公鳥はそのことをよく体現しているわけであった。
 左注に、「興に依りて作る。」とある。心中に感興をもよおして、の意であると思われている。「依興」という言葉を特に使っている点について、例えば、伊藤1976.は、文字どおり感興に乗って表現すること自体を目的としたものと考え、橋本1985b.は「非時性」を見、小野2004.は、「賦」という新しい試み、積極的な新しい歌作りをさせしめた感興をいうとし、鉄野2007.は、自己の情動そのものを捉える語であるとする。みな印象論にとどまっている。見てきたように、古からの言い伝えを越中の地名譚として見出すことができて家持は喜んでいる。うまいことを思いついたから、その「興」に「依」ってうまいこと歌にした。それを左注に記している。捻って考えたらおもしろく考えられたということを書き添えて、皆さん、私の頓知がわかりますか、と出題のヒントに加えている。聞く人たちは家持の意図がわかっただろうか。おそらく少なからずわかる人がいたと思われる。通じないことをぐずぐず言ってみても仕方なく、その場合、世の中から消去、抹消されたに違いないからである。通じる人が多くいて、相変わらずうまいことを仰るなあ、家持卿、と一目も二目も置かれたから、家持としてもまんざらではなく、この歌群は後世に残されることになった。そしてまた、他の「賦」の歌、布勢水海遊覧賦、立山賦の創作へと駆り立てることとなった。見事だと思う人のなかには池主もいて、後で作られた賦には「敬和」した作が追和されている(注8)
 今日の人がこの歌、題詞に「賦」とまであるにもかかわらず何ら新鮮味を覚えることなく、ただの冗漫な、二上山への讃歌(注1)であると解するようなことは、歌が歌われた当時あり得なかった。それほどまでに、奈良時代の人にとっても、古からの言い伝えは人々の間に流布し、人々の思考を拘束していて、時には不可解に思われる政治情勢についても言い伝えを鑑みれば理解の助けになるものなのである。
 
(注)
(注1)この歌群についての評価としては、好悪を問わず、二上山讃歌であるとする見方が大勢を占めている。「国守の任国の地勢把握の作」(內田2014.62頁)とする控えめなものから、「風土記の撰進に類した国守の職掌としての意識も加わって、意欲的に作られている」(坂本2021.146頁)、「国守として、天皇の「みこともち」として、天皇の「遠の朝廷みかど」を讃える歌として、その王土の象徴たる二上山の讃歌を作ったのである。そしてそれが「興に依りて作」られたのである。」(小野2004.93頁)とする事大評価までいろいろである。なお、小野2004.には、刊行時点までの諸論が紹介されているので参照されたい。本論はそれらと無関係なのでほとんど触れない。
(注2)橋本1985b.は、「この「い行きめぐれる」が二上山を讃える条件の一つとした表現であることはいうまでもあるまい。」(188頁)と断じている。二上山賦を山への讃歌であると捉え、その意味合いを妄想的に深化させる議論ばかり目につく。
(注3)諸論では、二上山を讃め称え、聖なる山として崇めたものであろうと勘違いしている。家持は「立山賦」(万4000)も作っている。越中の山は聖なる山だらけということになってしまう。聖地で禁足地となると入り会いすることができず、生業に差し支えることになるだろうし、三輪山や宗像沖ノ島のように入山に規制がかかったとする歴史も持たない。「玉櫛笥たまくしげ玉匣たまくしげ)」という美しい語が登場するが、そのような櫛を入れる箱は蓋付きだからということからフタにかかる枕詞で「フタ○○ガミヤマ(二上山)」を導出している。言葉尻を捉えることしかしていないのである。
(注4)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/61bf39dd1ec35148ebc105c4de9f0abd参照。
(注5)諸説に、「かけて」は心にかけての意と、口にかけての意とがあるが、そのいずれかが問われている。前者とする説では、「偲ふ」は思慕するがゆえに賞で讃えるの意ととり、心にかけて賞美する、と解している。後者とする説では、今、家持が二上山の賦を言葉にあらわして詠んで讃美していることと解している。しかるに、「かけて」は「かく」に助詞テのついた形である。「かく(懸)」は、何かに何かを懸ける、何かと何かを懸けることが原義である。漠然と心にかける、心がけるということではない。
 「いにしへゆ 今のをつつに」とあり、現在のことを詠んでいるのなら結句は「しのふらめ」が自然な表現であり、字余りを避けたものかとしている(新大系文庫本377頁)。海幸・山幸の言い伝えを詠み込んでいるのだから、「しのはめ」がふさわしい。
(注6)今日では、この「いにしへ」(万3985・3986)について、漠然と遠い昔のこと、のように考える向きが多い。大伴氏の歴史の始まりを含めるように解する説もある(阿蘇2013.)。以前の研究では、この山には上代に謂れがあった(賀茂真淵・萬葉考)、神代に二上山に何かめでたい故事があったが現代には伝わっていない(鹿持雅澄・萬葉集古義、井上通泰・萬葉集新考、山田1950.)、名山として地方人に謡われていた(鴻巣1934.)などと考えられていた。越中の故事ではなく、ヤマトコトバを話すヤマトの人なら誰でもが知る故事でなければ互いに話は通じない。二上山の故事が特別にあるなら、巻十六の「有由縁」歌にあるように、題詞などに縷々書き記してかまわないことである。
(注7)拙稿「万葉集のホトトギス歌について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c341f72de9b0f0f693a7f885e4fd3a09/?img=3537338ac37f56610c9c590101e5b121ほか参照。
(注8)もちろん、家持と池主の二人だけの間で楽しまれたということではない。一家族だけで使われるだけとなった20世紀後半のソグド語のような様態を、よりによって書記に努めることはない。

(引用・参考文献)
阿蘇2013. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第9巻』笠間書院、2013年。
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
稲岡2015. 稲岡耕二『和歌文学大系4 萬葉集(四)』明治書院、平成27年。
內田2014. 內田賢德「或る汽水湖の記憶─「遊覧布勢水海賦」をめぐって─」『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年9月。
小野1980. 小野寛『大伴家持研究』笠間書院、昭和55年。
小野2004. 小野寛「家持「二上山賦」のよみの現在」万葉七曜会編『論集上代文学 第二十六冊』笠間書院、2004年。
鴻巣1934. 鴻巣盛広『北陸万葉集古蹟研究』宇都宮書店、昭和9年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225871
坂本2021. 坂本信幸「越中万葉の文化的意義」奈良県立万葉文化館編『大和の古代文化』新典社、2021年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典文学集成 萬葉集五』新潮社、昭和59年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(四)』岩波書店(岩波文庫)、2014年。 
全集本 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『日本古典文学全集5 萬葉集四』小学館、昭和50年。
大系本 高市市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系7 萬葉集四』岩波書店、昭和37年。
多田2010. 多田一臣『万葉集全解6』筑摩書房、2010年。
鉄野2007. 鉄野昌弘「「二上山賦」試論」『大伴家持「歌日誌」論考』塙書房、2007年。(『萬葉』第173号、平成12年5月。萬葉学会HPhttps://manyoug.jp/memoir/2000)
橋本1985a. 橋本達雄『萬葉集全注 巻第十七』有斐閣、昭和60年。
橋本1985b. 橋本達雄『大伴家持作品論攷』塙書房、昭和60年。
針原2002. 針原孝之「二上山の賦」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
山田1950. 山田孝雄『万葉五賦』一正堂書店、昭和25年。
中西1983. 中西進『万葉集 全訳注原文付(四)』講談社(講談社文庫)、1983年。

隼人(はやひと)について

2024年10月14日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 隼人は、古代の九州南部の人をいい、朝廷で隼人舞や警護の任についた。隼人(はや(ひ)と)の名義については、これまでに多くの説が唱えられてきた。中村1993.の研究史整理をもとにした原口2018.の分類をあげる。

(1)性行説
隼人の名義がその性質・性格・行動・しぐさによるとする説。
○敏捷・猛勇な隼人の性行が、古語でハヤシなどということにもとづくとする説(本居宣長)。
○「凶暴な人」を意味するチハヤビトにもとづくとする説(内田銀蔵)(注1)
(2)地名説
○『新唐書』にみえる「波邪」という地名にもとづくとする説(喜田貞吉)。
(3)方位説
○マリアナ語では南を「ハヤ」といい、南風を意味する「ハエ」と同様に「ハヤ」が南方をさすとする説(松岡静雄など)。
○四神思想で南方を意味する朱雀は、漢籍では「鳥隼」と関係があるとされる場合もあり、隼人の名義がここから採用されたとする説(駒井和愛・中村明蔵・原口耕一郎)。
○隼人・熊襲・蝦夷の名義は、天・陸・水という宇宙三界を表象するという説(大林太良)。
(4)職掌説
隼人の朝廷における職掌によるものとする説。
○ハヤシビト(囃し人)にもとづくとする説(清原貞雄)。
○隼人の歌舞のテンポが他の歌舞よりも早かったことによるとする説(井上辰雄)。
○隼人の狗吠/吠声から「吠人(はいと)」とされたことによるとする説(高橋富雄・菊池達也)。(原口2018.73~74頁に原口氏説を加えた)

 どうしてハヤヒトと呼ばれていたかを問うことはあまり生産的なことではない(注2)。言葉の語源を正すことは、歴史的に、すなわち、文献的に証明されるもの、例えば近代に生まれた翻訳語のように証明されるものならともかく、なぜ spring のことをヰ(井)というのかを考えても始まらないものである(注3)。地名のうちのかなりのものも、所与のものとしてあり、それを後からこじつけて何を表しているのか考えているだけである(注4)。このハヤヒトの場合も、由来を辿って行き着くところがあったとしても、それを証明と呼ぶことはできない。その点を承知のうえで筆者なりの意見を述べるなら、海人族として海に潜っていたことと関係があるかと考える。素潜りだから長く息を止める。ナガ(長)+イキ(息)、約してナゲキ(嘆)である。ナゲク(嘆)様子は助詞のハヤに表される。だからハヤヒト(隼人)である。文字によらない口語的世界、ブリコラージュとしての言葉遊びのなかで輝いて聞こえる言葉である。
 終助詞のハヤは、感動、感嘆、哀惜など、歌謡の例にあるように口に出して発話する言葉として用いられる。崇神紀十年九月条に、「御間城入彦みまきいりびこはや」とあり、何かを言っているのではなくただ歌っているだけであるという。景行記に、「あづまはや」とあり、倭建命やまとたけるのみことが東征からの帰路で溜息まじりにつぶやいている。同じく「その大刀たちはや」ともあり、自分から離れてしまったことに言葉が続かなくなっている。雄略紀十二年十月条に、「いひし工匠たくみはや あたら工匠はや」とあり、処刑されそうな大工を惜しんでいる。允恭紀四十二年十一月条に、「うねめはや、みみはや」とあり、朝貢した新羅人が畝傍山うねびやま耳成山みみなしやまを嘆き讃えた声が訛っていて、朝廷側は采女と姦通したのではないかと疑うことになっている。
 海人族のナガ(長)+イキ(息)からナゲキ(嘆)の声、ハヤを冠する族名となっている。海人族は他にも多いから、他の地域の海人もハヤヒトと呼ばれておかしくないが、南九州の人のみそう呼ばれている。どうしてそう落ち着いたのかは不明であるが、翻って、ハヤヒトと呼ばれたことを出発点として議論は始まることになる。「隼人はやひとの名に負ふ」(万2497)とはどういうことか組み立てて行っている。史料や木簡などには「隼人」という用字が常用されている。当時の人たちの共通認識として、そう宛てがうのがふさわしいと感じられたからであろう。先にハヤヒトという言葉があり、それに漢字を当てている。もし「隼人」という漢字が先にあって律令制のもとに初めて定められたとするなら、音読みしてシュンジンなどと名づけられていたのではないか(注5)。上代の人はハヤヒトとあることについて疑問を持つことなく、否定することはまったくなく、その名に値する行動をとるように集合意識として求めていくことになっている。

 凡そ元日・即位及び蕃客入朝等の儀は、官人かんにん二人・史生二人、大衣おほきぬ二人・番上の隼人二十人・今来いまきの隼人二十人・白丁びやくちようの隼人一百三十二人を率て、分れて応天門おうてんもん外の左右に陣し蕃客入朝に、天皇、臨軒せざれば陣せず、群官初めてらば胡床あぐらよりち、今来の隼人、吠声はいせいを発すること三節蕃客入朝は、吠の限りに在らず。(延喜式・隼人司)
 凡そ遠従の駕行には、官人二人・史生二人、大衣二人・番上の隼人四人及び今来の隼人十人を率て供奉ぐぶせよ。番上已上は、みな横刀を帯び馬にれ。但し大衣已下は木綿鬘ゆふかづらけよ。今来は緋の肩巾・木綿鬘を著け、横刀を帯び、槍を執りて歩行せよ。其の駕、国界及び山川道路のまがりを経るときは、今来の隼人、吠を為せよ。(延喜式・隼人司)
 凡そ行幸の宿を経むには、隼人、吠を発せよ。但し近きみゆきは吠せざれ。(延喜式・隼人司)
 凡そ今来の隼人、大衣に吠を習はしめよ。左は本声を発し、右は末声を発せよ。すべて大声十遍、小声一遍。訖らば一人、更に細声を発すること二遍。(延喜式・隼人司)
 朱に云はく、凡そ此の隼人は良人なりと。古辞に云はく、薩摩・大隅等の国人、初めそむき、後にしたがふなりと。うべなふに請ひて云はく、すでに犬と為り、人君に奉仕つかへまつらば、此れ則ち隼人となづくるのみと。(令集解・巻五)
 歌儛教習けうしふせむこと。……穴に云はく、隼人の職は是なりと。朱に云はく、歌儛を教習せむとは、隼人の中に師有るべきことを謂ふなりと。其の歌儛は常人の歌儛に在らず。別つべきなり。(令集解・巻五)

 養老令や延喜式にみられる隼人の任務としては、①朝廷における儀式への参加、②吠声を発すること、③竹器の製作にあたること、の三つに大別される(注6)。延喜式では、宮廷に仕える隼人は、元日即位の日や外国使節の入城、践祚大嘗祭に、応天門の外に異様ないでたちで立ち、赤い模様に飾られた楯と槍を持ち、吠声を発する決まりになっている。また、行幸に際しても、同行して国境や曲がり角で吠声を発することになっている。ハヤヒトという名から役割が整えられていっており、ハヤヒトという名ゆえに言い伝えにも反映したものとなっている(注7)。海幸山幸の話のなかで、最後に相手が屈服して仕えると誓ったとき、それを「隼人」の祖であるとし、「狗」とし、「俳優」としている。「隼人」、「狗」、「俳優」がヤマトコトバのなかで同一にカテゴライズされて納得が行っているのである。

 ここを以て火酢芹命ほのすせりのみこと苗裔のちもろもろ隼人はやひとたち、今に至るまで天皇すめらみこと宮墻みかきもとを離れずして、よよに吠ゆる狗にして奉事つかへまつる者なり。世人よのひとせたる針をはたらざるは、これ、其のことのもとなり。(神代紀第十段一書第二)
 火照命ほでりのみこと 此は、隼人の阿多君あたのきみおや。(記上)
 火闌降命ほのすそりのみことは、即ち吾田君あたのきみ小橋をはし本祖とほつおやなり。(紀本文)
 [火酢芹命ノ曰サク]「吾已にあやまてり。今より以往ゆくさきは、やつかれ子孫うみのこ八十やそ連属つづきに、恒にいましみこと俳人わざひとと為らむ。あるに云はく、狗人いぬひとといふ。はくはかなしびたまへ」とまをす。(神代紀第十段一書第二)
 [火酢芹命ノ曰サク]「……願はくは救ひたまへ。し我をけたまへらば、やつかれ生児うみのこ八十やそ連属つづきに、いましみこと垣辺かきへを離れずして、俳優わざをきたみたらむ」とまをす。(同第四)
 [火照命ノ]頓首ぬかつきてまをししく、「やつかれは、今より以後のち汝命ながみこと昼夜ひるよる守護人まもりびとて仕へ奉らむ」とまをしき。かれ、今に至るまで其のおぼほれし時の種々くさぐさわざ絶えずして、仕へ奉るぞ。(記上)

 海幸山幸の話の末尾で、ホノスセリが屈服した様子を「いぬ」に喩えている(注8)。狩りにおいては獣が捕獲されるが、その時、本来なら獣側にいるはずのイヌが人間側に立って働いている。人間に屈服し、恭順し、今後はずっと人間の役に立つようにすると誓っている。命じられるがままに地べたに腹をつけた「伏せ」の姿勢をとり、屈服を表明していると見受けられる。そして、儀式や行幸の際には、隼人が犬の吠声をたて、あるいは辟邪を司ったとされている。

 …… 犬じもの 道に伏してや いのち過ぎなむ一に云ふ、我が世過ぎなむ(万886、山上憶良)
 ……其の大県主あがたぬしかしこみ、稽首ぬかつきてまをさく、「やつこにし有れば、奴ながさとらずして、あやまち作れるはいとかしこし。かれ、のみの御幣物みまひものたてまつらむ」とまをして、布を白き犬にけ、鈴をけて、おのうがら、名は腰佩こしはきと謂ふ人に、犬の縄を取らしめて献上たてまつりき。(雄略記)
 冬十月の壬午の朔にして乙酉に、みことのりしたまはく、「犬・馬・器翫もてあそびもの献上たてまつること得じ」とのたまふ。(清寧紀三年十月)
 新羅のこきし献物たてまつるものは、馬二疋ふたぎ・犬三頭みつ・鸚鵡二隻ふたつかささぎ二隻及び種々くさぐさの物あり。(天武十四年五月)

 雄略記の例のように、犬を献上することで、犬のように屈服、恭順していることを表明することがあった。鷹狩り用の犬も献上されていた(注9)。飼主の言いつけに従わない犬というのはいない。人に噛みついたり、狂犬病の犬は殺された。雑令に規定されるほか、厩庫律・幖幟羈絆条(逸文)に、「凡畜産及噬犬、有蹹齧人、而幖幟羈絆不法、若狂犬不殺者、笞卅、以故殺傷人者、以過失論、若故放令‐傷人者、減闘殺傷一等、即被雇療畜産倩者、同過失法及無_故触之而被殺傷者、畜主不坐」とある。
 この要件は、犬的な人である隼人にも当てはまる。履中即位前紀に、住吉仲皇子すみのえのなかつみこの「近くつかへまつる隼人」が、ひそかに瑞歯別皇子みつはわけのみこから褒美をあげるといわれて主人を暗殺し、挙げ句の果て、自分の主君を殺すのはけしからんということで殺されている。主人や鷹を傷つけた犬は即刻殺されるということである。飼い犬に手をかまれるとの諺になっている。記では、「墨江すみのえの中皇子なかつみこに近くつかへたる隼人、名は曾婆加理そばかり」といい、紀には、「近くつかへまつる隼人有り。刺領巾さしひれと曰ふ。」と指定されている。
 犬の躾には、他にも「お座り」、「お手」などいろいろあり、狩猟の際には野性をよみがえらせて吠えたり果敢に飛び跳ねてアタックしたりする(注10)。意のままに動くさまを舞と見立てたのが隼人舞である。
 舞にはお囃子が付き物である。うまい具合に、ハヤヒトという名からはやすことが期待されている。お囃子をつかさどって、隼人は「俳優わざをき俳人わざひと」となっている。お囃子がそうであるように、あちらからもこちらからも声があがるよう、元日や即位の際の儀式において左右に分かれて位置して「吠声」を発している。延喜式・隼人式に、「分陣応天門外之左右一二、……今来隼人発吠声三節」とあるとおりである。そんな掛け合いがなされるのはまるで山にいるオオカミの遠吠えの掛け合いのようであり、猟犬、番犬である飼犬もつられて呼応したのだろう。まことにうまい形容であると認められよう。ヨバフ声を発していたわけである。
 ヨバフは、ヨブ(喚)に反復、継続の動詞語尾フのついた形である。その際、聞かせるべき相手は必ずどこかにいる。くり返し大きな声をあげて相手に向って注意を向けさせようとしていたり、見えないけれど必ずいるはずの答えてくれるべき相手を探すように声をあげている。よく通る声でなければならない。崇峻前紀では、捕鳥部万ととりべのよろづが犬のように地に伏し、誰かまっとうに話のできる相手はいないかとヨバフことをしている。この話にはよろづの飼っていた犬の話などがエピローグとして付いている(注11)。「犬(狗)」について深く考えられている。

 隼人はやひとの 名に夜声よごゑ いちしろく が名はりつ 妻とたのませ(万2497)
 かきしに 犬呼び越して 鳥狩とがりする君 青山の しげ山辺やまへに 馬休め君(万1289)
 隼人、多に来て方物くにつものたてまつる。是の日に、大隅隼人と阿多隼人と、朝廷みかど相撲すまひとる。大隅隼人勝つ。(天武紀十一年七月)
 五月丁未の朔にして己未に、隼人大隅にへたまふ。丁卯に、隼人の相撲とるを西のつきもとる。(持統紀九年五月)

 万2497番歌では原文に「早人」とあり、ハヤト、ハヤヒトという名に負うのが大きな夜声であるとしている。令集解・職員令にも、「已為犬、奉‐仕人君者、此則名隼人耳。」とある。隼人舞や犬の吠え声から囃す人のこと、敏捷で動作が速い、隼人舞のテンポの速いこととする説などがあげられている。しかし、犬の本義に近づいていない。猟犬として使うのは鷹狩においてである。鷹狩に使うはやぶさは、猟犬同様、飼い主に忠実である。狩りで捕まえたのだから自分で食べてしまえばいいのに食べずにいる。感嘆に値するし、食べてしまったらお仕置きが怖いから食べられず彼らは嘆息しているように見える。嘆く時に使う助詞はハヤである。鷹狩には鷹、隼、鷲など猛禽類が使われるが、そのなかで隼は最も人に馴れやすく、ペット化しやすい。犬と同等である。
 鷹狩に使う鷹(隼)を調教する際(「振替ふりかえ」)にも、ホッ、ホッと静かに、そして通るように鷹を呼ぶ。ワンワン(bow-wow)言ったら近づいてこない。ホォー(howl)と遠吠えする声のことを言っている。
 番犬として考えた場合、ドーベルマンのように警護の役に就くことに整合性がある。警護のために使う道具は楯である。平城宮跡から隼人の楯は出土している。犬という存在は、主人の楯となって主人を守る楯の役割を果たす。猟犬の記憶、さらにはオオカミの記憶としては、主人以外の人に対して敵対行動をとり、飼犬が楯となって守るのである。その際、誰をご主人様と思うかによって拒絶する相手は変わってくる。延喜式・隼人司に、「凡元日即位及蕃客朝等儀、……」、「凡践祚大嘗日、……」、「凡遠従駕行者、……」、「凡行幸経宿者、……」などとある各条は、すべて天皇を主人として隼人が振る舞うために定められた条項である。
盾持ち人形埴輪(時塚1号墳出土、向日市文化資料館『発掘された京都の歴史2024』展展示品。盾、犬のような耳、入れ墨の特徴を持つ)
 門番と考えるならそれは仁王に値する。大隅隼人と阿多隼人との二地域をあげたのは、左右(東西)に配置させるためで、力自慢の力士による天覧相撲が開かれている。九州南部の人の身長は低かったとされており、大相撲ではなく、犬相撲、闘犬に近い。ガードマンは通せん坊をする。入って来ようとするのを「いなぶ」ことをする。嫌がり拒むことは、古語で「すまふ」ともいうから、「相撲すまひ」を取っている(注12)
 人がいちばん嘆くのは大切な人が亡くなった葬儀の時である。亡くなることは古語で「ぬ」という(注13)。死ぬことは、姿が見えなくなることだから、婉曲的に死ぬことをイヌ(去・往)(万1809)と言い、人は死ぬとき横になって眠るような姿態をとる。だから、イヌという言葉が両方の意味を表していてわかりやすい。なにしろ、動詞イヌ(寝・去・往)を名詞のイヌ(犬)が体現している。イヌ(犬)がイヌ(去)ことをしたという例(桜井田部連膽渟の例、崇峻前紀用明二年七月)もある。まるで、辞書の用例として載っている一連の例文をもって一つの話にまとめられたかのようである。語学的にとても丁寧な解説となっている。ヤマトコトバはヤマトコトバをもってして、言葉を了解的に循環説明し、納得の域に達せしめている。わかりやすくておもしろくてためになる。そんな話(咄・噺・譚)が披露されている。何のための話なのかといった問いは、もはやナンセンスである。この件は辞書的説明が説話の形を整えたものである。イヌ(犬・寝・往)という言葉の本意を伝えるために話が成っている。
 犬であるハヤヒトにも活躍の場が設けられている。隼人はもがりに参列し、番犬の役割として警備に当たる。ゆえに守護人となって隼人司は衛門府に属している。忠犬よろしく殉死することもあったように描かれる(注14)

 三輪君みわのきみさかふ、隼人をして殯庭もがりのには相距ふせかしむ。(敏達紀十四年八月)
 冬十月の癸巳の朔にして辛丑に、大泊瀬天皇おほはつせのすめらみこと丹比たぢひの高鷲原陵たかわしはらのみさざきに葬りまつる。時に隼人、昼夜みさざきほとり哀号おらび、くらひものたまへどもくらはず、七日なぬかにして死ぬ。有司つかさ、墓を陵のきたのかたに造り、ことわりを以てかくす。(清寧元年十月)

 犬は飼い主に忠実であるが、ホォー(howl)と遠吠えする声は何を言っているのかわからず、ただ嘆いているばかりに聞こえる。今日でも、愛犬が救急車のサイレンに反応して遠吠えを始めたら、飼い主は何が起こっているのか戸惑うばかりで、大丈夫だよと声をかけてなだめている。九州南部出身者の方言は、外国語に勝るとも劣らぬほどわからなかったといわれ、まるで犬の声のようであったというのは話のオチのようなことであるが、そこから翻って彼らをハヤヒトと名づけたかどうかはわからない。
止まり木上の鷹と沓脱板でお座り姿勢の犬(春日権現験記写、板橋貫雄模、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1287498/1/7をトリミング)
 以上のことごとを解釈する際、隼人の人たちがヤマトに恭順したことを記録するものであるとか、時代的に言っていつのことに当たるのか、ハヤヒトがいつからそう呼ばれ定められていったかについては問うことができない(注14)。ヤマト朝廷に服属していく仕方は他の周縁の民と同様であろう。たまたまハヤヒトという名を持っていたから、役回りとして上のようなことを担うように要請されたということだろう。それが語学的証明である。今日的な概念規定、例えば「服属儀礼」、「華夷思想」、「呪力」といった術語ワードで考察しようとしても的外れである。

(注)
(注1)宮島1999.は彼らが海人族で、「執檝者かぢとり」に速い人とする説を唱えている。
(注2)『鹿児島市史Ⅰ』が「いくらその語のもつ意味を正確にとらえたところで、大した意義はないように思う。」(100頁)、『鹿児島県史第一巻』が「ハヤに特種の意味を持たせる事は果して適当であらうか。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640/1/49、漢字の旧字体は改めた)という言い方に、中村氏は反発している。
(注3)幸田露伴の音幻論など、見るべきものがないわけではない。
(注4)樟葉くずはの地名の由来について古事記は語っている。「皆たしなめらえて、くそ出で、はかまに懸る。かれ其地そこなづけて屎褌くそばかまと謂ふ。今は久須婆くすばと謂ふ。」(崇神記)。
(注5)文字によらずにハヤヒトという言葉があるということは、歴史のない文化を発祥とするということであり、名義の始期を問うことは筋違いである。今日、歴史学では、天武朝からハヤヒトと呼ばれたとし、記紀の説話は後付けで創作された文飾であると考えられるに至っている。文献を歴史学的視座からしか見ていないとそうなる。記紀に書いてあることは話(咄・噺・譚)である。文字を持たずに言葉を操っていた話の時代があり、その話の言葉を文字に書き写して残そうとしたものである。コトコトでなければ収拾がつかなくなるから、必ずコトコトになるように話(咄・噺・譚)とした。嘘をつくことは固く戒められ、ありもしないことをでっちあげることは慎まれた。火のないところに煙が立つようなデマは伝えられることなくかき消されたであろう。情報化社会とは真逆で、基本的に人の口から口へ、一人から一人へしか伝達の術はなかったからである。その間の誰か一人でも覚えることをしなかったら、伝わることはないのである。積極的に相手に覚えさせようとするおもしろさこそが話(咄・噺・譚)を支えた命であった。
(注6)➂の竹器製作の理由については、拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。
(注7)言い伝えが先か、条文が先かを問うことに関心が向かっているが、見当違いである。言葉として言い当てた時からすべては始まる。話としても法としても創られていく。
(注8)官憲の犬と言われるのは、昔は盗人として活躍していたが火付盗賊改に捕縛されて御用を聞くようになった者である。令集解に「朱云、凡此隼人者良人也。」とあるとおりである。
(注9)「貢上犬壱拾伍頭、起六月一日尽九月廿九日、并一百四十七日、単弐仟弐伯伍頭、食稲肆伯肆拾壱束、犬別二把」(正倉院文書・天平十年筑後国正税帳)と見える。
 なかには貴族邸で完全に愛玩用に飼われていた犬もいたようである。『平成29年度平城宮跡資料館新春ミニ展示「平城京の戌」リーフレット』独立行政法人国立文化財機構奈良文化財研究所https://sitereports.nabunken.go.jp/21939参照。
(注10)犬の動作については、それが飼犬である限りにおいて、人によって決められている。基本的な躾に従った動きが求められる。柳亭種彦・足薪翁記に「犬のさんた」のことが記されている。

 犬にさんたせよ\/といへば、前足をあげとびつく事のありしが、他国はしらず。江戸にてさる戯をする者を見ず。手をくれといふが此餘波ともいはん歟。三太はでつち又小僧などいふ下童の通称なれば、かのでつちの狂ひまはるまなびをせよと云事なるべし。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2553925/1/63、漢字の旧字体は改めた)

(注11)拙稿「捕鳥部万と犬の物語について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/19cfc757c1bd6945f14dd710ed63dc08参照。物部もののべの守屋もりやの「資人つかひと」という立場であるが、「犬」という言葉をよく写したものになっている。
(注12)佐佐木2007.は、「印南いなみいなび・び・犬」は音が似通っていて、イメージとして連想される言葉であると指摘する。もちろん、実際の使用においては文脈に依存する。
(注13)寝ることは「ぬ」(下二段動詞)、死ぬことも「ぬ」(ナ変動詞)である。

 大原の りにしさとに いもを置きて われねかねつ いめに見えこそ(万2587)
 夕されば 小倉の山に 鳴く鹿は 今夜は鳴かず 寐宿ねにけらしも(万1511)
 …… 隠沼こもりぬの したへ置きて うち嘆き 妹がぬれば ……(万1809)
 おくて われはや恋ひむ 稲見野いなみのの 秋萩見つつ なむ子ゆゑに(万1772)
 明日よりは 印南いなみの川の 出でてなば とまれる吾は 恋ひつつやあらむ(万3198)
 まことまさに遠く根国ねのくにね。(神代紀第五段本文)

(注14)殉死が盛んだった中国殷代の様子を白川2000.にみると、殷代の殉葬には、(a)身分関係の如何を問わず、王との親近関係によって、王の歿後においても、なおその側近にあることを要求される親信貴戚・武人・輿馬侍衛・包丁膳宰・𠬝・妾の類と、(b)専らその墓域を修祓潔斎する目的を以て、犬や牛羊とともに埋死された女子小人・閹寺、あるいは同様の目的を以て殉殺される羌・南等の外族犠牲の二種があるという。清寧紀元年十月条の記事は、犬牲の色彩を強くにじませた内容となっている。
(注15)文字言語のもとにある文明ではなく、無文字時代の口頭言語の文化の産物である。無文字文化に「歴史」はない。記憶と記録の違いである。(注5)参照。
 なお、隼人が人間として従ったのではなく、犬の立場に立つ形で仕えたということから、南九州地方に古墳がないことを説明できるかもしれない。埴輪は殉死の代わりとして供えられたという考えが垂仁紀二十八・三十二年条に表れている。今日の歴史学では時代的に合わないこと、殉死の風はヤマトに顕著とは言えず実態を伴わないこと、埴輪の発祥は吉備の特殊器台から転じた円筒埴輪に求められ、形象埴輪を語る記述はあやしいことから、その記述は否定的にばかり見られている。しかし、埴輪とはすなわち古墳を造ることであると据えてみれば、古墳を造ることは殉死の代わりになることと定位することができる。隼人=犬を埋葬するのに、犬の墓に犠牲の犬を求めることは辻褄が合わないから、ヤマト朝廷は南九州の勢力には古墳を作らせることがなかったと理解できるのではないか。日本書紀の記述について、まだまだ感覚として読めていないところがあると感じさせられる。

(引用・参考文献)
伊藤2016. 伊藤循『古代天皇制と辺境』同成社、2016年。
『鹿児島県史第一巻』 『鹿児島県史第一巻』鹿児島県、昭和14年。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1261640)
『鹿児島市史Ⅰ』 鹿児島市史編さん委員会編『鹿児島市史Ⅰ』昭和44年。
熊谷2019. 熊谷公男「蝦夷・隼人と王権─隼人の奉仕形態を中心にして─」仁藤敦史編『古代王権の史実と虚構』竹林舎、2019年。
佐佐木2007. 佐佐木隆『日本の神話・伝説を読む』岩波書店(岩波新書)、2007年。
白川2000. 白川静「殷代の殉葬と奴隷制」『白川静著作集4』平凡社、2000年。
高林1977. 高林實結樹「隼人狗吠考」横田健一編『日本書紀研究 第十冊』塙書房、昭和52年。
中村1993. 中村明蔵『隼人と律令国家』名著出版、1993年。
中村1998. 中村明蔵『古代隼人社会の構造と展開』岩田書院、1998年。
永山2009. 永山修一『隼人と古代日本』同成社、2009年。
原口2018. 原口耕一郎『隼人と日本書紀』同成社、2018年。
前川1986. 前川明久「隼人狗吠伝承の成立」『日本古代氏族と王権の研究』法政大学出版局、1986年。
松井1995. 松井章「古代史のなかの犬」『文化財論叢Ⅱ』同朋舎出版、平成7年。
宮島1999. 宮島正人『海神宮訪問神話の研究─阿曇王権神話論─』和泉書院、1999年。
守屋1973. 守屋俊彦「隼人舞と犬吠え」『記紀神話論考』雄山閣、昭和48年。

※本稿は、2012年2月稿「隼人(はやと・はやひと)の名義は、助詞のハヤによく表れている」を大幅に書き改めたものである。

四天王寺創建説話と白膠木のこと

2024年10月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 崇峻前紀に、物部守屋を攻め滅ぼす戦の場面がある。厩戸皇子は白膠木を四天王像に作って戦勝祈願をしている。これが四天王寺発願のこととされて今日でも議論の対象となっている。

 の時に、厩戸皇子うまやとのみこ束髪於額ひさごはなにして、いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。いくさうしろしたがへり。みづか忖度はかりてのたまはく、「はた、敗らるること無からむや。ちかひことあらずは成しがたけむ」とのたまふ。乃ち白膠木ぬりでり取りて、四天王してんわうみかたに作りて、頂髪たきふさに置きて、ちかひててのたまはく、白膠木、此には農利泥ぬりでといふ。「今し我をしてあたに勝たしめたまはば、必ず護世四王ごせしわう奉為みために、寺塔てら起立てむ」とのたまふ。蘇我馬子そがのうまこの大臣おほおみ、又誓を発ててはく、「おほよ諸天王しよてんわう大神王だいじんわうたち、我を助けまもりて、利益つことしめたまはば、願はくはまさに諸天と大神王との奉為に、寺塔を起立てて、三宝さむぽう流通つたへむ」といふ。ちかをはりて種々くさぐさいくさよそひて、進みて討伐つ。……みだれしづめてのちに、摂津国つのくににして、四天王寺してんわうじを造る。(是時、厩戸皇子、束髪於額、古俗、年少児、年十五六間、束髪於額、十七八間、分為角子。今亦為之。而随軍後。自忖度曰、将無見敗。非願難成。乃斮取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪、而発誓言、白膠木、此云農利泥。今若使我勝敵、必当奉為護世四王、起立寺塔。蘇我馬子大臣、又発誓言、凡諸天王・大神王等、助衛於我、使獲利益、願当奉為諸天与大神王、起立寺塔、流通三宝。誓已厳種々兵、而進討伐。……平乱之後、於摂津国、造四天王寺。)(崇峻前紀)

 この記述については、前後の文章と筆法が異なると指摘され、日本書紀の編纂の最終段階で挿入されたと考えられることがある。ただし、所詮は推測に過ぎず、根拠は薄弱である(注1)。日本書紀を編纂している人たちは、史上ほぼ初めて自分たちが使っている言葉を文字に書き起こしている。使っていた言葉とはヤマトコトバである。話し言葉としてあって上手に話していた。それを中国語に訳そうと漢文風に書いたのではなく、試しに漢文調で書いてみて、ヤマトコトバで理解できるように工夫している。ヤマトの人たちの間で通じればいいのであり、倭習と呼ばれる書き方は間違いではない。だからこそ、今日の我々でも理解できる。
 森2002.は、㋑「今亦然。」、㋺「成。」、㋩「蘇我馬子大臣発誓言、」、㋥「助衛我使獲利益、」、㋭「誓已種種、而進討伐○○。」が倭習、筆癖、潤色箇所であると指摘している。㋭は、小島1962.が、金光明最勝王経・護国品の「、発向彼国、欲為討伐○○。」によるものであろう(467頁)と推測する箇所である。
 金光明最勝王経の義浄訳は703年に成ったから、それ以降に書かれたもの、つまり、この文章全体はすべて後から付け足されたものと決めつけている。しかし、清書する前の段階であれば何段階でも書き足すことは可能であり、この文章がまるごといっときに追加されたものなのかわからない。もとより、金光明最勝王経に依った文飾と、「又」は「亦」でなければならないとチェックする採点とでは次元を異にする。可能性の問題として、㋑〜㋥は日本書紀の種本となる「天皇記すめらみことのふみ国記くにつふみ」(皇極紀四年六月)にそう書いてあったからそのまま引き写し、㋭に関してのみ後に潤色したということも考えられる。日本書紀は、すべからく日本書紀区分論を反映して書かれていなければならないと考えるのは本末転倒な研究姿勢である。
 それ以上に困ったことに、文章の印象から後に加えられたものであるとする議論がある。榊原2024.は、「その内容は、物語性が強く、不自然で、いかにも説話的であり、創作されたものであろう。当時の人々の間で自然に発生した伝承ではないと思われる。これまでの研究においても、崇峻即位前紀七月条……の[四天王寺]創建説話に記された内容は、歴史的な事実とは考えられず、創作された説話だとする見解が繰り返し提示されてきた。」(311~312頁)としている。
 断っておきたいのは、日本書紀に書いてあることをもって四天王寺の創建説話ととることは、日本書紀の本意ではない点である。日本書紀に書いてあることは、崇峻前紀であれば崇峻天皇が即位する前にどんなことがあったかということである。四天王寺が自らの創建を日本書紀に求めることはかまわないが、その逆ではない。また、榊原氏の言う「物語性」、「不自然」、「説話的」、「創作されたもの」という位置づけにおいて、それはいわゆる「歴史的な事実」とは相容れないものとして低い評価しか与えられていない。その底流には近代の価値観があるのだが、それで上代の文献を切り取ろうとしても豊かな成果は得られないだろう。なにしろ、日本書紀に書いてあることはヤマトコトバであり、話し言葉である。当時伝えられていた言葉は話し言葉として伝わっている。物語的、説話的、創作的であることのほうが自然である(注2)
 義浄訳金光明最勝王経に依っているとする説では、「護世四王」と「白膠」という文字面を気にしている。「護世四王」という言い方は他の仏典にも見えるが、「白膠」は義浄訳金光明最勝王経を待たなければ現れず、厩戸皇子の所作と祈願はその渡来以降に創られた話なのだとされている。「白膠木で四天王像を作ったという記述も、[仏教伝来記事]同様に『金光明最勝王経』の思想と用語に基づいて記述されたものとしてよいだろう。」(吉田2012.101頁)という。
 この議論はおかしい。義浄訳金光明最勝王経に出てくる「白膠」は、洗浴の法として香薬を三十二味を取れと言っている中の一つである。「牛黄」、「松脂」、「沈香」、「栴檀」、「丁子」、「鬱金」などに混じり、「白膠 〈薩折羅婆〉」とある。西大寺本金光明最勝王経においては、「膠」字にカウと白点(平安初期点)が付けられいる(巻七・金光明最勝王経大弁財天女品第十五、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1885585/1/72)。つまり、この「白膠」はビャクカウのように読まれるものである。
 白膠は、鹿の角などから得られる香材である(注3)

 白膠 味甘平、温無毒。主傷中労絶、腰痛、羸瘦、補中益気、婦人血閉無子、止痛安胎。療、吐血下血、崩中不止、四肢酸疼、多汗淋露、折跌傷損。久服軽身延年。一名鹿角膠。生雲中、煮鹿角作之。得火良、畏大黃。/今人少復煮作、惟合角弓、猶言用此膠爾。方薬用亦稀、道家時又須之。作白膠法、先以米瀋汁、漬七日令軟、然後煮煎之、如作阿膠法爾。又一法、即細剉角、与一片乾牛皮、角即消爛矣、不爾相厭、百年無一熟也。(陶弘景・本草経集注)
 白膠 一名鹿角膠。和名加乃都乃々爾加波かのつののにかは(本草和名)

 金光明最勝王経の「白膠」は、植物のヌルデ(白膠木)とは無関係である。字面として「白膠」が義浄訳の金光明最勝王経に見えるからと言って、それをもとにヌルデの木のことを崇峻前紀で「白膠木」と書いたとは決められない。すでに本草経集注にも見えている(注4)
 ヌルデの木のことは、新撰字鏡に、「檡 舒赤・徒格二反。正善也、梬棗也。奴利天ぬりで木也。」、和名抄に、「㯉 陸詞切韻に云はく、㯉〈勅居反、本草に沼天ぬでと云ふ〉は悪しき木なりといふ。弁色立成に白膠木と云ふ。〈和名は上に同じ〉」とある。「㯉」は「樗」の異体字である。医心方には、「樗鷄 和名奴天乃支乃牟之ぬでのきのむし」とある。ヌルデの木についた虫こぶが、鶏冠のような形状を示していたからこのように書かれたものと推測される(注5)
ヌルデの虫こぶ
 ヌルデの木を材として仏像彫刻とした例は知られない。ウルシ科の落葉高木で、樹液は白く、塗料や接着剤に活用が可能であった。塗る材料の意を表してヌリデと称したというのは合っていると思われる。わざわざ皮膚がかぶれかねないウルシ科の木材を使って彫像することはない。そんなヌルデ(古名ヌリデ)を漢字表記するのに、樹液が白くて膠のような性質を帯びているからということで「白膠木」と記すことに特段の不思議はない。筆者は、厩戸皇子は、ヌルデの虫こぶが膨らんでいるのを四天王像に見立てたものと考えている(注6)。ヌルデの木に注目が行って実用としているのは、医心方にあるとおりその虫こぶであったと考えられる。虫こぶからは付子ふし(五倍子)が取れ、薬用のほか、黒色の染料として用いられた。太子はヌルデの虫こぶを斮り取って彫像しつつ付子によって髪の毛の薄いのを誤魔化すことをしていた。最終的に摂津の国に四天王寺を建立することになったのは、付子はお歯黒に用いられたからで、口の中にはがいっぱいだから、ふさわしいのはツの国だということに相成ったのだろう。ヤマトの人は母語であるヤマトコトバでものを考えている。
 崇峻前紀に記されている「白膠木ぬりで」は話の素材として欠かせないものである。話し言葉のヤマトコトバにとてもよくマッチした話(咄・噺・譚)に仕上がっている。現代の歴史研究者は、古代の人のものの考え方に近寄ろうとしてせず、独りよがりな議論を展開して学と成している。

(注)
(注1)文字(漢字)の使用法をもってすべてがわかるほど、書かれた文章が言葉の多くを占めているわけではない。また、程度の問題としても、書いてあることからわかることは、書くことに慣れた近現代人よりもずっとわずかなことしか理解されないことを悟らなければならない。
(注2)「歴史」は書き言葉、文字によって作られた。ヘロドトス『歴史』、司馬遷『史記』のようにである。日本書紀は言い伝え、すなわち、話し言葉を基礎とする言葉を文字に落とし込もうとして、漢籍の字面を応用している。出典研究が行われて久しいが、典拠として新たに物語ろうとして創作された文章は必ずしも多くはない。なぜなら、書き残そうとしていることはヤマトの昔のことで、中国の思想的背景は脈絡に合わなくなるからである。それらは近代の価値観に基づく歴史的事実ではないかもしれないが、話(咄・噺・譚)として一話完結で成り立っていて、当時の人々の間で自然に発生した伝承である可能性がきわめて高いと考えられる。おもしろくなければ誰も語り継ごうとしないものである。
(注3)満久1977.によれば、中国や日本にはインドボダイジュやウドンゲノキがないから、日本の真言宗ではヌルデが護摩木に代用されたという。白い汁が出る木をもって代えて使うようにと仏典に指示があるという(139頁)。ヌルデは香木というわけではなく、和名抄に「悪木」扱いされているから、吉田2012.が推測するように霊木であったとも考えられない。新修本草にある楓香脂の一名に白膠香ビャクキョウコウとあるが、フウの樹脂を基原とするという(木下2017.307頁)。
(注4)久米邦武・上宮太子実録に、「四天王像の原料白膠木・・・は、倭名ヌリテ、異名を勝軍木という、香脂にして木材にはあらず。本草綱目に楓香脂、一 ハ白膠香とあり、李時珍の註に、 ニ香楓、金光明 ニ其香須薩折羅婆香、即此木謂漆也とある、脂といひ、にへといひ、漆といふ、今ならばゴム質といふべき物なり。其香膠にて作りたる小き像によりて、四天王寺の大伽藍を起せりとは一笑談なれど、勝軍木にちなみたる落想なるべし。釈日本紀に、白膠木(ぬりての木)私記曰、大政殿下 テ曰、白膠木之意如何、 シ云、師説不たしか其後問 ノ有識、或 フ白膠者甚有霊之木也、故修法之壇、取此木乳而塗用也、或 ニ仏之心[]入 ハ此木、取 ルニ_霊、及不朽乎、 ハ華山僧 ノ諸儀軌之文説とあれば、亦有霊の意にも取たるなり。要するに白膠は仏像に塗る用にして、仏像を刻むべき原料にあらず。俗に赤旃壇シヤクセンダンの霊木と称ふるも、此楓香脂を誤認したるにてあるべし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/780770/1/74、漢字の旧字体は改めた)とあり、これを受けて村田1966.は、「勝軍木または呪薬香だから用いたことが察せられる。」とし、「白膠については北涼曇無讖訳『金光明経』になく、隋釈宝貴の「合部金光明経大弁天品第十二「一切悪障悉得除滅……是故我説呪薬之法……白膠香」とあり、義浄訳『金光明最勝王経』大弁才天女品第十五 「如是諸悪為障難者、悉令除滅……当取香薬三十二味、所謂…白膠〈薩折羅婆〉 」とある。」(76頁)と註している。
(注5)いずれも我が国独自の用字であるという。木下2017.150頁参照。
(注6)「乃斮‐取白膠木四天皇像、」とあり、すぐにできあがっている。拙稿「聖徳太子のさまざまな名前について 其の一」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/bc11138c06bb67c231004b41fc7222bc参照。そこではヌルデの虫こぶ一つを四面の像とも仮定したが、虫こぶは鈴なりに成ることがあるから、一枝に四つできた虫こぶを「四天王」だと洒落て見立てたということかもしれない。戦にあっては、あまりの緊張から萎縮することがある。それを除くためには適度のリラックスが必要であり、厩戸皇子は自らおどけながら仏法による加護が得られることを期待してみせて、軍勢に対して安心感を与えつつ鼓舞することにも成功している、そういう話であると考える。

(引用・参考文献)
春日1969. 春日政治『西大寺本金光明最勝王経古点の国語学的研究』勉誠社、昭和44年。
木下2017. 木下武司『和漢古典植物名精解』和泉書院、2017年。
小島1962. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 上─出典論を中心とする比較文学的考察─』塙書房、昭和37年。
榊原2024. 榊原史子「『日本書紀』崇峻即位前紀七月条と四天王寺の創建─「厩戸皇子」像の検討─」小林真由美・鈴木正信編『日本書紀の成立と伝来』雄山閣、令和6年。
本草経集注 陶弘景校注『本草経集注』南大阪印刷センター、昭和47年。
満久1977. 満久崇麿『仏典の植物』八坂書房、1977年。
村田1966. 村田治郎「四天王寺創立史の諸問題」『聖徳太子研究』第2号、昭和41年5月。
森2005. 森博達「聖徳太子伝説と用明・崇峻紀の成立過程─日本書紀劄紀・その一─」『東アジアの古代文化』122号、2005年2月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。

龍(たつ)という語について

2024年09月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 中国から伝わった龍(竜)は、なぜかタツと訓まれることがある。地名「龍田たつた」に当てられることも多い。空想上の生き物としてのタツは万葉集の例(注1)が名高く、日本書紀にも「龍」は見える。

  して来書らいしよかたじけなみ、つぶさ芳旨ほうしうけたまはる。たちまち隔漢かくかんの恋を成し、また抱梁はうりやうこころを傷ましむ。ただねがはくは、去留きよりうつつみ無く、遂に披雲ひうんを待たまくのみ。〔伏辱来書具承芳旨忽成隔漢之戀復傷抱梁之意唯羨去留無恙遂待披雲耳〕(中略)
 たつも 今も得てしか あをによし 奈良の都に きてむため〔多都能馬母伊麻勿愛弖之可阿遠尓与志奈良乃美夜古尓由吉帝己牟丹米〕(万806)(中略)
 龍の馬を あれは求めむ あをによし 奈良の都に む人のたに〔多都乃麻乎阿礼波毛等米牟阿遠尓与志奈良乃美夜古邇許牟比等乃多仁〕(万808)(後略)
 豊玉姫とよたまびめみざかりこうまむときにたつ化為りぬ。(神代紀第十段本文)(注2)
 大将軍紀小弓宿禰、たつのごとくあがり、とらのごとくて、あまね八維やもる。(雄略紀九年五月)
 其の馬、時に濩略もこよかにして、たつのごとくにぶ。(雄略紀九年七月)
 さかりいたりておほとりのごとくのぼり、たつのごとくひひり、ともがらことたむらえたり。(欽明紀七年七月)
 大鷦鷯帝おほさざきのみかどの時、龍馬りゆうめ西に見ゆ。(白雉元年二月)(注3)
 ……空中おほぞらのなかにしてたつに乗れる者有り。……西に向ひて馳せぬ。(斉明紀元年五月)

 想像上の動物である「龍」は中国で考えられていたものである。日本で昔ながらのものとしてヤマタノヲロチや、ヤヒロワニ、クラオカミ、クラミツハは龍に似ていると思われているが、「龍」字を当てることも、○○タツと呼ばれることもない。万葉歌や雄略紀、斉明紀の例に見られるタツは、空を飛び駆ける馬のような存在として認識されている。トヨタマビメがお産のときに変じていたという「龍」については、古事記や紀一書第一・第三ではヤヒロワニになっていたとされている。
 「龍」は天駆ける馬であり、それをヤマトコトバでタツと造語している。どうしてそう命名したか、ながらく疑問とされている。説として、身を立てて天にのぼるところからタツ(立・起)と言ったのだろうという説が古くから行われている。瀬間2024.は説文、玉篇、易経、管子などを渉猟し、龍に「身を立つ」に相当する記述はないと指摘し、漢字の一部を取って訓としたという説を提示している。「龍(竜)」字のなかに「立」字があるからタツと命名した字形訓であるという(注4)
 この説は興味深いものだが、なかなかにあり得ない。なぜなら、その字を知らない人にとっては何を言っているのかわからないからである。
 虎についても日本には生息していないが、話に頭が大きくて揺らしながら歩くネコのような生き物だと伝えられた。毛皮を見せながら説明されたのだろう。それをコと言っても誰にも通じないから、頭を揺らしては時折大声を張り上げる生態の生き物のことを連想している。酔っ払いである。彼らは「とらかせる」状態にあるから、トラと命名している。酔っぱらいのことを指してオオトラというのは、tiger に先んじて考えられていた言葉ということである。
 龍という生き物は天駆ける馬のことだと考えている。もちろん、天駆けるような horse がいて駿馬だとありがたがられていても、実際に天駆ける horse というものはいない。つまり、龍は龍であり、馬は馬である。天上を駆けるのと地上を駆けるのとで種類は別である。
 この間の事情を物語る逸話を紹介する。
 列仙伝の馬師皇に次のようにあり、賛が付いている(注5)

 馬師皇者、黄帝時馬医也。知馬形気生死之診、治之輒愈。後有龍下向之、垂耳張口。皇曰、此龍有病、知我能治。乃鍼其唇下口中、以甘草湯飲之而愈。後数数有疾龍出其波、告而求治之。一且龍負皇而去。
  師皇典馬 厩無残駟 精感群龍 術兼殊類 霊虬報徳 弭鱗御轡 振躍天漢 粲有遺蔚

 黄帝の時に名獣医がいた。その馬師皇に診てもらった馬は必ず良くなった。そうしているうちに、龍が空から下ってきた。皇は龍が病気だと言い、鍼治療をし薬を与えた。口コミで龍がたくさん訪れるようになり、治してやっていた。ある日、龍は皇を背に乗せてどこかへ行ってしまった。そういう話である。
 賛の部分をいま仮に訓む。

 師皇 馬をつかさどるに、うまやに残れるくるま無し。群れる龍をくはしくるに、すべ兼ねてたぐひつ。くすしきみづち いきほひこたへ、いろこととのくつわらしむ。 天漢あまのがはおどりて、しらげてのこせるよもぎ有り(注6)
馬師皇(王世貞撰・有象列仙全傳、京都府立京都学・歴彩館デジタルアーカイブ(公開)https://www.archives.kyoto.jp/websearchpe/detail?cls=152_old_books_catalog&pkey=0000002438、1-28をトリミング)
 馬を診るのと龍を診るのとでは種類が違うのだから、馬医ではなく龍医でなくてはならないはずである。もちろん、龍は空想上の動物であり、龍医という職業はない。たぐいまれな馬医であった師皇の医術は、馬にも龍にも通じ兼ねたものであって、種類の分け隔てを断つものであった。
 この逸話がどれほどヤマトの人に知られていたかは定かではない。ただ、「たつの馬」と歌にいきなり歌われるぐらいだから、龍とは馬と近類だと考えられていたことは確かである。筆者が列仙伝のこの賛に注目したのは、「つ」というヤマトコトバゆえである。「殊儛たつづのまひ」という舞がある。大系本日本書紀は、「タツヅはタツイヅの約であろうか。立つのと、進むのとを合わせいう語か。殊は断(たつ)の意があるために、立つに通用させたものか。」(111頁)と注している。

 小楯をだてかたりて曰はく、「可怜おもしろし。願はくはまた聞かむ」といふ。天皇、遂に殊儛たづつのまひ〈殊儛、古に立出儛たつづのまひと謂ふ。立出、此には陀豆豆たつづと云ふ。かたちは、あるいはち乍いはて儛ふなり。〉たまふ。たけびてのたまはく、
 やまとは そそ茅原ちはら浅茅原あさちはら 弟日おとひやつこらま。
 小楯、是に由りて深く奇異あやしぶ。更にはしむ。天皇、誥びて曰はく、
 石上いそのかみ ふる神榲かむすぎ〈榲、此には須擬すぎと云ふ。〉もとり すゑおしはらひ、〈伐本截末、此には謨登岐利もときり須衛於茲婆羅比すゑおしはらひと云ふ。〉市辺宮いちのへのみやに 天下あめのしたしらしし、天万あめよろづ国万くによろづ押磐尊おしはのみこと御裔みあなすゑやつこらま。(顕宗前紀)

 「殊儛たづつのまひ」は龍の舞をイメージしているのであろう。「殊」という字をあえて用いているのは、ふだんの舞い方と類を異にしているのに一類に入れて「舞(儛)」であると言っていることを込めている言葉であることを示そうとしているからであろう。現在の市川團十郎(十三代)が高校在籍中、授業のダンスがうまくできず、「先生、舞えません」と訴えていたという。ダンスは舞ではない。長崎くんちの龍踊に見られるように、龍は日本舞踊のように腰を低くし続けるものとは違い、竿を使って上下動をくり返す踊りである。
 以上、「龍」は、言葉の範疇として、馬と近縁性を持ちつつ類を殊にすることをもってうまいこと立つことを示すようにヤマトコトバにうつしとられ、タツと呼ばれるようになったのではないかと考えられることを述べた。むろん、了解されるという次元のことであり、語源を正したというものではない。

(注)
(注1)拙稿「万葉集の「龍の馬(たつのま)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d8777a3302a4f3fb5bf68d8b6fab7396参照。
(注2)他書では八尋わになどに変じている。ここで龍を登場させた理由は不明であるが、お産の苦しみにおいて腹這ひもがくようにではなく、踊るようにもがいていたと表したかったからかもしれない。
(注3)この例では中国の祥瑞記事に倣い、音読みされる。
(注4)161〜163頁。宮崎1929.に、「糴」をイリヨネ、「莣」をワスレグサ、「禾(芒)」をノギと訓む例をあげている。それと同様に考えようというのであるが、ノギははたしてノという片仮名が生まれた後、はじめて使われた語なのだろうか。古事記には「頃者このころ赤海鯽魚たひのみどのぎありて、物を食はずとうれへ言へり。」(記上)とある。
(注5)国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/300051310(12 of 58)参照。日本国見在書目録の雑伝の最後に「列仙伝三巻〈劉向撰〉」 と記載されている。
(注6)「天漢」は万806番歌の題詞にある「隔漢之恋」と通じている。天の川は、空中をも水中をも進む龍を表すのにうってつけの舞台である。

(引用・参考文献)
瀬間2024. 瀬間正之「漢字が変えた日本語─別訓流用・字注訓・字形訓の観点から─」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。(『日本語学』第41巻第2号、2022年夏。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
宮崎1929. 宮崎道三郎「漢字の別訓流用と古代に於ける我邦制度上の用語」『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年。

応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─

2024年09月16日 | 古事記・日本書紀・万葉集
応神二十八年条の高句麗上表文について─「教」(ヲシフ)字を中心に─

 

 日本書紀に、高麗から朝貢の使節がやってきたが、そのときに持ってきた文書を読んで、菟道稚郎子は礼儀知らずと言って怒り、破り捨ててしまったという話が載る。
 はじめに問題とする日本書紀の箇所を示す。

 廿八年秋九月、高麗王遣使朝貢。因以上表。其表曰、高麗王教日本國也。時太子菟道稚郎子讀其表、怒之責高麗之使、以表狀無禮、則破其表。(応神紀二十八年九月)

 これを古訓に従いながら次のように訓んでいる(注1)

 二十八年の秋九月ながつきに、高麗こまこきし使つかひまだして朝貢みつきたてまつる。りてふみたてまつれり。其の表にまをさく、「高麗の王、日本国やまとのくにをしふ」とまをす。時に太子ひつぎのみこ菟道稚郎子うぢのわきいらつこ、其の表を読みて、いかりて、高麗の使をむるに、表のかたちゐやきことを以てして、すなはち其の表をやりすつ。(応神紀二十八年九月)

 何が問題となるかというと、本当にそのようなことはあったのかということと、「教」という字をヲシフと訓むのが正しいのかということである。
 当時の東アジア情勢をかんがみた時、本当にそのようなことがあったのか疑問視されている。「五世紀前半の高句麗は好太王・長寿王父子の治政で、日本とは常に敵対関係にあり、日本に対する朝貢や上表の事実があったとは考えられない。」(大系本日本書紀215頁)、「五世紀前半のこととするならば、『三国史記』によれば、高句麗は広開土王(三九二~四一三)・長寿王(四一三~四九一)父子の治政で、日本への朝貢や上表は疑問。」(新編全集本日本書紀492頁)、「「教日本国」との表文が問題になったという話が中心記事であり、目的は太子菟道稚郎子の識見を称讃するにある。表文に日本国などとある筈がなく、高麗使の来朝も史実と見做し難い。撰者の造作と見る外はない。」(三品1962.253頁)などとある。
 撰者の造作であるとして、ならばどうしてそのような造作が行われているのかが次の課題として浮かび上がる。字が読めたら偉いのか、称讃に値するものなのか、筆者は年々疑問に思うことが増えている。この応神紀の文章も、菟道稚郎子が上表文を読んで高麗の使者に無礼であると叱責して破り捨てたというだけである。称讃の話と捉えることはできない。
 そこで関わってくるのが、もうひとつの疑問、「教」をヲシフと訓むので正しいのかという点である。
 菟道稚郎子が上表文を読んでいることは疑い得ない。読んで意味がわかるということは、まずまず日本語として読んでいるということになる。本居宣長・漢字三音考に、「彼皇子ノサバカリ ク了達シタマヒテ。同御世ニ高麗国王ヨリ使ヲ奉遣マダセシ時ニ。其表ヲ読タマフニ。無礼ナル詞ノアリシニヨリテ。其使ヲセメタマヒシヿナドモ見エタレバ。当時ソノカミ既二此方ニテ読ベキ音モ訓モ定マレリシナリ。 シ音訓ナクバ。イカデカ ク読テ其表文ノ無礼ナルヲ弁へ リタマフバカリニハ了解サトリタマハム。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200002911/16?ln=ja)とある。どこが「無礼」なのかといえば、「高麗王教日本國也」としか書いてないから「教」字によるのだろうと思われている。
 伝本の「教」字付近には、熱田本、北野本、兼右本、内閣文庫本、徳久邇文庫本、寛文版本の傍訓に「ヲシフト云」とある。仮名日本紀、谷川士清・日本書紀通証、河村秀根・書紀集解もヲシフとしている。飯田武郷・日本書紀通釈では、別の箇所の古訓から「ノル」と訓むのがよいと述べている(注2)。瀬間2001.は「ミコトノル」がよいとしている。瀬間氏は多方面から考察し、論拠を確かにしようと努めている。まず、中国周辺諸国での「教」字の意味合いについての検討があり、朝鮮半島やベトナムなどでは「詔」字は中国皇帝以外に認められていないから用いられておらず、それに代えて「教」字を使用していると考証する。次いで日本書紀での「教」字の例について調査している。そのなかに、ミコトノリ、ミコトという古訓が見られるから、当該応神紀二十八年条はミコトノルと訓むべきであろうと述べている(注3)
 瀬間氏は、述作者が「教」字の半島での使い方をよく知っていて、それをここに当て嵌めて詔勅を下している表現とし、そのことに菟道稚郎子が気づいたから「無礼」であると言っているのだとしているようである(注4)。高麗の王様が日本国に対して詔ることをしているとなると、高麗王は日本国をも支配しているということになり、国のメンツを潰そうとしていることになるから親善外交とは言えないというわけである。
 とはいえ、そう訓んだところで完全には疑問は解消しない。高麗王は日本国に何とミコトノってきているのかわからない。王様が話をすることをヤマトコトバにミコトノルというだけのことではないのか。日本国の庶民はミコトノルことをしないが、天皇は妻子にひそひそ話をする場合もミコトノルと言っていて、日本書紀では中国皇帝が使うように平気で「詔」字を使っている。高麗王が喋りたいのであればいくらでもミコトノってくれてかまわないような気もするし、確実にミコトノルと訓ませたいのなら、「高麗王日本國也」と書けばいいだろう。日本書紀述作者は朝鮮半島での文字使用をよく心得ていたから「教」字を用いているのだと言えばそのとおりなのだが、そんなことを言わんがために、当時、没交渉ともいえる高麗を持ち出している理由はどこにあるのだろうか。
 また、ヲシフという訓み方であっても、立場的に上位者が下位者に対してすることに当たる(注5)。白川1995.に、「ことに対処する方法を告げ知らせる。また誤りを正して指導し、あるいは知識や技芸を人に伝えることをいう。……いくらか強制の意を含むものであるから、「をさむ」との関係などが考えられよう。」(821頁)とある。たとえ知識や技芸の上だけであったとしても、そこに相手を見下している意識がないかといえばやはり存在する。そして、「教」字は「勅」や「詔」と互換可能であることを知っていて適用されたのだとも考えられはする。とはいえ、上下の分別を欠いているから菟道稚郎子は怒ったのだとしても、そんなことを言うために史実にないことをでっちあげ、フェイクニュースを流した動機は奈辺にあるのだろうか。

 

 漢字ばかりで書かれている日本書紀の巻第十に55文字紛れ込ませている。日本書紀述作者は何がしたいのか。
 高麗との外交文書記事には興味深いやりとりがある。敏達紀に、高麗からの外交文書を王辰爾だけが読み解いたという話が載っている。

 丙辰に、天皇、高麗こま表䟽ふみを執りたまひて、大臣に授けたまふ。諸のふひとを召しつどへて読み解かしむ。是の時に、諸の史、三日みかの内に皆読むこと能はず。爰に船史ふねのふひとおや王辰爾わうじんに有りて、能く読み釈きつかへまつる。是に由りて、天皇と大臣と倶に為讃美めたまひて曰はく、「いそしきかな辰爾、きかな辰爾。いまし、若しまなぶことをこのまざらましかば、誰か能く読み解かまし。今より始めて、殿のうち近侍はべれ」とのたまふ。既にして、東西やまとかふちの諸の史に詔して曰はく、「汝等、習へるわざ、何故からざる。汝等おほしと雖も、辰爾にかず」とのたまふ。又、高麗のたてまつれる表䟽ふみ、烏のに書けり。、羽の黒きままに、既にひと無し。辰爾、乃ち羽をいひに蒸して、ねりきぬを以て羽にし、ことごとくに其の字を写す。朝庭みかどのうちふつくあやしがる。(敏達紀元年五月)

 この話が史実によるものかここでは問わない。文の前半は、高麗(高句麗)の表䟽を諸史に読み解かせたが、三日経っても誰も読むことができず、船史の祖である王辰爾のみ能く読み釈いた。天皇と大臣はともに讃めて、お前が学ぶことをしていなかったら誰も読み解けなかっただろう、今後は殿中に近侍せよ、と言い、他方、東西の諸史に対しては、お前たちが習っているワザはどうして身についていないのか、多数いても王辰爾一人に負けているではないか、と言っている。
 文の後半は、高句麗の表䟽は烏の羽に書いてあり、文字は羽の黒さにまぎれて識別できる者がいなかった。王辰爾は、羽を飯炊きの蒸気にあてて布帛を羽に押し当て、ものの見事に写し取った。朝庭の人たちは皆あやしがった、と言っている(注6)
 これらの不思議な話は、高麗の表䟽ふみに関してのもので、同様の事象がすでに応神紀のふみの記事に示されているということらしい。敏達紀の表䟽は手紙であり、草書で書かれるのが大陸の習慣となっていた。楷書や隷書ばかりに慣れ親しんでいた東西諸史には判読できなかったが、王辰爾は読むことができた。草書を読むためにはその書き方の癖のようなものを知らないといけないから、王辰爾はすでに草書を目にしていた、あるいは隷書を自分で速書きしていたのであろう。王辰爾は「学」んでいたが、東西諸史は「習」うことしかしていなかったと日本書紀は語っている。両者の違いを表す示唆深い話をしている。この箇所でも大陸の表䟽ふみの手法を知っていて話が作られている。応神紀で大陸での「教」という字の使用法を知っていたというのと同様の作りになっている。
 すなわち、烏の羽に字を書いたという記事と、この菟道稚郎子がゐや無しと思った記事とはモチーフとして通じるところがあるということである。史実としてではなく、述作者の話術としてである。
 烏の羽が持ち出されているのは、それが鳥だからと考えられる。書いてあるはずなのはフミである。ヤマトコトバに文字のことをフミという理由については、早く釈日本紀・巻第十六・秘訓一に解釈が載る。「○問。書字乃訓於不美フミ読。其由如何。○答。師説。昔新羅所上之表。其言詞太不敬。仍怒擲地而踏。自其後訓云不美フミ也。今案。蒼頡見鳥踏地而所往之跡文字不美フミ云訓依此而起歟。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/379)である。鳥の足跡説の、踏むからフミであるという説が広まっていたとすれば、上書きして文字の読み取れない黒い対象物にふさわしいものとして烏の羽は捉えられたと考えられる。「烏」字と「鳥」字とを違えた理由は、全身黒いカラスに目を入れずに表したものという説はよく知られている。
 何と書いてあるのかよくわからないとは、どう言っているのかよくわからないということである。「ひ」(ヒは甲類)がわかるために「いひ」(ヒは甲類)の気を用いて対処している。口にするもの、口にすることをイヒ(飯・言)と言っていて、両語は同根の語と考えられている。相手が「烏」なのだから「枯らす」ことが問題だと知って蒸気によって湿らせている。目には目を、歯には歯を、で知るところとなっている。そのワザは「写す」ことである。文字は書き写すことをもって伝えられるものであった。白川1995.は、「しやはもと寫に作り、べんせきとに従う。宀は廟屋、舃は儀礼のときに用いるくつでその象形字。〔説文〕七下に「物を置くなり」とし、形声とする。〔玉篇〕に「盡く」「除く」の訓がある。履をぬぐので除の訓があり、すべてものを他の器に移すことを寫という。」(154~155頁)と解説する。すなわち、写したら鳥の足の形そのものではないが、ゲソ痕がバレて犯人の名(「」)はわかるのである。
 説文はまた、「吐 寫なり。口に从ひ土声」ともする。吐瀉の意である。ヤマトコトバにハクである。shoes もなぜか知らないが、ハク(履)ものである。取調室で吐いた言葉が自供である。「いひ」と「ひ」とが同根であるように、口から出すもの、出すこととしてハクという語もこじつけて考えられたらしい。ハク(吐)とハク(履)とに通じるところがあるという意味である。ハク(吐)ことが「寫(写)」だと舶来の権威ある字書に定義されているのを参考にして、ハク(履)ものだと推定して行ったわけである。もたらされた「表䟽ふみ」は「高麗こま」からのものである。「高麗こま」は「こまこま)」と同音であったと考える。「こま」は子馬こうまの約である。「表䟽ふみ」は「み」と同音で、関連づけられて思われていた(注7)。馬が足に履くものは、馬の草鞋わらじである。草を編んで作る。したがって、コマのフミは草なのである。草書体で書かれていたことの裏が取れた。
 これらはヤマトコトバにおいてのみ理解可能な頓智、なぞなぞである。ヤマトコトバ的思考のなせるワザである。菟道稚郎子の時の上表についても同じように捻られていると予想される。

 

 「高麗王教日本國也」の「教」はミコトノリの意味ではあるが、そう訓んでは身も蓋もない。「教」はヲシフと訓んではじめてヤマトコトバとして意味が通じる。ヲシフとはどういうことか考え及んでいるのである。ヲシフのヲシはヲシカハ(韋)のヲシである。

 酒君さかのきみ、則ちをしかはあしをを其の足にけ、小鈴こすずを以て其の尾に著けて、ただむきの上にゑて、天皇すめらみことたてまつる。(仁徳紀四十三年九月)
 韋 唐韻に云はく、韋〈音は闈、乎之賀波をしかは〉は柔皮なりといふ。(和名抄)
 滑革 ナメシ(運歩色葉集)
 Namexi.l,Namexigaua.ナメシ.または,ナメシガワ(鞣.または,鞣革) なめした革(日葡辞書)
 ……さなかづらの根を舂き、其の汁のなめを取りて、其の船の中の簀椅すばしに塗り、むにたふるべく設けて、……(応神記)(注8)
 今、大倭国やまとのくに山辺郡やまのへのこほり額田邑ぬかたのむら熟皮かはをしの高麗こまは、是其び後なり。(仁賢紀六年是歳)

 「熟皮をしかは」という名前に使われているヲシは動詞ヲス(なめらかにする)の連用形と思われている。応神紀の話では高麗は朝貢したことになっている。高麗からの献納品として有名なものに、虎の毛皮がある。フ(斑)のあるヲシカハ(韋)のことが念頭にあってヲシフと器用に述作されている。
 生きている獣を捕獲し、解体処理して皮を取り、腐らないように加工する。付いている肉や毛をとってきれいにしてから、揉んだり乾かしをくり返したり、脳漿に和えたりする方法がとられていた(注9)なめしの技法である。だからヲシカハ(韋)のことはナメシガハ(鞣革)とも、ただナメシ(滑)とも言う。刷毛に着いた液を皮に塗ることを、まるで唾液の着いた舌で(嘗)めるようなものだと譬え見たのかもしれない。そのナメシと同じ音に、ナメシ(無礼)という言葉がある。宣命の例にあるとおり、「無礼ゐやなし」は「なめし」とほぼ同じ意味である。今日でも「なめんなよ」と使っている。

 仮令たとひ後にみかどと立ちて在る人い、立ちの後にいましのために無礼ゐやなくして従はず、なめく在らむ人をば帝の位に置くことは得ずあれ。〔仮令後在人、立乃多米仁无礼之天不従、奈米久乎方許止方不得。〕(続紀・淳仁天皇・天平宝字八年十月、29詔)
 倭道やまとぢは 雲がくりたり 然れども わが振る袖を 無礼なめしとふな〔無礼登母布奈〕(万966)
 何の故か二つの国のこきしみづから来り集ひて天皇のみことのりを受けずして、なめく使をまだせる。(継体紀二十三年四月)

 高麗が「をしふ」と言ってきたことがナメシ(無礼)だとして菟道稚郎子は怒っている理由が明らかになった。もちろん、立場の上下を弁えていないことから正そうとしたものではあるが、それを「いかり」にして表すには及ばない。イカリとして表したのは、イカ(烏賊)がスルメイカとして朝廷に献上されていて菟道稚郎子も食べていたであろうからである。菟道稚郎子は太子であり、国を治める人として嘱望されていた。国をヲス(食)人が食べるの尊敬語、ヲスものとしてスルメイカはあった。スルメイカの様態はヲシカハ(韋)ととてもよく似ている。為政者の立場にある人が、朝貢とともに上表された文章のなかにヲシ(フ)とあったから、イカ(リ)を発するに至っている。
人工皮革で作ったスルメイカ
 ナメシ(韋、鞣、滑)の話になっているのには、上表を寄こしたのが高麗こまだからでもある。こまこま)をもたらした国であり、たくさんの馬が生産された。死ぬと皮はことごとく鞣されて活用された。馬とその使用法、ならびにその生産方法ばかりか、死後の活用法も同時に高麗から移入された(こととして理解されていた)。馬の脳を使って馬の皮を鞣した(注10)。ヤマトの人は、奥深い知恵をヤマトコトバが抱え込んでいることをよく知っていたのである。言葉、いわゆる和訓を造る際、意味を重ね塗り込めていた。それがヤマトコトバであった。それによって書き表された「高麗王教日本國也」の八文字は、簡にして要を得た端的な物言いで、上代語表現のミクロコスモスの感をなしている(注11)
 応神紀で「教」という字を用いたのは、大陸でのその文字の使用法を知りつつ、ヤマトコトバでヲシフという言葉が表す深い意味、頓智を深く理解していたからである。だから、イカリ(怒)の文脈で滞りなく披露している。敏達紀で、大陸で表䟽の書体が草書体であることを知りつつ、ヤマトコトバでイヒやハクという言葉が表す深い意味、頓智を披露していたのと同じである。日本書紀述作者は、ヤマトコトバに通暁した人たちであった(注12)

(注)
(注1)「王」はキミ、「曰」はイハク、「破」はヤブリツ、ヤブリスツなどとも読まれている。
(注2)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/321参照。
(注3)日本書紀の他の例に見られる「教」字では、岩崎本平安後期点(10~11世紀)として、「(ウチ)ツノリ」(推古紀元年)、「(ホトケの)ミノリ」(推古紀三年五月)、「トホ(の)ミノリ」(推古紀十四年五月)、「所教ヲシヘ」(皇極紀元年七月)、「周孔之ノリ」(皇極紀三年正月)、前田本(11世紀写)に「脩教マツリコトセシム」(継体紀元年三月)、書陵部本(12世紀写)に「ヲシフ」(清寧前紀)、鴨脚本(嘉禎二年(1236)写)に「勅教ノ□フコト」(神代紀第九段一書第二)、兼方本(弘安九年(1286)写)・兼夏本(嘉元元年(1303)写)に「ウケタマハリミコトノリ(を)」(神代紀第六段本文)などと見える。
 なお、ミコトノリスの形の古訓が行われたことはあるが、ミコトノルと動詞に訓んだ例は見出されていない。
(注4)瀬間氏の論文では当初の問題提起、「菟道稚郎子は何故怒ったのか」から議論が逸れて行っていて、断言はされていない。
(注5)日本書紀通証や書紀集解は、「表」と「教」字について釈名を引いている。「下言於上  也。」、「教 倣也下所法倣一 スル也」とあり、ベクトルは反対ながら上下の関係にあることを示している。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1917894/1/20、https://dl.ndl.go.jp/pid/1157899/1/215参照。
(注6)以下、拙稿「烏の羽に書いた文字を読んだ王辰爾」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/d1a27454f4649223cff842e690462c69で述べたことである。参照されたい。
(注7)フミはカミ(紙)が kan(簡)に i が付いてニがミに交替した形と同じく、フミ(文)は fun(文)に i が付いて交替したものと考えられている。そのばあい、ミは甲類である可能性が高い。
(注8)和名抄に、「㿃 釈名に云はく、痢の赤白を㿃〈音は帯、赤痢は知久曽ちくそ、白痢は奈女なめ〉と曰ふといふ。滞りて出で難きなるを言ふ。葛氏方に云はく、重下〈俗に之利於毛しりおもと云ふ〉は今の所謂、赤白痢なりといふ。下部をして疼き重からしむ故に以て之を名づくと言ふ。」とある。このナメは血を含まない下痢便を指している。皮を鞣すときに使う、馬・鹿・牛などの脳を一年ほど熟成させた脳漿とよく似ていて、白痢のことをナメと言って正しいと思われたと考えられる。
(注9)延喜式・内蔵寮の造皮功条に次のように記されている。

 牛の皮一張〈長さ六尺五寸、広さ五尺五寸〉、毛をおろすに一人、膚肉たなししを除すに一人、水にひた潤釈くたすに一人、さらし踏みやはらぐるに四人。皺文ひきはだを染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、かしの皮を採るに一人、麹・塩を合せちて染め造るに四人。
 鹿の皮一張〈長さ四尺五寸、広さ三尺〉、毛を除し、曝し涼すに一人、膚宍たなししを除し、浸し釈すに一人、削り曝し、なづきを和ちてり乾かすに一人半。
 くりに染むる革一張〈長さ広さは上に同じくせよ〉、焼き柔げ熏烟ふすぶるに一人、染め造るに二人。(原漢文)

 ヲシカハ(韋)の製造法とヲシフ(教)との間には、イメージに似通ったところがある。何かを教える時、そのまま現物を持ってくることは、持って来られるようなものであればそれが最善であるが、その場合、教え教えられの関係にあるのではなく、見て直感しているだけである。本邦に棲息しない虎を教えるのに、その毛皮を見せることで教えることは、教えることの本来の意味に当たるだろう。抽象的な概念でも、鞣しの方法のように、本質を抽出し、相手にわかるように揉みくだいでわからせるようにしている。どうしたらわかってもらえるか脳を使っていて、時にはアレンジを加えながら、どこへ行っても決して腐ることなく説明を続けている。言葉の普及活動は布教活動のようである。それがヲシフ(教)という言葉の眼目である。
(注10)厩牧令・官馬牛条に、「凡そ官の馬牛死なば、おのおの皮、なづき、角、れ。若し牛黄ごわう得ば、ことたてまつれ。」とある。
(注11)無文字時代のヤマトコトバの最大の特徴としてかねがね指摘しているところであるが、ひとつの言葉が当該言葉(音)をもって自己循環的に定義し直されながら、そのことにより言葉自体の正しさを証明しつつ言明が進行していっている。この応神紀の55文字からなる挿話では、一つの言葉のなかにある深い知恵について賢明で名高い菟道稚郎子に語らせていて、物語の精度をあげている。
(注12)ヤマトコトバのあり様、上代の人たちの言葉の使い方が問われなければならない。文字時代の今日の言語とは異なる使用法がとられていた。肝心なところを等閑視して進められてきたこれまでの研究は、靴の上から足を掻くようなもの、蹄鉄を外さずに蹄の治療をするようなものである。

(引用・参考文献)
川村1953. 川村亮『皮のなめし方』天然社、昭和28年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
瀬間2021. 瀬間正之「菟道幼稚郎子は何故怒ったのか─応神二十八年高句麗上表文の「教」字の用法を中心に─」『古事記年報』六十三、令和3年3月。(『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。)
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
三品1962. 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証 上巻』吉川弘文館、昭和37年。(天山舎、平成14年。)

※本稿は、2023年7月稿の誤りを訂正し、2024年9月に新稿としたものである。

欽明紀の「鐃字未詳」について

2024年09月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本書紀には字注を入れることがあり、「未詳」と記すことがある。

 にはかにして儵忽之際たちまちに、鼓吹つづみふえおとを聞く。余昌よしやう乃ちおほきに驚きて、鼓を打ちてあひこたふ。通夜よもすがら固く守る。凌晨ほのぐらきに起きて曠野ひろのの中を見れば、おほへること青山あをむれの如くにして、旌旗はた充満いはめり。会明あけぼの頸鎧あかのへのよろひひと一騎ひとうまくすびせる者〈鐃の、未だつばひらかならず。〉二騎ふたうま豹尾なかつかみのをせる者二騎、あはせ五騎いつうま有りて、連轡うちととのひて到来いたりて問ひて曰はく、……〔俄而儵忽之際、聞鼓吹之声。余昌乃大驚、打鼓相応。通夜固守。凌晨起見曠野之中、覆如青山、旌旗充満。会明有着頸鎧者一騎、挿鐃者〈鐃字未詳。〉二騎、珥豹尾者二騎、并五騎、連轡到来問曰、……〕(欽明紀十四年十月)

 この「未詳」との注釈は、日本書紀の筆録者がよくわからないから注として入れたものだとされている。書き写す際に正しいのかどうかわからないということで入れたのだろうと思われている。けれども、雄略紀の例にあるとおり、筆録者が意図的に入れたもの、考え落ちを示すところと捉えたほうがいいだろう(注1)。彼らは筆録者というよりも述作者であり、作文をしているのだから、書きながら意味がわからないと注することは態度としてむしろ不自然である。
 日本書紀について、出典論を重んじ、その書き方手本をもとに再構成しようとする立場の人は、元ネタの漢籍をよく理解しないままに誤ったものであると強引に押しつけてしまう。
 「鐃」とは何か。クスビ、クスミと訓まれている。

 鐃 小鉦也。軍法、卒長執鐃。从金堯声。(説文)
 鐃 似鈴無舌、軍中所用也。(玉篇)
 鉦者、似鈴柄中上下通也。饒者、如鈴無舌有柄、執鳴之而止皷也。(令義解・喪葬令)

 これらの説明を読めば、鐃は二枚合わせて音を出すシンバルや空也上人が首から下げる円形の鉦ではなく、鐸の中に舌のないもので、上に向けて下に柄をさしこんでその柄を持ち、槌で敲いて音を出すものであったと理解されるだろう。現在残るのは銅製部分だけであるが、木製の柄をつけ、それを腰帯なり着物の合わせなりへ挿し込んでいたと考えられる(注2)
 ところが、むしゃこうじ氏は「翹」の誤写説を提唱している。そして、次のような文献をあげている。

 花、以猛獣皮・若鷲鳥羽之、置杠上。若所謂豹尾者、今人謂之面槍。将軍花、不物名、其数或多或少、其義未詳。鈴、行路置駄馬上、或云鐸。(三国史記・巻四十・志・職官下・武官)

 欽明紀の原史料は、猛獣皮のものを「豹尾」としたのに対して鷲羽のものを「翹」 とした可能性があるとし、その「翹」を「鐃」とどこかの段階で誤ってわからなくなり、「饒字未詳」と書き込んでいるのではないかというのである。

 瀬間氏はさらに、推古紀や旧唐書を追加し、梁職貢図の復元模型を補足資料として呈示している(瀬間2024.364頁)。髻花として豹尾と鳥尾が見られ、その鳥尾が「翹」だというのである。

 十九年夏五月五日……是日、諸臣服色、皆随冠色。各著髻花。則大徳小徳並用金。大仁小仁用豹尾。大礼以下用鳥尾。(推古紀十九年五月)
 高麗官之貴者、則青羅為冠、次以緋羅、挿二鳥羽及金銀飾。(旧唐書・巻一百九十九上・列伝第一百四十九上・東夷)

 鐃を軍令を伝える小鉦とした場合、「挿」はおかしいから日本書紀編述者(あるいは養老の講書のときの学者(むしゃこうじ1973.228頁))は不審の念を抱いて「鐃字未詳」と表示したものと見ている。そして、「編述者は、高句麗・新羅・倭国の風習を知らなかったが故に未詳とのみ記述するに留まったと考えられる。東夷諸国の風習を知っていれば、雄略紀459割注「擬字未詳。 蓋是槻乎。」のように「鐃字未詳。蓋是翹乎。」とすることが可能だったはずである。」(365頁)と我田引水の議論に進んでいる。
 しかし、記事は百済と高麗(高句麗)とが陣を向かい合わせている戦時のものである。「鐃」ではなくて「翹」であると強く言えるものではない。夜間に高麗側の「鼓吹之声」が聞こえたから、百済側は「打鼓」して応じて守りを固めている。「鼓」を叩くのを止めさせる合図に「鐃」を打った。撤退の合図かもしれない(注3)
 瀬間氏はこの部分、編述者が大幅な潤色を施していると見ている。編述者に中国系渡来人を想定するに至っているが、大幅な潤色が施せるぐらいなら、言葉について鋭敏でよく理解していたことは確かであろう。そして、「鐃」字には古訓としてクスビという訓みが伝えられている。下に図版としてあげたもののことをヤマトコトバとしてクスビと呼んでいたのである。
 「鐃」字は「金」と「堯」から成っている。「堯」は高いという意味である。説文に「堯 高也。从垚在兀上、高遠也。」とある。高い金ならタカガネ、約してタガネとなっておかしくない言葉である。だが、タガネには鏨の意味がある。対して「鐃」をクスビと言っている。クスビはクサビ(楔)とよく似た音である。クサビ(楔)とタガネ(鏨)はともにV字型の打ち込み部分があり形がよく似ている。一体で柄を有するのはタガネ(鏨)であり、刃を鋭利にして木の柄をつけたらノミ(鑿)になる。クサビ(楔)、タガネ(鏨)、ノミ(鑿)の先は一枚で尖っているが、クスビ(鐃)では分れて空洞となっている。ただし、横顔、シルエットとしては皆よく似ており、木の柄をつけたものとしてはノミ(鑿)とクスビ(鐃)は相対していることになる。
左:青銅 獣面文鐃(せいどうじゅうめんもんどう)(商時代、前16~前11世紀、高18.2・15.7・13.7㎝、和泉市久保惣記念美術館デジタルミュージアムhttps://www.ikm-art.jp/degitalmuseum/num/005/0050035000.htmlをトリミング)、右:タガネ(鏨)とノミ(鑿)(堺市鉄砲鍛冶屋敷展示品)
 だから、「鐃」という文「字」は、ちょっとどうしてそういう字なのかわからず、クスビという「」はちょっとどうしてそういう名なのかわからないと思い、「鐃字未詳。」と言っているのである。
 この日本書紀編述者=筆録者=述作者は、ヤマトコトバと併せて漢字の形を考えている。「挿鐃」ことに何の疑問も抱いていない。言葉を理解しすぎるほどに理解していて、余裕をもって割注を入れて洒落を飛ばしている。今日までの出典論や日本書紀区分論などは、それ自体としてはともかく、日本書紀をきちんと読むための根拠とするにはおよそナンセンスであり、履き違えた結論を導いている。日本書紀はヤマトコトバを書き表したものであり、対外的に流伝させるために作られたものではない。ヤマトの国の自己満足の史書?であった。

(注)
(注1)拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字未詳。蓋是槻乎。」の「𣝅」は、ウドである論」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ceb99a8b6b28f3929182489b7d106226、拙稿「雄略前紀の分注「称妻為妹、蓋古之俗乎。」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/81ace50151a5056610d603c79b5a6609参照。
(注2)林1976.の插図9-7(180頁)は「鉦」であるが、その小型のものを「鐃」と呼んだとする。下に示した久保惣記念美術館蔵品も令義解の説明どおり、銅の柄の部分(甬)は中空で舌のない鈴部へ筒抜けになっている。「正面を打ったときと側面を打ったときと、1つのどうで2音、この組み合わせでも6音の音階をもったことになる。宮殿や廟だけでなく、軍征行旅のとき、狩猟の際にも携行して打ち鳴らされたものであろう。林巳奈夫氏によってしょうと呼ぶのが正しいと考証されているが、いまは旧称のままにした。」(和泉市久保惣記念美術館2004.50頁)と解説されている。
(注3)周礼・地官・鼓人の「以金鐃止鼓」の鄭玄注に、「鐃、如鈴、無舌有秉、執而鳴之、以止擊鼓。」とあり、賈公彦疏に、「是進軍之時擊鼓、退軍之時鳴鐃。」などと見える。
鐃(鉦)と桴を持つ騎乗の人(成都青杠坡三号墓画像磚模写、後漢時代末期)

(引用・参考文献)
和泉市久保惣記念美術館2001. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 図版編』和泉市久保惣記念美術館、平成13年。
和泉市久保惣記念美術館2004. 『第三次久保惣コレクション─江口治郎コレクション─ 解説編』和泉市久保惣記念美術館、平成16年。
瀬間2024. 瀬間正之「欽明紀の編述」『上代漢字文化の受容と変容』花鳥社、2024年。
林1976. 林巳奈夫編『漢代の文物』京都大学人文科学研究所、昭和51年。
むしゃこうじ1973. むしゃこうじ・みのる「『日本書紀』のいくさがたり─「欽明紀」を例として─」『日本書紀研究 第七冊』塙書房、昭和48年。
劉東昇・袁荃猷編著、明木茂夫監修・翻訳『中国音楽史図鑑』科学出版社東京、2016年。

タカヒカル・タカテラスについて

2024年09月02日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に「高光」と「高照」という語があり、ともに「日」にかかる枕詞とされている。
 両者の違いについて議論されている。検討するにあたっては、これらは言葉であることが基本である。タカヒカルでもタカテラスでも「日」にかかることは想像がつく(注1)。ヒカルとテラスの語義の違いが意味の違いになっていると考えるのが順当だろう。ヒカル(光)はぴかっと光線を発したり、反射したりすることをいい、テル(照)は光を放って周りが明るくなることをいう。上代音ではヒが今日のピに当たることはよく知られる。ピカル(✨)のがヒカルである。蛍や稲光はヒカルことはあってもテルことはない。このような二つの動詞のニュアンスの違いが、タカヒカル、タカテラスが単に「日」にかかるということにとどまらず、下に続く文意に影響を及ぼしている、ないしは、全体の文意からタカヒカル、タカテラスと使い分けている、というのが筆者の考えである(注2)。古事記歌謡にタカヒカルが仮名書きで5例(「多迦比迦流」(記28・72)、「多加比加流」(記100・101・102))見られ、それにより「高光」はタカヒカルと訓むものと考えられる。

「高光」
 たかひかる わが日の皇子みこの 万代よろづに 国らさまし 島の宮はも〔高光我日皇子乃萬代尓國所知麻之嶋宮波母〕(万171、舎人)
 高光る わが日の皇子の いましせば 島の御門みかどは 荒れずあらましを〔高光吾日皇子乃伊座世者嶋御門者不荒有益乎〕(万173、舎人)
 やすみしし わご大君 高光る 日の皇子 ひさかたの あまつ宮に かむながら かみといませば そこをしも あやにかしこみ ひるはも 日のことごと よるはも のことごと 嘆けど 飽きらぬかも〔安見知之吾王高光日之皇子久堅乃天宮尓神随神等座者其乎霜文尓恐美晝波毛日之盡夜羽毛夜之盡臥居雖嘆飽不足香裳〕(万204、置始おきその東人あづまひと
 やすみしし わご大君 高光る わが日の皇子の 馬めて 御猟みかり立たせる 弱薦わかこもを 猟路かりぢ小野をのに 猪鹿ししこそば いをろがめ うづらこそ い匍ひもとほれ 猪鹿ししじもの い匍ひ拝み 鶉なす い匍ひ廻り みと 仕へ奉りて ひさかたの あめ見るごとく まそ鏡 あふぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大君かも〔八隅知之吾大王高光吾日乃皇子乃馬並而三獦立流弱薦乎獦路乃小野尓十六社者伊波比拜目鶉己曽伊波比廻礼四時自物伊波比拜鶉成伊波比毛等保理恐等仕奉而久堅乃天見如久真十鏡仰而雖見春草之益目頬四寸吾於富吉美可聞〕(万239、柿本人麻呂)
 神代かみよより 言ひらく そらみつ やまとの国は 皇神すめかみの いつくしき国 言霊ことだまの さきはふ国と 語りぎ 言ひ継がひけり 今の世の 人もことごと の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら での盛りに あめの下 まをしたまひし 家の子と えらひたまひて 勅旨おほみことかへして云ふ、大命おほみこと〉 いただき持ちて もろこしの 遠き境に つかはされ まかりいませ 海原うなはらの にも沖にも かむづまり うしはきいます もろもろの 大御神おほみかみたち 船舳ふなのへに〈反して云ふ、ふなのへに〉 導きまをし 天地あめつちの 大御神たち やまとの 大国御魂おほくにみたま ひさかたの あま御空みそらゆ 天翔あまかけり 見渡したまひ 事をはり 還らむ日には またさらに 大御神たち 船舳に 御手みてうち掛けて 墨縄すみなはを へたるごとく あぢかをし 値嘉ちかさきより 大伴おほともの 御津みつの浜びに ただてに 御船みふねは泊てむ つつみく さきくいまして はや帰りませ〔神代欲理云傳久良久虚見通倭國者皇神能伊都久志吉國言霊能佐吉播布國等加多利継伊比都賀比計理今世能人母許等期等目前尓見在知在人佐播尓満弖播阿礼等母高光日御朝庭神奈我良愛能盛尓天下奏多麻比志家子等撰多麻比天勅旨〈反云大命〉戴持弖唐能遠境尓都加播佐礼麻加利伊麻勢宇奈原能邊尓母奥尓母神豆麻利宇志播吉伊麻須諸能大御神等船舳尓〈反云布奈能閇尓〉道引麻遠志天地能大御神等倭大國霊久堅能阿麻能見虚喩阿麻賀氣利見渡多麻比事畢還日者又更大御神等船舳尓御手打掛弖墨縄遠播倍多留期等久阿遅可遠志智可能岫欲利大伴御津濱備尓多太泊尓美船播将泊都々美無久佐伎久伊麻志弖速歸坐勢〕(万894、山上憶良)

 万171・173番歌は「皇子尊宮舎人等慟傷作歌廿三首」のうちの二首で日並皇子尊が亡くなった時の歌、万204番歌は「弓削皇子、薨時置始東人作歌一首〈并短歌〉」で弓削皇子が亡くなった時の歌である。殯の時に故人を偲んで歌われている。殯をしている今、この瞬間を歌にしている。万239番歌は「長皇子遊獦路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で長皇子が狩りへ行った時の歌である。反歌一首を伴うが、夜、月の出ているその時の光景を詠んでいる。万894番歌は「好去好来歌一首〈反歌二首〉」で遣唐大使丹比広成へ贈った歌である。第五回遣唐使を選んだのは時の天皇、聖武である。代々のことを言っているのではなく、その時のことに限って言っている。ピカッと光ったその瞬間のことしか言っていないことになる。

「高照」
 やすみしし わご大君 たからす 日の皇子 神ながら 神さびせすと 太敷ふとしかす 都を置きて 隠口こもりくの 泊瀬はつせの山は 真木まき立つ 荒き山道やまぢを いはが根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥さかどりの 朝越えまして たまかぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿たびやどりせす いにしへ思ひて〔八隅知之吾大王高照日之皇子神長柄神佐備世須等太敷為京乎置而隠口乃泊瀬山者真木立荒山道乎石根禁樹押靡坂鳥乃朝越座而玉限夕去来者三雪落阿騎乃大野尓旗須為寸四能乎押靡草枕多日夜取世須古昔念而〕(万45、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲あらたへの 藤原ふぢはらうへに す国を したまはむと 都宮みあらかは 高知らさむと 神ながら 思ほすなへに 天地も りてあれこそ いはばしる 淡海あふみの国の 衣手ころもでの 田上山たなかみやまの 真木さく 嬬手つまでを もののふの 八十氏川やそうぢかはに 玉藻たまなす 浮かべ流せれ を取ると さわ御民みたみも 家忘れ 身もたな知らず 鴨じもの 水に浮きて わが作る 日の御門に 知らぬ国 巨勢道こせぢより わが国は 常世とこよにならむ ふみへる くすしき亀も 新代あらたよと 泉の河に 持ち越せる 真木の嬬手を 百足ももたらず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば かむからにあらし〔八隅知之吾大王高照日乃皇子荒妙乃藤原我宇倍尓食國乎賣之賜牟登都宮者高所知武等神長柄所念奈戸二天地毛縁而有許曽磐走淡海乃國之衣手能田上山之真木佐苦檜乃嬬手乎物乃布能八十氏河尓玉藻成浮倍流礼其乎取登散和久御民毛家忘身毛多奈不知鴨自物水尓浮居而吾作日之御門尓不知國依巨勢道従我國者常世尓成牟圖負留神龜毛新代登泉乃河尓持越流真木乃都麻手乎百不足五十日太尓作泝須良牟伊蘇波久見者神随尓有之〕(万50、藤原宮役民)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 荒栲の 藤井ふぢゐが原に 大御門おほみかど 始めたまひて 埴安はにやすの つつみの上に あり立たし したまへば 日本やまとの 青香具山あをかぐやまは 日のたての 大き御門に 春山と みさび立てり 畝傍うねびの この瑞山みつやまは 日のよこの 大き御門に 瑞山と 山さびいます 耳成みみなしの 青菅山あをすがやまは 背面そともの 大き御門に よろしなへ かむさび立てり 名くはし 吉野の山は 影面かげともの 大き御門ゆ 雲居くもゐにそ 遠くありける 高知るや あめ御蔭みかげ あめ知るや 日の御蔭の 水こそば とこしへにあらめ 御井みゐ清水ましみづ〔八隅知之和期大王高照日之皇子麁妙乃藤井我原尓大御門始賜而埴安乃堤上尓在立之見之賜者日本乃青香具山者日経乃大御門尓春山跡之美佐備立有畝火乃此美豆山者日緯能大御門尓弥豆山跡山佐備伊座耳為之青菅山者背友乃大御門尓宣名倍神佐備立有名細吉野乃山者影友乃大御門従雲居尓曽遠久有家留高知也天之御蔭天知也日之御影乃水許曽婆常尓有米御井之清水〕(万52)
 明日香あすかの 清御原きよみはらの宮に あめの下 知らしめしし やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 いかさまに おぼほしめせか 神風かむかぜの 伊勢の国は 沖つ藻も みたる波に 潮気しほけのみ かをれる国に 味凝うまごり あやにともしき 高照らす 日の皇子〔明日香能清御原乃宮尓天下所知食之八隅知之吾大王高照日之皇子何方尓所念食可神風乃伊勢能國者奥津藻毛靡足波尓塩氣能味香乎礼流國尓味凝文尓乏寸高照日之御子〕(万162、持統天皇)
 天地の 初めの時 ひさかたの あま河原かはらに 八百万やほよろづ 千万神ちよろづかみの 神集かむつどひ 集ひいまして 神分かむはかり はかりし時に 天照らす 日女ひるめみこと〈一に云ふ、さしのぼる 日女の命〉 あめをば 知らしめすと 葦原あしはらの 瑞穂みづほの国を 天地の 寄り合ひのきはみ 知らしめす 神のみことと 天雲あまくもの 八重やへかきけて〈一に云ふ、天雲の 八重雲やへくも別けて〉 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら 太敷きまして 天皇すめろきの 敷きます国と あまの原 石門いはとを開き 神上かむあがり あがりいましぬ〈一に云ふ、神登かむのぼり いましにしかば〉 わご大君 皇子みこみことの 天の下 知らしめしせば 春花はるはなの たふとからむと 望月もちづきの たたはしけむと 天の下〈一に云ふ、食す国〉 四方よもの人の 大船おほふねの 思ひ頼みて あまつ水 仰ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか つれもなき 真弓まゆみの岡に 宮柱みやばしら 太敷きいまし 御殿みあらかを 高知りまして 朝言あさことに 御言みこと問はさぬ 日月ひつきの 数多まねくなりぬれ そこゆゑに 皇子の宮人みやひと 行方ゆくへ知らずも 〈一に云ふ、さす竹の 皇子の宮人 行方知らにす〉〔天地之初時久堅之天河原尓八百萬千萬神之神集々座而神分々之時尓天照日女之命〈一云指上日女之命〉天乎婆所知食登葦原乃水穂之國乎天地之依相之極所知行神之命等天雲之八重掻別而〈一云天雲之八重雲別而〉神下座奉之高照日之皇子波飛鳥之浄之宮尓神随太布座而天皇之敷座國等天原石門乎開神上々座奴〈一云神登座尓之可婆〉吾王皇子之命乃天下所知食世者春花之貴在等望月乃満波之計武跡天下〈一云食國〉四方之人乃大船之思憑而天水仰而待尓何方尓御念食可由縁母無真弓乃岡尓宮柱太布座御在香乎高知座而明言尓御言不御問日月之數多成塗其故皇子之宮人行方不知毛〈一云刺竹之皇子宮人歸邊不知尓為〉(万167、柿本人麻呂)
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子の こしす 御食みけつ国 神風かむかぜの 伊勢の国は 国見ればしも 山見れば 高くたふとし 川見れば さやけくきよし 水門みなとなす 海も広し 見渡す 島もたかし ここをしも まぐはしみかも かけまくも あやにかしこき 山辺やまのへの 五十師いしの原に うち日さす 大宮つかへ 朝日なす まぐはしも 夕日なす うらぐはしも 春山の しなひ栄えて 秋山の 色なつかしき ももしきの 大宮人は 天地あめつち 日月と共に 万代よろづよにもが〔八隅知之和期大皇高照日之皇子之聞食御食都國神風之伊勢乃國者國見者之毛山見者高貴之河見者左夜氣久清之水門成海毛廣之見渡嶋名高之己許乎志毛間細美香母挂巻毛文尓恐山邊乃五十師乃原尓内日刺大宮都可倍朝日奈須目細毛暮日奈須浦細毛春山之四名比盛而秋山之色名付思吉百礒城之大宮人者天地与日月共万代尓母我〕(万3234)

 万45番歌は「軽皇子宿于安騎野時、柿本朝臣人麻呂作歌」で軽皇子が泊りがけで狩りへ行った時の歌である。長歌では朝から夕までの時間経過が歌われている。つづく短歌四首では夜から日が出てきてだんだん明るくなっていくところを詠んでいる。「日」によって周りが明るくなることを言いたいからテラスと表現していてふさわしい。万50番歌は「藤原宮之役民作歌」で藤原宮の建設作業員の歌である。かなりの日数を拘束されて作業している。当然、造営した藤原宮は一瞬だけあってすぐに捨てられお終いというものではなく、何年、何十年、何百年と栄えあるところであってほしい。万52番歌は「藤原宮御井歌」で最後にその井戸のことに触れた藤原宮賦とでも呼ぶべき歌である。二つの藤原宮の歌とも継続的な様子を表し、永続することを期待しているからテラスというのがふさわしい。万162番歌は「天皇崩之後八年九月九日、奉御斎会之夜、夢裏習賜御歌一首〈古歌集中出〉」で天武天皇が亡くなったために御斎会、すなわち僧侶が読経供養する行事の日の夜に、妻の持統天皇が夢に見たことを歌にしたものである。「夢裏習賜御歌」の「習」はくり返し唱えることを指す。御斎会だから読経が流れ、くり返しくり返し経文が唱えられていた記憶から、夢のなかでもくり返し念仏のように歌を唱えたということである。事跡として持統は天武と長年苦楽を共にしてきたわけだから、くり返し夢で唱えたことは事理一致の趣きを呈している。長い年月くり返すことといえば、日が出ては沈むをくり返すことが代表である。その「日」は一瞬またたくものではなく、周囲を明るくするものである。万167番歌は「日並皇子尊殯宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首〈并短歌〉」で万171・173番歌同様、日並皇子尊の殯の時に歌われたものだが、長々と天照大神以来、天孫降臨のことなどを使って説き起こして系譜上に日並皇子尊を据えている。長い長い時間の経過を歌に詠み込むには、「日」はテラスものとしてあるものである(注3)。万3234番歌では伊勢の地を褒め称える歌のために一般論を唱えている。「御食つ国」としてある伊勢の国とは、代々天皇に献上する国であるということである。そのことはこれまでもこれからも続く。「日」が出ては沈むをくり返しながら周りを明るくテラスことで食料は育つのである。
 このように、その時、その場のことではなく、時間的に永続するさまを表したい場合、「高照らす」という形になっていると帰納される。
 例外的に存する「高輝」については、歌意から推し測り、タカテラスと訓むのが正解であると演繹される。

  柿本朝臣人麻呂の新田部皇子に献れる歌一首〈并せて短歌〉〔柿本朝臣人麻呂獻新田部皇子歌一首〈并短歌〉〕
 やすみしし わご大王 高輝たかてらす 日の御子 しきいます 大殿おほとのうへに ひさかたの あま伝ひ来る 白雪ゆきじもの きかよひつつ いや常世とこよまで〔八隅知之吾大王高輝日之皇子茂座大殿於久方天傳来白雪仕物徃来乍益乃常世〕(万261)
  反歌一首〔反歌一首〕
 八釣山やつりやま 木立こだちも見えず 降りまがふ 雪のさわける あしたたのしも〔矢釣山木立不見落乱雪驟朝樂毛〕(万262)

 歌意のとり方が問題なのである(注4)。まだ子供である新田部皇子に対して、人麻呂はユキ(雪、靫)の歌を献じている。ゆきのなかゆきを背負いながら駿馬を駆って海幸・山幸の話のように時間的に一気に行くことを想定している。あなたの名前はニヒタベで、ニヒタ(新田)を作ることは、ひたひたとニ(荷)に迫られること、借りたものは定めに従って返すものである(定めに従わずに受け取らないのもいけない)という言葉の「定義」の歌であった(注5)。一瞬のこと、例えば殯の晩に限ったことではなく、死ぬまで背負い続けるのが名前である。

(注)
(注1)「日」、「月」が主語となって動詞ヒカルをいう例は見られないから、タカヒカルは「日」にかかっているのではなく「日の皇子」にかかっているとする説が宮本1986.にある。「赤玉は緒さへ光れど」(記7)、「夜光る玉といふとも」(万346)、「あしひきの山さへ光り」(万477)、「松浦川川の瀬光り」(万855)、「天雲に近く光りて鳴る神の」(万1369)、「あしひきの山下光る黄葉の」(万3700)、「内にも外にも光るまで降れる白雪」(万3926)、「わが妻離る光る神鳴はた少女」(万4236)と用例をあげていて本旨にも参考になる。ピカル(✨)時に用いられ、周りが明るい時には使われない。
(注2)タカヒカルからタカテラスへと推移したのには思想上の変化が背後にあったとする説が桜井1966.に見られ、稲岡1985.橋本2000.もタカテラスを君臨を表す語としている。タカテラスの「ス」を敬語と見て扱いに違いを見出すことは不可能ではないが、天皇の威光が大きく臣下を覆って君臨していることを強調する言葉がタカテラスであるとは考えられない。なぜなら、タカテラスは「日」を導く枕詞だからである。タカヒカルと聞けば、高く光っている、ああ、お日さまのことだ、タカテラスと聞けば、高く照らして周囲を明るくしている、ああ、お日さまのことだ、と思う。それを修辞句化して枕詞にしている。テラスは他動詞である。
 今日通説化しているように、「やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子」が常套句となっているのは、全体として天皇支配を翼賛する文句であって万葉の歌はおおむね政権側のアジテーションなのだと捉えようとしても、タカテラスが枕詞であることを忘れることはできない。声に出して歌われる時、聞き手は次は何と言ってくるかなと聞き耳を立てて待っている。全体を聞き流しているのではなく、発せられた言葉と次に来る言葉とに、その瞬間その瞬間に、その都度ごとに意識を集中させていると考えられる。
(注3)「高照らす日の皇子」という言い方が、天皇の直系継嗣と関係があるかのようにまことしやかに語られている。戦前の日本で「君が代」を歌う時のようなものと考えられているらしい。論評に値しない。
(注4)漢字「輝」の中国での字義から訓みが決定すると短絡してはならない。名義抄には、「輝 ヒカル」(僧下九九)、「煇 睴輝三正音渾又喗又暈又瑰 ヒカリ、フスフ、テル」(仏下末四四)と両用に訓まれている。日本語(ヤマトコトバ)を表すために漢字を使い、国字まで編み出している。
 歌は音声によって発せられ、その場で聞き取られるものである。その条件下に縛られずに議論のための議論に堕してはいけない。歌は祝詞ではない。大仰な文句をもって天皇やその継承者に対する讃辞、資格表現であると捉えると本質を見失う。タカヒカルやタカテラスは「日<rtひ>」にかかり、アマテラスは「日女ひるめみこと」にかかっている。一つ一つ別の言葉として個別具体的にあってそれぞれに使用されている。言語の意味とはその使用なのだから、そのことを無視して言葉を弄して勝手な思い込みを仮構しても、それは虚構にすぎない。
(注5)拙稿「「献新田部皇子歌」について」参照。

(引用・参考文献)
稲岡1973. 稲岡耕二「人麻呂「反歌」「短歌」の論─人麻呂長歌制作年次攷序説─」五味智英・小島憲之編『萬葉集研究 第二集』塙書房、昭和48年。
稲岡1985. 稲岡耕二『王朝の歌人1 柿本人麻呂』集英社、1985年。
門倉1989. 門倉浩「「獻新田部皇子歌」と表現主体」身﨑壽編『万葉集 人麻呂と人麻呂歌集』有精堂、1989年。(「「獻新田部皇子歌」と表現主体」『古代研究』第13号、昭和56年6月。)
門倉1999. 門倉浩「新田部皇子への献呈歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第二巻 柿本人麻呂(一)』和泉書院、1999年。
姜1997. 姜容慈「新田部皇子への献歌」『古典と民俗学論集─櫻井満先生追悼─』おうふう、平成9年。
桜井1966. 桜井満『万葉びとの憧憬』桜楓社、昭和41年。
橋本2000. 橋本達雄「タカヒカル・タカテラス考」『万葉集の時空』笠間書院、2000年。(「タカヒカル・タカテラス考」『萬葉』第142号、平成4年4月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1992)
宮本1986. 宮本陽子「万葉集に於けるタカヒカル・タカテラス」『駒沢大学大学院国文学会論輯』14、昭和61年2月。
吉田1986. 吉田義孝『柿本人麻呂とその時代』桜楓社、昭和61年。

万葉集の「そがひ」について

2024年08月28日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集に十二例見える「そがひ」という語は難解とされている。「うしろの方」の意であると単純に思われていたが、用例に適さないものがあり、「斜めうしろの方」という意などいろいろ使い分けられていると解されていた。しかし、万葉集以降見られなく語に複数の義があるのは不自然と思われ、一義的に理解されることが求められた。「遥か彼方」説(山崎氏)、「遥か遠く」説(池上氏)、「遠く離れてゆくイメージ」説(小野氏)、「漢語「背向」の翻訳語」説(吉井氏)、「正面から外れる方向の、向こうに離れて」説(西宮氏)などが提唱されている。諸説とも、そう思おうと思えばそう受け取れないことはないが、どれも歌によってはしっくり来ない点が残るものばかりである。
 筆者は、「そがひ」という言葉について、単語の語義しか考えていないところに不足を感じる。必ず助詞「に」を伴って動作の状態を表している(注1)と受けとれる点からして、複雑な含意を表すために用いられている語である可能性を予感させるし、万葉集中の言葉の使い方のなかには、言葉遊びともとれる修辞を駆使した言い回しが数多く見られるからである。
 検討のため用法別に列挙する。

「そがひに見つつ」
 武庫むこの浦を 漕ぎ小舟をぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見乍〕 ともしき小舟(万358、山部赤人)
 …… 佐保川さほかはを 朝川あさかは渡り 春日野かすがのを そがひに見つつ〔背向尓見乍〕 あしひきの 山辺やまへを指して ……(万460、大伴坂上郎女)
 …… あまさがる ひな国辺くにへに ただ向かふ 淡路あはぢを過ぎ 粟島あはしまを そがひに見つつ〔背尓見管〕 朝なぎに 水手かこの声呼び 夕凪に かぢの音しつつ ……(万509、丹比真人笠麻呂)
 …… とのぐもり 雨の降る日を 鳥狩とがりすと 名のみをりて 三島野みしまのを そがひに見つつ 二上ふたがみの 山飛び越えて 雲がくり かけにきと 帰り来て ……(万4011、大伴家持)
 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ〔曽我比尓美都々〕 都へのぼる(万4472、安宿奈杼麻呂)

「そがひに見ゆる」
 なはの浦ゆ そがひに見ゆる〔背向尓所見〕 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357、山部赤人)
 やすみしし わご大君の 常宮とこみやと 仕へ奉れる 雑賀野さひがのゆ 背向そがひに見ゆる〔背匕尓所見〕 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波さわき ……(万917、山部赤人)
 此間ここにして そがひに見ゆる〔曽我比尓所見〕 わが背子せこが 垣内かきつの谷に 明けされば はりのさ枝に 夕されば 藤のしげみに ……(万4207、大伴家持)
 朝日さし そがひに見ゆる〔曽我比尓見由流〕 かむながら 御名みなばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま 冬夏と くこともなく 白栲しろたへに 雪は降り置きて ……(万4003、大伴池主)
 筑波嶺つくばねに そがひに見ゆる〔曽我比尓美由流〕 葦穂山あしほやま しかるとがも さね見えなくに(万3391、東歌)

「そがひにしく」
 わが背子を 何処いづち行かめと さき竹の そがひにしく〔背向尓宿之久〕 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を 何処いづち行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく〔曽我比尓宿思久〕 今し悔しも(万3577、防人歌)

 ソガヒはソ(背)+ムカヒ(向)の約とする考えは説得力があり、それが原義であろう(注2)。そこから、背中合わせ、後ろの方の意であると捉えられていた。ところが、「そがひに見つつ」の場合はそれで意が通っても、「そがひに見ゆる」や「そがひに寝しく」の例では文意に合わないと感じられた。そこで、三種の用法を包括する意として、遠く離れた、といった類の意とする説が提出されたのである。近年の用語解説でも、「そがひ」はもともと「背を向けて」の意であったが、物理的な意味から心理的意味合いへと拡張し、さらに物理的、心理的距離感を表すようになったとする説(大浦氏)へとまとめられている。
 ソ(背)+ムカヒ(向)の約であるとする考えはわかりやすい。ところが、その語釈からどんどん離れて行き、ときには否定してしまうところまで展開してしまっている。吉井氏が翻訳語説を提唱するに至ったのも、収束する一点を見出そうとした試みなのだろう。諸説は皆、検討の前提段階で陥穽におちいっている。「そがひ」の語義を一義に収めるために、それぞれの歌の解釈は既定のもので正しいとして出発している。しかし、どうか。「そがひ」の用例は少ない。つまりは、当時の人にとってもあまり馴染みある言葉ではなかっただろう。そんななか、「そがひに見つつ」と「そがひに見ゆる」といったわずかな言い違いで語義が定まりにくくなることはない。かと言って、珍しい「そがひ」という言葉が、遠く離れた、のような語義であっては語構成を辿ることができず、初耳の万葉人は理解できないだろう。無文字時代の人が言葉を使うときには音だけが頼りなのだから、音から言葉の意味を直接、肌感覚として理解できなければならない。理解できなければ伝わらず、それはすなわち、言葉として成り立っていないということである。けれども、「そがひ」という言葉は現に使われていた。
 山部赤人の連作のなかに二つのタイプの「そがひ」が現れる。

 なはの浦ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 漕ぎる舟は つりしすらしも(万357)
 武庫むこの浦を 漕ぎ小舟をぶね 粟島あはしまを そがひに見つつ ともしき小舟(万358)

 現代の研究者は、二例目は武庫の浦で粟島を後ろに見ながら小舟が進むことを表してわかるとしつつ、一例目で縄の浦から沖つ島を漕いで回っている舟を見たら方向としては後ろに当たらないと思い、議論の俎上にあげている。同じ時に歌われた歌のなかの同じ言葉は、ほぼ同じ意味で使われていると思われるからである。だが、今日の議論は、歌の解釈を含めて誤っている。現在通行している釈として、多田2009.の現代語訳を引用する。

 縄の浦から対向に見える沖の島、そこを漕ぎめぐっている舟は釣りをしているらしいことだ。(万357)
 武庫の浦を漕ぎめぐっていく小舟。妻に逢うという粟島を背に見ながら、うらやましくも漕いでいく小舟よ。(万358)(293頁)

 「遥か彼方」と訳し変えてみてもかまわないのだが、それで歌意は汲めているだろうか。
 「そがひ」が背後に見るという意味で問題なく通じる万358番歌においても、「小舟」を故郷の大和の方向へと漕いでいく船とする説と、地元の漁船とする説とに分かれている(注3)。「粟島あはしま」は妻に「ふ」ことへの連想を指摘する説は根強くあるが、それはおかしい。
 アハシマはアハとあるのだから、アハズ(逢はず)の意に通じると見るべきである。万358番歌に「小舟」は二度も出て来ている。直前の万357番歌の「舟」と同じで、地元の漁船のことを言っている。万357番歌の様子からしても、赤人が都の妻に逢うかどうかという意を差し挟んでいる歌とは考えがたい。漁民の仕事と「そがひ」という言葉をモチーフにして詠まれた歌であると定位される。
 万358番歌の、「武庫むこの浦を漕ぎ廻る小舟」とは、同音のムコ(婿、コは甲類)(注4)が通い婚で毎日のように夜這いに来ていることを表し、「粟島あはしま」という逢わないことと関係する島と無関係であることを言っている。毎日のように通いに来ることができて羨ましいなあ、というのである。「粟島あはしま」を背にしたまま、決して目指すことも近づくこともなく、ムコ(婿)であることを続けたいがために武庫の浦で漕ぎ廻っていると見立てている。ラブラブですね、ごちそうさま、と言っている。
 万357番歌でも同様の譬喩が行われている。「沖つ島漕ぎ廻る舟はつりしすらしも」と「なはの浦」とは無関係であり、背反したことが行われていると言っている。沖合にある島のまわりを漕いで廻っている舟では船釣りがされているらしいと推量している。一方の「なはの浦」で行われているであろうことといえば、縄を引く地引網漁であろう。両者の関係は、同じく魚を捕ることでありながら正反対のことである。だから、背中合わせを意味する「そがひ」という言葉が使われている。「そがひ」という言葉を使うことで、どこが背中合わせの背反事項なのか、聞く人の興味を誘っている。謎掛けがおもしろいから歌として作られ、知的好奇心を満足させている。赤人の歌は叙景歌ではなく頓知歌である(注5)
左:地引網図、右:船釣り図(広重・六十余州名所図会・上総・矢さしか浦通名九十九里、嘉永6年、国立国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1308321、同・土佐・海上松魚釣、安政2年、同https://dl.ndl.go.jp/pid/1308360をそれぞれトリミング)
 「そがひ」という言葉の意味はすでに明らかとなっている。原義としては、ソ(背)+ムカヒ(向)の約と考えて間違いない。ただし、それを二者の物理的、心理的方向の関係を指す語とのみ捉えるのは浅はかである。背を向けるとは対象が背後になることばかりでなく、全体の状況として、背反し裏腹な関係になることでもある(注6)。そこまで表しているのが「そがひ」という言葉である。歌の高度な修辞法に巧みに採り入れられている。
 裏腹感を強調した用法は、「そがひに寝しく」がよく表している。

 わが背子を 何処いづち行かめと さき竹の そがひにしく 今しくやしも(万1412)
 いとし妹を 何処いづち行かめと 山菅やますげの そがひに寝しく 今し悔しも(万3577)

 万1412・万3577番歌は挽歌である。後者は、いとしい妻は他の男のところへなど行くことはないだろうと安心して、慢心して、背を向けたまま夜を過ごした。ところが、あれよあれよという間にあの世へ逝ってしまった。その女歌バージョンが前者である。「さき竹の」や「山菅の」が「そがひ」の枕詞となっている(注7)。山菅はスゲの仲間のうちで丈高く伸びるもの、細工物にする材料のスゲを指したのであろう。用途として真っ先に思いつくのは菅笠である(注8)。編まれた大きな菅笠は、頭部ばかりでなく体全体を覆うことができた。すなわち、日差しも雨も防ぐことができ、晴雨両用に用いられた。どう転んでもうまくいくだろうと思って背を向けて寝たのであった。ところが、起きてみると天気は晴れでも雨でもなく、曇りだった(注9)。笠は役目を果たさず背負い持って行くこととなった。荷物が増えてしまった。愚の骨頂である。思惑とは状況が違背していた。想定していたのとは裏腹な天気だったのである。よって、「そがひ」を導き出すのに用いられている。「さき竹」の用途も笠であろう。竹を細く削り割いたものだから、網代に編んで笠にした。「さき竹」は樋に使うような「割り竹」ではない。
左:笠のイメージ(角坊)、右:笠を背負う僧(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2591578/1/13をトリミング)
 それら枕詞のおかげで「そがひに寝しく」という句は際立ってくる。二人は仲良しであった。仲良しだったがその晩は仲良しをしなかった。背を向けて寝たけれど仲違いしてなどいない。気持ちとは裏腹なことであった。「そがひに寝しく」という言葉のなかに、「そがひ」という語の意味を自己循環的に二重に込めた使い方をし、結果的に笠に期待していたことが外れるという裏腹な事態に陥っていることを表している。高度なレトリックである。

 大君おほきみの みことかしこみ 於保おほの浦を そがひに見つつ 都へのぼる(万4472)

 万4472番歌は、「八日に、讃岐守さぬきのかみ安宿王あすかべのおほきみたちの、出雲掾いづものじよう安宿あすかべの奈杼麻呂などまろの家に集ひて宴せる歌二首」の最初の歌である。出雲に赴任していた安宿奈杼麻呂が帰ってきたので宴を開き、その場で歌われたものとされる。出雲国に「於保おほの浦」というところがあったようである。勅命で於保の浦を背にして都へ上ると言っている。言葉を逐語的に考えるなら、オホ・・キミの命令は本来、オホ・・ノウラへ行け、居ろ、というもののはずである。ウラ(浦)という言葉はウラ(心)と同音だから、「大君おほきみみこと」の心意は、オホのウラでなくてどうすると一瞬思った。だけれども、背を向けて帰ることは言葉の上で裏腹な状況になるのだから、「そがひ」の一語にまとめ上げることができる。なるほど天皇の命令は「かしこ」いことだ、と頓知解釈を披露している(注10)

 筑波嶺つくばねに そがひに見ゆる 葦穂山あしほやま しかるとがも さね見えなくに(万3391)

 万3391番歌は東歌で、地名の語呂に基づいた頓智の歌である。ツクバネとは羽根突きのこと、通常、身体の前で羽根を突くものである。背面で操作することは、バドミントンでさえよほどの上達者以外には見られない。この歌では体の後ろ、背中側で羽根を突くことが思考実験され、言葉遊びをしている。ふつう硬い板を使って羽根を突くところ、アシホという名の示す葦の穂のような柔らかなもので突くことなんて、まるで体の後ろ側で羽根突きをするのと同じことだと譬えているのである。何か悪いことをしたわけでもないのにハンディを負った罰ゲームを強いられているが、その理由は見られないのに、と嘆いている。譬喩で体の後ろ側のことにしているが、それはまた、ちゃんと羽根突きをしようと思っている相手に対して違背する状況でもある。ちゃんと対峙してよ、アシホヤマさん、ということである。その二つの意味を重ね合わせて「そがひ」という言葉で表している。
 以上、「そがひ」という言葉の使われ方について、短歌六例に限り瞥見した。見てきたように、「そがひ」は二者の関係を言う言葉でありながら、「そがひに」は二者の関係を言いながら全体状況に対する譬喩表現を担うことになっている。論理学に長けた人たちの使う高等言語であり、語義を平板に定めて歌意(文意)を理解しようと努めても解決には至らない。現代では行われることのない言葉づかいが上代に行われており、多くの論者がさまざまな語義説をくり出しても釈然としないところが必ず残るのはその所為である。巧みな修辞術のアイテムとして機能している言葉であり、万葉時代のものの考え方を深く知る上でこの上ない素材である。他の六例はみな長歌である。「そがひ」という言葉がそれらの歌全体の意味合いを左右する肝となっているものと思われ、個々の歌を詳しく検討する必要がある。それぞれの文脈のなかでどのように状況が裏腹になっているかが課題である。後考を俟つ。

(注)
(注1)次の例では、「しなふ(撓)」の連用形名詞に助詞「に」がつき、姿態のしなやかなさまを萩の木の茂りたわみ靡く様子に譬えている。

 ゆくりなく 今も見がし 秋萩の しなひにあらむ いもが姿を(万2284)

(注2)「ソガヒはソキアヒ(離き合ひ)の縮約形であり、互いが離反する、背反する、対峙する意である」(坂本1980.49頁)とする異説も見られる。ただ、ソク(離、退)は離れる、遠のく、の意の自動詞で、アフ(合)を連接させることは考えにくい。
(注3)解釈史、ならびに万葉集の「小舟」についての詳細な解説は、坂本2008.参照。
(注4)母音交替形の「もこ(婿)」のコは甲類であることが、「聟 毛古もこ、又加太支かたき」(新撰字鏡)から知られている。。
(注5)赤人歌を叙景にすぐれた歌とする理解はいまだ蔓延しているが、例えば、知らない土地の景色を巧みに言い回した歌が披露されたとしても、ツーリズムとは何かさえ知らずに暮らしている人たちの心に響くはずはないだろう。すなわち、アララギ派が赤人歌に見たものとは、端的に言えば、近代ツーリズムに洗脳された理解でしかなかったのである。そしてまた、歌枕的な解釈をもって理解しようとする試みも、平安時代に成立、定着した文学、文芸を前提に据えたもので、時代考証に錯誤がある。中古以降の文学、文芸は、書かれた歌、描かれた絵など、記録物を媒介としている。基本的に無文字の社会に生きた上代人は、視覚に頼ることなく聴覚のみですべてを掌握しようと努めた。ヤマトコトバのシステムである。舶来の新技術もことごとくヤマトコトバに作られ、今となってはどうやって考え出したのだろうと不思議に思う言葉が目白押しになっている。伝来した織物技術として、ハタ(機)、ヒ(梭)、仏教関係でいえば、ホトケ(仏)、テラ(寺)、焼成品なら、カハラ(瓦)、スヱノウツハモノ(陶器)といった言葉が作られている。いわゆる和訓として認められ、ヤマトコトバとしてあたかももとからあるような顔をして使われている。言葉を声に出して言ったとき、それだけで何を言っているのかすべてをわかり合える世界、それが上代の言語空間であった。
(注6)その点、ソムク(背)という語と一脈通じていると言えよう。「素直に考えれば、後ろに見るという行為は、そもそも論理的に成立し得ない。」(永藤2009.134(5)頁)という考え方をしていたら、なぞなぞは一問も解けないだろう。
(注7)藤田2011.は、「さき竹」、「山菅」について自然観察の結果とする説を唱えている。自然科学的観点は、上代の人に行われていたことが皆無であったとは言わないが、多くの人に認められなければ言葉として成り立たない。タケやスゲが倒れていることなど知ったことではないのである。
(注8)ヤマスゲ(山菅)と歌に詠まれるとは、言葉として確固たるものと認められていたということである。クサ(草)から範疇としてヤマスゲを析出したことは、人々にとって意味あるものとして言語化する営みが行われたということである。植物学などない時代、人は利用するために自然を見ている。「ある語の意味とは、言語におけるその語の使用である。(Die Bedeutung eines Wortes ist sein Gebrauch in der Sprache.)」(L.Wittgenstein, Philosophische Untersuchungen §43)という説法(erklären)は箴言のようにいくらでも応用が利く。
(注9)死者を雲に見立てる発想は万葉集中に見られ、死ぬことを「雲隠くもがくる」とも言った。
(注10)このような使い方が行われていることから考えると、言葉の論理学に通じる人たちにとっては、「そがひ」という言葉は興味深いものとして歓迎されていたのではないかと感じられる。万葉歌は、いかにレトリックを駆使するかという側面も有していたから、当時歌を作りたがる人にとっては格好の言葉であったかも知れない。

(引用・参考文献)
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坂本1980. 坂本信幸「赤人の玉津島従駕歌について」『大谷女子大学紀要』第15号第2輯、昭和55年12月。
坂本2008. 坂本信幸「山部宿祢赤人が歌六首(巻3・三五七〜三六六)について」萬葉語学文学研究会編『萬葉語文研究』第4集、和泉書院、2008年12月。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
西宮1992. 西宮一民「上代語コトムケ・ソガヒニ攷」『皇学館大学』第30輯、平成4年1月。(『古事記の研究』おうふう、1993年。)
永藤2009. 永藤靖「万葉・「ソガヒに見る」考」『文化継承学論集』第5号、明治大学大学院文学研究科、2009年3月。
中村1989. 中村宗彦「「越中立山縁起」・「そがひに見ゆる」考」『天理大学学報』第160輯、平成元年2月。
藤田2011. 藤田富士夫「万葉集の「そがひ」に関する若干の考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2011年5月。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/701
藤田2012. 藤田富士夫「万葉集「敬和立山賦」の「そがひ」に関する実景論的考察」『人文社会科学研究所年報』第9号、敬和学園大学、2012年。敬和学園大学機関リポジトリhttps://keiwa.repo.nii.ac.jp/records/720
古舘2007. 古舘綾子「「そがひに見ゆる」考─赤人紀伊国行幸歌を中心に─」『大伴家持 自然詠の生成』笠間書院、2007年。
山崎1972. 山崎良幸「「そがひに見ゆる」考」『万葉歌人の研究』風間書房、昭和47年。
吉井1981. 吉井巌「万葉集「そがひに」試見」『帝塚山学院大学日本文学研究』第12号、昭和56年2月。(『万葉集への視角』和泉書院、1990年。)