山部赤人が富士山を詠んだ歌はあまりにもよく知られている。
山部宿禰赤人の不尽山を望む歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は〔天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将徃不盡能高嶺者〕(万317)
反歌〔反謌〕
田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける〔田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留〕(万318)
中央の官人層に当たる人が富士山について作歌したものは、上の山部赤人とそれに続く高橋虫麻呂の歌(注1)だけである。ほかにも富士〔不尽、布士〕を詠んだ歌はあるが、東歌の駿河国の相聞往来の歌(万3355・3356・3357・3358)と、古今相聞往来の歌の類として採られた寄物陳思歌(万2695・2697)に属する。後者は、燃えるような恋心の比喩として噴火するさまを詠んでいる。結局のところ、中央では歌のテーマとして流行っていない。この点には注意が必要である。
都から遠く離れている富士山を類歌の乏しいなか赤人は歌にしている。旅行する人もガイドブックもない時代、意味が通じたか心許ない。そんななか長歌・反歌の組の歌を作り、都において人前で披露しているらしい。歌として歌うだけで意味が通じたようである。万葉集の編纂の際には、高橋虫麻呂の伝歌もついでに採録されている。
歌を聞いただけでわかるとは、歌の中の言葉をもって描写が行き届いているということである。その場合、旅行記として聞いているわけではない。富士山のことは初めて聞き知ったが、これから訪れる機会もなければ関心もない。題詞に経緯を細かく記して伝説を伝えているものでもない。それなのにわかるということは、歌のなかで話が完結しているということである。言葉をもって言葉が説明され、皆の納得に至っている。地誌に疎く興味もない都の人がフジという高い山のあることを耳にし、なるほどそういうことなのね、と腑に落ちるような歌ということになる。
フジは地名である。語源はわからない。フジという山が厳然とあって、その名の意味するところを謎解きしようとしたのがこれらの歌であったろう。それ以外に作歌の動機や表明の意図は考えられない(注2)。歌を聞いた人がちんぷんかんぷんではどうしようもないからである。
フジを、フ(斑)+ジ(形容詞化する語尾)の意ととって説明しているらしい。フは、縞、特に横縞になっていることを指す(注3)。ジは、~のようなさまである、~のような感じがする、~らしい格好である、の意にする接尾辞である。ジモノの形をとることが多い。別のものなのに本当にそれらしい感じ、様子をしていることを示す(注4)。すなわち、フジの山はどうしたって横縞の様子を示しているとおもしろがって歌っているのである。今日でも多くの人が思い浮かべる富士山の姿は、絵文字🗻にあるように横縞柄である(注5)。ヨコシマという言葉は、雲などが横向きに水平にただよってさまを表すとともに、邪悪な思いを抱いていること、正常でない状態を表す。
富士山
日を数て還りて曰さく、「西北に山有り。帯雲にして横に絚れり。蓋し国有らむか」とまをす。(神功前紀仲哀九年九月)
一書に曰はく、天照大神、天稚彦に勅して曰はく、「豊葦原中国は、是吾が児の王たるべき地なり。然れども慮るに、残賊強暴横悪しき神者有り。故、汝先づ往きて平けよ」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一、日本書紀私記乙本訓)
ということは、フジという山に座す神を想定すると、それは悪しき神なのである。ヤマトの国は、中央から遠く離れたところへ征討しては従わせ、版図を拡大していった。だからこのフジの山へも討伐するために攻めて行かなければならない。それが反歌で歌われている内容、長歌で縷々述べられたことのオチとして歌われている。
「田児の浦」から「うち出でて」いる。タゴ(ゴは甲類)という言葉は、田子、すなわち、田を耕し稲作をする農民のことである。そのウラがどういうところかと考えれば、田んぼではなく畑(畠)であろう。お百姓さんは表向き田を耕し稲を作って田租を納めているが、裏の畑では芋や豆、蔬菜類を作っていたりする。二毛作をすれば裏作では田が畑になる。そんなタコノウラからフジノタカネへと撃ち出でてみたら(注6)、フジノタカネは雪が降ってすでに真っ白く横縞を成していた。ハタ(畑)から出陣したら直ちにシロハタ(白旗)をあげて降伏していた、という頓智話を作為しているのである。
長歌はそのオチへと至るなぞなぞ咄である。
「天地の 分れし時ゆ」などと大仰に始まっている。古事記や日本書紀に残されているように、天地が分れて世界は生まれたと思われていた。イザナキ・イザナミ両神が天の浮橋から矛を下ろしてかき混ぜ、滴った塩が固まってできた最初の島はオノゴロ島である。そこへ降り立ち柱を立て、その周りを右から廻ったり左から廻ったり試行錯誤しながら国生みが行われている。ところが、赤人の長歌では、「……神さびて 高く貴き」と、天地が分かれた時から古色蒼然と高貴に感じられると形容されている。その対象は「駿河」という言葉である。そこにあるのが「布士の高嶺」である。「駿河」がどうしてそんなに持ちあげられているかといえば、スルガという言葉がスル(擂、摺、擦)+ガ(処の意)を思わせるからである。イザナキ・イザナミの国生みは、右へ左へと廻っている。それぞれの特徴、「成り成りて成り余れる処」と「成り成りて成り合はぬ処」とを合体させてぐるぐる回すことは、ちょうど火鑽杵を火鑽臼に合わせてぐるぐる回して火を熾す作業に当たる。富士山はときおり噴火していたから国生みの場所と類推され、スルガ(駿河)は讃美されて然るべきだろうと頓智を言っている。ジョークなのだから聞く人も真に受けたりはしない。創世神話が書き換えられているのではなく、言葉遊びの語呂合わせが楽しまれているにすぎない。
つづく「天の原 振り放け見れば」はそれまで述べてきた天地創世、国生みの舞台である高天原、天空を仰ぎ見ることを大袈裟に表現している。こういったわざとらしさもジョークの一環である。そうして見てみると、「渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり」している。標高の高い山で雲がかかって日月とも隠れてしまうというのである。そして、「時じくそ 雪は降りける」としている。間断なく雪は降っていると気がついた(注7)という。このことを、「語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ」と主張している。
そのようなことを伝承していく必要などどこにあるというのだろうか。これも赤人のジョークである。「不尽の高嶺」の特徴は、雪が降っているということである。ユキ(雪、キは甲類)はユキ(行、キは甲類)と同音である。雪がある山のことはユキ(行)していかなければならない。都の皆さんにあらせられましては、遠方の駿河へユキ(行)することはなかなかできないでしょうから、せめて今、歌いました事柄を末永く語り継ぎ言い継ぎしてユキ(行)してください、というのである。
赤人は長歌で富士山の雪についてジョークを並べ立て、反歌でさらにひねりを利かせている。富士山の「高嶺」のところ、頂部分が雪化粧して横縞になっているからフジ(斑+ジ(~らしいさま))というのだと語呂合わせをし、邪な賊を田んぼのウラに当たるハタ(畑)から攻撃したらすぐに白旗を掲げたというのもそのとおりなのだという話にしてまとめたのだった。
万葉の時代、歌は声に出して歌われて、その場で人々に理解されて楽しまれた。機知に富んでおもしろく思われたから伝え残そうと万葉集に採られ、編まれている。理屈をこねた言い分を主張してみたとて、一回しか歌われない歌は耳に届かず、心に残らない。へぇー、スルガにはフジという山があるんだって、とても高い山で常に雪が降っているんだって、初耳のその山のことを雪があるから語り継いで行こうって、なになに横縞になっているからフジと言うんだって、邪だから攻撃したら白旗をあげているように見える理由はそこにあるって、ははは赤人さん、おもしろいことを言うねえ(注8)。
(注)
(注1)巻三の目録に、「詠不盡山歌一首〈并短歌 笠朝臣金村歌中之出〉」とあり、歌の左注にある「右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此」と異動があるが、要は、どちらの作でもかまわないと思われていたということである。今日では、高橋虫麻呂説が多く採られている。
(注2)特に万318番歌が短歌として切り離され、新古今集にも字句を変えて採られ、百人一首にも選ばれている。近代以降、叙景歌であると見なされてきたが、長歌・反歌の組として捉えなければならないとされて叙景歌なのかも疑問視する傾向が出てきた。また、富士山を賞美するようなことは、江戸時代にまで下らなければ一般に広まっていないとも指摘された。21世紀になると、赤人のこれらの歌に関して、「国土讃美の様式を用いて土地の風物の描写がなされるようになった」(井上2010.36頁)のであるとも、「一見風景を描写しているように見える内容であるが、これは讃美目的の虚構表現である。従って叙景歌であるとはみなされない。」(吉村2015.343頁)とも、「当該歌は、東アジア的世界観のなかで、聖武天皇の東国支配の正統性を保証し、讃美する新たな国見歌として、漢詩文の山岳讃美表現を取り込みつつ、神代から雪が降り続ける不尽の永続的な神聖性を構図的に幻視したものと考える。」(遠藤2022.9~10頁)とも、「一見すれば旅先の景を叙したように見える当該歌にも実は国家意識が潜在していたのであった。」(鈴木2024.197頁)とも説かれている。取ってつけた講釈が優勢になってしまっている。教育勅語のようなものが歌に作られていたとして、覚えられるはずがないではないか。
(注3)時代別国語大辞典に、「ふ」は、「まだらな斑点を意味するフチとは区別されていたものか。後世、矢羽の横縞をいう切斑や、虎の毛皮をいう虎斑などの語があることから考えても、横縞の意であろう。」(628頁) とある。
参考図「切文(切斑)」(伊勢貞丈『貞丈雑記』(味の素食の文化センター所蔵、国文学研究資料館・国書データベースhttps://doi.org/10.20730/100249523(615~616 of 1093)をトリミング結合)
(注4)歌中にある「時じく」の形も、名詞「時」にジをつけて形容詞化したものである。
(注5)富士山は噴火をくり返し形を変えていっているが、有史以降でみると大勢としては変化は少ない。絵画化された例として残されているものとしては聖徳太子絵伝や一遍聖絵などが古いが、絵文字のさまと大差ない。殊更に三峰あるように描かれるようになったのは富士信仰に基づくもので、そのような考え方は古代にはなかった。
(注6)陸路説と海路説が唱えられ定説を見ない。「榜ぎ出でて見れば」ではなく、「うち出でて見れば」とあり、意を決して海上へ出てみたら、という意味合いになる点が、外海を進むわけではないことにそぐわないと、廣岡2005.は疑問を抱いている。
(注7)「雪は降りける」について、降雪説と積雪説があり、長歌と反歌とで異なる見方をすることが多い。赤人が富士山に登山したことや誰かが登山して経験談を教えてもらったことから作歌しているようには思われない。富士山初冠雪の便りも麓から見て確認できた日に発表されるもので、雲がかかっている日には確認できない。富士山に雪が降っていることは雪が積もっていることによって知られることである。
助動詞の「けり」について、小田2015.は、「テンス的意味として、①「継承相」(過去に起こって現在まで 持続している、または結果の及んでいる事を表す)と、②「伝承相」(発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態を表す)を、認識的意味として、➂「確認相」(気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得を表す[=「気づき」])を表す。」(152頁)としている。認識的意味を示す語釈としては、古典基礎語辞典に、「①過去の事柄や過去からあったという事実に、はじめてそうだったのだと気づいて、あらためて過去を思いめぐらす意。回想(気づき)の意。…た。…てきた。…ている。……②今まで意識していなかったことに、はじめて気づき、感動と驚きの気持ちを表す。詠嘆(気づき)の意。…だったのだなあ。…ていたのだなあ。…だったよ。……➂はじめて聞いた話や伝説などについて、そうだったのだとあらためて確認する意。伝聞(気づき)の意。…だったそうだ。…とかいうことだ。…たとさ。」(473頁、この項、我妻多賀子)としている。どんな内容であれ「気づき」を表している。詠嘆の視点から語釈を考えることは、「来有り」の転と考えられる語の出自からして不適当である。
赤人の用いている当該「雪は降りける」の「けり」については、どちらの歌でも話を作為しているのだから、自分で歌いながら「気づき」を演出しているわけで、回想でも詠嘆でも伝聞でもあると言えるのである。とぼけた赤人の歌声が聞こえてくる。
(注8)この歌は長らく叙景歌の代表として君臨してきた。遅くとも藤原定家の頃にはそう捉えることで名歌と思われていたようである。しかし、本稿により、頓智、なぞなぞ、ジョーク、駄洒落の歌であると確かめられ、コペルニクス的転回を来した。
万葉集の時代には、歌は声に出して歌われ、その場において耳で聞いている人たちの間で楽しまれた。機知に富んだ言葉の使い方が好まれていた。ところが、文字の時代に入って目で読んで言葉を理解するようになると、すぐにそれまでの言語芸術のあり方がわからなくなってしまった。文字という記号はやがて科学的な思考を生み、文明は高度に発展した。今や機械学習の助けも得てスピーディにして快適な生活を手に入れている。現代人にとって必要な情報処理にはアップデートが欠かせないわけだが、記紀万葉の時代のものの考え方を探るためにはダウンデートが求められる。その結果得られるものは、一般には「くだらない」と評価される代物である。そこに何かの意味を見出すとするなら、多くの人類が辿ったのとは別種の地平があったという文化人類学的興味である。
人間は言葉で考える。その根本の言葉について、まったく別の方向へと使い方を進化させていた文化が存在していた。その貴重な姿を万葉集は留めてくれている。もはやそれは「文学」という範疇では語れない。高座で話した洒落を落語家が後で解説するのを嫌がるようなもの、学術研究の対象にして高説を垂れてはお門違いになる。
(引用・参考文献)
井上2010. 井上さやか『山部赤人と叙景』新典社、平成22年。
遠藤2022. 遠藤耕太郎「不尽の雪─赤人不尽山歌の「雪は降りける」をめぐって─」『日本文学』第71号第2号、2022年2月。
小田2015. 小田勝『実用詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂本2001. 坂本信幸「赤人の富士の山の歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
鈴木2019. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」─享受と創造─」『都留文科大学研究紀要』第90号、2019年10月。都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000485
鈴木2021. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」と高橋虫麻呂の「富士の山を詠む歌」の影響関係」『都留文科大学大学院紀要』第25号、都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000758
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
廣岡2005. 廣岡義隆『萬葉のこみち』塙書房(はなわ新書)、2005年。
廣川2019. 廣川晶輝「山部赤人「不尽山を望む歌」 について」『甲南大學紀要 文学編』第169号、2019年3月。甲南大学機関リポジトリhttps://doi.org/10.14990/00003249
吉村2015. 吉村誠「研究の現状と教材化─『万葉集』山部赤人「不盡山」歌を通して─」『研究論叢 芸術・体育・教育・心理』第64巻、山口大学教育学部、2015年1月。山口大学共同リポジトリ https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/24941
※2000年以前の論考については割愛した。梶川1997.の議論や井上2010.の山部赤人関係文献目録を参照されたい。
山部宿禰赤人の不尽山を望む歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人望不盡山謌一首〈并短謌〉〕
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 振り放け見れば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくそ 雪は降りける 語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ 不尽の高嶺は〔天地之分時従神左備手高貴寸駿河有布士能高嶺乎天原振放見者度日之陰毛隠比照月乃光毛不見白雲母伊去波伐加利時自久曽雪者落家留語告言継将徃不盡能高嶺者〕(万317)
反歌〔反謌〕
田児の浦ゆ うち出でて見れば 真白にそ 不尽の高嶺に 雪は降りける〔田兒之浦従打出而見者真白衣不盡能高嶺尓雪波零家留〕(万318)
中央の官人層に当たる人が富士山について作歌したものは、上の山部赤人とそれに続く高橋虫麻呂の歌(注1)だけである。ほかにも富士〔不尽、布士〕を詠んだ歌はあるが、東歌の駿河国の相聞往来の歌(万3355・3356・3357・3358)と、古今相聞往来の歌の類として採られた寄物陳思歌(万2695・2697)に属する。後者は、燃えるような恋心の比喩として噴火するさまを詠んでいる。結局のところ、中央では歌のテーマとして流行っていない。この点には注意が必要である。
都から遠く離れている富士山を類歌の乏しいなか赤人は歌にしている。旅行する人もガイドブックもない時代、意味が通じたか心許ない。そんななか長歌・反歌の組の歌を作り、都において人前で披露しているらしい。歌として歌うだけで意味が通じたようである。万葉集の編纂の際には、高橋虫麻呂の伝歌もついでに採録されている。
歌を聞いただけでわかるとは、歌の中の言葉をもって描写が行き届いているということである。その場合、旅行記として聞いているわけではない。富士山のことは初めて聞き知ったが、これから訪れる機会もなければ関心もない。題詞に経緯を細かく記して伝説を伝えているものでもない。それなのにわかるということは、歌のなかで話が完結しているということである。言葉をもって言葉が説明され、皆の納得に至っている。地誌に疎く興味もない都の人がフジという高い山のあることを耳にし、なるほどそういうことなのね、と腑に落ちるような歌ということになる。
フジは地名である。語源はわからない。フジという山が厳然とあって、その名の意味するところを謎解きしようとしたのがこれらの歌であったろう。それ以外に作歌の動機や表明の意図は考えられない(注2)。歌を聞いた人がちんぷんかんぷんではどうしようもないからである。
フジを、フ(斑)+ジ(形容詞化する語尾)の意ととって説明しているらしい。フは、縞、特に横縞になっていることを指す(注3)。ジは、~のようなさまである、~のような感じがする、~らしい格好である、の意にする接尾辞である。ジモノの形をとることが多い。別のものなのに本当にそれらしい感じ、様子をしていることを示す(注4)。すなわち、フジの山はどうしたって横縞の様子を示しているとおもしろがって歌っているのである。今日でも多くの人が思い浮かべる富士山の姿は、絵文字🗻にあるように横縞柄である(注5)。ヨコシマという言葉は、雲などが横向きに水平にただよってさまを表すとともに、邪悪な思いを抱いていること、正常でない状態を表す。
富士山
日を数て還りて曰さく、「西北に山有り。帯雲にして横に絚れり。蓋し国有らむか」とまをす。(神功前紀仲哀九年九月)
一書に曰はく、天照大神、天稚彦に勅して曰はく、「豊葦原中国は、是吾が児の王たるべき地なり。然れども慮るに、残賊強暴横悪しき神者有り。故、汝先づ往きて平けよ」とのたまふ。(神代紀第九段一書第一、日本書紀私記乙本訓)
ということは、フジという山に座す神を想定すると、それは悪しき神なのである。ヤマトの国は、中央から遠く離れたところへ征討しては従わせ、版図を拡大していった。だからこのフジの山へも討伐するために攻めて行かなければならない。それが反歌で歌われている内容、長歌で縷々述べられたことのオチとして歌われている。
「田児の浦」から「うち出でて」いる。タゴ(ゴは甲類)という言葉は、田子、すなわち、田を耕し稲作をする農民のことである。そのウラがどういうところかと考えれば、田んぼではなく畑(畠)であろう。お百姓さんは表向き田を耕し稲を作って田租を納めているが、裏の畑では芋や豆、蔬菜類を作っていたりする。二毛作をすれば裏作では田が畑になる。そんなタコノウラからフジノタカネへと撃ち出でてみたら(注6)、フジノタカネは雪が降ってすでに真っ白く横縞を成していた。ハタ(畑)から出陣したら直ちにシロハタ(白旗)をあげて降伏していた、という頓智話を作為しているのである。
長歌はそのオチへと至るなぞなぞ咄である。
「天地の 分れし時ゆ」などと大仰に始まっている。古事記や日本書紀に残されているように、天地が分れて世界は生まれたと思われていた。イザナキ・イザナミ両神が天の浮橋から矛を下ろしてかき混ぜ、滴った塩が固まってできた最初の島はオノゴロ島である。そこへ降り立ち柱を立て、その周りを右から廻ったり左から廻ったり試行錯誤しながら国生みが行われている。ところが、赤人の長歌では、「……神さびて 高く貴き」と、天地が分かれた時から古色蒼然と高貴に感じられると形容されている。その対象は「駿河」という言葉である。そこにあるのが「布士の高嶺」である。「駿河」がどうしてそんなに持ちあげられているかといえば、スルガという言葉がスル(擂、摺、擦)+ガ(処の意)を思わせるからである。イザナキ・イザナミの国生みは、右へ左へと廻っている。それぞれの特徴、「成り成りて成り余れる処」と「成り成りて成り合はぬ処」とを合体させてぐるぐる回すことは、ちょうど火鑽杵を火鑽臼に合わせてぐるぐる回して火を熾す作業に当たる。富士山はときおり噴火していたから国生みの場所と類推され、スルガ(駿河)は讃美されて然るべきだろうと頓智を言っている。ジョークなのだから聞く人も真に受けたりはしない。創世神話が書き換えられているのではなく、言葉遊びの語呂合わせが楽しまれているにすぎない。
つづく「天の原 振り放け見れば」はそれまで述べてきた天地創世、国生みの舞台である高天原、天空を仰ぎ見ることを大袈裟に表現している。こういったわざとらしさもジョークの一環である。そうして見てみると、「渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり」している。標高の高い山で雲がかかって日月とも隠れてしまうというのである。そして、「時じくそ 雪は降りける」としている。間断なく雪は降っていると気がついた(注7)という。このことを、「語り継ぎ 言ひ継ぎ行かむ」と主張している。
そのようなことを伝承していく必要などどこにあるというのだろうか。これも赤人のジョークである。「不尽の高嶺」の特徴は、雪が降っているということである。ユキ(雪、キは甲類)はユキ(行、キは甲類)と同音である。雪がある山のことはユキ(行)していかなければならない。都の皆さんにあらせられましては、遠方の駿河へユキ(行)することはなかなかできないでしょうから、せめて今、歌いました事柄を末永く語り継ぎ言い継ぎしてユキ(行)してください、というのである。
赤人は長歌で富士山の雪についてジョークを並べ立て、反歌でさらにひねりを利かせている。富士山の「高嶺」のところ、頂部分が雪化粧して横縞になっているからフジ(斑+ジ(~らしいさま))というのだと語呂合わせをし、邪な賊を田んぼのウラに当たるハタ(畑)から攻撃したらすぐに白旗を掲げたというのもそのとおりなのだという話にしてまとめたのだった。
万葉の時代、歌は声に出して歌われて、その場で人々に理解されて楽しまれた。機知に富んでおもしろく思われたから伝え残そうと万葉集に採られ、編まれている。理屈をこねた言い分を主張してみたとて、一回しか歌われない歌は耳に届かず、心に残らない。へぇー、スルガにはフジという山があるんだって、とても高い山で常に雪が降っているんだって、初耳のその山のことを雪があるから語り継いで行こうって、なになに横縞になっているからフジと言うんだって、邪だから攻撃したら白旗をあげているように見える理由はそこにあるって、ははは赤人さん、おもしろいことを言うねえ(注8)。
(注)
(注1)巻三の目録に、「詠不盡山歌一首〈并短歌 笠朝臣金村歌中之出〉」とあり、歌の左注にある「右一首高橋連蟲麿之歌中出焉以類載此」と異動があるが、要は、どちらの作でもかまわないと思われていたということである。今日では、高橋虫麻呂説が多く採られている。
(注2)特に万318番歌が短歌として切り離され、新古今集にも字句を変えて採られ、百人一首にも選ばれている。近代以降、叙景歌であると見なされてきたが、長歌・反歌の組として捉えなければならないとされて叙景歌なのかも疑問視する傾向が出てきた。また、富士山を賞美するようなことは、江戸時代にまで下らなければ一般に広まっていないとも指摘された。21世紀になると、赤人のこれらの歌に関して、「国土讃美の様式を用いて土地の風物の描写がなされるようになった」(井上2010.36頁)のであるとも、「一見風景を描写しているように見える内容であるが、これは讃美目的の虚構表現である。従って叙景歌であるとはみなされない。」(吉村2015.343頁)とも、「当該歌は、東アジア的世界観のなかで、聖武天皇の東国支配の正統性を保証し、讃美する新たな国見歌として、漢詩文の山岳讃美表現を取り込みつつ、神代から雪が降り続ける不尽の永続的な神聖性を構図的に幻視したものと考える。」(遠藤2022.9~10頁)とも、「一見すれば旅先の景を叙したように見える当該歌にも実は国家意識が潜在していたのであった。」(鈴木2024.197頁)とも説かれている。取ってつけた講釈が優勢になってしまっている。教育勅語のようなものが歌に作られていたとして、覚えられるはずがないではないか。
(注3)時代別国語大辞典に、「ふ」は、「まだらな斑点を意味するフチとは区別されていたものか。後世、矢羽の横縞をいう切斑や、虎の毛皮をいう虎斑などの語があることから考えても、横縞の意であろう。」(628頁) とある。
参考図「切文(切斑)」(伊勢貞丈『貞丈雑記』(味の素食の文化センター所蔵、国文学研究資料館・国書データベースhttps://doi.org/10.20730/100249523(615~616 of 1093)をトリミング結合)
(注4)歌中にある「時じく」の形も、名詞「時」にジをつけて形容詞化したものである。
(注5)富士山は噴火をくり返し形を変えていっているが、有史以降でみると大勢としては変化は少ない。絵画化された例として残されているものとしては聖徳太子絵伝や一遍聖絵などが古いが、絵文字のさまと大差ない。殊更に三峰あるように描かれるようになったのは富士信仰に基づくもので、そのような考え方は古代にはなかった。
(注6)陸路説と海路説が唱えられ定説を見ない。「榜ぎ出でて見れば」ではなく、「うち出でて見れば」とあり、意を決して海上へ出てみたら、という意味合いになる点が、外海を進むわけではないことにそぐわないと、廣岡2005.は疑問を抱いている。
(注7)「雪は降りける」について、降雪説と積雪説があり、長歌と反歌とで異なる見方をすることが多い。赤人が富士山に登山したことや誰かが登山して経験談を教えてもらったことから作歌しているようには思われない。富士山初冠雪の便りも麓から見て確認できた日に発表されるもので、雲がかかっている日には確認できない。富士山に雪が降っていることは雪が積もっていることによって知られることである。
助動詞の「けり」について、小田2015.は、「テンス的意味として、①「継承相」(過去に起こって現在まで 持続している、または結果の及んでいる事を表す)と、②「伝承相」(発話者がその事態の真実性に関与していない過去の事態を表す)を、認識的意味として、➂「確認相」(気づかなかった事態に気づいたという認識の獲得を表す[=「気づき」])を表す。」(152頁)としている。認識的意味を示す語釈としては、古典基礎語辞典に、「①過去の事柄や過去からあったという事実に、はじめてそうだったのだと気づいて、あらためて過去を思いめぐらす意。回想(気づき)の意。…た。…てきた。…ている。……②今まで意識していなかったことに、はじめて気づき、感動と驚きの気持ちを表す。詠嘆(気づき)の意。…だったのだなあ。…ていたのだなあ。…だったよ。……➂はじめて聞いた話や伝説などについて、そうだったのだとあらためて確認する意。伝聞(気づき)の意。…だったそうだ。…とかいうことだ。…たとさ。」(473頁、この項、我妻多賀子)としている。どんな内容であれ「気づき」を表している。詠嘆の視点から語釈を考えることは、「来有り」の転と考えられる語の出自からして不適当である。
赤人の用いている当該「雪は降りける」の「けり」については、どちらの歌でも話を作為しているのだから、自分で歌いながら「気づき」を演出しているわけで、回想でも詠嘆でも伝聞でもあると言えるのである。とぼけた赤人の歌声が聞こえてくる。
(注8)この歌は長らく叙景歌の代表として君臨してきた。遅くとも藤原定家の頃にはそう捉えることで名歌と思われていたようである。しかし、本稿により、頓智、なぞなぞ、ジョーク、駄洒落の歌であると確かめられ、コペルニクス的転回を来した。
万葉集の時代には、歌は声に出して歌われ、その場において耳で聞いている人たちの間で楽しまれた。機知に富んだ言葉の使い方が好まれていた。ところが、文字の時代に入って目で読んで言葉を理解するようになると、すぐにそれまでの言語芸術のあり方がわからなくなってしまった。文字という記号はやがて科学的な思考を生み、文明は高度に発展した。今や機械学習の助けも得てスピーディにして快適な生活を手に入れている。現代人にとって必要な情報処理にはアップデートが欠かせないわけだが、記紀万葉の時代のものの考え方を探るためにはダウンデートが求められる。その結果得られるものは、一般には「くだらない」と評価される代物である。そこに何かの意味を見出すとするなら、多くの人類が辿ったのとは別種の地平があったという文化人類学的興味である。
人間は言葉で考える。その根本の言葉について、まったく別の方向へと使い方を進化させていた文化が存在していた。その貴重な姿を万葉集は留めてくれている。もはやそれは「文学」という範疇では語れない。高座で話した洒落を落語家が後で解説するのを嫌がるようなもの、学術研究の対象にして高説を垂れてはお門違いになる。
(引用・参考文献)
井上2010. 井上さやか『山部赤人と叙景』新典社、平成22年。
遠藤2022. 遠藤耕太郎「不尽の雪─赤人不尽山歌の「雪は降りける」をめぐって─」『日本文学』第71号第2号、2022年2月。
小田2015. 小田勝『実用詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
坂本2001. 坂本信幸「赤人の富士の山の歌」『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
鈴木2019. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」─享受と創造─」『都留文科大学研究紀要』第90号、2019年10月。都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000485
鈴木2021. 鈴木武晴「山部赤人の「富士の山を望る歌」と高橋虫麻呂の「富士の山を詠む歌」の影響関係」『都留文科大学大学院紀要』第25号、都留文科大学学術機関リポジトリhttps://doi.org/10.34356/00000758
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
廣岡2005. 廣岡義隆『萬葉のこみち』塙書房(はなわ新書)、2005年。
廣川2019. 廣川晶輝「山部赤人「不尽山を望む歌」 について」『甲南大學紀要 文学編』第169号、2019年3月。甲南大学機関リポジトリhttps://doi.org/10.14990/00003249
吉村2015. 吉村誠「研究の現状と教材化─『万葉集』山部赤人「不盡山」歌を通して─」『研究論叢 芸術・体育・教育・心理』第64巻、山口大学教育学部、2015年1月。山口大学共同リポジトリ https://petit.lib.yamaguchi-u.ac.jp/24941
※2000年以前の論考については割愛した。梶川1997.の議論や井上2010.の山部赤人関係文献目録を参照されたい。