大伴家持がまだ若い頃に「妾」を亡くして詠んだとされる歌が万葉集の巻三に載る。万462番歌を皮切りに、弟の書持の「即和歌」一首を含めて万474番歌まで計十三首(長歌一首)あり、家持は深い悲嘆に暮れたと捉える見方が大勢を占めている。ここでは、そのうち最初の四首をあげる。歌い始めの最初の歌、万462番歌を詳しく読み解くためである。
十一年己卯の夏六月、大伴宿禰家持の、亡りし妾を悲傷びて作る歌一首〔十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首〕
今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか独り 長き夜を寝む〔従今者秋風寒将吹焉如何獨長夜乎将宿〕(万462)
弟大伴宿禰書持の即ち和ふる歌一首〔弟大伴宿祢書持即和謌一首〕
長き夜を 独りや寝むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに〔長夜乎獨哉将宿跡君之云者過去人之所念久尓〕(万463)
又、家持の、砌の上の瞿麦の花を見て作る歌一首〔又家持見砌上瞿麦花作謌一首〕
秋さらば 見つつ思へと 妹が植ゑし 屋前の石竹 咲きにけるかも〔秋去者見乍思跡妹之殖之屋前乃石竹開家流香聞〕(万464)
朔に移りて後に、秋風を悲嘆びて家持の作る歌一首〔移朔而後悲嘆秋風家持作謌一首〕
うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 思ひつるかも〔虚蟬之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞〕(万465)
書持の万463番歌の一・二句目にある「長き夜を独りや寝む」は、家持の万462番歌の四・五句目の「いかにか独り長き夜を寝む」を受けて言い換えているだけである。亡くなった人のことが思われるねえ、と言ったところで、そもそも家持は「悲二-傷亡妾一作歌」を歌っているのだから当たり前のことをくり返しているだけである。兄貴、あなたが寝られないと訴えている理由がわかるよ、亡くなったあの娘のことが自然と思われるよ、と同情した、それをわざわざ歌に拵えて周囲に聞かせたというのだろうか。書持の歌の意図は理解できないし、言語芸術になっていないことになる(注1)。
最初の一首に疑問がある。題詞に、夏六月のこととされながら歌詞に「秋風」とある。大切な人を亡くしたから夏でもうすら寒い風が吹いたと感じられたのだろうとか、暦のめぐりあわせだろうと考える向きがある(注2)。個人的な感慨は思うのは勝手でも、歌に作り声に出して訴えられたら心理カウンセリングの対象としなければならない。弟の書持はそこに狂気も不自然さも感じずに「即和歌」を作っている(注3)。暦意識が根づいていてその妙を捉えた歌とするなら、書持もそれに倣っていていいはずだがそうはしていない。そして、万465番歌に至っては、「移レ朔而後、悲二-嘆秋風一」と、性懲りもなく再び「秋風」の寒いことを歌っている。「移朔」、つまり、月が改まって秋七月一日になったら「秋風寒み」と詠んでも何の不思議もない。
そうなると、夏六月時点での万462番歌は、暦の話ではなく特別な修辞によって歌が作られていると考えなければならない(注4)。聞いている人がすぐにわかることが歌われている。相手が、そして周囲の人が理解できないことが仮に歌われたとしても、そのようなものはすぐに忘れられるから万葉集に残されることはない。
どういう状況のもと歌われたかは題詞に明記されている。題詞は歌の設定、枠組みを示すために置かれている。
ヲミナメ(妾)のことをミナツキ(六月)に歌っている。ミはともに甲類である。ミナという言葉が歌の全編を覆う仕掛けということだろう。ミナ(ミは甲類)には蜷という言葉がある。今日、ニナと呼んでいる巻貝である。巻貝のことを連想しているのは、マク(巻、纏)という動詞を意識してのことと考えられる(注5)。共寝することをマクと言った。歌っているのは大伴さんである。オホトモなのだから、トモに寝ることに齟齬はない。共寝、つまり、纏く蜷に当たるヲミナメ(妾)が突然亡くなった。ミマカル(亡)という言葉も、ミ(身、ミは乙類)+マカル(罷)の意で、マカル(罷)はマク(任)と同根の言葉である。ミナツキ(六月)なのに纏いて寝る相手がいなくなって独り寝を強いられている。そのことを歌っているのである。
水槽に吸着するカワニナ
人が亡くなっているのをネタにして駄洒落の歌を歌っている。倫理的にどうなのかと思うかもしれないが、この「妾」が家持とどのような関係にあったのかについては議論がある(注6)。実際に男女の関係にあったかは推測の域を出るものではない。家持が独り寝のことを歌っているからと言って、家持が実際にこの妾と共寝をしていたという証拠にはならない。なにしろ家持は、一連の「亡妾」の歌の冒頭で駄洒落の歌を歌っている。考え方によっては、身分が低く名も明かされない妾のことを追悼するのに歌に作って歌うということは、良い供養であると思われたかも知れないのである。
廣川2003.は宴席の場での歌だとしている。万462・463番歌は宴の晩に詠まれたものであろう。家持が、今からは秋風が寒く吹くことだろうよ、どうやって一人で長い夜を寝るつもりなのか、寝ないで宴を楽しもうよ、と歌ったのに対して書持は、長い夜を一人で寝るのか、いやいや寝ることなんてできないよ、蜷を食べていると亡ったを妾のことが自然と思い出されるもの、と答えている。楊枝のようなもので一生懸命にくるくるっと巻きながら「蜷の腸」(万804・1277・3295・3649・3791)(注7)を引き出していたところだったらしい。一人で寝られないとは、宴会で酒を飲んで酔っぱらい、寝そうになっている参加者を無理やり起こしていたということである。家持は最初の歌で、今、お配りしたのは蜷ですよ。宴も酣ではございますが、夜も押し詰まって参りますと六月なのに季節外れの秋風が寒く吹くことでしょうから、と言っている。亡くなった妾を弔うために、この長い夜、一人で寝るなんてことできないでしょう、いつまでも起きていて飲み明かしましょう、と盛り上げようとしていたのであった。
家持は地口、駄洒落で歌を作り、その意図が書持にも伝わり「即和歌」し、二人とも歓喜している。ミナ(ミは甲類)のことを言っているのだね、と書持がピンと来て「即和歌」して言語芸術は成立し、万葉集はその歌を収録している。万葉歌は知的な言語ゲームの成果であった(注8)。
(注)
(注1)秋風が吹いたら悲しくなるものだ、という日本的情緒(?)がこの歌で初めて表明されたのだといった感想は現在も語られるが、実証的でなく、学問の名に値しない。上野誠「『万葉集』はいかなる歌集か…日本文化+中国文明=万葉集?」(テンミニッツTV - 1話10分で学ぶ大人の教養講座)https://www.youtube.com/watch?v=M-BRU6YPc24(10:04~10:21、2024年12月25日閲覧)参照。
(注2)この天平十一年は、暦の上で六月二十四日が立秋のため、暦月と節月のずれを述べているとする見解(大濱1991.や廣岡2020.)がある。「年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年とやいはむ 今年とやいはむ」(古今集1)と同様だと考えるわけだが、題詞に「ふる年に春たちける日よめる」と断られている。家持にはホトトギスの歌をはじめ暦に基づいた歌があるが、その場合も題詞などに明記されている。そうしないと歌意がわからないからである。
(注3)廣川2003.は、「即和歌」とある場合、儀礼や宴席という場が存在するという。
(注4)鉄野2017.は、暦の上での立秋によって歌っているとする説を追認し、「父旅人の歌の表現や方法を踏襲し、それを露わに見せながら、一方ではそれと異なって、季節やそれによる景物の変化とともに妻の死を捉えようとする姿勢が見られる。」(8頁)という。
(注5)古典基礎語辞典には、「まく【負く】自動カ下二/他動カ下二 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。」(1103~1104頁。この項、須山名保子)とある。
(注6)この歌群については虚構論議が行われた。例えば中西1963.に、「第三者の「亡妾」であったか、全く架空であったかは不明だが、少くとも家持自身の事ではなかろうと考える。」(451頁)とある。現在、「亡妾」は実在したのか、家持との関係はいかなるものか、という事実をめぐる議論は下火となっている。例えば、鉄野2017.は、家持との間に「若子」(万467)を成しているはずとの立場から、「思うに、妻のような身近な人の死を悲しむ情は、時を経て初めて歌いうるのではないだろうか。死別の直後の悲哀は、後から振り返って自らを造形し直す以外には表現しえない。」(17頁)という。
(注7)「蜷の腸」は枕詞で「か黒き髪」を導いている。実体として使われている言葉ではないものの、身近な存在だったから形容するために用いられたのだろう。
(注8)歌人大伴家持について、その経歴と歌作とを結びつけて考えようとする傾向が強くなっている。しかし、そのようなことは可能なのか、また、有効なのか。現今でもドラマや舞台で活躍する俳優や、ライブや配信で人気の歌手がいる。顔、声、演技、歌唱に魅せられることがあるが、その人の真の人柄を知らないことも多い。親戚でも近所に住んでいるわけでもなく、会ったことすらないのがほとんどである。彼ら彼女らの実生活とその表現との間に強いて関連するところを探ることなど、週刊誌的、パパラッチ的、SNS的関心でしかないのではなかろうか。万葉集研究は変な方向へ向いていないだろうか。
(引用・参考文献)
有木1970. 有木節子「「亡妾歌」の真実─家持文学のアプローチとして─」『国文目白』第9号、1970年1月。
大濱1991. 大濱眞幸「大伴家持作「三年春正月一日」の歌─「新しき年の初めの初春の今日」をめぐって─」『日本古典の眺望 吉井巖先生古稀記念論集』桜楓社、平成3年。
小野寺1972. 小野寺静子「「悲二傷亡妾一歌」歌」『国語国文研究』第50号、北海道大学国語国文学会、昭和47年10月。
倉持・身崎2002. 倉持しのぶ・身崎寿「亡妾を悲傷しびて作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐藤1993. 佐藤隆『大伴家持作品論説』おうふう、平成5年。
鉄野2017. 鉄野昌弘「結節点としての「亡妾悲傷歌」」『萬葉』第224号、平成29年8月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2017
中西1936. 中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、昭和38年。(『万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
橋本2000. 橋本達雄『万葉集の時空』笠間書房、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。(「家持の亡妾悲傷歌─作品形成における季の展開について─」『三重大学日本語学文学』第4号、1993年5月。三重大学学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/10076/6466)
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
松田2017. 松田聡『家持歌日記の研究』塙書房、2017年。(「家持亡妾悲傷歌の構想」『国文学研究』第118巻、1996年3月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43573)
身﨑1985. 身﨑壽「「家持の表現意識─「亡妾悲傷歌」を例として─」『日本文学』第34巻第7号、日本文学協会、1985年7月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.34.7_23
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、平成22年。(「大伴家持亡妾を悲傷する歌群の特質」『広島女学院大学日本文学』第15号、2005年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/567)
十一年己卯の夏六月、大伴宿禰家持の、亡りし妾を悲傷びて作る歌一首〔十一年己卯夏六月大伴宿祢家持悲傷亡妾作歌一首〕
今よりは 秋風寒く 吹きなむを いかにか独り 長き夜を寝む〔従今者秋風寒将吹焉如何獨長夜乎将宿〕(万462)
弟大伴宿禰書持の即ち和ふる歌一首〔弟大伴宿祢書持即和謌一首〕
長き夜を 独りや寝むと 君が言へば 過ぎにし人の 思ほゆらくに〔長夜乎獨哉将宿跡君之云者過去人之所念久尓〕(万463)
又、家持の、砌の上の瞿麦の花を見て作る歌一首〔又家持見砌上瞿麦花作謌一首〕
秋さらば 見つつ思へと 妹が植ゑし 屋前の石竹 咲きにけるかも〔秋去者見乍思跡妹之殖之屋前乃石竹開家流香聞〕(万464)
朔に移りて後に、秋風を悲嘆びて家持の作る歌一首〔移朔而後悲嘆秋風家持作謌一首〕
うつせみの 世は常なしと 知るものを 秋風寒み 思ひつるかも〔虚蟬之代者無常跡知物乎秋風寒思努妣都流可聞〕(万465)
書持の万463番歌の一・二句目にある「長き夜を独りや寝む」は、家持の万462番歌の四・五句目の「いかにか独り長き夜を寝む」を受けて言い換えているだけである。亡くなった人のことが思われるねえ、と言ったところで、そもそも家持は「悲二-傷亡妾一作歌」を歌っているのだから当たり前のことをくり返しているだけである。兄貴、あなたが寝られないと訴えている理由がわかるよ、亡くなったあの娘のことが自然と思われるよ、と同情した、それをわざわざ歌に拵えて周囲に聞かせたというのだろうか。書持の歌の意図は理解できないし、言語芸術になっていないことになる(注1)。
最初の一首に疑問がある。題詞に、夏六月のこととされながら歌詞に「秋風」とある。大切な人を亡くしたから夏でもうすら寒い風が吹いたと感じられたのだろうとか、暦のめぐりあわせだろうと考える向きがある(注2)。個人的な感慨は思うのは勝手でも、歌に作り声に出して訴えられたら心理カウンセリングの対象としなければならない。弟の書持はそこに狂気も不自然さも感じずに「即和歌」を作っている(注3)。暦意識が根づいていてその妙を捉えた歌とするなら、書持もそれに倣っていていいはずだがそうはしていない。そして、万465番歌に至っては、「移レ朔而後、悲二-嘆秋風一」と、性懲りもなく再び「秋風」の寒いことを歌っている。「移朔」、つまり、月が改まって秋七月一日になったら「秋風寒み」と詠んでも何の不思議もない。
そうなると、夏六月時点での万462番歌は、暦の話ではなく特別な修辞によって歌が作られていると考えなければならない(注4)。聞いている人がすぐにわかることが歌われている。相手が、そして周囲の人が理解できないことが仮に歌われたとしても、そのようなものはすぐに忘れられるから万葉集に残されることはない。
どういう状況のもと歌われたかは題詞に明記されている。題詞は歌の設定、枠組みを示すために置かれている。
ヲミナメ(妾)のことをミナツキ(六月)に歌っている。ミはともに甲類である。ミナという言葉が歌の全編を覆う仕掛けということだろう。ミナ(ミは甲類)には蜷という言葉がある。今日、ニナと呼んでいる巻貝である。巻貝のことを連想しているのは、マク(巻、纏)という動詞を意識してのことと考えられる(注5)。共寝することをマクと言った。歌っているのは大伴さんである。オホトモなのだから、トモに寝ることに齟齬はない。共寝、つまり、纏く蜷に当たるヲミナメ(妾)が突然亡くなった。ミマカル(亡)という言葉も、ミ(身、ミは乙類)+マカル(罷)の意で、マカル(罷)はマク(任)と同根の言葉である。ミナツキ(六月)なのに纏いて寝る相手がいなくなって独り寝を強いられている。そのことを歌っているのである。
水槽に吸着するカワニナ
人が亡くなっているのをネタにして駄洒落の歌を歌っている。倫理的にどうなのかと思うかもしれないが、この「妾」が家持とどのような関係にあったのかについては議論がある(注6)。実際に男女の関係にあったかは推測の域を出るものではない。家持が独り寝のことを歌っているからと言って、家持が実際にこの妾と共寝をしていたという証拠にはならない。なにしろ家持は、一連の「亡妾」の歌の冒頭で駄洒落の歌を歌っている。考え方によっては、身分が低く名も明かされない妾のことを追悼するのに歌に作って歌うということは、良い供養であると思われたかも知れないのである。
廣川2003.は宴席の場での歌だとしている。万462・463番歌は宴の晩に詠まれたものであろう。家持が、今からは秋風が寒く吹くことだろうよ、どうやって一人で長い夜を寝るつもりなのか、寝ないで宴を楽しもうよ、と歌ったのに対して書持は、長い夜を一人で寝るのか、いやいや寝ることなんてできないよ、蜷を食べていると亡ったを妾のことが自然と思い出されるもの、と答えている。楊枝のようなもので一生懸命にくるくるっと巻きながら「蜷の腸」(万804・1277・3295・3649・3791)(注7)を引き出していたところだったらしい。一人で寝られないとは、宴会で酒を飲んで酔っぱらい、寝そうになっている参加者を無理やり起こしていたということである。家持は最初の歌で、今、お配りしたのは蜷ですよ。宴も酣ではございますが、夜も押し詰まって参りますと六月なのに季節外れの秋風が寒く吹くことでしょうから、と言っている。亡くなった妾を弔うために、この長い夜、一人で寝るなんてことできないでしょう、いつまでも起きていて飲み明かしましょう、と盛り上げようとしていたのであった。
家持は地口、駄洒落で歌を作り、その意図が書持にも伝わり「即和歌」し、二人とも歓喜している。ミナ(ミは甲類)のことを言っているのだね、と書持がピンと来て「即和歌」して言語芸術は成立し、万葉集はその歌を収録している。万葉歌は知的な言語ゲームの成果であった(注8)。
(注)
(注1)秋風が吹いたら悲しくなるものだ、という日本的情緒(?)がこの歌で初めて表明されたのだといった感想は現在も語られるが、実証的でなく、学問の名に値しない。上野誠「『万葉集』はいかなる歌集か…日本文化+中国文明=万葉集?」(テンミニッツTV - 1話10分で学ぶ大人の教養講座)https://www.youtube.com/watch?v=M-BRU6YPc24(10:04~10:21、2024年12月25日閲覧)参照。
(注2)この天平十一年は、暦の上で六月二十四日が立秋のため、暦月と節月のずれを述べているとする見解(大濱1991.や廣岡2020.)がある。「年のうちに 春は来にけり ひととせを 去年とやいはむ 今年とやいはむ」(古今集1)と同様だと考えるわけだが、題詞に「ふる年に春たちける日よめる」と断られている。家持にはホトトギスの歌をはじめ暦に基づいた歌があるが、その場合も題詞などに明記されている。そうしないと歌意がわからないからである。
(注3)廣川2003.は、「即和歌」とある場合、儀礼や宴席という場が存在するという。
(注4)鉄野2017.は、暦の上での立秋によって歌っているとする説を追認し、「父旅人の歌の表現や方法を踏襲し、それを露わに見せながら、一方ではそれと異なって、季節やそれによる景物の変化とともに妻の死を捉えようとする姿勢が見られる。」(8頁)という。
(注5)古典基礎語辞典には、「まく【負く】自動カ下二/他動カ下二 解説 マクは上代・中古で「負」「敗」「纏」「蜷」の訓として使われる。マク(負く)とマク(巻く)とは共に『名義抄』によるアクセントが「上平」で語源が同じ。マク(負く)はマク(巻く、カ四)の受身形で、相手の力に巻き込まれること、圧倒され動きがとれなくなることが原義。」(1103~1104頁。この項、須山名保子)とある。
(注6)この歌群については虚構論議が行われた。例えば中西1963.に、「第三者の「亡妾」であったか、全く架空であったかは不明だが、少くとも家持自身の事ではなかろうと考える。」(451頁)とある。現在、「亡妾」は実在したのか、家持との関係はいかなるものか、という事実をめぐる議論は下火となっている。例えば、鉄野2017.は、家持との間に「若子」(万467)を成しているはずとの立場から、「思うに、妻のような身近な人の死を悲しむ情は、時を経て初めて歌いうるのではないだろうか。死別の直後の悲哀は、後から振り返って自らを造形し直す以外には表現しえない。」(17頁)という。
(注7)「蜷の腸」は枕詞で「か黒き髪」を導いている。実体として使われている言葉ではないものの、身近な存在だったから形容するために用いられたのだろう。
(注8)歌人大伴家持について、その経歴と歌作とを結びつけて考えようとする傾向が強くなっている。しかし、そのようなことは可能なのか、また、有効なのか。現今でもドラマや舞台で活躍する俳優や、ライブや配信で人気の歌手がいる。顔、声、演技、歌唱に魅せられることがあるが、その人の真の人柄を知らないことも多い。親戚でも近所に住んでいるわけでもなく、会ったことすらないのがほとんどである。彼ら彼女らの実生活とその表現との間に強いて関連するところを探ることなど、週刊誌的、パパラッチ的、SNS的関心でしかないのではなかろうか。万葉集研究は変な方向へ向いていないだろうか。
(引用・参考文献)
有木1970. 有木節子「「亡妾歌」の真実─家持文学のアプローチとして─」『国文目白』第9号、1970年1月。
大濱1991. 大濱眞幸「大伴家持作「三年春正月一日」の歌─「新しき年の初めの初春の今日」をめぐって─」『日本古典の眺望 吉井巖先生古稀記念論集』桜楓社、平成3年。
小野寺1972. 小野寺静子「「悲二傷亡妾一歌」歌」『国語国文研究』第50号、北海道大学国語国文学会、昭和47年10月。
倉持・身崎2002. 倉持しのぶ・身崎寿「亡妾を悲傷しびて作る歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第八巻 大伴家持(一)』和泉書院、2002年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
佐藤1993. 佐藤隆『大伴家持作品論説』おうふう、平成5年。
鉄野2017. 鉄野昌弘「結節点としての「亡妾悲傷歌」」『萬葉』第224号、平成29年8月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/2017
中西1936. 中西進『万葉集の比較文学的研究』南雲堂桜楓社、昭和38年。(『万葉論集 第一巻 万葉集の比較文学的研究(上)』講談社、1995年。)
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
橋本2000. 橋本達雄『万葉集の時空』笠間書房、2000年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。(「家持の亡妾悲傷歌─作品形成における季の展開について─」『三重大学日本語学文学』第4号、1993年5月。三重大学学術機関リポジトリhttp://hdl.handle.net/10076/6466)
廣川2003. 廣川晶輝『万葉歌人大伴家持─作品とその方法─』北海道大学大学院文学研究科、2003年。
松田2017. 松田聡『家持歌日記の研究』塙書房、2017年。(「家持亡妾悲傷歌の構想」『国文学研究』第118巻、1996年3月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43573)
身﨑1985. 身﨑壽「「家持の表現意識─「亡妾悲傷歌」を例として─」『日本文学』第34巻第7号、日本文学協会、1985年7月。J-STAGE https://doi.org/10.20620/nihonbungaku.34.7_23
森2010. 森斌『万葉集歌人大伴家持の表現』溪水社、平成22年。(「大伴家持亡妾を悲傷する歌群の特質」『広島女学院大学日本文学』第15号、2005年12月。広島女学院大学リポジトリhttps://hju.repo.nii.ac.jp/records/567)