古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「頂(いなだき)に きすめる玉は 二つ無し」(万412)について

2025年03月12日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻三・譬喩歌に載る次の歌では、キスムという珍しい語が用いられている。

  市原王いちはらのみこの歌一首〔市原王歌一首〕
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに〔伊奈太吉尓伎須賣流玉者無二此方此方毛君之随意〕(万412)(注1)

 「きすむ」という語は万葉集でこの一例、他に播磨風土記に類例がある。

伎須美野きすみの 右、伎須美野となづくるは、品太ほむたの天皇すめらみことみよ大伴連おほとものむらじ等、此処ここを請ひし時、国造くにのみやつこくろわけして、地状くにのかたちを問ひたまふ。の時、こたへてまをさく、「へるきぬひつの底にきすめるが如し」とまをす。故、伎須美野と曰ふ。〔伎須美野 右号伎須美野者、品太天皇之世、大伴連等請此処之時、喚国造黒田別、而問地状。爾時対曰、縫衣如蔵櫃底。故曰伎須美野〕(播磨風土記・賀毛郡)

 これらをもって「きすむ」という語は、大切な品をしまう、隠しておく、の意であると考えられている(注2)
 播磨風土記の例を、櫃の底の方に一張羅の服をしまっておいたという意と捉えたのである。
 しかし、「縫衣」を「櫃底」にキスムことが、箪笥の奥の一番下に札束をしまっておくように蔵することだというのはおかしい。反物屋を営んでいるわけではない家では、ストッカーである「櫃」には、上から下まで「縫衣」を入れておくはずである。縫っていない衣はすぐには着れない。縫っていない衣の下に、櫃の底に、すぐ着れる「縫衣」を入れておくという状況は、設定としてかなり特殊なこととしてしかあり得ない。物色する相手をたぶらかすための工夫ということになる。
 万葉集巻三・譬喩歌に載る次の歌では、キスムという珍しい語が用いられている。
  市原王いちはらのみこの歌一首〔市原王歌一首〕
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに〔伊奈太吉尓伎須賣流玉者無二此方此方毛君之随意〕(万412)(注1)
 「きすむ」という語は万葉集でこの一例、他に播磨風土記に類例がある。
伎須美野きすみの 右、伎須美野となづくるは、品太ほむたの天皇すめらみことみよ大伴連おほとものむらじ等、此処ここを請ひし時、国造くにのみやつこくろわけして、地状くにのかたちを問ひたまふ。の時、こたへてまをさく、「へるきぬひつの底にきすめるが如し」とまをす。故、伎須美野と曰ふ。(伎須美野 右号伎須美野者、品太天皇之世、大伴連等請此処之時、喚国造黒田別、而問地状。爾時対曰、縫衣如蔵櫃底。故曰伎須美野)(播磨風土記・賀毛郡)
 これらをもって「きすむ」という語は、大切な品をしまう、隠しておく、の意であると考えられている(注2)
 播磨風土記の例を、櫃の底の方に一張羅の服をしまっておいたという意と捉えたのである。
 しかし、「縫衣」を「櫃底」にキスムことが、箪笥の奥の一番下に札束をしまっておくように蔵することだというのはおかしい。反物屋を営んでいるわけではない家では、ストッカーである「櫃」には、上から下まで「縫衣」を入れておくはずである。縫っていない衣はすぐには着れない。縫っていない衣の下に、櫃の底にすぐ着れる「縫衣」を入れておくという状況は、設定としてかなり特殊なこととしてしかあり得ない。物色する相手をたぶらかすための工夫ということになる。
 「縫衣」を「櫃底」の位置に置いている。そして、それが何かある事情、それも卑近な光景として知られているありさまとして述べている。そうでなければコミュニケーションとして成り立たない。
 そのような状況設定について考えると、「櫃」は服をしまうストッカー以外の目的で使われているものになる。当時の櫃には正倉院の財宝がおさめられているような四角いもの以外にも、米櫃や飯櫃のようなものがある。
 櫃の底に縫った衣を入れておくことは、ご飯のお櫃の中に下敷いて蒸れを取る役割をする場合がある。
 だが、そのことをキスムという語が表しているとは思われない。
 他の可能性を考えてみれば、キ(酒、キは甲類)+スム(澄)、つまり、酒を濾している様子が思い浮かぶ。濁り酒を縫った衣、つまり、あるいは袋状の布を櫃の底とし、そこへ流し込んで濾過して清酒にする。じっくりと滲み出させるのである。
 結桶・結樽は中世になって登場する。古代には丸い櫃が使われ、大きなものでも曲げ物で作られていた。今日でも目にする絹篩のように、縁が曲げ物の輪になっていて、底を縫った衣で作った道具が使われていたのだろう。
 正倉院文書に「清酒」、「清」とあり、平城宮跡出土木簡に「清酒」、また、伝飛鳥板蓋宮跡出土の木簡に「須弥酒」の名をみる。関根1969.に、「文書例で滓、濁と対比しているのは、清酒が濁り気のない酒であったからだろう。……酒滓をみるから、当然酒と滓との分離が行なわれていたのであり、恐らく上澄みか、布様のもので(濾カ)過したものかであったろう。延喜造酒司式造酒雑器中に 「篩料絹五尺」、「篩料薄絁五尺」、「糟垂袋三百廿条〈二百四十条酒料、度別六十条、八十条酢料、度別廿条、竝以商布一段八条、一年四換〉」と、酒を瀘過したと思われる裂類がみえ、奈良時代にもかような用具で濾して清酒を得たに相違ない。」(266頁)とある。スミサケと呼ばれていたと思われる。
 播磨風土記のキスミ野のありさまは、周囲が山に囲まれた野であり、そこへ濁った水が流れ込むが、出てくる水は澄んでいたということのようである。「縫衣如蔵櫃底」は、「縫衣如櫃底」ではなく、「縫衣如蔵櫃底」、つまり、「へるきぬきすみ櫃底ひつぞこの如し」と訓み、縁を立てた円盤状の形、オオオニバスの葉のような形に仕立てたことを言っているものと思われる。「蔵」字を酒を濾す意と考えて支障がないのは、酒滓(酒糟、酒粕)をすくい集めるからである。「蔵」字はツムとも訓み、アツム(集)と類語であると考えられている。「玉藻刈りめ〔玉藻苅蔵〕」(万360)とある。
 この意であると仮定すると、万葉集の市原王の歌も趣向が変わってくる。
 いなだきに きすめる玉は 二つ無し かにもかくにも 君がまにまに(万412)
 「いなだき」はイタダキの音転とされている。頭頂部の髪のまとめ方、ここではいわゆる「束髪於額ひさごはな」のことを言っているものと考えられる(注3)
 是の時に、厩戸皇うまやとのみ束髪於額ひさごはなにして、〈いにしへひと年少児わらはの、年十五六とをあまりいつつむつの間は、束髪於額にし、十七八とをあまりななつやつの間は、分けて角子あげまきにす。今亦しかり。〉いくさうしろしたがへり。(崇峻前紀)
 ひさごの花のように髪をひと束ねに結い上げた形である。ひさご、つまり、瓢箪の花のような形にまとめている。花が終わると膨らんできて瓢箪になるところを頭蓋骨部と譬えている。瓢箪は容器として用いられ、種、水、そして、酒を入れておいた。酒は須恵器の瓶、壺に入れて保存貯蔵され、持ち運んで行って飲むときには瓢箪に小分けされた。大陸から伝わっていた古代の瓢箪は、今日よく知られているような腰のくびれたものではなく、丸かった。つまり、「いなだきにきすめる玉」とは、清酒を入れた瓢箪を一つ、私はお持ちしました、ということである。
 その証拠に、この歌の作者は市原王である。イチハラノミコというのだから、マーケットに関わりがある歌を歌って聞く人を楽しませているものと推測される。市場では商品の売り買いをする。瓢箪、つまり、ウリ(瓜)の一種に入れて売るものと言えば澄んだ酒である。当時の瓢箪の栽培法は定かではないが、棚作りせずとも畑で地面の上で実るから、ハラ(原)の産物である。ミコという呼び名は、特徴的な髪型をしていたウマヤトノミコ(厩戸皇子)を連想させる。年齢的にそういう髪型をしていたようである。そんな「束髪於額ひさごはな」のくっついている瓢箪の入れ物は二つとない。その清酒すみさけをどうするか、あるいは飲んで酔っ払ってしまった私をどうするか、あなた様にすべてお任せします、と洒落を言っているのであった。
玉三つ(ユウガオ(ウリ科)、11月、実が熟し溶けた様子)

(注)
(注1)「頭の上に結んだ髻(もとどり)の中に大切にしまった玉は二つとないものです。どのようにもあなたの思し召しのままに。」(新大系文庫本291頁)と現代語訳されている。仏典では、王が結髪の中に秘蔵する宝玉を髻中けいちゅうの明珠というとし、それに基づいた歌ということになっている。愛娘を髻中の珠に譬え、信頼する若者に託したのがこの歌の趣旨であるとしている(古典集成本、西宮1984.、伊藤1996.、阿蘇2006.、多田2009.も同様)。参照歌として次の歌があげられている。
 あも刀自とじも 玉にもがもや いただきて みづらの中に あへかまくも(万4377)
 新室にひむろの 壁草刈りに いましたまはね 草のごと 寄りあふ娘子をとめは 君がまにまに(万2351)
 第一例では、母君も玉であってほしい、もしそうであったなら、みづらの中に巻き込めてしまうものを、と仮定して歌っている。設定が説明されているから譬えられているとわかる。一方、万412番歌ではその説明はなく、当たり前のこととして髻中けいちゅうの明珠に譬えられているのだとされている。作者の市原王が仏典・漢籍に精通していたからそう歌われたのだとする考えであるが、聞く側は初耳の話である。一人よがりのモノローグになり、コミュニケーションは成立しない。そもそも愛娘を大切にして隠しているのに、婿殿がすでに決まっているというのは矛盾している。
 「此方此方毛」は、コナタカナタモと訓むべきとする説(例えば、澤瀉1958.487頁)もあり、あなたのお心のまにまに何方へなりと従いましょう、の意であると解している。西宮1984.は、コナタ・カナタという語は当時存在しなかったという。
(注2)キスムを独立語と認め、「キスムはヲサむる事なり」(井上通泰・萬葉集新考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909/1/260)とするのが現在の潮流である。「キスメルは、来住也」(仙覚・萬葉集註釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/970584/1/79)、「きすめるは令著なり」(契沖・万葉代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979062/1/381)、「伎は久々里の約にて紋なり、須売流はスヘルるなり」(賀茂真淵・万葉考、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1913084/1/163)、「伎は笠ヲキルなどのキルに同じ。……スメルは統にて、」(橘千蔭・万葉集略解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1019539/1/30、本居宣長説所引)、播磨風土記のキスミは「櫃底」で万412番歌のキスメルは「著澄める」とする説(土屋1976.183頁)も唱えられてきた。また、山﨑2024.は、キスムという語の用例が少ないことを指摘し、慎重な取扱いが求められるとして判断を保留している。菅家文草269「寄白菊四十韻」の「紫襲衣蔵筺 香浮酒満罇」を例にあげ、それらを全体的に考察する必要性を説いているが、播磨風土記の「縫衣」と同等に扱うことは的外れのように思われる。
(注3)井上通泰・萬葉集新考は、「箭蔵頭髻」(景行紀四十年)や「各以儲弦于髪中」(神功紀元年三月)、「乃斮-取白膠木、疾作四天皇像、置於頂髪」(崇峻前紀)について、「皆髻珠とは目的を異にせり」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909/1/260)としている。「髻珠」という考え方のほうが異例であり、疑われなければならない。

(引用・参考文献)
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 二』笠間書院、2006年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注 二』集英社、1996年。
井上1928. 井上通泰『萬葉集新考 第一』国民図書、昭和3年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1225909
澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第三』中央公論社、昭和33年。
古典集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮日本古典集成 万葉集一〈新装版〉』新潮社、平成27年。
新大系文庫本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)』岩波書店(岩波文庫)、2013年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解 1』筑摩書房、2009年。
土屋1976. 土屋文明『萬葉集私注 二(新訂版)』筑摩書房、昭和51年。
西宮1984. 西宮一民『萬葉集全注 巻第三』有斐閣、昭和59年。
山﨑2024. 山﨑福之「「蔵」とヲサム・ツム・カクル・コモル」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。

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