古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

山部赤人の難波宮の歌(万933)について─巻六配列付け足し説─

2024年12月09日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集巻第六の万928~934番歌において、笠金村、車持千年、山部赤人の作歌がつづいている。

  冬十月、難波宮なにはのみやいでましし時に、笠朝臣金村かさのあそみかなむらの作る歌一首〈并せて短歌〉〔冬十月幸于難波宮時笠朝臣金村作謌一首〈并短謌〉〕
 おしてる 難波なにはの国は 葦垣あしかきの りにし里と 人皆の 思ひ休みて つれも無く ありしあひだに 続麻うみをなす 長柄ながらの宮に 真木柱まきばしら 太高ふとたか敷きて 食国をすくにを をさめたまへば 沖つ鳥 味経あぢふの原に もののふの 八十やそともは いほりして 都なしたり 旅にはあれども〔忍照難波乃國者葦垣乃古郷跡人皆之念息而都礼母無有之間尓續麻成長柄之宮尓真木柱太高敷而食國乎治賜者奥鳥味経乃原尓物部乃八十伴雄者廬為而都成有旅者安礼十方〕(万928)
  反歌二首〔反謌二首〕
 荒野あらのらに 里はあれども 大君おほきみの 敷きます時は 都となりぬ〔荒野等丹里者雖有大王之敷座時者京師跡成宿〕(万929)
 海人あま娘子をとめ 棚なし小舟をぶね 漕ぎらし 旅の宿りに かぢおと聞こゆ〔海未通女棚無小舟榜出良之客乃屋取尓梶音所聞〕(万930)
  車持朝臣千年くるまもちのあそみちとせの作る歌一首〈并せて短歌〉〔車持朝臣千年作謌一首〈并短哥〉〕
 鯨魚いさなとり 浜辺はまへを清み うちなびき ふる玉藻たまもに 朝凪あさなぎに 千重ちへなみ寄せ 夕凪ゆふなぎに 五百重いほへ波寄す つ波の いやしくしくに 月にに 日に日に見とも 今のみに 飽きらめやも 白波の い咲きめぐれる 住吉すみのえの浜〔鯨魚取濱邊乎清三打靡生玉藻尓朝名寸二千重浪縁夕菜寸二五百重波因邊津浪之益敷布尓月二異二日日雖見今耳二秋足目八方四良名美乃五十開廻有住吉能濱〕(万931)
  反歌一首〔反歌一首〕
 白波の 千重に来寄きよする 住吉の 岸の黄土はにふに にほひてかな〔白浪之千重来縁流住吉能岸乃黄土粉二寶比天由香名〕(万932)
  山部宿禰赤人やまべのすくねあかひとの作る歌一首〈并せて短歌〉〔山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉〕
 天地あめつちの 遠きがごとく 日月ひつきの 長きがごとく おしてる 難波なにはの宮に わご大君おほきみ 国知らすらし 御食みけつ国 日の御調みつきと 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば〔天地之遠我如日月之長我如臨照難波乃宮尓和期大王國所知良之御食都國日之御調等淡路乃野嶋之海子乃海底奥津伊久利二鰒珠左盤尓潜出船並而仕奉之貴見礼者〕(万933)
  反歌一首〔反謌一首〕
 朝凪あさなぎに かぢおと聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし〔朝名寸二梶音所聞三食津国野嶋乃海子乃船二四有良信〕(万934)

 これらの歌は、神亀二年(725)の聖武天皇難波行幸の際に詠まれたものと考えられている。なかには、金村、千年、赤人の「三歌人による連作的なものを感じる」(久米1970.668頁)とされることもあるが、それぞれの歌を吟味すると、「赤人は金村、千年の作を聞き知った上で(前々からの分担としてではなく)、自己の歌の内容を工夫していったことになる。」(坂本1989.49頁)との指摘もある。題詞に「冬十月、幸于難波宮時」と期日指定があるのは最初の笠金村の歌(万928~930)である。車持千年と山部赤人の歌についてはただ後に続けて記されているだけのこと、いつ詠まれたのかは不明である。車持千年の歌(万931・932)には「住吉」と地名が出てきて難波宮から行っていると考えられるわけだが、それがいつのことか本当のところはわからない。ただ、歌意に特段際立ったところはなく、笠金村同様、神亀二年十月の、平城京から行幸した時の作と見ても齟齬は起こさない(注1)
 一方、山部赤人の歌(万932・933)の場合、歌の言葉に「難波宮」とあり、笠金村の歌にある「長柄の宮」とは呼び方が異なっている。笠金村が行幸に従って歌ったとき、そこはいまだ天皇が常在する都ではなく、あくまで「行幸」である。対して、山部赤人が歌っている時は、「難波宮」が既成事実化している後期難波宮の時、あるいはそこへの遷都が現実味を帯びていた時の歌であると考えられるのである(注2)。つまり、赤人歌は、正式な都にふさわしく造営工事をした後に歌われているということになる。実際、神亀四年以降、造成工事が進められている(「造難波宮雇民、免課役并房雑徭。」(神亀四年二月)、「知造難波宮事従三位藤原朝臣宇合等已下、仕丁已上、賜物各有差。」(天平四年三月)、「正五位下石川朝臣枚夫為造難波宮長官。」(天平四年九月)、「陪従百官衛士已上、并造難波宮司・国郡司・楽人等、賜禄有差。免-奉難波宮東西二郡今年田租調、自余十郡調。」(天平六年三月)、「班-給難波京宅地。三位以上一町以下、五位以上半町以下、六位以下四-分一町之一以下。」(天平六年九月)、「任装束次第司。為難波宮也。」(天平十六年正月))。
 難波京遷都は、恭仁京遷都同様、聖武天皇が決めたことである。だが、天平十六年(744)に恭仁京にあって、都をどこにするか朝議に諮っている。不思議なことが行われている。

○閏正月乙丑の朔に、詔して百官を朝堂に喚し会へ、問ひて曰はく、「恭仁・難波の二京、いづれをか定めて都とむ。おのおの、其の志をまをせ」とのたまふ。是に、恭仁京の便宜へんぎぶるひと、五位已上廿四人、六位已下百五十七人なり。難波京の便宜を陳ぶる者、五位已上廿三人、六位已下一百卅人なり。○戊辰に、従三位巨勢朝臣奈弖麻呂・従四位上藤原朝臣仲麻呂を遣し、市に就きて京を定むる事を問ふ。市の人、皆恭仁京を都と為むことを願ふ。但し、難波を願ふ者一人。平城ならを願ふ者一人有り。(続紀・天平十六年閏正月)

 こうなってくると俄然形勢が変わる。遷都のために「行幸」しそうな気配が出てくる。正式な都をどこと定めているのか、以下、続紀の行幸、遷都、宮にまつわる記事を見ていく。

天平十六年(744)閏正月
○乙亥(11日)、天皇行-幸難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・民部卿従四位上藤原朝臣仲麻呂留守。是日、安積親王、縁脚病桜井頓宮還。
同二月
○二月乙未(1日)、遣少納言従五位上茨田王于恭仁宮、取駅鈴・内外印。又追諸司及朝集使等於難波宮
○丙申(2日)、中納言従三位巨勢朝臣奈弖麻呂、持留守官所給鈴印、詣難波宮。以知太政官事従二位鈴鹿王・木工頭従五位上小田王・兵部卿従四位上大伴宿禰牛養・大蔵卿従四位下大原真人桜井、大輔正五位上穂積朝臣老五人、為恭仁宮留守。治部大輔正五位下紀朝臣清人・左京亮外従五位下巨勢朝臣嶋村二人、為平城宮留守
○甲辰(10日)、幸和泉宮
○丁未(13日)、車駕自和泉宮至。
○甲寅(20日)、運恭仁宮高御座并大楯於難波宮、又遣使取水路-漕兵庫器仗
○乙卯(21日)、恭仁京百姓情-願遷難波宮者、恣聴之。
○丙辰(22日)、幸安曇江-覧松林。百済王等奏百済楽
○戊午(24日)、取三嶋路、行-幸紫香楽宮。太上天皇及左大臣橘宿禰諸兄、留在難波宮焉。
○庚申(26日)、左大臣宣勅云、今以難波宮定為皇都。宜此状、京戸百姓任意往来
同三月
○三月甲戌(11日)、石上・榎井二氏、樹大楯槍於難波宮中外門
○丁丑(14日)、運金光明寺大般若経、致紫香楽宮。比朱雀門、雑楽迎奏、官人迎礼。引導入宮中、奉安殿。請僧二百、転読一日。
○戊寅(15日)、難波宮東西楼殿、請僧三百人、令大般若経
同四月
○夏四月丙午(13日)、紫香楽宮西北山火。城下男女数千余人、皆趣伐山。然後火滅。天皇嘉之、賜布人一端。
○丙辰(23日)、以始営紫香楽宮、百官未成、司別給公廨銭。惣一千貫。交閞取息、永充公用。不-失其本。毎年限十一月、細録本利用状、令太政官
同七月
○秋七月癸亥(2日)、太上天皇幸智努離宮
○戊辰(7日)、太上天皇幸仁岐河。陪従衛士已上、無男女、賜禄各有差。
○己巳(8日)、車駕還難波宮
同十月
○庚子(11日)、太上天皇行-幸珎努及竹原井離宮
○壬寅(13日)、太上天皇還難波宮
同十一月
○癸酉(14日)、太上天皇幸甲賀宮
○丙子(17日)、太上天皇自難波至。

 「和泉宮」や「紫香楽宮」、「智努離宮」などはこの時点で都ではなく、あくまでも行幸したり法事をさせた先の行宮である。天平十五年十二月には「至是、更造紫香楽宮。仍停恭仁宮造作焉。」こととなり、あまり恭仁京の居心地は良くなかったようである。そして、天平十六年二月には難波京へ遷都し、天平十六年時点で「還」る所として「難波宮」をあげている。ただし、「恭仁京」、また、「平城宮」に「留守」官を置いている。
 この情勢を総合的に勘案すると、二京態勢(複都制)をとって難波京を定めたものと考えられる。複数の都を置く形をとって新たに「難波宮」にて天皇が「国知らす」時、天平十六年に歌われたのが、赤人歌であったと推定される。以下、その仮説を検証する。
 長歌では、前半に難波宮で天皇が統治することが歌われている。後半では淡路の野島の海人が鰒を取って珠を献上することが歌われている。一首だけある反歌では、長歌後半の野島の海人のことだけを承けてその船の楫の音が聞こえると歌っている。長歌と反歌との関係として、後半だけしか反映していないところは不審と言わざるをえない(注3)
 この関係をどう捉えたらいいか。上代の人の身になって検討する。事は上代の人の常識において理解されなければならない。そうでなければこの歌が歌われることも、万葉集に採録されることもないからである(注4)
 長歌前半部の冒頭四句「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」については、慶雲四年七月の詔(第三詔)にある、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く不改常典あらたむましじきつねののり」が意識されているとする説(注5)が有力視されている。
 この「不改常典あらたむましじきつねののり」については、嫡系相続の原理を天智天皇が定めたフカイジョウテンなるものがあったと推測され、ほとんど定説化している。大宝令以前に近江令があったと推測されもするが、記録に見られない。筆者は、そのようなものはなかったと考えている。天皇の位は、親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが自然な流れとされよう。しかし、後継者として皇太子が定められているにもかかわらず、事情があって時にイレギュラーな嗣ぎ方をすることがある。天智天皇(中大兄)は舒明・皇極天皇の子であり成人していたが、蘇我氏を滅ぼしたクーデターの後、自分では位を継がずに叔父に当たる孝徳天皇(軽皇子)に譲り、自らは皇太子の地位のまま政治に参与した。同様のことが起きていたことについて、文武天皇が語っているのが第三詔である。祖母の持統天皇の言葉として、幼い自分が持統から位を譲られつつ共治する形をとったことを述べている。第五詔では、元明天皇がその娘でありながらも独身の元正天皇へ位を譲ったことについて述べていて、以後は元明系列の子孫を天皇にするようにと言っている。聖武天皇(首皇子)はまだ幼かった。第十四詔では、聖武天皇が叔母に当たる元正天皇から譲位されたときに聞いたことを述べている。それらを「不改常典あらたむましじきつねののり」と呼んでいる。すなわち、「不改常典あらたむましじきつねののり」とは、世の中にはいろいろと決まりがあって天皇位の継嗣順も親子、兄弟、夫婦へと引き継がれるのが通例だと決まってはいるが、そんな決まり事を超えて臨機応変に対処すべきであることを指している。時に超法規的な措置を講ずることによって世の中は丸くおさまり、「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」天皇代は続くのである。情勢により、決まりに縛られないでうまく進めること、それこそが、どんなことがあっても改めるには及ばない、決まりごとを超えた決まりごとなのである(注6)
 「不改常典」という典範が存在していたわけではなかった。歌においてももちろん、それに従った文言として「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しが歌われているわけではない。そもそも、詔に登場する「天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠く」という文言とは言い方が違うではないか。言葉が違えば言い表したいことは違う。一般には、「天地が悠遠であるように、日月が長久であるように、」難波宮で我が天皇は国をお治めになるらしい、という意に解されている。けれども、そう捉えることには障りがある。短期間に遷都をくり返している聖武天皇に対して、今度こそ難波宮に落ち着いてくださいね、と言っているように疑われてしまう。臣下の分際で何を抜かすかということになる。
 歌は言葉でできている。歌われて言葉は空中を飛んでいる。聞き返すということがない。「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」という言い回しの後、「おしてる難波なには……」と聞いたなら、それはただの形容にすぎないとすぐに理解されたであろう。すなわち、「おしてる」と言えば「難波なには」と続くことは、天地が遠いように、日や月が長いようにあることなのである。「おしてる」は枕詞で、しかも他の言葉にかかることのないものである(注7)。将来的にもこの決まり文句は揺るがない。そのことを形容して「天地あめつちの遠きがごとく日月ひつきの長きがごとく」と大仰に述べている。言っていることがその時その場で理解可能になっている。恭仁京へ遷都したのが天平十二年(740)、四年後の天平十六年(744)には難波宮へと遷っている。宮都を造りながら遷ることに節操がないと非難する意見もあっただろうし、天皇自身も自らの首都計画がうまく行っていないことに忸怩たる思いがあったかもしれない。そういう不協和音を自動的に消す働きを担うことになりそうな言い回しが、「おしてる難波なには」という常套句である。「おしてる」は絶対に「難波」にかかり、今後ともそうであろうから、それと同様に、難波宮の新都経営も悠久の時を刻むことになる可能性を秘めていると隠し述べることになっている。そこがこの赤人歌の真骨頂ということになる。
 では、なぜ続けて野島の海人のことが歌われているのか。
 すでに指摘されているように、野島の海人の真珠取りのことが関係する。故事として允恭紀に載るとおりである。允恭天皇は淡路島へ狩りに出かけた。しかし、嶋の神のたたりで一向に獲れず、神の言にしたがって赤石あかし(明石)の海底の真珠を捧げることとなった(注8)

 十四年の秋九月の癸丑の朔にして甲子に、天皇すめらみこと淡路嶋あはぢのしまかりしたまふ。時に、麋鹿おほしかさる莫々紛々ありのまがひに、山谷にてり。ほのほのごと起ちはへのごとさわく。然れども終日ひねもすひとつししをだに獲たまはず。是に、かり止めて更にうらなふ。嶋の神、たたりてのたまはく、「獣を得ざるは、是我が心なり。赤石あかしの海の底に真珠しらたま有り。其の珠を我にまつらば、ふつくに獣を得しめむ」とのたまふ。ここに更に処々ところどころ白水郎あまつどへて、赤石の海の底をかづかしむ。海深くして底に至ることあたはず。唯しひとり海人あま有り。男狭磯をさしと曰ふ。これ阿波国あはのくに長邑ながのむらの人なり。もろもろの白水郎にすぐれたり。是、腰に縄をけて海の底に入る。やや須臾しばらくありて出でてまをさく、「海の底に大蝮おほあはび有り。其の処れり」とまをす。諸人もろひと、皆はく、「嶋の神のこはする珠、ほとほとに是の蝮の腹に有るか」といふ。亦入りて探く。ここに男狭磯、大蝮をむだきてうかび出でたり。乃ちおきえて、浪の上にみまかりぬ。既にして縄をおろして海の深さを測るに、六十むそひろなり。則ち蝮をく。まことに真珠、腹のなかに有り。其の大きさ、桃子もものみの如し。乃ち嶋の神をまつりて猟したまふ。さはに獣を獲たまひつ。唯、男狭磯が海に入りてみまかりしことをのみ悲びて、則ち墓を作りて厚くはぶりぬ。其の墓、なほ今までうせず。(允恭紀十四年九月)

 淡路島は狩りの盛んな猟場かりにはであった(注9)。ニハがとり上げられている。そして、今、赤人が歌にしようとしているところは、ナニハ(難波)である。難波のニハは朝廷(朝庭)のニハ、朝から政をするニハである。
 歌は言葉でできていて空中を飛んでいる。だからその瞬間にわかるものでなければどうにもならない。ニハのことを言っているんだ、おもしろいことをいうねぇ、と皆思ったから、歌として聞かれて拍手喝采され、記憶に留まるに至っている。題詞に「山部宿祢赤人作歌一首〈并短歌〉」とあって「山部宿祢赤人讃難波宮歌一首〈并短歌〉」などとないのは当然のことである。ニハの洒落を歌にしただけであり、難波宮讃歌でも天皇を寿いだ歌でもない。ナニハがニハとしてあるためには、対岸の淡路島についても由緒あるところなのだからニハとしてきちんと機能してもらわなければならず、嶋の神の祟りをやすめ祀るため鰒を取って真珠を捧げる必要があった。淡路島がニハであることを強調するためにとってつけたように「御食みけつ国」として定位し、毎日、御調みつきを献上する役目を果していることに話を作っている。言いたいことはニハの洒落だけであり、毎日、実際に食べ物を運んでいたと考える必要はない。「鰒珠」を真珠とすると食べられないから矛盾するので別案をあげる向きもあるが、洒落の通じない輩は相手にならない。毎日でも海人の男狭磯をさしが深く海に潜って真珠をとっていれば淡路島はニハとして安泰ということになるからである。
 ナニハの宮についてニハをとり上げるため、淡路のことをとり立てている。それはそれで良いとしても、難波宮と淡路とは直接の関係はない。とり上げて述べた理由は何だろうか。
 その答えは、長歌のなかに出てくる「海石いくり」と反歌から窺うことができる。反歌には「かぢの音聞こゆ」とある。これも故事として伝わっていた。記紀に歌謡が載る。

 枯野からのを しほに焼き が余り 琴に作り くや 由良ゆらの 門中となか海石いくりに ふれ立つ なづの木の さやさや(記74、紀41)

 老朽化した大型船を塩焼きの燃料に使ったという話である。燃え残ったところを琴に作って奏でたところ、海のなかの「海石いくり」にふれた木が「さやさや」と音をたてたというのである。山部赤人の長歌の後半と反歌は、そのことを踏まえて詠んでいると考えられる。

 …… 淡路あはぢの 野島のしま海人あまの わたの底 おき海石いくりに 鰒珠あはびたま さはかづ 船めて 仕へまつるし たふとし見れば(万933)
 朝凪あさなぎに かぢの音聞こゆ 御食みけつ国 野島のしま海人あまの 船にしあるらし(万934)

 「さやさや」という音のことを思っている。鞘鞘と二つ鞘がある。「二鞘の」という言い方がある。

 人言ひとごとを しげみか君の 二鞘ふたさやの〔二鞘之〕 家をへなりて 恋ひつつをらむ(万685)

 刃物を二本、入れておく鞘があった。だからこそ、長歌で難波のことと淡路のことの二つを一緒に歌にしていた。そうするには意味があった。難波宮は複都である。都が二つあるから入れるところが二つある鞘のことを持ち出している。当時の人たちの考えにおいて、すべての辻褄が合う。過誤の余地なく歌は完成している。上代においてはそのことをもって名歌と呼んでも過言ではないだろう。

(注)
(注1)坂本氏ほか、これらの歌を「難波宮讃歌・・」とする前提で議論を始める向きがあり承服し難い。
(注2)その間にも神亀三年十月の印南野行幸の際に難波宮へ還って来ていたり、天平六年(734)三月、天平十二年二月にも難波宮へ行幸している。最後の例では「留守」を決めて出掛けている。
(注3)現行の解釈では、必ずしも不思議がられているわけではない。長歌前半の八句は「一首における総論の機能を果たしている」(伊藤1996.320頁)とし、「野島の海人」のさまを視覚的に詠まんがためのものであり、反歌も「野島の海人」のことを聴覚的に歌ったものであると捉えられている。車持千年が難波行幸時に住吉へも出向いたときに歌われているように、山部赤人も難波行幸時に海岸から淡路の野島を臨んで詠んだというのである。
(注4)万葉集編纂の際に、この山部赤人歌も神亀二年の作であると誤解されていた可能性もなくはない。都をどこに定めるか決められない天皇像を思い起こさせる歌だからこんなところへ引っ付けたのだと考える。
(注5)吉井1984.71頁。吉井氏は、不改常典を嫡子による皇位相続の原則と見、「今、文武天皇の嫡子である聖武天皇の即位の翌年、最初の難波宮行幸であるので、赤人が、聖武の即位を期待して即位した元明の詔を思わせる表現で、聖武の治政を讃えたのはきわめて適切であったといえる。聖武天皇の難波宮造営は、複都制を定めた天武天皇の継承といえる。」(同71〜72頁)と述べている。この議論はあり得ない。赤人は何様のつもりで上から目線で天皇を讃えているのか想像がつかず、けっして許されるものとは思われない。
(注6)拙稿「「不改常典」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3bddbb4328249f122b7eb1c665c3ff83参照。
(注7)拙稿「枕詞「おしてる」「おしてるや」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/966680300fa50239c38ae3a90e1588a5参照。枕詞のなかには、「ももづたふ」のように「角鹿つぬが」、「度会わたらひ」、「ぬて」、「磐余いはれ」などさまざまな語にかかるものがあるが、「おしてる」や「おしてるや」は必ず「難波なには」にかかり、他の語にはかからない。
(注8)この話については、拙稿「允恭紀、淡路島の狩りの逸話、明石の真珠について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/17d842a2bc10d3783b29a39e7b44b4e8参照。
(注9)応神紀二十二年九月にも記載がある。猟場のことも漁場のこともニハという。

 武庫むこの海の 庭よくあらし いざりする 海人あま釣船つりふね 波のうへゆ見ゆ(万3609)
 猟場にはたのしびは、膳夫かしはでをしてなますつくらしむ。(雄略紀二年十月)

(引用・参考文献)
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釋注 三』集英社、1996年。
梶川1997. 梶川信行『万葉史の論 山部赤人』翰林書房、1997年。
久米1970. 久米常民『万葉集の文学論的研究』桜楓社、昭和45年。
神野志1975. 神野志隆光「赤人の難波行幸歌─天皇の世界と海人─」『萬葉の風土・文学』塙書房、平成7年。
栄原2006. 栄原永遠男「行幸からみた後期難波宮の性格」栄原永遠男・仁木宏編『難波宮から大坂へ』和泉書院、2006年。
坂本1987. 坂本信幸「山部赤人─難波宮従駕作歌をめぐって─」『論集万葉集 和歌文学の世界 第十一集』笠間書院、昭和62年。
鈴木2024. 鈴木崇大『山部赤人論』和泉書院、2024年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中野渡2014. 中野渡俊治「天平十六年難波宮皇都宣言をめぐる憶説」(続日本紀研究会編『続日本紀と古代社会』塙書房、2014年。
橋本2018. 橋本義則『日本古代宮都史の研究』青史出版、平成30年。
仁藤2015. 仁藤敦史「留守官について」舘野和己編『日本古代のみやこを探る』勉誠出版、2015年。
吉井1984. 吉井巌『万葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。

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