(承前)
(注)
(注1)上代文学における、記の八咫烏記事の先行研究の一つに坂根2011.がある。発話文の解釈を定めるものである。
「八咫烏」、「頭八咫烏」の訓みについては、紀の古訓にヤタカラス、ヤタノカラスなどとあるが、「八尺鏡訓二八尺一、云二八阿多一。」(記上)と訓注で指定され、「尺」は「咫」と通用していると考えられてヤアタカガミとしているのに従ってヤアタカラスとした。
(注2)アタとアダの清濁の違いについて無視することはできない。古典基礎語辞典に、「アタは近世中期までは清音であったが、敵対するものの意をカタキが表すようになるにつれ、アタは主に、害やうらみなどのよくないことを表すようになった。一方、アダ(徒)も無益・無用の意を表すので両者の混同が起こり、アタ[(仇・敵)]がアダになったと考えられる。」(32頁。この項、白井清子)とある。五来2004.は、言葉の時代考証を欠いている。
(注3)「「儒者に曰く、「日中に三足の烏有り、月中に兔・蟾蜍有り」と。(儒者曰、日中有三足烏、月中有兔蟾蜍。)」(論衡・説日)、「一日方に至り、一日方に出で〈交会し相代るを言ふ也〉、皆烏〈中に三足の烏有り〉を載す。(一日方至、一日方出〈言交会相代也〉、皆載于烏〈中有三足烏〉。)」(山海経・大荒東経)などとある。
(注4)無文字時代のヤマトコトバにおける思惟に、言葉は事柄を表す、あるいは、極力同じにしようと志す傾きがあった。その時、言葉には言霊が宿るものと考えていた。ところが、今日一般に古代の言霊信仰といえば、言葉にはすべからく霊力や呪力が備わっているものと信じられていたことと捉えられている。誤解である。文字がないとき言葉は音でしかない。発する言葉、受け取る言葉に担保となるものが見当たらない。証文をとることもできなければ、漢字でどう書くかによって言葉の理解の一助にすることもできない。そこでヤマトの人々は、言葉と事柄とが必ず同一になるように使おうとした。その結果、言葉には事柄が必ず貼りついているようになり、嘘偽りがなく社会の安定に資することとなった。
しかし、言葉には同音異義語がある。音の数は限られているから生じている。そうなると言葉が必ずしも事柄を表さない誤解が起こってしまう。大前提が崩れてしまうことをヤマトの人は嫌ったから、その不協和な事態を解消するために音が同じなら同じ事柄を表していると認められるべく、概念規範のほうを展開、駆使させた。すなわち、同音なら同事という命題を遵守して言葉を使い、言葉を定義しながら逐次言葉を用いるような仕業をくり広げていったのである。そういう次第で言葉にはまるで霊魂でもあるかのように感じられたから、それを言霊と呼んだのである。
大浦2019.に、「上代における「言霊」という語の用法が万葉集の三例に限られること、その他の文献には全く見られないことを認識しつつ、「言霊信仰」を当時の民俗生活全般に及ぼし、また始原的に存在したものとして捉えることは、古代の「言霊」というものに対して現代の側に形作られた信仰─現代における「言霊」信仰─の様相すら呈しているように思われてならないのである。」(125頁)とある。大浦のいう「言霊」ならびに「言霊信仰」は、従来の考え方に基づいている。万葉集の「言霊」三例は、次の歌である。
…… そらみつ 倭の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ……(万894)
言霊の 八十の衢に 夕占問ひ 占正に告る 妹は相寄らむ(万2506)
磯城島の 倭の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ(万3254)
万894・3254番歌は、対外交渉の結果から、我が国の言葉の特徴が、言=事、それも口に発した音声言語が事柄と同じであることの優位性に気づいたことから使われている。中国の漢字は、一字→一音→一義として決められている。しかし、例えば同じ音の「提」と「啼」、「災」と「栽」が同じ事柄を表すとは言えない。それに対してヤマトコトバは、同じ音なら同じ概念に基づいていると丸めこんでしまう戦略をとったのである。
無文字時代におけるヤマトコトバの特徴によって、巧みに操る者が優位な地位を得て、知恵にまさることで勢力の拡大を見た。音声でしかない言葉を発したその時点で相手を納得、調伏させるには、言向け和す言語能力が必要であった。そして、「名に負ふ」人はその名のとおりに行動することが求められ、逆にまた、あり方や行動に従って命名されてもいた。一見、無関係に思われる言葉に関しても、互いに関連づけるような説話が物語られたり一口話が作られて、こじつけにも思える洒落や地口が横行しており、現代の感覚ではおよそ無意味に感じられる地名譚も数多く残されている。
カラス(烏)とカラス(枯)とが同じ音だからといって同根の言葉であったかどうかはわからない。それでも言葉を一から理解しようとする人にとっては、crow は水を好まないように見えて wither 的な鳥だろう、wither は kill と同等の意であろう(注5参照)、kill をいうコロス(殺)とその鳥の鳴き声のコロクはよく似ているだろう、ということになれば、アハ、なるほどね! と腑に落ちるのである。そのとき、カラスという鳥の名は、まったくもって他の言い方では示すことのできない揺るぎないヤマトコトバとして人々の間で共有される。
これは決して語源という形で突き止められるものではない。そもそも語源なるものは証明できるものではなく、縄文時代からとするなら5000年、10000年の単位で使われているヤマトコトバのうち、たかだか1300年ほど前に表れた文字資料によって何となく理解しているに過ぎない。そうではなく、記紀万葉に残されている上代資料から、当時の人々がどのような感覚でヤマトコトバを用いていたか、その語感を探るべきである。そのことは、彼らの概念規範を理解することになる。ものの考え方がわかるということは、その時代のことがまるごとわかるということである。しかし、今日では、ロゴスの学よりもマテリアルの学が好まれる時代になってしまっている。言語においても、文字というマテリアルな次元でばかり思考されており、上代人の思惟に近づくことはできずにいる。
(注5)白川1995.に、「鳥獣の類に「殺す」というのは、草木の類を「枯らす」というのと相対するものであろう。」(346頁)とある。
(注6)この個所の訓読について、現在通行しているものに誤りがあるので改めている。拙稿「神武東征譚における熊野での熊の話」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/85d0190d2bc4024b9c0144cf1986c2db参照。
(注7)赤羽2008.に、「熊は隈に宿る」、「隈に潜むもの」と小題があり、「熊の語源に「隈」がある。「奥まった暗い場所」「光と闇の接するところ」「かたすみ」「ふち」などの意味を綴っていくと、熊の行動の跡をなぞっていることになるのである。」(257頁)としている。語源説は際限がないため論じても仕方がないが、連関をもって用いられていたことは確かであろう。
(注8)「委曲」について、マツブサニ、ツバヒラケキコトといった訓が試みられている。マツブサニは、十分に、完全に、の意、ツバヒラケシは、くわしい、ものの端々までよくわかることをいう。状況としては、天神と雉とでは声の高さや音色は違えども、雉の鳴女は天神の詔を一言半句違えずに伝えていることを言っている。雉が言葉を理解してこんこんと説いているのではなく、理解はしていないがそのとおりにオウム返しをしていると考えられる。すると、ここでは、ツバラニ、ツバラカニ、また、ツバラツバラニという訓み方がふさわしいと考えられる。隈なく、まんべんなく、しみじみと、の意である。鳴女は間諜なのだから隈に潜みながら偵察活動をしている。意味合いを考えればそれらの訓みは正しいと明かされる。雉は一音一音再現してみせているのだから、ツバラツバラニと訓みたいところである。
浅茅原 つばらつばらに〔曲曲二〕 物思へば 故りにし郷し 思ほゆるかも(万333)
朝びらき 入江漕ぐなる 楫の音の つばらつばらに〔都波良都波良尓〕 吾家し思ほゆ(万4065)
…… 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも〔委曲毛〕 見つつ行かむを ……(万17)
…… 筑波嶺を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに〔委曲尓〕 示したまへば ……(万1753)
難波潟 潮干のなごり よくも見む〔委曲見〕 家なる妹が 待ち問はむため(万976)
(注9)本当にスパイらしいスパイとして諜報活動している記事としては、紀では、上にあげた推古紀にある新羅の者ばかりとされている。
直木2009.は、古代の日本では、スパイについて「せいぜい宮廷貴族内での勢力争いに利用されただけで、国際的な活動をしていた朝鮮半島の諜者とは、スケールがちがう。」(103頁)とする。これは、滝川1984.の、「推古天皇の御代、我が朝廷が百済の僧観勒を貢進せしめて、遁甲の術を伝習せしめられたのは、半島にある我が軍が、新羅の間諜のために屢々悩まされた苦い経験によって、我が国人も遁甲の術を学んでこれに対抗する必要が痛感されたからである。」(295頁)とする説に対抗するものである。直木2009.は、滝川1984.が、間諜者迦摩多の渡来と、翌推古十年に百済僧の観勒の来日して遁甲方術の書を貢したこととをあわせて、我が国の忍術の源流を求めた点について、「間諜と遁甲の術とをむすびつけ、忍者の源流とする構想は、古代における間諜の役目や性格を矮小化するもの」(104頁)と批判する。筆者は、忍術の源流であるウカミ(間諜、斥候)は、天佐具女(天探女)やヤアタカラスにすでに現れていると考えている。スパイ活動に身を紛らせることは当たり前のことで、遁甲の術に通じていておかしくないし、誰だかわからないのが間諜の要件なのだから、失敗例の迦摩多をもってスパイ活動の全貌を知ろうとすることは本末転倒である。
偵察による諜報活動は、よほどの功績や政権の大転換でもない限り、歴史の表舞台に詳解されることはない。今日でも、英国の諜報員は、逆スパイになってバレでもしなければ名前すら知られずに終わる。程度の差はあれ、本邦でも従前より当然のこととして行われていたものと考えられる。武家名目抄・第二に、「忍者〈又間者・諜者と称す〉……按忍者はいはゆる間諜なり、故に或は間者といひ又諜者とよふ。……古来間諜の術をなせしもの諸書に注する所少なからすといへとも其名目を載せさるは悉くこゝにもらせり」(170~175頁、漢字の旧字体は改め、適宜訓み下し句読点を補った)とある。
(注10)オニ(鬼)という言葉については判断が難しい。時代別国語大辞典に、「仮名書きの確例はなく、オニの上代語としての存在が疑われている。……しかし、日本書紀古訓から遡って、……「鬼・魑魅」がオニとして考えられたものとすることに特に支障もない。第三例[霊異記中二五話]の鬼は仏教的なものであるが、それも含めて上代に近い用例として引き得るすべてのオニが鬼人としての形態を示している。「……天皇崩二于朝倉宮一…是夕於二朝倉山上一有レ鬼、著二大笠一臨二視喪儀一」(斉明紀七年)の「鬼」は神が姿をあらわしたものかと思われる。現在、法隆寺金堂増長天の邪鬼が残ることから、上代人が鬼に対する概念をもっていたことがわかる。「続断於尓乃也加良」(鬼の矢柄か)「馬勃於尓布須倍」(鬼燻べであろう) (本草和名)のような植物名もオニのイメージを知る手がかりになろう。」(152~153頁)、古典基礎語辞典に、「オニという語は中古から見える。オニを表す漢字「鬼き」は、中国で死者の霊をいう。「鬼」の字を『万葉集』ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。……オニは冥界に属する、姿を見せない存在だったが、仏教の羅刹らせつ(大力・暴虐で人を食うという)などとの混同が起こり、中古末期以後は、異形の怪物で人を害する恐ろしい賊などもオニというようになった。中世末期の『日葡辞書』には、オニは「悪魔。または、悪魔のように見える恐ろしい形相」とある。上代以来、陰陽道による年中行事として、朝廷では十二月三十日に追儺ついな(鬼遣おにやらい)をして疫鬼を追う儀式をした。これがのちに節分の豆まきとして行われるものとなった。中国から入った「鬼」という観念と、日本のモノ(怨霊。のちに物怪もののけという)という観念とが影響し合って、オニが成り立った。」(246頁、この項、須山名保子)とある。国際日本文化センター・怪異・妖怪画像データベース「鬼;オニ,牛車;ギッシャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0061_0003_0000.html)、ならびに拙稿「オニ(鬼)のはじまり」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/495a4403b1942d7a8abc633cdf510b99参照。
(注11)なかでもコクマルガラスの賢さについては、ローレンツ1963.に詳しい。
(注12)例えば、チビという蔑称のような愛称は、「小さし」によっている。
(注13)狐を稲荷の神の使いとするのは、御食津神を三狐神と付会した俗信からとする説がある。天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記に、「御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神」とあり、三狐神をミケツカミと訓み、御饌津神のことであろうとすることによっている。五来2010.は、「『物類称呼』(二)には、「関西にてしべて、けつねと呼ぶ也」とあり、れっきとした登録語なのである。……動物としての狐をはなれてケツネということばを詮索してみると、御饌津神と言うように、ケは食物や稲のことである。……ツは「の」という意味で、ネは根元、あるいは先祖ということだから、ケツネは「食物の根元」あるいは「食物をあたえる先祖」ということになる。ことばとしてのケツネは、すでに稲荷神の宇迦之魂神や保食神と同体なのである。」(29~30頁)とする。また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘している。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったとする。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
論としては興味深いが、狐をケツネという例は、関西地方の方言や江戸期の本朝食鑑などにあるばかりで、上代にそのような言い方がされていた証左はない。万葉3824番歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。
さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ(万3824)
本草和名に「狐陰茎 和名岐都禰」、和名抄に「狐 考声切韻に云はく、狐〈音は胡、岐豆禰〉は獣の名にして射干なり、関中に呼びて野干と為るは語の訛れるなりといふ。孫愐に曰はく、狐は能く妖怪と為り、百歳に至りて化けて女と為る者なりといふ。」、名義抄に「狐 キツネ クツネ」とある。説文には、「狐 䄏獣也、鬼の乗れる所、三つの徳有り、其の色中和、小さき前大きなる後、死するに則ち丘に首むかふ、犬に从ひ瓜声」とある。稲荷社とキツネとの語学的関係については、拙稿「稲荷信仰と狐」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/e922fd95ff532a8e2f55e3db6ea885dc参照。本稿で、稲荷社と狐、専女の関係が意識されていることが理解されたことは、稲荷信仰と狐との結びつきが、語学的に言って、相当に根深いものであることを予感させる。イナリに稲荷という字を当てた魂胆は、上代からすでに指向されていたということになる。
(注14)国際日本文化研究センター・怪異・妖怪画像データベース「牛鬼;ウシオニ,火車;カシャ,亡者;モウジャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0379_0001_0006.html)参照。
(注15)奈良国立博物館収蔵品データベース(https://www.narahaku.go.jp/collection/644-0.html)参照。
(注16)「火車 西国雲州薩州の辺。又は東国にも間々ある事にて。葬送のとき。俄に大風雨ありて。往来人を吹き倒す程の烈しき時。葬棺を吹き上げ吹き飛ばす事あり。其時。守護の僧珠数を投げかくれば異事なし。若左なきときは。葬棺を吹き飛ばし。其尸を失ふ事あり。是を火車に捉まれたるとて。大に恐れ恥づる事なり。愚俗の言伝に。其人生涯に悪事を多くせし罪により。地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後に其尸を引き裂き。山中の樹枝。又は岩頭などに掛け置く事あり。火車と名付くるは。仏者よりいひ出だしたる事にて。……其火車に捉まれたるといふは。和漢とも多くある事にて。是は魍魎といふ獣の所為なり。罔両とも。方良とも書く。酉陽雑俎に。周礼方相氏歐二罔象一。好食二亡者肝一。而畏二虎与一レ柏。墓上樹レ柏。路口致二石虎一為レ此也とあり。此獣葬送の時。間々出でゝ災をなす。故に漢土にては聖人の時より。方相氏といふものありて。熊皮をかぶり。目四つある形に作り。大喪の時は。柩に先立ちて墓所に至り。壙に入りて戈を以て。四隅をうち。此獣を殴る事あり。是を険道神といふ。事物紀原に見えたり。此邦にても。親王一品は方相轜車を導く事。喪葬令に見ゆ。 今俗葬送に龍頭を先きに立つるも。其遺意なり。時珍の綱目に。述異記を引きて。秦の時陳倉の人。猟して此獣を得たり。形に若レ彘若レ羊とあり。古より。愚俗の誤りて火車と名くるゆゑ。地獄の火車と思ふ。笑ふべし……」(茅窓漫録・下巻)とある。
(注17)拙稿「轜車について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd57f8689ef57db4f0ca8bdc742ae16参照。
(注18)古典基礎語辞典に、「あたり【辺り】……アタル(当たる)と同根。上代には、人や動物の居る場所として見当をつけた所を表した。」(34頁、この項、白井清子)、白川1995.に、「あたり〔辺(邊)〕 その一帯のところ。周辺をいう。「當る」と同根の語で、いわゆる見当というのに近い。」(70頁)とある。
(注19)それが他の諸言語の無文字時代の説話の多くにも該当することなのか、不勉強でわからない。
(注20)日本霊異記・上・「狐を妻として子を生ましむる縁 第二」に、「故、其の相生ましめし子の名を岐都禰と号く。亦、其の子の姓を直と負ほす。」とある。「直」に「狐直」と校訂されることがあるが誤りである。狐は伊賀専女のことだとわかっているから、アタアタ話として「直」を「与へ」るに「値」するという地口である。語用論的調和(pragmatic symmetry)の極みと言える。この点が理解されなければ無文字に生きた人々の言語観には到達できない。
(注21)この追儺や午王符に関しては、言葉の連関の可能性を示唆しているにすぎない。時代考証的に、すべての項目が無文字的発想に基づいているとは認めきれない。追認する形で成り立っている印象を受けることを述べた。
(注22)発語において、「朕……」といえば天皇のそれであるし、『暴れん坊将軍』に「予……」といえば徳川将軍吉宗のそれとわかるのと同じである。
(注23)蒲谷・松田1996.に、コクマルガラスの鳴き声は、英文では、“t’yak,t’yak”、“tchak-ak”、“kia”、“kraare”、“chaair”、“tchak-ak”などの記載があり、日本人には、キャッ、キャッという甲高い音に聞こえるとしている。
(注24)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a4da9b05e9aee34901bb20e05d7878aほか参照。
山上憶良の貧窮問答歌に、甑の話が載る。
…… 竈には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて ……(万892)
甑の形と蜘蛛の巣の形とを掛けた高次の修辞表現である。
(注25)景行紀に、「八月に、的邑に到りて進食したまふ。是の日に、膳夫等盞を遺る。故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今的と謂ふは訛れるなり。昔筑紫の俗、盞を号けて浮羽と曰ひき。」(景行紀十八年八月)とある。膳夫という職掌名は、神饌に餅を供える食器の「葉盤」などがカシハ(柏・槲)の葉を重ねてできていることによる。ヒラデについては、新撰字鏡に「𦲤〓(𦲤の亻の代わりに石) 比良天又久保天」、和名抄に「葉手 漢語抄に葉手〈比良天〉と云ふ。」とある。イクハ~ウキハという音韻的なジョークは、豊後風土記に知られる的と餅との密接な関係に支えられている。
槲御膳(木村孔恭・蒹葭堂雑録・巻一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2562884/1/28をトリミング)
そして、甑で蒸した餅米から酒を造り、やはり神に捧げた。その容器が盞である。新編全集本日本書紀の「浮羽」の注に、「「盃うきは(どうしたか)」の意であったかとする説がある。」(363頁)とあり、飯田武郷・日本書紀通釈・第三に、「惜二-哉朕酒盞一と宣し所なりと云。……〈此紀に朕之酒盞者也。なと詔ひし御言なけれは。羽ノ字の義解かたし。……〉さてかく盞者也と詔ひ出て。惜しみ玉へるは。尋常の御物にはあらし。世に珍き大御酒坏にてそありけらし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933890/1/120~121)とある。新釈全訳日本書紀は、「盞を忘れたことからウキハとなる理由は、サカヅキをウキハということによると次文にある。『釈紀』述義「公望私記」に引く「筑後国風土記』逸文では、天皇がこの村に酒盞を忘れたといい、「天皇勅して曰はく、惜(アタラ)しかな、朕が酒盞(ウキ)はや〈俗の語に、酒盞を云ひて宇枳(ウキ)と為す〉。困りて宇枳波夜(ウキハヤ)の郡と曰ふ。後の人、誤りて生葉(イクハ)の郡と号づく」という。ウキということばから地名を説明しようとするものである。『風土記』は、盞(ウキ)とイクハとをつなぐべく、ウキハヤ(ウキよ、ああ、という天皇のことばとうけとられる)がイクハに訛ったという。『日本書紀』が、盞をいう「筑紫俗」のことばがウキハだったとして説明するのに対して、天皇とつなぐために別な解釈をもとめたか。古訓ウクハとあるが、「浮」字にひかれたものか、イクとの音通をもとめたか。」(481頁)と迷宮入りしている。
膳夫等は、的邑での食事会なのだから、餅ばかり作ればいいと思っていた。だから酒の用意をしなかった。土器や木器の盞は持って行かないで、葉盤ばかり用意していた。そんな葉盤は、水に「浮き葉」である。複数の葉っぱで編み作って水に浮かぶ大きな葉っぱの姿に作られている。的邑なのだから、餅を的にしたら鳥になって飛んでいったように、軽くて「浮き羽」になるものがふさわしいと考えていた。しかし、主人たちがしたいのは風流の宴席である。曲水の宴などできたら最高なのに、「浮き葉」では「浮きは」するが、酒を酌んで流したら漏れ出て水に置き換わる。さかずきを揚げて酌み交わそうにも肝心の中身の酒が漏れてしまう。弓の的に餅を使うことが本末転倒で死絶荒廃したように、浮きはするが酒が保てない容器も本末転倒で台無しである。きわめて論理学的な思考から、イクハ~ウキハのジョークがたしなまれている。
(注26)無文字文化に暮らしていた人と、文字を獲得してからの人とでは、言葉に対する感覚は様相を異にする。いったん文字に慣れてしまうと、無文字時代の言葉の感覚は理解しにくいものになる。記紀の話の多くにおいて、現代人の頭でっかちな捉え方では、肌感覚として腑に落ちないものばかりである。記紀の話は、今日の人とは別の文化圏に暮らしていた人たちが残した、異世界のテキストということになる。記紀研究の目標とは何か。ヤマトコトバのジグソーパズルを並べ当てはめ、一枚の絵を完成させることである。現代人が手中にある設計図を当てがってみても何の意味もない。オング1991.参照。
(引用・参考文献)
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大浦2019. 大浦誠士「コトと「言霊」」上野誠・大浦誠士・村田右富実編『万葉をヨム─方法論の今とこれから─』笠間書院、令和元年。
大森2011. 大森惠子『稲荷信仰の世界』慶友社、2011年。
オング1991. W・J・オング、桜井直文・林正寛・糟谷啓介訳『声の文化と文字の文化』藤原書店、1991年。
蒲谷・松田1996. 蒲谷鶴彦・松田道生『日本野鳥大鑑 鳴き声333【下】』小学館、1996年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
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時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
集成本古事記 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
滝川1984. 滝川政次郎『公事師・公事宿の研究』赤坂書院、昭和59年。
直木2009. 直木孝次郎「古代朝鮮における間諜について」『古代の動乱』吉川弘文館、2009年。
武家名目抄・第二 故実叢書編集部編『新訂増補 故実叢書』明治図書出版、昭和30年。
柳田国男「産婆を意味する方言」 『柳田国男全集 第二十七巻』筑摩書房、2001年所収。
ローレンツ1963. コンラート・ローレンツ、日高敏隆訳『ソロモンの指環』早川書房、1963年。
※本稿は、2014年3~4月稿を2019年10月に改稿し、さらに2024年12月に加筆してルビ形式にしたものである。
(注)
(注1)上代文学における、記の八咫烏記事の先行研究の一つに坂根2011.がある。発話文の解釈を定めるものである。
「八咫烏」、「頭八咫烏」の訓みについては、紀の古訓にヤタカラス、ヤタノカラスなどとあるが、「八尺鏡訓二八尺一、云二八阿多一。」(記上)と訓注で指定され、「尺」は「咫」と通用していると考えられてヤアタカガミとしているのに従ってヤアタカラスとした。
(注2)アタとアダの清濁の違いについて無視することはできない。古典基礎語辞典に、「アタは近世中期までは清音であったが、敵対するものの意をカタキが表すようになるにつれ、アタは主に、害やうらみなどのよくないことを表すようになった。一方、アダ(徒)も無益・無用の意を表すので両者の混同が起こり、アタ[(仇・敵)]がアダになったと考えられる。」(32頁。この項、白井清子)とある。五来2004.は、言葉の時代考証を欠いている。
(注3)「「儒者に曰く、「日中に三足の烏有り、月中に兔・蟾蜍有り」と。(儒者曰、日中有三足烏、月中有兔蟾蜍。)」(論衡・説日)、「一日方に至り、一日方に出で〈交会し相代るを言ふ也〉、皆烏〈中に三足の烏有り〉を載す。(一日方至、一日方出〈言交会相代也〉、皆載于烏〈中有三足烏〉。)」(山海経・大荒東経)などとある。
(注4)無文字時代のヤマトコトバにおける思惟に、言葉は事柄を表す、あるいは、極力同じにしようと志す傾きがあった。その時、言葉には言霊が宿るものと考えていた。ところが、今日一般に古代の言霊信仰といえば、言葉にはすべからく霊力や呪力が備わっているものと信じられていたことと捉えられている。誤解である。文字がないとき言葉は音でしかない。発する言葉、受け取る言葉に担保となるものが見当たらない。証文をとることもできなければ、漢字でどう書くかによって言葉の理解の一助にすることもできない。そこでヤマトの人々は、言葉と事柄とが必ず同一になるように使おうとした。その結果、言葉には事柄が必ず貼りついているようになり、嘘偽りがなく社会の安定に資することとなった。
しかし、言葉には同音異義語がある。音の数は限られているから生じている。そうなると言葉が必ずしも事柄を表さない誤解が起こってしまう。大前提が崩れてしまうことをヤマトの人は嫌ったから、その不協和な事態を解消するために音が同じなら同じ事柄を表していると認められるべく、概念規範のほうを展開、駆使させた。すなわち、同音なら同事という命題を遵守して言葉を使い、言葉を定義しながら逐次言葉を用いるような仕業をくり広げていったのである。そういう次第で言葉にはまるで霊魂でもあるかのように感じられたから、それを言霊と呼んだのである。
大浦2019.に、「上代における「言霊」という語の用法が万葉集の三例に限られること、その他の文献には全く見られないことを認識しつつ、「言霊信仰」を当時の民俗生活全般に及ぼし、また始原的に存在したものとして捉えることは、古代の「言霊」というものに対して現代の側に形作られた信仰─現代における「言霊」信仰─の様相すら呈しているように思われてならないのである。」(125頁)とある。大浦のいう「言霊」ならびに「言霊信仰」は、従来の考え方に基づいている。万葉集の「言霊」三例は、次の歌である。
…… そらみつ 倭の国は 皇神の 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ……(万894)
言霊の 八十の衢に 夕占問ひ 占正に告る 妹は相寄らむ(万2506)
磯城島の 倭の国は 言霊の 助くる国ぞ ま幸くありこそ(万3254)
万894・3254番歌は、対外交渉の結果から、我が国の言葉の特徴が、言=事、それも口に発した音声言語が事柄と同じであることの優位性に気づいたことから使われている。中国の漢字は、一字→一音→一義として決められている。しかし、例えば同じ音の「提」と「啼」、「災」と「栽」が同じ事柄を表すとは言えない。それに対してヤマトコトバは、同じ音なら同じ概念に基づいていると丸めこんでしまう戦略をとったのである。
無文字時代におけるヤマトコトバの特徴によって、巧みに操る者が優位な地位を得て、知恵にまさることで勢力の拡大を見た。音声でしかない言葉を発したその時点で相手を納得、調伏させるには、言向け和す言語能力が必要であった。そして、「名に負ふ」人はその名のとおりに行動することが求められ、逆にまた、あり方や行動に従って命名されてもいた。一見、無関係に思われる言葉に関しても、互いに関連づけるような説話が物語られたり一口話が作られて、こじつけにも思える洒落や地口が横行しており、現代の感覚ではおよそ無意味に感じられる地名譚も数多く残されている。
カラス(烏)とカラス(枯)とが同じ音だからといって同根の言葉であったかどうかはわからない。それでも言葉を一から理解しようとする人にとっては、crow は水を好まないように見えて wither 的な鳥だろう、wither は kill と同等の意であろう(注5参照)、kill をいうコロス(殺)とその鳥の鳴き声のコロクはよく似ているだろう、ということになれば、アハ、なるほどね! と腑に落ちるのである。そのとき、カラスという鳥の名は、まったくもって他の言い方では示すことのできない揺るぎないヤマトコトバとして人々の間で共有される。
これは決して語源という形で突き止められるものではない。そもそも語源なるものは証明できるものではなく、縄文時代からとするなら5000年、10000年の単位で使われているヤマトコトバのうち、たかだか1300年ほど前に表れた文字資料によって何となく理解しているに過ぎない。そうではなく、記紀万葉に残されている上代資料から、当時の人々がどのような感覚でヤマトコトバを用いていたか、その語感を探るべきである。そのことは、彼らの概念規範を理解することになる。ものの考え方がわかるということは、その時代のことがまるごとわかるということである。しかし、今日では、ロゴスの学よりもマテリアルの学が好まれる時代になってしまっている。言語においても、文字というマテリアルな次元でばかり思考されており、上代人の思惟に近づくことはできずにいる。
(注5)白川1995.に、「鳥獣の類に「殺す」というのは、草木の類を「枯らす」というのと相対するものであろう。」(346頁)とある。
(注6)この個所の訓読について、現在通行しているものに誤りがあるので改めている。拙稿「神武東征譚における熊野での熊の話」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/85d0190d2bc4024b9c0144cf1986c2db参照。
(注7)赤羽2008.に、「熊は隈に宿る」、「隈に潜むもの」と小題があり、「熊の語源に「隈」がある。「奥まった暗い場所」「光と闇の接するところ」「かたすみ」「ふち」などの意味を綴っていくと、熊の行動の跡をなぞっていることになるのである。」(257頁)としている。語源説は際限がないため論じても仕方がないが、連関をもって用いられていたことは確かであろう。
(注8)「委曲」について、マツブサニ、ツバヒラケキコトといった訓が試みられている。マツブサニは、十分に、完全に、の意、ツバヒラケシは、くわしい、ものの端々までよくわかることをいう。状況としては、天神と雉とでは声の高さや音色は違えども、雉の鳴女は天神の詔を一言半句違えずに伝えていることを言っている。雉が言葉を理解してこんこんと説いているのではなく、理解はしていないがそのとおりにオウム返しをしていると考えられる。すると、ここでは、ツバラニ、ツバラカニ、また、ツバラツバラニという訓み方がふさわしいと考えられる。隈なく、まんべんなく、しみじみと、の意である。鳴女は間諜なのだから隈に潜みながら偵察活動をしている。意味合いを考えればそれらの訓みは正しいと明かされる。雉は一音一音再現してみせているのだから、ツバラツバラニと訓みたいところである。
浅茅原 つばらつばらに〔曲曲二〕 物思へば 故りにし郷し 思ほゆるかも(万333)
朝びらき 入江漕ぐなる 楫の音の つばらつばらに〔都波良都波良尓〕 吾家し思ほゆ(万4065)
…… 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも〔委曲毛〕 見つつ行かむを ……(万17)
…… 筑波嶺を さやに照らして いふかりし 国のまほらを つばらかに〔委曲尓〕 示したまへば ……(万1753)
難波潟 潮干のなごり よくも見む〔委曲見〕 家なる妹が 待ち問はむため(万976)
(注9)本当にスパイらしいスパイとして諜報活動している記事としては、紀では、上にあげた推古紀にある新羅の者ばかりとされている。
直木2009.は、古代の日本では、スパイについて「せいぜい宮廷貴族内での勢力争いに利用されただけで、国際的な活動をしていた朝鮮半島の諜者とは、スケールがちがう。」(103頁)とする。これは、滝川1984.の、「推古天皇の御代、我が朝廷が百済の僧観勒を貢進せしめて、遁甲の術を伝習せしめられたのは、半島にある我が軍が、新羅の間諜のために屢々悩まされた苦い経験によって、我が国人も遁甲の術を学んでこれに対抗する必要が痛感されたからである。」(295頁)とする説に対抗するものである。直木2009.は、滝川1984.が、間諜者迦摩多の渡来と、翌推古十年に百済僧の観勒の来日して遁甲方術の書を貢したこととをあわせて、我が国の忍術の源流を求めた点について、「間諜と遁甲の術とをむすびつけ、忍者の源流とする構想は、古代における間諜の役目や性格を矮小化するもの」(104頁)と批判する。筆者は、忍術の源流であるウカミ(間諜、斥候)は、天佐具女(天探女)やヤアタカラスにすでに現れていると考えている。スパイ活動に身を紛らせることは当たり前のことで、遁甲の術に通じていておかしくないし、誰だかわからないのが間諜の要件なのだから、失敗例の迦摩多をもってスパイ活動の全貌を知ろうとすることは本末転倒である。
偵察による諜報活動は、よほどの功績や政権の大転換でもない限り、歴史の表舞台に詳解されることはない。今日でも、英国の諜報員は、逆スパイになってバレでもしなければ名前すら知られずに終わる。程度の差はあれ、本邦でも従前より当然のこととして行われていたものと考えられる。武家名目抄・第二に、「忍者〈又間者・諜者と称す〉……按忍者はいはゆる間諜なり、故に或は間者といひ又諜者とよふ。……古来間諜の術をなせしもの諸書に注する所少なからすといへとも其名目を載せさるは悉くこゝにもらせり」(170~175頁、漢字の旧字体は改め、適宜訓み下し句読点を補った)とある。
(注10)オニ(鬼)という言葉については判断が難しい。時代別国語大辞典に、「仮名書きの確例はなく、オニの上代語としての存在が疑われている。……しかし、日本書紀古訓から遡って、……「鬼・魑魅」がオニとして考えられたものとすることに特に支障もない。第三例[霊異記中二五話]の鬼は仏教的なものであるが、それも含めて上代に近い用例として引き得るすべてのオニが鬼人としての形態を示している。「……天皇崩二于朝倉宮一…是夕於二朝倉山上一有レ鬼、著二大笠一臨二視喪儀一」(斉明紀七年)の「鬼」は神が姿をあらわしたものかと思われる。現在、法隆寺金堂増長天の邪鬼が残ることから、上代人が鬼に対する概念をもっていたことがわかる。「続断於尓乃也加良」(鬼の矢柄か)「馬勃於尓布須倍」(鬼燻べであろう) (本草和名)のような植物名もオニのイメージを知る手がかりになろう。」(152~153頁)、古典基礎語辞典に、「オニという語は中古から見える。オニを表す漢字「鬼き」は、中国で死者の霊をいう。「鬼」の字を『万葉集』ではモノ(亡霊・怨霊の意の上代語)と訓み、マ(魔=悪鬼の意の漢語)とも訓む。……オニは冥界に属する、姿を見せない存在だったが、仏教の羅刹らせつ(大力・暴虐で人を食うという)などとの混同が起こり、中古末期以後は、異形の怪物で人を害する恐ろしい賊などもオニというようになった。中世末期の『日葡辞書』には、オニは「悪魔。または、悪魔のように見える恐ろしい形相」とある。上代以来、陰陽道による年中行事として、朝廷では十二月三十日に追儺ついな(鬼遣おにやらい)をして疫鬼を追う儀式をした。これがのちに節分の豆まきとして行われるものとなった。中国から入った「鬼」という観念と、日本のモノ(怨霊。のちに物怪もののけという)という観念とが影響し合って、オニが成り立った。」(246頁、この項、須山名保子)とある。国際日本文化センター・怪異・妖怪画像データベース「鬼;オニ,牛車;ギッシャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0061_0003_0000.html)、ならびに拙稿「オニ(鬼)のはじまり」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/495a4403b1942d7a8abc633cdf510b99参照。
(注11)なかでもコクマルガラスの賢さについては、ローレンツ1963.に詳しい。
(注12)例えば、チビという蔑称のような愛称は、「小さし」によっている。
(注13)狐を稲荷の神の使いとするのは、御食津神を三狐神と付会した俗信からとする説がある。天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記に、「御倉神三座。素戔嗚尊子、宇賀之御魂神。亦名専女。三狐神」とあり、三狐神をミケツカミと訓み、御饌津神のことであろうとすることによっている。五来2010.は、「『物類称呼』(二)には、「関西にてしべて、けつねと呼ぶ也」とあり、れっきとした登録語なのである。……動物としての狐をはなれてケツネということばを詮索してみると、御饌津神と言うように、ケは食物や稲のことである。……ツは「の」という意味で、ネは根元、あるいは先祖ということだから、ケツネは「食物の根元」あるいは「食物をあたえる先祖」ということになる。ことばとしてのケツネは、すでに稲荷神の宇迦之魂神や保食神と同体なのである。」(29~30頁)とする。また、大森2011.は、ケツネのケは、もののけのケでもあり、狐憑きとの関連を指摘している。狐は悪さをする悪霊・悪神であり、巫覡がそれを鎮める呪術を行ったとする。いずれの場合も、ケは乙類との想定である。
論としては興味深いが、狐をケツネという例は、関西地方の方言や江戸期の本朝食鑑などにあるばかりで、上代にそのような言い方がされていた証左はない。万葉3824番歌に「狐」とあるのは、キツネ(キは甲類)と訓むべきとされる。
さし鍋に 湯沸かせ子ども 櫟津の 檜橋より来む 狐に浴むさむ(万3824)
本草和名に「狐陰茎 和名岐都禰」、和名抄に「狐 考声切韻に云はく、狐〈音は胡、岐豆禰〉は獣の名にして射干なり、関中に呼びて野干と為るは語の訛れるなりといふ。孫愐に曰はく、狐は能く妖怪と為り、百歳に至りて化けて女と為る者なりといふ。」、名義抄に「狐 キツネ クツネ」とある。説文には、「狐 䄏獣也、鬼の乗れる所、三つの徳有り、其の色中和、小さき前大きなる後、死するに則ち丘に首むかふ、犬に从ひ瓜声」とある。稲荷社とキツネとの語学的関係については、拙稿「稲荷信仰と狐」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/e922fd95ff532a8e2f55e3db6ea885dc参照。本稿で、稲荷社と狐、専女の関係が意識されていることが理解されたことは、稲荷信仰と狐との結びつきが、語学的に言って、相当に根深いものであることを予感させる。イナリに稲荷という字を当てた魂胆は、上代からすでに指向されていたということになる。
(注14)国際日本文化研究センター・怪異・妖怪画像データベース「牛鬼;ウシオニ,火車;カシャ,亡者;モウジャ」(http://www.nichibun.ac.jp/YoukaiGazouCard/U426_nichibunken_0379_0001_0006.html)参照。
(注15)奈良国立博物館収蔵品データベース(https://www.narahaku.go.jp/collection/644-0.html)参照。
(注16)「火車 西国雲州薩州の辺。又は東国にも間々ある事にて。葬送のとき。俄に大風雨ありて。往来人を吹き倒す程の烈しき時。葬棺を吹き上げ吹き飛ばす事あり。其時。守護の僧珠数を投げかくれば異事なし。若左なきときは。葬棺を吹き飛ばし。其尸を失ふ事あり。是を火車に捉まれたるとて。大に恐れ恥づる事なり。愚俗の言伝に。其人生涯に悪事を多くせし罪により。地獄の火車が迎ひに来りしといふ。後に其尸を引き裂き。山中の樹枝。又は岩頭などに掛け置く事あり。火車と名付くるは。仏者よりいひ出だしたる事にて。……其火車に捉まれたるといふは。和漢とも多くある事にて。是は魍魎といふ獣の所為なり。罔両とも。方良とも書く。酉陽雑俎に。周礼方相氏歐二罔象一。好食二亡者肝一。而畏二虎与一レ柏。墓上樹レ柏。路口致二石虎一為レ此也とあり。此獣葬送の時。間々出でゝ災をなす。故に漢土にては聖人の時より。方相氏といふものありて。熊皮をかぶり。目四つある形に作り。大喪の時は。柩に先立ちて墓所に至り。壙に入りて戈を以て。四隅をうち。此獣を殴る事あり。是を険道神といふ。事物紀原に見えたり。此邦にても。親王一品は方相轜車を導く事。喪葬令に見ゆ。 今俗葬送に龍頭を先きに立つるも。其遺意なり。時珍の綱目に。述異記を引きて。秦の時陳倉の人。猟して此獣を得たり。形に若レ彘若レ羊とあり。古より。愚俗の誤りて火車と名くるゆゑ。地獄の火車と思ふ。笑ふべし……」(茅窓漫録・下巻)とある。
(注17)拙稿「轜車について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6bd57f8689ef57db4f0ca8bdc742ae16参照。
(注18)古典基礎語辞典に、「あたり【辺り】……アタル(当たる)と同根。上代には、人や動物の居る場所として見当をつけた所を表した。」(34頁、この項、白井清子)、白川1995.に、「あたり〔辺(邊)〕 その一帯のところ。周辺をいう。「當る」と同根の語で、いわゆる見当というのに近い。」(70頁)とある。
(注19)それが他の諸言語の無文字時代の説話の多くにも該当することなのか、不勉強でわからない。
(注20)日本霊異記・上・「狐を妻として子を生ましむる縁 第二」に、「故、其の相生ましめし子の名を岐都禰と号く。亦、其の子の姓を直と負ほす。」とある。「直」に「狐直」と校訂されることがあるが誤りである。狐は伊賀専女のことだとわかっているから、アタアタ話として「直」を「与へ」るに「値」するという地口である。語用論的調和(pragmatic symmetry)の極みと言える。この点が理解されなければ無文字に生きた人々の言語観には到達できない。
(注21)この追儺や午王符に関しては、言葉の連関の可能性を示唆しているにすぎない。時代考証的に、すべての項目が無文字的発想に基づいているとは認めきれない。追認する形で成り立っている印象を受けることを述べた。
(注22)発語において、「朕……」といえば天皇のそれであるし、『暴れん坊将軍』に「予……」といえば徳川将軍吉宗のそれとわかるのと同じである。
(注23)蒲谷・松田1996.に、コクマルガラスの鳴き声は、英文では、“t’yak,t’yak”、“tchak-ak”、“kia”、“kraare”、“chaair”、“tchak-ak”などの記載があり、日本人には、キャッ、キャッという甲高い音に聞こえるとしている。
(注24)拙稿「コノハナノサクヤビメについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/1a4da9b05e9aee34901bb20e05d7878aほか参照。
山上憶良の貧窮問答歌に、甑の話が載る。
…… 竈には 火気ふき立てず 甑には 蜘蛛の巣懸きて 飯炊く 事も忘れて ……(万892)
甑の形と蜘蛛の巣の形とを掛けた高次の修辞表現である。
(注25)景行紀に、「八月に、的邑に到りて進食したまふ。是の日に、膳夫等盞を遺る。故、時人、其の盞を忘れし処を号けて浮羽と曰ふ。今的と謂ふは訛れるなり。昔筑紫の俗、盞を号けて浮羽と曰ひき。」(景行紀十八年八月)とある。膳夫という職掌名は、神饌に餅を供える食器の「葉盤」などがカシハ(柏・槲)の葉を重ねてできていることによる。ヒラデについては、新撰字鏡に「𦲤〓(𦲤の亻の代わりに石) 比良天又久保天」、和名抄に「葉手 漢語抄に葉手〈比良天〉と云ふ。」とある。イクハ~ウキハという音韻的なジョークは、豊後風土記に知られる的と餅との密接な関係に支えられている。
槲御膳(木村孔恭・蒹葭堂雑録・巻一、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/2562884/1/28をトリミング)
そして、甑で蒸した餅米から酒を造り、やはり神に捧げた。その容器が盞である。新編全集本日本書紀の「浮羽」の注に、「「盃うきは(どうしたか)」の意であったかとする説がある。」(363頁)とあり、飯田武郷・日本書紀通釈・第三に、「惜二-哉朕酒盞一と宣し所なりと云。……〈此紀に朕之酒盞者也。なと詔ひし御言なけれは。羽ノ字の義解かたし。……〉さてかく盞者也と詔ひ出て。惜しみ玉へるは。尋常の御物にはあらし。世に珍き大御酒坏にてそありけらし。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/933890/1/120~121)とある。新釈全訳日本書紀は、「盞を忘れたことからウキハとなる理由は、サカヅキをウキハということによると次文にある。『釈紀』述義「公望私記」に引く「筑後国風土記』逸文では、天皇がこの村に酒盞を忘れたといい、「天皇勅して曰はく、惜(アタラ)しかな、朕が酒盞(ウキ)はや〈俗の語に、酒盞を云ひて宇枳(ウキ)と為す〉。困りて宇枳波夜(ウキハヤ)の郡と曰ふ。後の人、誤りて生葉(イクハ)の郡と号づく」という。ウキということばから地名を説明しようとするものである。『風土記』は、盞(ウキ)とイクハとをつなぐべく、ウキハヤ(ウキよ、ああ、という天皇のことばとうけとられる)がイクハに訛ったという。『日本書紀』が、盞をいう「筑紫俗」のことばがウキハだったとして説明するのに対して、天皇とつなぐために別な解釈をもとめたか。古訓ウクハとあるが、「浮」字にひかれたものか、イクとの音通をもとめたか。」(481頁)と迷宮入りしている。
膳夫等は、的邑での食事会なのだから、餅ばかり作ればいいと思っていた。だから酒の用意をしなかった。土器や木器の盞は持って行かないで、葉盤ばかり用意していた。そんな葉盤は、水に「浮き葉」である。複数の葉っぱで編み作って水に浮かぶ大きな葉っぱの姿に作られている。的邑なのだから、餅を的にしたら鳥になって飛んでいったように、軽くて「浮き羽」になるものがふさわしいと考えていた。しかし、主人たちがしたいのは風流の宴席である。曲水の宴などできたら最高なのに、「浮き葉」では「浮きは」するが、酒を酌んで流したら漏れ出て水に置き換わる。さかずきを揚げて酌み交わそうにも肝心の中身の酒が漏れてしまう。弓の的に餅を使うことが本末転倒で死絶荒廃したように、浮きはするが酒が保てない容器も本末転倒で台無しである。きわめて論理学的な思考から、イクハ~ウキハのジョークがたしなまれている。
(注26)無文字文化に暮らしていた人と、文字を獲得してからの人とでは、言葉に対する感覚は様相を異にする。いったん文字に慣れてしまうと、無文字時代の言葉の感覚は理解しにくいものになる。記紀の話の多くにおいて、現代人の頭でっかちな捉え方では、肌感覚として腑に落ちないものばかりである。記紀の話は、今日の人とは別の文化圏に暮らしていた人たちが残した、異世界のテキストということになる。記紀研究の目標とは何か。ヤマトコトバのジグソーパズルを並べ当てはめ、一枚の絵を完成させることである。現代人が手中にある設計図を当てがってみても何の意味もない。オング1991.参照。
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新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『日本書紀①』小学館、1994年。
集成本古事記 西宮一民校注『古事記』新潮社、昭和54年。
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※本稿は、2014年3~4月稿を2019年10月に改稿し、さらに2024年12月に加筆してルビ形式にしたものである。