万葉集巻十六、3836番歌は「佞人を謗る歌」とされている。
佞人を謗る歌一首〔謗侫人歌一首〕
奈良山の 児手柏の 両面に かにもかくにも 佞人の伴〔奈良山乃兒手柏之兩面尓左毛右毛侫人之友〕(万3836)
右の歌一首は、博士消奈行文大夫作れり。〔右歌一首博士消奈行文大夫作之〕
「謗俀人歌一首」(西本願寺本萬葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242469/1/21をトリミング)
本文校訂により、「俀」字を尼崎本などにより「侫」(「佞」の俗字)に改めている。
これが理解を阻む原因となった(注1)。
「佞人」ではなく「俀人」であったなら、「倭人」のことになる。魏志に「倭人」とあったのを、隋書では「俀人」としている。歌の作者、博士消奈行文は大学寮の教員を勤めた養老年間の学者であり、新羅の人であった。すなわち、「倭人」の特徴を捉えて歌を作っていると解し得るのである。
康煕字典に、「俀」は「集韻、吐猥切、音腿。弱也。」とある。ヤマトの人のことを中国では「倭人」「俀人」としている。「倭」については、説文に「倭 順ふ皃なり、人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遲たり。」とあり、しなだれるような姿を特徴として捉えていたということのようである。
歌にはなぜか「児手柏」が持ち出されている。葉が縦に立っていて、左右どちらが表とも裏とも言えない。そこで、八方美人に振舞う喩えとして使われている。他の似たような葉ではなく、コノテガシハが選ばれている。カシハ(柏)の類であることが求められているものと思われる。カシハ(柏)は、葉が大きく、神事においてなどに料理をよそう器として利用された。だから、料理人のことを膳夫という。カシハデには拍手の意もある。神さまの前で拍手を打って挨拶する。儀式的には二礼二拍手一礼をとることが多く、四拍手することもある。一般には、二回手を打ち合わせて頭を下げて拝むことが多い。この拍手の挨拶は、倭人の慣行として中国、東アジアに知られていた。魏志倭人伝に、「大人の敬へるに見ふときは、但だ手を搏ちて以て跪拝に当つ。(見大人所敬、但搏手以当跪拝。)」とある。「搏レ手」=拍手の礼は我が国独自の法である。
周礼・春官・大祝に「辨九拝、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉拝、六曰凶拝、七曰奇拝、八曰褒拝、九曰粛拝、以享右祭祀。」とある。その「振動」の語について、鄭玄の注に「動読為レ董、書亦或為レ董、振董、以二両手一相撃也」、唐初の陸徳明の釈に「振動、如レ字李音董、杜徒弄反、今俀人拝、以二両手一相撃、如二鄭大夫之説一、蓋古之遺法。」とある。唐初においても、拍手礼が倭人特有の儀礼であると考えられていたようである(注2)。下記の例、大安寺資財帳の例は、筑紫朝倉宮で病に倒れた斉明天皇が百済大寺の造営を中大兄に託して崩御した時の記事である。
爾の時に、手を拍ちて慶び賜ひて崩り賜ひき。(爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之)(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)
公卿百寮、羅列匝く拝みたてまつりて、手拍つ。(持統紀四年正月)
乙酉、参河国言さく、「慶雲見る」とまをす。僧六百口を屈して西宮の寝殿に設斎す。慶雲見るるを以てなり。是の日、緇侶の進退、復、法門の趣無し。手を拍ちて歓喜すること一ら俗人に同じ。(続紀・神護景雲元年八月)
日本在来の儀礼として、慶賀・歓喜を表現するのに拍手礼が行われていたことを示している。これが新羅人の消奈行文(注3)には珍しかったから歌に詠んでいる。彼は新羅から来日する前に、漢籍を読んで倭国のことを勉強していたのだろう。文献にはほかにも次のようにも書いてある。
俗は盤爼無く、藉くに檞葉を以てす。食ふに手を用ゐて餔ふ。(俗無盤爼、藉以檞葉、食用手餔之。)(隋書・俀国伝)
俀人はカシハを食器にして手づかみで食べているという。実際に目にしてみると少し事情は異なるが、勉強した本の内容が完全に誤りであったわけではなさそうである。書物には祭祀場面ばかり重視して書いてあったということのようである。多少のギャップを埋めるべく、頓智を利かせた歌を詠もうとした。漢籍に「俀人」と書いてあったことを「謗る歌」としている。単にそういう人をけしからんと言っているのではなく、ヤマトの人のことをそのように記していることが不親切だと指摘しつつ、当然ながら人前で座興として歌を歌うのだからおもしろくなくてはならない。歌の勘所は頓知にある。
「倭人」≒「俀人」である。ヤマトの人は礼をして頭を下げたり上げたりしつつパチパチと手を叩いている。「俀」という字は、人偏に妥の旧字体である。礼の仕方として「妥」という言葉は使われている。「天子には視ること袷より上らず、帯より下さず。国君には妥視し、大夫には衡視し、士には視ること五歩ばかりす。(天子視不上於袷、不下於帯。国君、妥視、大夫、衡視、士視五歩。)」(礼記・曲礼下)とある。「妥」は「綏」の意である。袷の上あたりを見ることを言った。挨拶の礼として頭を下げたり上げたりしている。そういう人たちなのだというのが、「俀人」と記された理由なのだろうと解釈している。
そして、手を拍つ様子を植物のコノテガシハと絡めて語るとするならば、葉がどちらからも表となって剥げないのとは異質な状態、手を打ち合わせるように葉を合わせて裏だけになる植物のことを思い浮かべて対比させていると考えられる。ネムノキである。ネムノキは夜になると葉を閉じて眠る。古語ではネブリ、ネブリノキ、ネブと言った。ネムノキのことを「合歓木」と記すところは、歓喜を表すのに拍手礼が行われていたことをよく表すものである。拍手を打って手を合わせるように寝ている。
昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ(万1461)
合歓樹 无採時、祢夫利(新撰字鏡)
合歓木 唐韻に云はく、棔〈音は昏、禰布利乃岐〉は合歓木、其の葉は朝に舒び暮に歛むる者なりといふ。(和名抄)
眲 莫卑反、眠也、目合也、祢夫留、又伊奴(新撰字鏡)
酔ひて睡る。(神代紀第八段本文)
既にして穴穂天皇、皇后の膝に枕したまひて、昼酔ひて眠臥したまへり。是に、眉輪王、其の熟睡ませるを伺ひて、刺し殺せまつれり。(雄略前紀安康三年八月)
猿、猶合眼りて歌ひて曰はく、……(皇極紀三年六月)
左:コノテガシワ、右:ネムノキ(夜間)
すなわち、万3836番歌は、「倭人」≒「俀人」がお辞儀をしたり手を叩いたりする礼について、居眠りをしては手を叩いて起こそうとしている、または、それでも上瞼と下瞼がついて寝入りそうになるうところと見て取ったのである。ヤマトの人はカシハデを重んじている。神さまに祈りを捧げる時、拍手を打ち、膳夫にお供えを作らせ、串を使って柏の葉を器の形に象って饌物を供えている。拍手を打ってお祈りをするのにどこの神さまと分け隔てすることなく、その時その時で都合のいい神さまに対して「両面に」お願いをしている。その都度お辞儀をして手を打っていて、その都度居眠りをしては手を打って起きている。ことほど左様に「かにもかくにも」、「倭人」は眠くてたまらない「俀人」なのだと洒落ている。その一大集団がヤマトの人である。ヤマトの人たちは本に書いてあったように、「俀人が伴」だと気づいたというのである。
俀人を謗る歌一首
奈良山の 児手柏の 両面に かにもかくにも 俀人が伴〔奈良山乃児手柏之両面尓左毛右毛俀人之友〕(万3836)
ヤマトの人のことを隋書に「俀人」と書いてあるところから着想を得たが、「俀人」の意味するところの居眠りする人のことを感心しないと思う歌
奈良山のコノテガシワが両面とも表を見せるのと同じように、膳夫が料理を供えては拍手を打ってはお辞儀するのがヤマトの人の習わしのようだが、その仕種、実際のいずれにせよ、居眠りをこいている人ばかりの集団のようになっていて東アジア世界で浮いていないかなあ。
(注)
(注1)「佞人」をネヂケビトと訓むと字余りになるから、他の訓み、コビヒト、カダヒト、また、音読みしてネイジンも試みられている。
「佞人」に限らずいずれの訓みでも、皆、権力者に対して媚びへつらい、あちらにもこちらにもいい顔をする人のこと、右顧左眄のおべっか野郎の意味と捉えられ、それを揶揄、非難する歌であろうとする解釈は定着している。「なら坂や児の手がしはのふたおもてとにもかくにもねぢり人かな」(南都名所集)、「奈良坂や児の手柏の二おもてとにもかくにも侫人かな」(南都名所八重桜)などへと流伝している。
(注2)西本1987.に負っている。西本氏は内裏儀式の「両段再拝・拍手・揚賀声」が内裏式で「再拝・舞踏・称万歳」へと変わっていることを指摘している。
(注3)又詔して曰はく、「文人・武士は国家の重みする所なり。……百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢して、特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし。」とのたまふ。因りて、……第二の博士正七位上背奈公行文・……に、各絁十五疋、糸十五絇、布卅端、鍬廿口。(続紀・養老五年正月)
従五位下大学助背奈王行文 二首(懐風藻)
(引用・参考文献)
白川・字通 白川静『字通』平凡社、1996年。
西本1987. 西本昌弘「古礼からみた内裏儀式の成立」『史林』第70巻第2号、1987年3月。京都大学学術情報レポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/238914
橋本2006. 橋本亜佳子「佞人を「謗る」歌─萬葉集巻十六・第二部の題詞の特質─」『古代中世文学論考 第17集』新典社、平成18年。
山﨑2024. 山﨑福之「「佞人」とネヂケビト」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。
※上記、橋本、山﨑論文に引く参考文献は割愛した。「佞人」ではなく「俀人」について論じた。
佞人を謗る歌一首〔謗侫人歌一首〕
奈良山の 児手柏の 両面に かにもかくにも 佞人の伴〔奈良山乃兒手柏之兩面尓左毛右毛侫人之友〕(万3836)
右の歌一首は、博士消奈行文大夫作れり。〔右歌一首博士消奈行文大夫作之〕
「謗俀人歌一首」(西本願寺本萬葉集、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1242469/1/21をトリミング)
本文校訂により、「俀」字を尼崎本などにより「侫」(「佞」の俗字)に改めている。
これが理解を阻む原因となった(注1)。
「佞人」ではなく「俀人」であったなら、「倭人」のことになる。魏志に「倭人」とあったのを、隋書では「俀人」としている。歌の作者、博士消奈行文は大学寮の教員を勤めた養老年間の学者であり、新羅の人であった。すなわち、「倭人」の特徴を捉えて歌を作っていると解し得るのである。
康煕字典に、「俀」は「集韻、吐猥切、音腿。弱也。」とある。ヤマトの人のことを中国では「倭人」「俀人」としている。「倭」については、説文に「倭 順ふ皃なり、人に从ひ委声。詩に曰く、周道倭遲たり。」とあり、しなだれるような姿を特徴として捉えていたということのようである。
歌にはなぜか「児手柏」が持ち出されている。葉が縦に立っていて、左右どちらが表とも裏とも言えない。そこで、八方美人に振舞う喩えとして使われている。他の似たような葉ではなく、コノテガシハが選ばれている。カシハ(柏)の類であることが求められているものと思われる。カシハ(柏)は、葉が大きく、神事においてなどに料理をよそう器として利用された。だから、料理人のことを膳夫という。カシハデには拍手の意もある。神さまの前で拍手を打って挨拶する。儀式的には二礼二拍手一礼をとることが多く、四拍手することもある。一般には、二回手を打ち合わせて頭を下げて拝むことが多い。この拍手の挨拶は、倭人の慣行として中国、東アジアに知られていた。魏志倭人伝に、「大人の敬へるに見ふときは、但だ手を搏ちて以て跪拝に当つ。(見大人所敬、但搏手以当跪拝。)」とある。「搏レ手」=拍手の礼は我が国独自の法である。
周礼・春官・大祝に「辨九拝、一曰稽首、二曰頓首、三曰空首、四曰振動、五曰吉拝、六曰凶拝、七曰奇拝、八曰褒拝、九曰粛拝、以享右祭祀。」とある。その「振動」の語について、鄭玄の注に「動読為レ董、書亦或為レ董、振董、以二両手一相撃也」、唐初の陸徳明の釈に「振動、如レ字李音董、杜徒弄反、今俀人拝、以二両手一相撃、如二鄭大夫之説一、蓋古之遺法。」とある。唐初においても、拍手礼が倭人特有の儀礼であると考えられていたようである(注2)。下記の例、大安寺資財帳の例は、筑紫朝倉宮で病に倒れた斉明天皇が百済大寺の造営を中大兄に託して崩御した時の記事である。
爾の時に、手を拍ちて慶び賜ひて崩り賜ひき。(爾時手柏(拍)慶賜而崩賜之)(大安寺伽藍縁起并流記資財帳)
公卿百寮、羅列匝く拝みたてまつりて、手拍つ。(持統紀四年正月)
乙酉、参河国言さく、「慶雲見る」とまをす。僧六百口を屈して西宮の寝殿に設斎す。慶雲見るるを以てなり。是の日、緇侶の進退、復、法門の趣無し。手を拍ちて歓喜すること一ら俗人に同じ。(続紀・神護景雲元年八月)
日本在来の儀礼として、慶賀・歓喜を表現するのに拍手礼が行われていたことを示している。これが新羅人の消奈行文(注3)には珍しかったから歌に詠んでいる。彼は新羅から来日する前に、漢籍を読んで倭国のことを勉強していたのだろう。文献にはほかにも次のようにも書いてある。
俗は盤爼無く、藉くに檞葉を以てす。食ふに手を用ゐて餔ふ。(俗無盤爼、藉以檞葉、食用手餔之。)(隋書・俀国伝)
俀人はカシハを食器にして手づかみで食べているという。実際に目にしてみると少し事情は異なるが、勉強した本の内容が完全に誤りであったわけではなさそうである。書物には祭祀場面ばかり重視して書いてあったということのようである。多少のギャップを埋めるべく、頓智を利かせた歌を詠もうとした。漢籍に「俀人」と書いてあったことを「謗る歌」としている。単にそういう人をけしからんと言っているのではなく、ヤマトの人のことをそのように記していることが不親切だと指摘しつつ、当然ながら人前で座興として歌を歌うのだからおもしろくなくてはならない。歌の勘所は頓知にある。
「倭人」≒「俀人」である。ヤマトの人は礼をして頭を下げたり上げたりしつつパチパチと手を叩いている。「俀」という字は、人偏に妥の旧字体である。礼の仕方として「妥」という言葉は使われている。「天子には視ること袷より上らず、帯より下さず。国君には妥視し、大夫には衡視し、士には視ること五歩ばかりす。(天子視不上於袷、不下於帯。国君、妥視、大夫、衡視、士視五歩。)」(礼記・曲礼下)とある。「妥」は「綏」の意である。袷の上あたりを見ることを言った。挨拶の礼として頭を下げたり上げたりしている。そういう人たちなのだというのが、「俀人」と記された理由なのだろうと解釈している。
そして、手を拍つ様子を植物のコノテガシハと絡めて語るとするならば、葉がどちらからも表となって剥げないのとは異質な状態、手を打ち合わせるように葉を合わせて裏だけになる植物のことを思い浮かべて対比させていると考えられる。ネムノキである。ネムノキは夜になると葉を閉じて眠る。古語ではネブリ、ネブリノキ、ネブと言った。ネムノキのことを「合歓木」と記すところは、歓喜を表すのに拍手礼が行われていたことをよく表すものである。拍手を打って手を合わせるように寝ている。
昼は咲き 夜は恋ひ寝る 合歓木の花 君のみ見めや 戯奴さへに見よ(万1461)
合歓樹 无採時、祢夫利(新撰字鏡)
合歓木 唐韻に云はく、棔〈音は昏、禰布利乃岐〉は合歓木、其の葉は朝に舒び暮に歛むる者なりといふ。(和名抄)
眲 莫卑反、眠也、目合也、祢夫留、又伊奴(新撰字鏡)
酔ひて睡る。(神代紀第八段本文)
既にして穴穂天皇、皇后の膝に枕したまひて、昼酔ひて眠臥したまへり。是に、眉輪王、其の熟睡ませるを伺ひて、刺し殺せまつれり。(雄略前紀安康三年八月)
猿、猶合眼りて歌ひて曰はく、……(皇極紀三年六月)
左:コノテガシワ、右:ネムノキ(夜間)
すなわち、万3836番歌は、「倭人」≒「俀人」がお辞儀をしたり手を叩いたりする礼について、居眠りをしては手を叩いて起こそうとしている、または、それでも上瞼と下瞼がついて寝入りそうになるうところと見て取ったのである。ヤマトの人はカシハデを重んじている。神さまに祈りを捧げる時、拍手を打ち、膳夫にお供えを作らせ、串を使って柏の葉を器の形に象って饌物を供えている。拍手を打ってお祈りをするのにどこの神さまと分け隔てすることなく、その時その時で都合のいい神さまに対して「両面に」お願いをしている。その都度お辞儀をして手を打っていて、その都度居眠りをしては手を打って起きている。ことほど左様に「かにもかくにも」、「倭人」は眠くてたまらない「俀人」なのだと洒落ている。その一大集団がヤマトの人である。ヤマトの人たちは本に書いてあったように、「俀人が伴」だと気づいたというのである。
俀人を謗る歌一首
奈良山の 児手柏の 両面に かにもかくにも 俀人が伴〔奈良山乃児手柏之両面尓左毛右毛俀人之友〕(万3836)
ヤマトの人のことを隋書に「俀人」と書いてあるところから着想を得たが、「俀人」の意味するところの居眠りする人のことを感心しないと思う歌
奈良山のコノテガシワが両面とも表を見せるのと同じように、膳夫が料理を供えては拍手を打ってはお辞儀するのがヤマトの人の習わしのようだが、その仕種、実際のいずれにせよ、居眠りをこいている人ばかりの集団のようになっていて東アジア世界で浮いていないかなあ。
(注)
(注1)「佞人」をネヂケビトと訓むと字余りになるから、他の訓み、コビヒト、カダヒト、また、音読みしてネイジンも試みられている。
「佞人」に限らずいずれの訓みでも、皆、権力者に対して媚びへつらい、あちらにもこちらにもいい顔をする人のこと、右顧左眄のおべっか野郎の意味と捉えられ、それを揶揄、非難する歌であろうとする解釈は定着している。「なら坂や児の手がしはのふたおもてとにもかくにもねぢり人かな」(南都名所集)、「奈良坂や児の手柏の二おもてとにもかくにも侫人かな」(南都名所八重桜)などへと流伝している。
(注2)西本1987.に負っている。西本氏は内裏儀式の「両段再拝・拍手・揚賀声」が内裏式で「再拝・舞踏・称万歳」へと変わっていることを指摘している。
(注3)又詔して曰はく、「文人・武士は国家の重みする所なり。……百僚の内より学業に優遊し師範とあるに堪ふる者を擢して、特に賞賜を加へて後生を勧め励すべし。」とのたまふ。因りて、……第二の博士正七位上背奈公行文・……に、各絁十五疋、糸十五絇、布卅端、鍬廿口。(続紀・養老五年正月)
従五位下大学助背奈王行文 二首(懐風藻)
(引用・参考文献)
白川・字通 白川静『字通』平凡社、1996年。
西本1987. 西本昌弘「古礼からみた内裏儀式の成立」『史林』第70巻第2号、1987年3月。京都大学学術情報レポジトリhttp://hdl.handle.net/2433/238914
橋本2006. 橋本亜佳子「佞人を「謗る」歌─萬葉集巻十六・第二部の題詞の特質─」『古代中世文学論考 第17集』新典社、平成18年。
山﨑2024. 山﨑福之「「佞人」とネヂケビト」『萬葉集漢語考証論』塙書房、2024年。
※上記、橋本、山﨑論文に引く参考文献は割愛した。「佞人」ではなく「俀人」について論じた。