和名類聚抄は辞書の体裁をとっているが、勤子内親王の意向に沿うべく作られた私的な書物である。成人した高貴な女性のために和語を解説している。公開されることを目的としていたかさえ今となってはわからない。和訓のない字があることが特徴としてあげられている。当たり前だから書かないでいつつ、なぜそう訓むのか、なぞなぞの問いとして機能していた(注1)。
そのような書きっぷりを支えているのは、和語を中国に漢字でどう書いてあるかを示し、それがどうして和語にそう読まれていて正しいかという、行って来いの記述によっている。あくまでもヤマトコトバで考えていて、言葉を選んでおり、それに当たる漢字で書かれた文献を引いてきて、その言葉の確かなることを示している。言葉について理屈っぽく記しているのだから、当然の成り行きとして、漢文はその義を示したくて書かれている。すなわち、和名類聚抄の文章は、“義訓”できることを目指して書いたものであった。すべての言葉にそれができれば良かったのであるが、動植物名などに至ってはただの羅列になってしまっているところも多い。それでももともとの目的について片鱗を伺い知るのに十分である。各項目ごとに具体的に和名類聚抄を“読む”ことが、すべてを悟る唯一の方法である。むろん、どこに心血を注いで考え落ちにしているのか、筆者の力では十全に知ることはできないから、網羅的解説にはならないことを予め断っておく(注2)。
望月 釋名云望〈此間云望月毛知豆岐〉月大十六日小十五日日在東月在西遥相望也(巻第一)
釈名・釈天に、「望 月満之名也。月大十六日、小十五日。日在東、月在西、遥相望也。」とある。和名類聚抄に、「満」の字を損なっている。そして、項目として「望」ではなく、「望月」を採っている。訓み方として、大別して次の三つの方法があると考える。
(a)望月 釈名に云はく、望〈此の間に望月は毛知豆岐(もちづき)と云ふ〉月は、大は十六日、小は十五日の、日は東に在りて月は西に在りて遥かに相望(のぞ)むなりといふ。
(b)望月 釈名に云はく、望〈此の間に望月は毛知豆岐(もちづき)と云ふ〉は、月の大は十六日、小は十五日に、日は東に在りて月は西に在り、遥かに相望(のぞ)むなりといふ。
(c)望月 釈名に云はく、望〈此の間に望月は毛知豆岐(もちづき)と云ふ〉は、月の大は十六日、小は十五日、日は東に在りて月は西に在り、遥かに相望(み)つるなりといふ。
(a)は釈名の謂いをそのまま引いた訓み方である。望月は日と相対して望むから望月というのだという主張である。しかし、源順は、「月満之名也。」というわかりやすい説明部分をまるごと割愛している。そして、「望」と「月」との間に割注を挿し込んでいる。すると、「望」という字を説明することで、望月の説明に当てたという可能性があらわれる。それが(b)の訓み方である。month の意の月が大なら16日、小なら15日に、日と相望む状態の時、その時の月を望月と言うのだ、という解釈である。とはいうものの、month と moon とを混同させて憚らない姿勢には、何か意図があると感じられる。そのために「月満之名也。」を省いているのではないか。
「和名類聚抄」は大人のために作られた辞書である。モチヅキが満月であることを知らない人はいない。現象としては知っているが、モチヅキと云われるようになったのはつい最近、「此間」のことである。そのために割注形式で大切な情報が与えられている。そして、ではそのモチヅキとはどういう現象でしょうか、と逆に謎かけをしている。その頓智の解が(c)である。わかっていれば(c)で訓み、なるほどおもしろいということになる。
「望」字を上一段動詞のミル(見、観、視)と訓んで助動詞ツで承けている。日月が「遥かに相望(み)つる」状態のことを問いかけている。日月が東西に分かれて相ミツル→ミツ(満)に決まっている。天文学的にも正確な解説と言える。だから、あえて釈名の記事の「月満之名也。」という幼稚でうるさい説明を排除している。
雲 説文云雲〈王分反和名久毛〉山川出氣也(巻第一)
説文に、「雲 山川气也。从雨、云象雲回転形。凡雲之属皆从雲。」とある。和名類聚抄に「出」字が加わっている。「山川」自体の「気」ではなく、「山川」が「出」す「気」であると述べている。より正確な表現であるとはいえ、わざとらしさがぬぐえない。訓み方として、大別して次の三つの方法があると考える。
(a)雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛(くも)〉は山川の出気(しゅっき)なりといふ。
(b)雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛(くも)〉は山川の出(いだ)す気なりといふ。
(c)雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛(くも)〉は山川の出(い)づる気なりといふ。
(a)は書き入れ本からそう訓んでいたと推測される訓み方である。しかし、源順が「出」という衍字を入れた段階で熟語を音読みすることは考えにくい。「和名」類聚抄のために漢語を創作するのは方針に反している。(b)は、雲というものは山川がそこから外へと出している気のことですよ、という説明になっている。他動詞を使えば、山川付近に発生した雲が平野に移動することも表すことになる。けれども、cloud の雲は、海から流れてきたり、上空の高いところに薄く伸びているものもあって、気象学にいう雲全般を示すのに適切とは言えない。山川にこだわっているからには、山登りしたときに経験するガスが、外から見れば雲のことだということを言いたいのであろう。
彼が解説したいのは、「雲」がどうして和名にクモというのかということである。そこで(c)と訓むことが推奨される。蜘蛛が張る網のことを古語にイと言った。イヅル(出)はイ(網)+ツル(吊)を連想させ、蜘蛛が巣網を張り吊るように、もやっと山川に懸るのが雲なのだと述べている。クモ(蜘蛛)のしていることと同じようなことだからクモ(雲)と言うのだという主張である。これが和名の語源を示そうとしているのか、洒落を飛ばしているのか、漢土の辞書を引いて解釈の正しさを論じようとしているのか、諧謔にしてわからない。確からしい点は、源順の頭の中ではそうネタ作りされていたらしいということである。
霞 唐韻云霞〈胡加反和名加須美〉赤氣雲也(巻第一)
唐韻に、「霞 赤気騰為雲。」とある。「騰為」字を欠いている。訓み方としては候補が限られる。
(a)霞 唐韻に云はく、霞〈胡加反、和名は加須美(かすみ)〉は赤気(せっき)の雲なりといふ。
(b)霞 唐韻に云はく、霞〈胡加反、和名は加須美(かすみ)〉は赤き気の雲なりといふ。
狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、どうして「赤気」なのかについて長々と諸説が述べられている。しかし、源順はそのことに無頓着で、霞は「騰為」した結果の雲ではなくて「赤気雲」そのものであるとしている。目的は、霞のことを和名にカスミと言うのはなぜか、その説明である。目的のためには手段を選ばない。霞は雲の一種であるとしているわけだが、カスミと聞けば、どこかスミ(炭)という黒いものを思い起こすことであろう。このとき、スミはもとからある固体としてではなく、炭焼きに作ることで生ずる煙のことを思い出している。
雲よりも霞の方が明度は明るい。ヤマトコトバに、古く色名がアカ(赤)、クロ(黒)、シロ(白)、アヲ(青)ばかりであったことはよく知られる。その影響は現代語に及び、イを接尾させてそのまま色彩表現となるか、黄色い、茶色いのように、間に「色」を挟まなければならないかの違いにあらわれている。そして、アカは明け、クロは暮れ、という日の出と日の入りを示す動詞の連用形から派生した言葉であることも知られている。すなわち、「赤」はアク(明、開)ことの表われとして生じていると捉えていた。
源順が割愛した「騰為」があると、アカキキノアガリテクモトナルと訓めてしまう。アカとアガとがだぶっていて、冗漫なもの言いとなる。機知ある表明のためには簡潔さが重んじられる。つまり、霞をカスミと言っているのは、アカキスミ、アカルキスミなどの訛りだからとし、また、なぜスミという言葉が使われているかといえば、炭を作るのに炭焼き小屋に火をつけて赤くなりはするが炎の起きないように風を送らず、蒸し焼きにして蒸気を生じさせているからである。炭焼き小屋の屋根の隙間から漏れ出て漂う薄煙は、カスミの様子に非常によく似ている。
霧 爾雅云地氣上天曰霧〈亡遇反與務同和名岐利今案又水氣也老子経云在天為霧在地為泉源是也〉兼名苑云一名雺〈音蒙〉一名雰〈音分〉水氣着樹木為雰也(巻第一)
霧 爾雅に云はく、地の気、天に上るを霧と曰ふといふ〈亡遇反、務と同じ、和名は岐利(きり)。今案ふるに、又、水の気なり。老子経に、天に在りて霧と為り、地に在りて泉源と為ると云ふは是なり〉。兼名苑に云はく、一名に雺〈音は蒙〉、一名に雰〈音は分〉、水の気の樹木に着くを雰と為るなりといふ。
爾雅・釈天には、「天気下、地不応曰雺、地気発、天不応曰霧、霧謂之晦、螮蝀謂之雩、螮蝀、虹也、蜺為挈弐、弇日為蔽雲。」とあり、「地の気発りて天応へざるを霧と曰ひ、霧は之れを晦と謂ふ。」となるはずのところである。「発」や「不応」を略し解している。源順は、天地の対立としていない。それよりも、後段の「水気」への言及から、「地気」について正そうとしているようにみえる。
確かに、「地(つち)の気(け)」が大気中に漂う水気である霧とどう関係するのか疑問である。それでも爾雅の記事を改変しながらでも載せている。霧の正体について、何か思うところがあるようである。ミヅがツチに絡んでいる言葉にはミヅチがある。
蛟 説文云蛟〈音交美豆知日本紀私記用大虯二字也〉竜之属也山海経云蛟似虵而四脚池魚満二千六百則蛟来為之長(巻第八)
蛟 説文に云はく、蛟〈音は交、美豆知(みづち)。日本紀私記に大虯の二字を用ゐるなり〉は竜の属(たぐひ)なりといふ。山海経に云はく、蛟は蛇に似て四つ脚あり、池の魚の二千六百に満ちたるとき、則ち蛟来りて長と為(な)るといふ。
蛇のようでありながら四つ脚だとされている。竜の仲間であり、竜のことはタツと言った。なぜタツと呼ばれるのか不明ながら、それはタツ(断、絶)と同音で、意味はキル(切、斬)と類似している。だから、ミヅチはキリに通じるということで、霧を和名にキリと言うのだという説明が罷り通ることになる。そしてまた、想像上の動物において四つ脚のついたものは他にもいる。
麒麟 瑞應圖云麒麟〈其隣二音亦作騏驎〉仁獣也牡曰麒牝曰麟也(巻第七)
麒麟 瑞応図に云はく、麒麟〈其隣の二音、亦、騏驎に作る〉は仁獣なりといふ。牡を麒と曰ひ、牝を麟と曰ふなり。
キリとキリンがよく似た音であるのは納得の行くところである。そんなことを説明するために、霧の解説に爾雅の解説を抜粋して掲げている。
雨 説文云雨〈音禹阿女〉水従雲中而下也(巻第一)
雨 説文に云はく、雨〈音は禹、阿女(あめ)〉は水の雲の中より下るなりといふ。
説文に、「雨 水从雲下也。一象天、冂象雲、水霊其間也。凡雨之属皆从雨。」とある。源順は「中」という字を衍入している。そんなことをする必要があるのか、問題視すら行われて来なかった。雲の「中」から雨が降るのかどうか、飛行機もない時代にどうしてなのかわかるものではない。それでもわざわざ「中」字を加えている。すると、「雲」という字の中にすでに「雨」という字があることに気づかされる。「雲」字の中の「雨」が「云」字を下へ突き抜け下りたのが「雨」である。「云」字は、「云々」の意、シカシカである。なにごとか喋っている音を写すのにシカシカとしている。雨は雨粒が後から後から続いて落ちてくるものである。シクシク(及々)降る。会話の音を省略したシカシカも、連続する音によって文章として成立しているところに「云ふ」ことの意味が見出せる。雨粒落下の連続を雨といい、それは漫然としたお喋りの声を掻き消して、何か言っていたが何と言っていたかわからないようにさせる作用がある。したがって、雨は雲の「中」より下るものであるとの説明こそ当を得ていると言える。
この解釈は、アメという和名を理解するのに直接的な関与を認めない。それでも、アメに限るわけではないが、和語は音であるという大原則について思い出させるものである。だからかどうかは知らないが、「雪やこんこ、霰やこんこ」に対し、「雨々降れ降れ母さんが」とくり返すようになっており、お喋りとと土砂降りとは音がよく似ている。
霈 文字集畧云霈〈音沛〉大雨也日本紀私記云大雨〈比佐女〉雨氷〈上同今案俗云比布留〉(巻第一)
霈 文字集略に云はく、霈〈音は沛〉は大雨なりといふ。日本紀私記に云はく、大雨〈比左女(ひさめ)〉は雨氷〈上に同じ。今案ふるに俗に比布留(ひふる)と云ふ〉といふ。
訓み方において大勢に影響はない。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「大雨」と「雨氷」とは別のもので、「雨氷」は「雹」の項に入れて述べなければならないとしている。アラレという場合とヒサメという場合があるのだと示すべきだというのである。
雹 陸詞云雹〈蒲角反和名阿良礼〉雨氷也(巻第一)
雹 陸詞に云はく、雹〈蒲角反、和名は阿良礼(あられ)〉は雨氷なりといふ。
源順はヒサメという一語にまとめて示している。近代に考えられている、所謂、辞書なるものを作っているのではないのである。彼が指摘しているのは、日本紀私記にヒサメとカテゴライズしている言葉のおもしろさである。兼右本推古紀九年五月条、内閣文庫本天智紀九年四月条や那波道円本二十巻本和名類聚抄などに「火雨」とある。狩谷棭斎の言では、「火雨」は防空壕と関係するようなことと述べているが、一種の忌詞と考えた方がわかりやすい。雹や大雨が降ってもすぐに融けたり蒸発することを願いつつ被害の大きいことを思うには、ヒサメ(火雨)という言葉により忌んでいたと考えられる。「失火」(天智紀六年三月)、「出火」(斉明紀五年七月)をミヅナガレと訓んでいるのと類似の言葉使いであろう。言葉が先にあって観念は後からついてくる。
霰 尓雅注云霰〈七見反字亦作𩆵和名美曽礼〉氷雪雜下也(巻第一)
霰 爾雅注に云はく、霰〈七見反、字は亦、𩆵に作る。和名は美曽礼(みぞれ)〉は氷雪の雑りて下るなりといふ。
訓み方は記されているとおりにすれば問題はない。しかし、「霰」字はアラレのことを指し、また、ミゾレは「氷雪雑下」ものではなく、「水雪雑下」ものである。どこかで勘違いをし、それをそのまま和語として定めて貫こうとしている。釈名・釈天に、「霰 星也、水雪相摶如星而散也。」とあり、伝書に「水」字を「氷」字に作るものがある。星は丸い粒と思うから「氷雪相摶」とあっておかしくない。そして、ヤマトコトバにミゾレと言うのなら、成分として水ではあるが水から逸れたものとして捉えられて然るべきである。ならば説明として、「氷雪雑下」のほうが「水雪雑下」よりもふさわしいことになる。ミゾレの実情と違うではないかと問われても、ミゾレと言うのだからミゾレ(水逸)でなくてはならないし、だから「霙」という字を提示していないのだと言い返すこともできる。漢字を項目の表題に掲げながら、和名を説明する辞書なのである。和訓でも和語でもなくて「和名」類聚抄たる所以である。
道祖 風俗通云共工氏之子好遠遊故其死後祀以為祖神〈漢語抄云道祖佐閇乃賀美〉(巻第一)
道祖 風俗通に云はく、共工氏の子、遠遊を好む。故、其の死後祀りて以て祖神と為(す)といふ。〈漢語抄に道祖は佐閉乃賀美(さへのかみ)と云ふ〉
なんとも不可解な説明である。風俗通の豆知識が登場している。道祖をサヘノカミと呼ぶのはどうしてなのか、それをサヘ(塞)の義によらず、風俗通義の文言に求めているのである。「祖 謹按、礼伝、共工之子曰脩、好遠遊、舟車所至、足跡所達、靡不窮覧、故祀以為祖神。祖者徂也。」と見える。客死したから徂であって祖神としたということのようである。共工氏は悪族、奇属であろうとされている。それでも全世界を見知っているから神として祀ることになっている。そんな者でさえ神だというのだから、添加を表す助詞サヘを使ってサヘノカミというのだと説明している。
醜女 日本紀私記云醜女〈志古米〉或説黄泉之鬼也今世人為恐小児稱〈許々女〉者此語之訛也(巻第一)
訓み方として、大別して次の三つの方法があると考える。
(a)醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米(しこめ)〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、小児を恐るるが為に称〈許々女(こゞめ)〉するは此の語の訛れるなり。
(b)醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米(しこめ)〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、小児を恐りて称〈許々女(こゞめ)〉と為るは此の語の訛れるなり。
(c)醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米(しこめ)〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、恐(かしこ)みて小児の称(たたへ)〈許々女(こゞめ)〉と為るは此の語の訛れるなり。
シコメ(醜女)の条に小児の称のコゴメが出てきている。小児を「恐」とする理由は、泣く子と地頭には勝てぬからなのであろうか。しかし、醜女の出所を日本紀私記、つまりは日本書紀に求めている。黄泉国から伊弉諾尊が還ろうとするときに伊弉冉尊が派兵したのが「泉津醜女(よもつしこめ)」(神代紀第五段一書第六)である。この醜女と小児とのつながりは、コメという音以外に考えられない。小児をコゴメと称する理由には、転げまわったりうつ伏せになったりしたら危険だから、布団にくるんで手足の自由を利かなくして籠に入れて置いておくことである。イジコ、エジコ、イズメコなどと呼ばれ、嬰児籠と記されるものがそれである。お櫃の保温用にも用いられるからフゴ(畚)ともいう。やっていることは、手足を拘束して檻に入れているのと等しい。枷(かし)につないで檻に籠めている。また、囲いを作って中に入れ、動かないようにすることをシコメ(為籠)と言った。「一の宝なりける鍛冶工匠(かぢたくみ)六人を召し取りて、たはやすく人寄り来まじき家を造りて竃を三重に為籠(しこ)めて工匠らを入れたまひつつ、皇子も同じ所に籠りたまひて、」(竹取物語)とある。ここにシコメとコゴメは類語となっている。よって、小児に対してカシコムこと、おそれつつしむところとなり、コゴメなどと祝詞風に称えごとをしていると述べて適当であるとわかるのである。
コゴメ?(狩野永徳筆、上杉本洛中洛外図屏風左隻二扇部分、「伝国の杜だより」Vol.30.https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/dayori/dayori30.pdfをトリミング)
氷 四聲字苑云氷〈筆凌反和名比一云古保利〉水寒凍結也凍〈音東又去聲〉寒水結氷也(巻第一)
(a)氷 四声字苑に云はく、氷〈筆凌反、和名は比(ひ)。一に古保利(こほり)と云ふ〉は水寒くして凍結するなり、凍〈音は東、又、去声〉は寒き水の結氷するなりといふ。
(b)氷 四声字苑に云はく、氷〈筆凌反、和名は比(ひ)。一に古保利(こほり)と云ふ〉は水寒くして凍り結(むすぼほ)るなり、凍〈音は東、又、去声〉るは寒き水の氷に結るなりといふ。
氷のことをヒ、または、コホリと言っている。その説明に「凍結」とあるのなら、(a)のように漢語読みするのではなく、(b)のように訓読すべきである。コリ(凍)ムスボホル(結)の転訛としてコホリという語があるとすれば、信憑性はともかく説明したことにはなっている。四声字苑は佚書である。
溝 釋名云田間之水曰溝〈古候反和名美曽又用渠字〉縦横相交構也(巻第一)
溝 釈名に云はく、田の間の水を溝〈古候反、和名は美曽(みぞ)、又、渠の字を用ゐる〉と曰ひ、縦横に相交(か)ひ構ふるなりといふ。
ミゾ(溝、溝)は田の間にあるものとは限らないと思うが、都合がいいと思って釈名の記事を引いてきている。「縦横相交構也」とは条里地割した田に縦横に十字に交差するように水路がめぐらされていることを指していると考えられる。そういう構えとなっているとしている。漢字のなかにそれはよみとれる。「田」という字を見れば、中に「十」字が一つある。「構」とあるからには「田」字の構え、「囗」のことを考慮に入れなければならない。「田」は「囗」のミゾに囲まれている。つまり、「囗」とは「囲」うことに等しい。その字に書かれている「十」字は二つあり、それで「井」の形を構成している。都合、三つの「十」があることになり、三十のことはミソと言う。だから、ミゾというのだという説明になっている。
渚 韓詩注云一溢一否曰渚〈昌與反和名奈岐散〉(巻第一)
渚 韓詩注に云はく、一たびは溢れ一たびは否(いさ)なるを渚〈昌与反、和名は奈岐散(なぎさ)〉と曰ふといふ。
あまり引かないであろう文献を持ち出している。詩経・国風・召南・江有汜にある「江有渚」の「渚」の解説に、「韓詩」の「雲」にあるという「一溢一否曰渚。」という釈が残る。川や池、海などの水が溢れると、水陸の境界がなくなる。そこはキシという場所である。
涯岸 爾雅集注云水辺曰涯〈五佳反和名岐之下同〉涯陗而高曰岸(巻第一)
涯岸 爾雅集注に云はく、水辺は涯〈五佳反、和名は岐之(きし)、下も同じ〉と曰ひ、涯の陗(さが)しくて高きを岸と曰ふといふ。
水陸の境界がなくなるとは、ナ(無、勿、莫)+キシ(涯、岸)状態である。水嵩が減れば再び現れるわけであるが、それを否定の語、イサ(否)で表している。ナギシであったり、ナギシというにはイサであったりすることを、ナギサと言っている。そういう説明として引用が行われている。
岬 唐韻云岬〈古狎反日本紀私記云美佐岐〉山側也(巻第一)
岬 唐韻に云はく、岬〈古狎反、日本紀私記に美佐岐(みさき)と云ふ〉は山の側(かたはら)なりといふ。
ミサキ(岬)という和語は海や湖に突き出した山の先端部をいう。そう使われてきた。しかし、和名類聚抄では唐韻を引いて「岬 山側也」としている。本邦では、漢土の字義とニュアンスが異なる使い方をしているのである。集韻に、「岬 古狎切、音甲。山旁也。」と見える。字を入れ違えるほどのことか不明ながら、字形に見入るべきことが求められているようである。「岬」という字の「山」の「側」にあるのは、つまりは旁は「甲」という字である。甲乙丙丁の甲、イの一番のことである。一番先頭にあること、御行列の先払いのことをミサキと言う。「岬」がミサキなのは、「甲」がミサキであることと重なることであると言っている。
そして、「甲」の音はカフである。頭部のことをカブと言い、塊になっていてばらばらにはならないもののことである。カブ(頭)に被る兜は「甲」字で表すことも多い。波に洗われても崩れることのない、水際の山の突き出しを示すことにかなっている。「和名」の説明をして、和語の説明は放っておいている。
石〈鍾乳附〉 陸詞曰石〈常尺反和名以之〉凝土也新抄本草云石鍾乳〈出備中國英賀郡和名以之乃知〉(巻第一)
石〈鍾乳附〉 陸詞に曰はく、石〈常尺反、和名は以之(いし)〉は凝土なりといふ。新抄本草に云はく、石鍾乳〈備中国英賀郡に出づ、和名は以之乃知(いしのち)〉といふ。
「石」の項目に「鍾乳」石を附け出している。「石 凝土也」などという半分ぐらいしか当たっていない説を補強しようとしている。鍾乳石は滴る水気に含まれている土の成分が凝り固まって成るものである。人の乳が凝り固まって石となるかは不明ながら、ソ(蘇、酥)と呼ばれたチーズのことは知られていた。
酥 陶隠居曰酥〈音與蘇同俗音曽〉牛羊乳所為也(巻第四)
酥 陶隠居に曰はく、酥〈音は蘇と同じ、俗に音は曽〉は牛羊の乳の所為(しわざ)なりといふ。
ソという和語は、イソ(磯、礒)の頭音の脱落した形であり、岩石ごつごつのところである。だから、チーズのことを言うソ(蘇、酥)は石の類であると考えて支障ないのである。
伝本に「鍾乳」を「鐘乳」と誤るものがあるが、「鐘乳」なるものは釣鐘に見える。表面に並んでいるいぼいぼのことで、それは「乳(ち)」と呼ばれる。鐘が小石を身に着けていると見立てられる。そう言えるのは、細工や技巧のすぐれていることを、形容詞にイシと言い、また、女房詞にイシイシとはお団子のことを呼ぶからである。つまり、泥団子遊びに技巧を凝らすのに興じた経験を有し、大人になった今はお団子が大好きな者であるならば、「凝土」によってイシ(石)ができることになるほどと溜飲を下げることとなるのである。
田 釋名云土已耕者為田〈徒年反和名多漢語抄云水田古奈太〉田填也五穀填満其中也(巻第一)
田 釈名に云はく、土の已に耕す者を田〈徒年反、和名は多(た)、漢語抄に水田は古奈太(こなた)と云ふ〉と為(す)といふ。田は填(み)つなり。五穀は其の中に填ち満ちしきなり。
釈名・釈地に、「土 吐也、吐生万物也。已耕者曰田。田 填也、五稼填満其中也。」とある。ほぼそれを引いている。漢土で「田填也」と説明したがる理由は音にある。テン(デン)である。「田」が「填」と同じである理由は、「五稼(穀)填満其中也」ということで説明しきれている。本邦においても訓みに正しいか検証してみている。「田」という字は三本線が縦横に刻まれている。「田」字はミツ(三)の完成形である。だから、ミツ(填)と言って正しい。たくさんの稔りで填つこと、それが田であると理解できる。さらに「五穀填満其中也」と駄目を押している。穀物が田の中に填満するとは、満ち満ちているという意であろう。今日、ミチミチテイルというが、ミチミチは中古に道道、あちらこちらの道全部のこと、ミチミチシもいかにも道理がかなっているという意であった。田は条里に区切られて、溝と畦道が縦横に筋目正しく走っている。字義の道理の問題として「田」はミチミチであり、字形はミツミツ(三|||)なのである(注3)。
町 蒼頡篇云町〈他丁反和名末知〉田區也(巻第一)
町 蒼頡篇に云はく、町〈他丁反、和名は末知(まち)〉は田区なりといふ。
田の区画のことをマチと言っており、その義が展開して市街地の条坊のこと、市場の立つところにも適用されるようになった。説明として何ら不審なところはない。蒼頡篇は佚書である。
坊〈村附〉 聲類云坊〈音方又音房末智〉別屋也又村坊也四声字苑云村〈音尊無良〉野外聚居也(巻第三)
坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音は方、又、音は房、末智(まち)〉は別屋なり、又、村坊なりといふ。四声字苑に云はく、村〈音は尊、無良(むら)〉は野外に聚り居うるなりといふ。
区(區)という字は、説文に、「區 踦區、蔵匿也。从品在匸中。品、眾也。」とある。隠すことである。また、「畋 平田也。从攴、田。」とあり、狩りのことである。狩りにおいて、隠れている獲物を勢子が追い立て、出てきたところを木の上などに隠れている射手が待ちかまえて射る。そのこともマチ(待)と呼ばれている。つまり、狩りの意の田に丁(ヲトコ、ヨホロ)をドッキングさせた字形「町」は、マチ(待)をする人に当たる。公役に供せられるべき成人男性を正丁と定めていた。ふだんは「野外聚居」している「村坊」から徴発される。隠れているようでも見つかって苦役に就かされる。丁は村坊に待機しているような存在ということになる。狩りのための要員は狩り出されるものなのである。
藪 呂氏春秋云澤無水曰藪〈蘇后反和名夜布〉(巻第一)
薮 呂氏春秋に云はく、沢の水無きを薮〈蘇后反、和名は夜布(やぶ)〉と曰ふといふ。
呂氏春秋・有始覧に、「山有九塞、沢有九藪」とあり、注に「険阻曰塞有水曰沢無水曰藪」、文選・西都賦の、「西郊則有上囿禁苑林麓藪沢陂池連乎蜀漢……」の注に「鄭玄周礼注曰沢無水曰藪」などと見える。呂氏春秋で数が多いことを「九」で表している。音が「究」に通じるからであろう。本邦で数が多いことはヤ(八)を使って表すことが多かった。八雲(やくも)、八尺(やさか)などと言っている。だから、たくさんのものが生えているところは、「粟田(あはふ)」、「豆田(まめふ)」、「園圃(そのふ)」に倣ってヤフ(ヤブ)と呼んで正しい。数多くの草本が生えているところだから草かんむりに数(數)という字で「薮(藪)」で正しい。源順が「有水曰沢無水曰藪」ではなく「沢無水曰藪」を採っているのは、たくさんの意のサハニ(多)という和語に「沢」字を当てており、「沢山」とも書くように、数の多さを伝えたく、しかも水草の生い茂りは含まないことを説明したいからであろう。穿った訓み方としては次のようになる。
薮 呂氏春秋に云はく、沢(多)にして水無きを薮〈蘇后反、和名は夜布(やぶ)〉と曰ふといふ。
牧 尚書云莱夷為牧〈音目和名无万岐〉孔安國云莱夷地名可以放牧(巻第一)
牧 尚書に云はく、莱夷を牧〈音は目、和名は無万岐(むまき)〉に為るといふ。孔安国に云はく、莱夷は地の名にして以て牧に放つべしといふ。
ムマキ(牧)はウマキの訛りとされている。キは柵、城の意で、囲いを作ってウマ(馬)をそのなかで放牧させる。それがムマキに転じている。莱夷を莱(アカザ)の生えている周縁地と考えれば、アカザは反芻動物(ウシ科の牛や羊)が食べたがらないから、馬を放牧させておくのが適当だというのが尚書の考えであると受けとったらしい。他方、孔安国の人は、莱を荒れ地の意とし、莱夷はそういう地名に当たるほど粗放にして草の少ないところと見ている。このとき、柵を巻き囲ってそのなかで飼育しようというのはなかなか難しい。すぐに飢え死んでしまう。現地に近い孔安国の人はその事情を実感して知っている。柵から放たれてしかるべきだというのである。そのことは、他の草食の家畜、牛や羊を分けて囲う必要がないことも意味している。アカザを食べたがらないからである。つまり、もはや、柵のマキ(巻)は無くてかまわないというのである。馬は、わずかにしか生えていない、そして、アカザしか生えていないところへ行き、食べている間はそこから離れようとしない。飼い主はそこへ行ってよしよしと頸を撫でてやればいい。平安時代以降、mmaki と発音したからムマキと書いたというのは、牧の形態が柵なしの無(む)巻きのところが現れたことの反映かもしれないことを和名類聚抄の記述は伝えている。無をムとした和語は、「無何有(むがう)の郷(さと)」(万3851)という例に早くも見られる。馬が逃げていく心配よりも狼に襲われる心配のほうが強く、ちょっとやそっとの柵では防げるものでもなく、怖がる馬も人から離れたくなかったからそうなったということであろう。絶妙なバランスでドメスティケーションが進行している。
姫 文字集畧云姫〈音基和名比女〉衆妾之稱也(巻第一)
姫 文字集略に云はく、姫〈音は基、和名は比女(ひめ)〉は衆妾の称なりといふ。
ヒメ(姫)はヒコ(彦)と対であることはよく知られている。しかし、和名類聚抄にヒコ(彦)について説明せず、ヒメ(姫)について「妾」字を説明に載せている。確かに「姫」は集韻に、「婦人美称。一曰王妻別名。一曰衆妾総称。」などと見える。しかし、「妾」字について、本邦ではメカケの意で用いている。「姫」は高位の女性、「妾」は低位の女のことである。なぜここに一括する説明が行われているのか、考慮されなければならない。
源順の書いているのは、「和名」類聚抄である。考える基準は和名にある。高貴な女性であるヒメという和名について、「姫」という字を当てることには自信がある。ところが、漢籍によれば、地位の低いと思っていた「妾」もヒメの一員に加えられている。それが本邦にも適合するところがあると思ったから、他の文章ではなくこれを活用している。
妾 文字集略云妾〈音接和名乎无奈米今案又有枉嫡之名本文未詳但或説言非正嫡故以枉為称也小妻也〉(巻第一)
妾 文字集略に妾〈音は接、和名は乎無奈米(をむなめ)。今案ふるに、又、枉嫡の名有り。本文は未だ詳らかならず。但し或説に言はく、正嫡に非ざる故に枉を以て称と為なり、小妻なりといふ〉と云ふ。
ヒメという和語に、ヒメイヒ(姫飯)のことを略して言うことがある。もち米を蒸しあげたコハイヒ(強飯)に対して、うるち米をやわらかく炊きあげたごはんのことである。ごくふつうのメシ(飯)である。「妾」はメシヲミナ(メシヲムナ)とも訓まれる。「宮人(めしをみな)」(天智紀七年二月)とあり、位の低い女官のことである。メシ(召)+ヲミナ(女)のことであるが、飯炊き女のことでもある。つまり、姫飯をつかさどる下級の女官たちもおしなべて「姫」に当たるということになる。公式文書でこのようなことは書けないが、勤子内親王に奉った和名類聚抄に、和語を楽しく理解できるような計らいとして記されている。
童〈侲子附〉 礼記注云童〈徒紅反和名和良波〉未冠之稱也文選東京賦注云侲子〈侲音之忍反師説和良波閇〉童男童女也(巻第一)
童〈侲子附〉 礼記注に云はく、童〈徒紅反、和名は和良波(わらは)〉は未だ冠らざる称なりといふ。文選東京賦注に云はく、侲子〈侲の音は之忍反、師説に和良波閉(わらはべ)〉は童男、童女なりといふ。
「童」を説明するのに礼記の注の「鄭氏曰童子未冠之称也」というところから引いている。他でもいいのにそうしているのは、冠をかぶることがないことを際立たせたいからである。童子の特徴を言い表すのに、髪を束ねずにぼさぼさの頭であった点をあげることがあり、かぶらないためためかカブロ(禿)とも呼ばれたが、和名抄では疾病部・瘡類に扱われている。
瘍〈禿附〉 説文云瘍〈音楊賀之良加佐〉頭瘡也周礼注云禿〈土木反加不路〉頭瘡也野王案無髪也(巻第二)
瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音は楊、賀之良加佐(かしらがさ)〉は頭の瘡なりといふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路(かぶろ)〉は頭の瘡なりといふ。野王案に髪無きなりとす。
髪を束ねなければ冠はかぶれない。そこで「未冠之称」なる説明をしている。長く伸びた髪を束ねつづけて髷にすると、髪の毛は収束して冠をかぶることができる。しかし、一点だけ束ねたのではポニーテールのようになって冠は被れない。その、一点だけ束ねるものとしては、刈り取った稲があげられる。刈り取った稲を束にして干すとき、穂は広がっていて乾燥に適している。稲穂から籾を扱(こ)き取ったあとも、筵や沓などさまざまに活用した。ワラ(藁)である。束ねた藁は髷には結わないから、子どものぼさぼさの頭髪とよく似ている。だからワラタバ(藁束)、約してワラハと言ったのであろう。
「侲」字は、馬飼を表すことがあった。後漢書・杜篤伝にある「虜𠐍侲、驅騾驢。」の注に「侲、養馬人也。」と見える。本物のポニーテールを持つ馬を飼うにも藁を使う。籾がなければ栄養価は低いから主食にはならないものの飼料に活用され、また、竪穴式住居に暮らす人間同様、厩には藁を敷き詰め、草鞋も履かされ大事にされている。
圉人 文字集略云圉〈音語圉无末加比日本紀私記云典馬弁色立成云馬子並上同〉養馬者也(巻第一)
圉人 文字集略に云はく、圉〈音は語、圉は無末加比(むまかひ)。日本紀私記に典馬と云ひ、弁色立成に馬子と云ふ。並びに上に同じ〉は馬を養ふ者なりといふ。
孫 爾雅云子之子為孫〈音尊和名無麻古〉(巻第一)
孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古(むまご)〉と為といふ。
馬飼のことは古語にウマゴ、ムマゴ(馬子)と言い、同音で孫のことも示した。「侲子」とは孫子のことになり、今日の少子化の時代とは異なってたくさんいるから、ベ(部)の民を構成するに足りると見たのであろう。
朋友 論語注云同門曰朋〈歩崩反〉尚書注云同志曰友〈云久反上声之重和名度毛太知〉文場秀句云知音得意〈朋友篇事対也故附出〉(巻第一)
朋友 論語注に云はく、門を同じくするを朋〈歩崩反〉と曰ふといふ。尚書注に云はく、志を同じくするを友〈云久反、上声の重、和名は度毛太知(ともだち)〉と曰ふといふ。文場秀句に云はく、知音とも得意ともいふ。〈朋友篇に事対(そろ)ふなり、故に附け出す〉
この項目は、和訓としてはトモダチと記されているが、トモという和語のために設けられているものと考える。漢土では、「同門曰朋」、「同志曰友」と字を違えるけれど、義はほぼ同じである。同じことを別に言っている例として、文場秀句の「知音得意」をあげている。二人がトモの間柄であるととは、琴を奏でてその音の良さを知る間柄でそうだそうだということになるとともに、話す言葉のその奥にある意図を心得る間柄でそうだそうだということともなる。それがトモである。
トモという和語は、トとモとからできている。助詞のトとモは、並立するときに、AとBと、とも、AもBも、とも言う。そこから、トモ(友、朋、共、伴)と言っていることは正しい言葉の成り立ちであると述べている。語源がそこにあるかは未詳であるし、語の成り立ちについて関心があるわけでもない。トモをいう和名を説明しようとして、和語にそういうことであり、漢籍を繙いてみても同じようなことが書いてあるから、いずれとも正しいでしょうと示しているのである。AとBと、AもBも、は「事対」形式で、まさしくトモの義にかなうから、「附出」して補足したわけである。
水手 同私記云水手〈加古今案加古者鹿子之義見于本書之注矣〉(巻第一)
水手 同私記に水手〈加古(かこ)。今案ふるに加古は鹿子の義、本書の注に見ゆ〉と云ふ。
挾杪 唐令云挟杪〈和名加知度利〉文選呉都賦云㰏工檝師〈㰏字檝字舟具〉(巻第一)
挟杪 唐令に挟杪〈和名は加知度利(かぢとり)〉と云ふ。文選呉都賦に㰏工檝師〈㰏の字と檝の字は舟具〉と云ふ。
船を漕ぐ水夫と操舵する人とは別であったことを示している。カコが「鹿子」の義であるとして憚らない。櫂を使って船を漕ぐ人がバンビであるとは俄かには信じられないが、それは、鹿の子の対にあたる鹿の親、大きな鹿とは雄鹿の大きなもの、ハーレムを作る一頭のボスのことを想定してのもの言いであろう。体も大きいが、角も立派である。長くてサヲ(竿、㰏)になっている。それをサヲシカ(さ牡鹿)と言う。船でサヲを使うのは、水底を突いて進めることばかりでなく、岸や岩礁を突いて進む方向を定すときでもある。操舵するのがさ牡鹿の役目、単に櫂を使い漕ぐのが鹿子の役目、というように見立てられていたということである。役割分担をきちんとしておかないと、船頭多くして船陸に上がることになりかねない。なお、「挾杪」の項の「文選呉都賦云㰏工檝師〈㰏字檝字舟具〉」を全部、また一部欠く伝本がある。大きな船の事情を理解していて二項を続けて読まないとわからない文である。水手には熟達した技術は要らないが、挟杪は「㰏工」や「檝師」と称されるほどでないと難破、転覆の憂き目にあう。
商賈 文選西京賦云商賈〈賈音古師説阿岐此度〉裨販百族〈師説裨販比佐岐比度百族毛々夜賀良〉(巻第一)
商賈 文選西京賦に云はく、商賈〈賈の音は古、師説に阿岐此度(あきびと)〉、裨販、百族〈師説に裨販は比佐岐比度(ひさぎびと)、百族は毛々夜賀良(ももやから)〉といふ。
種々の商売人のことをとりあげている。商いの形態にはいろいろあり、それぞれに○○屋さんである。その一括りにできないようなものをまとめている。アキビトと言ったり、ヒサギビトと言ったり、言いわけられないからモモヤカラなどと漠然とした言い方をしている。今日でも、職業を尋ねるとき、何をされている人ですか? と曖昧に問い、○○関係の仕事をしていますとオブラートに包んだ答えをしている。関係という語は、関係している事柄全般であって、どこまで○○と関係しているのかわからないが、それを突き詰めて知りたいなら、働いている場に立ち会い、一緒になって働いてみなければ理解できないことが多いであろう。同じ商品を売るにしても、その場で商品と金銭とをやり取りして終わりなのか、商品を自宅に届ける所までするのか、瑕疵を修理して引き渡すのか、割賦販売で取り立てる所まで含むのか、アフターサービスは付いているのか、偽物まがい物ないしは贋金を渡しているのか、詐欺行為に及んでいるのかなど、商いに付いて回る付帯事項は多すぎて実態を一概に決めることはできない。そのひろがりについて言い及んだ記述として、文選西京賦の「爾乃商賈百族、裨販夫婦。鬻良雑苦、蚩眩辺鄙。」という字面を利用している。
師説の訓を用いている。源順が文選読みによんでいたか不明ながら、仮定してみると、「爾して乃ち、商賈(しゃうこ)のあきひとの百族(ひゃくぞく)のももやから、裨販(ひはん)のひさぎびとの夫婦(ふうふ)のをふとめとあり。良きを鬻(ひさ)ぎ苦(あしき)を雑(まじ)へ、辺鄙(へんぴ)のあづまつを蚩眩(しげん)してあざむきかがやかす。」となる。以下の項に反映している。
辺鄙 文選云蚩眩辺鄙〈師説辺鄙阿豆末豆蚩眩阿佐无岐加々夜賀須〉世説注云東野之鄙語也〈今案俗用東人二字其義近矣〉(巻第一)
辺鄙 文選に云はく、辺鄙を蚩眩すといふ〈師説に辺鄙は阿豆末豆(あづまつ)、蚩眩は阿佐無岐加々夜賀須(あざむきかがやかす)とす〉。世説注に云はく、東野の鄙語なりといふ。〈今案ふるに俗に東人の二字を用ゐる。其の義近し〉
蕩子 文選詩蕩子行不歸〈漢語抄云蕩子太和礼乎〉(巻第一)
蕩子 文選詩に蕩子行きて帰らずとあり。〈漢語抄に蕩子は太和礼乎(たわれを)と云ふ〉
狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「○所レ引古詩十九首之二、按説文、蕩、水出二河内蕩陰一、東入二黄沢一、非二此義一、又有二盪字一、云滌器也、転為二揺動之義一、再転為二放縦之義一、則放蕩字、作レ盪為レ正、後人借レ蕩為レ盪、盪字遂廃、尾張本波作レ和、按新撰字鏡、婬訓二太波留一、妷㛫並訓二太波志一、則知作レ和為レ誤、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209916/117)とある。この解説はほぼ間違っている。
初めて天皇(すめらみこと)、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥(ひき)ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃ひ蕩(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲(ここ)に起れり。(神武記元年正月)
蕩 今堂朗反、トク、トラク、トラカス アソブ ヒロシ、オホヒナリ、ユタカニ、ホシママ(名義抄)
「蕩(とら)かす」という他動詞は、溶解してばらばらにして締まりをなくさせ正体を失わせることである。そんな状態の動物が tiger である。本邦にいたことはなく、聞いた限りの動物で、知っているのは毛皮だけである。縞々模様にして錦繍相当のゴージャスな毛皮を目にしている。ガオーと大きく吼えると伝えられ、大きな声に肝をつぶして腰を抜かすと耳にしている。身体はネコに似ているけれどずっと頭が大きくて、歩くたびに揺動しているという。となれば首を振る張り子の虎を作ってみたくもなるし、酔っぱらいが頭を上下に大きく揺らしながら大声をあげている様はよく似ていると感じたから、酔っぱらいのことを「大虎」と呼ぶようになっている。
信貴山お土産
源順の念頭に「蕩子」は虎の子のことであった。tiger が野生に単独行動の動物であることは知られていたであろう。哺乳期が済んだら親元を離れ、当然ながら父親は知らず、母親や兄弟姉妹とも生き別れることになる。発情期に他の個体と行き合うにすぎない。行ったきり帰ってこないのが「蕩子」である。乳児期の子は「童」であり、「和良波(わらは)」と呼ばれている。接頭語のタの付いたタワラハ(た童)という形も、「手小童(たわらは)」(万619)と見える。ならば「蕩子」もタワラハのうちのヲ(男)のこと、タワラヲの転訛したタワレヲと言って正しく、タハレヲは誤りである。
母 爾雅云母為妣〈卑履反又去聲和名波々日本紀私記云母以路波〉舎人曰生称父母死稱考妣郭璞曰公羊傳恵公者隠公之考也仲子者桓公之母也明非死生之異稱矣楊氏漢語抄云阿嬢〈嬢音如羊反上同〉(巻第一)
母 爾雅に云はく、母を妣〈卑履反、又、去声、和名は波々(はは)。日本紀私記に母は以路波(いろは)と云ふ〉と為といふ。舎人曰はく、生けるを父母と称ひ、死するを考妣と称ふといふ。郭璞に曰はく、公羊伝の恵公は隠公の考なり、仲子は桓公の母なりといふ。死生の異称に非ざること明らけし。楊氏漢語抄に阿嬢〈嬢の音は如羊反、上に同じ〉と云ふ。
この項目に説明が長い。mother のことを、ハハともイロハとも呼ぶことについての言説である。生きているときは父母と称し、亡くなったら考妣と称するという説をあげつつ否定している。「妣」にハハ、「母」は日本紀私記からイロハと言うと割注で訓みを記している。「考」「父」のほうは次のようになっている。
父 爾雅云父為考〈和名知々日本紀私記云加曽〉楊氏漢語抄云阿耶〈和名上同〉(巻第一)
父 爾雅に云はく、父を考〈和名は知々(ちち)、日本紀私記に加曽(かそ)と云ふ〉と為といふ。楊氏漢語抄に阿耶〈和名は上に同じ〉と云ふ。
カゾとも言われるが、古くは清音であったとされている。「考」字に割注でカソと訓みが示されているから、もし生前と没後で変わるのなら、生前が「父」、没後が「考」でカソということになる。「父」の訓み方は記されていないが、ふつうに考えてチチであろう。
father - mother を対として並べて呼ぶとき、カソイロハ、チチハハと言う。漢字に直すと「考母」、「父妣」となって座りが悪い。「母」のことをイロハというのには、イロは同腹の意だからそれとハハ(母)とを複合してできた語かとの説がある(岩波古語辞典144頁)。ほかに考えるなら、イロハは色葉、つまり、黄葉や紅葉のことを思い起こさせる。「黄葉」は万葉集にモミチバと慣用に訓んでいる。モミチバからはモミ(揉)+チ(乳)+ハ(歯)のこと、乳児の時、ほとんど生えていない歯で母親の乳を揉んでいた。だから、「母」のことをイロハと呼んで正しい。それは生前のこととしてかまわないことでもある。しかし、生前の father なる「父」をチチと呼ぶと「乳」との間にダブルブッキングになる。
乳 考声切韻云乳〈而主反上声之重智〉母所以飲子之汁也(巻第二)
乳 考声切韻に云はく、乳〈而主反、上声の重、智(ち)〉は母の子に飲ましむる所以の汁なりといふ。
哺乳類の生に、チチ(乳)の恵みは「母」、ないしは「乳母」から授かる。現代のように育メンによる哺乳瓶は求められない。郭璞説を紹介するまでもないことだが、漢土においてもそうなのだから、「生称父母死称考」なる説は誤りであると言いたい。「舎人曰」とあるのは、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に「漢武帝時侍詔」の者かとし、文は、礼記・曲礼下の「生曰父、曰母、曰妻。死曰考、曰妣、曰嬪。」によると臆されている。筆者は、「舎人」は本邦にトネリと呼ぶ人たちのことと関わると考える。ト(助詞)+ネリ(練歩)の義をもって解され、主人に召し仕え、生死を共にする者、殉死して浄土へ共に行く者と思われていたのが舎人である。「父母」の諡(おくりな、いみな)が「考妣」であるとの言い分に理がないわけではないが、それは彼ら舎人から見たもの言いであろう。my mother のことをハハ、イロハと呼ぶのとは立場が違う。楊氏漢語抄に「阿嬢」、「阿耶」としているのは、親しみを込めて接する子の気持ちをよく代弁している。
妻 白虎通云妻齊也與夫齊躰也(巻第一)
妻 白虎通に云はく、妻は斉なり、夫と躰(み)を斉(ひと)しくすればなりといふ。
和訓のない項目である。二十巻本に「妻〈西反和名米〉」とあり、メと訓んだのであろうとされる。イザナキ、イザナミの昔から、躰を一つにしようとする際には両性の合意に基づいていた。夫側が身を一つにしようと思い、妻側もそう思って合体している。互いの意志が一致している。意志を示す助動詞はムである。ミ(身、躰、体)の古形、ムにひとしい。そして、その意志がすでに貫徹された時、つまりは已然のこととなったとき、助動詞ムはメと活用する。だから、「与夫斉躰」によって「妻」はメと呼ばれて正しいのである。基本的な和語で訓が示されていない他の例同様、本文の説明を読めばわかることだから謎かけとして出題されているものである。妻のことを言うメも助動詞ムの已然形メもともに乙類であり、早くから頓智的解釈が行われていたことを予感させる。源順はそれに沿っていて、音もサイとひとしくなる漢籍を探してきて記したと考えられる。
きちんと読むとこのようになかなか読み進むことができない。きちんと読むとは、伝本の比較分析や語義の解説、引書の整理などではなく、源順がどのように“読む”ことを願って書いたのかを考えることである。これが真の意味で“読む”ことで、研究史上ほとんど初めての試みである。和名類聚抄に対していつまでも節穴であってはいけないから、気長にではあれ確実に進めなければならない。言葉とは何かについての奥義がそこかしこにひかえているのだから(注4)。
(注)
(注1)拙稿「和名抄の和訓のない項目について」参照。
(注2)それで良いのではないかと考える。馬渕和夫氏も読んでいるだけだから本当にそう言っていたのかは不明であるといい、杉本つとむ氏や築島裕氏も「俗云」「此間云」「訓」「読」などと書き分けているのはなぜかなど課題は多いとしながら、その後は和名類聚抄についての研究論文を著さないままであった。頭の中を覗くことはおもしろくもあり、難しくもある。
(注3)拙稿「和名抄の「田」について」参照。
(注4)福田定良『落語としての哲学』(法政大学出版社、1973年)は、国会図書館では「大衆演芸」の本として「779.1」に分類・整理しているが、言葉とは何かについてよく語っている。同書の推薦文を、藤田省三(政治思想)、田中克彦(社会言語学)らに見ることができる。
そのような書きっぷりを支えているのは、和語を中国に漢字でどう書いてあるかを示し、それがどうして和語にそう読まれていて正しいかという、行って来いの記述によっている。あくまでもヤマトコトバで考えていて、言葉を選んでおり、それに当たる漢字で書かれた文献を引いてきて、その言葉の確かなることを示している。言葉について理屈っぽく記しているのだから、当然の成り行きとして、漢文はその義を示したくて書かれている。すなわち、和名類聚抄の文章は、“義訓”できることを目指して書いたものであった。すべての言葉にそれができれば良かったのであるが、動植物名などに至ってはただの羅列になってしまっているところも多い。それでももともとの目的について片鱗を伺い知るのに十分である。各項目ごとに具体的に和名類聚抄を“読む”ことが、すべてを悟る唯一の方法である。むろん、どこに心血を注いで考え落ちにしているのか、筆者の力では十全に知ることはできないから、網羅的解説にはならないことを予め断っておく(注2)。
望月 釋名云望〈此間云望月毛知豆岐〉月大十六日小十五日日在東月在西遥相望也(巻第一)
釈名・釈天に、「望 月満之名也。月大十六日、小十五日。日在東、月在西、遥相望也。」とある。和名類聚抄に、「満」の字を損なっている。そして、項目として「望」ではなく、「望月」を採っている。訓み方として、大別して次の三つの方法があると考える。
(a)望月 釈名に云はく、望〈此の間に望月は毛知豆岐(もちづき)と云ふ〉月は、大は十六日、小は十五日の、日は東に在りて月は西に在りて遥かに相望(のぞ)むなりといふ。
(b)望月 釈名に云はく、望〈此の間に望月は毛知豆岐(もちづき)と云ふ〉は、月の大は十六日、小は十五日に、日は東に在りて月は西に在り、遥かに相望(のぞ)むなりといふ。
(c)望月 釈名に云はく、望〈此の間に望月は毛知豆岐(もちづき)と云ふ〉は、月の大は十六日、小は十五日、日は東に在りて月は西に在り、遥かに相望(み)つるなりといふ。
(a)は釈名の謂いをそのまま引いた訓み方である。望月は日と相対して望むから望月というのだという主張である。しかし、源順は、「月満之名也。」というわかりやすい説明部分をまるごと割愛している。そして、「望」と「月」との間に割注を挿し込んでいる。すると、「望」という字を説明することで、望月の説明に当てたという可能性があらわれる。それが(b)の訓み方である。month の意の月が大なら16日、小なら15日に、日と相望む状態の時、その時の月を望月と言うのだ、という解釈である。とはいうものの、month と moon とを混同させて憚らない姿勢には、何か意図があると感じられる。そのために「月満之名也。」を省いているのではないか。
「和名類聚抄」は大人のために作られた辞書である。モチヅキが満月であることを知らない人はいない。現象としては知っているが、モチヅキと云われるようになったのはつい最近、「此間」のことである。そのために割注形式で大切な情報が与えられている。そして、ではそのモチヅキとはどういう現象でしょうか、と逆に謎かけをしている。その頓智の解が(c)である。わかっていれば(c)で訓み、なるほどおもしろいということになる。
「望」字を上一段動詞のミル(見、観、視)と訓んで助動詞ツで承けている。日月が「遥かに相望(み)つる」状態のことを問いかけている。日月が東西に分かれて相ミツル→ミツ(満)に決まっている。天文学的にも正確な解説と言える。だから、あえて釈名の記事の「月満之名也。」という幼稚でうるさい説明を排除している。
雲 説文云雲〈王分反和名久毛〉山川出氣也(巻第一)
説文に、「雲 山川气也。从雨、云象雲回転形。凡雲之属皆从雲。」とある。和名類聚抄に「出」字が加わっている。「山川」自体の「気」ではなく、「山川」が「出」す「気」であると述べている。より正確な表現であるとはいえ、わざとらしさがぬぐえない。訓み方として、大別して次の三つの方法があると考える。
(a)雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛(くも)〉は山川の出気(しゅっき)なりといふ。
(b)雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛(くも)〉は山川の出(いだ)す気なりといふ。
(c)雲 説文に云はく、雲〈王分反、和名は久毛(くも)〉は山川の出(い)づる気なりといふ。
(a)は書き入れ本からそう訓んでいたと推測される訓み方である。しかし、源順が「出」という衍字を入れた段階で熟語を音読みすることは考えにくい。「和名」類聚抄のために漢語を創作するのは方針に反している。(b)は、雲というものは山川がそこから外へと出している気のことですよ、という説明になっている。他動詞を使えば、山川付近に発生した雲が平野に移動することも表すことになる。けれども、cloud の雲は、海から流れてきたり、上空の高いところに薄く伸びているものもあって、気象学にいう雲全般を示すのに適切とは言えない。山川にこだわっているからには、山登りしたときに経験するガスが、外から見れば雲のことだということを言いたいのであろう。
彼が解説したいのは、「雲」がどうして和名にクモというのかということである。そこで(c)と訓むことが推奨される。蜘蛛が張る網のことを古語にイと言った。イヅル(出)はイ(網)+ツル(吊)を連想させ、蜘蛛が巣網を張り吊るように、もやっと山川に懸るのが雲なのだと述べている。クモ(蜘蛛)のしていることと同じようなことだからクモ(雲)と言うのだという主張である。これが和名の語源を示そうとしているのか、洒落を飛ばしているのか、漢土の辞書を引いて解釈の正しさを論じようとしているのか、諧謔にしてわからない。確からしい点は、源順の頭の中ではそうネタ作りされていたらしいということである。
霞 唐韻云霞〈胡加反和名加須美〉赤氣雲也(巻第一)
唐韻に、「霞 赤気騰為雲。」とある。「騰為」字を欠いている。訓み方としては候補が限られる。
(a)霞 唐韻に云はく、霞〈胡加反、和名は加須美(かすみ)〉は赤気(せっき)の雲なりといふ。
(b)霞 唐韻に云はく、霞〈胡加反、和名は加須美(かすみ)〉は赤き気の雲なりといふ。
狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、どうして「赤気」なのかについて長々と諸説が述べられている。しかし、源順はそのことに無頓着で、霞は「騰為」した結果の雲ではなくて「赤気雲」そのものであるとしている。目的は、霞のことを和名にカスミと言うのはなぜか、その説明である。目的のためには手段を選ばない。霞は雲の一種であるとしているわけだが、カスミと聞けば、どこかスミ(炭)という黒いものを思い起こすことであろう。このとき、スミはもとからある固体としてではなく、炭焼きに作ることで生ずる煙のことを思い出している。
雲よりも霞の方が明度は明るい。ヤマトコトバに、古く色名がアカ(赤)、クロ(黒)、シロ(白)、アヲ(青)ばかりであったことはよく知られる。その影響は現代語に及び、イを接尾させてそのまま色彩表現となるか、黄色い、茶色いのように、間に「色」を挟まなければならないかの違いにあらわれている。そして、アカは明け、クロは暮れ、という日の出と日の入りを示す動詞の連用形から派生した言葉であることも知られている。すなわち、「赤」はアク(明、開)ことの表われとして生じていると捉えていた。
源順が割愛した「騰為」があると、アカキキノアガリテクモトナルと訓めてしまう。アカとアガとがだぶっていて、冗漫なもの言いとなる。機知ある表明のためには簡潔さが重んじられる。つまり、霞をカスミと言っているのは、アカキスミ、アカルキスミなどの訛りだからとし、また、なぜスミという言葉が使われているかといえば、炭を作るのに炭焼き小屋に火をつけて赤くなりはするが炎の起きないように風を送らず、蒸し焼きにして蒸気を生じさせているからである。炭焼き小屋の屋根の隙間から漏れ出て漂う薄煙は、カスミの様子に非常によく似ている。
霧 爾雅云地氣上天曰霧〈亡遇反與務同和名岐利今案又水氣也老子経云在天為霧在地為泉源是也〉兼名苑云一名雺〈音蒙〉一名雰〈音分〉水氣着樹木為雰也(巻第一)
霧 爾雅に云はく、地の気、天に上るを霧と曰ふといふ〈亡遇反、務と同じ、和名は岐利(きり)。今案ふるに、又、水の気なり。老子経に、天に在りて霧と為り、地に在りて泉源と為ると云ふは是なり〉。兼名苑に云はく、一名に雺〈音は蒙〉、一名に雰〈音は分〉、水の気の樹木に着くを雰と為るなりといふ。
爾雅・釈天には、「天気下、地不応曰雺、地気発、天不応曰霧、霧謂之晦、螮蝀謂之雩、螮蝀、虹也、蜺為挈弐、弇日為蔽雲。」とあり、「地の気発りて天応へざるを霧と曰ひ、霧は之れを晦と謂ふ。」となるはずのところである。「発」や「不応」を略し解している。源順は、天地の対立としていない。それよりも、後段の「水気」への言及から、「地気」について正そうとしているようにみえる。
確かに、「地(つち)の気(け)」が大気中に漂う水気である霧とどう関係するのか疑問である。それでも爾雅の記事を改変しながらでも載せている。霧の正体について、何か思うところがあるようである。ミヅがツチに絡んでいる言葉にはミヅチがある。
蛟 説文云蛟〈音交美豆知日本紀私記用大虯二字也〉竜之属也山海経云蛟似虵而四脚池魚満二千六百則蛟来為之長(巻第八)
蛟 説文に云はく、蛟〈音は交、美豆知(みづち)。日本紀私記に大虯の二字を用ゐるなり〉は竜の属(たぐひ)なりといふ。山海経に云はく、蛟は蛇に似て四つ脚あり、池の魚の二千六百に満ちたるとき、則ち蛟来りて長と為(な)るといふ。
蛇のようでありながら四つ脚だとされている。竜の仲間であり、竜のことはタツと言った。なぜタツと呼ばれるのか不明ながら、それはタツ(断、絶)と同音で、意味はキル(切、斬)と類似している。だから、ミヅチはキリに通じるということで、霧を和名にキリと言うのだという説明が罷り通ることになる。そしてまた、想像上の動物において四つ脚のついたものは他にもいる。
麒麟 瑞應圖云麒麟〈其隣二音亦作騏驎〉仁獣也牡曰麒牝曰麟也(巻第七)
麒麟 瑞応図に云はく、麒麟〈其隣の二音、亦、騏驎に作る〉は仁獣なりといふ。牡を麒と曰ひ、牝を麟と曰ふなり。
キリとキリンがよく似た音であるのは納得の行くところである。そんなことを説明するために、霧の解説に爾雅の解説を抜粋して掲げている。
雨 説文云雨〈音禹阿女〉水従雲中而下也(巻第一)
雨 説文に云はく、雨〈音は禹、阿女(あめ)〉は水の雲の中より下るなりといふ。
説文に、「雨 水从雲下也。一象天、冂象雲、水霊其間也。凡雨之属皆从雨。」とある。源順は「中」という字を衍入している。そんなことをする必要があるのか、問題視すら行われて来なかった。雲の「中」から雨が降るのかどうか、飛行機もない時代にどうしてなのかわかるものではない。それでもわざわざ「中」字を加えている。すると、「雲」という字の中にすでに「雨」という字があることに気づかされる。「雲」字の中の「雨」が「云」字を下へ突き抜け下りたのが「雨」である。「云」字は、「云々」の意、シカシカである。なにごとか喋っている音を写すのにシカシカとしている。雨は雨粒が後から後から続いて落ちてくるものである。シクシク(及々)降る。会話の音を省略したシカシカも、連続する音によって文章として成立しているところに「云ふ」ことの意味が見出せる。雨粒落下の連続を雨といい、それは漫然としたお喋りの声を掻き消して、何か言っていたが何と言っていたかわからないようにさせる作用がある。したがって、雨は雲の「中」より下るものであるとの説明こそ当を得ていると言える。
この解釈は、アメという和名を理解するのに直接的な関与を認めない。それでも、アメに限るわけではないが、和語は音であるという大原則について思い出させるものである。だからかどうかは知らないが、「雪やこんこ、霰やこんこ」に対し、「雨々降れ降れ母さんが」とくり返すようになっており、お喋りとと土砂降りとは音がよく似ている。
霈 文字集畧云霈〈音沛〉大雨也日本紀私記云大雨〈比佐女〉雨氷〈上同今案俗云比布留〉(巻第一)
霈 文字集略に云はく、霈〈音は沛〉は大雨なりといふ。日本紀私記に云はく、大雨〈比左女(ひさめ)〉は雨氷〈上に同じ。今案ふるに俗に比布留(ひふる)と云ふ〉といふ。
訓み方において大勢に影響はない。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「大雨」と「雨氷」とは別のもので、「雨氷」は「雹」の項に入れて述べなければならないとしている。アラレという場合とヒサメという場合があるのだと示すべきだというのである。
雹 陸詞云雹〈蒲角反和名阿良礼〉雨氷也(巻第一)
雹 陸詞に云はく、雹〈蒲角反、和名は阿良礼(あられ)〉は雨氷なりといふ。
源順はヒサメという一語にまとめて示している。近代に考えられている、所謂、辞書なるものを作っているのではないのである。彼が指摘しているのは、日本紀私記にヒサメとカテゴライズしている言葉のおもしろさである。兼右本推古紀九年五月条、内閣文庫本天智紀九年四月条や那波道円本二十巻本和名類聚抄などに「火雨」とある。狩谷棭斎の言では、「火雨」は防空壕と関係するようなことと述べているが、一種の忌詞と考えた方がわかりやすい。雹や大雨が降ってもすぐに融けたり蒸発することを願いつつ被害の大きいことを思うには、ヒサメ(火雨)という言葉により忌んでいたと考えられる。「失火」(天智紀六年三月)、「出火」(斉明紀五年七月)をミヅナガレと訓んでいるのと類似の言葉使いであろう。言葉が先にあって観念は後からついてくる。
霰 尓雅注云霰〈七見反字亦作𩆵和名美曽礼〉氷雪雜下也(巻第一)
霰 爾雅注に云はく、霰〈七見反、字は亦、𩆵に作る。和名は美曽礼(みぞれ)〉は氷雪の雑りて下るなりといふ。
訓み方は記されているとおりにすれば問題はない。しかし、「霰」字はアラレのことを指し、また、ミゾレは「氷雪雑下」ものではなく、「水雪雑下」ものである。どこかで勘違いをし、それをそのまま和語として定めて貫こうとしている。釈名・釈天に、「霰 星也、水雪相摶如星而散也。」とあり、伝書に「水」字を「氷」字に作るものがある。星は丸い粒と思うから「氷雪相摶」とあっておかしくない。そして、ヤマトコトバにミゾレと言うのなら、成分として水ではあるが水から逸れたものとして捉えられて然るべきである。ならば説明として、「氷雪雑下」のほうが「水雪雑下」よりもふさわしいことになる。ミゾレの実情と違うではないかと問われても、ミゾレと言うのだからミゾレ(水逸)でなくてはならないし、だから「霙」という字を提示していないのだと言い返すこともできる。漢字を項目の表題に掲げながら、和名を説明する辞書なのである。和訓でも和語でもなくて「和名」類聚抄たる所以である。
道祖 風俗通云共工氏之子好遠遊故其死後祀以為祖神〈漢語抄云道祖佐閇乃賀美〉(巻第一)
道祖 風俗通に云はく、共工氏の子、遠遊を好む。故、其の死後祀りて以て祖神と為(す)といふ。〈漢語抄に道祖は佐閉乃賀美(さへのかみ)と云ふ〉
なんとも不可解な説明である。風俗通の豆知識が登場している。道祖をサヘノカミと呼ぶのはどうしてなのか、それをサヘ(塞)の義によらず、風俗通義の文言に求めているのである。「祖 謹按、礼伝、共工之子曰脩、好遠遊、舟車所至、足跡所達、靡不窮覧、故祀以為祖神。祖者徂也。」と見える。客死したから徂であって祖神としたということのようである。共工氏は悪族、奇属であろうとされている。それでも全世界を見知っているから神として祀ることになっている。そんな者でさえ神だというのだから、添加を表す助詞サヘを使ってサヘノカミというのだと説明している。
醜女 日本紀私記云醜女〈志古米〉或説黄泉之鬼也今世人為恐小児稱〈許々女〉者此語之訛也(巻第一)
訓み方として、大別して次の三つの方法があると考える。
(a)醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米(しこめ)〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、小児を恐るるが為に称〈許々女(こゞめ)〉するは此の語の訛れるなり。
(b)醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米(しこめ)〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、小児を恐りて称〈許々女(こゞめ)〉と為るは此の語の訛れるなり。
(c)醜女 日本紀私記に云はく、醜女〈志古米(しこめ)〉は或説に黄泉の鬼なりといふ。今、世の人、恐(かしこ)みて小児の称(たたへ)〈許々女(こゞめ)〉と為るは此の語の訛れるなり。
シコメ(醜女)の条に小児の称のコゴメが出てきている。小児を「恐」とする理由は、泣く子と地頭には勝てぬからなのであろうか。しかし、醜女の出所を日本紀私記、つまりは日本書紀に求めている。黄泉国から伊弉諾尊が還ろうとするときに伊弉冉尊が派兵したのが「泉津醜女(よもつしこめ)」(神代紀第五段一書第六)である。この醜女と小児とのつながりは、コメという音以外に考えられない。小児をコゴメと称する理由には、転げまわったりうつ伏せになったりしたら危険だから、布団にくるんで手足の自由を利かなくして籠に入れて置いておくことである。イジコ、エジコ、イズメコなどと呼ばれ、嬰児籠と記されるものがそれである。お櫃の保温用にも用いられるからフゴ(畚)ともいう。やっていることは、手足を拘束して檻に入れているのと等しい。枷(かし)につないで檻に籠めている。また、囲いを作って中に入れ、動かないようにすることをシコメ(為籠)と言った。「一の宝なりける鍛冶工匠(かぢたくみ)六人を召し取りて、たはやすく人寄り来まじき家を造りて竃を三重に為籠(しこ)めて工匠らを入れたまひつつ、皇子も同じ所に籠りたまひて、」(竹取物語)とある。ここにシコメとコゴメは類語となっている。よって、小児に対してカシコムこと、おそれつつしむところとなり、コゴメなどと祝詞風に称えごとをしていると述べて適当であるとわかるのである。
コゴメ?(狩野永徳筆、上杉本洛中洛外図屏風左隻二扇部分、「伝国の杜だより」Vol.30.https://www.denkoku-no-mori.yonezawa.yamagata.jp/pdf/dayori/dayori30.pdfをトリミング)
氷 四聲字苑云氷〈筆凌反和名比一云古保利〉水寒凍結也凍〈音東又去聲〉寒水結氷也(巻第一)
(a)氷 四声字苑に云はく、氷〈筆凌反、和名は比(ひ)。一に古保利(こほり)と云ふ〉は水寒くして凍結するなり、凍〈音は東、又、去声〉は寒き水の結氷するなりといふ。
(b)氷 四声字苑に云はく、氷〈筆凌反、和名は比(ひ)。一に古保利(こほり)と云ふ〉は水寒くして凍り結(むすぼほ)るなり、凍〈音は東、又、去声〉るは寒き水の氷に結るなりといふ。
氷のことをヒ、または、コホリと言っている。その説明に「凍結」とあるのなら、(a)のように漢語読みするのではなく、(b)のように訓読すべきである。コリ(凍)ムスボホル(結)の転訛としてコホリという語があるとすれば、信憑性はともかく説明したことにはなっている。四声字苑は佚書である。
溝 釋名云田間之水曰溝〈古候反和名美曽又用渠字〉縦横相交構也(巻第一)
溝 釈名に云はく、田の間の水を溝〈古候反、和名は美曽(みぞ)、又、渠の字を用ゐる〉と曰ひ、縦横に相交(か)ひ構ふるなりといふ。
ミゾ(溝、溝)は田の間にあるものとは限らないと思うが、都合がいいと思って釈名の記事を引いてきている。「縦横相交構也」とは条里地割した田に縦横に十字に交差するように水路がめぐらされていることを指していると考えられる。そういう構えとなっているとしている。漢字のなかにそれはよみとれる。「田」という字を見れば、中に「十」字が一つある。「構」とあるからには「田」字の構え、「囗」のことを考慮に入れなければならない。「田」は「囗」のミゾに囲まれている。つまり、「囗」とは「囲」うことに等しい。その字に書かれている「十」字は二つあり、それで「井」の形を構成している。都合、三つの「十」があることになり、三十のことはミソと言う。だから、ミゾというのだという説明になっている。
渚 韓詩注云一溢一否曰渚〈昌與反和名奈岐散〉(巻第一)
渚 韓詩注に云はく、一たびは溢れ一たびは否(いさ)なるを渚〈昌与反、和名は奈岐散(なぎさ)〉と曰ふといふ。
あまり引かないであろう文献を持ち出している。詩経・国風・召南・江有汜にある「江有渚」の「渚」の解説に、「韓詩」の「雲」にあるという「一溢一否曰渚。」という釈が残る。川や池、海などの水が溢れると、水陸の境界がなくなる。そこはキシという場所である。
涯岸 爾雅集注云水辺曰涯〈五佳反和名岐之下同〉涯陗而高曰岸(巻第一)
涯岸 爾雅集注に云はく、水辺は涯〈五佳反、和名は岐之(きし)、下も同じ〉と曰ひ、涯の陗(さが)しくて高きを岸と曰ふといふ。
水陸の境界がなくなるとは、ナ(無、勿、莫)+キシ(涯、岸)状態である。水嵩が減れば再び現れるわけであるが、それを否定の語、イサ(否)で表している。ナギシであったり、ナギシというにはイサであったりすることを、ナギサと言っている。そういう説明として引用が行われている。
岬 唐韻云岬〈古狎反日本紀私記云美佐岐〉山側也(巻第一)
岬 唐韻に云はく、岬〈古狎反、日本紀私記に美佐岐(みさき)と云ふ〉は山の側(かたはら)なりといふ。
ミサキ(岬)という和語は海や湖に突き出した山の先端部をいう。そう使われてきた。しかし、和名類聚抄では唐韻を引いて「岬 山側也」としている。本邦では、漢土の字義とニュアンスが異なる使い方をしているのである。集韻に、「岬 古狎切、音甲。山旁也。」と見える。字を入れ違えるほどのことか不明ながら、字形に見入るべきことが求められているようである。「岬」という字の「山」の「側」にあるのは、つまりは旁は「甲」という字である。甲乙丙丁の甲、イの一番のことである。一番先頭にあること、御行列の先払いのことをミサキと言う。「岬」がミサキなのは、「甲」がミサキであることと重なることであると言っている。
そして、「甲」の音はカフである。頭部のことをカブと言い、塊になっていてばらばらにはならないもののことである。カブ(頭)に被る兜は「甲」字で表すことも多い。波に洗われても崩れることのない、水際の山の突き出しを示すことにかなっている。「和名」の説明をして、和語の説明は放っておいている。
石〈鍾乳附〉 陸詞曰石〈常尺反和名以之〉凝土也新抄本草云石鍾乳〈出備中國英賀郡和名以之乃知〉(巻第一)
石〈鍾乳附〉 陸詞に曰はく、石〈常尺反、和名は以之(いし)〉は凝土なりといふ。新抄本草に云はく、石鍾乳〈備中国英賀郡に出づ、和名は以之乃知(いしのち)〉といふ。
「石」の項目に「鍾乳」石を附け出している。「石 凝土也」などという半分ぐらいしか当たっていない説を補強しようとしている。鍾乳石は滴る水気に含まれている土の成分が凝り固まって成るものである。人の乳が凝り固まって石となるかは不明ながら、ソ(蘇、酥)と呼ばれたチーズのことは知られていた。
酥 陶隠居曰酥〈音與蘇同俗音曽〉牛羊乳所為也(巻第四)
酥 陶隠居に曰はく、酥〈音は蘇と同じ、俗に音は曽〉は牛羊の乳の所為(しわざ)なりといふ。
ソという和語は、イソ(磯、礒)の頭音の脱落した形であり、岩石ごつごつのところである。だから、チーズのことを言うソ(蘇、酥)は石の類であると考えて支障ないのである。
伝本に「鍾乳」を「鐘乳」と誤るものがあるが、「鐘乳」なるものは釣鐘に見える。表面に並んでいるいぼいぼのことで、それは「乳(ち)」と呼ばれる。鐘が小石を身に着けていると見立てられる。そう言えるのは、細工や技巧のすぐれていることを、形容詞にイシと言い、また、女房詞にイシイシとはお団子のことを呼ぶからである。つまり、泥団子遊びに技巧を凝らすのに興じた経験を有し、大人になった今はお団子が大好きな者であるならば、「凝土」によってイシ(石)ができることになるほどと溜飲を下げることとなるのである。
田 釋名云土已耕者為田〈徒年反和名多漢語抄云水田古奈太〉田填也五穀填満其中也(巻第一)
田 釈名に云はく、土の已に耕す者を田〈徒年反、和名は多(た)、漢語抄に水田は古奈太(こなた)と云ふ〉と為(す)といふ。田は填(み)つなり。五穀は其の中に填ち満ちしきなり。
釈名・釈地に、「土 吐也、吐生万物也。已耕者曰田。田 填也、五稼填満其中也。」とある。ほぼそれを引いている。漢土で「田填也」と説明したがる理由は音にある。テン(デン)である。「田」が「填」と同じである理由は、「五稼(穀)填満其中也」ということで説明しきれている。本邦においても訓みに正しいか検証してみている。「田」という字は三本線が縦横に刻まれている。「田」字はミツ(三)の完成形である。だから、ミツ(填)と言って正しい。たくさんの稔りで填つこと、それが田であると理解できる。さらに「五穀填満其中也」と駄目を押している。穀物が田の中に填満するとは、満ち満ちているという意であろう。今日、ミチミチテイルというが、ミチミチは中古に道道、あちらこちらの道全部のこと、ミチミチシもいかにも道理がかなっているという意であった。田は条里に区切られて、溝と畦道が縦横に筋目正しく走っている。字義の道理の問題として「田」はミチミチであり、字形はミツミツ(三|||)なのである(注3)。
町 蒼頡篇云町〈他丁反和名末知〉田區也(巻第一)
町 蒼頡篇に云はく、町〈他丁反、和名は末知(まち)〉は田区なりといふ。
田の区画のことをマチと言っており、その義が展開して市街地の条坊のこと、市場の立つところにも適用されるようになった。説明として何ら不審なところはない。蒼頡篇は佚書である。
坊〈村附〉 聲類云坊〈音方又音房末智〉別屋也又村坊也四声字苑云村〈音尊無良〉野外聚居也(巻第三)
坊〈村附〉 声類に云はく、坊〈音は方、又、音は房、末智(まち)〉は別屋なり、又、村坊なりといふ。四声字苑に云はく、村〈音は尊、無良(むら)〉は野外に聚り居うるなりといふ。
区(區)という字は、説文に、「區 踦區、蔵匿也。从品在匸中。品、眾也。」とある。隠すことである。また、「畋 平田也。从攴、田。」とあり、狩りのことである。狩りにおいて、隠れている獲物を勢子が追い立て、出てきたところを木の上などに隠れている射手が待ちかまえて射る。そのこともマチ(待)と呼ばれている。つまり、狩りの意の田に丁(ヲトコ、ヨホロ)をドッキングさせた字形「町」は、マチ(待)をする人に当たる。公役に供せられるべき成人男性を正丁と定めていた。ふだんは「野外聚居」している「村坊」から徴発される。隠れているようでも見つかって苦役に就かされる。丁は村坊に待機しているような存在ということになる。狩りのための要員は狩り出されるものなのである。
藪 呂氏春秋云澤無水曰藪〈蘇后反和名夜布〉(巻第一)
薮 呂氏春秋に云はく、沢の水無きを薮〈蘇后反、和名は夜布(やぶ)〉と曰ふといふ。
呂氏春秋・有始覧に、「山有九塞、沢有九藪」とあり、注に「険阻曰塞有水曰沢無水曰藪」、文選・西都賦の、「西郊則有上囿禁苑林麓藪沢陂池連乎蜀漢……」の注に「鄭玄周礼注曰沢無水曰藪」などと見える。呂氏春秋で数が多いことを「九」で表している。音が「究」に通じるからであろう。本邦で数が多いことはヤ(八)を使って表すことが多かった。八雲(やくも)、八尺(やさか)などと言っている。だから、たくさんのものが生えているところは、「粟田(あはふ)」、「豆田(まめふ)」、「園圃(そのふ)」に倣ってヤフ(ヤブ)と呼んで正しい。数多くの草本が生えているところだから草かんむりに数(數)という字で「薮(藪)」で正しい。源順が「有水曰沢無水曰藪」ではなく「沢無水曰藪」を採っているのは、たくさんの意のサハニ(多)という和語に「沢」字を当てており、「沢山」とも書くように、数の多さを伝えたく、しかも水草の生い茂りは含まないことを説明したいからであろう。穿った訓み方としては次のようになる。
薮 呂氏春秋に云はく、沢(多)にして水無きを薮〈蘇后反、和名は夜布(やぶ)〉と曰ふといふ。
牧 尚書云莱夷為牧〈音目和名无万岐〉孔安國云莱夷地名可以放牧(巻第一)
牧 尚書に云はく、莱夷を牧〈音は目、和名は無万岐(むまき)〉に為るといふ。孔安国に云はく、莱夷は地の名にして以て牧に放つべしといふ。
ムマキ(牧)はウマキの訛りとされている。キは柵、城の意で、囲いを作ってウマ(馬)をそのなかで放牧させる。それがムマキに転じている。莱夷を莱(アカザ)の生えている周縁地と考えれば、アカザは反芻動物(ウシ科の牛や羊)が食べたがらないから、馬を放牧させておくのが適当だというのが尚書の考えであると受けとったらしい。他方、孔安国の人は、莱を荒れ地の意とし、莱夷はそういう地名に当たるほど粗放にして草の少ないところと見ている。このとき、柵を巻き囲ってそのなかで飼育しようというのはなかなか難しい。すぐに飢え死んでしまう。現地に近い孔安国の人はその事情を実感して知っている。柵から放たれてしかるべきだというのである。そのことは、他の草食の家畜、牛や羊を分けて囲う必要がないことも意味している。アカザを食べたがらないからである。つまり、もはや、柵のマキ(巻)は無くてかまわないというのである。馬は、わずかにしか生えていない、そして、アカザしか生えていないところへ行き、食べている間はそこから離れようとしない。飼い主はそこへ行ってよしよしと頸を撫でてやればいい。平安時代以降、mmaki と発音したからムマキと書いたというのは、牧の形態が柵なしの無(む)巻きのところが現れたことの反映かもしれないことを和名類聚抄の記述は伝えている。無をムとした和語は、「無何有(むがう)の郷(さと)」(万3851)という例に早くも見られる。馬が逃げていく心配よりも狼に襲われる心配のほうが強く、ちょっとやそっとの柵では防げるものでもなく、怖がる馬も人から離れたくなかったからそうなったということであろう。絶妙なバランスでドメスティケーションが進行している。
姫 文字集畧云姫〈音基和名比女〉衆妾之稱也(巻第一)
姫 文字集略に云はく、姫〈音は基、和名は比女(ひめ)〉は衆妾の称なりといふ。
ヒメ(姫)はヒコ(彦)と対であることはよく知られている。しかし、和名類聚抄にヒコ(彦)について説明せず、ヒメ(姫)について「妾」字を説明に載せている。確かに「姫」は集韻に、「婦人美称。一曰王妻別名。一曰衆妾総称。」などと見える。しかし、「妾」字について、本邦ではメカケの意で用いている。「姫」は高位の女性、「妾」は低位の女のことである。なぜここに一括する説明が行われているのか、考慮されなければならない。
源順の書いているのは、「和名」類聚抄である。考える基準は和名にある。高貴な女性であるヒメという和名について、「姫」という字を当てることには自信がある。ところが、漢籍によれば、地位の低いと思っていた「妾」もヒメの一員に加えられている。それが本邦にも適合するところがあると思ったから、他の文章ではなくこれを活用している。
妾 文字集略云妾〈音接和名乎无奈米今案又有枉嫡之名本文未詳但或説言非正嫡故以枉為称也小妻也〉(巻第一)
妾 文字集略に妾〈音は接、和名は乎無奈米(をむなめ)。今案ふるに、又、枉嫡の名有り。本文は未だ詳らかならず。但し或説に言はく、正嫡に非ざる故に枉を以て称と為なり、小妻なりといふ〉と云ふ。
ヒメという和語に、ヒメイヒ(姫飯)のことを略して言うことがある。もち米を蒸しあげたコハイヒ(強飯)に対して、うるち米をやわらかく炊きあげたごはんのことである。ごくふつうのメシ(飯)である。「妾」はメシヲミナ(メシヲムナ)とも訓まれる。「宮人(めしをみな)」(天智紀七年二月)とあり、位の低い女官のことである。メシ(召)+ヲミナ(女)のことであるが、飯炊き女のことでもある。つまり、姫飯をつかさどる下級の女官たちもおしなべて「姫」に当たるということになる。公式文書でこのようなことは書けないが、勤子内親王に奉った和名類聚抄に、和語を楽しく理解できるような計らいとして記されている。
童〈侲子附〉 礼記注云童〈徒紅反和名和良波〉未冠之稱也文選東京賦注云侲子〈侲音之忍反師説和良波閇〉童男童女也(巻第一)
童〈侲子附〉 礼記注に云はく、童〈徒紅反、和名は和良波(わらは)〉は未だ冠らざる称なりといふ。文選東京賦注に云はく、侲子〈侲の音は之忍反、師説に和良波閉(わらはべ)〉は童男、童女なりといふ。
「童」を説明するのに礼記の注の「鄭氏曰童子未冠之称也」というところから引いている。他でもいいのにそうしているのは、冠をかぶることがないことを際立たせたいからである。童子の特徴を言い表すのに、髪を束ねずにぼさぼさの頭であった点をあげることがあり、かぶらないためためかカブロ(禿)とも呼ばれたが、和名抄では疾病部・瘡類に扱われている。
瘍〈禿附〉 説文云瘍〈音楊賀之良加佐〉頭瘡也周礼注云禿〈土木反加不路〉頭瘡也野王案無髪也(巻第二)
瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音は楊、賀之良加佐(かしらがさ)〉は頭の瘡なりといふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路(かぶろ)〉は頭の瘡なりといふ。野王案に髪無きなりとす。
髪を束ねなければ冠はかぶれない。そこで「未冠之称」なる説明をしている。長く伸びた髪を束ねつづけて髷にすると、髪の毛は収束して冠をかぶることができる。しかし、一点だけ束ねたのではポニーテールのようになって冠は被れない。その、一点だけ束ねるものとしては、刈り取った稲があげられる。刈り取った稲を束にして干すとき、穂は広がっていて乾燥に適している。稲穂から籾を扱(こ)き取ったあとも、筵や沓などさまざまに活用した。ワラ(藁)である。束ねた藁は髷には結わないから、子どものぼさぼさの頭髪とよく似ている。だからワラタバ(藁束)、約してワラハと言ったのであろう。
「侲」字は、馬飼を表すことがあった。後漢書・杜篤伝にある「虜𠐍侲、驅騾驢。」の注に「侲、養馬人也。」と見える。本物のポニーテールを持つ馬を飼うにも藁を使う。籾がなければ栄養価は低いから主食にはならないものの飼料に活用され、また、竪穴式住居に暮らす人間同様、厩には藁を敷き詰め、草鞋も履かされ大事にされている。
圉人 文字集略云圉〈音語圉无末加比日本紀私記云典馬弁色立成云馬子並上同〉養馬者也(巻第一)
圉人 文字集略に云はく、圉〈音は語、圉は無末加比(むまかひ)。日本紀私記に典馬と云ひ、弁色立成に馬子と云ふ。並びに上に同じ〉は馬を養ふ者なりといふ。
孫 爾雅云子之子為孫〈音尊和名無麻古〉(巻第一)
孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古(むまご)〉と為といふ。
馬飼のことは古語にウマゴ、ムマゴ(馬子)と言い、同音で孫のことも示した。「侲子」とは孫子のことになり、今日の少子化の時代とは異なってたくさんいるから、ベ(部)の民を構成するに足りると見たのであろう。
朋友 論語注云同門曰朋〈歩崩反〉尚書注云同志曰友〈云久反上声之重和名度毛太知〉文場秀句云知音得意〈朋友篇事対也故附出〉(巻第一)
朋友 論語注に云はく、門を同じくするを朋〈歩崩反〉と曰ふといふ。尚書注に云はく、志を同じくするを友〈云久反、上声の重、和名は度毛太知(ともだち)〉と曰ふといふ。文場秀句に云はく、知音とも得意ともいふ。〈朋友篇に事対(そろ)ふなり、故に附け出す〉
この項目は、和訓としてはトモダチと記されているが、トモという和語のために設けられているものと考える。漢土では、「同門曰朋」、「同志曰友」と字を違えるけれど、義はほぼ同じである。同じことを別に言っている例として、文場秀句の「知音得意」をあげている。二人がトモの間柄であるととは、琴を奏でてその音の良さを知る間柄でそうだそうだということになるとともに、話す言葉のその奥にある意図を心得る間柄でそうだそうだということともなる。それがトモである。
トモという和語は、トとモとからできている。助詞のトとモは、並立するときに、AとBと、とも、AもBも、とも言う。そこから、トモ(友、朋、共、伴)と言っていることは正しい言葉の成り立ちであると述べている。語源がそこにあるかは未詳であるし、語の成り立ちについて関心があるわけでもない。トモをいう和名を説明しようとして、和語にそういうことであり、漢籍を繙いてみても同じようなことが書いてあるから、いずれとも正しいでしょうと示しているのである。AとBと、AもBも、は「事対」形式で、まさしくトモの義にかなうから、「附出」して補足したわけである。
水手 同私記云水手〈加古今案加古者鹿子之義見于本書之注矣〉(巻第一)
水手 同私記に水手〈加古(かこ)。今案ふるに加古は鹿子の義、本書の注に見ゆ〉と云ふ。
挾杪 唐令云挟杪〈和名加知度利〉文選呉都賦云㰏工檝師〈㰏字檝字舟具〉(巻第一)
挟杪 唐令に挟杪〈和名は加知度利(かぢとり)〉と云ふ。文選呉都賦に㰏工檝師〈㰏の字と檝の字は舟具〉と云ふ。
船を漕ぐ水夫と操舵する人とは別であったことを示している。カコが「鹿子」の義であるとして憚らない。櫂を使って船を漕ぐ人がバンビであるとは俄かには信じられないが、それは、鹿の子の対にあたる鹿の親、大きな鹿とは雄鹿の大きなもの、ハーレムを作る一頭のボスのことを想定してのもの言いであろう。体も大きいが、角も立派である。長くてサヲ(竿、㰏)になっている。それをサヲシカ(さ牡鹿)と言う。船でサヲを使うのは、水底を突いて進めることばかりでなく、岸や岩礁を突いて進む方向を定すときでもある。操舵するのがさ牡鹿の役目、単に櫂を使い漕ぐのが鹿子の役目、というように見立てられていたということである。役割分担をきちんとしておかないと、船頭多くして船陸に上がることになりかねない。なお、「挾杪」の項の「文選呉都賦云㰏工檝師〈㰏字檝字舟具〉」を全部、また一部欠く伝本がある。大きな船の事情を理解していて二項を続けて読まないとわからない文である。水手には熟達した技術は要らないが、挟杪は「㰏工」や「檝師」と称されるほどでないと難破、転覆の憂き目にあう。
商賈 文選西京賦云商賈〈賈音古師説阿岐此度〉裨販百族〈師説裨販比佐岐比度百族毛々夜賀良〉(巻第一)
商賈 文選西京賦に云はく、商賈〈賈の音は古、師説に阿岐此度(あきびと)〉、裨販、百族〈師説に裨販は比佐岐比度(ひさぎびと)、百族は毛々夜賀良(ももやから)〉といふ。
種々の商売人のことをとりあげている。商いの形態にはいろいろあり、それぞれに○○屋さんである。その一括りにできないようなものをまとめている。アキビトと言ったり、ヒサギビトと言ったり、言いわけられないからモモヤカラなどと漠然とした言い方をしている。今日でも、職業を尋ねるとき、何をされている人ですか? と曖昧に問い、○○関係の仕事をしていますとオブラートに包んだ答えをしている。関係という語は、関係している事柄全般であって、どこまで○○と関係しているのかわからないが、それを突き詰めて知りたいなら、働いている場に立ち会い、一緒になって働いてみなければ理解できないことが多いであろう。同じ商品を売るにしても、その場で商品と金銭とをやり取りして終わりなのか、商品を自宅に届ける所までするのか、瑕疵を修理して引き渡すのか、割賦販売で取り立てる所まで含むのか、アフターサービスは付いているのか、偽物まがい物ないしは贋金を渡しているのか、詐欺行為に及んでいるのかなど、商いに付いて回る付帯事項は多すぎて実態を一概に決めることはできない。そのひろがりについて言い及んだ記述として、文選西京賦の「爾乃商賈百族、裨販夫婦。鬻良雑苦、蚩眩辺鄙。」という字面を利用している。
師説の訓を用いている。源順が文選読みによんでいたか不明ながら、仮定してみると、「爾して乃ち、商賈(しゃうこ)のあきひとの百族(ひゃくぞく)のももやから、裨販(ひはん)のひさぎびとの夫婦(ふうふ)のをふとめとあり。良きを鬻(ひさ)ぎ苦(あしき)を雑(まじ)へ、辺鄙(へんぴ)のあづまつを蚩眩(しげん)してあざむきかがやかす。」となる。以下の項に反映している。
辺鄙 文選云蚩眩辺鄙〈師説辺鄙阿豆末豆蚩眩阿佐无岐加々夜賀須〉世説注云東野之鄙語也〈今案俗用東人二字其義近矣〉(巻第一)
辺鄙 文選に云はく、辺鄙を蚩眩すといふ〈師説に辺鄙は阿豆末豆(あづまつ)、蚩眩は阿佐無岐加々夜賀須(あざむきかがやかす)とす〉。世説注に云はく、東野の鄙語なりといふ。〈今案ふるに俗に東人の二字を用ゐる。其の義近し〉
蕩子 文選詩蕩子行不歸〈漢語抄云蕩子太和礼乎〉(巻第一)
蕩子 文選詩に蕩子行きて帰らずとあり。〈漢語抄に蕩子は太和礼乎(たわれを)と云ふ〉
狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、「○所レ引古詩十九首之二、按説文、蕩、水出二河内蕩陰一、東入二黄沢一、非二此義一、又有二盪字一、云滌器也、転為二揺動之義一、再転為二放縦之義一、則放蕩字、作レ盪為レ正、後人借レ蕩為レ盪、盪字遂廃、尾張本波作レ和、按新撰字鏡、婬訓二太波留一、妷㛫並訓二太波志一、則知作レ和為レ誤、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209916/117)とある。この解説はほぼ間違っている。
初めて天皇(すめらみこと)、天基(あまつひつぎ)を草創(はじ)めたまふ日に、大伴氏の遠祖(とほつおや)道臣命(みちのおみのみこと)、大来目部(おほくめら)を帥(ひき)ゐて、密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃ひ蕩(とらか)せり。倒語の用ゐらるるは、始めて茲(ここ)に起れり。(神武記元年正月)
蕩 今堂朗反、トク、トラク、トラカス アソブ ヒロシ、オホヒナリ、ユタカニ、ホシママ(名義抄)
「蕩(とら)かす」という他動詞は、溶解してばらばらにして締まりをなくさせ正体を失わせることである。そんな状態の動物が tiger である。本邦にいたことはなく、聞いた限りの動物で、知っているのは毛皮だけである。縞々模様にして錦繍相当のゴージャスな毛皮を目にしている。ガオーと大きく吼えると伝えられ、大きな声に肝をつぶして腰を抜かすと耳にしている。身体はネコに似ているけれどずっと頭が大きくて、歩くたびに揺動しているという。となれば首を振る張り子の虎を作ってみたくもなるし、酔っぱらいが頭を上下に大きく揺らしながら大声をあげている様はよく似ていると感じたから、酔っぱらいのことを「大虎」と呼ぶようになっている。
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源順の念頭に「蕩子」は虎の子のことであった。tiger が野生に単独行動の動物であることは知られていたであろう。哺乳期が済んだら親元を離れ、当然ながら父親は知らず、母親や兄弟姉妹とも生き別れることになる。発情期に他の個体と行き合うにすぎない。行ったきり帰ってこないのが「蕩子」である。乳児期の子は「童」であり、「和良波(わらは)」と呼ばれている。接頭語のタの付いたタワラハ(た童)という形も、「手小童(たわらは)」(万619)と見える。ならば「蕩子」もタワラハのうちのヲ(男)のこと、タワラヲの転訛したタワレヲと言って正しく、タハレヲは誤りである。
母 爾雅云母為妣〈卑履反又去聲和名波々日本紀私記云母以路波〉舎人曰生称父母死稱考妣郭璞曰公羊傳恵公者隠公之考也仲子者桓公之母也明非死生之異稱矣楊氏漢語抄云阿嬢〈嬢音如羊反上同〉(巻第一)
母 爾雅に云はく、母を妣〈卑履反、又、去声、和名は波々(はは)。日本紀私記に母は以路波(いろは)と云ふ〉と為といふ。舎人曰はく、生けるを父母と称ひ、死するを考妣と称ふといふ。郭璞に曰はく、公羊伝の恵公は隠公の考なり、仲子は桓公の母なりといふ。死生の異称に非ざること明らけし。楊氏漢語抄に阿嬢〈嬢の音は如羊反、上に同じ〉と云ふ。
この項目に説明が長い。mother のことを、ハハともイロハとも呼ぶことについての言説である。生きているときは父母と称し、亡くなったら考妣と称するという説をあげつつ否定している。「妣」にハハ、「母」は日本紀私記からイロハと言うと割注で訓みを記している。「考」「父」のほうは次のようになっている。
父 爾雅云父為考〈和名知々日本紀私記云加曽〉楊氏漢語抄云阿耶〈和名上同〉(巻第一)
父 爾雅に云はく、父を考〈和名は知々(ちち)、日本紀私記に加曽(かそ)と云ふ〉と為といふ。楊氏漢語抄に阿耶〈和名は上に同じ〉と云ふ。
カゾとも言われるが、古くは清音であったとされている。「考」字に割注でカソと訓みが示されているから、もし生前と没後で変わるのなら、生前が「父」、没後が「考」でカソということになる。「父」の訓み方は記されていないが、ふつうに考えてチチであろう。
father - mother を対として並べて呼ぶとき、カソイロハ、チチハハと言う。漢字に直すと「考母」、「父妣」となって座りが悪い。「母」のことをイロハというのには、イロは同腹の意だからそれとハハ(母)とを複合してできた語かとの説がある(岩波古語辞典144頁)。ほかに考えるなら、イロハは色葉、つまり、黄葉や紅葉のことを思い起こさせる。「黄葉」は万葉集にモミチバと慣用に訓んでいる。モミチバからはモミ(揉)+チ(乳)+ハ(歯)のこと、乳児の時、ほとんど生えていない歯で母親の乳を揉んでいた。だから、「母」のことをイロハと呼んで正しい。それは生前のこととしてかまわないことでもある。しかし、生前の father なる「父」をチチと呼ぶと「乳」との間にダブルブッキングになる。
乳 考声切韻云乳〈而主反上声之重智〉母所以飲子之汁也(巻第二)
乳 考声切韻に云はく、乳〈而主反、上声の重、智(ち)〉は母の子に飲ましむる所以の汁なりといふ。
哺乳類の生に、チチ(乳)の恵みは「母」、ないしは「乳母」から授かる。現代のように育メンによる哺乳瓶は求められない。郭璞説を紹介するまでもないことだが、漢土においてもそうなのだから、「生称父母死称考」なる説は誤りであると言いたい。「舎人曰」とあるのは、狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に「漢武帝時侍詔」の者かとし、文は、礼記・曲礼下の「生曰父、曰母、曰妻。死曰考、曰妣、曰嬪。」によると臆されている。筆者は、「舎人」は本邦にトネリと呼ぶ人たちのことと関わると考える。ト(助詞)+ネリ(練歩)の義をもって解され、主人に召し仕え、生死を共にする者、殉死して浄土へ共に行く者と思われていたのが舎人である。「父母」の諡(おくりな、いみな)が「考妣」であるとの言い分に理がないわけではないが、それは彼ら舎人から見たもの言いであろう。my mother のことをハハ、イロハと呼ぶのとは立場が違う。楊氏漢語抄に「阿嬢」、「阿耶」としているのは、親しみを込めて接する子の気持ちをよく代弁している。
妻 白虎通云妻齊也與夫齊躰也(巻第一)
妻 白虎通に云はく、妻は斉なり、夫と躰(み)を斉(ひと)しくすればなりといふ。
和訓のない項目である。二十巻本に「妻〈西反和名米〉」とあり、メと訓んだのであろうとされる。イザナキ、イザナミの昔から、躰を一つにしようとする際には両性の合意に基づいていた。夫側が身を一つにしようと思い、妻側もそう思って合体している。互いの意志が一致している。意志を示す助動詞はムである。ミ(身、躰、体)の古形、ムにひとしい。そして、その意志がすでに貫徹された時、つまりは已然のこととなったとき、助動詞ムはメと活用する。だから、「与夫斉躰」によって「妻」はメと呼ばれて正しいのである。基本的な和語で訓が示されていない他の例同様、本文の説明を読めばわかることだから謎かけとして出題されているものである。妻のことを言うメも助動詞ムの已然形メもともに乙類であり、早くから頓智的解釈が行われていたことを予感させる。源順はそれに沿っていて、音もサイとひとしくなる漢籍を探してきて記したと考えられる。
きちんと読むとこのようになかなか読み進むことができない。きちんと読むとは、伝本の比較分析や語義の解説、引書の整理などではなく、源順がどのように“読む”ことを願って書いたのかを考えることである。これが真の意味で“読む”ことで、研究史上ほとんど初めての試みである。和名類聚抄に対していつまでも節穴であってはいけないから、気長にではあれ確実に進めなければならない。言葉とは何かについての奥義がそこかしこにひかえているのだから(注4)。
(注)
(注1)拙稿「和名抄の和訓のない項目について」参照。
(注2)それで良いのではないかと考える。馬渕和夫氏も読んでいるだけだから本当にそう言っていたのかは不明であるといい、杉本つとむ氏や築島裕氏も「俗云」「此間云」「訓」「読」などと書き分けているのはなぜかなど課題は多いとしながら、その後は和名類聚抄についての研究論文を著さないままであった。頭の中を覗くことはおもしろくもあり、難しくもある。
(注3)拙稿「和名抄の「田」について」参照。
(注4)福田定良『落語としての哲学』(法政大学出版社、1973年)は、国会図書館では「大衆演芸」の本として「779.1」に分類・整理しているが、言葉とは何かについてよく語っている。同書の推薦文を、藤田省三(政治思想)、田中克彦(社会言語学)らに見ることができる。