日本書紀において、別人物(あるいは別神格)に、彦火火出見という名がつけられている。山幸こと彦火火出見尊と神武天皇の諱、彦火火出見である(注1)。紀の本文に、皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊が降臨し、鹿葦津姫(木花之開耶姫)と結婚、火闌降命、彦火火出見尊、火明命が生まれたという彦火火出見と、その子、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の子である神武天皇として知られる彦火火出見である。
この点については従前より議論されている。
「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは、考え方として疑問である。中臣烏賊津使主という人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭皇女は、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら、二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項が見出されたようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截に見出すことはできない。違う視点が必要である。
山幸こと彦火火出見尊と神武天皇の諱の彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)。
時に彦火火出見尊、彼の瓊と鉤とを受けて、本宮に帰り来でます。一に海神の教の依に、先づ其の鉤を以て兄に与へたまふ。兄怒りて受けず。故、弟、潮溢瓊を出せば、潮大きに溢ちて、兄自ら没溺る。因りて請ひて曰さく、「吾まさに汝に事へまつりて奴僕と為らむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。弟、潮涸瓊を出せば、潮自づからに涸て、兄還りて平復ぎぬ。已にして、兄、前の言を改めて曰はく、「吾は是汝の兄なり。如何ぞ人の兄として弟に事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山に走げ登る。則ち潮、亦、山を没る。兄、高樹に縁る。則ち潮、亦、樹を没る。兄、既に窮途りて、逃去る所無し。乃ち伏罪ひて曰さく、「吾已に過てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人と為らむ。一に云はく、狗人といふ。請ふ、哀びたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからに息ぬ。(神代紀第十段一書第二)
是夜、自ら祈ひて寝ませり。夢に天神有して訓へまつりて曰はく、「天香山の社の中の土を取りて、香山、此には介遇夜摩と云ふ。天平瓮八十枚を造り、平瓮、此には毗邏介と云ふ。并せて厳瓮を造りて天神地祇を敬ひ祭れ。厳瓮、此には怡途背と云ふ。亦、厳呪詛をせよ。如此せば、虜自づからに平き伏ひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離と云ふ。天皇、祇みて夢の訓を承りたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
是に、天皇、甚に悦びたまひて、乃ち此の埴を以て、八十平瓮・天手抉八十枚 手抉、此には多衢餌離と云ふ。厳瓮を造作りて、丹生の川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ。則ち彼の菟田川の朝原にして、譬へば水沫の如くして、呪り著けること有り。(神武前紀戊午年九月)
ふつう、神に祈りを捧げることは、自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「詛ふ」や「呪る」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
神に祈る際、我々は柏手を打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手のことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。
同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に、朴木がある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐と云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
左:カシワ(ズーラシア)、右:落葉しないで越冬するカシワ(民家)
左:ホオノキ、右:朴落葉
以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。よって、両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなったことだろう。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶にあたる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草」(記上)、「名を闕せり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
近世の国学者と近代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。
(注)
(注1)古事記には、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は、実は古代には見られない。ただ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。
(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。
※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。
この点については従前より議論されている。
神武天皇をここ[第二の一書]に神日本磐余彦火火出見尊という。第三の一書も同じであり、さかのぼって第八段の第六の一書……に神日本磐余彦火火出見天皇といい、くだって神武紀でもそのはじめに、諱は彦火火出見、同元年正月条……には神日本磐余彦火火出見天皇とある。神武天皇をまた彦火火出見尊という理由について、記伝は簡単に、彦火火出見尊の名は「天津日嗣に由ある稲穂を以て、美称奉れる御号なる故に、又伝ヘ負ヒ賜へりしなり」とし、通釈も、ただ彦火火出見尊とだけ書いたのでは祖父の彦火火出見尊とまがうので、神日本磐余彦の六字を加えて区別したという。これらは神武天皇と瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊はもとより別人だが、ともに彦火火出見尊といったと頭からきめてかかった上での解釈である。しかし津田左右吉[『日本古典の研究』]は、神代史の元の形では、瓊瓊杵尊の子の彦火火出見尊が東征の主人公とされていたが、後になって物語の筋が改作され、彦火火出見尊に海幸山幸の話が付会されたり……、豊玉姫や玉依姫の話が加わったり、鸕鷀草葺不合尊が作られたりした。また他方では東征の主人公としてあらたにイワレビコが現われたのだとする。その際、元の話が全く捨てられなかったために神日本磐余彦火火出見尊(天皇)という名が記録されたり、神武の諱は彦火火出見であるという記載が生じたのだという。(大系本日本書紀197頁)
神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)
神武即位前紀に、諱ただのみなとして「彦火火出見」……、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」……とみえる。 これについて諸説がある。一つは、神武天皇と彦火火出見尊(祖父に当る)とは別人だが、同名で紛らわしいので「神日本磐余彦」を冠して区別したとする説。また、元来彦火火出見尊が東征説話の主人公であったが、後に海幸・山幸の話や豊玉姫・玉依姫の話が付加され、鸕鷀草葺不合尊が創作された。そこで神武天皇の諱が彦火火出見となったり、神日本磐余彦火火出見尊(天皇)となったりしたものとする説もある。前説は襲名の慣習を認める観点に立つものであり、後説は同名の箇所に不自然さを認め、合理的な説明を試みようとする観点に立つものである。しかし、いずれも正当性を証明する手だてはない。(新編全集本日本書紀189頁)
神武紀冒頭に「神日本磐余彦天皇、諱彦火火出見」とあり、元年正月条に「神日本磐余彦火火出見天皇」とする。これについて『纂疏』は「彦火火出見の名、祖の号を犯せるは、孫は王父の尸為(タ)るが故なり」という。「王父」は祖父の尊称。「尸」は祭祀の際死者に代わって祭りを受ける役……。『礼記』曲礼上に「礼に曰く、君子は孫を抱き、子を抱かずと。此れ孫は以て王父の尸為るべく、子は以て父の尸為るべからざるを言ふなり」。鄭玄注に「孫と祖と昭穆を同じくするを以てなり」。「昭穆」は宗廟における配列の順。中央の太祖に向かい偶数代を右に配し(昭)、奇数代を左に配す(穆)。(新釈全訳日本書紀289頁)
「総て上代は、神また人名に、同しきさまなるもあまた見えたれと、近き御祖父の御名を、さなから負給はむこと、あるましきことなり。」(飯田武郷・日本書紀通釈、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115817/1/207、漢字の旧字体と句読点は改めた)、「帝皇日嗣の僅か一世を隔てた前と後とに於いて同じ名のが二代ある、といふことは、甚だ解し難い話である」(津田1963.552頁)と捉えるのは、考え方として疑問である。中臣烏賊津使主という人物は、仲哀紀九年二月条、神功前紀仲哀九年三月条、允恭紀七年十二月条に現れ、前二者と最後の人とは別人と目されている。幡梭皇女は、仁徳紀二年三月条、履中紀元年七月条にあるが別人である。今日でも同姓同名の人は数多い。そして、古代において、名は、名づけられてそう呼ばれることをもって成り立っている。人がそう呼ばれることとは、その特徴からそう呼ばれる。いわゆる綽名こそ名の本質をついている。したがって、ヒコホホデミという名を負った登場人物が二人いたとしたら、その両者に共通する特徴があり、ともにそのように呼ばれたと考えるのが本筋である。
神武天皇のことをいう「彦火火出見」については、神武紀冒頭に、「神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見。」、すなわち、実名であると記されている。明記されていることを疑っていては虚無を生むばかりである。神武天皇の名の表記としては、「神日本磐余彦尊」(神代紀第十一段本文・一書第一)、「磐余彦尊」(同一書第二)、「神日本磐余彦火火出見尊」(同一書第二・第三)、「磐余彦火火出見尊」(同一書第四)、「神日本磐余彦火火出見天皇」(第八段一書第六)ともある。神代紀を筆録した人がそれと知りながら、二人のことを同じ名で呼んで憚っていない。名は呼ばれるものであると認識していたからだろう。
神武天皇の彦火火出見という名は、系譜上、その祖父に当たる彦火火出見尊と同じ名である。名は体を表す。別人でありながら、人物像、事績に共通項が見出されたようである。ヒコホホデミは、ヒコ(彦、男性の称)+ホホデ+ミ(霊)の意と解釈される。ホホデについては、穂穂出、火火出の意が掛け合わされているとされている(注2)。しかし、神武天皇の人物像や事績に、穂や火の意を直截に見出すことはできない。違う視点が必要である。
山幸こと彦火火出見尊と神武天皇の諱の彦火火出見は、両者とも、敵対者に対して呪詛をよくしている(注3)。
時に彦火火出見尊、彼の瓊と鉤とを受けて、本宮に帰り来でます。一に海神の教の依に、先づ其の鉤を以て兄に与へたまふ。兄怒りて受けず。故、弟、潮溢瓊を出せば、潮大きに溢ちて、兄自ら没溺る。因りて請ひて曰さく、「吾まさに汝に事へまつりて奴僕と為らむ。願はくは垂救活けたまへ」とまをす。弟、潮涸瓊を出せば、潮自づからに涸て、兄還りて平復ぎぬ。已にして、兄、前の言を改めて曰はく、「吾は是汝の兄なり。如何ぞ人の兄として弟に事へむや」といふ。弟、時に潮溢瓊を出したまふ。兄、見て高山に走げ登る。則ち潮、亦、山を没る。兄、高樹に縁る。則ち潮、亦、樹を没る。兄、既に窮途りて、逃去る所無し。乃ち伏罪ひて曰さく、「吾已に過てり。今より以往は、吾が子孫の八十連属に、恒に汝の俳人と為らむ。一に云はく、狗人といふ。請ふ、哀びたまへ」とまをす。弟還りて涸瓊を出したまへば、潮自づからに息ぬ。(神代紀第十段一書第二)
是夜、自ら祈ひて寝ませり。夢に天神有して訓へまつりて曰はく、「天香山の社の中の土を取りて、香山、此には介遇夜摩と云ふ。天平瓮八十枚を造り、平瓮、此には毗邏介と云ふ。并せて厳瓮を造りて天神地祇を敬ひ祭れ。厳瓮、此には怡途背と云ふ。亦、厳呪詛をせよ。如此せば、虜自づからに平き伏ひなむ」とのたまふ。厳呪詛、此には怡途能伽辞離と云ふ。天皇、祇みて夢の訓を承りたまひて、依りて将におこなひたまはむとす。(神武前紀戊午年九月)
是に、天皇、甚に悦びたまひて、乃ち此の埴を以て、八十平瓮・天手抉八十枚 手抉、此には多衢餌離と云ふ。厳瓮を造作りて、丹生の川上に陟りて、用て天神地祇を祭りたまふ。則ち彼の菟田川の朝原にして、譬へば水沫の如くして、呪り著けること有り。(神武前紀戊午年九月)
ふつう、神に祈りを捧げることは、自分たちに良いことがあるように願うものである。それに対して、「詛ふ」や「呪る」は、憎む相手に悪いことがあるように願うことであり、本来の祈り方とは真逆のことをやっている。祈りが裏返った形をしている。
神に祈る際、我々は柏手を打つ。二回とも四回ともされるが、その拍手のことをカシハデと呼んでいる(注4)。小さな我が手を叩いているのを、大きな木の葉の柏になぞらえて有難がろうとするものであろうか(注5)。柏の葉は大きくて、しかも、冬枯れしても離層を作らず、翌春新しい葉が芽生えるまで落葉しないことが多い。その特徴は、ユズリハのように「葉守りの神」が宿ると考えられ、縁起の良い木とされるに至っている。
同じようにとても大きな葉を、カシワ同様、輪生するかのようにつける木に、朴木がある。古語にホホである。和名抄に、「厚朴〈重皮付〉 本草に云はく、厚朴は一名に厚皮〈楊氏漢語抄に厚木は保々加之波乃岐と云ふ。〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波〉は厚朴の皮の名なりといふ。」とある。すなわち、ホホデは、カシハデと対比された表現ととることができる。季語にあるとおり朴の葉は落葉する。しかも、表を下にして落ちていることが多い。葉の縁が内側に巻くことによるのであるが、確かに裏が現れることとは、占いに未来を予言するとき良からぬことが思った通りに起こることを表しているといえる。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/45/24/3719c0016f98e022b0e5ceafee5d9c61_s.jpg)
以上のことから、山幸も、神武天皇こと神日本磐余彦も、呪詛がうまくいったという観点から、ホホデ(朴手)的にしてその霊性を有する男性であると知られ、そのように名づけられていると理解できる。よって、両者とも、ヒコホホデミ(彦火火出見)なる名を負っている。名は呼ばれるものであり、そう呼ばれていた。それが確かなことである。その呼ばれるものがひとり歩きして二人が紛れるといったことは、少なくとも名が名として機能していた上代にはなかった。文字を持たないヤマトコトバに生きていた上代において、人の名とは呼ばれることが肝心なのであり、己がアイデンティティとして主張されるものではなかった。自分が好きな名をキラキラネームで名乗ってみても、共通認識が得られなければ伝えられることはなく、知られないまま消えてなくなったことだろう。人が存在するのは名づけられることをもって現実化するのであり、その対偶にあたる、名づけられることがなければその人は存在しなかったかのように残されないものであった。「青人草」(記上)、「名を闕せり。」(紀)として終わる(注6)。それで一向に構わない。それが無文字時代の言葉と名の関係である。
近世の国学者と近代の史学者の誤った説に惑わされない正しい考え方を示した。
(注)
(注1)古事記には、神武天皇にヒコホホデミという名は与えられていない。
(注2)語の理解を助ける解釈についてはいずれも説の域を出ず、証明することはできない。ホホデについてその出生譚から炎出見、ホノホが出る意、また、ホノニニギに見られるように農耕神の性格から穂出見、稲穂が出る意とが掛け合わされていると考えられることが主流である。他説も多くあるだろう。
(注3)呪詛の詳細については、拙稿「呪詛に関するヤマトコトバ序説」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/dc584581029e0581b8b3504f48797274参照。
(注4)「柏手(拍手)」にカシハデと訓の付いている文献は、実は古代には見られない。ただ、神前にて心を整え神妙な面持ちで間隔をあけて手を打つことと、スタンディングオベーションで興奮しながら何十回、何百回と打ち鳴らすことでは、込めている気持ちが違うことは認められよう。
(注5)貞丈雑記・巻十六神仏類之部に、「手をうつ時の手の形、かしはの形に似たる故、かしは手と名付くる由也、」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200005398/1003?ln=ja)とある。
(注6)十訓抄に由来する「虎は死して皮を留め人は死して名を残す」という戒めの言葉があるが、上代における名づけとは位相が異なる。
(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・西宮一民・毛利正守・直木孝次郎・蔵中進校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
津田1963. 津田左右吉『日本古典の研究 上 津田左右吉全集第一巻』岩波書店、昭和38年。
日本書紀纂疏 天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書 和書之部 第二十七巻 日本書紀纂疏・日本書紀抄』天理大学出版部、昭和52年。
※本稿は、2020年5月稿を2025年2月に加筆改訂したものである。