古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「仏法東帰」(続日本紀の大仏開眼記事)について

2022年11月01日 | 続日本紀
 天平勝宝四年(752)の大仏開眼は次のように記されている。

 夏四月乙酉、盧舎那大仏像成、始開眼。是日、行‐幸東大寺。天皇親率文武百官、設斎大会。其儀一同元日。五位已上者、著礼服。六位已下者当色。請僧一万。既而雅楽寮及諸寺種々音楽、並咸来集。復有王臣諸氏五節・久米儛・楯伏・蹋歌・袍袴等歌儛。東西発声、分庭而奏。所作奇偉、不勝記。仏法東帰、斎会之儀、未嘗有此之盛也。(続紀・孝謙天皇・天平勝宝四年四月)
大仏開眼(続日本紀・第十八、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/3988577(46/53)をトリミング)
 最後の「仏法東帰より、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛んなること有らざるなり。」の「仏法東帰」という表現は何を意味するか議論されている。「仏法東漸」、「仏法東流」などとは言うが、「東帰」の例は他に見えない。
 仏教公伝の記事は欽明紀にある。

 冬十月、百済聖明王 更名聖王。遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、献釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻。別表、讃流通礼拝功徳云、是法於諸法中、最為殊勝。難解難入。周公・孔子、尚不知。此法能生量無辺福徳果報、乃至成弁無上菩提。譬如人懐随意宝、逐用、盡依情、此妙法宝亦復然。祈願依情、無乏。且夫遠自天竺、爰洎三韓、依教奉持、無尊敬。由是、百済王臣明、謹遣陪臣怒唎斯致契、奉帝国、流通畿内。果仏所_我法東流。」(注1)(欽明紀十三年十月)

 この仏教公伝記事は、出典論の研究から、金光明最勝王経を下敷きに書かれたとされ、それは義浄によって長安3年(703)に漢訳されている。欽明13年(552)の公伝記事は、年次の策定からして日本書紀執筆時に考えられたものであるとされ、状況証拠を総合すると大宝2年(702)の遣唐使に加わり、養老2年(718)に帰国した僧、道慈(670頃~744)の手になるものであるとする説がほとんど定説になっている(注2)。そして、当時の末法思想に合うように、末法第一年目にあたる欽明13年に公伝したことにしたのだというのである(注3)。その552年からちょうど200年の節目に大仏開眼となっている。
 そういう仮説的理屈の上に、「東帰」についても次のような考えが提出されている。

 『日本書紀』の仏教公伝記事で道慈が『大般若波羅蜜多経』の「東北」を「東」へと改変したことは、仏教東漸を単なる仏教公伝の歴史的事実として表現するのみにとどまらず、極東に位置する「日本」への、仏教公伝の必然性を強調する目的があったと考えられるのである。さらに『続日本紀』の「東帰」も、「日本」への仏教伝来の必然性を強調し、かつ「日本」こそが仏法東漸の最終的な帰結地であることを表現したものであったと考えるのである。(宮﨑2022.29~30頁)(注4)

 補足的に解説する。大般若波羅蜜多経・初分難聞功徳品に、「爾時舎利子白仏言。世尊。甚深般若波羅蜜多。仏滅度已後時後分後五百歳。於東北方広流布耶。仏言。舎利子。如是如是。甚深般若波羅蜜多。我滅度已後時後分後五百歳。於東北方当広流布。」とあるのを下敷きにして、欽明紀に「果仏所記我法流。」と書いたとする。「日本」というのは「極東」なのだという意識からそうしているのだといい、続日本紀も同様に東の最果てに当たるから帰結するということで「東帰」と書いたのだとしている。
 乱暴な議論である。続日本紀の書記官と日本書紀の書記官は別の人であり、参照しながら書いているとは思われない。日本書紀の仏教公伝記事は、多く金光明最勝王経をアンチョコとして修文されている。「果仏所記我法東流」だけは大般若波羅蜜多経によっているとされている。その大般若波羅蜜多経は玄奘三蔵の訳である(注5)。玄奘三蔵(600~664)は仏法を求めて西域を通って天竺(インド)に入り、東の中国へ帰ってきた。続日本紀の書記官は、仏法が東流したことに玄奘三蔵が大きく貢献していたことを常識として知っていたことであろう。「仏法東流」といった言い方は中国で慣用化している。似て非なる含蓄ある表現と考えるなら、「仏法東帰」は「仏法」を主語として仏法が東へ帰ってきた、東へいたった、というのではなく、仏法を得て東へ帰ってきた、という意味であると考えられる。
 日本人は天竺へ仏法を求めに行ったことはない。だからこの考えは棄却されるべきだというのは筋違いである。仏教東漸、仏教伝播という見地は世界史地図の視座に囚われている。世界の中で東アジアを閉ざしてみて、その中で「日本」は「東」だという認識があったと凝り固まっている(注6)。そもそも、この記事は仏教という信仰体系が風習のように伝わり広まったことを述べたものではない。
 「仏法」はホトケノミノリ(注7)である。仏が説いた教えについて言っている。その教えはどのように伝わったかといえば、経典の形になってよその地へ伝授されて行っている。その次第が「東帰」していると書いてある。経典の形で東へ帰ってきたこととは、漢訳した仏教経典が成ったこととほとんど同じことである。サンスクリット語で書かれたものではチンプンカンプンで理解できず、受容されることはない。我が国に公伝した最初の記事でも「経論若干巻」が伝わってきている。書いたものがあるからそれを読んで尊び敬い伝え広めることができている。自習だけでは十分にできていないと思ったら、先生に解説してもらおうということになる。中高生が塾に通おうというのと同じである。誰か良い先生はいないだろうか。そうだ、鑑真和上に来てもらおう。

 天宝二載、留学僧栄叡・業行等、白和上曰、仏法東流、至於本国。雖其教、無人伝授。幸願、和上東遊興化。(続紀・淳仁天皇・天平宝字七年五月、鑑真和上物化)

 「仏法東流して本国わがくにに至れり。其の教へ有りと雖も、人に伝授する無し。さきはひに願はくは、和上東遊してを興さむことを」と言っている。「東流」、「東遊」とある「東」は方角のベクトルが「東」を向いていることを言っている。中国から見て「東」である。
 一方、大仏開眼会における「仏法東帰……」という記述は、中国や朝鮮半島を含めたその漢字文化圏全体でのことを表している(注8)。本邦は東アジア世界に属している。ホトケノミノリを持って東に帰ってきて以来において、それはすなわち漢訳版のホトケノミノリを得て以来においてのことであるが、斎会の儀式でこれまでこの大仏開眼会のように盛んなことはなかった、と高らかに謳っているわけである。「東帰」と記して漢訳経典が得られたことを指すことは、大唐西域記の玄奘三蔵の苦労話を知っていればすぐわかることであろう。漢字世界はインドから見て「東」である。
玄奘三蔵像(鎌倉時代、平成12年度修理前、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0059123をトリミング)
 大仏開眼会は、漢字文化圏全体で見ても破格なスケールの儀式であると言いたかった。開眼師として天竺から来た菩提僊那(704~760)のほか、咒願師として唐から来た道璿(702~760)も加わっている。道璿が、今まで見たことも聞いたこともないほど豪勢な式典だったと感想を漏らしていたら、それを聞いた続日本紀の書記官は、「仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛也。」と書いて“正しく”記したということになる。玄奘三蔵から100年ぐらいにおいてのこと、「仏法の東帰してより、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛んなること有らざるなり。」、「「仏法もて東に帰りてより、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛りなるは有らず。」としている(注9)
 この“読み”について、見てきたようなことを言うな、というお叱りを受けるとしたら甘んじて受けよう。見てきたようなことを書くのが書記官の仕事であったに違いないからである。司馬遷、ヘロドトスも然りではないか。

(注)
(注1)この記事には、「是日……」と、だらだらと当時の崇仏と廃仏の状況が付随している。公伝記事が後から作られたものだとする理解からは、それはそれ、これはこれとして考えるべきことである。
(注2)井上1961.。皆川2012.は、井上氏の道慈『今光明最勝王経』将来説と道慈『日本書紀』仏教伝来記事筆録説の合わせ技に疑問を呈している。道慈以前に金光明最勝王経が舶来していた可能性があることと、僧尼令の規定から僧侶が「政務の一環である『日本書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはなく」(178頁)、「学問僧として唐か新羅に留学した経験があり、後にその学業のために還俗、官人として登用された人」(180頁)が記事を書いたのだろうとしている。首肯できる見解である。皆川氏はそこで山田御方を候補に挙げているが、筆者は粟田真人であろうと推測する。根拠は今示さない。
(注3)吉田2012.に、「仏教伝来記事にはじまる『日本書紀』の仏教関係記事[は]……、全体として、一つの構想のもとに構成された記述になっている……。それは、「末法⇒廃仏⇒廃仏との戦い⇒仏法興隆」という劇的な展開をとっており、編者たちの綿密な構想のもとに構成されたものになっている。私は、これらの記述は創作史話と評価するのが妥当だと考えている。」(109頁)とある。薗田2016.には、「しかし考えてみるに、日本仏教の起源を説く仏教伝来記事を、事もあろうに仏教の衰滅を記し付ける末法第一年目に措定することがあるだろうか。」(34頁) と素朴な疑問が吐露されている。日本仏教の歴史記述がニヒルなドラマツルギーを好み選んだ謎は解けていない。
(注4)また、大谷大学博物館で「2022年度特別展 仏法東帰ー大仏開眼へのみちー」(2022年10月11日~11月28日)が開催されているという。解説動画(https://www.youtube.com/watch?v=MNG9uJKYkIw&t=372s)参照。
展覧会チラシ表面
(注5)和銅五年長屋王願経(文化遺産オンライン)(奈良時代、712年)を参照されたい。
(注6)「日出処天子致書日没処天子恙云云。」(隋書・倭国伝)などとあるのも、東アジア世界内における「日本」人の「東」意識の表れなのだとされ、だからこそ「日本」と自称していると錯覚されている。万葉集の表記にある「日本」は、「倭」、「山跡」同様ヤマトとしか訓まない。ヤマトと自称していた。
(注7)「於是汝父多須那為橘豊日天皇、出家、恭‐敬仏法。」(推古紀十四年五月)とあるのは、お経を唱えたことを言っている。多須那は字を読む勉強をしたらしい。すらすら読めるようになったか定かではないが、門前の小僧とて習わぬ経を読むことはできるようになるものである。「於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百済明王、奉仏法於我大倭。」(孝徳紀大化元年八月)とあるのは、欽明紀を承けている。聖明王は仏法はすごいぞと言っているが、具体的内容を伝授したわけではなく、「経論若干巻」に書いてあるからと送ってよこしたのである。
(注8)これまで「仏法東帰」という見慣れない字面を「仏法東流」と同様に、ないしはその拡張義と誤解していた。直木1990.は、「仏法が日本に伝来して以後、斎会さいえ(僧侶に食事を供養する法会)としていまだかつてこのように盛大なものはなかった。」(199頁、傍線筆者)と訳している。
(注9)玄奘三蔵から教えを受けた道昭の弟子が行基で、その高弟の景静は都講として開眼会に参列している。

(引用・参考文献)
井上1961. 井上薫『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館、昭和36年。
勝浦2004. 勝浦令子「『金光明最勝王経』の舶載時期」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』塙書房、2004年。
薗田2016. 薗田香融『日本古代仏教の伝来と受容』塙書房、2016年。
直木1990. 直木孝次郎他訳注『続日本紀2』平凡社(東洋文庫)、1988年。
皆川2012. 皆川完一『正倉院文書と古代中世史料の研究』吉川弘文館、2012年。
宮﨑2022. 宮﨑健司「「仏法東帰」考─大仏開眼の道程─」『大谷大學研究年報』第74集、令和4(2022)年6月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。(「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想」『人間文化研究』第7・9・10・11・13号、名古屋市立大学、2007年6月・2008年6月・同12月・2009年6月・2010年6月。名古屋市立大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1124/00000180/~/00000211/・/00000238/・/00000252/・/00000296/)

※2022年11月9日に(注5)を追記した。写経所で「新訳」がもてはやされるのは当たり前ではないかと指摘を受けた。

「不改常典」とは何か

2022年09月07日 | 続日本紀
 「不改常典」については、これまであまりにも多くの議論が重ねられてきた(注1)。筆者は、それらが不毛であったことを以下に示す。用例として見られるのは続日本紀の詔で、宣命体で書かれているがここでは訓読文のみを示す(注2)

①元明天皇即位詔(続紀・慶雲四年(707)七月壬子(17日))、前半部分の持統・文武の共治が回顧される部分に登場する。
 ……関くも威き藤原宮に御宇しし倭根子天皇[持統]、丁酉の八月に、此の食国天下の業を、日並所知皇太子の嫡子、今御宇しつる天皇[文武]に授け賜ひて、並び坐して此の天下を治め賜ひ諧へ賜ひき。是はかけまくもかしこ近江大津宮あふみのおほつのみや御宇あめのしたしらしめしし大倭根子天皇おほやまとねこすめらみことの、天地あめつちと共に長く日月ひつきと共に遠くかはるましじき常ののりと立て賜ひ敷き賜へるのりを、受け賜り坐して行ひ賜ふ事と衆受け賜りて、恐み仕へ奉りつらく、と詔りたまふ命を衆聞きたまへと宣る。……(第三詔)
②聖武天皇即位詔(続紀・神亀元年(724)二月甲午(4日))、元正天皇の詔を引用したなかで、元正に譲位したときの元明天皇の詔が紹介されるなかに登場する。
 ……霊亀元年に、此の天日嗣高御座の業食国天下の政を、朕[元正]に授け賜ひ譲り賜ひて、教へ賜ひ詔り賜ひつらく、「けまくもかしこ淡海大津宮あふみのおほつのみや御宇あめのしたしらしめしし倭根子天皇やまとねこすめらみことの、万世よろづよかはるましじき常ののりと立て賜ひ敷き賜へるのりの随に、後遂には我子に、さだかにむくさかに、過つ事無く授け賜へ」と負せ賜ひ詔り賜ひしに、.....(第五詔)
③聖武天皇譲位詔(続紀・天平勝宝元年(749)七月甲午(2日))、聖武天皇が元正天皇からの譲位を回顧した元正天皇の詔のなかに登場する。
 ……平城の宮に御宇しし天皇[元正]の詔りたまひしく、「けまくもかしこ近江大津あふみのおほつみや御宇あめのしたしらしめしし天皇のかはるましじき常ののりと初め賜ひ定め賜ひつるのりの随に、斯の天つ日嗣高御座の業は、御命に坐せ、いや嗣になが御命聞こし看せ」と勅りたまふ御命を畏じ物受け賜りまして、……(第十四詔)

 フカイノジョウテン(「不改常典」)なる言葉は初めから存在しない。続日本紀の宣命(第三・五・十四詔)に出てくるものの字面を標本化して音読みしたものがフカイのジョウテンである。その漢字の表意する重みとは裏腹に、そのような言葉は当時なかった。訓み方は、「かはるましじきつねののり」である。詔を喋るに当たって用意した原稿が宣命体として続日本紀にそのまま残されているのである。完全に口頭語なのだから、フカイノジョウテンなるものは実体として存在しない。
 「かはるましじきつねののり(不改常典)」は詔の文言のなかのことであり、話し言葉に文飾されて近江(淡海)大津宮御宇天皇と関係づけられ述べられている。近江(淡海)大津宮に都を置いたのは天智天皇である。その治世において何か関係する事項がないかと日本書紀を調べてみて、天智紀にはこれといってそれと知れる文章は見つからないから、歴史家は空想の翼を広げて自説を展開したり、他説を批判したり、水掛け論に陥っている。得られた諸説は、「(ア)近江令あるいは律令法とする説 (イ)皇位継承に関するものとする説 (ウ)天皇のあり方を定めたとする説」(中村2014.101頁)に分類されている(注3)
 詔の行われた場面、内容からして、(ア)(イ)(ウ)が出てきて当たり前である。天皇の代替わりの時に喋られているのだから、(イ)皇位継承に関わるもの、を中心に据えることが最も理にかなう。①で「不改常典」のように「行ひ賜ふ事」というのは、持統天皇が孫の文武天皇に譲位して共治したこと、②で「不改常典」のように「授け賜へ」というのは、元明天皇が子孫筋の首皇子(聖武天皇)が大きくなったら継がせるようにということ、③で「不改常典」のように「御命に坐せ、いや嗣になが御命聞こし看せ」というのは、元正天皇が甥の聖武天皇に譲位したことを指して言っている。皇位の継承において、親子、兄弟、夫婦ではないちょっと珍しい関係である。

 そんな事項が日本書紀の天智天皇関連の記事にないかというと、どうしてこれまで見過ごされてきたのかわからないが、明々白々として存在する。クーデターを起こして蘇我入鹿を殺し、蘇我氏が滅亡した後、皇極天皇は譲位する。

 天豊財重日足姫天皇あめとよたからいかしひたらしひめのすめらみこと四年の六月の庚戌に、天豊財重日足姫天皇、みくらゐ中大兄なかのおほえに伝へたまはむと思欲おもほして、詔して曰はく、云々しかしかいへり。中大兄、退まかりいでて中臣鎌子連なかとみのかまこのむらじに語りたまふ。中臣鎌子連はりまをさく、「古人大兄ふるひとのおほえ殿下きみなり。軽皇子かるのみこは殿下のをぢなり。まさに今、古人大兄します。しかるを殿下陟天皇位あまつひつぎしらさば、人のおととつつししたがふ心にたがはむ。しばらく、舅を立てておほみたからねがひかなはば、亦からずや」とまをす。是に、中大兄、深くはかりことよみしたまひて、ひそかに以て奏聞まをしたまふ。天豊財重日足姫天皇、璽綬みしるしを授けたまひて、位をゆづりたまふ。おほみことのりして曰はく、「なむぢ軽皇子」と云々しかしかいへり。(孝徳前紀皇極四年六月十四日)(注4)

 「かはるましじきつねののり(不改常典)」と呼ばれるものは明示されている。中大兄は後の天智天皇である。彼は、中臣鎌子(藤原鎌足)に意見を求めている。最も一般的と思われる継承順は、舒明─皇極と夫婦間を継いできたのだから、次は世代を下ってその息子ということになる。その際、別腹の長子に古人大兄がいる。それを差し置いて中大兄が継ぐというのは順序的にどうなのだろうか。だからここは、ひとまず中大兄からみて叔父に当たる軽皇子、すなわち、孝徳天皇に就いてもらい、民の望む施策が行われるようにしたらよいのではないかというのである。中大兄はその教唆にまるごと従い、自分の母親の皇極天皇(天豊財重日足姫天皇)に奏上して計らってもらった。結果、皇極女帝からその弟へと皇位が渡っている。中大兄が継ぐべきところ、イレギュラーな関係の叔父のところへお先にどうぞと譲られている。それを承けたのが続紀の詔に見えている「かはるましじきつねののり(不改常典)」なのである。③の詔にあるように、「不改常典」であると、中大兄は「初め賜」うているわけである。
 助動詞マシジはマジの古形で、「打消された事態に対する様相的・論理的推定を表す。」(小田2015.180頁)もので、「当然……すべきでない」、「……するはずがない」、「……しないはずだ」、「……しないに決まっていよう」といった現代語に相当する。未来における否定の見解を表明していると言ってよいものである。すなわち、「かはるましじきつねののり(不改常典)」とは、いつだって当然かわるべきではない決まりごと、という意味である。皇位の継承順は、直系だとか世代順だとかいった形式的な継嗣順とは異次元の、当然そうすべだと判断される時にはそうするという超法規的な決定基準というものがあるということ、それを「かはるましじきつねののり(不改常典)」と呼んでいる(注5)
 そんなことを中大兄に入れ知恵したのは藤原鎌足である。往年の名宰相、内臣うちつおみ武内宿禰に擬せられるような人物であった(注6)。優秀な側近がいてはじめてうまく事は運ぶ(注7)。当初の案のように皇極天皇から中大兄にそのまま位が譲られていたら、きっと治まらなかったであろうと推量していたことが透けてみえる言い方として、「かけまくもかしこきあふみのおほつのみやにあめのしたしらしめししすめらみことのかはるましじきつねののり」という長たらしい常套句はある。そういう機微まで伝えるためには、マシジといった言語技術的に高度なところを含ませて、まつり上げながら言葉に落とし込んでおけばよいのである。「かはるましじきつねののり(不改常典)」は頭に「かけまくもかしこき近江(淡海)大津宮御宇天皇」と被る以外にないものである。蘇我氏滅亡後の政権中枢を混乱させずに滞りなく政治を進めることができたのは、臨機応変にイレギュラーな皇位順に継承したこと、その方策は治世のうえで結果的にとても幸いなことであったことを表しているのである(注8)

(注)
(注1)参考文献については、下に最小限にあげた近年の著述に引かれる諸論や注、新大系本続日本紀一の補注(382~384頁)など参照のこと。研究しようとする場合、なによりテキストを読むことから始めなければならない。膨大な先行研究の渦に飲まれて事を見失っては元も子もない。「不改常典」が登場するのは詔に昔話を語っているなかである。同時代の奈良時代の状況ばかりから考察していてもわかりはしない。
(注2)新大系本続日本紀を参照されたい。
(注3)北2017.も指摘するところだが、「不改常典」が記されている宣命の文章は、文章の構造が錯綜して多様な解釈ができてしまうからいろいろな説が出てくることとなっている。しかし、逆に言えば、それは口頭語なのだから、聞いている人に、ああ、あのことか、と誰にでもすぐにわかる言葉で喋っているものと考えられる。当時においてはけっして多様には受けとられなかったということである。そうでなければスピーチは成立しない。
(注4)事の次第はつづけて叙述されている。「軽皇子、再三しきり固辞いなびて、うたた古人大兄 またの名は、古人大市皇子ふるひとのおほちのみこに譲りて曰く、「大兄命おほえのみことは、是さきの天皇の所生みこなり。しかうして又年いたり。の二つのことわりを以て、天位たかみくらしますべし」といふ。是に、古人大兄、しきゐりて逡巡しりぞきて、手をつくりていなびて曰さく、「天皇の聖旨おほみことのむねうけたまはしたがはむ。いづくにいたはしくしてやつこ推譲ゆづらむ。やつかれふ、出家いへでして、吉野に入りなむ。仏道ほとけのみちを勤めおこなひて、天皇をたすけ奉らむ」とまをす。辞び訖りて、かせるたちきて、つち投擲なげうつ。亦帳内とねりみことおほせて、皆たちかしむ。即ち自ら法興寺ほふこうじ仏殿ほとけのおほとのたふとの間にでまして、髯髪ひげ剔除りて、袈裟を披着つ。是に由りて、軽皇子、固辞いなぶること得ずして、たかみくらのぼりて即祚あまつひつぎしろしめす。」(孝徳前紀皇極四年六月十四日)
(注5)このことは、「改るましじき常ののりと立て賜ひ敷き賜へるのり」、「改るましじき常ののりと初め賜ひ定め賜ひつるのり」というように、ノリという言葉に屋上屋が架されているところに表れている。「典」字で表しているノリは、原理原則を超えて実態に即して決めていく超法規性を含めたもの、「法」字で表しているノリは、当座に約束事を決めてそれに従って行動することが求められる法令、規範のことを指していると言える。つまり、「かはるましじき常ののり」なるものは、時に応じて変わってかまわない許容範囲のようなところを突いたノリなのである。それを広く捉えれば、全体として変わらないのは当然のことである。極端な例で説明すれば、人は社会的動物だから社会が乱れないように守るべきなのは「のり」であり、人は動物だから死ぬことはどうしてたって「改るましじき常の」「のり」であるということである。
 字義において「法」には盟誓の義、「典」には書物の義がある。続紀時代に宣命を記す際に、口約束はころころと変えられるが、書いてあるものは改竄し得ないとする意識を反映したものなのか、筆者の力の及ぶところではない。
(注6)詔にあらわれている。
④文武天皇の、藤原不比等に食封を賜う詔(続紀・慶雲四年(707)四月壬午(15日))
 ……又、難波大宮なにはのおほいや御宇あめのしたしらしめししけまくもかしこ天皇命すめらみこと[孝徳天皇]の、みまし[藤原不比等]の父藤原大臣ふぢはらのおほおみ[藤原鎌足]の仕へ奉りけるさまをば、建内宿禰命たけうちのすくねのみことの仕へ奉りける事と同じ事ぞと勅りたまひて、……(第二詔)
(注7)天智天皇を藤原鎌足がよく輔弼したから治世はうまく機能したのである。そのことを反映した文言が詔に出てくる。「不改常典」に関連することだから同じような文言になっている。
⑤聖武天皇の、慶事を祝し恵を垂れる詔(続紀・天平勝宝元年(749)四月甲午朔(1日))
 ……けまくもかしこ近江大津宮あふみのおほつのみや大八嶋国知おほやしまぐにしらしめしし天皇すめら大命おほみこととして、奈良宮に大八嶋国知らしめしし我が皇天皇おほきみすめらみことと御世御世重ねてわれに宣りたまひしく、「大臣おほまへつきみの御世重ねてあかきよき心を以て仕へ奉る事に依りてなも天日嗣あまつひつぎたひらけくやすらけく聞こし召し来る。此のこと忘れ給ふな。て給ふな」と宣りたまひし大命おほみことを受け賜はりかしこまり、……(第十三詔)
⑥称徳天皇の、藤原永手に右大臣を授ける詔(続紀・天平神護二年(766)正月甲午(8日))
 ……けまくもかしこ近淡海あふみ大津宮おほつのみや天下知あめのしたしらしめしし天皇すめら御世みよ奉侍つかへまつりましし藤原大臣ふぢはらのおほまへつきみ復後またのちの藤原大臣に賜ひて在るしのひことのふみりたまひてらく、「子孫うみのこきよあかき心を以て朝廷みかどに奉侍らむをは必ず治め賜はむ、其のつぎは絶ち賜はじ」と勅りたまひて在るが故に、……(第四十詔)
(注8)本稿は、古代専制体制における「法治」の恣意性について、述べるましじき論稿である。

(引用・参考文献)
大町2016. 大町健「天智の定めた「不改常典」と「法」」『成蹊大学経済学部論集』第47巻第2号、2016年12月。成蹊大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/10928/846
小田2015. 小田勝『実例詳解古典文法総覧』和泉書院、2015年。
北2017. 北康宏『日本古代君主制成立史の研究』塙書房、2017年。
熊谷2010. 熊谷公男「即位宣命の論理と「不改常典」法」『東北学院大学論集 歴史と文化』第45号、2010年3月。東北学院大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1204/00000005/
新大系本続日本紀 青木和夫・稲岡耕二・笹山晴生・白藤禮幸校注『新日本古典文学大系12・13・14・15 続日本紀一・二・三・四』岩波書店、1989・1990・1992・1995年。
中野渡2017. 中野渡俊治『古代太上天皇の研究』思文閣出版、2017年。
中村2020. 中村修也「不改常典の成立について」木本好信編『古代史論聚』岩田書院、2020年。
原科2018. 原科颯「「不改常典」法に関する一考察」『慶應義塾大学大学院法学研究科論文集』第58号、2018年。慶応義塾大学リポジトリhttps://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00069591-00000058-0067
水谷2020. 水谷千秋『日本古代の思想と天皇』和泉書院、2020年。

※本稿は2022年9月稿の一部字句を、2024年6月に補正したものである。