アモーレ・カンターレ・マンジャーレ

自称イタリア人のオヤジが、好きなサッカーやらグルメやら、何でも不定期に気まぐれに書き綴るサイトです。

吉原の必要性

2011-11-14 06:24:26 | 薀蓄
今の日本では当たり前のことだが、世界的に見て特異にことのひとつに単身赴任がある。小生も及ばずながら経験があるが、この文化が定着したのが江戸時代だったのだ。

 家光が完成させたという参勤交代制度は、多くの武士の単身赴任をもたらした。ざっくりいえば、一年おきの単身赴任だ。
 その結果、江戸の市内は武士であふれかえるようになる。市内の男女比はきわめていびつなものになっていた。


 江戸の人口の半分が武士だったという計算もあるが、小生が仕えた教授によれば、男女比で見ると、1対10に近かったという。
 想像してほしい。通勤電車の中で、女性1人の周りが10人の男性・・・しかも、その男性のほとんどが単身・・・これは危険だ(汗)

 となれば、犯罪防止の観点からも、遊郭が必要ということになり、設置されたのが吉原であり、拡大する需要に応えるべく繁栄したのが四宿(品川・千住・板橋・新宿)なのだ。
 以前の記事でも書いたように、女郎は決して恥ずかしい職業ではなかったというくらいで、一種のサロンみたいな側面もあったと考えるべきだろう。

 また吉原近くの紙漉き職人が、漉いた紙を冷やかす間の時間に、吉原に出かけ、遊女をからかって帰るところから生まれた「冷やかす」という言葉も生まれた。
 吉原は、独身ないしは単身赴任の男性だけのものでなく、妻帯者も普通に行っていたわけで、感覚的には、今オヤジたちがお姉さんのいる飲み屋で飲むのに近いだろう。

 品川の宿だと、増上寺のお坊さんなどがお得意さんだったというから、お坊さんも通っていたことになる。おいこら、生臭坊主(苦笑)
 考えてみると、こうした施設が公認だったのは昭和33年3月まで。三丁目の夕日の世界だし、東京タワーの建設の時代である。

 実は、ごく最近まで公認だったということになる。思えばこの年は、長嶋茂雄が巨人に入団した年。その頃までは、東京にも江戸のにおいがあったのかも知れない。

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