百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録が確実になったということで、ブラタモリや歴史秘話ヒストリアなどで取り上げられている。
ただ、他の報道などを見ても世界最大の古墳として大山陵古墳(仁徳天皇陵)ばかりが紹介されているように感じるのは小生だけだろうか。
もちろん、どの歴史の教科書にもまちがいなく掲載されているこの古墳を評価しないということはないが、あくまで今回の勧告は百舌鳥・古市古墳群という集団での指定なのだ。
さらにいえば、仁徳天領のお隣の履中天皇陵を含め紹介されるのは百舌鳥ばかり・・・ってことで、このブログでは古市古墳群について取り上げてみたい。
この古墳群は百舌鳥と概ね同じ時期に形成されている。代表となる古墳は日本最大の古墳、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)だ。
えっ、日本最大は仁徳天皇陵だろうって・・・確かに仁徳天皇陵の全長486mに対し、応神天皇陵は425mと日本第二位の大きさだ。
だが、マニアには知られた話だが、古墳築造のために使われた土の量はこちらの方が多いという研究がある。つまり作るのはこちらの方が大変だったというわけだ。
ちなみに応神天皇は仁徳天皇の先代にあたるが、古墳のサイズを見ると興味深いことがある。この両古墳の後円部は直系250m、高さ35mと同じなのだ。
これは何を意味するかというと、仁徳天皇陵が応神天皇陵の設計をベースにして、前方部を伸ばして作られたということだ。
また古墳の埋葬者はあてにならないことが常識だが、この古墳の名前の誉田御廟山の誉田は応神天皇の名前が「誉田別尊」というところからも間違いないと考えてよさそうだ。
そして、大切なのはこの古墳が置かれているロケーションだ。奈良盆地から信貴山・葛城山の間を流れる大和川にそって大阪平野に出たかっこうの位置にあり、その後に作られた仁徳天皇陵などとセットで外交上・国内政治上の要所となっている。
この当時の大阪の地図(上右)を見ると面白い・・・というのは、この上町台地の先端が石山本願寺~大坂城のあった地点だ。
そしてそこに難波宮があった。仁徳天皇ゆかりの宮でもある。まさに時代を超えて歴史の表舞台だったわけである。
話を古市古墳群にもどすと、応神天皇は第15代天皇だが、その後の第16代仁徳、第17代履中、第18代反正はいずれも百舌鳥に古墳がある。
ところが第19代允恭は古市に古墳があるのだ。このことから(天皇歴代の系譜が正しいとすれば)、百舌鳥と古市は同じ時期に形成されたと考えてよいだろうと。
さらに面白いのは白鳥陵という古墳の存在だ。こちらは日本武尊の陵墓とされている。ご存じの方も多いかと思うが、日本武尊は全国各地に伝説は残っているが、神話上の人物とされていて、実在しなかったというのが定説。
だとすると、この古墳に埋葬されているのはいったい・・・?
もっとも、そんなことを言ってたらきりがない。たとえば平城京の造営に当たって壊された平城天皇の古墳だが、そもそも平城天皇は平安時代の人物だから、ありえないのだ。こんなややこしいことは古墳にはつきものである。
まあ、この辺はきりがなくなるのでやめておこう。
ともあれ、今回の世界遺産登録勧告で古墳ブームが起こることは間違いないだろう。だが、しつこいが古市古墳群にももう少し光を・・・と。
ちなみに応神天皇は全国にあまたある八幡神社の祭神でもある。軍神ともされているが、記紀によれば、神功皇后の朝鮮出兵時に身ごもっていたとされている。
縦横に思いをめぐらし、古墳を訪ねて歴史のロマンにひたるのもよさそうだ。
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