泉を聴く

徹底的に、個性にこだわります。銘々の個が、普遍に至ることを信じて。

幽霊塔

2023-09-30 18:05:13 | 読書
 江戸川乱歩は、小学生以来でしょうか。
 映画「君たちはどう生きるか」に導かれて。
 表紙の女性、映画に出てくる夏子にそっくりです。幽霊塔とその前の沼も。
 幽霊塔では、この女性、秋子と言います。夏子も出てきますが、この女性とはまるで違うような醜さとなって。
 宮崎監督の漫画が、最初から16ページ載っています。そこに描かれていますが、幽霊塔は、江戸川乱歩の前に黒岩涙香(るいこう)が描いていました。その涙香も、イギリスのウイリアムソンが描いた「灰色の女」を元にして日本に合うようにして紹介していました。この辺りはゲーテの「ファウスト」に似ています。ファウストも、元々はよく舞台で演じられていた演目をゲーテが自分流に料理したものでした。
 宮崎監督の印象的な言葉がありましたので引用しておきます。漫画の最後のページです。
「みたまえ、幽霊塔は19世紀からつづいているのだ。
 19世紀には、まだ人間はつよく正しくあれると信じられていた。
 20世紀は、人間の弱さをあばき出す時代だった。
 21世紀は、もうみんな病気だ。
(中略)
 わしらは、大きな流れの中にいるんだ。
 その流れは、大洪水の中でも、とぎれずに流れているのだ」
 本当にそうだと思いました。
 もう、みんな病気。いかに病気から脱することができるか。予防することができるか。
 そもそも、この住んでいる地球の存続すら、人間の活動によって、危うくなってきています。
 この視点は、どうしても、作品に入ってくる、と私も思います。
 で、この幽霊塔ですが、面白かった。
 小学生のときは、よく図書館に通っていろんな本を読みましたが、「興奮度」という観点からだと、やっぱり乱歩が一番でした。
 ページをめくる楽しさ、次、どうなるんだろうというわくわく。全てが明らかになった後の充足感。
 小説の面白さ。奥深さ。最初の洗礼は乱歩だった。確かに、と、改めて思わされました。
 天性なのか、鍛え抜かれた技なのかわかりませんが、読者を次へ次へと誘う書き方がすごい。少しだけ匂わせたり、先に出しておいて回収したり、無駄はなく、でも読者には親切。文章がとても丁寧です。小学生でも読めるでしょう。
 でも深い。というか暗い。というか、社会的タブーが入っている。
 この作品では「蜘蛛屋敷」が出てきます。家の中が蜘蛛だらけで、誰も近づきたがらない。そうしているのは訳がある。
 秋子さんには、左手にいつも謎の手袋がはめられています。その秘密とは何なのか?
 主人公の光雄には幼馴染で許嫁の栄子がいますが、光雄が秋子と出会って秋子を愛し始めたのを敏感に感じ取り、嫉妬に燃えた栄子はあらゆるトラブルを起こします。栄子が影の主人公とも言えます。その栄子の顛末もまた読みどころ。そこには、人間の浅はかさ、好ましくない感情というものがよく描かれています。
 あとは怪しげな弁護士に医学士も。裏の顔を持ちつつ憎めないのは栄子と似ているかもしれません。
 人物たちが魅力的。それは表だけじゃなく、隠している裏があってこそ。そのことも、乱歩はわかっていたのかどうか、わかりません。
 幽霊塔は、かつての住人が殺され、その人が幽霊となって現れると言われていました。大きな時計塔でもあって、かつて海運で財を成した人物が作りました。そして、その塔のどこかに財宝が隠されているとも言われていました。
 財宝もまた隠されている。幽霊もまた、どこから出るかわからない。あるのかないのか、いるのかいないのか、その不安定さが読む者を先へ先へと進めます。
 大きめな本ですが、読み始めたらあっという間でした。
 様々な謎に裏、そこには真実があった、とだけ言っておきましょうか。
 光雄と秋子はどうなっていくのか? それもまた読みどころで、今の私には納得ができる結末でした。

 江戸川乱歩 著/宮崎駿 口絵/岩波書店/2015

 
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西の魔女は死んだ

2023-09-16 19:08:38 | 読書
 もう少し梨木さんを読みたくなり、定番に手が伸びました。
 今年もですが、毎年夏に展開する「新潮文庫の100冊」の常連。この本が入らなかった年はなかったのではないでしょうか。
 この本には思い出もあります。
 私が池袋の本屋の人文書にいたとき、もう15年くらい前になりますが、そのとき一緒に働いていた同僚の一人に、この本を激推ししていた人がいました。そのときは「ふーん」くらいで読む気にはならなかった。
 15年も経てば、当時の書店のラインナップから消えていく本たちの方が多いかもしれません。でも、この本は生き続けています。
 文庫本として発売されたのは平成13年8月と奥付(本の一番最後のページ)に書いてあります。それからなんと100刷。100回増刷されています。
 平成13年は2001年のことで、今から22年前。当時、私は24歳で、大学を出たばかりで、書店で働き始めた年でもありました。
 そのときからこの本は本屋にあり、同僚の勧めで存在を知っても読まず、それからまた15年も経って自ら手を伸ばすとは。
 辿り着くべき本には辿り着ついてきたんだなあ、という感慨がまずあります。読むべき本とは出会ってきていて、それぞれのタイミングで、それぞれの自分で、吸収すべきものを吸収してきたのだと。
 この本を読み、当時の同僚の姿が浮かびました。懐かしい。元気にしているかなと思う。そしてこんな物語が好きだったんだなと、ほんの少し、その人に近づけた感じもします。
 本は、人に似ているのかもしれません。出会うべき人には出会ってきたこととも似て。
 さて、中学校に入ったばかりの「まい」が主人公です。
 5月、まいは学校に行けなくなってしまいます。
 心配した両親が頼ったのが、母親の母親、まいのおばあちゃんでした。まいとその母親は、その人のことを「西の魔女」と呼んでいました。
 まいはおばあちゃんが大好きでした。そのことをよく口に出してもいました。
「おばあちゃん大好き」と。
 すると、西の魔女はこう言うのでした。
「アイ、ノウ」と。自信たっぷりに。
 まいは、そんなおばあちゃんとの共同生活をすることになります。それは同時に、まいの「魔女修行」をも意味していました。
 魔女といっても、ほうきに跨って飛ぶわけではありません。私がタイトルだけで先入観を抱き、この本を長い間遠ざけてしまったのは「魔女」にまつわるそんな陳腐なイメージでした。
 手垢にまみれたうわさ、先入観による思い込み、本当に願うことではないことに反応してしまうくせ。言ってみれば、それら私にも心当たりがあることを乗り越えていくことが、西の魔女が言うところの魔女修行なのでした。
 そのためにはまず生活のリズムを作ること。一日の行動の予定を立てて実行すること。そして、何より大事なのは、自分が決めること。
 自分が、この自分の生活の主体となること。そのことを、おばあちゃんは、まいと生活をともにする中で、まいに染み込ませていく。
 まいが自分を取り戻していく中で、「まい・サンクチュアリ」とおばあちゃんが名付ける場所が現れます。そこは、まいがとても気に入った場所のことで、その土地をおばあちゃんは法的にもまいに譲るのですが、その存在が、とても印象に残りました。
 まいは、そこにある切り株に座っているだけでしあわせを感じられます。自分が自分であることを丸ごと受け入れられ、受け入れてもらってもいる。自然と、自然でもあった自分とが、深い呼吸を繰り返すことで交流できるような場所。
 ああ、それは私にとって、花との出会いだったんだなと思いました。
 あるとき、突然、道端の花の存在に気づきました。
 その花は、どこから来ていたのか?
 土でした。大地でした。
 私は、そのとき、コンクリートやアスファルトや、あるいは言葉に隠されていた土を発見した。
 土は自然です。生きている地球のかけらである鉱物の破片と、生きていた生物たちの死骸でできています。
 そう、死もまた自然でした。
 まいが恐れていたのも死でした。
 そのことをおばあちゃんに話せた夜、まいは印象的な夢をみます。
 その夢の話も聞いたおばあちゃんは「ありがたい夢ですね」と言う。この言葉もまた私に記憶されました。
 夢をありがたく思うその気持ちがいいなあ、と。
 おばあちゃんとまいの共同生活は2ヶ月ほどで終わり、その後再会できないままおばあちゃんは死んでしまいます。
 まいは、再びおばあちゃんと住んだ家に入る。
 すると、おばあちゃんと話していた約束が果たされていたことを知ります。
 それが何なのかは、読んでご自分で確かめてみてください。
 この本にも、私が知らなかった植物や動物が登場します。
 その一つ一つを知ることもまた楽しいです。

 梨木香歩 著/新潮文庫/2001
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僕は、そして僕たちはどう生きるか

2023-09-03 18:08:53 | 読書
「君たちはどう生きるか」に続いて読みたくなった本。この小説にも「コペル君」と呼ばれる中学生が登場します。
 それだけでなく、著者の梨木香歩さんを読みたくなったのは、別冊太陽の「河合隼雄 たましいに向き合う」を読んだからでもあります。


 この本に、梨木さんの文章も寄せられています。
 今日もそうでしたが、あまりにも暑くて疲れて何もする気がわかないとき、ぱらぱらとめくって好きなところから読みました。
 河合隼雄さんは、2006年の8月に脳梗塞で倒れられました。そのまま意識が戻らず、翌年の7月に亡くなりました。2006年8月は、このブログを始めたときでもあって、それからもう17年。この本と働く本屋で出会って、買わないわけにはいかなかった。それだけ私は河合隼雄の影響を受けていました。
「影響を受ける」というより、こんがらがった自分を解きほぐす助けになってくれたという感じでしょうか。
 あるいは、大海原を照らす灯台のように。そこにいてくれることがありがたかった。
「切り拓かれた道の行方」という題で、梨木さんは書かれています。
 切り拓かれた道は、多くの人たちが通ることで、踏み固められて大きくなっていく。
 切り拓かれた道は、文章で辿ることができて、本となって残されています。
 私もまた読みたくなってきました(すでに1冊書いました)。
 
 で、梨木さんの本。
 少し読んだだけで、とても文章が上手いと(当たり前なのですが)わかりました。
 読むことに対するストレスが極めて低い。主人公のいる場所に自然に入っていけて、その空気も感じられるような描写。
 柔らかくて的確。砕けすぎると嫌味が出ますがそれもありません。
 読んでいて引っかかったのは、初めて接する植物や虫たちの名前。
 ハンテンボク、イタドリ、ウミユリ、チゴユリ、クマガイソウ、トビムシ、カニムシ、ザトウムシ、エビネ、キンラン、ギンラン、コウホネ、ヒシ、カラスヘビ、スベリヒユ、シーボルトミミズ、などなど。
 一つ一つ、わからなければスマホで調べました。その時間もまた楽しく。その生き物を、ほんの少しだけでも知っただけで、より小説の具体をつかまえられるように感じました。
 不思議な一日の話です。
 コペル君と、彼の母の弟「ノボちゃん」というおじさんに呼ばれている子が、いつものように土壌調査に出かけた。「土壌調査」は、1リットルの土にどれだけの虫が生息しているかを定期的に調べるもの。彼はこれが必要だと感じて続けていた。その理由は後で明かされます。
 その出かけた先でノボちゃんと会う。ノボちゃんはイタドリが必要で採取しているところでした。さらにヨモギも必要だと言う。コペル君は、汚染されていないヨモギが生えている場所を知っていた。が、そこは、学校に来なくなっていたかつての親友の敷地内だった。
 その友達ユージンに久々に電話をかけ、OKをもらう。ノボちゃんとコペルと、コペルの飼っている犬「ブラキ氏」でユージンの自宅に。ユージンは、訳あって、大きな家に一人暮らしをしていた。その訳も、次第に明らかになっていきます。
 そこにユージンのいとこ、ショウコもやってくる。ショウコは、一人暮らしのユージンを気遣ってということもあったが、その他にも大事な役割があり、ユージンの家にしばしば来ていた。ショウコの使命もまた次第に明らかにされていきます。
 最終的には、「たましいの殺人」について書かれていたのでした。
 物語の出だしの柔らかさからは想像もできない展開。だけど、とても滑らかにつながっていて、著者の中では全体が見えていたのだと思う。そうじゃなければ書けない書き方です。
「たましいの殺人」が何なのか? ショウコが関わることになった「インジャ」の話、ユージンが学校に行かなくなった理由、ユージンが出会った元兵役拒否者、ユージンのおばあさんの活動、途中から参加することになるショウコの母の友人でオーストラリア人のマイクの軍隊での体験談などなどを通じて具体的に追体験していくことができます。
 最後は焚き火を囲んで。墓場で過ごすしかなかった「インジャ」が人の群れに改めて入ってくる。どうしてそれが可能になったのか? それも読んでいるうちに自ずとつかめてくる。そんな構造です。
 インジャの語った言葉が忘れられません。
「……泣いたら、だめだ。考え続けられなくなるから」 (231ページ10行)
 インジャもまた泣いたのでしょう。その上で、泣くだけでは先に進めないこともまたわかっていた。
 群れから離れ、一人になる時間と場所が必要だった。
 でも人は、一人では生きていけない。
 というか、僕がどう生きるかを考えていると、自ずと「僕たち」はどう生きるかについて考えることにつながっていく。
 ああ私はこんな小説が書きたかったんだなと思わせられました。
 私が学生時代に書いた処女作は、この作品の足元にも及ばない。だけれども、「たましいの殺人」を描きたかったのだと今は思う。
 この本は、「たましいの殺人」のその後まで書いている。著者が誠実ならば、そこまで描いて当然だと思える。
 以上のような感想を抱いて、改めて生物の固有名詞がたくさん出てきた意味が浮かび上がってきます。
 アスファルトで道を通すことだけが人にとって必要なことなのか。
 考え続けること。それが人の固有性を保つための秘訣なのではないのか。
 さて、私はどう生きていくのか?
 こんな素晴らしい小説を書かれて、まだ書くべきことは残されているのか?
 向き合い続けるしかないのではないでしょうか。
 私と、(私に)描かれたいものとが。その対話が噛み合って、豊かに広がって深まっていくほどに、作品の質も上がっていくのでしょう。
 向き合い続けること、カウンセリングを継続していくこと、考え続けていくこと。
 考え続けていくことの切実な要求を聴き、知らされた思いです。
 一つ一つのたましいが、喜んで(わらわらと)、一つでも多く人間になっていけるように。

 梨木香歩 著/岩波現代文庫/2015
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君たちはどう生きるか

2023-08-26 18:42:27 | 読書
 映画「君たちはどう生きるか」を観たら、この本も読みたくなりました。
 再読のはずなのですが、細部を覚えておらず、記録にも残ってないので、20年近く前だったのかもしれません。
 こんなに泣ける話だとは思ってなかった。少なくとも3度はグッときました。
 この本の素晴らしいところは、コペル君と呼ばれる主人公が中学校生活を送る中で経験する出来事と、コペル君の語りを聴いて受け止めるおじさんの伝えたいことが見事に融合しているところです。そんな本は他にないでしょう。だから超ロングセラーとなって売れ続けています。
 基本的には、これからを生きる若い世代に「これだけは」伝えておきたい大切なことが詰まっています。
 何が大事なのかは、読むそれぞれの人が感じ取って、大事に育てていくしかありません。
 私がここでおせっかいにも「これとこれとこれ」などと指摘するつもりもありません。
 ただ、映画を観て、主人公のマヒトがこの本を読んで泣いていた場面はこの箇所かなと思うところがあり、そこはまた私が再読して一番感じ入ったところでもあったので、ここに記しておきます。
 それはコペル君(本名は潤一君)のお母さんが編み物の手を止めないまま、熱を出して伏せってしまったコペル君に対して語るところです(247ページ14行〜248ページ9行)。

「潤一さんもね、いつかお母さんと同じようなことを経験しやしないかと思うの。ひょっとしたら、お母さんよりも、もっともっとつらいことで、後悔を味わうかも知れないと思うの。
 でも、潤一さん、そんな事があっても、それは決して損にはならないのよ。その事だけを考えれば、そりゃあ取りかえしがつかないけれど、その後悔のおかげで、人間として肝心なことを、心にしみとおるようにして知れば、その経験は無駄じゃあないんです。それから後の生活が、そのおかげで、前よりもずっとしっかりした、深みのあるものになるんです。潤一さんが、それだけ人間として偉くなるんです。だから、どんなときにも、自分に絶望したりしてはいけないんですよ。そうして潤一さんが立ち直って来れば、その潤一さんの立派なことは、そう、誰かがきっと知ってくれます。
 人間が知ってくれない場合でも、神様は、ちゃんと見ていて下さるでしょう」

 このお母さんの言葉に触れただけで、ああ買って読んでよかったと思えます。
 さすがお母さん!と言うべきか、母親ならではの強さというか。おじさんはおじさんで、甥っ子のコペル君に対する愛情も言葉も噛み砕いて伝えてはいるのですが。
 そうそう、なんで「コペル君」なのでしょうか?
 これはこの本の冒頭に出てきますが、かなり深い意味があります。
 コペルニクスは、地動説(地球が太陽の周りを回っている)を唱えた人として知られています。今では小学校で教えられるような「当たり前」の科学的事実ですが、コペルニクスの生きていた時代では天動説(地球が宇宙の中心にある)が「当たり前」の常識でした。
 なぜ潤一君がコペル君とおじさんに言われるようになったのか。それはコペル君が、人間を一つの分子として初めてとらえることができたから。その大事な初体験をおじさんが忘れないようにと思ってコペル君と名付けました。
 じゃあ、自分もまた人間という分子の一つに過ぎないという発見がなぜ大事なのか?
 それは、この本の肝にもなっています。
 子どものとき、自分の家族や学校だけが世界の全てだと感じてはいなかったでしょうか?
 世界の理解の仕方はどうだったでしょうか?
「私が思っていること」が全てではなかったでしょうか?
 いくつかの出来事を通して「私にはこの世界に居場所はない」とその人が思えば、実際にその人の世界はそうなる。
 でも、「本当に」そうなのでしょうか?
 私もまた地球にさまよう一つの分子にすぎない。と心から思えたとき、その人に何が起きているのでしょうか?
 私が、そんな感じになるのはどんなときだろう? と思います。
 海を見ているとき、星を眺めているとき、草花を撮っているとき、走っているとき、温泉に入っているとき、音楽に身を任せているとき、また本を読んでいるときもそうかも知れません。
 そのとき、「私が思う世界」などなくなり、直に世界と触れている実感がある。そんないわば社会的に無になる体験が、社会的な役割を負っている私を支えている。
 人に社会的認識を可能にするためには、まずこの私から離れて、一つの分子になる必要があるということ。
 この主観と客観の反転を行き来できること、それが人の成長には欠かせない。
 と、おじさんは言っているのかなと私は思いました。
 で、実際に、天動説から地動説への移行というのは、「本当に」もうとっくに完了していることなのでしょうか?
 教科書にも載っているし当たり前じゃん!と思っている人がほとんどかも知れません。私も再読するまでそう思ってました。
 が、違うのです。とっくに移行完了などしていない。いまだに、現在進行形の課題なのでした。
 天動説とは、要するに、自分が中心となった世界の理解の仕方です。いわば自分を固定化し、正当化し、その地面が常に動いているなど考えもしなければ、自分より大きな存在があることなど想定もしません。常に自分が王位にあるためにあらゆる出来事を歪曲化して慣らしてしまう暴力性に支えられています。
 と言ってみて、ハッとしないでしょうか?
 今だって、天動説に住む人たちはいる。
 おじさんが「コペル君」と呼びかける中には、人はいつだって地動説から天動説に戻ってしまうことすらあるんだよ、と言っているように聞こえます。
 だからこそ、「今」だったんだな、と思います。
 今、再読できてよかった。
 自室の本棚にこの本を置き、もう忘れまい、と思う。
 でも、人は忘れる。だから、本棚に本は必要なのですね。

 吉野源三郎 著/岩波文庫/1982
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ぼくは満員電車で原爆を浴びた

2023-08-05 16:08:41 | 読書
 今日はもう一冊。
 明日の8月6日は、78回目の広島原爆の日。
 当時11歳だった一人の少年が、原爆の爆破地点から1キロ以内にいたにも関わらず生き残りました。
 その人は米澤鐡志(てつし)さん。自身の体験を語り伝えてきました。
 その少年は路面電車に乗っていました。疎開先からお母さんとともに、広島の祖父母のところへ足りないものを取りに行くために。
 その日は月曜日で、仕事に行く人などで朝の路面電車は超満員だった。
 その真ん中付近で、彼は人々に埋もれていた。
 そのことが、彼を救うことになった。
 ピカッと光った後の静寂。静寂の後の地獄。
 35度でひいひい言っているのに、地面は3000度以上になったという。
 原爆は100万度。78年前、現実にあったことだけど、信じられない。
 信じたくもない。と思うから、歴史は歪曲されてきたのかもしれません。
 少年の語りは続きます。
 肌が熱で溶けて垂れてしまった人たち。防火水槽に頭から突っ込んで息絶えてしまった人たち。
 ガラス片が刺さっているのも気づかないで歩いている人たち。いつも遊んでいた川で流れていく人たち。
 目玉が飛び出してしまって、顔に二つの深い穴をさらしている人。
 ともに逃げたお母さんも、高熱に苦しめられ、苦しさのあまり「もう殺して」とまで言わさせて、亡くなってしまった。
 彼は助かった。語り続けることが使命になった。
「どんなにつらい記憶でも、知らないよりは知ったほうがいいと私は思います。
 本書は読むのも苦しい内容ですが、きっと未来のための知恵を与えてくれるでしょう」
 本当にその通りだと思う。過ちは学ぶためにあります。上の文章を寄せたのは、原子力の専門家である小出裕章氏。
 知っていればこそ、新しい回答も導くことができる。
 核は使えない。人が制御できるものではない。そう知った上での「次の一手」はなんなのか。
 アメリカとロシアだけで、核兵器が1万発あると言われています。
 英国(225)、フランス(290)、中国(410)、インド(164)、パキスタン(170)、イスラエル(90)、北朝鮮(30)。(「ひろしまレポート」より)
 上の数字は2023年1月時点での核兵器の数。英国、フランス、イスラエルは増減なしですが、中国、インド、パキスタン、北朝鮮ともに増えています。
 一体何を争っているのでしょうか?
 78年も経てば、核兵器の威力も増しているのではないでしょうか。それが10,000以上とは。
 人権を守り、一人一人の平和をこつこつ作っていくことよりも、恐怖で人を操る方が簡単ということでしょうか。
 人は変わらないのでしょうか?
 いや、学ぶことができるのが人のはず。
 恐怖を解くことができるのも「語り」の持っている力の一つ。
 語り続けることですね。希望を失わず。
 米澤さんが語り続けてきたからこそ、児童書の担当を経て、私にまでこの本は届きました。
 そして私も、未知の読者にこの本を届けます。

 米澤鐵志 語り/由井りょう子 文/小学館/2013
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伝奇集

2023-08-05 12:51:19 | 読書
 精巧な、あまりにも精巧な作品集。こんなに完成度の高い短編を読んだことはありませんでした。
 著者のボルヘスはアルゼンチンの人。リョサもそうだったけど、南米の作家の描くものはちょっと違う。
 アメリカ、ヨーロッパから日本まで続くシルクロードから外れているからか、馴染みのない文体だったり構成だったりする。
 その違いが新鮮で、ときに強烈で、面白く感じます。ボルヘスの後に、ガルシア・マルケスだったりリョサだったりが続く。その意味で、ボルヘスは大事な人。
 この作品集は1944年に刊行されています。
 代表的と言われている「円環の廃墟」と「バベルの図書館」、さらに個人的には一番良かった「隠された奇跡」をそれぞれ2回読みました。
 読むたびに味わいが変わってくる。まるで万華鏡のよう。
 東京国立博物館で観た国宝たちも思い出しました。特に、「硯箱」や「縫箔」。よくもこんなに細かい作業を根気強くやり通したものだ、と感心せずにはいられないものたち。
「円環の廃墟」は、あるとき、ある村外れの森に、廃墟と化した神殿があり、そこにある男がやってきた。男は眠ることが仕事だった。夢の中で、あるもう一人の男を細部まで思い描き、現実の世界に現すことが最大の目標。苦労し時間もかかったがなんとか成功。男は、その息子を大事に大事に育てた。ただ一つ、自分が幻に過ぎないことを知ることだけを恐れて。二人は別れ、それぞれの神殿で暮らしていたが、やがて大火に襲われた。男は、死ぬときがきたのだと悟って逃げずに火に包まれる。しかし、熱いどころか火は彼を撫でた。そして彼は知った。自分もまた誰かによって作られた幻の炎でしかなかったのだと。
「バベルの図書館」は、宇宙を図書館に見立てたもの。六角形に書棚は並べられ、階段でつながっていて、その階段の数は「永遠」。六角形の階層に所々司書としての人がいる。人々は、この図書館にある蔵書に全てが書かれていると信じて希望を持っている。だからこそなのか、自分のことを書いてある「弁明の書」がもてはやされたことがあり、人々はその書を求めて階段を駆け上がり、狭い回廊で争い、六角形の真ん中に空いている穴に落とされるものも出た。この本はイカサマだと決めつけて穴に放り込む人々もいた。しかし、本は無数にあるので、人々に処分されても影響はなく、また「弁明の書」に辿り着く人々もまたいない。結果的に、人々の孤独(個性)が浮き彫りになる。
「隠された奇跡」は、第二次世界大戦の最中、ドイツ兵に捕えられてしまったユダヤ人の話。彼は処刑を待つ身となってしまいます。彼には作りかけの戯曲がありました。処刑の日が近づき、その時間が来ます。彼は処刑場に立ち、ドイツ兵の銃にさらされている。そのとき、奇跡が起こる。彼以外の時間が止まり、彼の創作の自由が許される。彼は処刑の前の最も恐ろしい晩、闇のなかで神に語りかけていました。
「仮りにわたしがなんらかの意味で存在するものであり、仮りにわたしがあなたの反復と錯誤のひとつであるならば、わたしは『仇敵たち』の作者として存在するものです。わたしに根拠を与え、あなたに根拠を与える可能性を持ったこの戯曲を完成するためには、さらに一年が必要であります。あまたの世紀と時そのものの主であるあなたよ、それだけの日時をわたくしにお授けください」 (207ページ12行~208ページ1行)
 時は許された。彼は完成させた。その瞬間、彼は殺されます。
 人間は完璧なものではなく「錯誤」だとボルヘスはとらえる。錯誤であればこそ永遠性を宿す作品を残すことで己の生まれた意味を宇宙に刻もうとする。宇宙という図書館の蔵書の中の1冊の1ページの1文字として。それこそ、永遠に、何度も何度も読める作品を作った。「隠された奇跡」が、どれだけ多くの人たちを励ますだろうと思う。
 私が描こうとしてる小説も、要するに「隠された奇跡」の私だったら編と言いましょうか。神に願ったものがそのまま叶えらるということで言えば、ロングランとなっている映画「ザ・ファースト・スラムダンク」で主人公リョータのライバル、沢北が「自分に足りない経験をください」と願い、敗北したことを思い出します。
 人は神に比べれば不完全で、あたかも幻かと思うほどにあっという間に死んでしまう。それでも、人には人にできることができる力が備わっている。それを文芸作品で証明したのがボルヘスなのかもしれません。

 ホルヘ・ルイス・ボルヘス作/鼓直 訳/岩波文庫/1993
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緑の家

2023-07-14 17:55:09 | 読書
 作家が愛されるのは、作家が愛しているからだ、と、この長い小説を読み進むうちに思いました。
 愛された経験というのは忘れません。その人が亡くなっていたって関係ない。私の中では、ずっと、ありありと生きています。
 おばあちゃんとテレビで野球を観たことや、おじいちゃんが海で遊んでいる孫たちを見守っていたことや、おじさんがぶっ飛ばす小型の船に乗せてくれたことや、先生が私を受け止めてくれたこと、その他数え上げれば切りがありません。
 それらの決して消えない愛の一つ一つが、今の私を作っていると言って過言ではありません。
 作家は、作品を通じて、人々を愛している。登場人物に読者が感情移入するとき、その愛は読者に受け渡されている。そして読者の中に、大切な作品、大切な人物として残り、語り継がれ、生きていく。
「緑の家」を読み始めたとき、戸惑いました。いきなり改行が一切ない文章の塊が出てくる。
 そして場面や人物が続かない。5つのストーリーが描かれていきますが、過去から未来へという順番でもありません。
 一つの章の次の段落に、それまでとは違う人物の会話が出てきたりもします。
 まったく初めての文体でした。
 違和感や、小出しにしかされない情報に不快感を覚えもしました。が、次第にそれらが読み進めるための工夫であることがわかってきます。
 作者は決して意地悪ではないし、読者をあえて混乱させようとしているわけでもないのは、誠実な描写がたくさんあるから。
 読み進めるうちに、全体像が読み進めただけ見えてくる楽しさもあります。まるでジグゾーパズルのように。
 語りが多いのもこの小説の特徴かもしれません。
 会話文は、意外と難しいものです。ついボロが出やすいというか。人物を深く理解できていないと、その人の言葉や間はつかめないもの。
 ですが、多くの人物が登場するのに描き分けられているのは、実際の人物をモデルとしていたからかもしれません。
 舞台はペルー。川をさかのぼると密林があり、そこには古代からの営みを続けている部族たちも住んでいる。
 ボニファシアは、密林でシスターたちに捕獲され、中世を思わせる修道院で「教育」を受けさせられた。掃除やゴミ捨てなどを手伝っていたが、同じように密林から連れられてきた少女たちを不憫に思い、修道院から逃してしまう。そのことをシスターたちに責められ、修道院から追い出されてしまう。
 フシーアは、謎の多い日本人。密林の部族の長と親しくなり、ゴムの密売や他の部族を襲って略奪することで生活している。部族の女たちを囲ってハーレムまで作っていたが、蚊を通じた感染症にかかって下半身が不自由に。ラリータという妻がいたが、船頭のニエベスとともに逃げられてしまう。不幸を嘆き、すぐに怒るような晩年だったが、アキリーノという年長者が支えてくれる。
 追われたボニファシアは、ラリータとニエベスが暮らす小屋に落ち着いた。そこに仕事で来ていた警官のリトゥーマが見初めてボニファシアと結ばれる。その結婚式は、彼女の第二の故郷とも言える修道院で。その場面は感動的でしたが、後にリトゥーマはある事件を起こし、逮捕されてしまう。
 アンセルモもまた謎の多いハープ弾き。彼は街にふらっと来て、飲み屋などで気さくに人々に話しかけている。特に女性たちには特別な視線を送っていた。やがて彼は、町外れに「緑の家」を作る。それは飲み屋でお食事処であって、アンセルモたちが生演奏を披露する場であり、女性つきの休憩所、いわゆる娼家でもあった。「緑の家」は、瞬く間に人気スポットとなる。だけどその人気も続かない。アンセルモが愛したトニータという少女が妊娠し、出産のとき、出血多量で死んでしまう。その際の混乱に乗じて、かねてから「緑の家」を敵視していたガルシーア神父が「緑の家」を焼き討ちにしてしまう。が、アンセルモとトニータの子は、医師のセバーリョスや料理人のメルセーデスの助力によって助かり、アンセルモの娘、チュンギータが後に二代目の「緑の家」を再建し、アンセルモを楽師として雇うだけでなく、再び行き場をなくしたボニファシアもまた雇う。ボニファシアは、セルバティカと名前を変え、娼婦となっていた。
 このような形で、登場人物たちはどこかで交わって、関わり合っている。その40年に渡る物語の最後は、アンセルモの死によって、一堂に会する。その最後の章がやはり一番感動しました。すべてがつながり、一人一人が報われるというか。読者の苦労もまた報われます。その場面で「愛」を感じたのでした。
「密林出身」だからという偏見や差別、また売春宿や売春婦に対する偏見や差別、また犯罪者に対する偏見や差別、また未成年者に対する愛への偏見や差別、また外国人に対する偏見や差別。と書いてくると、この小説は、現状認識の大多数に対する異議申し立てを企てていた、と気付かされます。
 訳者の解説の最後に、作者、バルガス=リョサの言葉が引用されているので、ここにも引かせていただきます。 (下巻491ページ 5〜11行)

「小説を書くということは現実に対する、神に対する、神が創造された現実に対する反逆行為に他ならない。それは真の現実を修正、変更、あるいは破棄することであり、それに代えて小説家が創造した虚構の現実をそこに置こうとする試みに他ならない。小説家とは異議申立て者であり、あるがままの(もしくは、彼がそうだと信じる)生と現実を受け入れ難いと考えるが故に、架空の生と言葉による世界を創造するのである。人がなぜ小説を書くかといえば、それは自分の生に満足できないからである。小説とは一作、一作が秘めやかな神殺し、現実を象徴的な形で暗殺する行為に他ならない」

「神殺し」や「暗殺」と言われると「えー、そんな」と思いますが、実際小説やテレビドラマの中では、数えきれないほどの「殺し」が日々起きています。そのことを受け入れることで、やっと人は生きにくい人生を生きやすいものに変えていく。受け入れ難い現実を受け入れ可能なものに変える力、それこそが物語が持つ本質的なものです。
 注意しなければならないのは、「神殺し」や「暗殺」は、「象徴的な形で」行われる、ということです。「象徴として働く力」を文化と言えば、「実際の」神殺しや暗殺が起きてしまうのは、文化がないがしろにされてきたから、とも言えるのではないでしょうか。
 私もまた受け入れ難い現実に直面していました。東日本大震災はその際たるもの。それに日々起こって止まらない「人身事故」。温暖化だって到底受け入れられない。政治だってそう。原子力発電所のことや、ロシアの侵攻や。数え出したら止まらない。
 そこここに、なんとかかんとか道を通そうとする試み。
 その道があったお陰で、より多くの人たちが少しでも生きやすくなる。それが文化であり、文化の一つである小説にできること。
「緑の家」は、十分にその役割を果たしています。
 この小説の最後の章、エピローグの第4章まで来てみてください。
 アンセルモの懇願によってトニータを助けに行った医師のセバーリョスと、長年アンセルモを敵視していたガルシーア神父との対話には、つい微笑んでしまうのではないでしょうか。長い物語をともに歩んできたからこそ、分かち合えるものもあると納得させられます。
「受け入れ難い危険な猛暑」を置き換えるにも役立つ夏におすすめの一作です。

 バルガス=リョサ 作/木村榮一 訳/岩波文庫/2010
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ファウスト 第二部

2023-06-07 10:37:22 | 読書
 読み終わりました。大長編でした。
 マルガレーテを救い出せなかったファウストは、意気消沈しています。
 そんな彼の心をとらえたのが「美」でした。
「美しさ依存症」のようになっていく。元々が完璧主義のファウストなので納得もします。
 美しさの象徴とも言える古代ギリシャの絶世の美女、ヘーレナを現代に呼び戻す使命を、そのとき仕えていた王様からファウストは受けます。
 メフィストフェレスの助力を得て、古代ギリシャの旅へ。そこは過去であり冥界。神々やメフィストフェレスの仲間や死んだのに生きている霊や、肉体を探し求めている人造人間がふらふら飛んでいたり。神話の世界から登場する固有名詞が多くて、ここは読むのも大変。
 が、ファウストは、へーレナを連れてくることに成功し、自分の妃として歓待する。
 やがて子供も生まれ、しあわせも束の間、その子は大きくなるに連れて背中から羽を伸ばし、戦争に参加することを望むようになる。
 ファウストとヘーレナは必死に止めます。が、子供は飛んでいってしまった。
「イカロス」をご存知でしょうか?
 蝋で固めた翼を使って天高く舞い上がりましたが、太陽に近づき過ぎたため、蝋が溶け、墜落して死んでしまったという。二人の子供も、イカロスと同じ道筋を辿る。
「しあわせと美しさは共存できない」とつぶやいて、失意したヘーレナは冥界に戻ってしまう。
 これでも挫けないのがファウスト。
 先の王様が戦争で窮地になったとき、助けてやって領土を得る。その土地に「自由」をもたらすのだと意気込んで邁進していく。
 海のそばの開拓地。そこは、津波の後の被災地とも通じていました。
 悪魔のメフィストフェレスは、地震も津波も引き起こすことができるという。
 打ち寄せる波に負けない。ファウストは、最終的に闘い続けることを選んだ。
 すっかり開かれた土地に、頑固に居座る老夫婦がいた。ファウストは気に入らない。そこに建てたいものもあった。
 移住先も確保し、穏便に移動してもらいたかったが、メフィストフェレスに頼んだがために、老夫婦は死んでしまう。
 そこにやってくる四人の灰色の女。
 第一は欠乏、第二は罪責、第三は憂愁、第四は困窮。
 ファウストの家に入れたのは、憂愁のみ。鍵穴から忍び込んで。
 憂愁は、こんなことを言います。

「ひとたび私に掴まえられたら最後、
 その人には全世界も役に立たなくなります。
 永遠の暗闇がおりてきて
 太陽の昇り沈みもなくなります。
 外部の感覚は完全でも
 内部に暗黒が巣食うのです。
 ありとあらゆる宝物を何ひとつ
 わが物とすることができなくなります。
 幸福も不幸も、共に悩みの種となり、
 満ち足りながら、餓えになやむ。
 歓びであれ、苦しみであれ、
 なんでも翌日へ延ばそうとし、
 ただ未来を待ちうけるばかりで、
 いつまでも成熟することはないのです」 454ページ14行〜455ページ8行

 この箇所、まるでうつ病そのものだと思った。
 ゲーテは、なんでこんなことも知っているんだろう。
 作家への信頼が芽生えるのは、やはりこういう、私も経験したことを、私には成し得なかった言葉で表現してくれているとき。
 この人はわかってくれると思い、同時に今まで得られなかった言葉で自分を見つけることで明るく照らされる。
 ファウストは憂愁にも耐え抜きますが、視力を失ってしまいます。
「人間は一生涯、盲なのです」という憂愁の捨て台詞とともに。
 ファウストは見えなくなりますが、「だが心の中には明るい光が輝いている」(457ページ10行)。
 大事業を完成させるべく仕事に集中していく。
 そして気づけばもう100歳。
 ファウスト最後の言葉は、この大長編を締めくくるにふさわしい説得力がありました。

「外側では潮が岸壁まで荒れ狂おうとも、
 内部のこの地は楽園のような国なのだ。
 そして潮が強引に侵入しようとて噛みついても、
 協同の精神によって、穴を塞ごうと人が駆け集まる。
 そうだ、おれはこの精神に一身をささげる。
 知恵の最後の結論はこういうことになる、
 自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、
 これを享受するに値する人間といえるのだ、と。
 従って、ここでは子供も大人も老人も、
 危険にとりまかれながら、有為な年月を送るのだ。
 おれもそのような群衆をながめ、
 自由な土地に自由な民と共に住みたい。
 そうなったら、瞬間に向かってこう呼びかけてもよかろう、
 留まれ、お前はいかにも美しいと」  462ページ6行〜19行

 ファウストは亡くなります。
 そして、今か今かと魂が抜け出る瞬間を待ち受けるメフィストフェレスと悪魔の一味。
 しかし、天使たちが悪魔を阻む。愛という花々で、悪魔たちを翻弄して。
 悪魔たちに欲望はあっても愛は知らない。愛に対する免疫がないというか。
 本当の愛に触れたとき、悪魔たちはびりびりとしびれてしまい、その隙に天使たちはファウストの魂を天上に運んだのでした。
 ファウストだった魂は、天上では名前もない。マルガレーテだった魂に迎えられる。
 魂は、元々天上にあり、神々のものであり、人が死ねば、また天上に戻される。
 それにしても、メフィストフェレスは、魂を奪ってどうしたかったのでしょうか?
 悪魔は天使と同じように死なないようですが、「おいぼれの悪魔」という表現もあり、だいぶくたびれている印象です。
 私の想像ですが、死にたての魂をつかむことができたら、なんでも可能になるのではないでしょうか?
 若返りもできる、魔法の強化もできる。
 魂は、人間の源だから、人間の生まれ持っている可能性そのものだから。
 悪魔にとっては、またとないご馳走なのかもしれません。
 今回は、残念でした、ということですが、「死なないのが悪魔」ですから。
 やはり協同の精神で、日毎に闘い取ってこそ、自由を享受する生活は実現可能になる。
「自由」は「平和」と置き換えてもいいかもしれません。
 自由な生活、平和な社会は、自分が、自分たちが作り出していくのだということ。
 未来を待ちうけるばかりでは成熟しない。
 そうだ、その通りだと、深く思います。

 ゲーテ 作/相良守峯 訳/岩波文庫/1958
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ファウスト 第一部

2023-05-13 18:33:41 | 読書
 買ってから一年は経っていたでしょうか。今が読むときでした。
「若きウェルテルの悩み」に感銘を受けていれば、自ずと「ファウスト」も目に入ってきます。
 著者のゲーテが、24歳から書き始めて、82歳で書き終え、83歳で没したと言われている作品です。
 第一部は、一度読み、感想を書こうとしたけど書けず、もう一度頭から読みました。
 脚注も多くて、二度読んで、より具体的に染み込んできた、というか。
 今は第二部を読んでますが、ひとまず第一部まで読んでのことを書いておこうと思います。
 まず、ファウストは、偉い学者さん、となっています。街に顔を出せば、人々が寄ってきて感謝を述べる。疫病が流行ったとき、治してもらった、とか。
 当時の「学問」は、法学、神学、医学、哲学のこと。これら全てを治めた大学者、ということになっています。
 しかし、ファウストは絶望している。
 疫病患者を治したとか言われているけれど、本当は父のやっていたことを真似ていただけで、苦しむ人々に飲ませた薬のようなもので、返って人を死なせてしまったこともあった。いくら本を読んでも、完全になれない。いくら努力に努力を重ねても、究極の目標、「人類の栄冠」を達成することができない。「人類の栄冠」とは、今で言えば、「戦争のない世界」と言えるかもしれません。
 最後の望みとして、地球上の生命の元締めのような存在である「地霊」を呼び起こし、一体化しようとする。でも、あっけなく地霊に拒まれてしまう。俺はお前の仲間ではない、と一蹴されて。「地霊」とは何なのか、を表現するのは難しいです。イメージとしては「龍」に近いでしょうか。
 で、毒を飲もうとしたとき、犬に化けた悪魔、メフィストフェレスが現れる。
 メフィストフェレスは、ファウストの死後の魂を狙っている。
 ファウストは、古書に囲まれた部屋に飽き飽きとして、あらゆる「体験」を欲している。
 そこで二人は賭けをする。

 ファウスト
「もし私がのんびりと寝椅子に手足でも伸ばしたら、
 もう私もおしまいだ。
 もし君が甘い言葉でだまして、
 私をぬくぬくと収まりかえらせたり、或いは、
 享楽に耽らせてたぶらかすことができたら
 それは私の百年目だ。
 賭をしよう。
(114ページ12行〜19行)

 なんというか、要するに、ファウストは結構自信があるわけです。君のような「しがない悪魔」に、骨抜きにされることはない、と。
 で、悪魔はやってやる、と意気込み、ファウストをあちこちに連れて行きます。マントを翻すと、飛ぶこともできる。
 メフィストフェレスは、悪魔であって、魔法使い。読む限り、魔法とは火のようでもあります。知とは縁遠い感情使いのようにも思える。
 そこには怨念とか呪術とか錬金術とか、悪魔の仲間である魔女も出てきます。
 まずは、酒場に行く。そこでメフィストフェレスは飲んだくれの学生たちに話しかけ、早速魔法を披露。
 バカにされたと思って切りつけてきた酔っ払いにも魔法をかけて、簡単にあしらってしまう。
 次は魔女のところへ。
 魔女の手作りで、とっておきの何やら怪しい液体(若返り、かつ性欲増強剤?)をファウストに飲ませる。
 そして街に繰り出すと、通りかかった少女にファウストはもう声をかけている。
「あの女と会わせろ」なんて悪魔にねだったりして。
 悪魔にもできることとできないこと(神様や純粋無垢の領域には手が出せない)があり、できることからファウストをその少女、マルガレーテと引き合わせていきます。
 そして、二人の関係が決定的になる夜、ファウストはマルガレーテに睡眠薬を渡す。マルガレーテは、ファウストの言うことはなんでも従うようになっていた(これも悪魔の仕業か)。二人の逢引きに邪魔な、マルガレーテのお母さんを眠らせるため。
 二人は体を合わせて、後でわかりますが、赤ちゃんができます。が、その一方で、睡眠薬を飲まされたお母さんは死んでしまう。睡眠薬を渡したファウストに殺意はなかったと思いますが、これも悪魔の仕業か偶然か、はっきりとはしません。
 マルガレーテのお腹は大きくなっていく。だが、ファウストはそばにいない。メフィストフェレスによって、魔女たちのお祭りに付き合わされているから。そこではゲーテによる当時の風刺なども入っています。ゲーテの作品は今でも残っていますが、彼に対してよく思わず、からかったり悪口を言ったりする人たちもたくさんいたようです。ま、みんな残ってませんが。
 で、そんなこんなの間に、マルガレーテは牢屋に入れられてしまっていた。その姿を見たファウストが助けに行く。絶対に助けなくてはならないとメフィストフェレスにも命じて。
 マルガレーテは、なぜ牢屋に入れられてしまったのでしょう?
 結婚前なのに、子どもを一人で産んでしまった。その娘は、当時のドイツでは、教会の祭壇の前で、罪の肌着一枚だけで、公衆の面前において僧侶に対し懺悔贖罪をしなければならなかったそうです。その後は乞食。村八分が待っている。その慣習を恐れた娘たちは、産んだ赤ちゃんを殺したこともあったそうです。
 あまりにも酷い慣習に、ゲーテは黙っておらず、廃止させたそうです。
 そんなゲーテの実体験も反映されているのでしょう。マルガレーテのセリフは、とてもリアルで、迫真に満ちており、最も心を揺さぶられます。
 彼女もまた、恐れと不安と混乱と孤立と、大きな悲しみと苦しみ、そんなぐちゃぐちゃな感情の中で、赤ちゃんを池に落として沈めてしまったのでした。
 母殺しもある。さらに、彼女のお兄さんは、妹を守ろうとして、のこのこやってきたファウストとメフィストフェレスに襲いかかりますが、メフィストフェレスの剣に刺されて死んでしまったのでした。
 牢屋に忍び込んで、ファウストがマルガレーテを逃がそうとする場面が、第一幕のクライマックス。
 メフィストフェレスの助力を得て、ファウストはマルガレーテにつながれた鎖をほどきますが、彼女は逃げない。自分が犯した罪の重さを認識し、神様に裁きを委ねるから。
 ファウストは言う。
「ああ、おれは生まれてこねばよかった」 (329ページ9行)
 直接的な表現がないので、そもそもこの作品は小説ではなく、劇なので、セリフと簡単なト書きしかありません。だからこそ想像を刺激されます。
 最後、マルガレーテは、天に召されながら呼びかける。
「ハインリヒさん、ハインリヒさん」
 ファウスト博士の名前は、ハインリヒだった、と最後でわかる。この名前の呼びかけが、第二幕へとつながっていきます。
 本当に、大きな物語。どんな風にも読める。
 日本に悪魔は少ないかもしれないけど、昔から「鬼」はいます。
「鬼退治」も定番。ですが、鬼と契約して賭け事をした人間の話って、あるでしょうか?
 相手が悪魔であると分かっていながら契約してしまうところが新しくて、古典たるゆえんなのかもしれません。
 そして、こうして書き出してみてわかりましたが、マルガレーテとの関係は、どこまでが悪魔の仕業なのかがわかりません。グレーゾーンがたくさんある。
 マルガレーテは言います。
「あれはあなたとわたしとに授かったのじゃないの」 (323ページ18行)
「あれ」とは、マルガレーテの産んだ赤ちゃんのことです。
 悪魔のせいだとは言い切れない。あなたにだって責任の半分はあるでしょ、と。
 だからファウストは「生まれてこなければよかった」と言う。それほどに苦しむことになります。
 それで自暴自棄になったら、メフィストフェレスの勝ちなわけです。
 人間の代表であるファウストは、永遠に俺の下僕だ、と。
 やっぱり人間、バカだな。大したことねえな。俺様の手にかかればちょろいもんよ。なんて、高笑いでもしそう。
 さて、どうなっていくのでしょうか。

 ゲーテ 作/相良守峯 訳/岩波文庫/1958
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トラタのりんご

2023-05-06 13:30:00 | 読書
 昨日は子どもの日でした。
 絵本、読んでますか?
 私は、子どもの頃、最寄りの図書館の靴を脱いで上がれる子どもの本の島で、飽きずに過ごしていたことを覚えています。
 子どもに絵本を買ってあげたい。でも、何がいいのかわからない。そういうお客さんも少なからずいます。
 子どもに伸ばして欲しい力とはなんでしょうか?
 想像力、共感力、自己肯定力、学力、計算力、運動能力、表現力。あげれば切りがありません。
 私が今までで一番苦しかったとき、もっとも救ってくれたのが、私を理解しようとしてくれる人の存在でした。言ってみれば「理解力」。
 自分自身が自分のことをわからなくなっているとき、上から目線の「お言葉」でも、ありきたりの「常識」でも、あるいはなんらかの神がかった「教え」でもなく、今の私を理解しようとしてくれる人が何より大切でした。この経験があればこそ、人を理解しようとすることの重大さを学び、自ら実践する(カウンセリング、のち創作)ようにもなったわけです。
「わかってほしい」から「わかりたい」へ。いつまで経っても「わかってほしい」気持ちはあります。なくなることはない。でも、そこを満たしていけば、「わかりたい」気持ちも強くなってくる。ある人を「わかりたい」と心から思えたとき、人は「大人になった」と言えるのかもしれません。
 で、「トラタのりんご」。
 この絵本を読むと、「もっと知りたい」気持ちが動き出します。
 この絵本では「りんご」を、なのですが、「りんご」は、もちろん、ある一つの象徴であって、知りたい、わかりたい気持ちは、人に向かう気持ちと同じ。
 私もトラタと同じく、りんごが大好きで、毎日食べているのですが、この絵本を読んで少しりんごのことを調べました。
「サンふじ」以外にもたくさんの種類(日本で二千種、世界で一万五千種!)がありました。
 さらにりんごは、八千年以上前からあり、四千年前には人によって育てられていた。
 もう、人と共にあった、と言っていい果物です。
 以前、日本で「ムンク展」が開催されたとき、もちろんあの有名な「ムンクの叫び」もあって、興味深く拝見したのですが、晩年になって描いた「庭のリンゴの樹」という絵があり、大変好きになりました。で、買ったカレンダーにあったその絵の複製を、今でも部屋に貼って時折眺めています。
 いい絵なんです。
 人と共に生きてきた、そして食べられてきたりんごだから、人にとっていろんな意味も込められてきたのでしょう。
 それでいて身近にある。いつもの食卓にある。その果実を、もっと知りたくさせてくれるのがこの絵本。
 色彩が独特で、力強い。特に光の表現は、今まで見たことのない新鮮さが保たれています。
 好きになるのはりんごじゃなくてもいいわけです。ただ、もっと知りたい、わかりたい、という気持ちを育てることが、人の健康のためにも必要だと思います。
 知りたい、わかりたい、の反対はなんでしょうか?
 無関心、そしてレッテル貼りになるのではないでしょうか?
 知りたい、わかりたい気持ちが止まってしまったら、思考停止となり、見えないものに名前をつけて中身を確認もせずにわかったつもりとなって終わる。
 わかったつもり、は、謙虚さも失わせていく。レッテル貼りは、捏造にもつながっていく。相手を無視した自作自演の横行にも憎悪していく。
 単純なこと。でも、とても大事なこと。
 絵本は、絵と物語で、人として共有したいことを伝えてくれます。
 絵本は、子どもだけのものじゃありません。かつての子どもたちも、いつ読んでもいいものです。

 nakaban 作/岩波書店/2023
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孤塁

2023-04-08 17:06:54 | 読書
 東日本大震災から12年。
 まだまだ終わっていないことがたくさんあります。
 福島第一原発の廃炉はいったいいつになったら「終わる」のでしょうか?
 終わりを見届けるまで、多くの人たちには時間が足りず、また関心も継続しない。
「あんなこともあったね」で、終わりにならない人たちがいます。
 現在進行形。
 一人一人に物語があります。
 その物語は、空と大地と海と、そこに暮らす生き物の恵みと人々のつながりによって編まれていく。
 地震と津波だけならば、更地の上に新しい土を重ね、高くなった場所でまた暮らせる。
 でも、放射能で「汚染」されてしまったら?
 そんなこと、歴史上なかったこと。
「原発事故は起きない」とされ、だから原発爆発後の地元消防との訓練もしていなかった。
「想定外」という嫌な言葉を何度も聞かされました。「絶対」はないのだと、学んだのが東日本大震災。
 読みながら「なんで、どうして」と何度思ったことか?
 なんで自家発電ができないのか?
 どうして核燃料を冷やすことができないのか?
 太平洋に面して、津波があることを思えば、もっと高いところに作るべきだった。
 それでも読者である私は、東京で生まれ育った。新宿のネオン街をきれいだと思ったことはないけど、深夜までテレビゲームをして遊んだ。
 そんなの可愛いものかもしれないけど、福島の原発で作られた電気を使っていたことは確か。
 人ごとではない。知らなかったでは済まされない。
 この本は、津波の被害で人命救助もままならないまま、原発の火災を消火するため出動までした消防士たちの話。
 収めきれないエピソードが時系列に並ぶことで、全体が浮かんで見えてくる。
 テレビでは取り上げられなかった人たち。
 私の記憶でも、東京からのハイパーレスキュー隊の応援や自衛隊ヘリコプターによる散水は覚えている。
 その前に、地元の消防士たちがいた。
 空から降ってくるキラキラした粒子(原発からもれた放射能)にされなれながら。
 書くことの意味が、この本では実現している。
 というのは、書かれたことによって、消防士たちは救われた思いになっていること。
「絶対」に忘れてはならない記憶として、後世に渡すバトンとなっていること。
 私たちに何ができるのか?
 なくしてはならない大切なものはこれなんだと語り続けること。
 文字にして語ることで、人は人に大事なことを伝えていくことができる。
 逆もしかり(詐欺とか悪口とは流言とか差別とか)なので、やはり継続が大事なのでしょう。
 人は忘れてしまうし、古代から大して進歩してないし、簡単に騙されるし。
 原発に呼ばれ、全面マスクで息苦しい中、待っていたら今度は爆発の恐れがあるので「逃げろ」と言われる。
 現場の情報は混乱しまくっていた。それは人が混乱していたから。
 練習していなかったから。
「原発事故は起こらない」と決めつけていたから。
 でも、起きてしまった。
 そのとき、人々はどうしたのか?
「逃げろ」と言われても「逃げない」人たちもいた。「逃げない」理由は、その人の数だけある。
 単に情報が足りないだけかもしれない。
 他者と話すことで、「理由」のバランスは変わり、「逃げる」になった人もいた。
 安全を確保するとき、まず第一に自分が安全でなければならない。次には、その現場が安全な場所なのかどうか。
 事故が起きて、放射能はもれ、いつ爆発かもしれない原発の火災に向かっていかなければならないとは。
 そのとき、消防士の脳裏に「特攻隊」が思い出される。
 本当は、行きたくない、逃げたい隊員もいた。本当の安全から見たら当然のこと。
 なのに仕事だから、任務だから、要請を受けたから。
 人の命よりも大義名分が大事にされてしまう文化が、まだ日本には残っていることをまざまざと見せつけられた思いです。
 原発事故は戦争とつながっている。
 ロシアが原発を「人質」にしたのも最近の話。
 原発のことを思うと、複雑な気持ちになります。明瞭な言葉にはなりにくい。
 ただ、その事故によって、「我が家」から追放されてしまった人たちがいることを忘れてはならないと思います。
 私が今、この住み慣れた部屋から「すぐに逃げてください」と言われ、いくつもの大事なものも抱えられないまま、バスに積み込まれて運ばれる。
 しかも「絶対大丈夫」だと言われていた科学技術と信頼が粉々に破壊されて。
 おかしくならないのがおかしい。
 そんなことが民主主義の国で起きてしまったことをどう理解すればいいのか。
 理解なんて、生やさしいものじゃない。恨んでも恨んでも、いくらお金を積まれたって、失ったものは回復しない。
 想像をたくましくするだけ。
 ほんの1センチでも、言葉でその人に触れることができたら。
 救いは、人の気持ちのこもった行動にしか存在しないのかもしれません。
 そして、それらが、この本にはあります。
 ちなみに「孤塁」とは、「孤立した、ただ一つのとりで」という意味です。

 吉田千亜 著/岩波現代文庫/2023
 
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鈍感な世界に生きる敏感な人たち

2023-03-25 11:35:46 | 読書
 この本が出たのは2016年。「HSP」本は、ずいぶんと増えましたが、これが元祖だったのではと思います。
「HSP」とは、「Highly Sensitive Person」のこと。「感受性が高い人」という意味です。
 この本を店頭に並べるようになってから、ずっと切らさないでいました。こつこつと棚から売れているのはわかっていたので。
 この本と出会ってから、自分もそうなんだろうと思ってました。
 読む気になったのは、どうしてだろう?
 自分の生まれ持った特徴をより深く知ることで、人と作品との関係をもう一歩進めようとする思いが芽生えたからかもしれません。
 読んでみれば、やっぱり思い当たることばかり。
「感受性が高い」ばかりに、影響を受けやすい。ほとんどの人が気にならない小さな音でもすぐ拾ってしまう。
 だから基本的に宴会は苦手。学生寮での飲み会は地獄でしかありませんでした。
 あらゆるCMや広告も嫌い。だから、だらだらテレビは見ません。コマーシャルになったら消音するということもよくしました。
 人は好きだし、人と関わりたい欲求もあります。人に助けられなければ生きていけないこともわかっている。
 でも、それが集団での活動となると、「おえっ」となる。学校での行事も嫌だった。高校の体育祭や演劇は、ほんと嫌だった。
 幼稚園、小学校、中学校までは、なんだかんだ楽しんで行事は参加していた。やっぱり「自分」が目覚めてから、ということでしょうか。私の場合は。
 幼い頃から敏感で、集団生活もままならない、という人もいます。「敏感さ」には、個人差があります。
 地方のマラソン大会に行くと、コロナの前は、ホテルや旅館で四人以上の相部屋は普通でした。そこに、必ず「いびき」をかく人がいます。「いびき」がひびきはじめた瞬間、私の地獄タイムが始まります。だから遠征には耳栓とイヤフォンは必須になりました。
 カウンセリングの研修でも、合宿はつきものですが、やはり相部屋で、一人すごい「歯ぎしり」の人がいました。研修の内容よりもあの「歯ぎしり」が強烈に残っていたりもします。
 電車や商業施設の中での子供の泣き声も気になります。私は、いちいち気づいています。どうしてもっと子供の声なき声を聞かないのか? いや、聞こえないのか?
 そんな今までの経験からの謎も、この「HSP」で腑に落ちる。
 他からの影響を受けすぎて、心が引っ掻き回されてしまったような状態のときは、一人で安静にする時間が必要です。泥水の入ったバケツを、棒で引っ掻き回されたような。そんなとき、自分が何を見ているのか、何を聞いているのか、そもそも自分は何なのか、何がしたかったのか、失ってしまいます。何もしないで、じっとしている。そうすれば、泥は自然に底に落ち、水は再び透き通ってきます。
 私には、その鎮め方がわからなかった。
 おまけに、というか、これも生まれ持った特徴なのかもしれませんが、「根拠のない自信」というようなものは、ほとんど持ち合わせていません。自信がないからこそ敏感でもあって、変化にすぐ気づいて対応もでき、結果的に人類の生存のために役立ってきた、とは思います。が、こんなにも情報があふれ、おまけに同調圧力の超強い国に生まれてしまった。かつ、家族は私以外は鈍感ときている。わかってくれる同級生や先生とも巡り会えなかった。となれば、一人抱え、抱えきれず、病んでしまうのも無理はありません。
 自信がないから、一人静かに、何もせずに待つ、ということもできなかった。「これでいいのだ!」とは、なかなかならない。敏感ですから。
「これでいい」とはならないから、いつも何かに向けて頑張っている。目標は高く、高いから届かず、届かないことでまた自分を責める。そんな悪循環も、私にとっては見慣れた光景。頑張りすぎて、過労状態もよくあることです。今もまだその傾向はあるかもしれません。
 カウンセリングを受けたことが、やはり私にとっては大きな転機でした。
 病院で受けるのとは違い、カウンセリングは、一時間、私の時間が保障されます。その時間を、お金で買えるわけです。
 もちろん、そんな素晴らしい場と空気を作ることができるのがカウンセラーなのですが、そこで始めて私は、私から、私のことを、思う存分話すことができた。そこからこのブログも生まれ、写真も生まれ、小説にもつながっていきます。
 カウンセリング以外にも、「これが私」というような本流と触れ合う体験や時間はあった。でも、カウンセリング以前には、その体験も時間も、私の本来持っている力を発揮させるには不十分だった、ということなのでしょう。あるいは、それを遮るものが多すぎた。
 東日本大震災で、私はカウンセリングでやっと立ち上がりかけた私をくじくには十分すぎるダメージを受けました。でも、そのダメージを受けることで、ランニングという次の新しい方法と出会った。走ることで、私は、私の中に過剰にある騒音を消す術を発見したのでした。
 敏感であればこそ、音楽を楽しめる。絵画を十分に鑑賞できる。
 よき耳があればこそ、人の奥に隠されて、言葉になりたがっているものたちを掬うこともできる。私が書く意味は、敏感さと切っても切り離せないものでした。
「HSP」にとって大事なのは、自分を人一倍愛する方法を身につけていくことなのかもしれません。
 愛すれば愛するほど、私は喜び、その持てる力を十分に発揮していくこともできます。
 ただ、「HSP」は、五人に一人の割合と言われます。絶対的に少数派です。「HSP」同士での連帯も必要です。政党を作ったって、多数派にいつだって牛耳られる。
 でも、だからといって自信をなくす必要はありません。仕方ないじゃないですか。敏感に生まれてきたのだから。治しようはないのだから。
「HSP」である私たちがいくら活躍したところで、鈍感な人たちは一向に私たちの仕事に気づかず、評価もしないかもしれません。
 悔しい。でも、それでもいい。だってあの人たちは鈍感なのだから。鈍感もまた生まれ持った素質なのだし。
「影響を受けやすい」ということは、「器が大きい」ということかもしれません。
 だからといって調子に乗ってどんどん受け入れたら、私はいつしか不愉快でいっぱいになってしまう。
 受容と保持と働きかけと。
 せめぎ合いはいつもあって、そのときそのときで、ちょうどいいバランスを取り続けていくために、有効な方法があります。
 この本と、巻末にあるアイデアリストは、きっと「HSP」とともにいてくれます。
 本の恩恵を十分に受けることができるのも、「HSP」ならではの恵みなのでしょうね。

 イルセ・サン 著/枇谷玲子 訳/ディスカヴァー・トゥエンティワン/2016
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火花 北條民雄の生涯

2023-03-18 12:40:21 | 読書
 この本を読むと、北條民雄が生きていた時代の空気や、文学の師であり、希望の光ともなった川端康成との関係、またハンセン病療養所の中での友人たちとの確かな交流も、目に見えるように再現されていきます。
 昭和8年(1933年)、民雄が19歳の3月、ハンセン病の告知を受け、その年の2月に川端(34歳)の「伊豆の踊り子」の映画が封切りされ、1月にヒトラーがドイツの首相となり、2月に小林多喜二が虐殺されている。
 昭和11年(1936年)、民雄が22歳のとき、川端たちが立ち上げた文芸誌「文學界」の2月号に「いのちの初夜」が掲載された。そのとき、川端は「雪国」を連載中だった。その2月の26日、皇道派によるクーデター未遂事件(2•26事件)が起きている。
 民雄が亡くなるのは翌年の昭和12年(1937年)、23歳の12月5日、早朝。その日の午後に川端も遺体に対面している。その12月の13日、日本軍は中国の南京を占領している。南京事件で虐殺された人々は10万人とも言われています。
 何が言いたいのかと言えば、軍国主義が、ひたひたと足元に忍び寄っていた時代。たとえば「民族浄化」という美名のもとに、「らい予防法」が制定され(昭和6年、1931年)、収容所に患者が集められるようになった。警察が主導して。
 民雄が、当時の全生病院に入ったのは、まだ強制ではなかったけれど、そこにしか居場所はなかった。
 そこが終の住処だと認めるまで、散々に苦労した。痛ましいほどに放浪して、無理解に傷ついて、死場所を絶えず求めて。
 そう「死」。死ぬことが剥き出しで世の中には満ちていて、民雄自身も何度も死のうとして、死のうとするたびに「生きたい!」自分を発見するのでした。
 川端康成の生い立ちにも死は色濃くありました。家族はみな早くに死んでしまい、孤児として生きていた。
 川端の民雄への手紙には愛情が溢れている。作家として大成するように細かな配慮もしている。
 民雄の原稿はすべて川端を通じて発表されていました。印税などのお金の管理も。
 23歳という若さでまた愛情を注いだ人に死なれてしまった。川端は後悔もしたようです。自分の対応は本当に正しかったのか、と。
 生きることは書くこと。そう一つになった民雄は猛烈に書くのですが、体調管理は二の次だったようです。夜遅くまで蝋燭の灯りの下で読書と執筆をし、朝は遅く、ろくに朝食もとらなかった。結核菌にも冒されていった。
 今になって「いのちの初夜」、そして北條民雄が復活したのは、ある意味、不穏な空気が漂い始めたからなのかもしれません。
 新型コロナの世界的な流行がそれであり、さらにはロシアによる軍事侵略。さらに加えれば、異常気象による災害の頻発や、東日本大震災など大規模な自然災害の記憶もまざまざと残っている。「平和」の名の下に、ひたすら隠されてきた「死」が、ひたひたと迫ってくるかのよう。
 信じていた足元が揺らぎ、胸に不安がじんわりと広がるとき、支えになるものが欲しい。そう思うのは人として自然です。
「宗教」が、人々を救ってきました。しかしその「宗教」だったはずのものが、人を救うのではなく、人を苦しめる。あるいは搾取する。最悪、殺してしまう。そんな現実も見せつけられてきました。「安全」なはずの原発が途方もなく「危険」で、精算するのに膨大な金と時間と労働が必要だったと明らかにもされて。
 要するに、たくさんだまされるようになりました。いやこれは、古代ギリシャの時代から変わっていないのかもしれないけれど。
 だから、「いのちの初夜」。この題名は、川端康成がつけたものです。
 川端は、全生病院にいる若者たちの作品に、文学そのものを見ていた。あるいは、文学の発生現場を。
 文学もまた人を救う。人を癒しもする。生きがいにすらなる。
 川端の「伊豆の踊り子」を読んだのは高校生のときでしょうか。なんか、あっけなくて、なんだ、と思った。若い男が、踊り子に恋し、たしか風呂場で踊り子の裸を見て、なんだまだ子供じゃないか、と我に返って笑う、みたいな。その「よさ」がさっぱりわからなかった。「雪国」も読んだけど、やっぱその「よさ」がわからなかった。
 でも、今は違う。
 何気ないひとこまに、若い男と、さらに若い女との、確かな感情のやり取りを感じ、「生きている感覚」を取り戻すのではないでしょうか。
「生きている感覚」を麻痺させているものがある。相殺させているものがある。その前提(時代の空気や思想)があればこそ、検閲や抑圧がのしかかればかかるほど、健気に地元に根ざして生きている女性の姿が、「生」そのものの象徴となって輝きを増す。
 民雄の文学は、そんな川端の作品に通じる「存在」と「肯定」の文学でした。
 足掻いて、もがいて、逃走して、毒づいて、空しくなって、帰るしかなくて。その苦行の果てに、「いのち」を体得した。
 真の友情をも獲得した。
 民雄もまた母を早くに亡くしていました。
 実の母のない子の苦痛や生きにくさについて、私がどれだけわかるのか。
 ただ、文学は生きるためにあり、その気持ちが純粋であるほど、真の友も呼ぶ。ということだけは、わかりました。
 私にとっても「いのちの初夜」は、何度でも立ち返る再出発の原点として、これからも輝き続けるでしょう。
 ありがたい贈り物です。
 桜が咲いてきました。
 そろそろ、全生病院、今の多磨全生園、ならびに国立ハンセン病資料館にも再訪しようと思います。

 髙山文彦 著/角川文庫/2003
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北條民雄集

2023-03-01 15:53:50 | 読書
 今日から3月ですが、先月の教育テレビの「100分で名著」は、北條民雄の「いのちの初夜」でした。
 自室のテレビは調子が悪いままで、第一回の放送しか見れませんでしたが、テキストを買って読みました。講師は中江有里さん。
 角川文庫の「いのちの初夜」を読んだのは、2021年の12月でした。翌年の2月に、この「北條民雄集」が発売され、買っていました。
 テキストと合わせて読みました。こちらには角川版にはない日記や童話や書簡が収められており、小説だけではなく、人間としての北條の理解を深められた。
 国立ハンセン病資料館の裏にあるソメイヨシノたちが咲く頃、また全生園に行こうと思います。今度は、桜見物だけでなく、資料館にも納骨堂にも行く。
 そこまで北條に傾倒してしまう自分とはなんなのか?
 東村山という、彼が「隔離」された施設がある土地に住んでるから。もちろんそれもありますがそれだけじゃない。
 当時の不治の病、ハンセン病(らい病)にかかり、社会的に死ななければならなかった患者たち。
 文筆を生業とする北條にとって、病の進行とともに避けられない失明は、彼を絶えず苦しめ、不安に陥れるには十分だった。
 全生園に入る前、知人と華厳の滝に死にに行った。知人だけ死んで、彼は死ねなかった。
 川端康成への手紙で告白していますが、北條にとって生き死にの問題が第一で、文学は第二だった。
 絶え間ない苦しみの中で、書き続け、敬愛する川端に作品の指導をしてもらうことで、文学が第一になった。
 だけどその時、もう「いのち」は燃え尽きようとしていた。
 彼の親友、東條耿一(こういち)による臨終記に、印象深い描写があります(331ページ5行〜15行)。

 その夜の二時頃(十二月五日の暁前)看護疲れに不覚にも眠ってしまった私は、不図私を呼ぶ彼の声にびっくりして飛起きた。彼は痩せた両手に枕を高く差上げ、頻りに打返しては眺めていた。何だかひどく昂奮しているようであった。どうしたと覗き込むと体が痛いから、少し揉んでくれないか。と云う。早速背中から腰の辺を揉んでやると、いつもはちょっと触っても痛いと云うのに、その晩に限って、もっと強く、もっと強くと云う。どうしたのかと不思議に思っていると、彼は血色のいい顔をして、眼はきらきらと輝いていた。こんな晩は素晴らしく力が湧いて来る、何処からこんな力が出るのか分からない。手足がぴんぴん跳ね上る。君、原稿を書いてくれ。と云うのである。いつもの彼とは容子が違う。それが死の前の最後に燃え上がった生命の力であるとは私は気がつかなかった。おれは恢復する、おれは恢復する、断じて恢復する。それが彼の最後の言葉であった。

「おれは恢復する、断じて恢復する」
 恢復の「恢」は、今は「回」が使われます。意味は同じで、元の通り良くなるということ。
 ただ「回」には、「めぐる・まわす・もどす」などの意味もある。
 角川文庫の「いのちの初夜」が改訂版として再発行されたのが2020年の11月。私もそこで北條の存在を知った。
 彼の言葉の通り、彼と彼の作品は、めぐって、まわって、ふたたび、もどってきた。
 彼が亡くなったのは1937年(昭和12年)の12月5日。死因は腸結核。
 彼の「恢復」への思いは、結核という病だけでなくハンセン病も、もちろん入っていたのでしょう。
 生きた作品を残すことで、後世の読む人々の中に、彼の作品は回復する。
 しかし、彼はもっと書きたかった。書いて生きたかった。まだ、23歳でしたから。
 この文庫本には「断想」という項目もあり、便箋や原稿用紙の余白などに書き付けた言葉も収録されています。
 その最後にあった思い。これが私と共鳴する核なのかもしれないと思った(257ページ4行〜5行)。

 俺は俺の苦痛を信じる。如何なる論理も思想も信ずるに足らぬ。ただこの苦痛のみが人間を再建するのだ。

 いかなる軽蔑にも耐えられなかった北條。皮膚感覚での苦痛をのみ信じるに足るものとし、それが彼の独特の文体にもつながっていたと気づきました。
 皮膚感覚で人を描写するので、その人がくっきりと浮かび上がる。
 それだけでなく、癩(らい)病の苦痛に、人類の歴史2000年を重ねて見ている。2000年(それ以上でしょう)にもわたる「らい」の受難、偏見、差別。「業病」とまで言われてしまう。
 歴史性があるからこそ、普遍的な文学になっている。

 彼を受け継ぐ、なんてことは可能なのか?
 わかりません。ただ、全生園に通い続けるものとして、彼のことは、もう一生忘れない。
 彼の地に再び立ち、手を合わせ、頭を垂れ、思いを馳せ。
 大事な花々を、写真に、心に納めて。
 また走り出し、また書き始め。
 もどって、まわって、めぐって。
 次の作品へ。次の人へ。つないでいく。
「病」を与えられ、「いのち」に目覚めた者同志として。

 北条民雄 著/田中裕 編/岩波文庫/2022
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荒地の家族

2023-02-07 16:31:36 | 読書

 この本を読まない、という選択肢はありませんでした。
 芥川賞受賞が決まって、やっと入荷した三冊のうち一冊を取り置き、その日買って帰りました。
 仙台生まれ仙台育ちで仙台で書店員をしている方が書いたという。
 タイトルと表紙を見れば、およそ中身の想像はつくでしょうか。
 読んでみて、想像を越えていた。
 いや、何を期待していたのだろう?
 綴られていたのは、本人がインタビューで言っていたように、「見えて聞こえてくるものをそのまま」。ロードムービーのよう。
 主人公の裕治は四十歳で植木職人。母と同居し、男の子を一人で育てている。
 その子の母だった人は亡くなっていた。「災厄」の後、体調を崩してインフルエンザに罹って。
 同級生の紹介で再婚もした。けど破綻。その壊れ方のきっかけがまた悲惨で、流産というもの。
 裕治は、離婚した後も再婚相手に連絡を取ろうとするが、一方的に拒まれ続けている。
 どこにも行けないまま、被災した実家の海沿いを彷徨う。仕事で、釣りで、ただ海を見に。
 その辺りというのは、仙台から少し南の亘理(わたり)付近。阿武隈川の周辺もよく出てきます。
 その辺りというのは、私は東北・みやぎ復興マラソンで走った場所なので、ありありと風景が浮かびました。
 その風景の中で、植木仕事だけでなく、駐車場のライン引きなんかもしている裕治の姿が生きていた。
 不器用で表現力にも乏しい男なのでしょう。その気持ちは、肉体労働の描写を通じて伝わってくる感じでした。
 明夫という裕治の同級生が地元に帰ってくる。子供時代とは違い、太って、髪も少なくなって。
 明夫との関わりが、最後まで物語を引っ張っていく力となっていきます。
 明夫は、妻と子を、膨張した海に飲まれてしまった。仕事も続かない。「裏」の仕事にも手を出す。運動はせず、暇さえあればパチンコに酒。
 裕治は、そんな明夫に、声をかけないわけにはいかない。
 明夫は、「報いだ」と言う。「お前に俺の気持ちがわかるもんか!」とも言う。
 二人が最後にどうなったのかは書かないことにします。
 ただ、小説という作品に終わりはあるけれど、その土地の物語に終わりはない、と思った。
 作者は「ここに希望がありますよ」というお節介など一切していない。
 出口や昇華やカタルシスを求めて彷徨うかのような主人公の後ろについて、ともに彷徨っている。
 あの、流産して、慰めようとした裕治の腕に噛みついた再婚相手の女性の叫び、「私が悪いんでしょ」に「卑怯者!」。
 裕治の胸に響いて消えることはない。
 手紙を渡したくても渡すことすらできない。
 死んだ妻が現れても、それは私が見ている幻にすぎないと意識してしまう。
 子供が学校で、鉄棒から落ちて頭を打ち、病院に運ばれた報を受けて駆けつけた裕治の「ばかやろう」。
 一つ一つの場面で、裕治が生きている。
 その姿に、読む者は自分を重ね、いっとき軽くなれるのかもしれません。
 小説は、やっぱり、ありがたいものです。
 人を支えることができるものです。
 どんなニュースにもならないけど、あの荒地にも家族が生きていることを描いてくれたのですから。
 そして、芥川賞は全国ニュースになる。
 私にも届きました。
 受賞作が決まるのは半年に一回。多いと思ったこともあったけど、大事な営みだ、と今は思います。

 佐藤厚志 著/新潮社/2023
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