窯元日記復活

狂歌・・・

「大和文華館特別展・レスコロヴィツチコレクションの摺物展」で狂歌がたくさんあり→大和郡山市史→郡山町史→奥田木白の狂歌までいけるかな?
郡山町史は昭和28年発行。俳諧と狂歌の項は戸澤潔氏。二軒隣のおじいちゃん。一緒に高野山に連れていただいたことを思い出します。


「きょう‐かキャウ‥【狂歌】

  1. 〘 名詞 〙
  2. ① ( ━する ) 常軌を逸した声で歌うこと。また、その声。興歌。
    1. [初出の実例]「狂二歌薜蘿服一、吟二酔松石房一」(出典:性霊集‐一(835頃)遊山慕仙詩)
    2. [その他の文献]〔後漢書‐申屠蟠伝〕
  3. ② 滑稽、諧謔(かいぎゃく)の意を用いた漢詩を詠むこと。また、その漢詩。
    1. [初出の実例]「題夜行舎人、烏養有三之絶句、〈略〉継以二狂歌一」(出典:本朝文粋(1060頃)一・無尾牛歌〈源順〉)
  4. ③ 構想、用語などに滑稽、諧謔の意を盛りこんだ短歌。「万葉集」の戯咲(ぎしょう)歌や「古今集」の誹諧歌の系統をひくもので、特に、江戸中期以降盛んになり、大田南畝、朱楽菅江などの著名な作者が出た。狂言歌。
    1. [初出の実例]「入レ夜被レ読二上百首一〈略〉事畢有二当座狂歌等一」(出典:明月記‐建久二年(1191)閏一二月四日)
    2. 「疑ひは人によりてぞ残りけるまさしげなるは楠が首 と狂歌(キャウカ)を札に書てぞ立たりける」(出典:太平記(14C後)一六)
出典 精選版 日本国語大辞典」

「狂歌 (きょうか)

狂歌は狂体の和歌であり,和歌の形式に卑俗滑稽な内容を盛ったものである。狂歌は素材用語においてはまったく自由であり,〈縁語〉〈懸詞〉〈本歌取り〉を駆使しつつ日常卑近の事物・生活を詠ずる。古典のもじりは狂歌の方法の眼目で,雅を俗に転じてそこに滑稽感をかもし出す。その先蹤(せんしよう)は早く上代の《万葉集》の戯笑(ぎしよう)歌や無心所着(むしんしよぢやく)歌,中古の俳諧歌に求められる。狂歌という名目はすでに中古の《喜撰式》や《和歌肝要》に見える。中世には狂歌の呼称が一般化し,落首が流行し,《永正狂歌合》やいくつかの職人歌合が作られ,小説,説話,狂言,紀行,日記,軍記などにも狂歌がとり入れられた。《世中百首》のごとき教訓歌や道歌(どうか)の中にも狂歌的性格が認められる。作者は堂上公家,僧侶,連歌師,武家などが中心である。近世の狂歌師たちから狂歌の祖と仰がれた暁月房は本名を藤原為守といい,為家と阿仏尼の子で《狂歌酒百首》の作がある。近世は京都中心の前期,大坂中心の中期,江戸中心の後期に分けられる。安土桃山時代の狂歌作者には,南禅寺の住持にまでなった禅僧で《詠百首狂歌》の作者雄長老,当代歌学の権威細川幽斎,碁の名人本因坊算砂,豊臣秀吉の御伽衆(おとぎしゆう)大村由己,狂歌百首をのこした聖護院道増,《醒睡笑》の作者で浄土宗誓願寺の住職安楽庵策伝,公家の烏丸光広らがあり,それぞれの道の第一級の人々が余技として狂歌を楽しんだ。寛永以後は貞門俳人が中心で,松永貞徳,斎藤徳元,半井卜養,池田正式(まさのり),石田未得,高瀬梅盛らにまとまった作品があり,俳諧点取りの奥書に狂歌が応酬されていたりする。《古今夷曲集》の生白庵行風(せいはくあんこうふう)や《鳩の杖集》の豊蔵坊信海(ほうぞうぼうしんかい)になると,俳諧より狂歌に重点が移ってくる。この時代には狂歌集もぼつぼつ出版され,小説,笑話,紀行,地誌などにも狂歌がとり入れられている。
 近世中期には中心が大坂に移り本格的な流行期を迎え狂歌師も職業化してくる。大坂御堂前の菓子屋永田貞柳は,一族ことごとく狂歌をたしなみ,通俗的な作風で人気を博し門弟三千と称し,大坂の栗柯亭木端(りつかていぼくたん),一本亭芙蓉花(いつぽんていふようか),混沌軒国丸(こんとんけんくにまる),広島の芥川貞佐,名古屋の秋園斎米都,永田庵其律,江州八幡の千賀,京都の篠田栗彙ら皆貞柳の流れをくむ人々である。このころ京都には公家の風水軒白玉(正親町公通(おおぎまちきんみち))や自然軒鈍全,九如館鈍永がいた。近世後期には,中心が江戸へ移る。明和年間(1764-72)江戸山手の内山賀邸の門人たちが狂歌会を試みたのが始まりで,やがて急速に市中に広まり,天明から寛政(1781-1801)にかけて狂歌の黄金時代を現出し,世にこれを天明狂歌と称する。唐衣橘洲(からごろもきつしゆう),四方赤良(よものあから),朱楽菅江(あけらかんこう),元木網(もとのもくあみ),平秩東作(へずつとうさく),智恵内子(ちえのないし)らはその錚々たる者で,豊かな趣味教養と軽妙洒脱な機知とを併せもつ人々である。これに次ぐ江戸狂歌の第二世代として宿屋飯盛,鹿都部真顔(しかつべのまがお),頭光(つぶりひかる),馬場金埒の狂歌四天王があり,なかでも天明調の純正狂歌を主張する飯盛と,優美高尚な狂歌を主張して〈俳諧歌〉と称した真顔は,文政(1818-30)に至るまで長くライバルとして活躍した。文政以後は芍薬亭長根,文々舎蟹子丸らが活躍した。天明江戸狂歌は地方にも及んだが,京都,大坂,中国地方などには,中期上方狂歌の末流が勢力を保っていた。明治以後,狂歌は衰退した。
執筆者:森川 昭
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」」

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