丁度テレビで「大化の改新」をやる少し前にニュースが飛び込んできましたね。中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所「槻の樹の広場」の場所ですね。
NHKならニュースから→「大化の改新ゆかりの「槻の樹の広場」の跡とされる明日香村の遺跡で、広場の名前の由来となったケヤキの木があった可能性を示す遺構が初めて見つかりました。
「槻の樹」いわゆるケヤキの木から名前をとった「槻の樹の広場」は、大化の改新を行った中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として日本書紀に記されていて、明日香村にある飛鳥時代の「飛鳥寺西方遺跡」がその跡とみられています。
村の教育委員会がこのほどまとめた発掘調査の報告書によりますと、遺跡の広さは少なくとも、南北が200メートル、東西が140メートルで、一面に石が敷かれていました。
この中で井戸の跡が見つかり、その近くには6メートルから7メートル四方にわたって石敷きがない場所が残されていました。
また、この場所は飛鳥寺から見て、ちょうど西の方角にあたるということです。
ケヤキの木は当時、神木とされ、古代、神木の近くには井戸があったとされることや、日本書紀には槻の樹が飛鳥寺の西に位置しているとの記述があることから、村の教育委員会は、石敷きがない場所に「槻の樹」があった可能性が示されたとしています。
こうした遺構が見つかったのは初めてで、村の教育委員会は「飛鳥寺西方遺跡」を「槻の樹の広場」の跡とほぼ断定しました。
【「槻の樹の広場」とは】
「槻の樹の広場」は、飛鳥時代、重要な儀式やうたげが行われた場所として、古代の歴史書「日本書紀」にたびたび登場します。
なかでも、大化の改新の立て役者、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として有名で、桜井市の談山神社に残されている「多武峯縁起絵巻」には、広場で開かれた蹴まりの会で中大兄皇子の靴が脱げ、それを中臣鎌足が槻の樹の近くで手渡す様子が描かれています。
その後、2人は親しくなって、大化の改新を行ったとされ、のちに日本の歴史を変えることになる重要な場面です。
【「槻の樹」の場所は検討も】
飛鳥時代に詳しい東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「広い範囲で石敷きが整備されている点からしても、この遺跡が『槻の樹の広場』であることは間違いない。ただ、槻の樹の候補地としている場所には、木の根などの痕跡がないほか、井戸がつくられた時期が正確にわかってないので、今後の課題として検討するべきだ」と話しています。」
「槻の樹」いわゆるケヤキの木から名前をとった「槻の樹の広場」は、大化の改新を行った中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として日本書紀に記されていて、明日香村にある飛鳥時代の「飛鳥寺西方遺跡」がその跡とみられています。
村の教育委員会がこのほどまとめた発掘調査の報告書によりますと、遺跡の広さは少なくとも、南北が200メートル、東西が140メートルで、一面に石が敷かれていました。
この中で井戸の跡が見つかり、その近くには6メートルから7メートル四方にわたって石敷きがない場所が残されていました。
また、この場所は飛鳥寺から見て、ちょうど西の方角にあたるということです。
ケヤキの木は当時、神木とされ、古代、神木の近くには井戸があったとされることや、日本書紀には槻の樹が飛鳥寺の西に位置しているとの記述があることから、村の教育委員会は、石敷きがない場所に「槻の樹」があった可能性が示されたとしています。
こうした遺構が見つかったのは初めてで、村の教育委員会は「飛鳥寺西方遺跡」を「槻の樹の広場」の跡とほぼ断定しました。
【「槻の樹の広場」とは】
「槻の樹の広場」は、飛鳥時代、重要な儀式やうたげが行われた場所として、古代の歴史書「日本書紀」にたびたび登場します。
なかでも、大化の改新の立て役者、中大兄皇子と中臣鎌足が出会った場所として有名で、桜井市の談山神社に残されている「多武峯縁起絵巻」には、広場で開かれた蹴まりの会で中大兄皇子の靴が脱げ、それを中臣鎌足が槻の樹の近くで手渡す様子が描かれています。
その後、2人は親しくなって、大化の改新を行ったとされ、のちに日本の歴史を変えることになる重要な場面です。
【「槻の樹」の場所は検討も】
飛鳥時代に詳しい東京学芸大学の木下正史名誉教授は、「広い範囲で石敷きが整備されている点からしても、この遺跡が『槻の樹の広場』であることは間違いない。ただ、槻の樹の候補地としている場所には、木の根などの痕跡がないほか、井戸がつくられた時期が正確にわかってないので、今後の課題として検討するべきだ」と話しています。」
https://www3.nhk.or.jp/lnews/nara/20200609/2050004554.html