窯元日記復活

絵屋橋

元興寺に行くのに久しぶりに猿沢池の西の道、元林院街を通ってみました。
「つるや」さんは店としてはまだ残っていますね。もう40年ほど前に2回ほど
・・とっても自分の財布ではいけないところでしたので、付き添いで・・・。




その北側の率川にかかる小さな橋は「絵屋橋」。もと元林院は絵屋町とよばれていました。奈良市史料館のHPから2018「史料保存館 展示「元林院町・絵屋町の歴史」には、元林院(がんりいん)町の地名は、興福寺の別院「元林院」があったことに由来するといわれ、江戸時代には仏画などを描く絵師が住んでいたことから絵屋(えや)町ともよばれていました。明治に入ってからは、花街 元林院として大変賑わい、現在も当時の置屋であった建物が残る風情ある町並みが続いています。今回、元林院町のたどってきた歴史をゆかりの史資料や写真で紹介します。」





絵屋の件は以前30年以上前に調べたときに奈良教育大の赤井達郎先生の論文で教えていただいたんですが、絵屋というと京都の俵屋宗達の扇屋などのイメージですね。当然、南都絵所はありますが、むしろもっと庶民への売り絵の店なんでしょうか。
インターネットで調べてみると、2003 年 5 月 18 日 新物語館サロン資料 として絹谷真康 さんの<絵屋のまち・元林院町 >という文章が出てきました。
www4.kcn.ne.jp/~nmc/toku/salon/20030518/eya.pdf

それによりますと「『奈良坊目拙解』では、元林院町について「南北の通りを絵屋町と謂う。又西に入る小路 を四の室辻子と云う。当町元林院は興福寺の別院で、その興廃はまだ考えていない。絵屋町 は仏画師竹坊二三家当町に住んで俗に画屋町と云う。昔春日絵所氏姓が累家あって、所謂芝、 住吉、宅間、栗田口、吐田等である。・・・」 」。残炎ながら『奈良坊目拙解』が手元に無いので確認できないのですが、橋に刻まれているぐらい絵屋が盛んだったんでしょうか。「竹坊」なる人物が住んでいたようです。
まだよく分っていないようですね。

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