行きつけの喫茶店でカフェラテを頼んだ。混ぜないと最後まで模様が浮き出ていた。
共同通信社によると、前知事の失職に伴う兵庫県知事選の電話調査を実施し、無所属新人の元尼崎市長がわずかにリードし、再選を目指す前知事が激しく追う展開となっている。自民党支持と答えた人のうち元尼崎市長は4割弱を固めたにとどまる。4割強が前知事に流れる。元尼崎市長は立憲民主党支持層の6割超、前知事は国民民主党支持層の4割超に浸透した。(参照:産経)
「開いた口が塞がらないとはこのことだろう。兵庫県民は日本人の象徴なのか、はたまた異端児なのかと思えてならない。罪を憎んで人を憎まずというけれど、報道が正しいとするならば、県民を代表する県会議員の全会一致で辞任に追い込まれた知事である。立候補すること自体が異様なことであり、県民の負託を受けた県議会の決定を冒とくする者である。」というのは、人間という者を分かっていないのである。人間という生き物が犬や猫とどう違うのかということに尽きると思う。
山のような不正を行った人物を国が弔ったりするのもおかしなことであるが、それを知りながら平然と忠誠を尽くすのも、集団社会を狡猾に生きながらえる術であろう。それは、偉い議員や学者や役人に限ったことではない。一般の市民でも右に倣えするのだ。今回の県知事選挙を見ると、義憤で声を上げた部下が二人自死したというほどの県政の失態が明るみに出た後である。だが、大衆は異様なほどの冷静沈着振りである。仲間の1匹が猛獣に捕らわれているのを平然と眺める草食動物の光景が重なってしまう。
結果はどうであれ、彼の国でも何件もの訴訟を抱えている人物が堂々と帰り咲いたほどである。人の世のおこないはいつになっても、「いとをかし、いとあはれなり」の意味と同じように、受け取り方でどうにでもなるということだろう。