五木寛之が45年前に書いた、自伝的エッセイである。(角川文庫)
エッセイ集の中の「ある時代の終わり」に戦後、朝鮮半島から引き揚げてきた父親と彼が一時期、小栗峠の茶屋で暮らしていたことが書かれている。小栗峠とは国道3号の福岡県と熊本県との県境の峠である。まだ彼が松延少年の頃の話である。
今年6月に他界した私の母も、同じように幼い兄を連れて夫とともに朝鮮半島から引き揚げてきた。日本中がそうであったように、当時、彼の父も私の両親も戦後の混乱期にあって家族を養うため、がむしゃらに働いた。
彼の父は教育者であったが、日本での昇進をあきらめて朝鮮に渡り、刻苦勉励して少しづつ教育職の上級の資格を取っていった。剣道有段者でもあり、謹厳実直で上昇志向の強い人物だったようだ。
その父親が、外地で妻を亡くして失意のうちに郷里に戻り、しばらくして小栗峠で茶屋を開いた。その頃はまだバスやトラックは木炭車であり、峠で木炭を補給するなど休憩をとる必要があった。また馬車も活躍していた。
そこで峠の茶屋でお菓子やラムネ、甘酒、焼酎などを売る商売を始めたのである。これは結構当たったらしい。そんな中で、父親は戦前とは別人のように人が変わっていった。目のくばり、口のきき方もアウトローであり、酒とギャンブルにも目がなかったそうである。
だが彼はそのような父に、それまで感じたことがない親しみと好意を抱き始める。教育者としての彼の父は、我が子もどこか敬して遠ざかるような、包容力に欠ける人物だったのかもしれない。
彼はエッセイで、父に連れられて内地に一時帰郷したとき、地元の子ども達に疎外された悔しい思い出を語っている。後年、直木賞をとった後「デラシネの旗」で根無し草の文学の旗手として注目されたが、当時はどのような思いで峠の茶屋に住んでいたのだろうか。この時期を彼の苦闘時代と呼ぶ人もいる。
小栗峠。向うが熊本県側。右手が旧道である。この辺りに父親が開いた峠の茶屋があった。今は車の休憩所になっている。
福岡県側を見る。左手に店がある。店番のお婆さんに聞くと、父親がやっていた店は無くなったそうである。よく人が訪ねてくるが、自分の店ではないという。
お婆さんの店に掲げられている額。父親の弟が来て詠んだそうである。書は地元の書家の手によるものらしい。皆さん、この額の写真を撮られますよと話していた。「愛憎峠」とは。
私は(五木寛之)さんがリーガロイヤルで講演された時
お話を聞きに参りました
印象が難しい暗い本を書く方と思っていましたが
印象が違ったことを覚えています
九州さまは本をよく読まれるのですね!
私は読書が足りません。今日の記事は興味が
ありますね~~興味ある地域を訪ねるのは好きです。
事件があると、すぐそこまで行ったり…チョット今は
時間がないのですが、…物好きな私です<?>
今では家内に言わせれば、暇があればパソコンにかじりついているそうです。
五木寛之の「峠の茶屋」については、最近知りました。いつも、道の駅に行くときに通り過ぎていたのですが。
熊本に行く時に、通る道なのですね~
愛憎峠とは、どういう意味が含まれるのかな?
五木寛さん、最近読んだのは、親鸞です。
峠の茶屋が残ってないのは、残念ですね。
若いころの五木寛之氏は大好きでした。たぶん大学生のころでした。少しくらい小説でアイロニーと少しばかりニヒリズムの匂いのする内容に惹かれ、当時の小説はほとんど読みました。
エッセイは読んでいませんが、愛憎峠の話と現地の写真とても興味深く拝見しました。
「小栗峠」=「愛憎峠」と称した弟さん詩人ですね。
アウトローに陥った父と息子の葛藤が「愛憎」という表現になったのでしょうね。
生きるためにアウトローになった父への「憎しみ」と「尊敬の念」が五木少年を悩ましたのでしょうね。
読者登録させていただきました。
今後ともよろしくお願いいたします。