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🤳《不易流行》🤳あしたの詩を唄おうよ…🎵

故郷は遠くにありて・・・【青春の憧憬】と私の青春回顧【遠い背景の記憶】を辿る検証への指標〈4〉

2022-09-09 | こころの旅

 
・・・・・音楽(歌謡曲)と映画と原作本と・・・・・

※富島健夫 原作【雪の記憶】を読み、日活映画【北国の街】を鑑賞すると、学生時代を回顧してしまう
のですが・・・思春期から青年期への道標ともみてとれる場面や現実味を帯びた描写に遭遇したりで、
感受性が高く結論のない心身の成長期であるが故に、成就出来なかった事柄への挫折感だろうか?
・・・いづれにせよ、《かけがえのない時代》を検証することに変わりはない。!!!
 【雪の記憶】・・・・・1958年(昭和33年)に平凡出版より刊行されましたが、私の入手できたのは、
2003年9月徳間文庫初版の再刊行本です。この作品は、1961年東映より《故郷は緑なりき》のタイトルで
映画化され、1963年と1965年に日本放送よりラジオドラマとして放送された事を私は知りません。
 その後、1965年(昭和40年)日活より《北国の街》として舟木一夫・和泉雅子のキャストで映画化されて
、映画タイトルと同様の主題歌《北国の街》により存じています。映画の内容は、原作本での登場人物の
名称や蒸気機関車での通学風景等は同様に感じますが、それ以外かなり違うようです。でも、私としては、
原作本が、我が故郷の地域名や情景が克明に描写されてゆくので映画を観ながらどうしても内容を重ね
合わせてしまうのです。・・・・・・
※昭和40年日活映画《北国の街》の原作本=富島健夫【雪の記憶】
・・・映画《北国の街》を鑑賞すると、原作本の【雪の記憶 第一章】の描写に酷似してる事が良くわかります。・・・
《映画のロケーションが長野の飯山で行われたが、作品の舞台は、福岡県京都郡近郊なので雪の積雪量は
少なく、学生帽は丸ではなく角帽です。しかし、原作本の第一章の(一)~(五)までが映画の内容としては、
一番近い様です。》

※日活映画【北国の街】の鑑賞と原作本【雪の記憶】の再読を繰返しながら自分史をオーバーラップして思う。!!
 昭和32年文藝刊行の【鮮魚の匂い】は、作者が豊津高校に通学していた時代の回想をもとにした短編で、
自伝的な要素をもつ、いくつかの作品とも共通した内容だが、その中でも早い時期に書いただけに、新鮮な
味わいがある。特に、昭和33年に平凡出版から刊行された【雪の記憶】の原型の様な作品であると私は、
考える。・・・それは、冒頭の文面から察する事ができる・・・
・・・・・「十六歳の冬、豊津中学校に転校して間もなく、主人公は一人の女学生に恋した。通学に新しく越し
てきた苅田町から、九州の東海岸を走る日豊線で行橋町に下り、田川線に乗り換えて豊津で下車する。
 敗戦直後のこととて列車の接読が悪く、早朝暗いうちから家を出なければならなかった。最初にその少女
に遇ったのは、その日豊線の汽車のなかであった。」・・・・・日活映画《北国の街》でも同様の場面がある。
 (原作とロケ地と場所が違いますが・・・私が生まれる2~3年前で学制改革の頃の様です。)・・・
・・・この頃は、まだ、蒸気機関車(SL96)で筑豊から行橋町への乗客苅田港への石炭等の運搬を含め国鉄
田川線が唯一の通勤通学手段であった。・・・映画の場面へと置換えると・・・私は、汽車通学ではなく、自転
車通学で・・・ただ一人片道8㎞の道程を毎日通っていた。だから、人との出会いなどなく、まして女性との出
会いなどなく、まして女性との出会いなど皆無である。・・・・・・・私の高校時代は、早朝に家の手伝いとクラブ
活動(剣道)が基本であった。専ら硬派なライフスタイルだった。然しながら、学校生活の中では、農業クラブ(FFJ)
の活動の中で人との出会いもあり、友達との友情や恋愛感情も生まれかけてた事もあった。・・・・・振返って
みれば、それが半世紀の時を越えて掛替えもない、同窓生としての思い出を紡ぐ事となっているのである。
 ※映画【北国の街】では、小島海彦(舟木一夫)と志野雪子(和泉雅子)との恋愛や硬派な不良・藤田(故:
山内賢)との友情が軽妙に描写されている。・・・・・
 学校帰りの駅での待合せ...近くの川の堤での会話とふれあい・・・やがて、お互いの家の住所と道順を
交換する。海彦は、同居している長兄や嫂や父に気兼ねしながらも、...ある日曜日に、雪子の家を訪ねる。
雪子の部屋の本箱には「日本文学集」・「明治大正文学全集」・新潮社の「世界文学全集」等の他に、哲学書、
洋裁や編物の本も混ざってあった。・・・「読みたいのがあったらお貸しするわ」・・・「みんな読みたいな」・・・
海彦が本格的に文学書を耽読するようになったのは、この頃からであった。日本の明治大正の名作や世界の
古典を、彼はこの本箱から次々に読んでいった。その日も数冊の本を借りて帰ったのだが、それから後も、汽車
の中で、海彦は読み終わった本を返し、新しく次の本を受け取って読むことになる。・・・(作品の一節を引用)・・・
・・・※ここが、所謂、富島健夫氏の作家としての原点だろうかと・・・・・私は考える。

 恥ずかしながら、【自分史年譜】と重ね、1967年(昭和42年)~1970年(昭和45年)までを掲載します。

【自分史年譜】 
年代 年号 年齢 出来事
1967 昭和42年 16歳 ※4月 福岡県立豊前農業高等学校入学 高校一年生
※入学と同時に剣道部へ入部する。
※新聞配達と自家生産の牛乳を近隣に配達始める。
 8月:公害対策基本法=公害に関する法律
 9月:日本とマレーシアが血債協定を締結する
    日本とシンガポールが血債協定を締結する            
1968 昭和43年 17歳 ※川端康成がノーベル文学賞を受賞する
国産のラジカセ「TPR-101(アイワ)」が登場する
 1月:アラブ石油輸出機構(OAPEC)が設立する
 2月:予餞会で舟木一夫の【友を送る歌】他2曲を唄う。
※4月 高校二年生
 4月:東名高速道路が開業
 6月:大気汚染防止法=大気汚染に関する法律騒音規制法=騒音
    規制に関する法律小笠原諸島がアメリカから返還される。
 7月:核拡散防止条約(NPT)=米露英仏中以外の国は核保有禁止
   日本電信電話公社がポケットベルサービス(ポケベル)を開始する
 8月:剣道初段取得
 9月:時代の流れは、グループサウンドや流行歌(歌謡曲)全盛の頃
 高校生活も半ば、修学旅行や部活も中心学年へ入ってゆく頃である。
修学旅行を挟んで、私は、日本学校農業クラブ(FFJ)の校内会長選挙
に立候補した。・・と言うよりもさせられたと言う方が正しいかもしれない。
 選挙で当選を果たし、会長となり副会長のA・K子さんと出会った。
学校の代表として第19回全国学校農業クラブ岐阜大会へ出席した
。 第19回岐阜大会での参加種目は・・・・・次の様なものであった。
私は、※農業鑑定競技会・N・K君と平板測量競技会
A・K子さんは、M・S子さんと※プロジェクト発表会(文化・生活に関する)
※引率の教師を含め5名で参加しました。
 翌日、観光で明治村・日本ライン下り・犬山城等々を訪れた。・・・私の
高校生活で一番の思い出となった。この頃からか、A・K子さんへの秘か
な片思いが芽生え始めていた。何故なら、それは、私の母に似た面影
をA・K子さんに抱いていたのかもしれない。・・・それから、一年たった
晩秋の頃、卒業後の進路も決まり自分の想いを伝えようかと思っていた
矢先・・・私の耳に入ってきた噂話、それは、何と・・残酷にもA・K子さん
がH・K君と交際してるという事を聞いてしまった。 その時から、///私の
心の中からA・K子さんへの想いは遠くへ消えてしまったのである。///
 そして、何も語らず卒業時に、さようならも言えなかった。・・・・・
 而して、47年後に、同窓会開催に向けて再会のチャンスが訪れ・・・
同窓会の準備を一緒にやる事になるのである。
※(1968年~1969年)全共闘運動=学費、マスプロ教育や社会不満
による学生運動
1969 昭和44年 18歳 ※インターネットの前身「ARPANET」がパケット通信に成功する。
 1月:東大安田講堂事件=全共闘と機動隊の攻防戦
 4月:高校三年生
 7月:アメリカのアポロ11号が月面へ着陸する(人類初)
10月:宇宙開発事業団を設立する(現:宇宙航空研究開発機構=JAXA)
※剣道二段取得:部活を引退
※行橋市の錬心舘(大塚道場)にて稽古に専念。
1970 昭和45年 19歳 ※日米安全保障条約が自動延長される。
 2月:日本初の人工衛星「おおすみ」を打ち上げる
 3月:日本万博博覧会(大阪万博)=アジア初の国際博覧会9月まで
 よど号ハイジャック事件=赤軍派によるハイジャック事件。北朝鮮へ
 4月:八幡大学第一法経学部経済学科に進学、剣道部に入部大きな
   夢を抱いていた頃・・・
 7月:故郷の犀川町立体育館で剣道部合宿実施:地元での合宿とあっ
   て新聞配達のバイトも継続でき恵まれた一週間でした。
1970 昭和45年 19歳    夏季休暇中、静岡園というお茶卸問屋でバイトをしながら行橋市の
   錬心舘(大塚道場)で稽古に専念
※偶然であったが、静岡園の前で一年後輩の美少女N・Kさん
  と出遇った、或る日、八幡大学へ彼女を案内した記憶がある。
 8月:夏季休暇中、昇段試験があり、三段取得。
 9月:中旬講義が始まり、剣道部練習も開始
※剣道の稽古の成果は大きかったが、しかし、三年という短期間で鍛え
 あげた身体は、脆くも壊れてしまった。【第五腰椎分離症】と言う腰の
 病気であった。この時私は、ある意味絶望の淵に立たされて将来の夢
 が、幻となり前向きさを失くしてしまった時期であった。
 そんな中、母校へ練習に行く機会があった。練習後、美少女N・K
 さんと帰る道すがら、学校近くの食堂に立ち寄った記憶がある。・・・・・
 10月:※第五腰椎分離症と診断されて骨盤からの移植手術となった。
 ※三ケ月の入院加療生活を余儀なくされた。
※その頃は、同じ高校の一年後輩の美少女N・Kさんと親交を深め様と
思っていたが、この病状により、淡い片思いの恋も終止符となった。同時
に、剣道も諦めてしまったのである。
行事町の貴船神社でりんどうの花束を手渡して別れた様な記憶がある。
※11月半ばであったか・・・?手術後、彼女が見舞いに来てくれた事と
そのひと時が、彼女との最後であった事、また、見舞いのお礼も言えず
にいる・・・・・その事が今でも名残惜しいのである。・・・・・
 而して、49年振り同窓会開催を切っ掛けにN・Kさんと48年ぶりに再会
のチャンスが訪れるのである。
11月:三島事件=三島由紀夫が憲法改正の為に自衛隊の決起を
 促す。市ヶ谷の駐屯地にて割腹自決する


 次回は、故郷は遠くにありて・・・【青春の憧憬】と私の青春回顧【遠い背景の記憶】を辿る検証への指標〈5〉を紹介します。




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