4.陸軍の水上特攻隊
4.1.島嶼防衛
大東亜戦争末期に日本陸軍は水上特攻艇部隊を創設した。
その創設の経緯を「㋹の戦史」(著者:陸軍船舶特別幹部候補生第一期生会)」には次のように書いている。
その要約を次に記す。
昭和18年(1943年)1月のガダルカナル島撤収作戦以降、日本軍、特に陸軍は、大陸戦線においても、南方や北方の島嶼作戦の面でも、漸次受け身の態勢に立たされるようになった。
米軍の行なう上陸戦法は、まず艦上機(空母搭載機)による銃爆撃空襲と、戦艦や巡洋艦等の主力艦による遠距離海上からの徹底的な艦砲射撃を実施し、上陸予定の海岸線を完全に壊滅しつくし、その後戦車等の戦闘車両と共に上陸する、いわゆる強襲上陸であった。
こうした上陸戦法に備えるために、日本軍は迎え撃つ守備隊を上陸海岸付近に配置して、敵軍の上陸時に一挙に撃滅を図るという、いわゆる水際撃滅戦法を取っていた。
しかし、この方法では全く抗し切れないことが、ギルバート諸島(キルバス)を始め、幾つかの南洋諸地域での守備隊の全滅の例によって思い知らされたのである。
防御に有効な戦闘方法を早急に、編み出す必要に迫られが、 陸軍も海軍も現方法に変わる有効な方策が直ぐに立てられなかった。
そのため、島嶼地域での防衛作戦については、陸海の航空兵力でこれに対処し、ことに米軍の兵員・兵器・糧秣を積載した上陸用船団に対しては、上陸の行なわれる前に海上で撃滅する、という基本方針をとり続けた。
しかし昭和18年後半になると、航空兵力も既に圧倒的に米軍に主導権を握られる情況になってきた。
そこで、これまでの基本戦法を変え、すなわち航空兵力を必ずしも主軸としない手段で、米軍の上陸用船団を、海上で撃滅する方法を研究することになった。
だが、物量において圧倒的に勝っている米軍に対し、同じように物量で対抗するという方法は、到底不可能である。
そこで、結局考えられたのは、物量によらない特殊な方式、すなわち陸海空とも捨て身の戦法で死を覚悟して体当たりする方法、つまり特攻戦闘方法である。
このような状況下では、特攻戦闘を採用するほかには、もはや方法はない、というのが行きついた意見となったのだった。
この発想は、大本営が昭和19年7月24日に決定した「今後の作戦指導大綱」 の基本方針に盛り込まれた。
そして、大本営が関係諸部隊に示達した「島嶼作戦要領」の中に、正式戦法として採用された。
こうして、特攻艇部隊が、陸軍航空兵力と並んで米軍上陸用船団に対する攻撃手段として採用されることになったのである。
4.2.特別攻撃隊
特別攻撃隊とは、決死の任務を行う部隊で、略称は「特攻隊」という。
特攻は「体当たり攻撃」とも呼称される。
航空機による特攻を「航空特攻」、潜航艇から攻める特攻を「水中特攻」、特攻艇による特攻を「水上特攻」と呼び分けることもある。
特別攻撃隊の語源は、日米開戦の緒戦に日本海軍によって編成された特殊潜航艇「甲標的」の部隊に命名された「特別攻撃隊」の造語からである。
しかし、この「甲標的」は生還方法を講じており、必死作戦ではなく決死というべき作戦であった。
甲標的
この甲標的とは日本海軍が開発した特殊潜航艇である。
乗組員は2名で二本の魚雷を装着している。
特殊潜航艇は各国で製造・運用されていた。
後の特攻兵器、人間魚雷とは別である。
甲標的にはまだ生還する装置と工夫がなされていた。
甲標的は昭和16年(1941年)12月の真珠湾攻撃が初陣となった。
真珠湾攻撃の当初計画では搭乗員の生還が難しいことから採用を見送られていた。
しかし、関係者達は甲標的の収容方法や航続時間を延ばすなどの研究を行い、再々度の具申を行った。
この結果、更に収容方法の研究を行う条件付きで採用が認められ、甲標的5隻が参加することになったのである。
その攻撃方法は、真珠湾口に5隻の潜水艦が展開し、それぞれから甲標的1隻づつ発進するという方法である。
甲標的は、真珠湾送深くまで侵入し、空襲と同時に湾内に停泊中の米軍艦艇を雷撃するという手筈となっていた。
甲標的が発進した後の経緯は、はっきりしておらず攻撃の戦果は不明である。
甲標的はこの様にして真珠湾攻撃に参加することになったが、搭乗員のいずれも帰る望みのない必死攻撃と覚悟のうえで出撃しており、結果として捕虜となった一人を除いて9名全員戦死となった。
戦死した9名は、その後大々的に「九軍神」として発表され、二階級特進、その栄誉を讃えられた。
国民の戦意高揚に資する役割を担わされたわけである。
<下の写真は江田島の第一術科学校の甲標的甲型>
<真珠湾に漂着した甲標的の残骸>
海軍はこの真珠湾攻撃に参加した甲標的部隊のことを「特別攻撃隊」と称し、メディア上でも「特別攻撃隊の偉勲」として発表した。
大東亜戦争での「特攻」という言葉はここに始まる。
一方、組織的な戦死前提の特別攻撃を任務とした部隊を意味するものとして、大西滝治郎中将(第一航空艦隊司令長官)の命令によって昭和19年(1944年)10月20日に編成された神風特別攻撃隊が最初の「特攻」と見なすものもある。
4.3.海上挺進戦隊
「㋹の戦史」から「攻撃艇の研究・開発 及び戦隊」についての要約を次に示す。
4.3.1.連絡艇(略称㋹)
昭和18年は太平洋戦争における、今後の先行きを占い、日本の行く末を大きく左右する出来事が続けて起こった1年である。
山本五十六連合艦隊司令長官の戦死、アッツ島(ベーリング海)での玉砕など、快進撃を続けた日本軍は、マリアナ、ニューギニア、インパールと苦境に立たされていた。
昭和18年(1943年)十月頃、南方の落下傘部隊にいた菅原久一大尉(後の海上挺進隊第十戦隊長)は、大本営に対し、速力五十ノット位の小型快速艇を作ってくれるなら自ら敵艦に体当たり攻撃をしたいという意見書を出したが、当時としては生還の見込みのない特攻艇の使用は同意できないという理由で採用されなかった。
その後、昭和19年4月陸軍船舶司令部(広島市宇品)内で、鈴木宗作司令官以下関係者の間に、海上の防衛は航空部隊のみに任せることなく、船舶部隊自らの手で実施すべきだとの意見が強まった。
そこで、簡単で軽量な、いわば人間魚雷式のものを、予め敵が上陸すると予想される地域近くに配置して、これを厳重に秘匿し、敵が上陸時に上陸用船団の側背面から体当たり攻撃するという着想をたて野戦船舶本廠に研究させた。
大本営陸軍部でも戦況の緊迫化にともない、同じ様な考えに至っており、研究を進めていた。
要求される艇の性能は次のようなものであった。
(1) 出来る限り軽量、小型で陸上に秘匿でき、人力で運搬可能なもの。
(2) 時速は大体20マイル(33Km)以上であること。
(3) 敵の輸送船を撃沈できる程度の爆薬を装着しうるものであること。
(4) 乗員は1名か2名
(5) 早期に大量生産ができるもの
これらの研究結果、昭和19年(1944年)7月8日に試作第1号艇が完成した。
この艇は「甲四型肉薄攻撃艇」と名付けられたが、名称は秘匿され通称連絡艇、略称㋹と呼んだ。
艇の外板はベニア板を使用して、底外板は4ミリニ枚を、側外板には63ミリ一枚を。
甲板には4ミリ一枚を使用していた。
エンジンはトヨタ、またはニッサンの自動車エンジンが用いられた。
爆雷の投下は、操縦者がハンドルを 引くか、又はペダルによって落下させるようにするとともに、諸々の状態を想定し、艇が衝突した場合も落下するように、扇状の撃突板を艇首に装着した。
又、爆雷の信管はその一端を紐にて爆雷の受け具に結びつけておき、爆雷投下時にこの紐が引っ張ら れて信管が作動し始めるようになっている。
<㋹艇概要図>
そして、大本営は昭和19年(1944年)8月9日付けの、軍令陸甲第一◯七号の作戦命令により、第一から第十までの部隊が編成されることになった。
続いて8月31日の軍令陸甲第一二◯号により、引き続き第十一から第三十までの部隊が編成され、海上挺進部隊と名付けられた。
4.3.2.舟艇使用方法と戦闘方法
舟艇使用方法と戦闘方法の基本方針の概要を次に示す。
①この攻撃艇部隊は、現地(戦闘地域)における最高指揮官(通常はその地域の軍司令官)の直轄とすること。
②計画秘密を絶対の要件とすること。
③攻撃前における基地の秘匿と掩護を十分にすること。
④舟艇攻撃は奇襲であり、また大量を一斉に使用するものであること。
多数で一時に、また多方面から攻撃することにより、敵に対応処置をとらせないようにするもの。
⑤攻撃の時期・攻撃目標
攻撃時期は、軍司令官の命令により決定。
攻撃目標は、泊地に侵入してる敵輸送船団を原則とする。
⑥攻撃する要領
戦隊長の指揮のもとに、軍の高級指揮官の命令に基づいて、日没後に舟艇を泛水(へんすい=舟艇を海に浮べること)し、一戦隊(百隻)、または一コ中隊(大体三十隻)ごとに航行して目標に向い、なるべく多方面から敵船団に向って前進する。
この間に敵の護衛、または警戒の艦艇に遭遇した場合には、警戒のための舟艇(これは戦隊本部用として確保してある八隻の予備隊を主として用いる)または攻撃中隊の一部を犠牲にしてこれに体当たりさせ、主力の舟艇群はこの敵の警戒艦艇との接触を避けて、本来の目標である船団に向って前進する。
目標とする敵船団に対しては、通常は同時に攻撃するようにし、目標に接近した場合は分散し、大体三ないし九隻が一団となって敵輸送船を目標として各方面から攻撃する。(このため舟艇九隻をもって見習士官を群長とする一コの戦闘群とする。)
攻撃は体当たり肉弾攻撃を原則とし、目標の敵船に向かって爆進し、敵船にふれたときに爆雷を投下するという方法により、敵船の爆沈を図ること。
4.3.3.海上挺進部隊の編成と要員
海上挺進部隊は、直接特攻攻撃に当たる戦闘部隊、すなわち海上挺進戦隊と、その基地の設定や舟艇の整備泛水(へんすい:舟艇を海に浮かべること)など基地作業を担当する海上挺進基地大隊とに分けて編成された。
<戦隊編成図>
陸士(陸軍士官学校)
陸軍士官学校は、大日本帝国陸軍において現役兵科将校を養成する教育機関(軍学校)のこと。
明治7年(1874年)12月に市ヶ谷台に陸軍士官学校が開校され、翌年明治8年2月に第1期の士官生徒が入校した。
学習内容は1学年では幾何学・代数学・力学・理学・化学・地学。
2学年で軍政学・兵学・築城学・鉄道通信学などを学んだ。
<基地大隊編成図>
これを遂行する任に当たる隊員をどのようにして選抜するかは、最も重要な課題であった。
陸軍として、この特攻戦法は、 およそ建軍以来のものであり、愛国心の強い、かつ決死的勇気のある者でなくては到底成功を期し難いだけに、必然的に年若い現役兵が必要とされた。
戦隊長
戦隊長にはすべて正規将校即ち陸軍士官学校出身で、各兵科の年令の若い少佐(具体的には陸士51期、52期) または大尉(主に陸士53期、54期)を以って充てることとした。
因みにその年令は大正5年(1916年)生まれの28歳が最年長者で大正9年(1920年)生れの満24歳が最年少であった。
中隊長
中隊長には、当時宇品の船舶教育を受けていた陸士57期(これ は概ね大正12年から14年生れで、数え20歳から23歳) の船舶兵(その数65名)のものを主体とした。
群長
また群長 (小隊長)には、 昭和18年徴集兵の船舶兵甲種幹部候補生(幹候10期)を主体とし、その他各地の予備士官学校卒業生等をこれに充てた。
隊員
一般の隊員については、第一次編成の第一から第一九戦隊までは、昭和19年度の第一次として採用された、船舶特別幹部候補生を主体とし、次いで十月以降に編成された第二〇から第三〇戦隊については、不足の分を船舶兵その他広く陸軍各部隊全体の中から年が若く、特攻を志願する現役下士官、下士官候補者、乙種幹部候補生などを採用して編成した。
隊員を下士官としたのは、出撃命令を受けて出撃し、海上戦死した場合、将校は二階級を、隊員は一躍少尉に進めることを予定したため、乗艇の際、一挙に陸軍曹長に進めておくことの必要からであった。
ただ後になって特攻進級の適用が変り、下士官の特攻戦死者は、一律に少尉に進めることができることにしたので、こうした措置を取りやめて、特幹の隊員及び 下士官候補者の全員を乗艇時以前に伍長に任官させることにした。
内地の基地幸ノ浦・宇品を出航する際には、隊員全員に曹長の階級章と二六年式六連発拳銃と四〇年式軍刀が渡された。
<二六年式六連発拳銃>
<続く>