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旅日記

望洋−95(開戦通告に関する話−2)

55.開戦通告に関わる争点(続き)

55.2.ハワイ真珠湾への奇襲攻撃

ハワイ真珠湾への奇襲攻撃は、全く予期されていなかった、と証言したのはリチャードソン米海軍大将であった。

リチャードソン米海軍大将は開戦前のアメリカ太平洋指令長官であったがルーズベルト大統領が日本を牽制するために艦隊のハワイ駐留を命じたことに対し、大艦隊のハワイ結集は危険であると主張して対立し、開戦前に退官した。


リチャードソン米海軍大将

1939年(昭和14年)6月に太平洋艦隊司令長官兼合衆国艦隊司令長官になった。

翌1940年5月のハワイにおける春の大演習の後、艦隊をそのままハワイに駐留させ、真珠湾を母港にせよとの大統領命令を受ける。

大日本帝国の中国大陸への侵略行為はアメリカの宥和政策が大日本帝国に弱腰と受け取られている結果であり、これを阻止するためには断固とした態度を取るべきだとするルーズベルトの意向を反映したものだった。

しかし、リチャードソンはこれには反対した。

その理由は、
・真珠湾は合衆国艦隊の主力を駐留させるには施設・防御力が貧弱である
・米本土から2000マイル以上も離れた洋上の孤島で、補給が困難
・艦隊をこれだけ進出させると日本を刺激して日米戦争の引き金となる

と、いうものであった。

1941年にはルーズベルト大統領に面会して説得に当たったが、ルーズベルトからの回答は、合衆国艦隊へのハワイ真珠湾常駐命令に反論したため、ジェームズ・リチャードソン大将は1941年1月に太平洋艦隊司令長官と合衆国艦隊司令長官を解任し、少将に降格させられたが、1942年10月に階級が大将に戻される。

 

リチャードソンは昭和21年11月25日、バランタイン証人に続いて証言台に立った。

 

リチャードソンは冒頭、私は自己の意見を述する専門家たる設人ではなく、又自分の知識の範囲内で事実を述べる証人として証言をするものでなく、唯此の問題に於て、米国海軍省の公式記録、即ち1941年(昭和16年)11月7日真珠湾に於て日本が開始し遂行した海軍の戦闘行篤に導いた日本海軍の計画と準備に関する記録の中に含まれて居る情報を、提供するに止まると述べた。

この法廷でリチャードソンは真珠湾攻撃は完全なる奇襲であり全く予期しなかったことを証言した。

そして、日本外務省より日本と合衆国との間に「戦争状態発生せり」との通告が国務省に到着したのは、12月10日の午前2時35分だった、と証言した。

しかし、真珠湾を母港にして太平洋艦隊をハワイに駐留させるという、大統領命令に反対したことについては口を閉ざしていた。

リチャードソンは、裁判にかけられていた永野修身被告の態度(永野は真珠湾作戦を許可した責任者で言い訳するようなことは一切せず、すべての責めは自分が負うと言い、終始判決を受け入れる態度を取った)を見たンは感銘を受けたと云う。

そして、ケンワージー憲兵隊長を人を介して「あの雄大な真珠湾作戦を完全な秘密裡に遂行したことに対し、同じ海軍軍人として被告永野修身提督に敬意を表する」と述べ「マーシャル永野こそ、真の武人である」と称えたと云われている。

<昭和21年11月25日 極東裁判速記録より>

リチャードソン証人朗読

1、真珠湾攻撃の目的は永野海軍大将に依り次の知く述べられたり

 計画

(1)南洋作戦(比島を含む)は対する行動の自由を確保し且つ時間的余裕を得る為、合衆国太平洋艦隊を無力化し

(2)併せて我委任統治諸島の防衛を期せんとす。

連合艦隊参謀長伊藤大将は次の通り言明せり、即ち真珠湾の艦隊は開戦最初の一撃により、完全に粉辞せらるべし。

若し亜米利加が進備不充分の間に一撃により、すべての重要点を攻撃及び略取することにより開戦頭初に吾々の戦略的覇権を確保するならば、爾後の作戦の規模を有利に支配し得べし(国際検察部、書類第一七号)の中に日本の全作戦の一般目的が決の如く述べられあり。

ー、東方に対しては、米国艦隊を撃破し且つ、東洋に対する米図の作戦線及び、補給線を遮断す

ニ、西方に対しては、英領馬来方面を攻略し英国の東洋に対する作戦線、補給線及び「ビルマルート」を遮断す

三、在東洋敵兵力を撃減し、其の作戦拠点を奪うと共に、資源地帯を獲得す

四、要地を攻略開発、防備を強化して、特久作戦態勢を確保す

五、敵兵力を激撃、撃滅す

六、戦果を拡大し、敵の戦意を奪う

2、永野の云う所に依れば真珠湾攻撃の計画は、1941年1月の初旬、山本に依りて想見せられ、1941年9月より作戦参謀将校に依り立案されたるものなり。

前以て全計書を承知し居りたる日本海軍軍人の中には、永野及び山本あり。

計画の一部を知り居りたる者には、海軍大臣、嶋田大将及び海軍々務局長岡海軍大将あり。該計画の仕上に備へて1941年9月2日より、13日に至るまで東京は於て戦争図上作戦演習を催せり、約40人の重要なる海軍将校が是に参加し、永野か最上位の将校として審判を勤めたり。

該計画の準備に参画せる日本海軍将校に依れば解決すべき問題は如何にして最も有効に布哇(ハワイ)方面の合衆国太平洋艦隊を攻撃すべきにありたり。

彼等は次の如く述べたり、即ち「布哇方面に於ける合衆国太平洋艦隊の主力を最も効果的に無力化せしむるには碇泊艦を電撃するにありと決定せらりたり。

此の故に次の二つの障碍を考慮せり。

(a)真珠湾は狭隘にして、浅海面なる事実

(b)真珠湾には多分魚雷防御綱を装備しあるべきこと

(c)(a)項に対しては魚雷に安定器を附しそれを超低高度発射することを計画せり

(d)(b)項に対しは奏効の算少なきを以て爆撃を併用せり

次の問題は燃料補給と奇襲遂行とであった。是等の点に付き同将校等は次の如く述べた。

即ち「燃料補給の能力と奇襲とは何れも本作戦の鍵にして何れも欠くと雖も作戦途行は不可能なり」と。

洋上の燃料補給はその遂行に独特の訓練を要するものであった。

奇襲を確実にする為、鑑舶の往来の少ない北方大洋航路が取らなければならぬし、前衛牽制偵察駆逐艦が先航させられねばならず、又洋上に於いては完全な「ラジオ」の停止が実施されねばならず、他方瀬戸内海及び九州地域に於て欺瞞的「ラジオ」活動が行はなければばらなかった。

南雲提督麾下の、而して6隻の航空母艦より成り、2隻の戦艦、2隻の重巡洋艦、1隻軽巡洋艦、11隻の駆逐艦、3隻潜水艦及び8隻の油運送船により援護された、選抜機動部隊編成をその計画は詳細に規定したのであった。

追加部隊は普通潜水艦及び特別訓練を受けた将校が乗組んだ豆港水艇の両者の潜水艦を含んでいた。

空母積載攻撃機は360機であった、即ち急降下爆撃機135機、水平爆撃機104機、雷撃機40機、及び81機の地上銃撃機であった。

攻撃目標は主として航空母艦、空軍基地及び地上にある航空機に定められて居った。

然し遂行に際し航空母艦が居なかったので戦艦が特別なる注意を受けたのであつた。

その計画は又各所に終いて、より劣勢な艦隊の活動をも規定したのであった。

 計画の遂行

1941年11月5日永野海軍年大将は山本提督に対し命令を発せり。

それに基づき即日山本は 機密連合艦隊命令作第一号を発し、該計画を実行せり。

計画に於けるY日を而して後にX日を決定する為めの規定に従い12月8日をY日に決定せる命令第二号を11月7日に山本は出発せり。

同日1941年11月7日山本は旗艦長門より機動部隊に対し千島択捉島の「ヒトカップ単冠」湾に集結11月22日迄に物資の補給をなすべき旨の命令を発せり。

11月25日山本は機動部隊に11月26日行動を起し而して12月3日ときめられた夜間待機位置に「其の行動を秘匿にしつつ進発せよ」と命ぜり。

1941年11月26日午前6時機動部隊は真珠湾への三千里以上の航海の途に就けり。

12月2日航海の途次機動部隊は「X日は12月8日」(真珠湾時間12月7日)なるべき旨の連合艦験命令を接受せり。

12月2日山本提督はその旗艦大和より攻撃開始の命令を発せり。

12月6日より7日の夜間(真珠湾時間)機動部隊は全速力(二十六節(ノット:1.852/h)))にて南方へ突人せり。

12月7日早暁(真珠湾時間)「オアフ」島の真北230哩(約370Km)に至りし時、午前1時30分航空母艦は第一次攻撃隊の航空機を発進せしめたり。

「オアフ」島の北方200哩の時、午前2時45分第二次攻撃隊の航空機を発進せしめたり。

航空機は航空母艦の南方に集合し攻撃のため進発せり。

雷撃機及び急降下爆撃機は午前7時55分より8時25分まで攻撃せり。

水平爆撃機は8時四40より9時15分まで続きたる攻撃に於ける主要攻撃機なり。

急降下爆撃機は9時25分より9時45分まで攻撃せり。

時に襲撃は終了せり。

機動部隊は航空機を進発せしめたる後全速力を以て北西に向け後退せり、そこにて午前10時半より午後1時半までの間に約28機を除く以外の飛行機全部母艦に臨還したり。

依て本機動部験は呉向け進発し12月23日同地に到着せり。

本攻撃部隊は米海軍将校並びに兵員1999名を殺害せり、其の際第一戦艦隊司令官たるアイザック・キャンベル・キッド少将戦死せり。

恐らく彼は最後まで指揮を取り居たる旗艦アリゾナの爆発に際し戦死せるものと推定せらる。

アリゾナに於ける全損害は将校47、兵員105、合衆国海兵隊員の損害死者109名、合衆国陸軍損失死者234名、本攻撃に依る一般市民の死者54名、飛行機損失 合衆国188、日本29。

合衆国の受けたる大破並びに損失戦闘艦8、軽巡洋艦3、駆逐艦3、共の他の船4、に対して日本側損失潜水艦5。

此の如く不釣合なる損害を与え得たるは如何に永野、山本及び日木海軍及政府の協力者が1931年(昭和6年)より1941年(昭和16年)に至る間よく其の秘密を守り海軍の奇襲計画と準備とを為し遂ぐることに成功し、1941年12月7日を以て其の見事なる計画と準備の絶頂に到達せしめたることを物語る。

真珠湾攻撃を成功せしむる為には偏に秘密の厳守と完全なる奇襲に依らざる可からざることを命令其の他に於て繰返し強かに警告し、遂に永野、山本及び其の協力者は真珠湾攻撃に於ける秘密の厳守と完全なる奇襲の敢行に成功した。

予は合衆国政府の記録中に日本政府が合衆国に対し戦争行為を開始せんとすることに就きて予め明瞭に理由ある警告を与えたるが如き文書又は通信のありしことを今迄発見し得ず。

 

日本外務省より日本と合衆国との間に「戦争状態発生せり」との通告が1941年12月10日午前2時35分国務省に到着せり。

即ち日本艦載機からの最初の魚雷及び爆弾が真珠湾を見舞ってより正に66時間40分後のことなり。

 

 

<続く>

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