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旅日記

望洋−94(開戦通告に関する話)

55.開戦通告に関わる争点

昭和22年12月26日に開始された東條被告の審理から凡そ1年遡るが、検察側の太平洋戦争立証段階で、ある重要な事実が弁護団から引き出されていた。

東條被告の裁判の話にも関わるので、それを先に述べておく。

 

55.1.バランタインが検察側証人

昭和21年11月4日から検察側立証は太平洋戦争段階となり、日米交渉の論議に入った。

太平洋段階における第一の争点は日米交渉と開戦の通告であった。

即ち真珠湾攻撃が日本の無通告攻撃であるかどうかである。

日米交渉に関する証人に立ったのはジョセフ・ウィリアム・バランタインで、日本語、中国語も話せる米国の外交官であった。

日米交渉の幕切れ寸前のアメリカ政府の内情を知る彼の証言は重要な意味を持っていた。

ジョセフ・ウィリアム・バランタイン経歴(東京裁判宣誓口供書より)

私は1909年(明治42年)6月合衆国外務部に入り、爾来引き続き今日に至る迄、外交及び領事の諸地位に就き又国務省に勤務し1909年(明治42年)から1928年(昭和3年)迄絶えず東京駐在亜米利加大使館に勤務するか或いは日本帝国内の領事の地位に就くか何れかを致して居りました。
1928年(昭和3年)から1930年(昭和5年)迄、私は国務省に勤務致しました。

1930年(昭和5年)から1934年(昭和9年)迄は中国広東駐在領事として勤務し1934年(昭和9年)から1938年(昭和11年)迄は満洲奉天駐在総領事として勤務し1936年(昭和11年)7月から12月迄一等書記官として東京駐在亜米利加大使館にー時勤務し、1934年(昭和12年)3月から今日に至る迄引続き国務省に奉職致して参りました。
1945年(昭和20年)9月20日迄、私は国務省極東事務局に勤務していました。
1944年(昭和19年)12月から1945年(昭和20年)9月に至る間該事務局の長をしました。
1945年(昭和20年)9月以来私の地位は国務長官の特別顧問で御座いました。
茲に証言言致します事柄は主として私の個人的知識の範囲内の事であり、そうでなければ国務省の記録からしまして私が通暁している事柄で御座います。
(以下 略)

 

弁護側反対尋問

検事側の尋問の後、11月18日からバランタイン証人に対する弁護側の反対尋問が始まった。

弁護側を代表して最初に質問したのは、裁判開始前に「戦争は犯罪ではない」と主張し、広島・長崎に投下された原爆について追及した、たあのブレークニー弁護人だった。

 <ブレークニー弁護人>

    

ブレークニー弁護人は数日間にわたって質問を浴びせかけた。

そして、遂にブレークニー弁護人はバランタイン証人から次のような重要な証言を引き出した。

アメリカ政府がハル・ノートを日本政府が受け入れる可能性がないと、考えていたこと、即ち事実上ハル・ノートは事実上最後通牒であったこと。

さらにハル・ノートの提示以後、ハル国務長官が日本との関係事項は既に陸海軍の手中にあると、言って戦争は避けられないといった認識を示したこと。

そして、ルーズベルト大統領が、12月6日に日本政府が発した電報を傍受し、「これは戦争を意味する(this means war)」と言ったこと。

このことは、日米開戦が日本の一方的な攻撃による奇襲であるとする、検察側の主張を覆す大きな点となった。

<昭和21年11月20日 極東裁判速記録より>

・・・・

ブレークニー弁護人 国務省に於いて、日本に取って受諾し得るような、暫定取り決めが出来ると思っていましたか。
バランタイン証人  そうではありませぬ、我々はずっと我々の最善を盡して、そう云うことに対して努力したのでありますけれども、我々と致しましては、日本側の要求して居る所に、到底合致しないと云う風に感じたのであります、彼等は我々に対してはっきりと、十一月二十日案(日本から提示した乙案)と云うものは、彼等の最後的な申入であって、そうして我々の感じましたことは、我々が出来る所の最大限をやって見た所で、彼等はそれを受諾しないであろうと云う風に感じて居ったのであります
ブレークニー弁護人 併しながら国務省に於ては、実際斯かる暫定取決めに対する提案の草案を、作成する程の所まで行ったのではありませぬか
バランタイン証人  我々側と致しましては、三回引続いて斯かる取決めの草案を作ったのであります
ブレークニー弁護人  是等の草案は、大統領、国務長官、陸軍長官、海軍長官、陸軍を謀長竝に海軍令部長官に於て、討議されたかどうか御存じですか
バランタイン証人  提案された所の暫定協約の全草案は、議論の対象となりました
ブレークニー弁護人 暫定取決めに開する提案を提出しないと決めたのは何時ですか
バランタイン証人  それは十一月二十五日の後だったことは確かです
ブレークニー弁護人 私が先程申しました米国の、是等の高官の間では、十一月二十五日、そして十一月二十六日の朝に於ても、此の暫定取決めを提出する意思があったのではありませぬか
バランタイン証人  私は彼等がどう云う風に諒解して居ったか、又彼等がどれ位の期間そういう風に思って居ったか知りませぬが、我々は彼等がそう云うことを考えて居ると云うことを知って居りました
ブレークニー弁護人 此の暫定取決めの草案は、公にされたことがあるかどうか御存じですか
バランタイン証人  其の草案は、全部真珠湾調査混合委員会の報告書の中に、含まれて発表されて居ります
ブレークニー弁護人 それでは若し国務省に於て、十一月二十日日本側の提案を最後通牒と看做したならば、そうしてあなたはそう看做したと証言をされて居るのですが、それならば十一月二十六日国務省側の提案は、此の最後通牒に対する返答であった訳ですね、私の申したことは余りはっきりして居りませぬでした、それが返答であったろうと申したのは、詰り十一月二十日以後なされた国務省側の返答であります
バランタイン証人そうです、十一月二十六日附の提案(ハル・ノート)、一つの回答でありました
ブレークニー弁護人 それでは結局十一月二十日の最後通牒、そしてあなた方は、そう云う風に看做して居ったとあなたは先程言いましたが、十一月二十日の最後通牒に対する返答でありますから、結局それ以後の交渉を打切る一っの返答となった訳ではありませぬか
バランタイン証人  あなたの結論には同意することは出来ませぬ
(略)
ブレークニー弁護人 此の問題に付て国務省は、どう思って居ったか仰しやって下さい
バランタイン証人  国務省の見解は、数箇月の交渉の結果と致しまして、日本側が其の交渉に引いて、十一月二十六日の我々側の提案を受容れることはあり得ないことであると思って居りましたけれども、併しながら平和を愛する所の国民だったならば、受容れることの出来るような案であると云うことを確信して居ましたから、若しそう云うチャンスが万一ないとは言えないと云うような気持を持って居りました
ブレークニー弁護人 国務長官ハルは、十一月二十七日陸軍長官スチムソンに対して、私は今や交渉を止めてしまった、今後の問題は陸海軍の手にあると言明したのは事実ですか
バランタイン証人  それは記録の中にありまして、はっきりどう云う言葉を使ってあったかは覚えて居りませぬが、併しながら情勢が非常に重大になって居ると云うようなことを示す言葉を使って居ります、と云うことが記録の中にあると思います
ブレークニー弁護人 ハル長官は其の次の日及びそれに続く日に於て、同様な言明を英国大使にアメリカ戦争委員に対しても、なしたことを御存じですか
バランタイン証人  彼は其の次の日に、英国大使及び戦争委員会に対しまして、日本が何處かの地点に、奇襲攻撃を行うかも知れないと云うことを言いました
ブレークニー弁護人 そうですか、もう少し詳細に申しまして、結局その日に於て、ハル長官は、大体此のやうなことを言ったのは事実ではありませぬか、私は此の問題に付ては、もう足を洗った、後は陸海軍の手にあると云うようなことです
バランタイン証人  私はハル氏が、私自身に言ったのでありますから、能く覚えて居りますが、確かに今のやような足を洗ったと云うような言い廻しは、使ったことはないと私に言いました
ブレークニー弁護人  それでは、若しスチムソン陸軍長官が、ハル長官が斯う云うことを言ったと証言して居れば、結局スチムソンの言ったことは、嘘になりますね
キーナン検察官 此の質問は、適当でないと云う理由で異議を申立てます
ウエッブ裁判長 あなたはハル氏が、斯かる言葉を用いたのは、誰に対して言ったのであるかを言はせようとして居るのですか
ブレークニー弁護人  記録に依って、之をスチムソン長官に対して、なしたものであると云うことが分ると提言致します
ウエッブ裁判長 併しながらあなたは、さら云う言葉を日本側に対して使ったと仰しゃろうとして居るのではないのですね
ブレークニー弁護人  そうではありませぬ、それが私の論点ではありませぬ、私はワシントンの当局に於いて、十一月二十六日の覚書の影響は、どう云うものであったと考えて居ったかと云うことに対するワシントンの公式見解を質さんとてし居るのであります、併しながら実際正確にどう云う言葉が使はれたかと云うに付て、議論するのは詰らないことと思います、後程証拠に依って、実際どう云う言葉が使われたかと云うことが明かになると思います
ウエッブ裁判長 スチムソン氏に対して言われたと証人が知って居る言葉乃至は言われたことを、外は人から聴いたと云うやうなことに関しては訊いて宜しいです
ブレークニー弁護人  私は斯う云う風に質問を言換えましょう、結局私はあなたの記憶を確めて居るのではなく、事質に付てあなたに訊いて居るのですから、結局ワシントンに於ける斯う云う高官連中の一般的見解は、十一月二十六日の此の覚書は、結局交渉を決裂せしめると云うことにしかならないことではありませぬでしたか
バランタイン証人 唯一つの点に付て私ははっきりと言うことが出来ます、それはハル氏が今や事柄は陸海軍の手中にありと言ったことです
ウエッブ裁判長 誰にそれを言ったのですか
バランタイン証人  多くの高官に対してそれを言いました、スチムソン長官に対し戦争手委員会の席上に拠て言いました。それから数日経ちました時、即ち一九四一年の十一月三十日に彼がロバート判事にハル氏書いた所の手紙の中に彼の追憶が最も明かに出て居ります
(略)
ブレークニー弁護人 宜しいです、それでは十二月七日施行されました日本の最後の通牒(「対米覚書」)の問題に移りましょう、あなたは是は全然一の宜戦布告でもなく或は最後通牒でもない云々と言って居りますが、十二月六日の夜、此の電報(「対米覚書」)の傍受された形式に終て、之を初めて読んだ時に、大統領は是は戦争を意味する(this means war)と言ったことを御存じですか
バランタイン証人  一人の将校が、そう云う意味のことを証言したことは知って居ります
ブレークニー弁護人 又ワシントンに於ける当時の高官連全部、即ち陸海及び国務各長官並びに、参謀総長及び軍令部長は、全部此の傍受電報を初めて読んだ時の第一印象は、同じものであったことを御存じですか
バランタイン証人 私は其の件に付ては知りませぬ、其の頃事件の推移は非常に速かでありましたので、政府高官の中の多くの者は、傍受電報を受取っては居りませぬでした、我々の手に日本側からの電報が渡った頃には、真珠灣事件は既に起って居たのであります
ブレークニー弁護人 国務省が、此の通牒を初めて傍受したのは何時ですか
バランタイン証人   第十四部は十時頃であったと思います、其の時間の前に私はどの部分も見て居りませぬ
ブレークニー弁護人 何時の十時ですか、又午前ですか、午後ですか
バランタイン証人   七日の午前十時です
(以下略)

 

次回は真珠湾への奇襲攻撃について話を進める。

 

<続く>

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