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旅日記

望洋−24(座間味島の集団自決)

13.座間味島の集団自決

海上挺進第四戦隊が逗留していた座間味島で昭和20年(1945年)3月26日に集団自決が行われた(この集団自決は沖縄の他の場所でも発生している)。

起こったのは、海上挺進戦隊第四連隊出航した2ヶ月半後の事だった。

<沖縄県史>

 

戦後、この集団自決が軍の強制であったかどうかで論争が巻き起こった。

13.1.座間味島の集団自決と軍との関係

昭和20年(1945年)3月26日午後10時前後に、村長、助役ら島民の約五分の一にあたる172名が避難壕で集団自殺した。

これは駐留していた海上挺身第一戦隊長の梅沢裕少佐の命によって行われたという説がでてきた。

これを、一部のメディアや著作家たちが書き広めた。

強制があったとされる、住民の証言

座間味島では、宮里盛永、宮平春子及び宮村トキの3人(それぞれ兵事主任の宮里盛秀の父親と妹達)が、宮里盛秀より「軍から命令が出ている」と聞いた旨を手記に書いたり、証言している。

渡嘉敷島では兵事主任富山真順(戦後死去)が、戦後「軍から命令された」と証言している。

また、集団自決の生存者である金城重明も現場で軍命令が村長に出たことを伝えている人物がいたことを証言している。

ただし、強制を否定する意見もある。

集団自決は「軍の命令だった」とする意見や、「強制があった」や「関与があった」とする主張に対し、軍命を出したとされる当人の他、否定・疑問視する意見を出す住民、研究者、ジャーナリストもいた。

集団自決は軍強制ではなかった、という証言

昭和62年(1987年)、集団自決は軍強制ではなかった、という証言が、元座間味役場幹部から出された。

昭和62年(1987年)3月末に、座間味村で行われた戦没者慰霊祭参加のため座間味島を訪れた梅沢は、自決した宮里盛秀助役の弟宮村幸延と数時間にわたって面会し、梅沢が作った文書に押印するよう頼んだ。

宮村は一旦断ったが、翌朝再訪してきた梅沢に再度頼まれたため、押印したという。

その文書の内容は次のとおりである。

「集団自決は、部隊長の命令ではなく、戦時中の兵事主任兼役場助役だった兄の命令で行われた。

これを弟の私は、遺族補償のため、止む得ず、隊長命令として補償金を申請した」

つまり、戦傷病者戦没者遺族等援護法の適用を受けるために創り出したものである。

というのは、

座間味島の集団自決は児童や乳幼児にまで及んだが、戦傷病者戦没者遺族等援護法では、適用は14歳以上の戦没者と限定されていた。宮村幸延と厚生省の折衝でも「14歳未満の自決者遺族については、適用は無理」との判決が下された。

宮村は当時の村長らと協議して、自決は「部隊長命による」との申請を厚生省に再提出した。

この結果、昭和31年(1956年)3月、14歳未満の自決者遺族についても法律制定時に溯って、補償が支給されるようになった。

という事情があったからである。

だが、宮村の姉である宮平春子(宮里・宮村兄弟の妹)は、この文章は梅沢の作成したもので、それに宮村が押印させられたものであるとし、さらに集団自決事件当時そもそも宮村幸延は徴兵で福岡に行って座間味にはおらず、このような文書内容を証明出来る筈もないと主張している。

 

当時、ジャーナリストの櫻井よし子も、週刊新潮で「数人の住民も、自決命令は宮里盛秀助役が下した、と語り始めている」と書いている。

また、集団自決に手榴弾等が使われたことに対しては、

当時村では臨時の防衛隊が組織されていて、これは在郷軍人を長として協力者を集めたもので、いわば義勇兵のあつまりだった。

彼らは手榴弾などを持っており、それが、村民の手に渡るのは容易だったと言われている。

昭和62年4月18日の神戸新聞に梅沢の話として次の記事が掲載された。

「<告白の勇気に敬意> 住民と軍の関係は戦時中から友好であった。

戦後数回にわたる座間味訪問の際にも親切にしていただいたのは、島民が集団自決の真相を知っていたからだろう。

自決者を含め、358人の戦没者を出した座間味の惨状を考えると、Aさんら村民役場幹部のとった行動は、止むにやまれないものであったと思う。

Aさんを責める気はなく、むしろ真相を告白してくれた勇気に敬意を表したい。

交戦の足手まといにならぬように、と自決した助役らのご冥福を祈っている。

これで私にとって長く、暗かった戦後がようやく晴れた」

なお、この海上挺身隊第一戦隊の戦死者は104名中70名であった。

戦隊長の梅沢は生還したが、中隊長3名は戦死している。

 

13.2.梅沢の訴訟

梅沢は平成17年(2003年)その後も、記述を一向に改めない大江健三郎らを相手取り、名誉毀損訴訟に踏み切った。

訴訟は1、2審で敗訴し、平成23年の最高裁決定でも上告を退けられた。

ただ、最大の争点である自決命令の有無について、司法は「(命令は)証拠上断定できない」「真実性の証明があるとはいえない」と判断した。

真実性が揺らいでも名誉毀損が免責されたのは、集団自決への軍の深い関与と当時は軍命令が通説だったことを踏まえ、出版時は真実と信じる相当の理由があるとする「真実相当性」に加え、「表現の自由」を優先したということである。

大江健三郎は「現地調査はしなかったが参考資料を読み、また『鉄の暴風』の著者や沖縄の知識人から話を聞き、「集団自決」は日本軍の命令によるものという結論に至った」と弁明している。

表現の自由が個人の名誉よりも優先し、真実であるという確証がなくても、名誉棄損には当たらないということである。


梅沢裕元少佐は平成26年(2014年)8月6日に逝った。享年97だった。


13.3.慶良間諸島の集団自決

この慶良間諸島は大小20余りの島からなる島嶼群である。

この島の座間味島、慶留間・阿嘉島、渡嘉敷島に第一戦隊、第二戦隊、第三戦隊が駐留した。

集団自決は座間味島、慶留間、渡嘉敷島で発生している。

第一連隊と座間味島での集団自決については先ほど触れたが、第三連隊と集団自決に関する記事を次に記す。

なお、第二戦隊と自決に関する記事は未だ目にしていない。


<(渡嘉島戦跡碑由来)特幹一期生 木村幸雄記> (船舶特幹第一期会会報より)

 沖縄・渡嘉敷島の戦いで三九四人が集団自決を遂げた。

戦後、この自決は戦隊長赤松大尉の命令に拠るものと決定づけられ、第三戦隊は悪の権化の如く世間に喧伝されたが、戦隊員は誰も反論せず敢えて沈黙を守った。

作家曽根綾子先生は、この悲惨な事実を後世に伝えるべく島の人々は勿論の事、赤松戦隊長を始め数名の隊員に会い、精力的に取材をすすめ「ある神話の背景」を出版した。

事実を正確に捕らえ、語部に徹した 格調ある作品は、我々にとって充分満足するものであった。

昭和五三年、第三戦隊・第三基地大隊戦友会は村より渡嘉志久峠に場所の提供を受け、出版の縁により曽野先生から碑文を戴き、五ヶ月に亘る悪戦苦闘の証となる戦跡碑を建立した。

苦しい戦闘の中自ら黄泉へ旅立たれた方々、或いは戦陣に散り、飢餓や病魔に 倒れた人々の史実を綴ったこの曽野綾子先生の碑文は、

訪れた人々に犠牲によって得られた和の尊さを静かに語りかけている。

(碑文)

ここに記すのは、 昭和二十年 (一九四五年)この島に於いて戦われた激しい戦闘と、島民の死の歴史である。

大東亜戦争の最後の年の三月二三日よりこの渡嘉敷島は、米軍機の執拗な空爆と、機動部隊艦艇からの艦砲射撃にさらされた。 

山は燃え続け、煙は島を包んだ。

当時、島にあったベニヤ板張りの舟を利用した、夜間攻撃用の特攻舟艇部隊は、出撃不可能となり、艇を自らの手によって自沈するようにとの命令を受けた。

こうして当時、島にあった海上挺進第三戦隊、同基地隊などの将兵・軍夫三二五名は、僅かな火器を持っただけで、島の守備隊とならざるを得なかった。

三月二十七日、豪雨の中を、米軍の攻撃に追い詰められた島の住民たちは、恩納河原ほか数か所に集結したが、翌二十八日、敵の手にかかるよりは自らの 手で自決する道を選んだ。

一家は或いは車座になって手宿弾を抜き、或いは力ある父や兄が弱い母や妹の生命を断った。

そこにあるのは愛であった。この日の前後に三九四人の島民の命が失われた。 その後生き残った人々を襲ったのは激しい飢えであった。

人々はトカゲ、ネズミ、ソテツの幹までを食した。

死期が近かずくと、 人々の衣明服の縫い目にたかっていたシラミはいなくなり、その代わり、まだ辛うじて呼吸を続けてい る人の眼に、早くもハエが卵を生みつけた。

三一五名の将兵のうち、一八名は栄養失調のために死亡し、五二名は米軍の攻撃により戦死した。

昭和二十年八月二十三日、 軍は命令により降伏した。

「八月二十日、第1中隊前進基地ニ於テ、 各隊兵器ヲ集積シ、 遥カ東方皇居ヲ拝シ、兵器決別式ラ行フ。太陽ハ輝キ、青イ空、青イ海。

周囲ノ海上ニハ数百ノ敵艦艇ガ静カ二遊弋、 或ヒハ停泊中ナり。 唯果然、 戦ヒ既二終ル」 (陣中日誌より)

昭和五十四年三月 曽野綾子 

 

13.4.政府見解


平成19年6月25日衆議院議員鈴木宗男は「沖縄戦における集団自決をめぐる教科書検定に関する質問主意書」を提出した。

これに対して平成19年7月3日政府は、答弁書を送付した。

このうち「沖縄戦における集団自決について、軍命があったかどうかについて」政府は

先の大戦において、沖縄は国内最大の地上戦を経験し、多くの方々が、犠牲となり、筆舌に尽くし難い苦難を経験されたことは承知している。お尋ねの沖縄戦において不幸にも自決された沖縄の住民のすべてに対して、自決の軍命令が下されたか否かについて、政府としては現時点においてその詳細を承知していない。

なお、沖縄戦における住民の犠牲者のうち、戦傷病者戦没者遺族等援護法(昭和二十七年法律第百二十七号)の適用上、過去に戦闘参加者と認定されたものについて、その過程で軍命令があったとされた事例がある。

と答弁している。

つまり、軍の関与があったかどうか不明であると、答えたのである。

ただし、戦傷病者戦没者遺族等援護法を適用するに当たり、「戦闘参加者と認定されたものについて、その過程で軍命令があったとされた事例がある」と答えている。

この事例とは、

恐らく前述した座間味島での集団自決に関する、「昭和31年(1956年)3月、14歳未満の自決者遺族についても法律制定時に溯って、補償が支給されるようになった」ことであると思われる。

 

<質問主意書>

 
<答弁書>

次回も自決に関する話である。

 

<続く>

<前の話>     <次の話>

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