見出し画像

旅日記

望洋−23(戦隊の戦闘)

12.第一戦隊の戦闘

座間味島の集団自決について語る前に、座間味島における戦闘を述べておく。
座間味島に第一戦隊が、阿嘉島・慶留間島に第二戦隊、渡嘉敷島に第三戦隊が展開していた。
ここでは、座間味島の戦闘について記述する。 

     <座間味島>            <阿嘉島・慶留間島>

   

      <渡嘉敷島>

 

 

12.1.第一戦隊来島

この座間味島に軍隊が渡って来たのは、昭和19年9月10日が最初であった。

海上挺進基地第一大隊が、 昭和19年8月28日広島で隊の編成を終え、9月2日に宇品を出航して同日付で第32軍の指揮下に入り、同月の10日には座間味島に上陸した。

基地大隊長は小沢義広少佐(少尉候補者一二期で、後に中佐に進む)であった。

彼らは、招集の年配の兵士達で、水上特攻艇用の壕や、炊事、通信、医務室などの各種の施設を準備する任務を持っていた。

 

海上挺進第一戦隊は昭和19年9月5日に宇品を発って、陸路鹿児島に向かい、鹿児島港で輸送船に搭乗し、9月7日鹿児島港を出航した。

第一戦隊も基地隊と同日の9月10日に座間味島に上陸した。

戦隊と基地大隊の二つの部隊は、座間味部落内に本部を置き、そこを中心に基地大隊の第一 から第三の勤務中隊、整備中隊、通信小隊などの各隊が、一部は民家に宿営し、多くは海岸近くや山の中腹に丸太小屋を建てて生活していた。

戦隊の第一から第三の中隊と本部予備隊で編成される特攻艇の㋹100隻は、部落の東方裏手の高月山を越えた先の長い白浜の古座間味海岸に、山の裾の部分に掘られた横穴に秘匿された。

昭和20年2月中旬になって、 座間味島にいた部隊のうち小沢中佐が指揮する基地大隊の主力約700名は、沖縄本島に移って行き、 独立歩兵第一大隊と名を変え沖縄の島尻地区の守備についた。

島に残ることになった勤務中隊約180名、通信班約50名、それに整備中隊約60名は、 戦隊長梅沢少佐の指揮下に入った。

その後、沖縄本島に移動した兵力の補充として、朝鮮半島から徴用されて来た軍属の水上勤務中隊の二コ小隊約300名が送られて来た。

なお、座間味島では、村長以下役場史員、部落長老、年長村民(青年は殆出征)、婦女子等約800名が部隊に協力し極めて密接な関係にあった。

 

12.2.米軍来襲

1月21日と22日に、 慶良間の各島はアメリカ軍の艦載機による空襲を受け、火災の発生や本島との連絡用の船が沈められたりして、一時は緊張した状態になった。

しかしこれはまだ上陸戦には連なることはなく、時々偵察機やB2が上空を飛んだりして、不安定な状態ではあったが、それから約二ヵ月の間は、まだ軍民共に平穏な生活が続いた。

3月18日、沖縄本島の第32軍司令部は、各部隊に対して、

『中部太平洋艦隊泊地を出たアメリカ機動艦隊と、上陸用兵員を載せた約八百隻の輸送船団が、北方に向け針路を取り進行中である が、その上陸目標は未だ不明である』

と伝達した。

20日になると、その艦船団は『沖縄方面に向かう功算が大である』となり、更に22日には『沖縄に向かうことが必至とみられる』との情勢になっていった。

また同日には慶良間の上空にはアメリカ軍の哨戒機が姿を見せ始めた。

23日午後、アメリカ艦隊の空母群は慶良間の南方海上に達し、そこから発進したグラマン F6F百機を越える艦上戦闘機の編隊は、慶良間の各島の海岸の施設や民家に対して激しい銃撃を行なった。

村落は大火災となり、第一、第二、第三の各戦隊は、舟艇を始め軍用施設などを破壊され炎上し、兵員や住民にも死者や負傷者が出るようになった。

24日も朝から一日中激しい空襲がくり返され、銃撃のほか小型の爆弾も加わり、人家や山 林に火災が発生し、この各島いたる所に上った火は、沖縄本島はもちろん、渡名喜久米島な どからも日夜燃え盛るのが見える情況であった。

同日の夕方になると、アメリカの空母を中心とする機動艦隊は益々慶良間近くの海上に接近 し、その夜には前哨の駆逐艦や魚雷艇などが慶良間海峡にも侵入し、主要な島々に対して艦砲射撃を始めた。

第一戦隊の各中隊は、この日出撃の準備態勢を固め、それぞれの舟艇を秘匿してある内に、 二、三人ずつ分散し、出撃命令を待つことになった。

25日夜明けと共に、 慶良間海峡の内と外からの艦砲射撃と、空襲による機銃掃射は益々激 しくなり、 機動艦隊主力の空母四隻が慶良間西方海上に接近し、島の山上から肉眼で見える程の海域を巡航しながら、終日艦載機の発進攻撃がくり返された。

このため、第一、第二中隊とも舟艇壕及び爆雷を保管してある弾薬壕は全壊状態となり、殆の舟艇は焼失した。

村民は混乱状態となった。

夜22時頃、役場助役等五名が最後の挨拶に戦隊本部に来た。

こうした中では情報の伝達が混乱し、一部にはアメリカ軍上陸の誤認報告や、住民に対して 村当局者から〝軍命令として自決の指示が出された"などの噂もとぶ異常状態になった。

 

12.3.米軍上陸

3月26日午前8前4分、阿嘉島にその第一陣が上陸、次いで慶留間に、そして午前9時、座間味部落と古座間味の両海岸に、アメリカ第77師団第305連隊第一大隊約350名が、ほぼ三隊に分れ戦車群と共に上陸を開始した。

<沖縄県公文書館   1945-3-26米軍撮影 浜辺に向かう水陸両用車>

 

この日部落を守備して応戦していた整備中隊や、船舶工兵小隊は、戦死者が続出し、 撤退を余儀なくされた。

米軍はその日の午前中までに座間味部落を中心拠点として、その後方高地である高月山及び付近一帯までを占領した。

そして、迫撃砲、重機等も据え、仮設陣地を設けるに至った。

<沖縄県公文書館   1945-3-26米軍撮影 上陸前に激しい敵の砲撃に遭い、堤防に身を潜める歩兵>

 

このため戦隊長は、部落及び各秘匿壕から各隊を撤収させ、部落の後方にある番所山に集結を命じた。

その夜同高地近辺に集結していた戦隊の主力は、各中隊毎に斬込隊となり、中隊長の判断により暗夜を利用して、第一中隊、第二中隊の順に高月山付近と、座間味から阿佐に通ずる主要道路を占拠している 米軍機銃陣地に斬込みを決行することとした。(本部と離れた場所にいた第三中隊には集結命令が遅れて伝わったため、集結できなかった)

各隊は26日夜半に出発し、 別々に米軍の各陣地正面に殺倒 し、機銃掃射の猛攻を受けながらも、中隊長を始めとして群長、 隊員は共々に米軍陣地内にそれぞれ突入し、米兵20数名を殺傷、 重機を破壊したが、 戦隊の損害は甚だ多く、第一中隊長伊藤少尉、 第二中隊長安部少尉を始め、将校の全部と隊員のほとんどが戦死し、または負傷のため米軍陣地内で自決する者などで、この一夜で、別途の戦隊本部、第三中隊も含め、隊員の三分の二に当たる61 名が戦死し翌日午前四時頃本部に帰り着いた 者は数名であった。

この夜の戦闘について、 米軍側の記録は次のようである。 

「座間味では第三〇五連隊第一上陸部隊は簡単に上陸できたが、 内に進むにつれて手ごわい反撃にあった。

真夜中から翌朝未明にかけて、日本軍は銃、拳銃、 軍刀をもって、海岸近くの米軍陣地にきりこんできた。

日本軍の攻撃主力は C中隊を襲い、C中隊も、また自動機関銃や迫撃砲で九回にわたって応戦し、夜襲の連続で一機関銃が数名を交替してうつという激戦をくりかえし、時にはすさまじい白兵戦ともなったが、結局日本軍は百名以上が戦死し、米軍もまた戦死7、負傷12名の損害を出した。」=「日米最後の戦闘二十一頁~二十二頁」)

一方、第三中隊は、秘匿壕が本隊と離れ古座間味海岸の先端に あったため、番所山への集結命令が他の中隊より遅れて伝わった。

このため整備隊の一部とともに、砂浜沿いに高月山に向って潜行中に、27日午前零時過ぎ同海岸で米軍陣地に遭遇した。

中隊はこれを強行突破しようとして、米軍陣地に突入したが、中隊長(津村少尉)及び群長(榎本少尉)及び特幹2名の戦死を出し、なお米陣地の守備は固く突破不能と判断されたため、一応元の舟艇壕に引返し、以後約半月に亘り自重して壕内生活を送った。

<沖縄県公文書館   1945-3-28  米軍撮影  座間味島で捕らえられた日本人捕虜>

 

戦隊本部は番所山から阿佐部落西方の山地に陣地の移動を余儀なくされ、以後小人数による夜間のみの斬込みを行なう方針をとった。 

煙を出せば直ちにグラマンが来る。 

そのため昼は隠れ、夜に行動し、戦隊の一、二中隊、 本部の残員十数名は、27日以後も基地勤務中隊を主力として、斬込隊を出した。

しかし、これに対応する米軍の処置は、予想したより適切であり、敵は巧妙に電気的配線を引きマイク等を設置し日本軍の動きを集音した。

そして、マイクの番号でその位置を確定すると、 そのマイク方向へ迫撃砲、機銃を撃つため、近寄れなくなった。

それでも4月5日には基地隊の内藤中尉以下21名がゲリラ 隊として出発したが、 内藤中尉、 基地隊員数名、戦隊員一名が戦死し、本部の間瀬軍曹以下若干の負傷者を出すことになった。

このように、斬込みの効果も少なく、却ってこの間にも被害が 続出し、かつ昼間の米軍の攻撃は激しくなる結果となった。

 一方前記のように、3月26日以後舟艇壕に潜んでいた第三中隊は、 小野伍助少尉を中心に、4月8日には眼前の慶良間海峡に碇泊する米船団に対し、独断で舟艇攻撃を行なう方針を決め、七隻の舟艇を泛水しようとしたが、 情況が許さず決行し得ずにいる間、4月10日からの米軍の第二次攻撃に伴う艦砲射撃等によって、舟艇は全部破壊されるに至った。

このため小野少尉を始め隊員は、一時はもうこれまでと全員の自決も考えたが、衆議の結果止まり、4月10日夜分散してから 脱出し、 阿佐部落後方の戦隊本部に向かった。

しかし、再度集合することができず、その後は数人宛の集団となって個別に行動せざるを 得なくなった。

しかしこの4月10日から始まった米軍の第二次攻撃は、まず10日に阿佐部落を、次いで11日には大浜海岸、13日には真喜屋武(マチャン)方面と、座間味島全域に及び、海上からは艦砲射撃、地上からは迫撃砲による徹底攻撃であった。

このため戦隊本部及び残存の主力は、更に島の北東部の脊陵地域に移動を余儀なくされた。

この間戦隊長は4月12日、戦闘中に左膝関節に砲弾破片瘡をうけ指揮困難となった。

そのため地隙に後退、各隊個別の行動をとらざるを得なくなり、4月20日に戦隊長から部隊解散の命令が口頭にて伝えられ、組織的な戦闘は終了するに至 った。

<沖縄県公文書館   1945-4-21 米軍撮影 破損した㋹と荷船>

<沖縄県公文書館   1945-4-21 米軍撮影 座間味島の日本人捕虜>

こうして島の全域を制圧した米軍は、4月下旬には脊陵台地に対空レーダーと高射砲基地を設置した。

これにより艦船の修理補給基地となった慶良間泊地に突入してくる日本軍の航空機に備えた。

また一方、座間味部落には慶良間方面の司令所を設け、近隣の阿嘉、慶留間、屋嘉比等への攻撃基地及び近隣の島からの収容者の仮設収容所とした。

このような設備を設置するためには、是非ともこの島を完全に制圧する必要があったと思われる。 

此処に配備されていた第一戦隊はこの意味で悲劇の戦隊であったとも言える。

こうした状態に追いこまれた戦隊は、6月に入ってからは戦隊員及び基地隊員等に、漸次戦没者や自決者、投降者が出るようになり、全く戦闘は終息状態となった。

7月下旬、最後に生存していた戦隊員は島の西北端に潜んで、度重なる米軍の投降勧告を無視していた。 

しかし7月24日突如米軍の奇襲を受け、一名が敵の手榴弾により戦死した。

また、投降呼びかけを無視し続けるならば翌日総攻撃をすると警告を受け、 やむなく近傍にいた船舶工兵の数名と共に特幹3名が翌日投降した。

だが、2名の特幹は投降せず島の西北岸の岩山に終戦後一年以上も潜んで頑張り続け、21年10月末に投降した。

特幹一名(清野正夫)はチシ海岸付近に潜伏していたが、 4月20日の部隊解散の命を知り、又、4月29日(天長節)を期して友軍の反撃があるものと期待していたがこれもなかった。

そこで、島を脱出して日本軍の健在な処にて再起を期すべく、同行していた戦隊付き下士官間瀬軍曹と計らい、基地大隊の下士官、兵5名と共に4月29日夜、筏により島を脱出した。

しかし米海軍艇に発見され、銃撃を受けて筏は全壊、間瀬軍曹以下5名は海上戦死、清野伍長と兵1名は辛うじて座間味島西南の屋嘉比島に泳ぎ着き、島民の保護を得て此処に潜伏、終戦を迎えた。

<沖縄県公文書館   米軍撮影 座間味島>

<沖縄県公文書館    1945-4-21 米軍撮影 米軍占領後の座間味島>

 

12.4.水上特攻

座間味島での戦闘で挺進戦隊の㋹に関する資料が見当たらないが、渡嘉敷島に陣地を構えた、第三戦隊員の㋹に関する証言と、阿嘉島の元青年義勇隊員の証言がある。

大町司令官

沖縄守備の任にあたったのは牛島満中将が指揮する第32軍である。

沖縄方面に派遣された挺進戦隊は、その第32軍の指揮下に入った。

この挺進戦隊を指揮するのが第11船舶団長の大町茂大佐である。


3月25日、午後8時に渡嘉敷島の第三戦隊長だった赤松嘉次大尉は舟艇の1/3の泛水を命令した。

午後9時半に那覇への転進命令を受け、その後全舟艇の泛水を命令する。

午後10時に大町団長が赤松隊本部に到着した。

大町団長は那覇への転進命令を知らず、泛水中止を命令し、団長の那覇護送を要求した。

赤松隊長は、作戦遂行を主張したというが、大町団長は、我々がやりそとねると、沖縄本島の二八戦隊全体の作戦がおじゃんになると出撃を中止をしたと、噂された。

紆余曲折の末、全舟艇の沖縄本島転進による団長の那覇護送を決定し、再び泛水を命令した。

しかし出発準備が完了したのは夜明け前であり、もはや米軍に発見されずに沖縄本島への帰還は不可能となった。

大町団長は全舟艇の揚陸を命ずるが間に合わず、結局揚陸できたのは2隻、他は自沈させることになった。

大町団長は26日夜残った特攻艇2隻で渡嘉敷島を出発し消息を絶った。

28日には渡嘉敷島で住民の集団自決事件が発生した。

 

㋹隊員の証言(抜粋)

3月23日、早期から始まった空襲は24日、25日と続いて、激しさを増していった。

25日には駆逐艦を先頭にして、巡洋艦、潜水艦と20隻ばかりの米艦が慶良間列島の内海に侵入してきた。

基地隊は「出撃準備せよ!」と各中隊に連絡し、隊員は、爆雷を点検したり、給油をしたりして、最後の調整に余念がなかった。

夜に入って 、泛水作業(​​艇を海面に降ろすこと)が 、軍民一体となって行われ、水盃をかわし、基地隊は、重機を構えて、背後から援護射薬にそなえていた。

泛水も無事終わって、隊員たちは機関銃を抱えて、今か今かと、出撃命令を待っていた。

しかし、その時に内海にいた敵艦は、哨戒艇一隻で、他には何も見当たらなかった。 

このことを、隊長に報告し、司令部へ敵艦の所在について、指示を待っていた。

帰ってきたのは「赤松隊は、本島に合流せよ」という命令だった。

気の早い連中はモーターを回転させて今にも飛び出して行かんばかりだった。 

行く者も、見送る者も緊張の瞬間だった。 

しかし、折から慶良間列島視祭で渡嘉敷に来ていた大町司令官は 、泛水を中止し、すみやかに揚水するよう、命令した。

勇躍出撃しようとしていた隊員たちは、気をそがれて唖然とした。

250キロ爆雷のついた舟艇を海面から引きあげ、レールにのせるだけで隊員たちは精根尽き果てた。とうとう米機グラマンの飛びかう中に、その秘密兵器の姿をさらけ出してしまったのである。

どうにか一部は壕の奥に隠したが、揚水出来ない多くの㋹艇は 、破壊してしまわなければ ならなかった。 

だが、隊員の一人は「出撃する」と言い張って聞かなかった。

隊長の命令でも聞けないと、言ってまさに飛び出さんとしていた 。 

隊長は、その㋹艇に穴を開けた。

その隊員は、艇もろともごぼごぼと沈んでいった。

すぐさま、他の隊員は海底で梶を握っている隊員をひき上げた。

これで、我が隊の当面の目標「敵艦百隻撃沈」は遂げられぬまま、むなしく終ってしまった、と嘆いた。

目標を失った若者たちは 、酒を飲むしか仕方がなかった。

 

阿嘉島の元青年義勇隊員の証言(抜粋)

特攻隊の艇は、最初の砲爆撃でほとんどたたきつぶされてしまって、残っているのは、慶留間の北海岸にいる第一中隊だけでした。

ここは敵の攻撃は反対側の南側からやってきていますから、 島かげになっていて無事だったわけです。

そこで、26日の斬込みの晩に 、篠崎伍長が慶留間に泳いでいって、出撃命令を伝えて、27日の未明に四艇が出撃したそうです。

これによって、米軍の駆逐艦とか輸送船にいくらかの損害を与えたようですが、そのことはそのときすでに米軍の捕虜になっていた柴谷中尉から聞かされたわけです。

柴谷中尉がアメリカの船艇からスピーカーで投降勧告をやるときに、その話のなかで、全慶良間から出発したのはわずか四艇であると、損害もこれこれの程度であると、山の中の日本軍に向ってわ
ざと知らせてきたわけです。抵抗が無駄であることを言 いたかったわけでしょうね。

 

<続く>

<前の話>    <次の話> 

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「物語(望洋)」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事