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「悲しくて明るい場所」曽野綾子

2023年08月10日 | 本 レビュー

「悲しくて明るい場所」曽野綾子作

1992年9月の作品で、もう30年以上前に書かれたものなんですね...

この作品は作者自らの体験を綴ったエッセーで

これを初めて読んだのは、かなり昔のような気がします。

 

私はミステリーが好きでよく読むのですが、謎が解けてしまったら再読はあまりしないせいか

本がたまってくると、売ってしまうことが多いです。

その点、エッセーは時間をおいて読むと、また再発見などがあるため

お気に入りの作家の本はほとんど手元に残しておきます。

 

「悲しくて明るい場所」は結構印象に残っている文章が多くて今も手元にあります。

 

こうしてみると表紙の絵もなかなか意味深でいいかもしれない...

 

全24章からなるエッセーの中から、印象に残った箇所を紹介します。

第2章 太陽がオレンジになった日

この章の中ではサハラ砂漠を縦断した時の体験が書かれています。

曽野さんも含めて6人で、2台のニッサン・パトロールで6千キロ余りを

23日間かかってアルジェリアのアルジェから、象牙海岸のアビジャンまで走ったそうです。

 

隊員を選ぶときの条件として、エジプト考古学者の吉村作治氏が言ったことは

「不運な人でない」ということだったという。

砂漠に一人不運な人がいると、同行者総てが彼の持ち込んだ不運のため死ぬからいけないというのが

吉村氏の意見だったという。

 

うーん...これを読んだとき、いったい何をもって不運というのだろう?と私は大いに悩んだ(-ω-;)

それに不運は本人のせいではないぞー

別に私はエジプトに行きたいとも思わないですがねー

(ちょっと怒っている私)

たぶん、それほどまでにサハラ砂漠縦断は命がけってことなんでしょうけど...

 

 

第19章 ハーブ・ティーの幸福

曽野さんが近東の或る国へ行った時のことである。

貧乏な生活の実態を見てくれ、ということで、あるパレスチナ人一家の家に連れていかれた。

一家はほとんど稼ぐ人がいないとのことで

その家は庭と、庭に面した部屋の一部しか残っていない。

 

その家の乱雑さは掃除などしたことがない、日本でいうところのごみ屋敷のような家だ。

その家には、庭もあったが、それも荒れ放題で、何か果物らしいものが数本生えている。

 

曽野さんたちが着くと、20代後半の男が来訪を喜び飛び出してきて

不潔そのもののクッションに座れとしきりにいうが、曽野さんは気持ち悪くて、あたりを見るふりをして

座るのをごまかしていた。

 

本文より

「その男は少し異常な人だったのである。

どういうふうにおかしいかは、言葉が通じないので、私は詳しく報告することができない。

ただ彼は私たちを客に迎えたということだけで

声がうわずるほど興奮して、しゃべり続けていたのである。

彼は独身で、誰もほとんど訪ねてくる人もなく

ただその辺を天国のように歩いている幸福な一群の猫の飼い主なのであった。

 

いや私たちは彼の妹だという痩せた女にも、かなり年の離れた弟にも会ったのである。

弟は赤い髪をした7、8歳の子で、その荒れた庭で遊んでいた。

妹はまもなく生まれたばかりの赤ん坊を抱いて来て、得意そうに私たちに見せたが

そうすると、彼女の弟は張り合うように生まれたばかりの猫の子を持ってきて見せる、という按配だった。」

本文終わり

 

 

その後彼らは曽野さんたちにお茶を出してくれる。

運ばれてきたお茶は、厚手のガラスのコップに入っていたが、日本人が言うハーブティーで

曽野さんには大変おいしく思えたそうだ。

それは庭に生えているペパーミントを取ってきて、お茶にしているのだという。

 

彼らと別れるときが大変だった。心から曽野さんたちが来たことを喜んでくれたのである。

「また、来てくれ」という言葉が、アラブ人特有のお世辞だとは、どうしても思えなかったそうである。

 

曽野さんにとってあれは、「幸福な家庭」だったのではないか、と時々思いそうになるとのこと...

 

幸せって人それぞれの感じ方で変わってきてしまうし

はた目には不幸せに見える人が実は幸せだったり、何もかも恵まれている人が不幸せだったり..

だから安易に判断できないし...

 

「ハーブ・ティーの幸福」の章は、貧しいけれど、人間らしさを失わない家族が

おそらくは幸福だと、私も感じましたが

そもそもこの家族は、幸不幸なんて考えていないし、ただ一日一日を生きている。

誰かと比べることもなく、あるがままに暮らしているだけではないでしょうか?

案外、幸不幸のヒントはこういう暮らしの中にあるのかもしれません(私自身の感想)

 

ところで、最初に紹介した「太陽がオレンジになった日」の章で

私が「不運な人でない」について大いに悩んだ理由は

不運な出来事も何年後か何十年後かには、その経験のおかげで救われることがあるかもしれないということ。

どの程度の不運かにもよりますけど、たとえば人にだまされたりすると

その後は物事に慎重になったりしませんか?

あと、自分の頭で考えるようになるとか..

(これ、すごく大事なことだと思う)

 

吉村氏が言いたいことと、たぶん論点はずれているのだろうと思いますが..

まあ、この点についてはいろいろと考えてしまいますね(;^_^A