花鳥風月、、2023年からの第二の日記

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

政治音痴のお茶の間から思う、日本の医療

2023年12月15日 | 日記
世界は周期的に、、、

戦争を繰り返し乍ら

人間社会は 「近代化と称して、、、」

      軍事的な武器が 
         破壊力が強くなって

周りの国が、その武器を見て、
軍事的な備えがあると認識するように
、、歴史のルーツは

一つだった国も
2つに分割されたり、、、
   お互いにけん制し合って、、、
付かず離れず、、、戦争を避け乍ら、、

経済的な的友好を維持することに
      誘導されてしまうのかもしれません。

        

商人の心は、経済優先に、
国の生き残りを考えるような、
国民外交を続けながらも
国家に監視されながら
    坂本竜馬だったら、、、どうしただろう?
   沈んだ船には、はじめから、、、荷物は無かったのか?
   歴史研究者は、、、喧々諤々、、、正解はワカラナイ。
お茶の間は、、、坂間に食べられたのだと言われたら、
  大真面目に、、、その魚は「サメ?」と、問うかもしれない

近代化と称する「情報国家」が
   「ITの判断」で、
取り返しのつかない、、、
    パソコンネットやデジタル世界では
         合法的な過ちの結果の集積が

ITに、「正しい結果」として、インストールされてゆくわけだから

誤差では済まない、、、
考えられない結果が起り得ると
           危惧するのは

お茶の間族の、、、、「とりこし苦労」だろうか?
                      

フェイクニュースにあふれる今日、
それらの中から、
     真実としてデータに採用されてゆく
         多くの「偽真実」は

           「IT]によって、、

         「全くあたらしい考え」として
                      合成されて行き、

  鏡と鏡と突き合せた時の
        「ミクロな光の屈折の誤差」が

     積み重なって、
      新しいデーターとして、、、
          {IT文化}が

       「住民権を得てゆく時代」が来た。

誰だって「宇宙戦艦ヤマト」に乘りたい!!

あの女性は、、、お母さんだった、、、!!なんて!!
   
大谷選手のホームランボールを、
 3階客席でキャッチできている写真だってつくれるんだから
    大谷選手の隣にあって、握手する写真が欲しい。

      《IT》にとったら簡単な事だ。

タッチひとつで、、、若くもなれるし、、、美人にも成れる。

      

    この写真の「ダッコちゃん」を、、、       
          消し去って、、、
            北海道の「ヒグマが笑っている写真」にすることだって

      やろうと思えば、、、
      なんだって
      嘘が流れる世の中に
           出来るんだろうと思うと

     恐ろしい。

   東京大震災のNHKの、、、3時からの放送を観ていた。
    色彩のついた、、、記録映画だった。
     色彩のついたニュース映画のない時代のフイルムも
    デジタル技術は「魔法使いだから、、、どこまで本当なのか?」
    「関東大震災の記録映画」は、再放送して、ほしいと思った。

     多くの国民が観ておいて、、、
     家財道具とともに避難することの怖さを
     学習することだと思いました。

   安全なはずの広場に起きた、、、「火炎流、、、炎の竜巻、、

     この画像は、人間を巻き上げて、

       お熊の炎に編集することだって駅る世の中になった。

    NHKは。。真実の実を編集していると信じられるから、、、ね。
      、、
      
      時には合成され多であろう写真のように見えるものだって、、、
          NHKは、科学技術で、、、フイルムから浮き出させた本当のシーンだと
            背爪が入った。
              信用できる番組だと思っている。

       土曜日のTVの感想が、、、自分のサイトだと、
               こうして、、、
             それ以前の記事の中に追加して書くことだって出来る。

            誤字脱字が多いので、、日曜日に推敲訂正しています。

          ついでに、、昨日の土曜日に診た3時からの「東京大震災」の感想が入ってしまいました。

        ITだったら、、
           注釈なしに、、、
               何でもできるし、、、
                    誤解も起きるでしょうね。!?


        ニッキサイトに、、お立ち寄りの方には、
         日記帳と、、個人的な記録のサイトだと、、、、読み流してください。

      
データーがITによって、、、一人歩きを始める時代に

 詐欺師ばかりを責めている場合では無い時代が来ると危惧する。 
 
 すべからく、、、画像という画像は、、、色も形も、、被写体も
    消したり加えたり、、、色さえ選べるのですから、、、

      もはや創造物に近い
            感性の共通価値が
                    基準になってしまいますよね。

    面白ければ良い、、、? ドッキリカメラであれば良い?

    黒田勘兵衛のように,、策士であれば、、、

         策士,ハ、、
        、自分が合成した「IT作品」の
          一人歩きの結果に負けて
             廻りまわって、、、作者も騙されて
              敗戦する時代が来るかもしれない。

        世の中は、、茶番だと、、、言える問題もすでに起きている。

ごく最近の
    
       「IT 作品への、、、ちょっと待った!!。。。問題」は、、、

          「美人」が、「美しい声」で、
        しかも「聴いたことのある声」で歌うという事です。」

 著作権も何も、、、声は特に、目下の所、、、禁止事項右派見当たらない。
        、、、人の声を使える時代ですから、、、

     誰の所有の声だという、、、
        規則でも出来ない限り、、、
           防ぎようがありませんよね。
     

            
   

   全ての世界は、、
   、お馬さんにキツネがマタガッて、、、
          ヤブサメの的を射ぬいて

   「弓の名人になれるかもしれない時代」がやってくる。

           
「心は置きさられて、、、
     コンクリートジャングルの中で

       「IT」の作曲した曲を、、
          ITが創った楽器で、、
           、ITの作った偽装空間で
              「谷村さんの声で、、加山雄三の歌として、、、作品が出されても、、

                       ファンは、、いいね^^^~~~~♪トいうダロウ。

       ぼか~~あ、、、しあわせだなあ~~~~って、、 
       谷村さんが、、、特別の日だけ,、、加山さん遺なるかもしれない。

      こうした試みは、、ファンは喜ぶかもしれないけど、、、

          声の法律規制って,、むつかしいよね!!

        デジタル人形のアイドルも、、、若者の間では人気があるが、、、
                誰の声なんだろうね???

   夢のような舞台が演じられ、、皆,、

               💕あばたあ^^^^💕、

    NHKの朝ドラの、、BUGIBUGIで踊るのは、、
、ITのつくりあげた人間モドキの人形の踊???


こうした偽装空間の、、偽装の人物が放映されてくるTVを、、、

幼い子供たちは、、
    現実と見分けをつけながら成長してゆけるのだろうか?


 大げさに表現するのなら
  「ウソの世界を生きてゆかねばならない子供たちに

      素朴な「真摯な心が伝えられるだろうか?」
               
   こっちが良い!!という、、、、、世界は、、、

   いつも 。。。   「ITの作った《偽装宇宙の銀河の家での星のケーキ》」

      
        
  80歳になろうとする婆ちゃんには、、
               楽しくて仕方がない画像でも、、、

    子供達への影響は、、、
    とんでもないプログラムを創る
     若者が現れるのではないかと

Uチューブの世界も、、、
  要注意の時代がやって来たように感じてしまうのは

   昭和生まれだからでしょうか???
  

   
歴史は繰り返されて揺れながら、、、
世界の均衡は

情報戦争という時代に突入してゆくように
お茶の間からは見えるのですが。。。

       

        現実の世界を、、ばかばかしいと思う前に、、、
            ばかばかしい、、現実が、、、現実の人生である以上

                ばかばかしい繰り返しに、、、
                      生きてゆく意義を見出す必要があると
                         思うのですよね。

       

            毎日雪を搔き、、雪山を造り、、、

               愚行、、山を移す人生が

              女性の家庭主婦だとすると、、

                 ITの世界は、、
                       羽根が生えた、、、
                           我がままが通用してゆき
                                   現実世界に閉ざされる事のない
              
               仮想世界を生きれることになる。

               

        
           18歳の少女に戻り、おとぎの国を旅ができる

                 数多―の世界、、と書いて,、、「あばた~~~」と読めばよい!

                 (^^)☝

      女医になって、人間の身体の宇宙を、
         人生かけて探検したかった私と、、、
         医師になる人、、適性が大切だから、、、

                適性から言うと、、、
                  私は

       、適性から判断されると、、
      落第であると思っている。

     公的に貢献して、
       使命感が強い医師になっている人たちとは
         明らかに異質で

            私に関する限り

         「自分の夢が先行していた。

     神様は、、試験に合格しても、、、周りのサポーターを一切剥奪した。
    旦那が、、、浪人しても、、国立一気の医学部にこだわったように

     私はこだわる事もしなかった。

     男尊女卑の世の中で、、家族の風と反対方向に進んでも
       途中挫折は火を観るよりはっきりしている。

       2歳の時、、、五体満足に生まれている私は
         医師の奥サンの、、上から目線に誤解された縁談お世話で
        娘,、、幼い、、、2歳の娘に、、、とばっちりが来た。
     戦場で、多くの死体があり重なる塹壕で、、、死体に守られて静観した父は

      軍医の時代、、、多くの傷病兵を助けることが出来なくて

            手を握ったまま、、、死体に囲まれた経験の持ち主であるからだろ、、、

    此処rは普通の医師とは、、、全く違っていた。

     右手の手当てをしてくれながら、、、

      タマムシの厨子の話をしてくれた。

         こんな綺麗な厨子の横の絵は、、、腹をした獣に、、、

             自分の手を、、足を,、身体の総てを、、食べさしてしまった
           絵が描いてあるんだよと、、、父は言った。

         戦後の日本は、、すさんでいるから、、、

            当たり前に食べてゆける医師の娘が
         運が良すぎると思えるのだろう、、、、人間って、、発作的に

            何をするかわからない時代だからね、、、

            決して、、相手を恨んではいけないよ、、、」

      父はそう言って、、、当時、、部落から免許を持たない看護見習いが来ていましたが

     自分の願いであるように、、父は准看の講習に通ってもらい、
          その娘さんを、街の醫院に就職させる形で、、村の診療所から、、遠くに行ってもらうという
      こころが、痛まない方法で、、、後は
      医師の娘である以上、、障碍者としての人生を送らせる事はくい止めて
          必ず治してあげるからね、、、、、、と。。。

        17歳になるまで、、、7回の手術によって、、
       私の右手は甦った。

        団子だった右手は、、、「エリーゼの為に」、、、すぐに演奏できるようになった。

      乙女の祈りを,、演奏し始めたら、、、右手が、、一オクターブの幅に開かない、、、

    結婚の時に、、母は、、、ピアノを持たせてくれたが、、、
         子供達の楽器として、、、覆いに役だったが、、、

        私は、、、 弾くことが有っても、、、心は、、、何故か?

        娘にピアノを持たせた母の、、、
            当時の医師夫人の、、
                疎開地という田舎では
                 別格扱いされ多であろう、、、
                   ヒトの心の裏表が
                       空しい時がある。
     孫になるだろう、、未来の為に、、母はピアノを持たせてくれたことは
                解っているのだが、、、 
                  母は、自分で買ったグランドピアノは
                    音楽で生きていたお弟子のひとりに、、、遺言で贈ったと

                         弐番目の兄が言っていた。
     ダンナさんの家は、、音楽が無いうちである。

       ダンナさんの弟さんの家庭は、、、お子さん方が、、、CDを出しているほど
       音楽に親しんでいる。息子達も二人とも、、音楽は大好きである、、、

           私と、、旦那さんは、、、何故か、、、?

           キタラにて演奏会で、、、人様の演奏を聴くだけで

         自分で楽器を奏でて、、、合奏するという事は、、一度も無い。

        ピアノの部屋には、、メダカを50匹ほど飼育していて、、、

           ほのかに、、「ドブの匂いがする。」

         、、母は、、ピアノの部屋は防音をして
             明治時代の書斎のように、、、腰あたりまで,、オオク朝の色彩の板の壁で

               そこから、、白い漆喰なのだろうか???

                 音の反響を考えた白い壁になっていた。

            唯一、、お弟子さん衣貰った七宝焼きの壺が

                  母の生前の送り物として、、、家を建てた時に

                                  贈られてきた。

          華やか過ぎて、、、我が家には、、置く場所がなくて、、、

               孫に嫁さんが来たら、、、もらってもらおうと

                   大切に、保存している。

           母の趣味は華やかで、、、私の趣味は、、、山登りで

                 母と娘でありながら、、、結婚を機に、、、

                    20年以上も、、会わないまま、、、

                   死に目にも会えない北海道で、、、

                  なぜか、、、私の体内に、、母は住んでいるのを感じるから、、、

                    母子というのは?
                     母娘というのは、、、 幽体になっても、、、

                 まじりあって生きているのかもしれませんね、、、?

              そうでなければ、、、

                友とも別れ、、兄弟とも別れ、、、
                  元来の専門職も離れて、、、 50年以上、、、

                       寂しさを感じる暇のない時間が過ぎて行ってくれるのは

                 可笑しいでしょう、、、?

                ダンナさんとは、、子供の出産を契機に

                男と女の関係は卒業して、、、
                  「医師を知ることに夢中人、、、と。。

                    医師をすることの実現の為に、、、全力投球でサポートの

                        便利屋のプロの人生になろうと、、
                           ある種の仕事に生きている自分んが居るだけで

                   良い子たちが育ちましたが、、、

                  世間から観ると、、

                「せっかく、、お医者さんと結婚してるのに、、、
                    なんで?、、化粧もしないで、、外出もしないで、、、

                       庭ばっかりほじくって、、、

                          長靴をテープで修理して,、履いてるのよ??

                げらげら笑われることもありますが、、、

                      一緒になって、、ゲラゲラ笑い、、、

                    「ほんとだよね、、、医者って、、医師になってから、、、サポーターが必要な
                      舞台裏の助監督のパシリが居る仕事だなんて、、、

                     政治家も、、税務署も、、社会も、、、絶対に、、気が付かないという

                   頭のエネルギーを使い果たして帰ってくる自宅は
                       ブラックホールになるほど、、、

                     裏を担当する者の、、、地味な 具体的なサポートと、
                      仕事と割り切るが報酬を望まないという

                       ある種の、、医師をするものの、、、奴隷状態の奉仕が無いと

                      命を相手の、、、モンスターに育った
                         患者様の、容貌には答えるエネルギーが欠乏するでしょうね。

                   患者様、、、、と呼ぶのは、、、何処か???

                   医療行為が政治にも、、民間にも、、、メンタルな部分が
                    理解されていない結果のように思えるのですよね、、、

                   政治は、労働省に医療を分類しているし

                   治療は見える部分の評価に偏っていますが、、、

                    家庭という、、舞台裏から見ていると、、、

                    著名な野球選手が、、いつも、、、野球のボールを握ってい居たというように

                  医師が病院で働いている時間だけが、、、医師をしている時間だと考えるのが

                   外側の評価だとしたら、、それを支える裏側のサポーターは

                    黴菌やvirus満載の、、患者さんが相手ですから、、、

                         病院という、、病原菌のメッカからの帰宅する家庭は

                     ヒビテン(消毒薬の一種)、、家次亜塩素酸や、、、コロナt時のvirusカットを

                  結婚当時から常備して、、手洗い,はじめ、、
                  布団や枕カバーの選択もホテル並みの交換ですから、、、

                   私は、、コロナは、、いまだに陰性ですが、、、

                   去年の夏、、コロナにかかったダンナさんは

                   自宅療養しながら、、、復活してゆき、、、後遺症は残らなかったようですが

                  園かンお運動不足で、、足腰の筋肉が弱くなり

                  タクシで通っています。

                  月給はコラナに書かK手の年度替わりには

                  19万円まで、、、下がりましたね。

                    壱週間い通う日時が壱日になったから、、、

                   復活もはやっかったですが、、、

                 このままでは年金暮らしの方が、、生活してゆけるので

                 来年は止めることになっています。

                 何年か休んで、、、未だ働けるような足腰になったら、、、

                   復活を考えるといいですね。

                 coronaになった医師は、、

                 ロキソニンを飲みながら、、頑張る何か月が、、、あり、、

                 やがて治癒してゆくようですが、、、

                「患者さんという、、命を預かる仕事だけに、、、

                   義務感の強さには驚きました。」

               最近は全治したようですが、、、

                   仕事や目梨ト、、毎日言っていたのは私の方でしたね。

                  やっと、、医師をするという事だけが生きがいのダンナさんも

                   人生は仕事だけで終わるより、、、

                 2年や3年は、、、孫子や家族と、、思い出作りするのも

                「命」をも洩るKトだと思いませんか??

                バランスよく、、人間をやりながら、、、

                  大往生するのも、、、人の道かもしれませんよね。



                    

                  

           
            
               
            「人体の宇宙探検」の願望の方が強かった
  
    とり残されている日本の心、、、
       とり残されてゆく、、、小さなお城、、、
    ゆるり、、、ゆるり、、と、、、時代は近世に向かって行く
    時代の中、、、生き残ってゆく次世代への価値感の世界に
     間に合わないサムライ達。

      

      兄は、東京の都民となったのは中学3年の時である。
      私はともんとなったのは小学校6年麻四月である

      兄は神経質なほど、、、周りの学生と自分の違いを感じて
      自然体で勉強する事よりも,、勝とうと知る勉強の仕方だった。
      私は、、教科書そっちのけで、、、中学校の正門前の図書館で
      その日その時に目についた、、、
                  興味の持てた本を、、、
                        昼休みの何日かで読み通しては

      その日の気持で,、題名の気に行った本を選んでいた。

          中学生なのに、、、宵待ち草の詩に、日本女性の心の世界を感じたり、、

      知識知識に走る教科書の知識欲も、、、それはそれ、、、、

       夢二の手書きのスケッチの筆タッチに

           こころで描いた、女性を見る目を、、、抒情ととらえていたㇼした時代だった。

しばらくは夢二にこだわっていた。

         ペラペラの青春の詩とは、、、どこか違っていた。

      感性の原点は、決して、、理科系の、、幾何学的な心の女性では無い自分を
          多角的に自己内観で来た本のおかげは、、、80才を目の前にした今も

        忠臣蔵の毎年のTVに、純粋な日本人の心の涙が止まらない。

       内蔵助が、、、城のあけわたし、、、迄に観察する後家来週への篩の懸け方は

             かたき討ちの本会を遂げる為の篩でもあると同時に

            城が無くなっても、、、、つぎの自分の生き方を出来る家来衆を

                 速やかに 藩札をお金に交換して、、第二の人生の応援の政治。

            忠ならんとすれば,、孝ならんとする,、、迷う家来衆を
          第二の人生に行かせて切り離し、、、

             殿への殉死をするという、、、弐君に使える心を持たないサムライたちを

          切腹するからと、、集めた席で、、、仇討の心を切りだすあたりは

            西郷さんの「最後まで、、、明治維新に順応できないだろうサムライを連れて

                   戦ったのだという、、、納得と、、、我が人生に悔いなしという

                       短くても「生きた証の戦争で、、、

           新しい明治維新の時代に生きてゆくことのできない「サムライ」の
                 サムライらしい、、、死に場所と、、、生きたんだ!!と納得するような

               人生を体感させながら、、、適応できない若者たちと
                  あの世への旅に発ったのではないかと,、勝手に思いながら

               西南戦争の本なども読んでいたが

            大石内蔵之助の心は涙を誘う、、、時代物の心ですよね。


        こんな感動的なTVを観ていても、、、
            ピンポ~~~ンとチャイムがンレバ、、、TVはそこでストップ。

社会からとざされて、、、
ダンナが帰宅すると、、、100度のお湯にマスクを浸し

靴下は裏返して、次亜塩素酸駅に付けて
厳寒で脱いだコートにも、靴にも、、virusカットのスプレイをして

   ただいま~~と帰宅の姿には、、、 TV何所ではない
  零度の冷たいコートが、、 重たく玄関でvirusカットされる。
     この瞬間から、、、主婦の現実の、、家庭勤務時間が始まります。

玄関い吊るしたまま、4時間消毒スプレイの匂う玄関に放置してから
寝る前にストーブの傍のコート掛けに持って来て、、、
温かなコートで、明日は出かけられるようにと、、、
    コートを移動させる。

本来お茶の間を任された主婦は、、、
 外の世界が見えていたはずの女性が

とざされた世界で、
  孤独な家事に24時間背たり起きたりの
       仕事に振り回されながら

 出産、育児、、家事、、買い物、、掃除、、洗濯、、

   保存食の経済とにらめっこの計算
 
緊急事態に備えての、、、
           📰3面記事の確認と、、、、
                大谷選手の記事に緊張のほほが緩んで

   そこだけ切り取って、、、壁に貼っておく。

  あとで読もう、、、と。,

 朝の、、ダンナさんの起床時間に、、前夜の洗い物は全て片づけて
    台所の滅菌消毒を済ませて、、排水管には洗剤の泡を流し込んで

    ごみネットはビニールに入れて小さくたたみゴミと一緒に捨てに行く。
   早朝のゴミ捨てに行くついでに
    雪を搔いて、、滑り止めの砂を撒く、、、、

  ダンナさんと出会う直前までは、、、薬剤師として
    勤務して、自給自足が出来ていた。

      結婚は 等分する気も無かった。
     30歳までに 社規に通用する自分を鍛え上げて、、キャリアウーマンとして完成させねばと
    時間の使い方を 、細心に考えて、、「敵は時間だと、、、思っていた。」

    しかし、、、未亡人の母を安心させて、幸せな日々を送ってもらうためには
     自分が女医にならなかった以上

       54歳で死んでしまった外科医の父の代わりの医師を連れてくるのが
            明治生まれの、、母の 、、医師の妻として、、
             奥様として出来上がってしまっていた以上

       医師と結婚して、孤独な後継者の内科医の兄の心を、安定させるためにも

        投げかけられた「自分は東京に帰ってきます。
                  博士号を許されたら、、、東京で、働きたいのです。」

        そういうような新卒の医師が、、母の前に現れてしまったのでした。

        母は、開業を法人化して、、、社員として雇用の悩みを亡くしたかったのだと思いますね。
       私は女医になって独身を通されて、、、最後には男の子3人の邪魔になるよりは

      医師と結婚して、相続の外側からの社員としての立場で

        働いてくれる外科医と、出逢ったから、、、
         結婚して、外科医を期たるべき時には、、我が家に連れて来てくれれば

           お前も家族同様、、我がままの効く時間帯に働いてもらうから、、、

                 子育ても、、住宅も、、離れが壱件丸々使えるというのでした。

           私の頭の上を飛んで、、
            ダンナさんは母との結婚お話を、
               単独で了承してもらっていたのでした。

         此処には、、、明らかに、、父が早逝した後、50代の母は
             未亡人に徹することが出来ないで

             英雄は死なず、、、立ち去るのみと、、、

              兄に全部を譲って死んでしまった父の現身を、、、 
            娘の結婚によって、、、現役のまま 
          兄とダンナさんと、、やがては合流できる弟と、、、

          居候だった姪っ子に、、、兄の同級生との結婚によって
           外側から駆けつけてくれる医師を周りに置いて、

           母は、、実際は、、兄の後見役のように、、現役の存在だったのではなかろうか?

          此処には戦後の、、男尊女卑が、、相続の事でも、、、
           一斉女性には、、関わらせないという、、、

              法の木俣男女平等なんて、、、無いに等しかった時代であった。

          北大で、、しっかりと、生きてゆけるという勤務医の立場を確立した段階で

           ダンナさんは、、母との約束を守らない方針で、北海道人になっていった。

          本州の医師の娘の私と結婚したことが、

         北海道での永住に役に立つことが有れば、それはそれで、、上手に受け入れたようだった。

   札幌で仕事を始めた家内の都合は一切考えないという、、、
          自己中心的な、
           医師をすることだけに絞った生活が始まった。

    北海道で生きると決めた以上、、、
          男の人生は、、
           こんなにも本州を切り捨てられるのかと、、、

        生き残りをかけての、、、北海道第一の人生が始まったのでした。
    
いっさいの故郷の行事には参加しない、、、
   故郷は切り捨ててゆく、、、
        家内が風疹で40度の熱が出ていても
          幼い子供二人、、居るのに、、、
            難位置も当直で帰らなかったり、、、
         子供が、、麻疹にかかって、、40度の熱があっても

        車は置いて行かない
         当直で帰らない、、、
          何日も家を空けて病院泊まり、、、

          自分尾ことしか考えないのが、、、大学勤務の医師だったんですね。

         開業医に育って、、毎晩父の姿を見て育った私は

          勤務医の仕事に対する打ち込みようが

        問答無用で、、家庭に適応される人生は

        家庭生活は、、、夫唱婦随というような、、愛情中心の物ではなくて

          想像以上の、、、仕事中心がまかり通してしまうので

         家内の方も、、、だんだん考えが変ってきましたね。

          リオンの群れは雌ライオンが働いて、、雄ライオンンが居るというだけで

         他からの雄ライオンが子供を食い殺してしまうのをふさいであることを
          NHKの番組などで見るにつけ、、、

          「ダンナは元気で、、、、留守が良い、、、」と悟れるようになりましたね。

          単身赴任の弐年近く、、、一度も旦那さんを訪ねてゆきませんでしたね。

         むしろ、、、国立病院の医長を辞めてしまい

        開業医の経営する、、、ビルが壱個だけの病院に勤務したときは、、、

             孤独に弱いのはダンナさんの方だと判り、、、

               息子達にも、、将来の嫁さんは、、、
       爺ちゃん婆ちゃんの世話をさせると、、、旦那が捨てられると思ったのは、、、

        助成は子供が居れば、、、旦那さんは 元気でさえいれば、、、

          地球の裏側に居ても、、、時々顔を見せに戻ってくれば

           女房は、、平気だと、、、 実感しましたね。

         男尊女卑と、、社会的には弱い女性ですが

         孤独に強くて、、、旦那の単身赴任中は

         正社員い戻って、、、留守を良いことに、、、

          設けたお金は、、、一切貯金しないで、、、

         子供達と、、楽しく過ごしましたね。

          子供は、、家をほったらかしている母には

         文句を言っていましたね。
    下の弟の方は、、、夜の北気宇が10時ごろになった母に向かって、、、

         行き成り泣き出しましたね!!。

       「母さんはいつも弁当を3食ツクッテ、、朝早くでかけて

            夜遅く帰ってくるけど、、、

        「弁当を「チ^ン」して、、湯気が出ていれば

              暖かい夕ご飯だと、、思っているのかよ!!!、、、わ~~~~ん」
      弟は。。わんわん泣き出したのでした。

       ダンナの単身赴任は、、、こんなに自由なのかと、、、自分尾仕事に
           力いっぱい情熱を入れて、、、社員に薬事法など解説していたのに
        帰宅すると、、、意外な事に、、、息子達のブーイングに有ったのでした。

        お兄ちゃんの方は、、、母さんが居ないので、、、ゲームばっかりやって

         友だちと遊びまわっていたら、、、こんな成績になっちゃッタけど、、、

         安心してくれ、、、懲り情下は無いから、、、と

         母への不満の表現は違ってはいるけど、、、、《反省させられましたね。

           父もいない、、、母もいないがらんとした家に、、、

            弁当が60っこ、、、

             友だちが来た時にと、、おにぎりが、、お皿イッパイ、、、

             我が家が溜まり場になってくれれば一番安全だと思って 、、、好きにさせたつもりが

             子供達の心には、、、木枯らしが吹いていたんですね、、、。

         男尊女卑ではなくて、、、女性は、、子供達を選んでいたのですね、、、

         その時から、、私も、、、家庭婦人という、、、かごの鳥を

            自らの運命だと思って、、、家事に徹するようになりました。、、、

  

こんな繰り返しの人生は、、、
   女性の判断力も、、視野も 希望も、、、
     家庭中心、、、

ダンナさんの仕事が出来る環境を第一にと考えるように誘導されて

    気が付いたときは80歳が目の前で、、、

主婦という、、、主がついた夫人のはずが、、、

  経済的には、、、ダンナさん子供、、、孫の、、行き交う交差点で

  収入は突進してくる
      車たち、、、例えば、、
         育児の衣類食品、、、賞幾教材、、塾の請求書など積んだトラックや

   血圧が高いのとか、、糖尿が出たとか、、、足腰が痛いの、、、背骨が痛いの、、

     歯が虫喰ったの、、、抜けたの,、、入れ歯創ったの、、、便が出ないの出過ぎたのと

   あたりに、、黒煙をまき散らす、、、得体のしれない燃料の車が達真摯てくるのやら

  地震が起きて、、、ヒヤリハットで、、、塀が壊れたの、、外壁壊れたの、、、

   修理援助費が決まって、、、全額使って修理を始めんとして

     外壁なおした段階で、、、残りの修理費は出ないことになりましたと、、、

    公的機関もころ,、ころ、、と変わるお知らせで、、、

    外だけ修理した段階で、、、離れは、、水道も、、電気もストップのまま

    半額援助の補修費用で、落下したモルタル壁だけは、、、

    ご近所からも「危険近寄るな!」の、、縄をはずすことにOKをくれたり

    きりきりの懸けの交通整理は、、、大きな額の出費の時は、背筋が寒くなり

   ゾ~としたような緊張感で走り抜けるつもりが、、、

     盲腸炎症になったり、、、胃腸が変調子になったり、、、

       背筋が寒くなりながら、、、

      家庭経済交差点の交通整理をするのが、、、
      主婦の務めとなってしまっている。

           

    もともとは、、結婚願望が無くて、、、自分が生きるのには

     自分が医師になって、、父の開業の後を引き受け、、

          父の患者さんたちが、、不安な老後を 抱えて、、

          アチコチの医療機関を渡り歩かなくても良いように、、、

      54歳で、、一日150人来ていた患者さんたちの行方を、、、

      内科医になって間もない兄にだけに任すのは

      医師一人の開業の孤独さを考えると、、、

       何とか、、早逝した父に代わる医師をもう一人

          兄の傍に必要と感じた私は

        次男の兄とともに、、、
      「医学部を受けようということになったのでした。」

        子供のころから、、父は私に「医師になる様に」と言ってくれていました。

        しかし、、、医師だけは、、、不思議な事に

       天の風が、、、逆風だと、能力だけでは、、女医の道は開けない時代でした。

       どうしても、、、人間を解体する医師になる事だけは嫌だという次兄は
       医家大学を一緒に受験しても、、
       私が正規合格で、、兄が補欠という、、、西になりたくない兄の弱点が
        親も兄も怒らしてしまい、、、
        私の進学も、、次兄の医学部進学も
          二人も辞めるという家庭裁判の結果が出たのでした。
         そのころ居候をしていたオジサンが

      短期大学の教授をしていた叔父さんには
       「短期大学に、、、無試験で合格したそうで、、、後は面接だけ」と言われて
               推薦したのは教授ですから、、、無試験だなんて、、、おかしすぎる!!。
         からかわれたのだと、、、腹が立ちましたね。
             ともかく、、、ミカン箱いっぱいの短期大学の願書が、、郵送されてきましたが

        願書を出した覚えが無かったので、、、レポートは提出しないまま無視しました。

         次兄が「薬剤師なら、、、人体解剖が無いからと、、、薬科大学に合格しました。」

        次兄の受検するところは、、私も受けるという、、我が家独特のシステムの中で

           私が、、通学するなら、、、大歓迎だと、、、初めて4年生の大學に

              長男が喜んでくれたのは、、、自分が日大だから、、、

            日大合格の発表も、、、願書も、、全て兄貴が率先してやってくれたのは。

           自分の母校の、、、日大合格の時だけでした。

           僕は医学部、、、思う都は薬学部、、、それなら許せる、、、とご機嫌でした。

          女性の人格って、、、有るのだろうか???

           女性の権利は、、家庭にぽいても、、、そこらへんの コカコーラート

            似たような扱いで、、、自分尾気に居る場所なら、、、OK、、、、、、!!!


              アホカ、、、我が家は、、、???

             
    
             ともかくめでたく薬学卒業しました。

      薬学を取得して、、、実験研究は就活をする前に
        教授室に呼ばれて、、、東京大学への就職が決められた。

     母も兄も、、、東大入試に失敗して、
           私立大学の医学部を卒業した者のした兄が、

        父の後を継いで、、町医者をしながらも、、、
            週に二日、、、アルバイトの医師に来てもらい
                国立がんセンターの認定医や指導医になる為の研修に通いながら

                  弟妹の生活費など、、、

               各自財産放棄と引き換えに、、、面倒を見てくれていました。

      開業医は、、「御大臣ね~~貴方の家は、、子供は徳ね~~~」

       戦後の昭和30年ごろの東京の下町は

          戦争からの復活期のバラックの陣地が有った時代だけに

            軍医から帰還、、
               家族ごと疎開、、、
                  疎開先の無医村の診療所では
         政府のダム建設の電気を無医村の疎開地に引いて、
     物資も、、若者を失った、、戦後の政策は、、エネルギー確保の

        ダムやトンネルが造られた時代でした。

      第一次世界大戦から、、、第二次世界大戦、、

            その間、、、関東大震災、、、日本への原子爆弾攻撃、、、と

       大陸に侵略した日本は、、アメリカ軍によって、、壊滅状態の敗戦を迎えたのでした。

     それでも、、戦場ですべての科の患者さんに接してきた父は

     無欲で、、、患者さんを診察、、、検診...治療、、、手術、、、異常分娩立会い、、と

      何でもできる、、、東京から来たお医者さんという事で

       疎開地では、、、村人の皆さんは

        「東京から来た、、、30代の若き外科医の父」を
             暖かく、、、頼ってくれたようでした。

       もともとは農学部に行って
      「日本一、、美味しい米を作るのが夢だと言っていた父は、、、
        外科医になる気持など、、、さらさらなかったそうです。」

      父の父にあたる、、東京の祖父は

        「宮内庁に勤務していました。」

         東京大学を合格したら、、父の主体的な人生を認めて、、好きな道に進むが良い!」

       しかし、私立大学に進学することになるのなら

        外科医になって、、、戦場で後方の御奉公として、、、現地の衛生兵の為に

          外科的な手技を教え、日本緒将校や、現地の指揮官が安心できる

         外科病院が、、、国からかまされるから、、、そこで働き

       日本国への奉公をするようにと、、、明治生まれの祖父から

         明治生まれの父は、命令されたとのことでした。

       しかし、、そのころの医師の数は、、少なくて

          父の慈恵会病院の大学卒業時期の
       医師免許所の番号は、、5万代の数字だすから

         日本の医師の数は、、極めて少なくて、、、

          医師の立場は、、、国にとっても、、貴重な人材だったようですね。

       戦地資金の距離の病院で院長をしていた外科医の父は
      敗戦色の濃くなった時代に突入と同時に、、、

       玉砕し始めた戦地への、、、従軍命令が下され

         神社の寄せ書きの日の丸の旗
         千人針の「武運長久」の刺繍のある「タスキ」
         軍隊手帳、、、

        本国への正式な手続があったのか?無かったのか?

        戦場規格での新聞は《日本語》である紙面に、、
          父の長いあごひげの写真入りの記事が出ており

       軍隊手帳には、、出兵軍医の戦場入りの日取りと
         他家の小枝の朱肉の丸印が、、
           軍隊手帳には、、押されて赤丸がついていました。

         勅語の印刷された手帳は、、、

         銃後の病院での、、現地い医師に外科的手技を指導するという

           銃後の御奉公から、、、

         最前線の,、、戦場の野戦病院への従軍に、命令が変りました。

         戦場では、、「武器を背負うのが、参戦した兵隊全部の役割だったようですが、、」

         「軍医殿は、、この塹壕で待機してください、、、」と

          武器も、兵隊さんが担いでくれて、、、一部の塹壕は
          野戦病院のように、、、 傷病兵の治療の塹壕になっていたようです。

        しかし、、戦場での敗戦色は、、報道以上に、、 玉砕に近く
       もう医師としての働く事が出来る状態では無かったそうです。

        父の居た塹壕にも、、機関銃が撃ち込まれて、、

          死体の山に囲まれて、、、死んだ兵隊さん衣守られたが如く
         自分には機関銃の弾は届かなかった現実に、、、
          父の活きる姿勢が、、、変って行ったようです。

         戦場で生き残った父の次の出兵の日に
         迎えに来るはずのトラックが来なくて、、、

          代わりに、、日本本土への帰還命令と

           電気を-山奥への移転命令で

         祖父が日本から、、娘夫婦の家庭の引き上げの先導に

           最後の連絡船に乗せるために、、戦場まで来ていましたそうです。

          串本や、南紀の山村で、、町長や村長や、、校長など、、、自治体の先頭で

         アメリカに留学していた祖父の現場を知っている情報通は

         ツウ嘔吐の政治家の地方自治の、、便利の存在の人物だった事なのでしょう???

           疎開地で、小学校の高学年医入る寸前まで

         中央の代議士さんという方が、、、ダム建設の為に

           和歌山県庁のお役人さんらと、、、橋を架けたり、、、

          進駐軍との会議に来たり、、、

         祖父一族は、、、南朝時代から、、、陛下をお守りした旧家だけに

           現代も残る、、南朝時代の皇居にあたる、、、民家風の建物が

             国によって守り続けられているその周辺の通りは
         祖父の実家の名字と同じ名前の「通りの名前がついているくらいです。」

           南紀の旧家という、、、
           SSAATT(個人名の代わりにイニシャルを記します)一族は

            県庁にも大勢同名の勤務者が居て

               村長も、、町長も、、、一族の旧家からの人が居て

          カリフォルニアなどに、日本人町をつくるのだと
          移住していった親戚も、、大勢いたそうです。

          子供の頃、、、和歌山県の意志をしていた父と
             那智の滝ゃ周辺の温泉や白浜などに

              一階だけ連れて行ってもらったことが有るのですが

         和歌山県んで、、「アメリカ村」という、、、

            横木の白い校舎のような家がた居並ぶ街モドto
キの、、
                建物の密集した村に行ったのをおぼえています。

          祖父は、今の筑波大学の前身である「青山師範」を失業して
              27歳で、、アメリカに留学していました。

           祖父の話では,、、汽船に乗って、、、3ヶ月もかかって、、、

              アメリカの港についたそう出す。

          goldengayto  ゴールデンゲイトブリッジの油絵は
            アメリカ時代に書いた油絵だと、、、
                祖父の家の厳寒に飾って選りました。

          PC,もスマホも無い時代であり、
             地方自治体の村長も、町長も

           戦後の村起こしの復活をかけて

            電力確保の為の「ダム建設が、、始まっていたのでした。」
           

          中央の政治家さんともつながっていた時代でした。

                   つづく
       

         
       
              
      アメリカの駐留時代に入った日本への政策でした


                
           


最新の画像もっと見る

コメントを投稿