過去の歴史上に現れた「ウイルス」は
当時の人間社会にとっては
悪魔の仕業の、、、「謎」だったに違いない。
私は昭和42年に大学を卒業した。
そのころは、遺伝子のらせん構造がすでに解明されて
リン酸化によって、、、
薬学生は人間という体内の謎に
科学的な手段で謎解きをすることに
燃えていた。萌えていたのかもしれない・
おりからの有機化学の合成によって
人体の謎や、植物の謎が、
実験できる時代に入り
家庭をつくるより、独身を決め込んで
生涯を自分の好奇心の謎解きにかけようという
同級生が、「薬剤師の免許」の要らない
研究分野に進むため
大学院に進む女性が出始めていた時代でした。
遺伝子解析
ポリマリゼイション
ガンマーナイフ
スピン
一般の新聞記事にも、新製品、新発見
合成薬品の記事の中には
専門用語が飛び出す時代にさしかかていました。
医学の分野では「CT]って何ですか?
レントゲンの一種ですか?
MRI,,,?笑むアール愛??
何それ?
築地のがんセンターが出来た頃から
臨床医学と研究分野が、、、合奏曲で
医学の世界を魅惑した時代でした。
東京都の築地、、、と言えば
皆も私も、、「築地の市場!」と反射神経で答える時代に
小さなビルのがんセンターが、、出現した。
千葉大学を卒業された「市川平三郎さん」という
お医者さんが、、、
築地のがんセンターの病院長先生だった時代でした。
そのころ、、私はおなかに、小さな腫瘍が出来ました、
外科医の主人が言う事には
「子宮筋腫だろう、、、たぶん、、?」
門外部門だから、検診を受けて来たら?
あっけなく突き放されました。
そこからは、、他移動に住んでいながら
ヒコーキで、東京まで飛んで
東京の、築地の「がんセンターで」
総合健診を受けました。
息子達の為にも、、、死ぬわけにはゆかない壮年期の私でした。
20万円という、検診費は決して安くは有りませんでしたが
薬学生と医学生の息子を抱えていた私にとって
母親という立場で、「現代医学の検診」を
受ける立場で体験しておくことは
金銭問題ではなくて、
子供たちの時代の医学を知るためにも
スゴイ、、、人体を使っての、、、
知的好奇心を満足させてもらえる「チャンス」だと思いました。
日本人がまだ「CT...?、、何それ?」と言っていつ時代でした。
平成、、令和の若者で
「CT]とか{MRI}とか、「へりかるCT」とか
それは何ですか?と、、効く人はいないと思いますが
昭和から平成に、日本中に普及した検診の手段として
「がん」の早期発見を可能にした医療手段であったと
新聞やマスコミには報道されて、、、久しくなります。
その最先端の検診を、
私は、、下腹の「コリコリした違和感」を解決するために
幸運にも受信できる、、、運びとなったのでした。
CT,MRI,ペットCT
そして、画像のよって転送されてきた「病理所見」
その結果、手術をしたのですが
我が身をもって、、、
昭和初期の父の時代のレントゲンからの
画像の発展に踊らかされる結果となりました。
戦場に御奉公した後、
運薬生還できた外科医だった父は
廃墟となった東京の実家を後にして
母の故郷である「南紀雄山村」の
無医村が7つ集まった所に疎開をしました。
その村の診療所のレントゲンは
二層式の洗濯機を2個並べたぐらいの大きさで
薄い鉛を張り巡らした小さなレントゲン室で
ぼんやりと人体の内部を
白と黒の画像で映し出していました。
エックス線が、あちこちから、、、漏れるような
未開発のレントゲンでも、
山村の、ダムの建設現場から運ばれてくる
患者さんの、骨折などを投影出来て
外科医の父には必要なアイテムだったようでした。
弟と兄が、医師の道に進学したのですが
千葉大学の外科の医局に入局した弟の方が
せっかく、、、手術しても、、
「がん」は、、初期の早期発見できないために
手術は手遅れになってしまう事に
悩んでいるとき
築地の出来たばかりの「がんセンター」の
市川平三郎先生に、、、出逢うことになり、、、
千葉大学の、外科の教授のお許しを得て
画像診断の道にと、酢産んでいったのでした。
そのころの弟の家に遊びに行ったときは
質素な一軒家を借りて、
質素な暮らしの中で
子供を育てながら
「研究分野は、、、収入が無くて、、、
わずかなバイトで、、暮らしている」
貧乏所帯の中の研究生だったようでした。
我が家も、、主人が博士論文に夢中になっている’
医局生活で、、収入は無くて
バイト生活を夫婦でしていました。
医師と言っても、、研究をスル「お医者さん」は
質素な生活のなかから、
家庭生活を振り替える時間が無くて
家庭は孤独な奥さんが、子供を連れて
我が家にボヤキのステレス解消に、
泊まっていったりしていたことも
否では、、懐かしい思い出でっす。
令和になって、、どこかに身売りをしてしまったのか、、
これから身売り和するのか解りませんが
「昭和に時代は、、日本の電気」と言えば
東芝!!、、という時代でした。
築地が、、もとは海だったことは
先日の「タモリさんの番組」で
TV放送していましたが、、
もと海だったところが埋め立てられて
市場が有ったり、、、がんセンターが出来たり、、、
日本は、島国だけに、、、少しずつ、、、形が変わってきていますね。
この頃に、大学を卒業した私たち、、と
弟たち「団塊の世代」の緊張感を持続して
戦後の復活を果たした日本は、
アメリカに追いつき追い越せの科学の発展と
医療分野の発展と
女性の男尊女卑からの、、男女平等に向かっての
戦後だった記憶は、、、日記に書き残しておきたいと思いました。
学術分野に入る
{ウイルス}
「遺伝子」
「リン酸化」
「ポリマリゼイション」
「ガンマーナイフ」
生化学の世界。。。
内分泌の世界、、、
とりわけ、、「免疫学の著しい発展」
戦後は、健康面や
人体の宇宙旅行に
科学の発展が、、、目に見えるような時代でした。
日本は研究者には予算を配る余裕がない時代でもあり
弟は「CTの発展」「NRIの発展」
「へりかるCTの発展」に
ニッポン緒東芝時代のピークの時に
現代に使われている画像診断の発展に
おおきくかかわってきました。
「がんセンター50周年」
本来なら、創生期からかかわって来た
市川先生はじめ、、、千葉大の森山紀之の
画像診断の発展の経過が
集大成されて
日本の画像診断の発展の総集編が
「築地のがんセンターの創生期から,、、50年間の成果」
このような本が 記念誌に出るのではないかと、、、
期待していました。
、、、というのは、、、
息子も画像診断医として
臨床画像の分野に進んで、
50歳になろうとしているからです。
弟が定年まじかに、
自分が従事していた50年間の
画像診断や、肝胆膵の貴重な記録をファイルして
医学生向けの教科書として出版した貴重な3冊を
甥っ子である息子に贈ってくれました。
「息子に言わせると、、、
叔父さんは、、画像診断の分野では
神の域だから、、」と言いながらも
卒業した大学の附属病院にて
臨床画像の様々なパターンを勉強しながら
臨床力をつけて
早期発見で「がん」は
治療しながら勤務できるまでに
共存できる治療が出来ることになった
画像診断に生涯をかけてのめり込んでしまい
結婚は、、、出来そうにもありません。
お金は何処に消えているのかワカラナイ?
結婚当初は苦学生の研究中の大学院生であった主人は
医学博士取得の為の、、研究費で
アルバイト代金が消えていた。
令和の医学生は、
びっくりするかもしれませんが、、
戦後の復活期に大学院生だった医学生は
皆、、、無給で、、
研究三昧の生活の中で
主人は3ヶ月に一か月
臨床の指導を受ける傍ら
アルバイト代金として
16万円戴いていた。
その中から、、医局日2万円
研究の動物代金を含むらしい
丸善医学書請求、、3ヶ月分10万円
家賃17000円×3ヶ月分、、
食費、、衣類、、交通費、、
子供の出産費用、、育児費用、、、
諸々の費用は、女性側の出費が4年間続いた。
助手に採用されて、、、初めての月給が出た時は
主人は、、嬉しくて、、その足で
アパートに帰って来た。
当直を忘れて,、、しまって、、、
病院からの電話で、、、
病院に帰っていった事が忘れられない。
医師をすることに、
全力でサポートしてきた裏を預かる主婦。
主人が7年後に博士号を取得して、
一般病院に固定で来た時
昭和50年ごろでした。
雪印の会社の経営する札幌の病院で
初任給は23万円でした。
7年後には、、、40万円ちょっとの昇給していました。
子供が2人になったのを機会に
ミサワホームの提携ローンで
利率9パーセントで、1400万円の家を購入して
全額銀行で借りました。
返済は、ボーナス払いが年に2回
毎月10万前後の返済だったと記憶しています。
今まで家賃だけで過ごしてきた手前
家を持つことは、、、大変なしゅうぴだと思いました。
家づくりはクレーム産業と言われるだけあって、、、
半周の業者のミサワホームは
パネルだけは秀逸に良かったのですが、
北海道の気候条件に疎い大工さんだったのだろう?。。か
外亀のモルタルのやり方が
北海道の雪を知っている業者は
パネルの壁と、モルタルを塗る壁の間に
竹製のネットで空間をつくり
その上からモルタルを塗る施工に対し、
ミサワホームは、パネル契約をしたら
デーラーとして、消費者には
「ミサワです、、、」と名乗っていた時代であった。
素人同様のデーラーが
秀逸のミサワのパネルに頼り切りの施工で
建築的には、デタラメの壁塗りや配管をする時代であった。
購入後の、、、メンテナンスで
何年間も、、、リホームが続き、、
デタラメな屋根張で、、、壁も床もカビだらけで
スガモリがひどくて
塗りつけた京壁が、ボロボロの年度のように融けて
メンテナンスは、、、壁土をはがしたあとは
京壁模様の紙の壁紙を張り付けて行く始末で
その壁も、、、剥がれて垂れ下がったままにしてありますが
家を買ったための維持費と修理と固定資産税は
莫大なものになり、、
家計を圧迫してきました。
30代に借りたローンを
返し終わったのは70歳前後でした。
医師は銀行の信用があるという
拓殖銀行の時代でしたから
ローンは返済した分に上乗せして借りられました。
しかし、、ミサワホームの配管は
本州の配管なのか??
冬には,毎回、水落をしないと凍結するという
本州の寒冷地?の創り方であり、、、
鉄管が裸のままキッチンからボイラー室まで走っていて
北海道のほかの家のように
スポンジなのか?ガラスウールのやわらかんモノなのか?
鉄管の防寒のビニールの防寒サックがしてありません。
もう、、、水道が止まってから、、、
20年以上たちます。
今出したら、、、きっとさび色の水が出るか??
とんでもない所から、水が噴き出しかも知れません。
漏水であると言われて、
市の水道局から、
水抜き栓を替えに来た時、全部変えましたが
室内は水は漏れてないですね、、、と何十年か目に
数人がどやどやと来て、、、
水抜き栓を変えていった事が有りましたが
その時、業者が水を落としていたまま触ってはいません。
隣りに、、ミサワホームを抵当にして
スガ漏れのしないはずの、、、大成パルコンを建てて
弐軒合わせると50坪のスペースを確保して
これで安心、、、と思ったら、、、パルコンも水漏れして
防水のやり直しをしました。
当時の北海道の業者さんって、、、まだ歴史も浅いのか?
専門家の腕の人が少なかったのでしょうかね??
メンテナンスの費用にはついて行けないので
パルコンの方は、自分で、銀粉のペンキを塗りました。
水漏れはしなくなりました。
数年経ちましたので、今年は、また塗ろうかな??
18000円もする、、、はしごだけは買いましたが
歳も歳なので、、、
調子の良い天気を見計らって、、、塗るかな??
シーラーを塗った後、
銀粉を塗ると、、、全く水漏れしなくなるから不思議ですね。
隣りのミサワホームは
目下使わなくなった机やソォファーヤ
季節ごとの衣替えの衣類
読みおわったが、、未練のある本類、
息子体のオルガン
肩もみ機
台所のつかい過ぎた冷蔵庫に洗濯機2台、、、
諸々の未練の製品でうまり
何処から片づけてよいかワカラナイで
もったいなくも、、、倉庫になってしまっている。
ミサワホームの水洗トイレも、
トラップの無い直下型で
まがった感、、、トラップというのかな??
ついてないので、、、
目下使用はしていません、、、、何十年も。
土管を家の半周りをめぐらした物が、
下水の本管につながってなくて
庭の真ん中でちょんぎてていたのです。
工事ミスで、庭中に土管を埋めたまま
トイレの汚水は庭に土中に流していたという
工事ミスなのか?
この家は、、、本気で済むために建てたものなのか?
庭の途中ででちょん切れていた配管には
境界線の向こう側にマンホールが。。。あって
繋がっていなかったというおそまつさ!
隣りの、、物置に、、汚水が入ったとか、、、
北大での新聞記者の方のだったのですが
兵を建ててくれと、、、カンカンでした。
ミサワに隣との境界にブロック塀を頼んだら
境界線の手前30センチ以上あるだろうという
とんでもない所に
鉄筋入りのブロックを建てて行った。
デタラメな塀に合わせて境界石を動かし
境界石だけでも、、、3つも4つも入っているという
何年か前に測量が入り、、、市もびっくりでしょうね。
正式の葉これです、、、とか言って、
塀の向う側に、沿って、我が家の敷地が帯状に走っています。
理解に苦しむような,、わけの解らない施行をする時代だった。
ミサワ本体のシンプルなデザインが好きなのと
江戸間サイズではない広い日本間が好きで
水道もトイレも出ない、、、隣の離れを
憩いの場所に使って
40年になるんですね、、、月日は早い!
先ごろの北海道の震災で
この、、ミサワホームは
何回も塗装を上からしたのですが、
畳1畳サイズのモルタル壁が落ちて来て
危険すぎるので、、、
あとさき考える余裕もないまま
モルタルを全部剥がし落として
サイディングにすることにしました。
壁にじかに塗りつけたモルタルは
地震で、、、全面皹だらけとなり
いつ、、また、、落下してくるかもしれないからと
危険の表示板と
綱を張っておいてくれるようにと
申し出があり、、、しばらくは、、、考えていました。
どうするかな??
本来の家なら、、、
壊すのも考慮に入れたと思いますが
ミサワホームのパネルは
南極でも仏に耐えたのだから
からだで言えば、骨にあたる部分は強いわけだから、、、
外壁を治すことにしました。
全部剥がして、、、250万もかけて
下の腐った木を取り換えて、
サイディング仕上げをしました。
ミサワのパネルが良いだけに
再び、、甦ったが、、、
当初の本州式配管と水道の、、
原因の解らなかった漏水で
市の水道局から40枚
の請求書で、
十数万円支払った。
その後、、、
水道局の内勤の職員が調べに来てくれて
ミサワホームが
当初配管にかかわったらしい
市の水道局の責任分野の所で
配管ミスがある事がわかり、、、
メータを数回以上取り換えに来て、十数万も支払ったことが
実は、
当家の責任でなかったことが判明したのですが
お金は戻っては来ませんでした。
サイディングで甦ったミサワホームには
すこぶるご機嫌なのですが
車に例えれば、、、エンジンの部分に相当する
水道、、電気配線、、、下水配管
未使用のウオシュレット便座のついたトイレは使えません。
ミサワホームこれらの購入当時からのミス施行を
治す気力はもう有りません。
固定資産税の維持費だけでも
何百万円の維持費を、
今までに
払ったことになりました。
新築時代から
数年も使わないうちに、、
未だに、砥の粉の着いた欄間をみながら
家の業者は。。。パネルの契約だけで
ミサワを名乗れる事が出来る時代だったのですね、、、
施工の指導は無かった時代なのでしたね。
運の悪いことに
この建売を担当した大工さんは
施工のでたらめな建築の腕しかなかったのでした。
50年前の
ミサワホームの購入の家が
目下使えない状態ではありますが
昭和の、時代、、
内地の業者が、北海道に進出して
雪の想像以上の作用を知らないために
購入した客に
維持したり、リホームしたり
屋根のスガモリを何度も吹き替えたり
スガ漏れで、壁紙の下のベニヤ板が
アオカビが乾燥して、、真っ黒けになり
油絵を描くときのヘラで、
マスクをかけて、落としましたが
その後、肺炎になり、、ひどい目に遭いました。
結局業者に来てもらい、
カビえお剥がした
ベニヤ版のうえから
もう一枚ベニヤ版を重ねました
つぎはぎだらけのデザインにリホームしていったり
買ったというだけで維持するだけで
住めないモノの。。。可愛い思い出の本などが有り
維持費だけで
1000万円以上になった40年間の支払いは
家を持つという事の、
メリット、、、デメリットを
両極端に、、、体験中です。
どうしたらいいかな!!???。。。
この、、、、子供の思い出の詰まった、、、家!?
リホームは
税金には認められることも無く
買って維持するだけで、、、
老後資金が漏れてゆくという
社会からは見えない、、、消費に、、、
昭和の時代から、、平成へと、、、
これが作動する家に出来るのは
ミサワ本家だけかもしれないと、、、思いながらも
家一軒、、、もったいないと思いながら、、、
毎日、、、掃除や、休息に使いながら
もっと、社会の為、 小孫の為に
有効に使えないものかと考えながらも、、、
家を遊ばせているのと違うのですが。。。
漏れてゆく維持費に、、、
どうすることもできない
78歳の、、、持主の、、
婆ちゃんです。
昭和50年ごろの
近所のミサワホームでは
雪で、重みに耐えきれず、、板が割れて
軒がぶら下がったまま、、、
使っている家もあるから
ミサワのパネルの優秀さには、、、
舌を撒いているのです。
施工業者の専門性が、
見えないロスを
購入者に、、、
メンテナンスや、
矢野の板金塗装や
トタン防水をし直したり
ミサワのパネルが強いだけに
壊すのがもったいなくて
生涯のメンテナスの費用を
重ねてしまいながら維持しているという
金食い虫の、、、
別の星の息子がいるようです。
昭和50年ごろの
本州業者の、、
「 雪の恐ろしさへの無知」がなせる
購入者への、
問答無用の時代がなせる
マイナス財産施行時代でした。
このまま、、小孫に譲ったら、、、
子供も孫も、、、借金をもらったようなものだから、、、
どうにかしなくっちゃ、、、と
悩みながら、、、日時は過ぎてゆきました。
当時の人間社会にとっては
悪魔の仕業の、、、「謎」だったに違いない。
私は昭和42年に大学を卒業した。
そのころは、遺伝子のらせん構造がすでに解明されて
リン酸化によって、、、
薬学生は人間という体内の謎に
科学的な手段で謎解きをすることに
燃えていた。萌えていたのかもしれない・
おりからの有機化学の合成によって
人体の謎や、植物の謎が、
実験できる時代に入り
家庭をつくるより、独身を決め込んで
生涯を自分の好奇心の謎解きにかけようという
同級生が、「薬剤師の免許」の要らない
研究分野に進むため
大学院に進む女性が出始めていた時代でした。
遺伝子解析
ポリマリゼイション
ガンマーナイフ
スピン
一般の新聞記事にも、新製品、新発見
合成薬品の記事の中には
専門用語が飛び出す時代にさしかかていました。
医学の分野では「CT]って何ですか?
レントゲンの一種ですか?
MRI,,,?笑むアール愛??
何それ?
築地のがんセンターが出来た頃から
臨床医学と研究分野が、、、合奏曲で
医学の世界を魅惑した時代でした。
東京都の築地、、、と言えば
皆も私も、、「築地の市場!」と反射神経で答える時代に
小さなビルのがんセンターが、、出現した。
千葉大学を卒業された「市川平三郎さん」という
お医者さんが、、、
築地のがんセンターの病院長先生だった時代でした。
そのころ、、私はおなかに、小さな腫瘍が出来ました、
外科医の主人が言う事には
「子宮筋腫だろう、、、たぶん、、?」
門外部門だから、検診を受けて来たら?
あっけなく突き放されました。
そこからは、、他移動に住んでいながら
ヒコーキで、東京まで飛んで
東京の、築地の「がんセンターで」
総合健診を受けました。
息子達の為にも、、、死ぬわけにはゆかない壮年期の私でした。
20万円という、検診費は決して安くは有りませんでしたが
薬学生と医学生の息子を抱えていた私にとって
母親という立場で、「現代医学の検診」を
受ける立場で体験しておくことは
金銭問題ではなくて、
子供たちの時代の医学を知るためにも
スゴイ、、、人体を使っての、、、
知的好奇心を満足させてもらえる「チャンス」だと思いました。
日本人がまだ「CT...?、、何それ?」と言っていつ時代でした。
平成、、令和の若者で
「CT]とか{MRI}とか、「へりかるCT」とか
それは何ですか?と、、効く人はいないと思いますが
昭和から平成に、日本中に普及した検診の手段として
「がん」の早期発見を可能にした医療手段であったと
新聞やマスコミには報道されて、、、久しくなります。
その最先端の検診を、
私は、、下腹の「コリコリした違和感」を解決するために
幸運にも受信できる、、、運びとなったのでした。
CT,MRI,ペットCT
そして、画像のよって転送されてきた「病理所見」
その結果、手術をしたのですが
我が身をもって、、、
昭和初期の父の時代のレントゲンからの
画像の発展に踊らかされる結果となりました。
戦場に御奉公した後、
運薬生還できた外科医だった父は
廃墟となった東京の実家を後にして
母の故郷である「南紀雄山村」の
無医村が7つ集まった所に疎開をしました。
その村の診療所のレントゲンは
二層式の洗濯機を2個並べたぐらいの大きさで
薄い鉛を張り巡らした小さなレントゲン室で
ぼんやりと人体の内部を
白と黒の画像で映し出していました。
エックス線が、あちこちから、、、漏れるような
未開発のレントゲンでも、
山村の、ダムの建設現場から運ばれてくる
患者さんの、骨折などを投影出来て
外科医の父には必要なアイテムだったようでした。
弟と兄が、医師の道に進学したのですが
千葉大学の外科の医局に入局した弟の方が
せっかく、、、手術しても、、
「がん」は、、初期の早期発見できないために
手術は手遅れになってしまう事に
悩んでいるとき
築地の出来たばかりの「がんセンター」の
市川平三郎先生に、、、出逢うことになり、、、
千葉大学の、外科の教授のお許しを得て
画像診断の道にと、酢産んでいったのでした。
そのころの弟の家に遊びに行ったときは
質素な一軒家を借りて、
質素な暮らしの中で
子供を育てながら
「研究分野は、、、収入が無くて、、、
わずかなバイトで、、暮らしている」
貧乏所帯の中の研究生だったようでした。
我が家も、、主人が博士論文に夢中になっている’
医局生活で、、収入は無くて
バイト生活を夫婦でしていました。
医師と言っても、、研究をスル「お医者さん」は
質素な生活のなかから、
家庭生活を振り替える時間が無くて
家庭は孤独な奥さんが、子供を連れて
我が家にボヤキのステレス解消に、
泊まっていったりしていたことも
否では、、懐かしい思い出でっす。
令和になって、、どこかに身売りをしてしまったのか、、
これから身売り和するのか解りませんが
「昭和に時代は、、日本の電気」と言えば
東芝!!、、という時代でした。
築地が、、もとは海だったことは
先日の「タモリさんの番組」で
TV放送していましたが、、
もと海だったところが埋め立てられて
市場が有ったり、、、がんセンターが出来たり、、、
日本は、島国だけに、、、少しずつ、、、形が変わってきていますね。
この頃に、大学を卒業した私たち、、と
弟たち「団塊の世代」の緊張感を持続して
戦後の復活を果たした日本は、
アメリカに追いつき追い越せの科学の発展と
医療分野の発展と
女性の男尊女卑からの、、男女平等に向かっての
戦後だった記憶は、、、日記に書き残しておきたいと思いました。
学術分野に入る
{ウイルス}
「遺伝子」
「リン酸化」
「ポリマリゼイション」
「ガンマーナイフ」
生化学の世界。。。
内分泌の世界、、、
とりわけ、、「免疫学の著しい発展」
戦後は、健康面や
人体の宇宙旅行に
科学の発展が、、、目に見えるような時代でした。
日本は研究者には予算を配る余裕がない時代でもあり
弟は「CTの発展」「NRIの発展」
「へりかるCTの発展」に
ニッポン緒東芝時代のピークの時に
現代に使われている画像診断の発展に
おおきくかかわってきました。
「がんセンター50周年」
本来なら、創生期からかかわって来た
市川先生はじめ、、、千葉大の森山紀之の
画像診断の発展の経過が
集大成されて
日本の画像診断の発展の総集編が
「築地のがんセンターの創生期から,、、50年間の成果」
このような本が 記念誌に出るのではないかと、、、
期待していました。
、、、というのは、、、
息子も画像診断医として
臨床画像の分野に進んで、
50歳になろうとしているからです。
弟が定年まじかに、
自分が従事していた50年間の
画像診断や、肝胆膵の貴重な記録をファイルして
医学生向けの教科書として出版した貴重な3冊を
甥っ子である息子に贈ってくれました。
「息子に言わせると、、、
叔父さんは、、画像診断の分野では
神の域だから、、」と言いながらも
卒業した大学の附属病院にて
臨床画像の様々なパターンを勉強しながら
臨床力をつけて
早期発見で「がん」は
治療しながら勤務できるまでに
共存できる治療が出来ることになった
画像診断に生涯をかけてのめり込んでしまい
結婚は、、、出来そうにもありません。
お金は何処に消えているのかワカラナイ?
結婚当初は苦学生の研究中の大学院生であった主人は
医学博士取得の為の、、研究費で
アルバイト代金が消えていた。
令和の医学生は、
びっくりするかもしれませんが、、
戦後の復活期に大学院生だった医学生は
皆、、、無給で、、
研究三昧の生活の中で
主人は3ヶ月に一か月
臨床の指導を受ける傍ら
アルバイト代金として
16万円戴いていた。
その中から、、医局日2万円
研究の動物代金を含むらしい
丸善医学書請求、、3ヶ月分10万円
家賃17000円×3ヶ月分、、
食費、、衣類、、交通費、、
子供の出産費用、、育児費用、、、
諸々の費用は、女性側の出費が4年間続いた。
助手に採用されて、、、初めての月給が出た時は
主人は、、嬉しくて、、その足で
アパートに帰って来た。
当直を忘れて,、、しまって、、、
病院からの電話で、、、
病院に帰っていった事が忘れられない。
医師をすることに、
全力でサポートしてきた裏を預かる主婦。
主人が7年後に博士号を取得して、
一般病院に固定で来た時
昭和50年ごろでした。
雪印の会社の経営する札幌の病院で
初任給は23万円でした。
7年後には、、、40万円ちょっとの昇給していました。
子供が2人になったのを機会に
ミサワホームの提携ローンで
利率9パーセントで、1400万円の家を購入して
全額銀行で借りました。
返済は、ボーナス払いが年に2回
毎月10万前後の返済だったと記憶しています。
今まで家賃だけで過ごしてきた手前
家を持つことは、、、大変なしゅうぴだと思いました。
家づくりはクレーム産業と言われるだけあって、、、
半周の業者のミサワホームは
パネルだけは秀逸に良かったのですが、
北海道の気候条件に疎い大工さんだったのだろう?。。か
外亀のモルタルのやり方が
北海道の雪を知っている業者は
パネルの壁と、モルタルを塗る壁の間に
竹製のネットで空間をつくり
その上からモルタルを塗る施工に対し、
ミサワホームは、パネル契約をしたら
デーラーとして、消費者には
「ミサワです、、、」と名乗っていた時代であった。
素人同様のデーラーが
秀逸のミサワのパネルに頼り切りの施工で
建築的には、デタラメの壁塗りや配管をする時代であった。
購入後の、、、メンテナンスで
何年間も、、、リホームが続き、、
デタラメな屋根張で、、、壁も床もカビだらけで
スガモリがひどくて
塗りつけた京壁が、ボロボロの年度のように融けて
メンテナンスは、、、壁土をはがしたあとは
京壁模様の紙の壁紙を張り付けて行く始末で
その壁も、、、剥がれて垂れ下がったままにしてありますが
家を買ったための維持費と修理と固定資産税は
莫大なものになり、、
家計を圧迫してきました。
30代に借りたローンを
返し終わったのは70歳前後でした。
医師は銀行の信用があるという
拓殖銀行の時代でしたから
ローンは返済した分に上乗せして借りられました。
しかし、、ミサワホームの配管は
本州の配管なのか??
冬には,毎回、水落をしないと凍結するという
本州の寒冷地?の創り方であり、、、
鉄管が裸のままキッチンからボイラー室まで走っていて
北海道のほかの家のように
スポンジなのか?ガラスウールのやわらかんモノなのか?
鉄管の防寒のビニールの防寒サックがしてありません。
もう、、、水道が止まってから、、、
20年以上たちます。
今出したら、、、きっとさび色の水が出るか??
とんでもない所から、水が噴き出しかも知れません。
漏水であると言われて、
市の水道局から、
水抜き栓を替えに来た時、全部変えましたが
室内は水は漏れてないですね、、、と何十年か目に
数人がどやどやと来て、、、
水抜き栓を変えていった事が有りましたが
その時、業者が水を落としていたまま触ってはいません。
隣りに、、ミサワホームを抵当にして
スガ漏れのしないはずの、、、大成パルコンを建てて
弐軒合わせると50坪のスペースを確保して
これで安心、、、と思ったら、、、パルコンも水漏れして
防水のやり直しをしました。
当時の北海道の業者さんって、、、まだ歴史も浅いのか?
専門家の腕の人が少なかったのでしょうかね??
メンテナンスの費用にはついて行けないので
パルコンの方は、自分で、銀粉のペンキを塗りました。
水漏れはしなくなりました。
数年経ちましたので、今年は、また塗ろうかな??
18000円もする、、、はしごだけは買いましたが
歳も歳なので、、、
調子の良い天気を見計らって、、、塗るかな??
シーラーを塗った後、
銀粉を塗ると、、、全く水漏れしなくなるから不思議ですね。
隣りのミサワホームは
目下使わなくなった机やソォファーヤ
季節ごとの衣替えの衣類
読みおわったが、、未練のある本類、
息子体のオルガン
肩もみ機
台所のつかい過ぎた冷蔵庫に洗濯機2台、、、
諸々の未練の製品でうまり
何処から片づけてよいかワカラナイで
もったいなくも、、、倉庫になってしまっている。
ミサワホームの水洗トイレも、
トラップの無い直下型で
まがった感、、、トラップというのかな??
ついてないので、、、
目下使用はしていません、、、、何十年も。
土管を家の半周りをめぐらした物が、
下水の本管につながってなくて
庭の真ん中でちょんぎてていたのです。
工事ミスで、庭中に土管を埋めたまま
トイレの汚水は庭に土中に流していたという
工事ミスなのか?
この家は、、、本気で済むために建てたものなのか?
庭の途中ででちょん切れていた配管には
境界線の向こう側にマンホールが。。。あって
繋がっていなかったというおそまつさ!
隣りの、、物置に、、汚水が入ったとか、、、
北大での新聞記者の方のだったのですが
兵を建ててくれと、、、カンカンでした。
ミサワに隣との境界にブロック塀を頼んだら
境界線の手前30センチ以上あるだろうという
とんでもない所に
鉄筋入りのブロックを建てて行った。
デタラメな塀に合わせて境界石を動かし
境界石だけでも、、、3つも4つも入っているという
何年か前に測量が入り、、、市もびっくりでしょうね。
正式の葉これです、、、とか言って、
塀の向う側に、沿って、我が家の敷地が帯状に走っています。
理解に苦しむような,、わけの解らない施行をする時代だった。
ミサワ本体のシンプルなデザインが好きなのと
江戸間サイズではない広い日本間が好きで
水道もトイレも出ない、、、隣の離れを
憩いの場所に使って
40年になるんですね、、、月日は早い!
先ごろの北海道の震災で
この、、ミサワホームは
何回も塗装を上からしたのですが、
畳1畳サイズのモルタル壁が落ちて来て
危険すぎるので、、、
あとさき考える余裕もないまま
モルタルを全部剥がし落として
サイディングにすることにしました。
壁にじかに塗りつけたモルタルは
地震で、、、全面皹だらけとなり
いつ、、また、、落下してくるかもしれないからと
危険の表示板と
綱を張っておいてくれるようにと
申し出があり、、、しばらくは、、、考えていました。
どうするかな??
本来の家なら、、、
壊すのも考慮に入れたと思いますが
ミサワホームのパネルは
南極でも仏に耐えたのだから
からだで言えば、骨にあたる部分は強いわけだから、、、
外壁を治すことにしました。
全部剥がして、、、250万もかけて
下の腐った木を取り換えて、
サイディング仕上げをしました。
ミサワのパネルが良いだけに
再び、、甦ったが、、、
当初の本州式配管と水道の、、
原因の解らなかった漏水で
市の水道局から40枚
の請求書で、
十数万円支払った。
その後、、、
水道局の内勤の職員が調べに来てくれて
ミサワホームが
当初配管にかかわったらしい
市の水道局の責任分野の所で
配管ミスがある事がわかり、、、
メータを数回以上取り換えに来て、十数万も支払ったことが
実は、
当家の責任でなかったことが判明したのですが
お金は戻っては来ませんでした。
サイディングで甦ったミサワホームには
すこぶるご機嫌なのですが
車に例えれば、、、エンジンの部分に相当する
水道、、電気配線、、、下水配管
未使用のウオシュレット便座のついたトイレは使えません。
ミサワホームこれらの購入当時からのミス施行を
治す気力はもう有りません。
固定資産税の維持費だけでも
何百万円の維持費を、
今までに
払ったことになりました。
新築時代から
数年も使わないうちに、、
未だに、砥の粉の着いた欄間をみながら
家の業者は。。。パネルの契約だけで
ミサワを名乗れる事が出来る時代だったのですね、、、
施工の指導は無かった時代なのでしたね。
運の悪いことに
この建売を担当した大工さんは
施工のでたらめな建築の腕しかなかったのでした。
50年前の
ミサワホームの購入の家が
目下使えない状態ではありますが
昭和の、時代、、
内地の業者が、北海道に進出して
雪の想像以上の作用を知らないために
購入した客に
維持したり、リホームしたり
屋根のスガモリを何度も吹き替えたり
スガ漏れで、壁紙の下のベニヤ板が
アオカビが乾燥して、、真っ黒けになり
油絵を描くときのヘラで、
マスクをかけて、落としましたが
その後、肺炎になり、、ひどい目に遭いました。
結局業者に来てもらい、
カビえお剥がした
ベニヤ版のうえから
もう一枚ベニヤ版を重ねました
つぎはぎだらけのデザインにリホームしていったり
買ったというだけで維持するだけで
住めないモノの。。。可愛い思い出の本などが有り
維持費だけで
1000万円以上になった40年間の支払いは
家を持つという事の、
メリット、、、デメリットを
両極端に、、、体験中です。
どうしたらいいかな!!???。。。
この、、、、子供の思い出の詰まった、、、家!?
リホームは
税金には認められることも無く
買って維持するだけで、、、
老後資金が漏れてゆくという
社会からは見えない、、、消費に、、、
昭和の時代から、、平成へと、、、
これが作動する家に出来るのは
ミサワ本家だけかもしれないと、、、思いながらも
家一軒、、、もったいないと思いながら、、、
毎日、、、掃除や、休息に使いながら
もっと、社会の為、 小孫の為に
有効に使えないものかと考えながらも、、、
家を遊ばせているのと違うのですが。。。
漏れてゆく維持費に、、、
どうすることもできない
78歳の、、、持主の、、
婆ちゃんです。
昭和50年ごろの
近所のミサワホームでは
雪で、重みに耐えきれず、、板が割れて
軒がぶら下がったまま、、、
使っている家もあるから
ミサワのパネルの優秀さには、、、
舌を撒いているのです。
施工業者の専門性が、
見えないロスを
購入者に、、、
メンテナンスや、
矢野の板金塗装や
トタン防水をし直したり
ミサワのパネルが強いだけに
壊すのがもったいなくて
生涯のメンテナスの費用を
重ねてしまいながら維持しているという
金食い虫の、、、
別の星の息子がいるようです。
昭和50年ごろの
本州業者の、、
「 雪の恐ろしさへの無知」がなせる
購入者への、
問答無用の時代がなせる
マイナス財産施行時代でした。
このまま、、小孫に譲ったら、、、
子供も孫も、、、借金をもらったようなものだから、、、
どうにかしなくっちゃ、、、と
悩みながら、、、日時は過ぎてゆきました。
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