昨日は、、、冬のプレリュードかな、、?
すご~~~い、、雨、、風、、木の葉散る、、、家の中での仕事漬け。
ダンナはTVの前の、、、置物になっていました。
幸いの民放では、スポーツ情報が多く、退屈する様子は在りませんが
必ず観るのが、、、笑点、、、です。
仕事のない日は、、笑いたいのでしょう、、、
きっと、、リフレッシュしているのでしょうね。
私は、NHKが大好きなので
夕食を片づけると、、子供が使っていた小さなTVにダッシュです。
ちいさなTVで、、、小さな生き物に見えて
したたかな、、地球の黒幕である昆虫の世界に
倍返しの、、あの俳優さんが
相変わらず、、、子供の世界の人気番組を
大人も引きづりこんで、、感心させる映像を
ワクワクさせながら、、、案内してゆきましたよ。
アリと仲良く暮らすコオロギ
羽を獲得した昆虫の進化、、、
羽を回転させながら、、空中遊泳をゲットした昆虫の努力!!
昭和のひところ、、「大きいことはいいことだ~~あ」と、
髭の、直純さんが、、TVでタクトを振っていましたが
昆虫の番組を観ると、、、
「小さい生き物」ほど、
仰天する天性の不思議な力を供えていることに
今更ながら驚きますね、、、、。
人間様の創ったヘリコプターに驚いていた「空中の静止」
ドローンの発明、、、
どう見ても、、、トンボのヒントだとおもいませんか?
昆虫さんは、、、羽を回転させ長ら、猛烈な速さで羽を動かし
花の蜜を集めながら、、あらかじめ花を観察するという
脳の発達に関与してゆく行動を手に入れてゆく。
昆虫さんは、、小さい、、、蟻んこも小さい、、、
お魚博士もギョランニなっているかもしれませんね。
我が家の長男坊なんか、、、学校で習ってくるより
昆虫さんに習ってくることの方が多かったように記憶しています。
家の中は虫だらけで、、、自分で兜とか、、クワガタを
樹のクズの中で育てて、、白いソーセージのような
クワガタの幼虫を産卵させては、、、可愛がっていましたね~~~!!
この写真の樹の生えている林に
スイカにはちみつかけて
、、、クワガタを捕獲してましたね。
昆虫は小さいからと言って、
づ脳も小さいのかと思っては、、、
大間違いである,、ね!
弟も小さい頃、、虫さんや、、蜘蛛さんを好きで
槇の樹の根元の
蜘蛛とも昆虫ともつかぬ生き物を
捕獲して見せてくれたり、
蜘蛛なんか、、いろいろの種類を
家屋の板塀に這わせて、、、
白っぽい黄色の卵を産んで
家中が蜘蛛だらけになって困った事が有りましたっけ、、、。
寝ている兄の顔が,、
蜘蛛の糸で巻かれて、、、真っ白になっていて、、、
びっくりしたな===~~~もう、、!!
蜘蛛はどんな気持ちで、、、人間の頭を糸で巻いたのだろうう??
昭和の終わりごろ、、
成人した弟は、
父と同じ外科の医局に入ったのでした。
そこで、、、「ガンの手術」が、、、
どうしても、、、
ガンの発見が遅くなるために
手術しても、、
患者さんは助からないで、、死んでいった事に
悩むが、、、
外科は診断されてから、患者さんが送られてくるので
自分で、、
早期のがんを発見して、、
なんとか、、外科の先生方の努力の手術が
報われるようにしたいと、、、考え始めたそうです。
もやもやしているときに
人生の神様は、、偶然に、
国立がんセンターの、市川先生との巡り合いをクダサレタソウデス。
弟の転機として
運命の神様が
市川先生との出会いをもたらしてくれたようでした。
市川先生は、昭和40年代には「二重造影」という
レントゲンの画像が
立体に映し出される
回転式のレントゲンで
「早期のがんの発見」が夢ではないという
医師の間では、、、
必ず死んでしまう「がん患者さん」の為にも
少しでも早期に発見して
手術で5年10年と延命できるように、、
医療機関は
「二重造影」のできる
立体放射線機能を駆使する
回転式のレントゲンを導入しました。
勿論、、父と兄と、親子で開業していた我が家にも
分厚い鉛の部屋がつくられ
回転式のレントゲンが導入されました。
サラリーマンの月給が2万とか言っている時代に
数百万かけて、、整備を整え、、、
兄も父も、、張り切っていました。
この時から、、、先端医療への時代の風が吹き始め
医療機械のヴァージョンァップで、
開業医が医学の進歩を追うという事は
「新しい医療機械に追いかけられ」て、、、
個人では採算が合わない時代に突入しました。
弟は開業という考えは持っていなかったようですね。
市川先生に巡り合えて、、、無給の研究員として
がんの早期発見で、
外科の手術が無駄になることから脱却したい夢を持ち
弟ば大學の外科の教授に許しを得て、
市川先生のもとでCTの開発の研究グループに入り
そのまま、、はまり込んでしまい、、、
市川先生が、
給料を出すからがんセンターに残らないかとお誘い下さり
弟の、、子供の頃の、、命への探求心が
がんセンターに根がついて、、、
定年まで、、、CTや、画像の探求で早期発見。
日本中の専門家の間でも、評価されて、
いつの間にか、、、TVや、本に出ていたㇼ
北海道で、雪だけ掻いている様な
姉の私とは
次元の違う人生の研究生活が
新聞などで、私の目にも留り
「弟とよく似ているな~~~」思ったものでした。
読売新聞の面に写真入りで記事が出て
紙面の半分が
「早期がんの発見が可能になり、
がん患者さんが、
ガンとの共生が出来るようになったと
治療に通院しながら、、明るい表情で出勤する会社員も紹介され始めました。
子供の頃,、昆虫や,蜘蛛をいっぱい飼っていた弟が
ミクロの生き物に似た、、、悪魔の落とし虫のような
がんの細胞に興味を持ったきっかけは
小さい生き物の命の不思議に
取り巻かれていた環境が、
大きな影響を与えたのではなかろうか??
私も、駿河台の日大で、薬剤師の免許を取得する傍ら
夜学で大学院生と一緒に、教職を選択して
中学と高校の理科の教諭の免許を取得した。
地学の実習などは「昇仙峡」の現地での授業であり
河原の石の中には面白い虫が張り付いていたㇼ、、
昆虫たちとの地学は、
多くの化石や、昆虫館へと足を向けさせるようになってきた。
やがて、息子が「クワガタ」や「兜虫」にはまるころ
息子達の修学費用の為に現場復帰を志て
10年以上のブランクを埋めるために
北大の薬学部に、聴講生となって、
最近の病院で必要になっている
免疫学などの取得に通い始めていた。
天然物化学に授業では、傑作な事を聞いた。
カメムシを
5キロも集めて
研究している人がいることを聴いた。
一匹でも臭くて、、、逃げ出したくなるカメムシを
5キロも、、集めた研究者が居るなんて、、、
好奇心は、、、気絶するような臭さも乗り越えるから、、
いったん研究にとり付かれた研究者が
政権交代で予算をけづられて
研究を中座して
研究所から出てゆくのは
寂しかっただろう、、、と
政権と研究者の心をふと思ったりもした。
政治家さんから観ると、日本の研究費は出し渋りたい部門に入るらしいですね??
虫さんをバケツ一杯集めている大人は
《正常域の頭脳なのか??》と
思うかもしれませんね。
そのころ、、、国にとっての大切な、、、
その生命の長短は、
国の運命も左右するという人たちが
「がん」になる、、、。という時代に入りました。
CTで早期がん、、、発見で、
10年生存率が出始めました。
20年生存という、、乳がん患者さんも出始めました。
早期発見のがんを切除して、、、平均寿命まで生きて
がん発見の当時は幼かった、、、娘さん二人、、、
娘さんたちを大学卒業させた時
外野の私まで、、、お礼を言われて、、、
わかりました、伝えておきます、、、と
電話交換手の役に徹していました。
時代は、、早期がん、、、
助かる時代になったのだと知りました。
国立がんセンターの検査研究の部署に
弟が勤務していたことも有り
北海道から、、親族に会いたいというのが本音であるが
人生の一番忙しい時間に差し掛かっている。
お互いに、会える時間など、、皆目なかった。
その時北海道の公的な職業のVIPが
3人同じような「がん」が発生して
お二人は道内で医療生活に入り
後のお一人は、、、
その方が、
主人の義弟が
国立がんセンターでCTの開発をしていることを
新聞で知ったという事で、、
東京の弟の診断を受けたいという事で
主治医の了解も得ているという事で
弟の所で、もう一度検査をしたいと上京して
東京で「がん」との闘病生活に入りました。
入院された時は、、、
「私が北海道に帰ってくる時は
四角い箱で帰るのでしょう、、ね。
幼い、、二人の娘が、、可哀想で、、、」
男泣きしていらしたのですが
無事に手術を終えられたおかげで
平均寿命を超えて、、生涯を全うされました。
全く外野で、、、私は、、何もしていないのです、、、
外野の外野ですが、、、
私のダンナの知人だったことも有り
お電話を戴きました。
自分の御主人が、がんセンターで、
CTに映っていた「がん」を
ひとつ残らず、、、手術していただき
お腹の中を、、
すっかり掃除してもらい
退院しました。、、、
お電話を戴きました。
私はは全く、、、、、
指一本も関与できない主婦でしたから
その患者さんが、私にお電話くださったことを
どう受け止めればよいのか解りませんでした。
無関係な外野ですからね。
「がん治療の進歩」が、
患者さんの、ご家庭を救った出来事に
心より、、医学の進歩は、、家庭丸ごと救う事を目の前で見た。
私も、、、ガンになる前の段階で
巨大な腫瘍を、、、手術した経験が有ったので、、
「誰かに、、、お礼を言いたいという、、、
王様の耳の童話を思い出しました。」
「良かったですね、、、「患者さん御自信の回復力」を
呼び戻せたのですから、、、もう安心ですね!、、」
夫人は、こうも言っておられました。
「病院を退院する時は、、生きてはいないと、、言っていたので
覚悟をしていたのですが、、、
帰って来られました、、、。」
確かに、、、人生のある期間、、、
ガンなどに負けてはいられない時期が有る。
実際に生きて行くうえで、、
息子達が私立大学に進学
ハッチャ気になって働く両親の時代である。
東京の私立大学に通う息子の部屋の掃除や洗濯、
調度品の調整などを兼ねて
築地のがんセンターに
「検査を受けに行ったことがあった。」
そして、自覚が無かったのに、、、
「赤ちゃんの頭」ほどの「良性腫瘍ではあるが、、、」
放置しておくと、、破裂して、、脾臓などにヨカならぬものが
出来てこないとも限らないから、、と
即時即決、、、机の上の電話から、
札幌の旦那の勤務する病院にTELを入れてくれて、
「明日の手術予約をしたから、今から札幌にかえって、
手術を受けなさい、、、」
弟は呆れた顔をして、
医師の家に生まれて、しかも、
「医者の奥さんとしては落第だよ!!、、、
こんなに、、大きな腫瘍が出来ているのに
気が付かないなんて、、、、」
ダンナは外科医であるから、、婦人科は全く駄目である。
私も、科が違うと,質問する気にもならなかった。
旦那の場合、、家族には、
全く医師として接することは避けているようだったので
私も、近所のクリニックにかかる様にしていた。
虫が知らせる、、という言葉、、、
「虫」、、、が知らせる、、、
昔の人は,、虫から、、、何を感じ取っていたのだろう、、?
超人的な,、第6感の世界の知らせを、、羽音が伝えてくるのだろうか??
私は、、弟に「手術後には頃合いを観て全身検査に来る」と
予約して、帰りました。
帰る前に、弟の部屋に立ち寄って
面白い写真が有るから、、見せるから、、と言われた。
弟は「日本にCTがまだ普及していないころ」から
画像が、医療に適応していない時代から
「医師が診断の為に必要と要求する画像」が映し出されるCTを
何とか開発したいと
東芝の社員や、
東北大学の教授になられた工学関係の人たちと
がんセンターに泊まり込んで、
廊下で寝ていた時期もあったというほど
「CTは急速に
発展研究の時代を迎えたのは
昭和の40年代から
昭和の晩年にかけてでした。」
この頃の「早期がんの発見」の黎明期の事を
資料に忠実に書かれた小説が
「がん回廊の朝」「明日への挑戦」「、、、」
かなり出版されていますので、TVのドラマにもなりました。
手塚治虫さんの、、「ブラックジャック」の漫画も
一世風靡している時代でした。
今では当たり前の、、ガンの早期発見が出来るようになるまでの
研究者の取り巻く「がん回廊の朝」
「明日への挑戦」、、などの単行本を読みふけった物です。
世界からの患者さんを受け入れていたカウンターが有り
国際的にも評価されて、東南アジアからは、
王族の人たちが検診に来るというカウンターには
国際的な窓口が設置されていたのを思い出します。
医療で、外交も成り立っていたような時代でもあった。
国立がんセンターに、東北から、偉い先生がやってきて
世代交代をした今では
知っていた。。。お世話になった先生も
どこかに居てしまい、、、
がんセンターの発足当時の小さいビルの方に居た弟の部屋で観た
読影依頼のフイルムが
部屋の端から端までの、、、
フイルムの堤防になっていた風景を、、、思い出すのです。
あの忙しい中で、、姉のフイルムを診断してくれて、
病理所見の予想図を描いてくれて、
手術後の病理の組織解剖図と、、、全く同じものを
手術前に手書きしてくれたことを、
今でも、、、診断の名医だと、、思っていますね
その絵は、、、医学の芸術だと、、、思いました。
日本緒終戦後、戦争を知らない世代が
戦後の復興の立役者として、
あらゆる分野において、、、
芸術がとしか思えないような
実績を残して
「団塊の世代」と言われた。
皆、、疎開地で生まれて、、、地球の生き物たちと
一緒に生きてきた、、自然が先生だったという幼年期を
価値観に自信を無くして
子供を叱れなくなった親たちを凌駕して
イケイケ、、どんどん、、、の素直さで、
終戦後の日本から、立ち上がった世代であった。
子供の頃、、我が家は、、昆虫だらけだったことを思い出す。
タマムシも飛んできた、
櫻虫もいた、、、
アゲハチョウも、、トンボも、、、
弟と、、ギンヤンマを追いかけた、
コガネムシは、、、洋服にも停まって居た、
カゲロウも居た、、、
名前をあげればきりがないほど、、
多くの昆虫とともに育った、、、疎開の頃。
虫かごには、、いろいろな虫がいた。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
*********************************************
昆虫が羽をゲットする細胞の不思議
昆虫のさなぎがやがて、、、成虫となり羽化してくるまで
サナギの中で、、、次々とできる、、、内臓、、、器官、、、口、、、
サナギという密室の中の細胞の発生は
がん細胞にも似ているが、、、これらは
限りなく大きくなるがん細胞とは違って
小さな脳によって、適当なところで、、、増殖がストップする。
NHKの昆虫の番組の中で
☞ サナギの中の発生してゆく状況をCTで撮影した画面は、、、
もしかしたら、、、がん細胞と、、、普通の細胞の
謎を解くカギになるかもしれませんね。
石原慎太郎さんが都知事をされている頃でしょうか?
研究に関して、
「昆虫に興味はあるかい?」と聞かれたので
「お姉ちゃんも高校の理科を教える先生の資格を持っているから
弟に、、話を聞く資格があるよと、、、みえをはった。
「昆虫には、、ちょっとした観察眼はあるよ、、」
弟の部屋には、読影を頼まれた フイルムの入った依頼封筒が
まるで何本かの堤防を観るように、、、部屋を横切っていた。
フイルムの堤防をまたぎながら、、棚から取り出してきたのは
「昆虫や、昆虫のとまる野菜などをCTで撮影したフィルムだった。」
学会発表の緊張を解くためにも
スイカのCT画像などは、、、学者さんも
こんな写真を観て
すごい発想が浮かぶのではないでしょうかね。
「医師の希望する必要な画像」「画像診断医欠かせない画像」を
CTに映し出すための研究の延長戦で
このような、、
人間以外の動植物の組織が
CTによって、どのように映し出されるかと、、、
研究心の延長で、昆虫をCT撮影したものだった。
「昆虫の中は、、、私には、、空洞に見えた。」
しかし、、その時、弟は
「霧のようにぼやけた空洞に見える昆虫のCT画面」の
おぼろげな影を指さして
昆虫の腹の中の組織や成分が映し出されるようなCTに開発することで
人間の、肺や腹部や 脳の中まで
医師が病気の発生が見て取れる画像にするのだと、、、
言っていたことを思い出した。
あれから、、何十年経っただろうか?
20年ぐらいは過ぎたと思います。
今日の、、NHKの昆虫の番組に
さなぎの中をCTで撮影して
さなぎの中の昆虫が羽化してゆく、、、プロセスが
次々器官や臓器が画像に出現してゆく写真が出た!!
私は20年前、、
自分の腫瘍を見つけていただいた弟先生の部屋で観た
「おぼろげな、、、CTの初期の頃の昆虫の画像を思い出した。」
その時は、CTで撮影した霧の中のような
ぼんやりと映し出された昆虫の体内は
弟に説明されても、、、うっすらとした影からは
何も読み取ることはできなかった、
しかし、、今日NHKで観た
昆虫のさなぎの中の発育状態のCT画面には
はっきりとした映像で,、
各器官や臓器が判別できた。
53年間、、家庭に閉じこもっていた主婦の私にとっては
劇的な事であった。
あの後、、「日本の政権が自由民主党」から、、入れ替わって
鳩山さんの率いる政権に交代した。
弟は生涯を『CTや画像を通しての「がんの早期発見〗に
生涯の自分の夢を見つけていたようだったが
政権交代で、、研究費は大幅にけずられて
素直に政権に従って、、、研究は中座したまま
定年後に、お声がかかったところに移動していった。
がんセンターでの日々は政権交代で、、、愛知県からの先生方が
入ラ社っていたようですね、、、
弟ががんセンター去る前に、、、全部捨ててしまう前に
もう一度、、CTで撮影した虫の写真を観たかったものですね!!
NHKの、、、昆虫の成虫を製造するサナギの中を
CTで撮影したという発想に、、、敬意を払いたいと思った。
弟が、、がんセンターにとどまっていたのなら、、、
サナギの中の細胞の発生と、、、がん細胞の発生の違いから
細胞の増殖がストップするという、、、、生体の中の増殖が
何によって、操られているのか、、、融けそうな気がしました。
弟が、あのまま、、がんセンターの2年延長が出来ていたら
きっと、、纏めていた、、、あの膨大なファイㇽから
期待の論文が発表されたかもしれなかったのに、、、と思うのです。
美人ではあるが、、
「2番じゃだめなのですか?」の意見の持ち主から言わせると
その政権は、予算を減らして歩くのは良いと思うのですが、、、
管制まじかの0周年記念誌が出来る前に スタッフが入れ替わり
是も無く誹も無く、、、誠にめでたく50周年の記念写真麻真ん中には
国立がんセンターには
2年も居らっしゃらなかった、、
知らない先生の御顔が
映っていらっしゃいました。
東北出身という、、、超エリートな先生らしいですが
風のように現れて、、、風のように去って行き
創立から50年の、がんセンターの基礎をつくった先生方の
存在の香りが
消えて、、世代交代されて、、、弟の著書に、医学部の教本が有りますが
「肝胆膵の、DR,森山は 私の先生です。」と紹介された弟は
ハーバード大にいるとき、その先生のお言葉のおかげで
老化ですれ違う人に、、挨拶されるんだけど、、、
知らない人であり、、、アメリカは、トップの発言がすごい力で
現場の若いスタッフを動かすんだな~~と
アメリカの医療研究棟界の体質が伝わってくるようだったと言っていました。
ペットCTで検査してもらったとき
あまりの居こごちの良い精神的リラックスできる環境なので、、、
「ペットCTの検査室は最高ですね!」と言ったら、、
ホテルの様に、、お客サービスに見えるでしょう?
でも狙いは、、ぺットCTが、偶然に映し出すとんでもない役に立つ画像が
どんな検査でも確保できない部分のがんを映し出すような偶然もあるのです。
ペットCTの、、余規制内能力が引き出されて患者さんが助かることがあるのです。
贅沢で、、素晴らしい環境なのかと思っていた私は
環境も、、医学のうちなのだと知った。
新政権で予算を減らしていった政治の新政権の人には
きっと贅沢なスペースと映ったのではないでしょうかね。
がんセンターでの研究の予算が、、無駄に見えたのかもしれない。
50周年を迎えて、、人生の画像の改革の集大成の纏めをしていた頃
私は築地で手術後の全身検査でドッグに入っていた。
音楽の流れる、、、リラックスムードで、、
眠くなるような広い空間で
ペットの検査を、、最後に受けました。
確かに、、、放射線の機械であるから部屋には普通のホテルの部屋と違い
鉛の部屋になっているのだろうと推測していた。
政権が交代した議員から観ると
贅沢な空間い見えて,、予算をけずることの対象になったのかもしれませんね?
私は門外漢なので、、何とも答えようがないのですが、、
50周年を目の前に、、オトトの勤務する環境は
研究を続けられないような、、激震のドラマが起きたようでした。
後で週刊雑誌に、がんセンターの芸鬼神の記事の出た本が手に入り
院長先生など、、私がお顔を判別できた先生方は
どんどん辞めて行かれて、、弟の50周年を目指しての
集大成の研究の纏めも未完のまま、、弟は退官してゆきました。
私は、、お世話になった先生方の居なくなったがんセンターには
それっきり行っていませんが、、、
昆虫の腹の中の空洞だったように見えた写真を
ぼんやりとした影から,、
器官を読み取り、
画像を改革して鮮明な医師の必要な部分が映し出される画像に変えてゆく研究は
多くの「初期のがん」を映し出し
子育て中の活きなばならない若い年代の親たちを
がんと同居しながら人生のピークを走り切らせたことに
貢献したと、、一患者として、、、自分も78歳でまだ生きているから
あの時に観た、、、
自分の腹の中の
あかちゃんの頭のような
真ん丸な腫瘍画像と、、、
緊張をほぐして、、笑顔で観れた
昆虫の腹のCT画像を
霧の山頂のようなおぼろげな影からでも
昆虫の器官を判別できる、、、画像に改革すると言いきっていた。
読影してゆくまるで特殊な眼力の
ガンの早期発見の研究の為の空間でも
政権交代の直後には
予算を国に返還して
弟は、文句ひとつ言わないで
がんセンターから、、、
退官してゆきました。
がんセンターが発足したころの市川平三郎先生の著書の
乳がんの医学書は、、、
多くの若き母親の乳がんの早期発見に役立ち
赤ちゃんたちは、母親を失うことなく成人したことは
感謝であったと、、、読影に従事する医師の言葉でした。
市川先生は、小学校に置いて、小学生に
未来の後継者が出来るような、、、活気のある授業などもされていました。
兄が、国立がんセンターの内視鏡の指導者でいらした先生の
崎田先生の指導の下に、「内視鏡の指導医を許されてからは、、、」
父の残した開業の施設を、実験室に変えて、
オリンパスの製品の、電子の流れなどを、熱心に論文い書いていました。
やがて、開業は閉院してしまい、花束で囲まれた閉院の日には
多くの患者さんが、時代が要求する医学を取得してゆくのだからと
先代からの家族全員がお世話になったのに、、、寂しいですが
東京の下町には、、インドや多くの外人さんも住むようになって
個人開業はストレス時代に入ったようでした。
閉院は、開業より大変だと聞いていましたが
23人いた従業員に退職金を払って
二重造影のレントゲンや、初期の太い胃カメラや
3世代にわたる医療機械は
買い取ってしまっていたために
処分が大変だったようです。
地下室のある鉄筋コンクリート三階を壊して更地になった実家を観乍ら
東京都の230坪は、周りがビル街になり、、、小さな池の様に
航空写真では写っていました。
兄弟には、、、一円の相続も無くて、、、
院長だった華やかな日々に幕を降ろして、、
夫婦で、ケア付きの老人ホームに移ってゆきました。
東京下町の木造家屋地帯も、、buildingラッシュになりました。
親の後を継いでゆく、、開業は
したたかな、、、人間力が必要な時代になりましたね。
兄は、、慎太郎さんと同じ時代の人ですから
自分が主役でないと務まらない所が有りました。
患者さんに寄り添う能力に欠ける、、、発展家ですが
父が54歳で亡くなったことも有り、、、
大學に残りたかったタイプの人でしたが
父の後を引き受けて、、、町医者をやりながら
ほとんど、、がんセンターの崎田先生のもとに通い
父の残したもには、、、小石一つ残さないで、、、
老人ホームに行ってしまいました。
遺産などは一切なくても構わないのですが
昭和の時代を生きた「明治生まれの両親」の住んだ
東京の戦前と...東京の戦後のアルバムが
消えてしまったのだけは、、、返す返すも、、、残念です・
昆虫のように、、、依存するわけにゆかないで
北海道で、、、雪を掻く人生を過ごすことが、、、
時間のロスに思える今日この頃です
NHKの番組は走馬灯のように、、、CTの日本到来から
昆虫撮影できるまでの、、CTの発展ぶりの
その間の学者の先生方の、、、生き様と、、
政権交代のてんやわんやで、、、
交代したら、、世界から相手にされなかった事を危惧する。
国会で足の引っ張り合いしていると、、、
今回ばかりは、、、その隙をついてくる、、、半島が要る様な気がしますね、、、
NHKの紺ちゅう物語、、、多くの事を示唆していますね。
戦争にならない助け合いを、、、学びました。
朝に成っちゃったので、、、寝ます。
誤字 脱字、、間違い転換は、、、起きてから、、、します。
その後、、、何十年も、会う機会も無く
兄は81歳で英検の一級に合格して
86歳の今も、、リハビリ―で、、英語を駆使して
患者さんに、、、添い遂げる心を学び
人間の医師として、、ハートで働いていると
風の便りに聞いています。
千葉大学が一世風靡した市川先生のことも
食道がんの画香手術で有名だった中山先生も
知っている医師が少なくなった世代交代の時期となりましたが
弟は、日本人が{CTって??奈にそれ??}って言われた昭和40年代に
CT画像を改革する地^無を組んで
医師だけではなく、、、東芝技術陣
多くの工学者と円卓を囲み
今日のCTやMRIやヘリカルCTの時代の
基礎を気付いたがんセンターで
50周年を迎えてから、、、
政権交代の大嵐が吹いたがんセンターから、、、
是非にと、、、迎えてくれた東京の医療機関で
活躍していますが、、、団塊の世代と言われて、、寝る暇もなく働いた
弟たちの居てくれたおかげで、、、日本の戦後は切り抜けてきましたが
平和ボケしていて、、、日本も目が覚めた時には
ウクライナ戦争や、、、核戦争が、、、危惧される時代になっていました。
団塊の世代の人たちこそ、、、日本を救い、、、
昆虫のさなぎの中まで映し出す、、、CT画像の改革で
小さい昆虫や蟻んこの「社会性のような、、、」
居候生活や、、、依存生活,、、共生生活も
その、、、謎を解くきっかけが、、、CT画像だったという事に
昆虫が大好きで、、、昆虫の「フェロモン」の謎を
若かったら、、研究してみた^^^い!!
そして、、明治の蛮族の母の独裁家政で
鶴の一声で、、北海道の外科医との結婚を決めないで
昆虫のフェロモンを研究して、、、多くの
雄の昆虫を引き寄せて、、、未来には
出逢い結婚をして、、、
世界中を旅する研究の職業人同士の結婚をして
子供はつくらないで、、、
人生を、、、自分だけで丸かじり出来るような
興味のあることに、、うつつを抜かせる人生を、、選びたいね~~~!
アホカ、、私は(^^!!
東北の方から、、偉い先生がやってきて、、、がんセンターのスタッフの
中心になっていた人々は
すご~~~い、、雨、、風、、木の葉散る、、、家の中での仕事漬け。
ダンナはTVの前の、、、置物になっていました。
幸いの民放では、スポーツ情報が多く、退屈する様子は在りませんが
必ず観るのが、、、笑点、、、です。
仕事のない日は、、笑いたいのでしょう、、、
きっと、、リフレッシュしているのでしょうね。
私は、NHKが大好きなので
夕食を片づけると、、子供が使っていた小さなTVにダッシュです。
ちいさなTVで、、、小さな生き物に見えて
したたかな、、地球の黒幕である昆虫の世界に
倍返しの、、あの俳優さんが
相変わらず、、、子供の世界の人気番組を
大人も引きづりこんで、、感心させる映像を
ワクワクさせながら、、、案内してゆきましたよ。
アリと仲良く暮らすコオロギ
羽を獲得した昆虫の進化、、、
羽を回転させながら、、空中遊泳をゲットした昆虫の努力!!
昭和のひところ、、「大きいことはいいことだ~~あ」と、
髭の、直純さんが、、TVでタクトを振っていましたが
昆虫の番組を観ると、、、
「小さい生き物」ほど、
仰天する天性の不思議な力を供えていることに
今更ながら驚きますね、、、、。
人間様の創ったヘリコプターに驚いていた「空中の静止」
ドローンの発明、、、
どう見ても、、、トンボのヒントだとおもいませんか?
昆虫さんは、、、羽を回転させ長ら、猛烈な速さで羽を動かし
花の蜜を集めながら、、あらかじめ花を観察するという
脳の発達に関与してゆく行動を手に入れてゆく。
昆虫さんは、、小さい、、、蟻んこも小さい、、、
お魚博士もギョランニなっているかもしれませんね。
我が家の長男坊なんか、、、学校で習ってくるより
昆虫さんに習ってくることの方が多かったように記憶しています。
家の中は虫だらけで、、、自分で兜とか、、クワガタを
樹のクズの中で育てて、、白いソーセージのような
クワガタの幼虫を産卵させては、、、可愛がっていましたね~~~!!
この写真の樹の生えている林に
スイカにはちみつかけて
、、、クワガタを捕獲してましたね。
昆虫は小さいからと言って、
づ脳も小さいのかと思っては、、、
大間違いである,、ね!
弟も小さい頃、、虫さんや、、蜘蛛さんを好きで
槇の樹の根元の
蜘蛛とも昆虫ともつかぬ生き物を
捕獲して見せてくれたり、
蜘蛛なんか、、いろいろの種類を
家屋の板塀に這わせて、、、
白っぽい黄色の卵を産んで
家中が蜘蛛だらけになって困った事が有りましたっけ、、、。
寝ている兄の顔が,、
蜘蛛の糸で巻かれて、、、真っ白になっていて、、、
びっくりしたな===~~~もう、、!!
蜘蛛はどんな気持ちで、、、人間の頭を糸で巻いたのだろうう??
昭和の終わりごろ、、
成人した弟は、
父と同じ外科の医局に入ったのでした。
そこで、、、「ガンの手術」が、、、
どうしても、、、
ガンの発見が遅くなるために
手術しても、、
患者さんは助からないで、、死んでいった事に
悩むが、、、
外科は診断されてから、患者さんが送られてくるので
自分で、、
早期のがんを発見して、、
なんとか、、外科の先生方の努力の手術が
報われるようにしたいと、、、考え始めたそうです。
もやもやしているときに
人生の神様は、、偶然に、
国立がんセンターの、市川先生との巡り合いをクダサレタソウデス。
弟の転機として
運命の神様が
市川先生との出会いをもたらしてくれたようでした。
市川先生は、昭和40年代には「二重造影」という
レントゲンの画像が
立体に映し出される
回転式のレントゲンで
「早期のがんの発見」が夢ではないという
医師の間では、、、
必ず死んでしまう「がん患者さん」の為にも
少しでも早期に発見して
手術で5年10年と延命できるように、、
医療機関は
「二重造影」のできる
立体放射線機能を駆使する
回転式のレントゲンを導入しました。
勿論、、父と兄と、親子で開業していた我が家にも
分厚い鉛の部屋がつくられ
回転式のレントゲンが導入されました。
サラリーマンの月給が2万とか言っている時代に
数百万かけて、、整備を整え、、、
兄も父も、、張り切っていました。
この時から、、、先端医療への時代の風が吹き始め
医療機械のヴァージョンァップで、
開業医が医学の進歩を追うという事は
「新しい医療機械に追いかけられ」て、、、
個人では採算が合わない時代に突入しました。
弟は開業という考えは持っていなかったようですね。
市川先生に巡り合えて、、、無給の研究員として
がんの早期発見で、
外科の手術が無駄になることから脱却したい夢を持ち
弟ば大學の外科の教授に許しを得て、
市川先生のもとでCTの開発の研究グループに入り
そのまま、、はまり込んでしまい、、、
市川先生が、
給料を出すからがんセンターに残らないかとお誘い下さり
弟の、、子供の頃の、、命への探求心が
がんセンターに根がついて、、、
定年まで、、、CTや、画像の探求で早期発見。
日本中の専門家の間でも、評価されて、
いつの間にか、、、TVや、本に出ていたㇼ
北海道で、雪だけ掻いている様な
姉の私とは
次元の違う人生の研究生活が
新聞などで、私の目にも留り
「弟とよく似ているな~~~」思ったものでした。
読売新聞の面に写真入りで記事が出て
紙面の半分が
「早期がんの発見が可能になり、
がん患者さんが、
ガンとの共生が出来るようになったと
治療に通院しながら、、明るい表情で出勤する会社員も紹介され始めました。
子供の頃,、昆虫や,蜘蛛をいっぱい飼っていた弟が
ミクロの生き物に似た、、、悪魔の落とし虫のような
がんの細胞に興味を持ったきっかけは
小さい生き物の命の不思議に
取り巻かれていた環境が、
大きな影響を与えたのではなかろうか??
私も、駿河台の日大で、薬剤師の免許を取得する傍ら
夜学で大学院生と一緒に、教職を選択して
中学と高校の理科の教諭の免許を取得した。
地学の実習などは「昇仙峡」の現地での授業であり
河原の石の中には面白い虫が張り付いていたㇼ、、
昆虫たちとの地学は、
多くの化石や、昆虫館へと足を向けさせるようになってきた。
やがて、息子が「クワガタ」や「兜虫」にはまるころ
息子達の修学費用の為に現場復帰を志て
10年以上のブランクを埋めるために
北大の薬学部に、聴講生となって、
最近の病院で必要になっている
免疫学などの取得に通い始めていた。
天然物化学に授業では、傑作な事を聞いた。
カメムシを
5キロも集めて
研究している人がいることを聴いた。
一匹でも臭くて、、、逃げ出したくなるカメムシを
5キロも、、集めた研究者が居るなんて、、、
好奇心は、、、気絶するような臭さも乗り越えるから、、
いったん研究にとり付かれた研究者が
政権交代で予算をけづられて
研究を中座して
研究所から出てゆくのは
寂しかっただろう、、、と
政権と研究者の心をふと思ったりもした。
政治家さんから観ると、日本の研究費は出し渋りたい部門に入るらしいですね??
虫さんをバケツ一杯集めている大人は
《正常域の頭脳なのか??》と
思うかもしれませんね。
そのころ、、、国にとっての大切な、、、
その生命の長短は、
国の運命も左右するという人たちが
「がん」になる、、、。という時代に入りました。
CTで早期がん、、、発見で、
10年生存率が出始めました。
20年生存という、、乳がん患者さんも出始めました。
早期発見のがんを切除して、、、平均寿命まで生きて
がん発見の当時は幼かった、、、娘さん二人、、、
娘さんたちを大学卒業させた時
外野の私まで、、、お礼を言われて、、、
わかりました、伝えておきます、、、と
電話交換手の役に徹していました。
時代は、、早期がん、、、
助かる時代になったのだと知りました。
国立がんセンターの検査研究の部署に
弟が勤務していたことも有り
北海道から、、親族に会いたいというのが本音であるが
人生の一番忙しい時間に差し掛かっている。
お互いに、会える時間など、、皆目なかった。
その時北海道の公的な職業のVIPが
3人同じような「がん」が発生して
お二人は道内で医療生活に入り
後のお一人は、、、
その方が、
主人の義弟が
国立がんセンターでCTの開発をしていることを
新聞で知ったという事で、、
東京の弟の診断を受けたいという事で
主治医の了解も得ているという事で
弟の所で、もう一度検査をしたいと上京して
東京で「がん」との闘病生活に入りました。
入院された時は、、、
「私が北海道に帰ってくる時は
四角い箱で帰るのでしょう、、ね。
幼い、、二人の娘が、、可哀想で、、、」
男泣きしていらしたのですが
無事に手術を終えられたおかげで
平均寿命を超えて、、生涯を全うされました。
全く外野で、、、私は、、何もしていないのです、、、
外野の外野ですが、、、
私のダンナの知人だったことも有り
お電話を戴きました。
自分の御主人が、がんセンターで、
CTに映っていた「がん」を
ひとつ残らず、、、手術していただき
お腹の中を、、
すっかり掃除してもらい
退院しました。、、、
お電話を戴きました。
私はは全く、、、、、
指一本も関与できない主婦でしたから
その患者さんが、私にお電話くださったことを
どう受け止めればよいのか解りませんでした。
無関係な外野ですからね。
「がん治療の進歩」が、
患者さんの、ご家庭を救った出来事に
心より、、医学の進歩は、、家庭丸ごと救う事を目の前で見た。
私も、、、ガンになる前の段階で
巨大な腫瘍を、、、手術した経験が有ったので、、
「誰かに、、、お礼を言いたいという、、、
王様の耳の童話を思い出しました。」
「良かったですね、、、「患者さん御自信の回復力」を
呼び戻せたのですから、、、もう安心ですね!、、」
夫人は、こうも言っておられました。
「病院を退院する時は、、生きてはいないと、、言っていたので
覚悟をしていたのですが、、、
帰って来られました、、、。」
確かに、、、人生のある期間、、、
ガンなどに負けてはいられない時期が有る。
実際に生きて行くうえで、、
息子達が私立大学に進学
ハッチャ気になって働く両親の時代である。
東京の私立大学に通う息子の部屋の掃除や洗濯、
調度品の調整などを兼ねて
築地のがんセンターに
「検査を受けに行ったことがあった。」
そして、自覚が無かったのに、、、
「赤ちゃんの頭」ほどの「良性腫瘍ではあるが、、、」
放置しておくと、、破裂して、、脾臓などにヨカならぬものが
出来てこないとも限らないから、、と
即時即決、、、机の上の電話から、
札幌の旦那の勤務する病院にTELを入れてくれて、
「明日の手術予約をしたから、今から札幌にかえって、
手術を受けなさい、、、」
弟は呆れた顔をして、
医師の家に生まれて、しかも、
「医者の奥さんとしては落第だよ!!、、、
こんなに、、大きな腫瘍が出来ているのに
気が付かないなんて、、、、」
ダンナは外科医であるから、、婦人科は全く駄目である。
私も、科が違うと,質問する気にもならなかった。
旦那の場合、、家族には、
全く医師として接することは避けているようだったので
私も、近所のクリニックにかかる様にしていた。
虫が知らせる、、という言葉、、、
「虫」、、、が知らせる、、、
昔の人は,、虫から、、、何を感じ取っていたのだろう、、?
超人的な,、第6感の世界の知らせを、、羽音が伝えてくるのだろうか??
私は、、弟に「手術後には頃合いを観て全身検査に来る」と
予約して、帰りました。
帰る前に、弟の部屋に立ち寄って
面白い写真が有るから、、見せるから、、と言われた。
弟は「日本にCTがまだ普及していないころ」から
画像が、医療に適応していない時代から
「医師が診断の為に必要と要求する画像」が映し出されるCTを
何とか開発したいと
東芝の社員や、
東北大学の教授になられた工学関係の人たちと
がんセンターに泊まり込んで、
廊下で寝ていた時期もあったというほど
「CTは急速に
発展研究の時代を迎えたのは
昭和の40年代から
昭和の晩年にかけてでした。」
この頃の「早期がんの発見」の黎明期の事を
資料に忠実に書かれた小説が
「がん回廊の朝」「明日への挑戦」「、、、」
かなり出版されていますので、TVのドラマにもなりました。
手塚治虫さんの、、「ブラックジャック」の漫画も
一世風靡している時代でした。
今では当たり前の、、ガンの早期発見が出来るようになるまでの
研究者の取り巻く「がん回廊の朝」
「明日への挑戦」、、などの単行本を読みふけった物です。
世界からの患者さんを受け入れていたカウンターが有り
国際的にも評価されて、東南アジアからは、
王族の人たちが検診に来るというカウンターには
国際的な窓口が設置されていたのを思い出します。
医療で、外交も成り立っていたような時代でもあった。
国立がんセンターに、東北から、偉い先生がやってきて
世代交代をした今では
知っていた。。。お世話になった先生も
どこかに居てしまい、、、
がんセンターの発足当時の小さいビルの方に居た弟の部屋で観た
読影依頼のフイルムが
部屋の端から端までの、、、
フイルムの堤防になっていた風景を、、、思い出すのです。
あの忙しい中で、、姉のフイルムを診断してくれて、
病理所見の予想図を描いてくれて、
手術後の病理の組織解剖図と、、、全く同じものを
手術前に手書きしてくれたことを、
今でも、、、診断の名医だと、、思っていますね
その絵は、、、医学の芸術だと、、、思いました。
日本緒終戦後、戦争を知らない世代が
戦後の復興の立役者として、
あらゆる分野において、、、
芸術がとしか思えないような
実績を残して
「団塊の世代」と言われた。
皆、、疎開地で生まれて、、、地球の生き物たちと
一緒に生きてきた、、自然が先生だったという幼年期を
価値観に自信を無くして
子供を叱れなくなった親たちを凌駕して
イケイケ、、どんどん、、、の素直さで、
終戦後の日本から、立ち上がった世代であった。
子供の頃、、我が家は、、昆虫だらけだったことを思い出す。
タマムシも飛んできた、
櫻虫もいた、、、
アゲハチョウも、、トンボも、、、
弟と、、ギンヤンマを追いかけた、
コガネムシは、、、洋服にも停まって居た、
カゲロウも居た、、、
名前をあげればきりがないほど、、
多くの昆虫とともに育った、、、疎開の頃。
虫かごには、、いろいろな虫がいた。
:::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
*********************************************
昆虫が羽をゲットする細胞の不思議
昆虫のさなぎがやがて、、、成虫となり羽化してくるまで
サナギの中で、、、次々とできる、、、内臓、、、器官、、、口、、、
サナギという密室の中の細胞の発生は
がん細胞にも似ているが、、、これらは
限りなく大きくなるがん細胞とは違って
小さな脳によって、適当なところで、、、増殖がストップする。
NHKの昆虫の番組の中で
☞ サナギの中の発生してゆく状況をCTで撮影した画面は、、、
もしかしたら、、、がん細胞と、、、普通の細胞の
謎を解くカギになるかもしれませんね。
石原慎太郎さんが都知事をされている頃でしょうか?
研究に関して、
「昆虫に興味はあるかい?」と聞かれたので
「お姉ちゃんも高校の理科を教える先生の資格を持っているから
弟に、、話を聞く資格があるよと、、、みえをはった。
「昆虫には、、ちょっとした観察眼はあるよ、、」
弟の部屋には、読影を頼まれた フイルムの入った依頼封筒が
まるで何本かの堤防を観るように、、、部屋を横切っていた。
フイルムの堤防をまたぎながら、、棚から取り出してきたのは
「昆虫や、昆虫のとまる野菜などをCTで撮影したフィルムだった。」
学会発表の緊張を解くためにも
スイカのCT画像などは、、、学者さんも
こんな写真を観て
すごい発想が浮かぶのではないでしょうかね。
「医師の希望する必要な画像」「画像診断医欠かせない画像」を
CTに映し出すための研究の延長戦で
このような、、
人間以外の動植物の組織が
CTによって、どのように映し出されるかと、、、
研究心の延長で、昆虫をCT撮影したものだった。
「昆虫の中は、、、私には、、空洞に見えた。」
しかし、、その時、弟は
「霧のようにぼやけた空洞に見える昆虫のCT画面」の
おぼろげな影を指さして
昆虫の腹の中の組織や成分が映し出されるようなCTに開発することで
人間の、肺や腹部や 脳の中まで
医師が病気の発生が見て取れる画像にするのだと、、、
言っていたことを思い出した。
あれから、、何十年経っただろうか?
20年ぐらいは過ぎたと思います。
今日の、、NHKの昆虫の番組に
さなぎの中をCTで撮影して
さなぎの中の昆虫が羽化してゆく、、、プロセスが
次々器官や臓器が画像に出現してゆく写真が出た!!
私は20年前、、
自分の腫瘍を見つけていただいた弟先生の部屋で観た
「おぼろげな、、、CTの初期の頃の昆虫の画像を思い出した。」
その時は、CTで撮影した霧の中のような
ぼんやりと映し出された昆虫の体内は
弟に説明されても、、、うっすらとした影からは
何も読み取ることはできなかった、
しかし、、今日NHKで観た
昆虫のさなぎの中の発育状態のCT画面には
はっきりとした映像で,、
各器官や臓器が判別できた。
53年間、、家庭に閉じこもっていた主婦の私にとっては
劇的な事であった。
あの後、、「日本の政権が自由民主党」から、、入れ替わって
鳩山さんの率いる政権に交代した。
弟は生涯を『CTや画像を通しての「がんの早期発見〗に
生涯の自分の夢を見つけていたようだったが
政権交代で、、研究費は大幅にけずられて
素直に政権に従って、、、研究は中座したまま
定年後に、お声がかかったところに移動していった。
がんセンターでの日々は政権交代で、、、愛知県からの先生方が
入ラ社っていたようですね、、、
弟ががんセンター去る前に、、、全部捨ててしまう前に
もう一度、、CTで撮影した虫の写真を観たかったものですね!!
NHKの、、、昆虫の成虫を製造するサナギの中を
CTで撮影したという発想に、、、敬意を払いたいと思った。
弟が、、がんセンターにとどまっていたのなら、、、
サナギの中の細胞の発生と、、、がん細胞の発生の違いから
細胞の増殖がストップするという、、、、生体の中の増殖が
何によって、操られているのか、、、融けそうな気がしました。
弟が、あのまま、、がんセンターの2年延長が出来ていたら
きっと、、纏めていた、、、あの膨大なファイㇽから
期待の論文が発表されたかもしれなかったのに、、、と思うのです。
美人ではあるが、、
「2番じゃだめなのですか?」の意見の持ち主から言わせると
その政権は、予算を減らして歩くのは良いと思うのですが、、、
管制まじかの0周年記念誌が出来る前に スタッフが入れ替わり
是も無く誹も無く、、、誠にめでたく50周年の記念写真麻真ん中には
国立がんセンターには
2年も居らっしゃらなかった、、
知らない先生の御顔が
映っていらっしゃいました。
東北出身という、、、超エリートな先生らしいですが
風のように現れて、、、風のように去って行き
創立から50年の、がんセンターの基礎をつくった先生方の
存在の香りが
消えて、、世代交代されて、、、弟の著書に、医学部の教本が有りますが
「肝胆膵の、DR,森山は 私の先生です。」と紹介された弟は
ハーバード大にいるとき、その先生のお言葉のおかげで
老化ですれ違う人に、、挨拶されるんだけど、、、
知らない人であり、、、アメリカは、トップの発言がすごい力で
現場の若いスタッフを動かすんだな~~と
アメリカの医療研究棟界の体質が伝わってくるようだったと言っていました。
ペットCTで検査してもらったとき
あまりの居こごちの良い精神的リラックスできる環境なので、、、
「ペットCTの検査室は最高ですね!」と言ったら、、
ホテルの様に、、お客サービスに見えるでしょう?
でも狙いは、、ぺットCTが、偶然に映し出すとんでもない役に立つ画像が
どんな検査でも確保できない部分のがんを映し出すような偶然もあるのです。
ペットCTの、、余規制内能力が引き出されて患者さんが助かることがあるのです。
贅沢で、、素晴らしい環境なのかと思っていた私は
環境も、、医学のうちなのだと知った。
新政権で予算を減らしていった政治の新政権の人には
きっと贅沢なスペースと映ったのではないでしょうかね。
がんセンターでの研究の予算が、、無駄に見えたのかもしれない。
50周年を迎えて、、人生の画像の改革の集大成の纏めをしていた頃
私は築地で手術後の全身検査でドッグに入っていた。
音楽の流れる、、、リラックスムードで、、
眠くなるような広い空間で
ペットの検査を、、最後に受けました。
確かに、、、放射線の機械であるから部屋には普通のホテルの部屋と違い
鉛の部屋になっているのだろうと推測していた。
政権が交代した議員から観ると
贅沢な空間い見えて,、予算をけずることの対象になったのかもしれませんね?
私は門外漢なので、、何とも答えようがないのですが、、
50周年を目の前に、、オトトの勤務する環境は
研究を続けられないような、、激震のドラマが起きたようでした。
後で週刊雑誌に、がんセンターの芸鬼神の記事の出た本が手に入り
院長先生など、、私がお顔を判別できた先生方は
どんどん辞めて行かれて、、弟の50周年を目指しての
集大成の研究の纏めも未完のまま、、弟は退官してゆきました。
私は、、お世話になった先生方の居なくなったがんセンターには
それっきり行っていませんが、、、
昆虫の腹の中の空洞だったように見えた写真を
ぼんやりとした影から,、
器官を読み取り、
画像を改革して鮮明な医師の必要な部分が映し出される画像に変えてゆく研究は
多くの「初期のがん」を映し出し
子育て中の活きなばならない若い年代の親たちを
がんと同居しながら人生のピークを走り切らせたことに
貢献したと、、一患者として、、、自分も78歳でまだ生きているから
あの時に観た、、、
自分の腹の中の
あかちゃんの頭のような
真ん丸な腫瘍画像と、、、
緊張をほぐして、、笑顔で観れた
昆虫の腹のCT画像を
霧の山頂のようなおぼろげな影からでも
昆虫の器官を判別できる、、、画像に改革すると言いきっていた。
読影してゆくまるで特殊な眼力の
ガンの早期発見の研究の為の空間でも
政権交代の直後には
予算を国に返還して
弟は、文句ひとつ言わないで
がんセンターから、、、
退官してゆきました。
がんセンターが発足したころの市川平三郎先生の著書の
乳がんの医学書は、、、
多くの若き母親の乳がんの早期発見に役立ち
赤ちゃんたちは、母親を失うことなく成人したことは
感謝であったと、、、読影に従事する医師の言葉でした。
市川先生は、小学校に置いて、小学生に
未来の後継者が出来るような、、、活気のある授業などもされていました。
兄が、国立がんセンターの内視鏡の指導者でいらした先生の
崎田先生の指導の下に、「内視鏡の指導医を許されてからは、、、」
父の残した開業の施設を、実験室に変えて、
オリンパスの製品の、電子の流れなどを、熱心に論文い書いていました。
やがて、開業は閉院してしまい、花束で囲まれた閉院の日には
多くの患者さんが、時代が要求する医学を取得してゆくのだからと
先代からの家族全員がお世話になったのに、、、寂しいですが
東京の下町には、、インドや多くの外人さんも住むようになって
個人開業はストレス時代に入ったようでした。
閉院は、開業より大変だと聞いていましたが
23人いた従業員に退職金を払って
二重造影のレントゲンや、初期の太い胃カメラや
3世代にわたる医療機械は
買い取ってしまっていたために
処分が大変だったようです。
地下室のある鉄筋コンクリート三階を壊して更地になった実家を観乍ら
東京都の230坪は、周りがビル街になり、、、小さな池の様に
航空写真では写っていました。
兄弟には、、、一円の相続も無くて、、、
院長だった華やかな日々に幕を降ろして、、
夫婦で、ケア付きの老人ホームに移ってゆきました。
東京下町の木造家屋地帯も、、buildingラッシュになりました。
親の後を継いでゆく、、開業は
したたかな、、、人間力が必要な時代になりましたね。
兄は、、慎太郎さんと同じ時代の人ですから
自分が主役でないと務まらない所が有りました。
患者さんに寄り添う能力に欠ける、、、発展家ですが
父が54歳で亡くなったことも有り、、、
大學に残りたかったタイプの人でしたが
父の後を引き受けて、、、町医者をやりながら
ほとんど、、がんセンターの崎田先生のもとに通い
父の残したもには、、、小石一つ残さないで、、、
老人ホームに行ってしまいました。
遺産などは一切なくても構わないのですが
昭和の時代を生きた「明治生まれの両親」の住んだ
東京の戦前と...東京の戦後のアルバムが
消えてしまったのだけは、、、返す返すも、、、残念です・
昆虫のように、、、依存するわけにゆかないで
北海道で、、、雪を掻く人生を過ごすことが、、、
時間のロスに思える今日この頃です
NHKの番組は走馬灯のように、、、CTの日本到来から
昆虫撮影できるまでの、、CTの発展ぶりの
その間の学者の先生方の、、、生き様と、、
政権交代のてんやわんやで、、、
交代したら、、世界から相手にされなかった事を危惧する。
国会で足の引っ張り合いしていると、、、
今回ばかりは、、、その隙をついてくる、、、半島が要る様な気がしますね、、、
NHKの紺ちゅう物語、、、多くの事を示唆していますね。
戦争にならない助け合いを、、、学びました。
朝に成っちゃったので、、、寝ます。
誤字 脱字、、間違い転換は、、、起きてから、、、します。
その後、、、何十年も、会う機会も無く
兄は81歳で英検の一級に合格して
86歳の今も、、リハビリ―で、、英語を駆使して
患者さんに、、、添い遂げる心を学び
人間の医師として、、ハートで働いていると
風の便りに聞いています。
千葉大学が一世風靡した市川先生のことも
食道がんの画香手術で有名だった中山先生も
知っている医師が少なくなった世代交代の時期となりましたが
弟は、日本人が{CTって??奈にそれ??}って言われた昭和40年代に
CT画像を改革する地^無を組んで
医師だけではなく、、、東芝技術陣
多くの工学者と円卓を囲み
今日のCTやMRIやヘリカルCTの時代の
基礎を気付いたがんセンターで
50周年を迎えてから、、、
政権交代の大嵐が吹いたがんセンターから、、、
是非にと、、、迎えてくれた東京の医療機関で
活躍していますが、、、団塊の世代と言われて、、寝る暇もなく働いた
弟たちの居てくれたおかげで、、、日本の戦後は切り抜けてきましたが
平和ボケしていて、、、日本も目が覚めた時には
ウクライナ戦争や、、、核戦争が、、、危惧される時代になっていました。
団塊の世代の人たちこそ、、、日本を救い、、、
昆虫のさなぎの中まで映し出す、、、CT画像の改革で
小さい昆虫や蟻んこの「社会性のような、、、」
居候生活や、、、依存生活,、、共生生活も
その、、、謎を解くきっかけが、、、CT画像だったという事に
昆虫が大好きで、、、昆虫の「フェロモン」の謎を
若かったら、、研究してみた^^^い!!
そして、、明治の蛮族の母の独裁家政で
鶴の一声で、、北海道の外科医との結婚を決めないで
昆虫のフェロモンを研究して、、、多くの
雄の昆虫を引き寄せて、、、未来には
出逢い結婚をして、、、
世界中を旅する研究の職業人同士の結婚をして
子供はつくらないで、、、
人生を、、、自分だけで丸かじり出来るような
興味のあることに、、うつつを抜かせる人生を、、選びたいね~~~!
アホカ、、私は(^^!!
東北の方から、、偉い先生がやってきて、、、がんセンターのスタッフの
中心になっていた人々は
過日は稚ブログをフォローして下さって大変ありがとうございましたm(__)m とても嬉しかったです🙏(そして嬉しいコメントも…💕)
長いお話でしたが、すごすぎて、夢中になって全部丁寧に読みました
弟先生は素晴らしいご研究を…小さな時は昆虫が大好きで
お兄様の顔を蜘蛛の巣でぐるぐる…とまでなってしまう程の昆虫博士だったのですね
それ程 昆虫の世界に夢中になるお子さんが
成人してCTスキャンやMRIなど研究・開発されて、世界中の沢山のガンで亡くなるはずの人達の命を大勢助けたというのは本当に素晴らしい事で、感動しました
政権交代がなければ、もっともっと順調に開発が進んで、日本は1番の医療大国にもなったのでしょうね😍
つくもずくも、2番ではいけないんですか?の政権交代が残念です💦
そのまま研究出来たら弟先生はきっと(ご本人はあまり興味ないかもですが)ノーベル賞も受賞されたかも知れませんね、人類に今以上に更に貢献されて…
CTもMRIも入った経験ありますが、こんな機械をどんな人達が発明するのだろう⁈と思いながら 入った時があります😉
そのすごさに感動しながらグルングルンの音を聞いていたというか…弟様だったのですねぇ😍😍
すごいお話でした
花鳥風月さまも、研究者として丸ごと人生丸かじりでフェロモンの研究者になられていたら、きっとすごい成果で〜
人類に貢献出来る内容なのかも知れませんね😍 昆虫って凄いのですね…
弟様はそんな凄い方なのに、穏やかなご性格でいらっしゃるのですね
本当にお好きなだけとことんご研究を赦されたなら、どんなに人類へ更なる貢献をされたのでしょう…
おバカな政権でしたね、取り返しのつかないもったいない、そんな残念すぎる政策をしてしまったとは…😱😨💦
花鳥さまのこのブログをそのまま読ませてあげたいです!
貴重ならお話をありがとうございましたm(__)mお身体に気をつけてお過ごし下さい❣️
子供のころから、興味の対照に夢中になる所があって、、、計算が無い心は、疎開先の皆から愛されていました。
村の「ミスKちゃん」が、嫁入りする「樽持ち」をしてくださいと弟に白羽の矢があたりました。
幼児だった弟が当日は羽織袴で行列の先頭に居ました。
しずしずと山道を歩くとき、
「ジョロ蜘蛛」を見つけました。
弟は行列を離れて、蜘蛛を小枝を折って
かきとり捕獲しました。行列は、その間
待ってくれました。
それから2時間ぐらいして、その間、
いろいろの種類を見つけては、林に入ってゆく弟を、、行列は止まってくれて、
それを家の壁に這わしたものですから、卵を産んで、、増えて大変でした。
、、、村の人たちは、幼児の好奇を、、行列を止めて待ってくれたのですよネ(^^
快男児でしたね!