花鳥風月、、2023年からの第二の日記

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2022年11月27日 | 日記
女性なんて、、、
  誰か、、
   出逢ってしまった男性の
  遺伝子を運ぶ,、、
    船、、
     いいえ, 舟、、、
       もしかしたら、、
          筏かもしれない。

出逢った男性が、評価する。

        

          遺伝子を、、、はこぶ舟
     筏かもしれない、、、

  男性は豪華客船で、、
      自分の遺伝子を、、
      運んでもらいたいのでしょうね、、、、きっと。

 関白宣言がヒットしていた時代の結婚相手が
   女性を私物化するのは
     言って聞かせても、、、無視するだろうし

     レディフアースト、、なんて、、、日本男児の恥とばかり

     明治の親に育てられた、、、戦中はの年代の

     日本男児は、、、社会のメンバーは女性禁止で
     
     女性は職場の花
     40過ぎたら、、、栄転と称して、、、

     課長,兼任、、門番に電話番、、に 案山子、、

      世界遺産の高野山だって
     5歳の頃、、お爺ちゃんに手をひかれた坂道の下で

    「高野山はな、、此処から先は、男しか、
       登ことは禁止されていたんだよ。」

     女人禁制、、、の事を聞かされながら

     宮武嶺雄さんと名乗ってくださった

     「母に幼少のころ出逢い、、、
      小坊主だった私は

     仏の言葉に似た不思議なものを、、
     黙って座っていた
     おなたのお母さんから感じた。


     僧としての修行に、邁進できるきっかけになった
     不思議な力だった、、、

     御習字の達筆な宮武さんは、

     半紙に筆で字を書いて下さったものを

     私は今もたいせつにしています。

     女人禁制の坂道が、、、今も存在していたとしたら、、、

     高野山は、、、果して、、世界遺産になっただろうか?

    そんなことは、、、
     高野山という「仏様の世界」にとったら

     末梢の事なのだろうか?

     女性は、、、誌を受け入れて、、、後は断食して

     即身成仏になることからは、、、
          遠い存在なのだろうか?

     
     母の愛とは、、、欲得を捨てて、
     子育てを天職と受け止めて

    仏の愛を戴いたものなのだろうか?

     偉いお坊さんになられた宮武さんは

     もう、、居ない、、

     宝亀院には
     高野山に登れた母の魂を高野の杜に流してくれたそうである。
     他の多くの仏の為のお経をあげてくれる日には
     母の魂も、、お経をしめやかに受け止めているでしょう。
     若くして、、高野山に逝った父は、今頃は

     きっともう、、位の高い仏様になって

     私たちを見守ってくれていると
     父だからこそ、、、理屈を超えて信じている。

     33回忌の最後の法要は、、、弟が私の分まで

    全て、手続きはしてくれたのだろう、、、

    高野山からは丁寧な葉書を戴いた。
    
     33回忌の母、、、気が向いたら
      いつも、、夢に出てきてくれる「白いボート」で

     遊びに来てください。

     手招きするので、、、白いボートに
      乘ろうとすると、、、

     真っ白な透明の光が

     白いボートを消してしまうのです。

    母の死に目には遭えませんでしたが、、、

     母が、、、最後に行ったことは

    「私、、、弐、、鋏を買ってきてほしいの、、、」

    医師として最後まで母についていてくれた弟は

    「お裁縫用の日本鋏を買ってきて、、、母に握らせたそうです。」

    母は、幼いころ、、、買ってはもらえなかった鋏を手にして

     安らかに、、、永眠に着いたそうです。

     弟に話しました。

    「 母は、、、子供の時に別れた実母に、、鋏を買ってもらえて

     嬉しそうに、、、お母さんに逢えたのよね、、、きっと!」

    弟は、、、初めて聞いた母の幼少時代の
     実母とわかれた「結核」という病気の恐ろしさが
       解決された現代医学に、
         万感の思いのようでした。

     今日のコロナによって、
     幼いうちに、、、母をなくす事の無いように

     政治力でも、、権力でも、、お金の力でも

     解決できない、感染症の収束を祈るばかりです。
     
     
    
     こんな深刻な話はさておき
     昭和10年代の誕生の、、日本男児の
     亭主関白は,、、言っても治る様な事ではなく

     亭主関白に近い旦那も、、、時代の考え方の
     被害を受けていると思いませんか??

    女房の能力を、
      社会に組み込むという
     「時間を融通し合う」柔軟さが有れば

     男性より長生きの女性の社会性で助け合い

      一人ぼっちの老人時代が 活気が出てくると、、、

     女性を社会に押し出して、定年後は

     女性の人間関係で、、、たわいもなく,、、

     笑って、、過ごすことが、、、
      長生きのコツだと思いますよね、、、

     女房と上下関係こだわるだけ

     社会が狭くなると思いますよね。

     カカアデンカの方が、、、ダンナも
     違う社会の面白さで、楽しいと思いますけどね。

        
     ちなみに
     父が54歳で死んでしまうなんて、、、考えなかった私は

     父が持っていた数種のゴルフ場を
     兄や、父の友人の先生方の運転のおかげで

     早朝の京王国道を走って

    父がメンバーであった、千葉のカントリークラブの
     山のコースで、

      兄に「身体を鍛えろ」と言われ

      有る時は、「江戸川のリバーサイドのショートコース」で

     その時代の「交際の為の必須な一つ」として

    、、
    「みなと」、、、というゴルフのクラブを

      スタンスをとった
        身長に合わせて
       
     オリジナルに作ってくれる運動具やさんでつくってもらいました。

       ゴルフで健康を保とうと

      
         レディースゴルフクラブの会員として

         コンペに参加すれば、
       格安の飛行機代金で、
    日本中のゴルフ旅行が出来る時代だった。

    {ローラーボー}という、、、

     メチャ美人の

     プロゴルファ―が居て、、

     兄も、友達も、、カレンダーを部屋に張ってあった。

     弟の友人に、大きな病院の息子さんがいて、、、

    お父さんは後継者として院長になってほしかったと

     推測できますが

     プロゴルファ―になって
     
      あか抜けた「青春を謳歌」しているように見えました。

     祖父が、勤務していた先の交流の仕方が
      部下にも、仕事の一環の様に
         素養を磨く、、、
    「バルブ時代」の始まりの時期だったことも有り

    「 ぜいたく品のゴルフ」というのではなくて

       仕事上の交際のアイテムとして

      猫も杓子も、、、ハイカラさん気取りで、
               、、ゴルフをした物でした。

     実績を得るためにも、、、男性は
     ゴルフの会員権の一つや二つは

      必要な時代が来ていました。

      我が家で居候をしていた従姉のお姉さんは

      腕前が「シングル」にまでなって、、」

      弟も、兄も、声をかけては

      ゴルフのコンペに一緒に行っていました。

    開業医の娘として、、、親戚づきあいや、
     義姉との付き合いは

        芝のゴルフ場の打ちっぱなしに付き合うということで

       

      「余計な会話をしなくて済む」という

     当時は、、
     ストレス解消と、
       健康法と、
     余計な出費の装飾品が要らない世界なので

        さわやかに、その時その日を
        いい汗を流して過ごせました。

        祖父の仕事柄、、明治の時代は

        宮さま方も「玉突きや、、ゴルフをされたそうで、、、」

        祖父は、たぶん、仕事の関係で

        玉突き台や、、、キューや

        象牙の球を持っていたのだと思いますね。
           

       父の早逝は、、、母を孤独にしたのかもしれませんね。

       結婚の相手になる外科医というのは
        母が進めた相手でした。
    
        北海道で、、たまたま先輩の結婚式で東京から来た
        新婦の先輩だった私の、、護衛を頼まれたダンナは

        私の頭越しに、母と意気投合し
        博士号を取得したら、、、お父さんお残した
        「外科の看板を、、、降ろさなくていいように
        此処で働きます」

        母にとっては、、、殺し文句だったと思いますよ,、、。



        母には、、「お父さんが若くなって

                 戻ってくるのだと、、」
       、信じてしまいました。

         夏休みには海外旅行で留守になる診療所を守って
         働いてくれる、、、
         「食べ放題のマグロの刺身を用意して

          たった10日で、、、アルバイト代金は
           相場の2倍は出していた。
         母の、外科医へのこだわりは、、、半端では無かった。

         過ぎし日のダンナの事を

         母は「息子が増えた」と、、、喜んでいました。

        しかし、昭和生まれの戦中派の男性は

        「俺,俺、、、俺、、、が強い亭主関白で、、、

         男尊女卑を踏み台にして

          家では、、、手伝ってくれないという

        時代がつくった日本男子は
       女房を私物として閉じ込めてしまう。

       入院患者さんなら、、、閉じ込められても

       その代償は健康回復!!
         めでたし、、、めでたし、、、
       
        しかし、、、この理不尽な、、男尊女卑の産物が

       母の時代は、、、10人兄弟の居る家も有ったという。

       「子育て、、、少子化、、、」を超える、、、男尊女卑!!

        確かに、、、振り返れば、、、

        何処の国も、男尊女卑の時代は

        女性は子育てが仕事だった。

     少子化になるのは、、、当たり前の、、、女性の進出、、

       どこかの国では、、女性の顔をストールのようなもので隠そうとする。

      男尊女卑は、、、問題ですね。
        世界では、イギリスの様に、、、

       出すぎて引っ込みのつかなくなった首相が
       超短期で退陣、、、サッチャーさんも、、、

        びっくりの速さで、、、社会から去るのも

        男尊女卑の歴史が長すぎたのではないでしょうかね、、、

     亭主関白の旦那の話は、、、
      御愛嬌の小話ですが

      これから「博士号を取得しなければならないという、、、

      外科医としては、、、
      学び舎に入った一年生のようなものでした。

     北海道では、、「よそ者の私」は、、、

     

        子育ての片手間にはできない専門職で
      知人も、親戚も、、居ない北海道で

       全てが、、待ったをかけられた、、気持ちだった。

          

      いっそ、、文章を書くのが好きだからと、、、

      放送局に、原稿を贈っていたところ

      明治乳業提供の「ママと赤ちゃん」という

      医療人だった専門的な基礎知識が役に立つ番組の

     専属アナとして採用されて、、、原稿も、取材も

     録音テープのつぎはぎも、、、デンスケも預けてくれて

     アチこっち取材して回り、、、

       出来上がった原稿を放送するという「アナウンサー」として
    、、感謝して

      一生懸命仕事をしていました。

      おりからの、、札幌市が募集する「お母さんの童話」などにも

     この、、見知らぬ人住む都市の中に、、、新たなる友を求めて

      応募しました。

      「子ぎつね、、コンの木」という童話は

       NHKの札幌局で採用になり、、TV放送になり、、、

       放送関係のアルバイトも

      「本採用の女性は少ないというときに」

       仕事の全部を任せそうなタイプなので、

       「正職員のスタッフとして、、、プロの道への一歩をどうだい?」

       話が有ったので、、、亭主関白の旦那に話したら

       ゴルフとか、、放送だとか、、、
        北海道は、まだまだ

         「男尊女卑」の絶対多数の、、
         社会情勢の札幌では

        ダンナの理解は得られなかった。

         協力をしてくれることはなく、、、

       二人目の子育て計画の専業主婦であることを
        希望するのが

        「 亭主関白の時代の流れ」だったのだと思いましたね。

       すごく良いチャンスをつかんだんですよね~~~
         旦那が
奥さんの孤独を理解できない時代なんですよね、、、そのころは、、。

       女性も社会参加しなくっちゃ。。。

         言って治る雰囲気が、、、全く亭主関白で
        女性の座布団の無い時代の、、、哀しさよ!
        結婚も、子育ても、住居感覚も、、、

      土煙とともに舞う昭和44年の札幌との出会いでした。

        24条までしか、都会の雰囲気は無かったですね、、、。
       札幌の発展は、、、素晴らしい速さで都会になってゆきましたね!
    

        
          亭主関白の土壌である、、、
          北海道の
       唯一の国立大学の医学部卒業は

      東京の様に、、、大学だらけの所とは違って

       偏差値とか、、国立とか、、、札幌市立とか

         偏差値とか、、、東西南北の高校が

           名門とか、、、数字が順番を決めている様な

             東京の都民の感覚とは、、、大いに違っていて

          戸惑う事ばかりでした、、、ね。

   文句を言う気にもならない、、、
     昭和40年代の札幌の

      北海道大学生は、、、たった1個の総合大学だっただけに

      エリート意識も高くて、、
       北海道でも、、オレオレが

         まかり通っていたようでしたね。

      別格の権威が有ったようでもあり、、、

       東京から来ると、、、感覚がマヒしましたね。

      大学だらけの東京での感覚は
           北海道では通用しない時代だった。

      亭主関白は、、、男の甲斐性の様に、、、

      まかり通っていた時代でしたね、。。。

        可笑しいよね、、、!

    二人の息子の育児中でも、、、
     車は置いて行ってくれないし、、、

      新聞はとってこないし、、、
       雪は搔いてくれないし
         ゴミは一度も捨てに行ったことが無い。

      近所では、ゴミ捨てを見られるのが、、、
        男の孤剣??恥ずかしいとか?

     朝の運動に良いと言っても、、、それは、、出来ない、、、

    仕事上、汚れた物には触れない、、、

    男の仕事は、
     患者さんに接触するのは 
         清めた手で   
         
      
   その点
      女族は、、、
        赤ん坊の
            おむつを
               替えるのが仕事の手。

  ゴミなんか鷲掴み、、、、気取ってる場合ではない。


    結婚と同時に
      有ったかもしれない女性の
        知性の出る幕は無くなる

     知性が眠らされて、、、
       筋肉の出番となる
        もとの姓名の本当の自分は、、、

       長い長い眠りにつく。

      再び、、、私の知性が戻るまで
     社会のシステム上、、名前は無くなり

  だれだれの、、、奥さんという、、
   何々ちゃんの、、ママ、、

   記号のような自分に変身。
    名前は無くなった。

   社会のシステムの中で、、
    出逢った男性の遺伝子を運び終わるまで

     生れた時の
      自分の姓名が
       消えてるだけのような錯覚で、、、

      人生の小舟は漕ぎ出す。

     


再び、、私の知性が戻るまで
認識と、眠りの境界線上で
此の世の姓を受けた者の
    義務に従って、、、筏になって,、

小さな舟になって、、大河の一滴となって
流されながら、、、漕ぎ続けよう。

認識と、、、眠りの、、境界線上で

束の間だけと感じるかもしれない、、、
   女性としての、
    目的に向かっていた自分から解き放されて

  大河の流れに沿って、、一滴となって、、、
   子育ての海に向かう。
    子供だけが見えて
      自分の姿が見えない時間の海に出てしまった。

   小さな私の舟では、、水脈にながされて、、、

   行き着くところまで、、
     浮いている以外の力は通じないだろう

   沖に沖に、、、水脈は私の舟を吸いこんでゆく

     成り行きで、、遺伝子を運ぶ仕事を、、、引き受けた。

       母の生い立ちから、、、母の愛を知らない母
    

    子供の頃、、実母を失くして、、、
    母の愛を知らないで
    継母に育てられた、、、私の母は

  母の愛を知らない。、、、私の母、、、

  娘への愛は、、、「忍耐する事」と教えられて、

  クラス中の生徒が持っていた、、、
    小さな鋏を買ってもらいたくて

  実母の寝ているやぐらに這い上り、、

  幼い母は、、、「母さん、、クラスの皆が持っている鋏
    ワツィは買ってほしいの、、、」と

  日参するうちに、、
   「母の母さんは、、幼かった母に言ったそうです。」

  これからは、、「母さんは貴方といつも一緒だから

   どんなことも、、我慢して、、我慢の舟だけが
     あなたと母さんの部屋だからね、、、

   母さんが見えなくなったら、、、「我慢」をして

   目をつぶり、、

   母さんと一緒に居る事を信じてね、、、」

  「私は、、鋏が欲しいの、、皆が持っているのに,、、買って、、」

母と娘のの会話は、、、、
  かみ合わないまま、、、二人は別れてしまった。



  結核だった実母は、

    自らの寝所をやぐらの上に建てて

    梯子を這い上る子供らが、、
   病室に端、入れないようにしていたと。。。

     母は、、無表情に話していた。

   

彼岸花の咲くころ、、、
巨大な彼岸花に乗って、
、母の母は、、、天国に旅だった。

  櫓に組まれた杉の木は
   母の寝所の有った家ごと

    彼岸花になって、、、真っ赤な炎は

  幼い母と、、弟の前で、、
心に忘れられない赤い花になった。

  どんな苦しい時も、、
忍耐の花になって無言で心が燃え続けたという。

辛かったろう、、、
  寂しかったろう、、、

  そんな母にも、、父のような伴侶が現れて

  母は、どんな苦労も乗り越得て来れたのだろう、、、

それから、、、

父が54歳という若さで死んでしまった。

死ぬ直前の数日前

  今にも死んでしまうかもしれないという、、、

   苦しそうな父を見た。

 薬剤師の兄は「ちおくろーむ C」という

  呼吸が楽になる薬を
  父の鼻の前で香がした。

 一瞬甦って、、、何事も無く月日は流れ

  そして、突然、、過労死で、天国に飛翔した。

  もったいないような、、若さが有ったのに、、、

私もしばらく知性が眠り続けた。

知性が戻るまで
認識と眠りの境界線で、、束の間だけど

私自身の命の持続から、、、解き放たれたような気がした。

私は、、、死んでしまったのでしょうか???
父の消えた時空を飛び続けながら、、、
速度と、、重力から切り離された点となって、縮小してゆく。

点になった私、、、

父と二人の空に出た

あの二つの命は、、、すでに、、癒合してしまって

天国とやらの空を、、父と一緒に浮遊している様だ。

こんなに父の傍に来てしまったのだから

私は死んでしまったのかもしれない。

父が先導する天国とやらへの空間遊泳は
二人とも「星」になって浮かんでいる様な感覚だった。

あの日から、、、私は

   今も生きているのか>

   宇宙に居るような、、、浮遊感のまま

  家に閉じ込められてしまったような

  男尊女卑。

  関白宣言が大ヒットした時代の

   昭和の男性と、、、背中合わせの生き残りゲームをし続けた。

背中合わせに、、
男性は男性の社会で、、
ひたすら生き残ってゆくだろう。

此処は北海道、、、

半分の季節は雪を掻きながら、、、

故郷を思う。

幼い時の父母の居た故郷が、
無くなってしまった「私」を抱いて

旧姓のままの、、、
まぎれもない娘の私に、、、
手を振っている。

川べりに、、母が小さな舟で迎えに来てくれて

  手を差し出して、、
      乗せてくれるのかと待っていたら

真っ白な光が、、ピカリと光って

 一瞬目が見えなくなった。

舟は消えていた。
  私は、、、、、、白い光が

   舟を消してしまった事に



     あの小さな舟は、
     母が乗っていなかった。

   旧姓の
     私自身の思い出が、
     舟になって、
     岸辺に泊めてあったのだった

   日本の女性は、、
    、結婚したら、、、名前も無くなる、、、

   私は、、
     確かにあった旧姓の自分を探し続ける。

    寝むい~~~~このまま、、ドッタって

     眠りに入り、、、廊下で寝てしまうかも、、、

        おやすみなさい、、、

  

  



  

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