今日は、以外に涼しい。
昼寝ござにころがって、16日に買ってきたパンフを眺める。

16日にめぐった、かながわ名木100選・宝城坊の幡かけのスギ。


大木が二本だが、実は根もとは一緒の元々は一本のスギであったようだ。
なんで?幡かけというかと言えば、かつて、天から降ってきた幡が駄目になり、1364年に関東公方の足利基氏が錦幡を寄進した幡をかけたからから、らしい。
幡・・・
スギ様ばかりに気をとられていて、調べもしないで行った。宝城坊。
実は、日向薬師様と宝城坊様の関係が、さっぱりわからなかった。=なら、日向薬師の幡かけのスギとなってるはずだよな。
そうか・・・こういうことだったのか。

かつて、薬師堂霊山寺というお寺があって、大寺院の常で坊があった。日向薬師様には、坊中八大坊というのがあり、その別当坊が宝城坊で、今は真言宗のお寺として霊山寺を伝えるという解釈でいいのかな?
詳しくはいろんなところに載ってるから省く。
それにしても、宝物だらけである。









仮本殿へ行ってみる。


仮本堂脇は、売店と休憩所とトイレ。御老人が数人くつろいで、商売をしてる風がない。なんとものんびりしてる。そうだよなぁ。薬師様だもんなぁ。

仮本堂は、拝観料が必要なようだ。向かい側の仮社務所に鎮座されていたのは、お坊様というよりは、サーファーという感じの若い日焼けイケメン君。失礼。師。拝観料は300円だったが、本堂の改修寄付を募ってる立看あったから1000円札出して残りは寄付と申し上げたら、お釣り700円くださって賽銭箱へと。仮本堂の受付で、なんでも聞いてください!と頼もしい。
仮本堂となってるが・・・これは、仮ではない。大改修が終っても、ここにおわす。耐火防犯構造の事実上の本堂だ。火災に盗難に様々な危機がある。国宝・重文クラスでは珍しいことではない。寂しいといえばそうだが・・・しかたあるまい。人の業はかようなまでに深い。
撮影禁止であるから、パンフから。


様々ないにしえの仏像様がぎゅっとおられる。ものすごい迫力だ。
獅子頭様もある。これは、何気にすごい。
それにしても・・・
サーファー坊様に質問。なんで?こんなにも荒々しいのですか?
意味が伝わってないのは当たり前だが・・・。
行基が日向薬師の開創の祖であるということは、長く伝えられたこの寺の根本的信仰であるが・・・とは、パンフにあった。
サーファー坊様からはそこをてきとーにお答いただいたが・・・そうだよな。最初から真言宗ではあるまい。
行基様か・・・
学者によっては、聖徳太子の生まれ変わりとすらする説もある。
パンフを要約すれば・・・
行基が奈良を出て熊野に詣でた時、らい病の患者が捨てられてるのを自ら背負って熊野本宮の神泉に浴させたところ、金膚肌滑の尊者となり、浄瑠璃世界の主薬師如来を名乗り、我が姿を模してこれを将来に残せ、とおおせられて樹葉を与え、この樹葉のいたるところ即ち汝が止まるところ、汝が止まるところ我が像の存するところと姿を消した。
行基がその樹葉を天に投げたところ、相模国日向山にとどまった。像をつくろうとしたが、相応しい材料がなく困っていたところを、熊野権現・白髭明神があらわれて香木を与え、この香木をもって薬師如来を刻んだとある。
が・・・これは、霊亀2年とある。
ま・・・霊亀3年には国家から罪人として追われてるような身である。行基様。
白髭明神とあるが・・・これは白山信仰と関係あるんじゃないか?・・・
この縁起は・・・ま・・・
もうひとつの縁起は、持統天皇13年であるらしい。
役行者が八菅山に来山した折に、薬師仏の秘法を修め、各100体の薬師・地蔵・不動の像を彫って開眼供養。有縁にその徳をわかつため虚空に投げ、各仏空中より落下。薬師は日向・地蔵は蓑毛・不動は大山に落ちておのおのになったらしい。また、これらはそれぞれの幡になって落下したともいう。
ほう・・・役行者か・・・
いずれにせよ・・・当時の権力からは・・・
なんともかんとも謎めいてる・・・・・
そういえば・・・・
鶴巻の大ケヤキ様をたずねた時、佐藤のおばあちゃんから教えられて、地蔵と神社に寄ったな・・・
蓑毛の地蔵様は、延命地蔵様になったというんだっけ・・・
あそこの延命地蔵様は、江戸時代の豪商の勧請と説明書きがあったが・・・


神社の名前は、おばあちゃんから聞いた時にはなんじゃらほい?だったが・・・落幡神社だった・・・

んんん・・・・
なんだろうねぇ・・・・
また悪い癖がはじまりそうだ。
夕飯の用意しながら十八をしたら少し体楽になったが。ま。寝よう。