300年の鎖国の鎖を外した日本国には怒涛の如く西洋文明が押し寄せた。
当然のことながら、日本へ赴任する外国人もいれば一旗揚げようと来る外国人もいる。当然のことながら、外国人が生活するための様々な事象も発生する。
一般庶民レベルでは互いになにがなんだかよくわかっていないのだから、無益な衝突等を避けるために港を開いたところには外国人居留地が設けられた。
横浜では、今の日本大通りをはさんで、港に向かって、右が居留地で左が日本人の暮らす町だった。
更に居留地は、堀川を挟んで山手と山下に分かれていた。山手は西洋館の並ぶ一帯で山下はほぼ中華街。
KAAT神奈川芸術劇場の裏側に残るのは、現存する横浜最古の煉瓦造りの建築、正確に言えば遺構、旧横浜居留地48番館。
旧横浜居留地48番館。県重要文化財。
所在地:中区山下町54
構造規模:煉瓦造
建築年代:明治16年(1883年)
設計施工:不詳
モリソン商会が明治16年から大正15年まで使用。
関東大震災で当初は2階建だった建物は平屋となり規模は6割縮小。
中に保護されているフランス積のレンガとキーストーンが当時を伝える。
建造物という情報は変わらないのに、その時々によって自分が変わる。
今、明治の頃の遺跡を見てると、コレラという言葉が浮かぶ。
明治政府は実はコレラとの戦いに明け暮れたのだった。
文政5年(1822年)。
長崎に上陸したコレラは瞬く間に広まり、日本初のコレラの大流行。患者死者十数万人。
安政5年(1858年)。
長崎からコレラが入り大流行。患者死者十数万人。
明治10年(1877年)。
長崎・横浜からコレラが入ったけど、この時は、患者13.816人死者8.027人。
明治 12年(1879年)。
この時は、患者16万人死者10万人の明治時代最大の流行となった。
明治15年(1882年)にも、患者4万人死者3万人。
明治23年(1890年)には、コレラの患者4万人死者3万人の他にペストも入ってきた。
明治28年(1895年)にも、患者5万人死者4万人。
そして大正7年(1918年)にはスペイン風邪の世界的流行で、日本国民の半数がスペイン風邪に罹患し死者は40万人を数えた。
その時の人々は、どんな風に暮らし、なにを思っていたのだろうか・・・
言えることは、先祖たちがそんな状況を乗り越えてきて私たちは今ここにいるということだけだ。