バスはユジンを乗せてゆるやかに南怡島に向かっていた。今日もバスの中は人がまばらだった。ユジンは迷うことなく一番後ろの右側に座り、今も変わらない春川の景色に目を細めた。チラリと横の席を見ると、チュンサンが照れたような笑顔で自分を見ているような気がした。不思議と今日はチュンサンが近く感じられる。ユジンはそっとバスの窓を開けて、冬の空気を吸い込んだ。春の匂いもほんのり感じられて、心が和むのだった。
その頃サンヒョクは真剣な顔で車を走らせながら、電話をしていた。
「チェリン?」
「サンヒョク。どうしたの?」
「あのさ、これから聞くことにちゃんと答えてね。」
サンヒョクの声はいつになく真剣だった。チェリンはオフィスのデスクで雑誌をめくっていた手を止めて、けげんな顔をした。
「チェリン、ミニョンさんにはフランスで会ったんだよね?」
「うん、急にどうしたの?」
「ミニョンさんはアメリカ生まれのアメリカ育ちだろ?」
「そうだけど、いったいどうしちゃったの?」
「それじゃあ、やっぱりミニョンさんはチュンサンと何の関係もないんだよね?」
「もぅっ、あなたまでどうしちゃったのよ?!」
「あなたまで?いったいどういうこと?」
「ああ、この前ね、ミニョンさんにもチュンサンについて聞かれたの。だからサンヒョクまで言うわけって思ったのよ。」
それを聞いてサンヒョクの顔色が変わった。
「そうか。ミニョンさんがチュンサンのことを聞いてきたのか。ありがとうチェリン。もう切るよ。」
サンヒョクは電話を切って考えた。自分が思っている以上にミニョンは真実に近づいているのかもしれない。頭の奥で警報が鳴り響いた。サンヒョクはアクセルを踏んで、車を急がせるのだった。
チェリンは謎の言葉を残して急に切られた電話を見つめていた。ミニョンの動揺、サンヒョクの切羽詰まった声、何かが起こっている。今すぐに確かめなければ、チェリンは心の声に従って、コートを着込むとオフィスを後にした。どこに行くのかというチンスクの声がしたが、チェリンは気もそぞろに足を早めた。
チェリンが急いだ先は、ミニョンのオフィスであるマルシアンだった。チェリンはミニョンとの面会を願い出たものの、受付の女性は申し訳なさそうに、所在はわからない、スキー場には行っていない、と話すばかりだった。チェリンは露骨にがっかりした顔をしてマルシアンを後にした。
サンヒョクは春川第一高校に着くと、すぐにカガメ(ゴリラ先生)を探した。自分は一線を越えようとしている、と脇の下が汗ばむのを感じた。カガメに挨拶もそこそこに職員室から連れ出して、資料室へと急いだ。カガメは仕事中に連れ出されてご機嫌ナナメだった。
「全く、卒業した奴らはどいつもこいつもけしからん。一生懸命指導して一人前にしてやっても、誰一人結婚式に呼ばないときてる。全く恩知らずな奴らだ。」
「先生、そんなことないです。ユジンと僕との結婚式は急に決まったんです。ぜひ来てください。」
カガメはだいぶ気分が良くなったようでにこりと微笑んだ。
「そうそう、そうこなくちゃなあ。ははは。」
2人は資料室の前で立ち止まった。今なら引き返せると思いながらも、意を決してサンヒョクは口を開いた。
「先生、本当に見てもいいんですよね?」
「本当は本人か家族以外には見せちゃいけないって知ってるだろ。」
「もちろん知ってます。ありがとうございます。」
カガメは満足そうにうなづいてまた歩き出した。こんなことは学年1番の優等生で父親が大学教授のキムサンヒョクでなければ許さなかったであろう、そんな考えが脳裏を掠めた。
二人が資料室に入ると、事務員が調べたい生徒の名前を聞いてきた。サンヒョクが「カンジュンサンです」と繰り返し伝えると、事務員は驚いた顔をして振り返った。
「カンジュンサン?」
そしてじろじろとサンヒョクを見てから、すぐに棚から資料を取り出した。カガメが
「いやに早いじゃないか」
とびっくりして事務員を見つめている。
「ええ、実はさっきもこの記録を見たいという人が来てたんです」
今度はサンヒョクが驚く番だった。
「誰ですか?」
「若い男性でした。でも本人か家族でないと駄目な規則になってるんで見せませんでしたけど。それでも、住所だけでもいいからって言われましてそれだけは教えたんです。」
サンヒョクの顔はみるみる曇っていった。イミニョンがここに来たことは間違いなさそうだった。そして、事務員から渡された書類を見て心が沈んでいった。そこには『母親:カンミヒ』と書かれていた。父親の欄は空白だった。
やはりイミニョンはカンジュンサンだったのだ。
そのころミニョンは事務員に聞いた住所をもとにカンジュンサンの家について車から降りた。そこは住宅街の一角で、家は細い路地の奥のため、だいぶ手前で車を止めて歩かなければならなかった。チュンサンの家はツタの絡まった石垣に囲まれた古い平屋だった。表札はかかっておらずだれも住んでいないようだった。緑色の門を開けてそっと中に入る。不思議なことに門にも玄関にもかぎはかかっておらず、まるでミニョンが入ってくるのを何年も待っていたようだった。ミニョンは庭の木立や家屋をきょろきょろと見渡した。物音ひとつしない静けさに、異次元の世界に迷い込んだ気分になる。
思い切ってそっと玄関のドアを開けてみた。長い間誰も住んでいない独特のにおいが鼻を衝く。まず目に入ったのはカバーをかけられたソファーだった。勉強机に小さなタンス。一応声をかけようか迷ったが、静かに中に入ってみた。奥にふたが開きっぱなしのピアノが1台置いてある。ミニョンは静かにピアノに近づいた。そしてそっと鍵盤を押してみた。
その時だった。誰かがそっと入ってくる気配がした。ミニョンは今の持ち主が来たのだろうと慌てて振り向いて驚愕した。入ってきたのは母親のカンミヒだったのだ。
「母さん?!」
ミヒはミニョン以上に驚いて自分の顔を見ていた。その表情にはすべての真実が刻まれていた。
「ミ、ミニョン?!」
ミニョンは家を飛び出した。頭は混乱して気持ちはバラバラになりそうだった。今は母親の顔を見たくもなかった。無我夢中で車に乗り込み走らせた。できるだけ母親と家、自分の知らない過去から逃げ出したかったのだ。そんなミニョンをミヒは必死で追いかけた。
「チュンサン、チュンサン!」
もう一つの名前で息子を読んでいることも気が付かないほどミヒは取り乱していた。しかし、ミヒの鼻先でミニョンは車をスタートさせると、その姿はあっという間に見えなくなったのだった。