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(生い立ち~現在)

2007年12月02日 19時03分32秒 | Weblog
(生い立ち~現在)

 学校を解体した古材で建てた木工所兼住居で、毎日、ホコリが舞い、木材を削る機械音が響き、壁も屋根もトタン葺きの隙間風がピューピューする寒い渡り廊下を歩いて行く、五右衛門風呂(木材のきれっぱしが燃料)のある家で、大工(棟梁)の長男として生まれました。

 身近なおもちゃは木材のきれっぱしで、幼少の頃から、木材と触れることが多く、大工(棟梁)の父親の仕事をする姿がいつも目の前にありました。とはいえ、決して器用ではなく、どちらかといえば不器用で、運動神経が優れている訳でもない私は、大工という職業は幼少の頃からすばらしい職業だと理解しながら、結果的には建築士という職業選択になってしまいましたが・・・。

 中学生で将来の自分自身の職業を選択することは少ないと思いますが、そのような環境の元で生まれ育った為に、両親から説得された記憶もなく、(正直、強い意志があった記憶もありませんが・・・)高校と短大がいっしょになった高専の建築科を受験しました。それほど優秀な生徒ではありませんでしたが、当時、模範的なまじめな生徒だったため、中学校の推薦状をいただきました。高専の中学校推薦における受験は、作文と面接(東大出身の教授が、現在、花立山温泉のある筑前町の花立山の歴史を一方的にお話され、何も知らない私は、うなずいていただけのように思います。)で、合格させていただきありがたい話でした。朝倉郡筑前町(当時、三輪町)より高専(大牟田市)まで通学することは難しく、16才で親元を離れ、寮生活を始めたのですが、16才の少年から20才の大人まで共同生活をし、体育系大学のような規律の厳しい寮生活で、どちらかといえば、集団生活が苦手で、環境に馴染めず、精神的に弱かった私は、学校を辞めてしまいたいと思ったこともありました。(周囲の説得で、結果的になんとか卒業できました。)

 20代後半、イギリスへ建物見学に行きましたが、地震が少ない地域であり、そのような理由で、石、レンガ等の建築物が多いのですが、イギリスでは、古い建築物ほど資産価値が高く、日本では考えられない現象が起きていました。(日本の逆です。)日本の建築物は、地震や台風が多く、高温多湿の地域に建造され、屋内と屋外の温度差による結露発生により、老朽化してしまうのは当然で、資産価値が下がる事は仕方ない事ですが、イギリスのように300年以上も経ったレンガ建築は無理としても、100年ぐらい住める家を建てたいものだと思いました。

 仕事においては、紆余曲折ありましたが、住宅会社において4tトラックで木材の配達も行い、設計事務所においては、主に住宅、店舗関係の設計を行い、マンション企画会社を経て、現在に至ってます。
 
 寡黙な大工の父親なので、母親から聞いた話ですが、終戦時小学校低学年だった父親は、毎日、農作業の手伝いで、生活することに精一杯で、高校に進学できる余裕がなく、農家の次男で、農家を継げないことが分かっていたため、中学校を卒業し、その後、大工の丁稚奉公へと自分の意思で決めたそうです。そして、一人前の職人となり、20代後半、大阪の専門学校(夜学)に通い、2級建築士を取得しました。学問において大変苦労した父親なので、息子にはしっかり勉強してほしい、しっかりと学問を修めてほしいという願いで、私の名前は「修一」と命名されたそうです。(親の願いに遠く、あまり勉強出来ない申し訳ない子供でしたが・・・)
 私が少年時代、昼間は大工仕事をし、夜遅くまで図面を書いている父親の姿を思いだします。
 当時は、地元の家は地元の大工さんに依頼するのが当たり前で、最近まで、建設会社と分かるような看板をあげているわけでもありませんでしたが、当時は、口コミ、紹介客のみで、待っていただくお客様も多く、大変急がしい毎日だったそうです。(現在、70歳を迎える父親は、朝倉郡を中心に現役で大工職をしています。)

 平成18年9月に、お客様のお問い合わせが、福岡市近隣地域に集中している理由から、お客様が気軽にいらっしゃる事ができる立地条件の福岡市内に設計及び打ち合わせスペース(博多支店)を設けました。(狭いスペースの事務所ですが・・・・。)

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