統合失調症の人にとってつらさとは「生きる」ことそのものだ。病気と薬の副作用、そこからくるただ生きることの辛さだ。その辛さとは地球の自転に自分自身の生活の一日のリズムがまったく合わないこと、地球の時間と自分の時間の流れが同調せず失調してしまうことだ。
日の出とともに朝を向かえ、目が覚める。そして一日の活動が始まる。朝食を摂り、そしてその日の仕事や一日の営みがはじまる。そして日没とともに夜となり、夕食を摂る。そして夜の時間をすごし、そして就寝。その繰り返しが生きることであり暮らしであり、地球の自転に人間の体の時間の進み方も同調していく。
しかし統合失調症の人はその時間の流れが止まったり、進んだり、遅れたり、同調しなくなる。地球の自転を元にした24時間の世界の時間の流れ、地球の自転、宇宙の時の流れの中で漂流民となり、世界からはみ出てしまう。それが統合失調症の辛さだ。
宇宙の時間の進み具合から失調することがそのまま生きる辛さとなる。生きることが辛いのだ。しかしスイッチを切って命をきることはできない。命のスイッチはない。死ねないから生きる、しかし生きるそのものが辛い。その生きる辛さが楽になるように、体が自然にいろいろなことを試す。それが幻聴や幻覚、そして妄想、爆発だ。
しかしある人は気が付く、その宇宙の時間の流れに乗れたら、地球の自転にあうようになったら、世界の時間の流れとともに自分の時間の流れも流れるようになったら、朝とともに自分にも朝が来て、日が沈むと夜が来て、夜には眠れる、安らかに!
その願い、そんな思いから月の灯り作業所に当事者はやってくるのだ。
山手線を循環する電車に乗るようなものだ。自分の時間の流れを外の時間の流れと一緒になるように調整し作業所に来る。仲間と合い、作業をする・・それは電車の扉が開いて、電車に乗る瞬間だ。自分の体の時間の流れが地球に時間の流れと同調し、そしてポンと地球に乗るように世界の時間の流れに乗り、そして実在する人と交わり、そして実在する世界を仲間と共有する。そして家に帰ると、その電車から降りるように世界の時間の流れから降りてまた自分の時間という乗り物に乗る。そして翌日また出勤、そこでまた電車に乗り、世界の時間の流れに合流し、実在する世界と仲間と時間を共にする。・・・それを繰り返す。そして地球の時間の流れと自分の時間の流れが同じような軌道を回るようになり、実在する世界と自分が同調して時間が流れるようになる。そうして生きることの辛さが軽くなる。その軽くしたい・・・・その思いが作業所利用の大きな動機ではないかと思う。
そのために一人一人の方法があり、それが自己研究なのだろう。
統合失調症はまさに社会の時間の進み具合と自分の時間の進み具合が失調することだとしたら、統合失調症以外の人の辛さとは、それとは違い、例えば自分の欲求が実現しないことの辛さだとか、違ったものなのかもしれない。そのためにさまざまな方法を試して自己欲求の実現を試みていく。その実現行動や思考が作業所利用の動機なのかもしれない・・そうすると統合失調症とその他の障害者の利用の動機が違ってくる。その違いが、波やひずみを生み出すのかもしれない。
それぞれに「辛さ」があり、それを軽減しようとして、その人の生活、生きる動機が生まれる。その動機を自己理解し、そしてそれが他の人とどのように関わり重なり影響し、また共有できるものなのか、或いは反発するものなのか、そして愛であるか、力なのかをよく見極め、研究していくことが大切だと思う。
時間の進み方が、自然界の時間の進み方と違う統合失調症の当事者にいやでも朝がやってくる。望みもしないのにやってくる。朝なのに体が動かない、心にも朝が来ていないのに、活動を始めなくてはいけない。しかし心に朝は来ていない。それが辛さだ。
あまりにも辛くなると入院となる。それは時間調整の方法なのかも知れない。
時間がゆがむ4次元の世界に心があるのかもしれない。その歪みが宇宙にある重力レンズのような働きをして三次元の世界が歪み、その歪みが幻聴や、幻覚、妄想なのかもしれない。
それは統合失調症の当事者がもつ一つの広がりなのかもしれない。時間を旅することができる感性を持っているのだ。この世界の時間の流れに同調できない辛さがあるものの、心の中の時間は自分の時間の流れで流れていく。失調しているのではなく、分離し独立し、その人だけの時間の流れをもっているのだ。それを研究することが自己研究、或いは当事者研究、・・・そしてそれをともに考え、そして辛さを見えなくても理解し、そしてその時間のずれを見極め、いつその人の軌道とこの世の軌道が重なるかを見つけ出し、惑星探査のように、その当事者のありかを見つけるのを補佐するのが「支援」なのかもしれない。
日の出とともに朝を向かえ、目が覚める。そして一日の活動が始まる。朝食を摂り、そしてその日の仕事や一日の営みがはじまる。そして日没とともに夜となり、夕食を摂る。そして夜の時間をすごし、そして就寝。その繰り返しが生きることであり暮らしであり、地球の自転に人間の体の時間の進み方も同調していく。
しかし統合失調症の人はその時間の流れが止まったり、進んだり、遅れたり、同調しなくなる。地球の自転を元にした24時間の世界の時間の流れ、地球の自転、宇宙の時の流れの中で漂流民となり、世界からはみ出てしまう。それが統合失調症の辛さだ。
宇宙の時間の進み具合から失調することがそのまま生きる辛さとなる。生きることが辛いのだ。しかしスイッチを切って命をきることはできない。命のスイッチはない。死ねないから生きる、しかし生きるそのものが辛い。その生きる辛さが楽になるように、体が自然にいろいろなことを試す。それが幻聴や幻覚、そして妄想、爆発だ。
しかしある人は気が付く、その宇宙の時間の流れに乗れたら、地球の自転にあうようになったら、世界の時間の流れとともに自分の時間の流れも流れるようになったら、朝とともに自分にも朝が来て、日が沈むと夜が来て、夜には眠れる、安らかに!
その願い、そんな思いから月の灯り作業所に当事者はやってくるのだ。
山手線を循環する電車に乗るようなものだ。自分の時間の流れを外の時間の流れと一緒になるように調整し作業所に来る。仲間と合い、作業をする・・それは電車の扉が開いて、電車に乗る瞬間だ。自分の体の時間の流れが地球に時間の流れと同調し、そしてポンと地球に乗るように世界の時間の流れに乗り、そして実在する人と交わり、そして実在する世界を仲間と共有する。そして家に帰ると、その電車から降りるように世界の時間の流れから降りてまた自分の時間という乗り物に乗る。そして翌日また出勤、そこでまた電車に乗り、世界の時間の流れに合流し、実在する世界と仲間と時間を共にする。・・・それを繰り返す。そして地球の時間の流れと自分の時間の流れが同じような軌道を回るようになり、実在する世界と自分が同調して時間が流れるようになる。そうして生きることの辛さが軽くなる。その軽くしたい・・・・その思いが作業所利用の大きな動機ではないかと思う。
そのために一人一人の方法があり、それが自己研究なのだろう。
統合失調症はまさに社会の時間の進み具合と自分の時間の進み具合が失調することだとしたら、統合失調症以外の人の辛さとは、それとは違い、例えば自分の欲求が実現しないことの辛さだとか、違ったものなのかもしれない。そのためにさまざまな方法を試して自己欲求の実現を試みていく。その実現行動や思考が作業所利用の動機なのかもしれない・・そうすると統合失調症とその他の障害者の利用の動機が違ってくる。その違いが、波やひずみを生み出すのかもしれない。
それぞれに「辛さ」があり、それを軽減しようとして、その人の生活、生きる動機が生まれる。その動機を自己理解し、そしてそれが他の人とどのように関わり重なり影響し、また共有できるものなのか、或いは反発するものなのか、そして愛であるか、力なのかをよく見極め、研究していくことが大切だと思う。
時間の進み方が、自然界の時間の進み方と違う統合失調症の当事者にいやでも朝がやってくる。望みもしないのにやってくる。朝なのに体が動かない、心にも朝が来ていないのに、活動を始めなくてはいけない。しかし心に朝は来ていない。それが辛さだ。
あまりにも辛くなると入院となる。それは時間調整の方法なのかも知れない。
時間がゆがむ4次元の世界に心があるのかもしれない。その歪みが宇宙にある重力レンズのような働きをして三次元の世界が歪み、その歪みが幻聴や、幻覚、妄想なのかもしれない。
それは統合失調症の当事者がもつ一つの広がりなのかもしれない。時間を旅することができる感性を持っているのだ。この世界の時間の流れに同調できない辛さがあるものの、心の中の時間は自分の時間の流れで流れていく。失調しているのではなく、分離し独立し、その人だけの時間の流れをもっているのだ。それを研究することが自己研究、或いは当事者研究、・・・そしてそれをともに考え、そして辛さを見えなくても理解し、そしてその時間のずれを見極め、いつその人の軌道とこの世の軌道が重なるかを見つけ出し、惑星探査のように、その当事者のありかを見つけるのを補佐するのが「支援」なのかもしれない。
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