競馬マニアの1人ケイバ談義

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真の相州仲原を探してみる2の4

2017年04月10日 | 我が町探訪


冨嶽三十六景相州仲原で描かれたと思われる谷川を遡る旅。今日はいよいよ最終回です。前回は巨大な工場の敷地を前にして終了しましたが、その工場は第一三共プロファーマの工場でした。この工場はパイロット通りの両側にあります。本当だったら工場の敷地に入って撮影したいのですが、まあ私有地です。今回は門から撮影しました。R地点です。
これは西方向の写真。

昭和30年代後半に撮影された航空写真通りに谷川が暗渠になっていれば、暗渠はこの出入り口の真ん中に入ってるはず。180°振り返ると、同じ工場の東半分があります。

やはりこの真ん中に暗渠が入ってるはずです。そう言えば、先日下田川の開渠を発見した工場も第一三共ケミカルファーマでしたね。向こうの工場はパイプ剥き出しの昭和40年代前半て感じがありましたが、こっちの工場は近代的です。
あるHPによると、この工場内で谷川の発掘調査が行われたことがあると書いてありました。それを読むと、歴史上谷川は1.5m埋め立てられたと書いてあったのですが、昭和30年代後半の航空写真では谷川があります。江戸時代1.5mだけ暗渠になってたと解釈しましょうか。

今度は工場の裏手に廻って見ましょう。ここで地図を替えます。


まずはS地点。

突き当たりのフェンスの向こうは第一三共プロファーマの工場。振り返ると

再びの直線道路。谷川の暗渠はこの中心に埋まってるはずです。

この道を行くと

マツモトキヨシの店舗がある交差点に出ました。T地点です。実は現在マツモトキヨシがある場所には

明治には池があったのです。この池の名前はHPによって変わってて、谷川池・谷川の池・神明池などがあります。時代によって名前が変わったのかな? それとも池の位置が微妙に移動してた?
さらにこの池のすぐ東隣りにはもう1つ池があったようです。その池の名前は舟窪池。ただ、明治時代の地図にはすでに舟窪池は描かれてないので、ここでは無視することにします。
昭和30年代後半の航空写真では谷川はさらに続いてるのですが、それは農業用水路と判定し、ここを谷川の源流にしようと思いました。が、マツモトキヨシの反対側を見ると

なんと、川面がありました。谷川はここでようやく姿を現し、続いていたのです。
近くに寄って撮影すると

これはかなり続いてますねぇ。裏に廻ってみることにしましょう。

ここが先ほどの裏、U地点です。

ここでようやく川は終わりました。実は昭和30年代後半の航空写真でも、農業用水路はここで終わってます。ここが現在の谷川の源流のようです。

真の相州仲原を探してみる2の3

2017年04月07日 | 我が町探訪


谷川を辿る旅。今日はまずM地点の写真です。

右手側に何か写ってますね。これをドアップにすると

今までここに何度か貼り付けていた高札型看板はここにあったのです。さらにその足元には

昔ここに架かっていた谷川橋の欄干が移設してありました。どうやら橋の半分のようです。ちなみに、ここの道は

現在は旧伊勢原街道と呼ばれてる道。江戸時代は中原街道と呼ばれてた道でした。主要街道の中原街道です。葛飾北斎も通った可能性があります。葛飾北斎が描いた冨嶽三十六景相州仲原はこの付近で描いた可能性があります。
ここで冨嶽三十六景相州仲原の錦絵を貼りましょう。

この絵の向こうは荒野(田んぼ?)になってます。ここは中原街道だから、当時この近辺にはたくさんの家が建ってたはず。ただ、もう少し東に行くと荒野(田?)なので、そのあたりで富士山を見たのかもしれませんね。ちなみに、この地点の住所は平塚市御殿2丁目4です。

冨嶽三十六景相州仲原の場所が見つかりました(可能性ですが)が、さらに谷川の暗渠を遡りましょう。

旧伊勢原街道を越えると、また車道です。

こはN地点。ここから道幅が広がります。

さらにM地点。

大きな道が横切ってますが、これは(現)伊勢原街道です。
ここで振り返って撮影。

伊勢原街道を渡って反対側を撮影。

我が記憶だと、10年くらい前までこの道のど真ん中には小川(谷川)が流れていたんですが、ここも暗渠にされてしまいました。

ここで地図を替えましょう。


道は続きます。


P地点です。

突き当たりに何かありますね。近くに寄って見てみましょう。

プレートがありました。読むと「やが(か)わしんきよう」 谷川新橋? どうやら谷川に架かっていた橋の欄干の名残のようです。しかし、半分以上埋まってますねぇ。この付近、土でかさ上げしたのかな?
立ち上がって先を見ると

区画された草むらが。ここも暗渠のようですが、こんな暗渠は初めて見ます。今までの暗渠は車道か歩道でしたが、ここは立ち入り禁止になってるのです。これじゃ暗渠にした意味がないですよねぇ。なんで暗渠にしたんだろ?

次はこの草むら暗渠の終点、Q地点です。

この先は工場の巨大な敷地です。

今日はここまでにしましょうか。

真の相州仲原を探してみる2の2

2017年04月04日 | 我が町探訪


昨日最後で触れた中原御殿(現中原小学校)と谷川の関係ですが、昨日の高札型の看板をもう1度貼りましょう。

ここにはこう書いてあります。

(前略)谷川にかつて水門が儲けられ 上流の舟窪の池の余水と畑地の排水を貯水てして 中原御殿の空濠引水と代官陣屋・屋敷堀用水を供給したが(後略)

引水とは水を引き込むこと。この文章通りなら、かつて中原御殿の空濠の水は谷川の水を引き込んでたようです。実は明治19年の地図でも谷川はここを流れてました。中原御殿は江戸時代初期のものだから、看板の文字通りなら、谷川は江戸時代初期からここを流れてることになります。しかし、水が満たされた「空濠」てなんだったんでしょうねぇ。それとも、空濠に溜まってしまった雨水を谷川に流したと考えた方がいいのかな?

今日も谷川の暗渠を写真で遡りましょう。今日はG地点から。

ここからまた歩行者専用の道路となります。重量のあるクルマを暗渠の上に通すのは大変なようですね。

次はH地点です。

ここでクルマも通れる公道が横切ります。
さらに行くと

歩道の横に歩道が見えてきました。て、歩道の横に歩道があるはずがありません。今歩いてる歩道がかつて川だった証拠ですね。

I地点で再び公道を横切ります。


J地点のカーブ。


道は再び直線になり

また公道が見えてきました。K地点です。

ここで旧歩道が終わってます。

さらにL地点のカーブ。


そしてまた直線。

遠くにM地点が見えてきました。

今日はここまでにします。

真の相州仲原を探してみる2の1

2017年04月03日 | 我が町探訪


葛飾北斎が描いた冨嶽三十六景相州仲原。いろんな書物ではその川は渋田川となってますが、実際渋田川に行ってみると、

見ての通り、川幅や川の深さから違う川じゃないかと疑問が浮かびました。そこで古地図を見ると、それにあたる小川が2本あったのです。その1つは先日話した下田川。もう1つが谷川(やがわ)。今回はこの谷川を巡ってみました。ちなみに、谷川も小桜川や下田川同様、現在大半が暗渠になってます。

まずはこの写真を貼りましょう。

この写真は谷川を辿ってたときに発見した高札型看板です。ここにはこう書いてあります。

幅平均3.6m、長さ2007m、深さ最大3m、浅いところで1.2m。

どうです。冒頭の錦絵も川幅3.6mくらいじゃありませんか? この川が冨嶽三十六景相州仲原で描かれた川なのかもしれませんね。

では、この川を写真で遡ってみましょう。まずは谷川の地図です。


谷川の始まりはここです。A地点。

この川も渋田川に放水してました。上に架かる橋ぽいものは、上水道のパイプのようです。


これはB地点の写真。ちょっと寄りますと、

階段&スロープの上にある道は、自然堤防の上に作られた道路です。

その道路からC地点の方を写しました。


今度はC地点からB地点の方を写してます。C地点から自動車通行可のようですね。

C地点からD地点の方を写してます。1990年の航空写真では、左側(北側)が道路、右側が川になってます。暗渠になったのはごく最近なのか、車道と歩道の段差がありませんね。一昔前だったら段差があるのですが。

今度はD地点。

暗渠はここで右(南)に直角に曲がってます。

曲がった先は歩道でした。暗渠の上は歩道が多いですね。暗渠のパイプの上にクルマは重すぎるのかな?


暗渠(歩道)はずーっと続いていて

ようやく曲がりが見えてきました。ここはE地点です。

さらに曲がると

ここはF地点。


さらに進むと、右手(南側)にこんなものが

これは中原小学校。つまり、元中原御殿です。実は中原御殿と谷川は関連性があるのです。

行数多くなったので、今日はここまで。

真の相州仲原を探してみる1の4

2017年03月27日 | 我が町探訪
前回発生した新たなる疑問。まずは問題箇所の地図を貼ってみましょう。

私は昔の航空写真(昭和30年代後半)のまま下田川が暗渠になったんだと思ってたのですが、Q地点で下田川はなぜかぴょこんと曲がってました。これはどう考えましょうか? a案・b案・c案・d案と4つの案が思い浮かびました。

a案は暗渠は外周を廻ってるというもの。新たに地図を用意しました。

N地点で中等教育学校の下に入らず、外周の通りを通ってQ地点に入るという説です。点線で示したルートがそれです。

b案はパイロット通り筋に入ってる暗渠の水がQ地点から水路に入ってるというもの。ただし、昔の地図をみると、該当する川がありません。だいたいこの地域は6000年前は海でした。相模川(馬入川)と金目川(花水川)が運んできた砂が堆積してできた平野なのです。となると、東西にのびる砂丘だらけとなります。南北に流れる自然の川は大元の相模川と金目川だけのはず。南北にのびる川は考えられません。

c案は実は大原高校(現中等教育学校)とサッカー場を造るときに下田川は埋めてしまったというもの。つまりQ地点から新たなる川が始まってるという説です。これだとR地点で川が逆に流れてる理由の説明がつきます。しかし、すでにQ地点の水路には水面があります。

Q地点ですでにこれだけの水があるということは、やはり暗渠の水が流れ込んできている証拠。だいたいQ地点が新下田川の源流なら、水路の端がぴょこっと曲がってる理由がありません。

d案ですが、a案に近いもの。中等教育学校の土地は暗渠だけど、サッカー場の下は通らず、その手前で曲がって外周通りに入るというもの。サッカー場となるとかなりしっかりと基礎を造ってるはず。となると暗渠を通すスペースがなく、しかたなく迂回させた可能性があります。
私はd案が一番近いかなあと思ってます。ただ、この案だとR地点で水が逆に流れている理由の説明がつきません。今回はそれは無視することにしましょうか。
もしかしたら、公図を買ってくるとわかるかかもしれません。例えばR地点。実はここだけ構図を買ってあるんですよ。

着色は私がしてます。見ての通り、水路の位置も、元水路の位置も、道路の地図もまるわかりです。このように暗渠があると思われる箇所の構図をとれば暗渠を辿ることができるかも。でも、構図って1通450円するんですよ。下田川のすべての公図をとるとなると、軽く100通は必要になると思います。金額にすると5万円かな? そんなわけでも公図は禁じてとします。

下田川の源流を訪ねる旅を続けましょう。次はS地点です。

ここから急に道は狭くなります。

次はT地点。

ここにはとっても大きなグレーチングがありました。

ここを下田川の源流にしましょうか。昭和30年代後半の航空写真ではさらに下田川はのびてるんですが、このへんは明らかに農業用水路でした。川としては無視してもいいと思います。

最後に1つお断り書きを。Q地点とR地点の間で姿を現してる下田川ですが、実際の水路と私が引いた線とずれがありますよね。実は昭和30年代後半の航空写真を元に線を引くとこのようになるのです。昭和50年ごろの航空写真を見ると、水路にこのような不自然な曲がりが発生してます。こーなった理由はわかりません。

真の相州仲原を探してみる1の3

2017年03月24日 | 我が町探訪

今回から地図が変わります。今日はK地点の写真から。

J地点の方向に向かってシャッターを切りました。目の前を横切ってる道は旧伊勢原街道です。このあたりは「旧」伊勢原街道と言っても、古い地図にはない道です。

続くL地点が今回2度目の重要地点。

M方向を見て撮影してます。実は目の前を横切ってる道も旧中原街道なのです。

これは旧中原街道に立って、南から北を撮影してます。横切ってる道が下田川の暗渠が埋まってる道です。この場所も家が立ち並んでしまって富士山は見えませんが、錦絵と見比べると、富士山との相対的な角度や川幅や川の深さはぴったしなはず。


明治19年の地図を見るとここより北は田んぼなのですが、さらにその北にはたくさんの家が建ち並んでました。ただ、もう少し東に行くと広大な田んぼだけとなります。錦絵は川の向こうは広大な田んぼ(または原野)です。こちらの方が真の相州仲原かもしれませんね。ちなみに、この地点の住所ですが、平塚市中原1丁目13です。
答えが出てしまいましたが、せっかくここまで来たんだから、下田川の源流まで遡ってみようと思います。

次は現伊勢原街道県道61号線、M地点です。


さらに進むと、突き当り、N地点です。

ここは県立平塚中等教育学校です。中等教育学校とは中学校と高校が一緒になった学校です。おまけに、隣には大原小学校があります。一種の学園都市ですね。下田川の暗渠ですが、昭和50年ごろの航空写真では、下田川はまだ暗渠になってません。が、昭和55年ごろの航空写真では、学校(当時は県立大原高校)の建設中で、この部分だけ下田川が消えてます。おそらくそのとき、その部分のみ暗渠になったんだと思います。

さすがに学校に入るわけにはいかないので、ちょっと次のO地点に廻り込んでみることにしました。するとこんなものが

湘南ベルマーレのホームサッカー場、Shonan BMW スタジアムの玄関です。昭和50年ごろの下田川がそのまま暗渠になってたとしたら、この付近を通過してるはずです。
隙間からサッカー場のグランドが見えました。

この中に暗渠が埋まってるはずです。

下田川が昔の位置で暗渠になってたとしたら、この駐車場に暗渠が埋まってます。ちなみに、この駐車場は普段使われることなく、ベルマーレの試合があるときのみ使われます。

その東隣りは普段から使われてる駐車場。突き当りの植栽がP地点です。


この裏側はパイロット通り。

突き当りのフェンスの向こうは第一三共ケミカルファーマの工場、Q地点です。思い切って手を伸ばしてフェンスの上から撮影しました。すると・・・

ありました、川が! ずーっと暗渠だった下田川がここでようやく姿を見せてくれました。

さらに裏に廻ると、

ここはR地点。ここも水路でした。が、振り返ると

ここからまた暗渠になります。
ここまで順調に下田川を遡ってきましたが、実はここで大いなる疑問が浮かんできました。実はR地点の水路なのですが、本来なら東から西へと流れるところを西から東へと逆に流れていたのです。傾斜も東へ流れるようになってました。

ここでQ地点に戻ってみましょう。この地点の地図をどアップにしてみます。

○で囲った部分、つまりパイロット通り際でこの水路、カクっと曲がってたのです。写真だとこれ。

もし昔の航空写真通り暗渠が埋まってるとしたら、こんな曲がりはないはずです。これはいったい?

次回に続けます。

真の相州仲原を探してみる1の2

2017年03月23日 | 我が町探訪


下田川を遡る旅。今日はE地点から始めましょう。

昨日のD地点が見えますね。振り返ると、

ここからまた遊歩道になってます。
足元を見ると

水神さまが鎮座してました。ここに川が流れていたことはたしかなようですね。

F地点に来ると遊歩道が終了し、一般道となります。

左が歩道、右が車道です。歩道が広いですねぇ。


この道を歩いていくと、こんなものが。

ここはG地点。ここには水路がありました。正式名称はせせらぎ水路。水路と言っても、明らかに飾りの水路です。おまけに水は流れてません。この水路と下田川暗渠の関連性は不明です。ただ暗渠は、道路の方を流れてるような。
ちなみに、

橋の部分は実は橋ではなく、橋の手前で一度水が下に消えていく設計でした。向こう側でまた水があふれだす設計なのかな?

H地点です。ここからせせらぎ水路の水が湧く設計だったようです。

この水路に水を流すとなると、ちょっと金がかかるような。どんな時に水を流すのかなあ? 仮に暗渠の水を流すとなると、匂いがして、近所迷惑になりますよね。てことは、水道水を流す? それとも井戸水? う~ん、どっちにしろ、いろんな意味で大変そうです。

ここから水路が消え、歩道も狭くなります。


ここはI地点です。眼の前を横切ってる道はバス通りです。

コンビニとその駐車場が見えますよね。白いクルマが駐車してある部分ですが、私の記憶だと7年くらい前、この部分にはドブ川が流れてました。つまり、下田川はこの一瞬だけ姿を現していたのです。しかし、今はその一瞬さえ暗渠になってしまいました。

そして次の十字路。地図上だとJ地点。ここが今回の重要な箇所となります。

青いクルマが走って行く方向が先ほどのコンビニ。今ここを交差してる道が旧中原街道です。先日の調査で中原御殿⇒平塚間には2本中原街道があることがわかりましたが、この道はその1本なのです。となると、北斎が冨嶽三十六景相州仲原をこの近辺で描いた可能性があります。
ここでその錦絵を貼ってみましょう。

川幅はちょうどいいかなあて感じ。現在は家が建ち並んでしまって富士山は見えませんが、たぶん富士山と川(道路)の角度は合ってると思います。ちなみに、明治19年の地図を見ると、この先にはある程度家が建ってました。けど、北斎の絵には家はありません。あるのは荒涼とした原野です。北斎は家などの建造物をすべてカットして描いたと解釈しましょうか。ここで渋田川の方に眼を移すと、川の向こうはずーっと田んぼでした。その点は渋田川説の方が有利ですね。
なお、絵では橋を渡ってすぐにT字路がありますよね。このような箇所は明治19年の地図では、下田川にも渋田川にも、そして後で話す谷川にもありませんでした。この道は北斎の創作かもしれませんね。
ちなみに、この地点の現住所ですが、平塚市御殿1丁目33です

真の相州仲原を探してみる1の1

2017年03月21日 | 我が町探訪
先日は東海道と中原街道が交差する点を探してみました。そこで使った錦絵が歌川広重の東海道五十三次之内平塚縄手道。実はもう1つ有名な連作風景画、冨嶽三十六景にも平塚を描いたとされる絵があります。それが冨嶽三十六景相州仲原。

平塚市には「仲原」はありませんが、「中原」はあります。江戸時代固有名詞はちょっといい加減だったから、作者の葛飾北斎はわざと間違えたのかもしれませんね。

さて、前回この絵を調べたとき、この絵に描かれてる川を渋田川としました。しかし、どうも違うような・・・ もう1度渋田川の写真を貼りましょう。

どうです、錦絵と比べるとあまりにも川幅が広すぎると思いませんか? 深さも違うし、川の角度も違うし。この違和感、実は前回調べたときから感じてました。しかし、他に該当する川はありません。そんなわけで渋田川を相州仲原で描かれた川としたのですが・・・
古い地図を調べてみたら、該当する川があったのです。しかも、2本も。1つは下田川、もう1つは谷川。今日からその2つの川を辿ってみようと思います。まずは下田川を辿ってみます。

まずは明治19年の地図を見てみましょう。

先日小桜川を辿ったとき、用意した地図です。古池と書いた池に1本の川が流れ込んでますね。これが下田川です。蛇足ですが、古池は18世紀玉川(現在の渋田川)の氾濫で誕生した川のようです。この池は昭和2年に埋め立てられたようです。隣の池は新池。この池はあるHPでは1808年にやはり玉川の氾濫でできたと書いてあるのですが、別のHPでは1803年に記された地図ではすでにあったと記されてます。どっちが正しいのか? ちなみに、新池は現在は達上池という名前になってます。

思いっきり脱線しました。話を下田川に戻しましょう。今度は昭和30年代後半の航空写真を貼りましょう。

青で塗った川が下田川です。実は下田川は現在大半が暗渠化されてるのですが、この時代はまだ暗渠化されてません。でも、何か中途半端なところで終わってますねぇ。もしここから暗渠化されていてそのまま続いていたとしたら、渋田川に河口か水門があるはずですが、ありません。どうやらここで下田川は止まってたようです。しかし、ここで川を止めてしまうと、川が氾濫してしまいます。そこでこんな仮説を立ててみました。
実は下田川は先日話した小桜川と地下(暗渠)でつながってた。そうなると前回話した小桜川の最後の問題提起の回答にもなります。ま、証拠がないのでなんとも言えませんが。

ここからは現場で撮影してきた写真を貼って説明しましょう。まずは現在の地図を貼ります。


A地点の写真です。

これは橋(平塚大橋)から撮影してます。現在の下田川は渋田川に流れ込んでました。ちなみに、現在の地図では水門から流れ出た水はB地点の方向に流れてますが、まあここは河川内です。川の流れは自然堤防内ではしょっちゅう変わります。地図と写真が合致してなくても、これくらいの不一致は問題ないとします。

C地点の写真です。

カーブが終わり道(遊歩道)が直線になったあたりから暗渠と遊歩道が合致してると思われます。


遊歩道です。C地点の方を見ています。


D地点です。目の前を横切ってる道は秦野街道(県道62号線)です。暗渠は歩道と車道の中間あたりにあるようです。ちなみに、この先は市民病院です。

これは逆から写した写真です。

行数多くなったので、今日はここまで。

小桜川を遡ってみる3

2017年03月18日 | 我が町探訪
P小桜川を遡ってみる。今日は最終回です。まずは地図を貼りましょう。

上平塚交差点のちょっと手前に歩道橋がありますね。H地点です。この歩道橋から撮影した写真です。

ちょっと見えにくいですが、セブンイレブンの看板の下にゼブラゾーンがあります。ここが昨日最後に説明したS地点です。

ここで昭和30年代後半の航空写真を貼りましょう。

小桜川が右に45度曲がってますが、その曲がってる箇所が現在の上平塚交差点です。
歩道橋を降りて撮影しました。

H地点からI地点に向けて撮影してます。周りはアスファルトなのに、ここだけなぜかコンクリート。明らかに何かが埋まってます。

今度はI地点の写真です。

ここで西を向くと、

S地点のゼブラゾーンが見えますね。昨日説明した通り、今私が立ってる道は明治時代からある道です。今は秦野街道のせいで分断、行き止まりになってます。

今度はL地点の写真。

昭和30年代後半の航空写真では中まで入ることができたのですが、現在ではこのようにフェンスで阻まれてます。この中は農業高校の農地。現在J地点は農業高校の畑の中にあるのです。ちなみに、J地点からP地点まで引いた点線は、当時のあぜ道です。

ちょっと廻り込んで、O地点へ。実はO地点では暗渠になってません。もし現在もO⇒J⇒I地点と暗渠がつながってるとすれば、O地点には暗渠の穴が開いてるはずです。
これがO地点の写真です。

もし思った通りの暗渠があるのなら、橋の下に暗渠の穴が開いてるはず。橋の下をのぞいてみると・・・

残念、暗渠の穴はありませんでした。てことは、暗渠はL地点で終わってる? そこでL地点に戻ってみることにしました。

これはL地点からM地点を写した写真。

右と左と明らかに違うコンクリートが打設されてますね。もしかしたらこのコンクリートの下に小桜川の暗渠があるのかも? とりあえずこのコンクリートを辿ってみることにしました。

今度はM地点からN地点を見た写真。

左に見える街道は秦野街道です。逆にN地点からM地点を写した写真。

足下のグレーチングだけ逆に寄ってますね。N地点には農地があり、農業用水路があります。これが農業用水路の写真です。

どうですか、水が暗渠に流れ込んでるように見えませんか? まあ、実はそれを目視するためには一度田んぼに入らないといけません。今は農閑期で田んぼは可動してませんが、さすがに人様の田んぼに入るのは気が引けます。そんなわけで、ここは暗渠と農業用水路がつながってると仮定することにしました。

農業用水路は続きます。

遠くに見える橋は、前述のO地点です。

今度はP地点。

ここでまた暗渠になります。

この先には池があります。Q地点です。

この池の名前は達上池(たんじょういけ)。はて、私はずーっと「たんじょ池」と記憶してたのですが?、ここでは公式書類で使われている達上池という名称を使いましょうか。
達上池のP地点に近いところには、こんな装置がありました。



どうやらこの水がP地点の暗渠に流れ込んでいるようです。つまり小桜川の源流は、この装置だったのです。むむ、これは意外でした。

最後に、昭和30年代後半の航空写真では、K地点で小桜川は終わってました。

しかし、ここで小桜川が終わってるとはとうてい思えないんですがねぇ。昔ここに泉でもあったのかなあ? 実はここにはこんな杭の標識がありました。

上平塚温泉発祥の地。調べてみたら、明治中頃ここで温泉(正確には鉱泉)が湧いて、一時期は温泉宿が立ち並んだそうです。今は温泉宿は微塵もありませんが、実は平塚温泉はまだ生きてるそうです。てことは、その温泉を流すための用水路だった? いやいや、温泉は田畑にはよくないはず。それはないんじゃないかな?
しかし、なんでここにクルマ止めがあるんでしょうねぇ。

この先も車道があるのですが?

小桜川を遡ってみる2

2017年03月17日 | 我が町探訪
昨日の続きです。まずは昨日貼った地図を貼りましょう。


D地点とE地点の間は相模貨物駅です。さすがに貨物駅に入ることはできません。E地点からD地点方向を撮影してみました。


ちなみに、ここはロイヤルホームセンター湘南大磯店です。

この写真の地点をFとします。振り返ると

果てしなく一直線に続く県道62号線秦野街道です。小桜川はこの道の下に埋まってるはずです。

ここで地図を替えます。


平塚市との境界線が見えてきました。G地点です。

地図を見るとスシロー平塚店と赤から平塚桜ケ丘店がありますね。実はこの場所は大磯町です。スシロー大磯店・赤から大磯高麗3丁目店に改名しないといけないような。

ここから道はずーっと直線です。

しかし、小桜川はなんでここまでふたをされてしまったんでしょうねぇ。同じ花水川に流れ込む支流でも、三沢川なんかほとんどふさがれてないのに・・・

ここでまた地図を替えます。ずーっと直線なので、地図は途中飛ばしてます。

ここでこの場所の明治時代の地図を見てみましょう。

青鉛筆で塗った場所が3ヶ所ありますね。この3ヶ所はすべて池です。下の池は瓢箪池。明治時代小桜川の源流は瓢箪池でした。しかし、この池、どう見ても瓢箪には見えないですねぇ。どちらかと言えば、ペイズリー柄池かな? 池から流れ出た小桜川はすぐに2手に岐れてました。で、すぐにまた1つになります。地図上ループしてるように見えるのです。どうやら小桜川は、明治時代から農業用水路だったようです。
現在瓢箪池は埋め立てられていて存在しません。では、この池がどこにあったのか?、ちょっと調べてみました。前出の地図のR地点が池の南東端、S地点が池の北西端だったようです。

R地点の写真です。

ここは駐車場かな? 背後は八雲神社。そんなわけで、振り向くと鳥居があります。

ちなみに、ここはデニーズ平塚中里店の裏です。

このデニーズの半分くらいは瓢箪池の中にあるようですね。
R地点は道路から撮影してます。明治時代の地図を見ると、ここには同じ道がありました。当時の小桜川はこの道を横切ってました。実は今小桜川があったと思われる場所にはこんなものがあります。

グレーチングです。反対側はこんな感じ。

今時珍しいコンクリート製U字溝ではない排水路。農地ではよく見かけるのですが、住宅街では珍しいような。この排水路はすぐに側溝に消えます。

この排水路は旧小桜川の名残かもしれませんね。

今度はS地点の写真です。

道路の向こう側のゼブラゾーンが始まったあたりがS地点です。ちなみに、このゼブラゾーンがある道も明治時代からある道です。