競馬マニアの1人ケイバ談義

がんばれ、ドレッドノータス!

小桜川を遡ってみる1

2017年03月16日 | 我が町探訪
先日東海道と中原街道が交差してる地点をさぐりました。そのとき国道1号線相模貨物駅前の交差点に小桜川が埋まってると書きました。あれのついでです。小桜川とはどんな川なのか、ちょっと調べてみました。

まずは小桜川はどこにあるのか、それを示しましょう。

地図の下の方に青い「ノ」がありますね。これが小桜川です。実は小桜川の大半は、現在暗渠です。一方昭和30年代後半に撮影された航空写真では、まだ暗渠になってなかったようです。

青鉛筆でなぞった部分が小桜川です。この時代は人の手が入ってたらしく、直線になってますね。両側が田んぼになってるところを見ると、この時代の小桜川は農業用水路になってたようです。ちなみに、現在この部分は秦野街道(県道62号線)になってます。現在暗渠になった小桜川は、秦野街道の真下を流れてると推測できますね。
さらに明治19年制作の地図では

青くなぞった線がこの時代の小桜川です。昭和30年代後半の航空写真の小桜川とはかなり違った場所を流れていたようです。明治の地図にも平塚と大磯(当時は高麗村)の境界線が書いてあります。わかりやすくするために、ペンで実線を引いてます。
小桜川と境界線が途中合致してますね。その合致してる部分と東海道が交差してる部分が現在の古花水橋交差点です。
現在の市町境界線がある部分の写真を貼りましょう。

「大磯町」と書かれた標識がありますが、実際の市町境界線はもうちょっと手前です。かつてここに小桜川が流れていたようです。現在はこの写真の先の相模貨物駅前の交差点に小桜川が埋まってます。

それでは現地で撮影してきた写真を貼って説明しましょうか。まずは小桜川河口の写真、A地点です。

現在ここには水門があります。

近くに寄ってみます。B地点です。

写真に小桜川という標識があり、そこに平塚市の文字がありますね。冒頭の地図を見てもらえればわかりますが、実はこの部分は大磯町。この写真の手前には道路があり、その道路が平塚市と大磯町の境界線になってます。
フェンスの隙間からカメラのレンズを差し入れて撮影しました。

コンクリートでふたがしてありました。ある意味ここも暗渠のようです。

さらに進むと川面が見えてきました。C地点です。

ここは小桜川が見える数少ない場所です。しかし、かなり深いですねぇ。後述の暗渠の水を流すために、思いっきり浚渫(しゅんせつ)したのかな?

さらに進むと、こんな光景が。D地点です。

大きな穴が2つ。小桜川はここから暗渠になります。

行数多くなったので、続きは次回へ。

東海道と中原街道の交差点はどこにある?

2017年03月14日 | 我が町探訪
まず初っ端からお断り書きを。ここに貼った地図は、ネット上の地図を一度印刷して、それに手書きで線を引き、スキャンしてます。文字はフォトショップの機能で書いてます。また錦絵は市役所から買ってきた絵葉書を写真撮影し、フォトショップでオリジナルぽい彩色を再現してます。
では、始めます。

去年平塚市内を走る旧中原街道を調べました。そのとき東海道と中原街道の交差する地点を下記のA地点としました。

東海道がへの字に曲がるところに中原街道が交差する、つまり東海道と中原街道が三叉路になってたと思ったのです。明治迅速測図(明治19年制作)でもそうなってました。しかし、歌川広重の東海道五十三次平塚縄手道という錦絵を見ると、ちょっと違うような気が。ここにその絵を貼りましょう。

この絵は平塚市と大磯町、江戸時代で言えば平塚宿と高麗村(高麗寺村)との境界線が描かれてます。絵に描かれた杭型の看板(榜示杭)がその境界線です。そのちょっと奥には松の木があり、さらに石でできた道路標識があり、さらに道路が描かれてます。道路標識があるくらいだから、この道は何か重要な道であることはたしか。明治19年の地図ではその道路は描かれてませんが、どうもこの道が江戸時代後期の中原街道ではないかと思えてきました。

果たしてここに描かれた榜示杭はいったいどこにあったのでしょうか? 実は前述の市役所から買ってきた絵葉書には、こんな錦絵もありました。

この絵の作者も歌川広重。前出の錦絵の十数年後に描かれたようです。この絵にも榜示杭があり石製の道路標識があります。前述の絵より10~20歩ほど下がった場所から描いたと推測できます。
この絵の中では、東海道は左隅から始まって右へ。すぐに左に曲がってます。この角が現在の地図のA地点だと推測していいと思います。その角にあるのはお茶屋さん。これでは中原街道と交差できません。やはり石製の道路標識の向こうにある道が中原街道のようです。となると、江戸時代の中原街道は下記の地図の点線にあったと推測できます。



つまり、中原街道はB地点で曲がることなく、そのまま直進してC地点で東海道と交差していた。となると、江戸時代の平塚宿~高麗村(高麗寺村)の境界線は●で示した箇所にあったと推測できます。B地点で曲がるようになったのは、それ以後だったんじゃないかな?
錦絵ではC地点の交差点の角度はかなり鋭く、30度くらいはあります。私が想像した中原街道もそれくらいの角度がありますね。
実際その場所に行って、あらためて写真を撮ってきました。A地点に立って撮影した国道1号線がこれです。

どうです。道がくの字に曲がってますよね。錦絵とまったく同じです。ただ、錦絵の東海道は花水川に架かる橋の手前でまた左に曲がってますが、現代でも過去を示す資料でもその箇所に曲がりはありません。その点は歌川広重の創作があったようです。

ちなみに、現在の平塚市と大磯町の境界線は、もうちょっと西に行ったところ、古花水橋の交差点にあります。写真だと信号のある場所。地図上だと一点鎖線を引いたところが現在の境界線です。なんでここが現在の市町境になったと思います? これは私の想像ですが・・・
現在の日本の市町村の制度は明治22年大晦日から始まってます。前述の明治迅速測図は明治19年制作だから、この地図とほぼ同じ時期。明治迅速測図ではこの場所には小桜川という小川が流れてました。その川を平塚市(当時は平塚町)と大磯町の境界線にしたんだと推定できます。
現在小桜川は95%以上暗渠になっていて、相模貨物駅前の交差点に埋まってます。

最後に、錦絵に描かれてる富士山ですが、近年この付近は建物が建ってしまって、まったく見えません。ただ、前述の旧平塚宿~高麗村(高麗寺村)の境界線に立つと、かろうじて見ることができます。

もう1つの中原街道3

2016年11月17日 | 我が町探訪
平塚本宿~中原御殿を結ぶもう1つの中原街道。今日は最終日です。まずは地図を貼りましょう。


今日はH地点から。

目の前を横切ってる道は旧伊勢原街道です。「旧」伊勢原街道とはいえ、古地図にはない道です。
古地図では中原街道はこのまま直進なのですが、なぜか道がありません。先日巡った中原街道ではすでに失われた箇所が何ヶ所かありましたが、今回はここのみ。しかし、なんで家が建ってしまったんでしょうねぇ? 調べてみると、昭和初期の地図でも直進することが可能でした。
これは私の仮説ですが・・・ 戦前・戦中我が市には巨大な軍需工場があり、このあたりはその工場群の西の端でした。昭和20年戦局が悪化すると、このあたりは米軍に集中攻撃され、完全焼け野原となりました。終戦と同時に人々が戻ってくると、人々は自分の土地を勝手に主張し、焼け野原に家を建ててしまったようです。で、そのまま時効取得。この家もそんな家だったのかもしれません。ちなみに、今この家は空き家でした。

仕方なくI地点には別の道で廻り込みました。I地点はこの交差点のど真ん中です。向こうに見える大きな通りは新伊勢原街道です。

本当はこの交差点の真ん中に立ってH地点方向を写した写真もあるのですが、こっちの家はまだ現住建築物でした。なのでその写真は公開しないでおきます。

I地点からJ地点方向を見た写真です。

旧伊勢原街道と新伊勢原街道に挟まれた道です。私はこの市に産まれ住み着きかなり経ちますが、この道を歩いたのは初めてでした。かなり広い道です。この市にはまだ私が知らない道がたくさんあるようです。

J地点です。

途中から道幅は狭くなってます。この写真の左側は寺の土地です。

慈眼寺。江戸時代の街道にはたくさんの寺社があるのですが、今回出会った神社・寺・祠はここだけでした。立派な寺ですね。この前巡ったもう1つの中原街道の善徳寺も立派な寺でしたが、ここも負けず劣らず立派な寺です。

K地点です。

中原街道はここで右(北)に曲がります。現在この道は先ほど述べた旧伊勢原街道です。ちなみに、古地図ではここで左に曲がることはできません。

K地点からL地点方向を見ました。

旧伊勢原街道は35年くらい前その役割を新伊勢原街道に譲りましたが、それでもクルマ通りの激しい道です。今でも伊勢原に行くバスの過半数はこの道を通ってます。なのに先ほどの旧伊勢原街道と新伊勢原街道に挟まれた道より狭いんですよね。こんなに狭くって事故は起きないのかなあ。

L地点です。

中原御殿はここを左に曲がったところです。ここは歴史的に重要なヶ所だったらしく、角にこんな碑がありました。


いよいよ終点中原御殿が見えてきました。


中原御殿址を示す石碑です。

前にも書きましたが、汚い字ですねぇ・・・

今回は40分弱で巡ることができました。写真をパシャパシャ撮りながらの歩行だったので、ストレートに歩けば25分くらいで行ける道だったと思います。

もう1つの中原街道2

2016年11月15日 | 我が町探訪
昨日の続きです。昨日貼った地図をまた貼りましょう。


まずは旧豊田道に戻ります。B地点の国道1号線の向こう側です。


比較的広い道でしたが、すぐに狭い道となりました。

建築基準法42条2項では市街地・住宅地は道幅4m必要と規定してるのですが、はたしてこの道、4mあるのでしょうか? いつも持ち歩いてるメジャーを持っていけばよかった。

さらに北上すると、左側から別の道が迫ってきました。C地点です。

この道はここで何度も書いてる新豊田道です。前から比べると半分以下の道幅になってますが、それでも今歩いてる旧豊田道より太い道です。

いよいよ新豊田道と旧豊田道が合体しました。


すぐにD地点が現れます。ここは異形な十字路。


右に曲がるとすぐに道は二股に分かれます。E地点です。

D地点の十字路とE地点の二股路は同じ交差点内にあるとも解釈できます。つまりこの道は五叉路。ちなみに、古地図にもまったく同じ五叉路が描かれてます。地味ですが歴史のある五叉路なんですよ。

中原街道は二股路の左側です。

この道、かなり狭くクルマ一台がやっとの細い道なのですが、実は地元の人は抜け道として使ってます。もちろん私もよく通る道です。そんなわけでクルマ通りの激しい道です。

ここで地図をチェンジします。


今度はF地点の交差点。

左側に見えるのは江南高校です。

この道をさらに北上すると、江南高校の東門が見えてきます。G点です。

この道、ここで左に若干曲がります。

さらに歩いていきます。


いよいよH地点が見えてきました。


今日はここまでにしましょう。

もう1つの中原街道1

2016年11月14日 | 我が町探訪
先日博物館に行ってきました。江戸時代のコーナーに行くと、当時の東海道の沿線がジオラマで復元してありました。西の端には先日辿った中原街道がありました。が、よく見るともう1つ中原街道の名が。本陣の脇の通りの名が中原街道と説明されていたのです。当時中原御殿から平塚宿に行く道は2つあったということですか? 先日は中原街道(と思われる道)を辿りましたが、もう1つ中原街道があるのなら、そっちも辿らないといけませんね。で、行ってきました、もう1つの中原街道。
実はこっちの道(の8割)はいつも抜け道として使ってる道なので、よく知ってる道です。ゆえに前もってリサーチする必要がありません。さあ、行きましょうか!

もう1つの中原街道の南半分は、現在の豊田道と呼ばれてる道のようです。まずは豊田道の始点に行ってみました。

ここが豊田道の始点となる交差点です。ただし、ここは新豊田道。本来の豊田道はもう1本東にある路地です。こちらです。

銀行が見えますね。近くに寄ってみましょう。
 
見ての通り、本陣であったことを示す石碑等があります。この銀行がかつての本陣だったようです。本陣の脇の道がかつての中原街道だったので、銀行の横の路地が中原街道だと推測できます。

ここで今回用意した地図を貼りましょう。

今回もまず地図をプリントアウトし、それに手書きで線を引き、スキャンしてます。そのままだと地図の濃淡が薄くわかりずらいので、濃淡を強調してます。
今述べた旧豊田道がA、新豊田道がaです。

B地点を目指して歩いていきます。


B地点が見えてきました。

目の前に見える道は国道1号線なのですが・・・

なんと、国道1号線のセンターには植栽がありました。これでは向こう側に渡れません。しかしまあ、由緒正しき旧道を細切れにするとは・・・
仕方がないから隣の道に行きました。b地点です。

ちなみに、この交差点の名前は、

新豊田道。今の豊田道と国道1号線が交わる交差点です。新豊田道とは先ほどの道です。

今日はここまでにしましょう。

失われた鉄路を探して5

2016年10月17日 | 我が町探訪
かつて馬入から横浜ゴムの工場まで通じていた貨物用線路をめぐる旅。今日は5日目、最終日です。

今日は旧日産車体工場(現ららぽーと)から終点横浜ゴムまで歩いてみました。

まずは前回の続き。n地点の写真から。前回は旧国道129号線を渡ったところで撮影しましたが、今日は旧国道129号線を渡る前に撮影した写真です。

前回は横断歩道上に線路があったと書きましたが、実際は横断歩道の若干南にあったようです。

ハローワークの北隣り、ここはo地点です。

現在ここまでが歩道専用通路。これ以降が車道となってます。

さらに進むとp地点。

パイロット通りと呼ばれてる道に突き当たります。鉄路があった時代、パイロット通りのこのあたりは直線ではなく、大きくカーブしてたようです。鉄路もこのあたりからカーブが始まってたようです。写真の白い看板が見えるあたりでは、すでに鉄路のカーブは始まってたようですね。

p地点からパイロット通りとその向こう側にある公園を撮影。

鉄路は現在の公園の入り口(カラーコーンが立ってるところ)より北側にあったようです。低い石垣があるところです。

公園に入りました。q地点です。

大きな建物と平家の小さな建物が見えますね。鉄路はこの間あたりを走ってたようです。その向こうに見える円筒の奇怪な建物は、横浜ゴムのプラントの一部です。

いよいよ終点、横浜ゴムの工場です。

さすがにこの中に入ることはできませんでした。でも、中に入ると、いまでも軌道は残ってるかもしれませんね。

まとめです。この鉄路は昭和20年代前半にはあったようです。その時代このあたりは原野だったので鉄路は通し易かったようです。が、昭和40年代になると交通量が多くなり、いつしかこの鉄路は撤去されたようです。
しかし、日産(日産車体)の工場から横浜ゴムの工場まで線路が通じてたなんて、当時は日産と横浜ゴムと仲がよかったんでしょうかねぇ? 今私は日産のクルマに乗ってますが、私のクルマのタイヤは純正でミシュランですよ。

失われた鉄路を探して4

2016年10月14日 | 我が町探訪
かつて馬入から横浜ゴムの工場まで通じていた貨物用線路をめぐる旅。今日は4日目です。


クルマ通りの激しい国道129号線。かつて存在した鉄路はこの道を横断してました。ま、現在国道129号線と呼ばれている道は、貨物専用鉄路があった昭和40年代前半は、端から端まで通じてませんでした。おまけに、当時国道129号線は別にありました。それでも当時でもかなりクルマ通りの激しい道だったと想像できます。そんな道を正々堂々と横切る鉄路があったんですねぇ。ちなみに、この先にある(あった)工場は、自動車メーカーとタイヤメーカーですよ。昭和40年代ならトラックを使えよとツッコミを入れたいところですよねぇ。
なお、昭和20年代前半の地図を見てみると、すでに線路は敷かれてましたが、当時のこのへんは原野でした。行く先には当然日産車体(当時は新日国工業)と横浜ゴムがありました。むむ、ちょっと待ってくださいよ、昭和20年代前半から日本は自動車やタイヤを生産していたんですか? この時代は占領されてたから、自由にモノが生産できなかったと思うのですが・・・

国道129号線を渡ると、そこにはこんな建物が建ってました。m地点です。

これはららぽーとの立体駐車場です。鉄路はこの写真の真ん中あたりを走ってたようです。
ほんのちょっと前までここには日産車体の工場があったんですがねぇ、工場の大半は人件費が高いという理由で、どこか別の県に引っ越してしまいましたよ。でも、その代わり、その工場跡地を自由に歩けるららぽーとになってくれました。実はこの企画、2か月くらい前に立ててたのですが、ららぽーとが開業するまで待っていたのです。やっとその日となりました。

旧日産車体の工場、現ららぽーとの中に入りました。鉄路はららぽーとの店舗の中で大きく曲がっていたようです。さすがにららぽーとの店舗内で撮影するわけにはいかないので、その先の陸橋から撮影しました。

上半分が赤、下半分が白の建物から鉄路が出てくるという感じ。

逆から見た写真がこれ。

並木でかなり隠れてますが、陸橋が見えますよね。1つ前の写真はその右端、白い建物と接するあたりから撮影してます。なお、鉄路はこの真下を走っていて、この陸橋のあたりで若干左折してました。

再び陸橋からの撮影。今度は逆側、n地点を撮影してます。

マンションの建築現場の仮囲いの向こう側に軽のワンボックスが走ってるのがわかりますか? n地点はそこです。

今度はn地点から陸橋を撮影してます。

目の前に見える道が旧国道129号線です。つまり、私の記憶の一番奥底にあった旧国道129号線を横切る鉄路はこの横断歩道にあったのです。
なお、失われた鉄路を探して1でもここを撮影してますが、あれを撮影したときはまだ横断歩道はありませんでした。

今度はn地点からo地点の方向を撮影。

かなり細い道ですが、この道を鉄路が走っていたようです。

今日はここまで。次は月曜日に上げます。

失われた鉄路を探して3

2016年10月13日 | 我が町探訪
かつて馬入から横浜ゴムの工場まで通じていた貨物用線路をめぐる旅。今日は3日目です。


今日は東海道線ガード下、d地点から。

このへんは公道になっているらしく、散歩してる人・ジョギングしてる人・サイクリングに励んでいる人を何人か見ることができました。

e地点は通り過ぎてから撮影しました。

このあたりから舗装路になってます。上は国道1号線です。あえて書きますと、この道の脇は不法投棄されたゴミだらけでした。とほほな感じでしたね。

しばらく行くと、こんな異様な建物が。ここがf地点です。

この建物の中間くらいで鉄路は左折してました。この建物は現在駐車場として使ってるようです。私は鉄路に合わせこの建物を突っ切ろうと思いましたが、まあそれは考え直し、道の突き当りまで行って左折することにしました。

左折すると景色は一変、ここは馬入ふれあい公園の南端でした。g地点です。

今軽自動車が走ってますが、鉄路はこのクルマのテール部分を走ってたようです。

さらに進むと、花壇に挟まれる形で歩行者専用通路がありました。その通路から見たh地点です。


h地点に寄ります。

この家、南側にも北側にも道路がありますが、南側(左側)が鉄路の跡のようです。

今度はi地点からh地点を見ます。

この道を鉄路が走ってました。

振り返ると、今度は並木と並木に挟まれた歩行者専用通路がありました。

真ん中若干右に黄色い看板があるのですが、わかりますか? 鉄路はこの看板あたりを走ってたようです。

並木の向こう側には道路がありました。


今度はj地点を通り過ぎて、i地点とj地点を同時に撮影しました。

奥の繁みの向こうがi地点です。

今度はk地点。

白い建物がありますね。よーく見ると、この建物が終わったあたりから道路が少し右に曲がってます。が、旧地図に示された線路にはそんな曲がりはありません。どうやら線路はこの建物のある場所を通ってたようです。

白い建物が終わると、そこは細長い駐車場。鉄路はこの駐車場を走ってたと推測できます。


路地は大きな道にあたりました。l地点です。この道路を渡ったところで、振り返って撮影。

鉄路は路地ではなく、駐輪場を通ってたと推測します。

ここは大きな交差点です。鉄路が通ってたと思われる歩道の角はなぜか大きな隅切りがありました。

他の3つの歩道の角にはこんな隅切りはありません。いかにもここに何かあったって感じですね。

振り返ると国道129号線。その向こうには大きな建物が。

先週木曜日に開業したららぽーとです。

今日はここまでにしましょう。

失われた鉄路を探して2

2016年10月11日 | 我が町探訪
今日からは実際現地を歩いてきた写真を貼ることにします。まずは昨日貼った昭和40年代前半の地図を貼ります。


ここに書き記された黒い線(=鉄路)を現在の地図に落としてみました。それがこの地図です。

旧中原街道の地図のときと同じように、まず地図を印刷し、それに手で線を描き、それを再びスキャンしてます。なお、そのままだと色の濃淡が薄いので、濃淡は大きく調整してます。

まずはa地点、東海道線との分岐点です。このすぐ側にユニディ(ホームセンター)があり、その屋上駐車場から撮影してます。

なんと、この地点では線路は残ってました。手前のちょこっと見えてる線路です。本当はもう少し西側から分岐してるようですが、フェンスに絡みつく雑草が邪魔で見ることができないので、この写真で失礼します。
もう1枚、今度はb地点のちょい北にある踏切からの撮影です。

一番奥の線路が問題となる鉄路です。

今度はb地点。さきほどa地点を撮影した箇所から撮影したb地点がこれ。

これをドアップ。

この2枚の写真、撮影した日が違うので、駐車してるクルマが違います。白いトラックの向こう側がb地点です。

今度はb地点に直接行って撮影してきた写真。

平塚駅方面に向いて撮影してます。ここにはすでに線路はなく、クルマが駐車してあるところを見ると、民有地になってるようです。ただ、私の記憶では25年くらい前まではここに線路があったような。東海道線からこの線路を見るたび、この線路はどこに行くんだろうと不思議に思ってましたね。
茅ヶ崎方面に振り返ると、こっちにはフェンスがありました。

フェンスの上から撮影。

なんか、いかにも元線路て感じがありますねぇ。

C地点から廻ってみると、

なんと、C地点にはフェンスがなく、出入り自由。b地点のフェンスまで行くことができます。なんなんでしょうか、b地点のフェンスは?
あらためてc地点の写真。

右から左へ、一般路が見えます。

続きは次回へ

失われた鉄路を探して1

2016年10月10日 | 我が町探訪
私の記憶の一番奥底にこんなものがあります。旧国道129号線神奈中平塚営業所八幡操車所の前には線路があった。平塚消防署本部のちょっと北側です。私の記憶ではそこに鉄路があったのです。今そこに行って見ると、道路を横断する形でこぶがあります。たぶん鉄路はここにあったんだと推測できます。
地図で現すと、ここです。

〇で示した箇所が問題の場所です。
これだけだと実際そこにこぶがあるのかどうかわかりづらいので、この場所に行って撮ってきた写真を貼ってみることにしましょう。

南から北を写した写真

北から南を写した写真
なお、この写真は2か月前に撮影したものです。現在とかなり変わってます。

こぶがあるのがわかりますか? 私はこのこぶは鉄路を埋めたあとじゃないかと思ってます。鉄路そのものは金になるから取り外したと思いますが、枕木などはそのまんま埋めてしまった。今だったらそれらも取り外して埋め戻すと思いますが、当時はまだそんな考えはなかったんじゃないかと思います。

しかし、両親にそんな私の記憶を話すと、我が両親は「そんなの私の記憶にはない」「お前の記憶違いだろ」ええ、そうなの? 両親は当然私よりはるかに年上です。その両親がなかったと言ってるんだから、ほんとうはなかったのかもしれません。そんなわけで、旧国道129号線を横切る線路の記憶は、いつしか私の記憶から消去されていました。
が、インターネット時代となり、過去の地図をインターネットで見られるようになると、驚くべき情報を取得してしまいました。

まずはちょっと古い地図を見てもらいましょう。昭和40年代前半の地図です。

なんと鉄路があったのです。私の記憶は正しかったのです!
ちょうど地図を貼り合せた箇所なので分かりづらいと思いますが、黒い線が貨物専用の鉄路だったようです。線路は馬入で東海道本線から分岐し、東海道本線と国道1号線をくぐり、日産車体の工場を突き抜け、さらに横浜ゴムの工場に入ってました。私の記憶にあった線路は、日産車体の工場から横浜ゴムの工場に向かう線路だったようです。

こうなるとこの線路がどこにあったのか探索して見たくなるのが私のサガ。ちょっとこの線路の跡を歩いてみることにしました。明日から発表して行きます。