競馬マニアの1人ケイバ談義

がんばれ、ドレッドノータス!

旧中原街道を歩いてみた4

2016年09月13日 | 我が町探訪


旧中原街道を歩く。今日はいよいよ最後となりました。
旧中原街道のスタート地点(ゴール地点)にはこのような石碑がありました。

イマイチな文字ですねぇ。おまけに不自然に文字と文字の間にスペースがあります。原文は別の人に書かせた方がよかったんじゃあ…
隣りにはちゃんとした文字の説明文がありました。

ここには中原御殿が引き払われた後、植林してできた人工林の絵が添えてありました。写真では分かりづらいのですが、左側にくねり曲がってる道が描かれています。つまりI地点からO地点までの道が描かれているのです。てことは、昨日紹介した曲がりくねった道が真実の旧中原街道? でも、古地図によると、これから紹介する道の方が家屋が多いんですよね。
では、今日はPからIまでの道を紹介していきます。

地図では引き返してQ地点に行ってますが、実際は北上して中原小学校の北東の角で左折、中原小学校が終わったところで左折してO⇒Qの道に戻ってます。
Q地点にはこのようなお地蔵さんがありました。

今でもこのような立派なお地蔵さんが鎮座してるところを見ると、こっちが旧中原街道だった可能性も捨てきれませんね。
さらに西に行くと、こんな立派なお寺が。

善徳寺。当然古地図にもあるお寺です。なんとも立派なお寺ですねぇ。これだけ立派なお寺があるってところを見ると、旧中原街道はもっと西に行くのかも。しかし、そうなると旧中原街道は点線で示した道になります。いくらなんでもこれは遠回りし過ぎ。私はQ地点に戻ることにしました。

ここを南(右)に曲がったところが旧中原街道と思われる道です。前出のお地蔵さんはこの道の突き当りにありました。写真だと左側です。
ちなみに、古地図ではここは十字路です。つまりお地蔵さんが鎮座してるスペースがありません。昭和初期の地図まで十字路なんですが、昭和20年代前半の地図ではT字路になってます。この頃にお地蔵さんが鎮座したようですね。

さて、問題はR地点。古地図ではR地点からS地点まで道が緩くトリム(Rのついた面取り)してるんですが、実際行ってみたら、こんな狭い道でした。

左側の細い道が旧中原街道と思われる道です。
反対側のS地点から撮影すると、こんな感じ。

ともかく狭い。自転車が向こうからやってくると、逃げ場がなくなるほどの狭さ。古地図では確かにこの道なのですが、いくらなんでもこの道が旧中原街道てことはないような…
ちなみに、明治末期の地図ではトリムがありません。道は直線になってます。その後の地図でもずーっとトリムの道はなく、10年くらい前の地図でさえありませんでした。じゃ、この細い道が最近できたかと言えば、私の記憶とは齟齬があります。私の記憶ではこの細い道はかなり前からあるのです。20年くらい前でしょうか、私はこの道を使ったことがあります。もしかしたらこの細い道は明治の時代からあったのですが、あまりにも狭すぎるので、現代の地図ではずーっと無視されてたのかもしれませんね。
このような仮説を立てました。明治時代道路の拡幅工事が行われた。そのときトリムの道は直線の道に修正された。が、地元の人は昔のトリムの道を使い続けたい理由があった。でも、公式の道ではないから、極端に細くなってしまった。または役人の眼をごまかすために、狭くせざるを得なかった。
ま、ただの仮説です。

S地点には道祖神(庚申塔かも)が6体まとめておいてありました。

この道祖神も実は20年前にも見てます。そのときは刻まれた文字を読んだのですが、なぜか千葉県内の地名が書いてありました。「あれ?」と思い地元の人に訊いてみたら、この近くに住む道祖神マニアがここに移設したとのこと。思い出してみれば20年前は、道祖神は3~4体しかなかったような。あのときから明らかに増えてるんですよね。
しかし、その土地にあるべき道祖神を勝手に他の道に移設していいのかいな?

いよいよI地点が見えてきました。もう1度I地点の写真を貼っておきましょう。

帰り道は西(左)からここに出てきます。

この後はバス通りのH地点に戻り、バスで帰宅しました。

9月15日追記
今日仕事でS地点に行く用事がありました。地元のおばちゃんに訊くと、R地点とS地点を結ぶ細い道は、やはり歴史的な道なんだそうです(旧中原街道とは言いませんでしたが)。市役所の役人がよく○学生(小学生か中学生か大学生か忘れてしまった)を連れてレクチャーしてるそうです。
道祖神ですが、近くの道祖神マニア云々て話は聞いたことがないようです。ちなみに、おばちゃんは馬頭観音と言ってましたね。

旧中原街道を歩いてみた3

2016年09月12日 | 我が町探訪
今日から地図が変わります。


まずはG地点から話を始めましょう。G地点の写真です

今までの撮影はその地点の直前から撮影してますが、ここでは通り過ぎた直後に振り返って撮影してます。一時停止の標識が見えますよねぇ。私の免許は無事故1違反なのですが、その1違反はここでしでかしてしまいました。そう、一時停止に気付かず突っ走ってしまったのです。隠れてたパトカーにいきなりサイレンを鳴らされてしまいましたよ。
しかしまあ、神奈川県警てところはとことんヒマなんですねぇ。こんなところで網を張ってるなんて。今日本は全国的に暴走族が減ってるとかニュースで見ますが、神奈川県の私が住んでるところはいまだに金・土・日夜10時過ぎると、パラララ~て騒音が聞こえてきますよ。昔とぜんぜん変わってません。そっちの取り締まりを見たことなんか、1度もありませんね。

おっと、話が脱線してきました。閑話休題、話を元に戻しましょう。昔の街道沿いには必ず神社仏閣が備わってましたが、旧中原街道のここにもありました。

右が諏訪部神社、左が水天宮です。

さらに進むと、バス通りと交差します。H地点です。

古地図だと右(東)へ曲がることはできますが、左は不可です。HとZを繋ぐ道がないのです。てことは、かつてはこっちの道がメインだった証拠。今は逆になりましたけどね。

今度はI地点。

現在は十字路になってますが、古地図だと突き当り、T字路(昔だから丁字路と言った方がいいかな)になってます。問題は左右どっちが旧中原街道なのか? 実はどっちも正解な感じなのです。今回はとりあえず右に行くことにしました。

古地図では右の方の道は1本路ですが、稲妻のようにギサギサにくねり曲がってます。もちろん、現在それと完全合致する道はありませんが、今回は古地図からそれに近い道をピックアップし、歩いてみることにします。ちなみに、昭和20年代前半の地図をみると、古地図と同じ道が残ってるのですが、昭和40年代前半の地図からはギザギザの道は消滅し、碁盤の目のような道になってます。
まずはJ地点

この小さな路地が旧中原街道と思われる場所。古地図だと真っ直ぐに行くことはできません。

K地点

この二股路の右側が旧中原街道。古地図だと左側に行く道はありません。

L地点

この写真は通り過ぎて、振り返って撮影してます。奥から来て、左へ曲がります。古地図だと右に曲がることができません。

M地点

この十字路で右に曲がります。今白い軽トラックが走ってる道は、実は抜け道で、私もよく使う道です。古地図だと右に曲がることしかできません。

N地点

ここで左に曲がります。ここのみ古地図でも直進できます。

O地点

ここは通り過ぎてから振り返って撮影してます。

さらに東へ振り返ったら、道は左に曲がってました。ここを曲がったら中原御殿、ゴールです。


P地点、ついにゴールとなりました。

ちなみに、今の中原御殿は中原小学校になってます。

明日はそのままの回転でI地点まで帰ることにします。

旧中原街道を歩いてみた2

2016年09月08日 | 我が町探訪


今日はB地点から。

このあたりは古地図とはまったく違う道路になってるのですが、B地点は古地図でも道路だった箇所です。しかし、地図の通り、D地点まで旧道路と現道路と道路が合致してません。明治末期の地図を見ると古地図とほとんど同じ道があるのですが、昭和初期の地図を見るとだいたい現代と同じ道になってます。この間に何があったのでしょうか? 真っ先に思い浮かぶ出来事は関東大震災。明治末期この場所は住宅街だったので、地震発生⇒焼野原となったのを機に、一気に区画整理したのかもしれませんね。

C地点

黒いクルマのリアあたりが旧中原街道があったと思われる個所。

D地点

この十字路から旧中原街道と現道路が合致します。
ちなみに、地図ではB⇒C⇒Dとカクカクと線を引いてますが、古地図ではものすごく大きな弧を描いてます。

E地点


F地点

E地点とF地点の間は古地図では大きくくの字に曲がってるのですが、今回は現在の直線道路を歩いてます。
なお、他のブログではFで左折してるのですが、私が所有する古地図では左折はできません。道がないからです。

ここからは古地図ではずーっと直線路。現在の道路もずーっと直線路です。


今日はここまで。また次回に。

旧中原街道を歩いてみた1

2016年09月06日 | 我が町探訪
先日は旧東海道大磯駅前~化粧坂を歩いてみましたが、今回は旧中原街道を歩いてみました。と言っても、田村渡し~中原御殿を紹介したHPやブログはごまんとあります。逆に中原御殿~化粧坂はあまり見かけません(あることはありますが)。そこで化粧坂~中原御殿を歩いてみました。でも、化粧坂まで徒歩で行くのはちょっと大変。そこでスタート地点は古花水橋交差点としました。
なお、ここに書き記す旧中原街道は、私が古地図と照合しながら想像で書いたものです。実際の旧中原街道とは違う可能性があります。というか、違ってると思います。そのへんはご容赦ください。

古花水橋交差点には、ここは東海道だったことを示す石碑があります。


この石碑の裏はこんな感じ。

左が現国道1号線、右が旧国道1号線です。旧国道1号線=旧東海道と思われるかもしれませんが、本当の旧東海道はここからもうちょっと現国道1号線を進んだところにあります。

この写真の右側が旧東海道です。


ここで今回の探訪のために用意した地図を貼りましょう。


現在Aにいます。点線が旧東海道です。旧中原街道は裏東海道とはいえ、公式な道でした。東海道と分岐する箇所はかなり象徴的な箇所だと思います。A点から始まるとしたら、旧東海道と旧中原街道は三叉路になります。これはグッドタイミング。よってAを旧中原街道のスタート地点と仮定しました。
ちなみに、この地図の作製はかなり苦労しました。まずはGoogleマップを切り取ってjpeg化。これをフォトショップに取り込んだのですが、なぜか線が引けないのです。水平と垂直の線は引けるのですが、斜めの線が引けません。う~ん、考えてみたら、私はフォトショップで線なんか引いたことがありませんでした。仕方がないから一度この地図(画像)を印刷し、手書きで線を引き、それを再びスキャンし、パソコンに取り込みました。なんか、ものすごくめんどくさいことをやったような。Auto Cadを使えればいいんだけど、これもやったことがないのでわかりません。
なお、アルファベッドはフォトショップで書いてます。

現国道1号線はセンターに植込みがあるのですが、この植栽が私の背より高い。仕方がないからクルマが来ないことを見計らって、センターまで行って、植栽の間から向こう側を撮影しました。

この路地が旧中原街道の始点です。ただし、古地図を見ると、この入り口はもうちょっと西側にあったようです。

黒い縦の線を引いたあたりが本来の旧中原街道のスタート地点だったようです。それが証拠に、ちょっとわかりずらいですが、トラックのフロント部分の向こう側にお稲荷さんの祠が見えます。お稲荷さんがあるってことは、ここが交通の主要ヶ所だった可能性があるからです。

行数増えてきたので、続きは次回とします。

旧東海道を歩いてみた@大磯

2016年08月26日 | 我が町探訪
我が仕事ですが、実はお盆休み明けは1度も仕事してません。完全休養状態です。5月GW明け~7月山の日の間の目まぐるしさがウソのような状態です。ま、明日27日からちょっと仕事があります。でも、その後の仕事がありません。ま、8月はもともと仕事が枯れてしまう時季なのですが、もうちょっと仕事が欲しいですねぇ。

そんなわけでぶらぶらしてる毎日です。こんな状況は身体によくないので、昨日ちょっと長めに散歩してきました。散歩したのは旧東海道、大磯駅前交差点~化粧坂の間。まずは徒歩で国道1号線大磯駅前交差点に行きました。


ここから平塚方面へ。


この部分は旧東海道と現国道1号線が合致してる場所です。が、


三沢橋東側交差点、この左側には見ての通り、大きな道があります。実はこの道が昔の東海道なのです。ここから旧東海道に入ります。
この道の両側を見ると


並木が花壇のような場所に植えてあります。時代を感じさせますねぇ。さらに道を進むと


電車が。そうです、旧東海道は東海道本線で分断されてたのです。ただ、歩行者専用ですが、地下道がありました。


江戸時代にはなかった地下道。なんでこの部分だけ現東海道(国道1号線)が通ってないのか、その原因は東海道本線のようです。


地下道を上りました。


旧東海道は続きます。


ここから旧東海道だったことを示す標識がやたら出てきます。ただ、実はこのあたり、古地図と照合すると、本当の旧東海道より若干北にあるんですよね。東海道本線の西側はぴったり合致してるのですが。
と、ここでこんな道をみつけました。


急坂の道。今歩いてる道の南側にこんな道がありました。


急坂の上には別の道がありました。あとで古地図と照らすと、ここが本当の旧東海道のようです。ま、道は刻々と変化してます。もしかしたらここまで歩いてきた道は江戸時代末期の道で、今立ってる道は江戸時代初期~中期の道かもしれません。


元の道に戻りさらに歩くと、化粧坂交差点が見えてきました。


目の前に見える交通量の多い道が国道1号線。こからまた旧東海道と現東海道が合致します。ちなみに、以前調べたところによると、化粧坂は旧中原街道の出発点でもあります。
写真をよーく見ると、マクドナルドの看板が見えます。ここは私がよく利用してる店。この日は朝8時から散歩を始めたのですが、この時点では9時20分でした。まだ9時20分だというのに、私はもう汗でぐしょ濡れ。私は慌ててマクドナルドに入りました。

しかし、4年後のこの時期、ほんとうに東京でオリンピックをやるんですかねぇ? マラソンなんか地獄になりますよ。仮に朝7時にスタートするとなると、ゴールは9時10分ごろ。女子マラソンはさらにその15分後ゴールとなります。その時刻には東京の気温は30度をはるかに超えてると思います。5月か10月に施行すればいいと思うのですが、完全商業主義のオリンピック委員会は何が何でも8月中に行いたいようなのです。選手のベストコンディションより(アメリカ国内の)視聴率を優先するなんて、今のオリンピック委員会は完全間違ってますよ。

錦絵で識る我が街の歴史3

2016年04月28日 | 我が町探訪
錦絵で識る我が街の歴史、今回は歌川国芳が描いた相州大山道田村渡景です。



ネット上にいい絵がなかったのでわざわざ市役所の出張所に行って錦絵の絵ハガキを買ってきました。この絵ハガキ、何度か撮影&スキャンしたのですが、残念、これ以上きれいに撮影(スキャン)できませんでした。この絵でご容赦ください。

田村の渡しとはなんなのか事前に調べてみたら、かなりおもしろい発見がありました。実は田村の渡しは2つの街道を兼ねてたのです。1つは前回も触れた大山街道(錦絵内では「大山道」)、もう1つは中原街道。
ええ、中原街道? 私が知ってる現在の中原街道は、JR南武線武蔵中原駅のガード下をくぐってJR茅ヶ崎駅北口でゴールしてたような記憶があります。あらためて調べてみたら、現在の中原街道は、国道1号線JR五反田駅付近の中原口交差点からスタートして、茅ヶ崎駅北口で終了してました。
では江戸時代の中原街道はというと、虎ノ門からスタートして我が市にある中原御殿でゴールしてました。つまり中原街道の「中原」とは、中原御殿の「中原」だったのです。長年生きててこれは新発見でした。いや~ いろいろと調べて見るものですねぇ。
中原御殿とは初代徳川将軍家康の別宅。中原街道は江戸からこの別宅に行くための専門の街道だったようです。1657年中原御殿は撤去されたようですが、中原街道は裏東海道としてその後も使われたようです。また、中原街道は江戸時代より前から存在してて、その時代のゴール地点は大磯町化粧坂だったようです。私がよく行くマクドナルドの側ですな。
と、ここでまた新たな疑問が浮かびました。前回紹介した冨嶽三十六景では「仲原」という地名が出てきました。場所的に現在の中原と推測しましたが、どうやら徳川家康の時代から中原だったようです。
なんで葛飾北斎は「仲原」なんて地名を書いたのでしょうねぇ。北斎の時代は表現の自由なんてものはなかったから、北斎もよく絵の件で捕縛されてたようです。北斎は徳川幕府が大っ嫌いで、それで徳川家康とゆかりのある地名を避け「仲原」という地名を書いたのかも?
ま、江戸時代の古文書を見てみると、歴史上の人物の名前や地名が微妙に違ってる場合が多々あります。この時代、固有名詞はいい加減だったのかもしれませんね。

本題に入りましょう。上掲錦絵の場所には現在田村の渡しがあったことを示す石碑が立っており、神川橋がかかってます。この橋を錦絵と同じ角度から撮影しました。



この写真、上掲錦絵と決定的に違うところがあります。錦絵には山が描かれてますが、写真にはありません。当たり前です。あの山は写真のう~んと左側にあるのです。
橋の反対側から撮影した写真を掲げてみましょう。



見ての通り、錦絵の山は逆側にあるのです。これはいったいどういうことなんでしょうか?
この川、相模川は江戸時代は蛇行してたのかもしれません。現在の相模川は河口から神川橋までほぼ直線に北上してます(若干東に寄ってる)が、江戸時代は大きく蛇行してた可能性があります。いや、そうだとしても、かなりおかしいような。
錦絵と同じ角度に山を配置しようと思えば、河口から見て左にカーブしてる必要があります。その角度は90度では足りません。150度くらい曲がってないといけないのです。これはいくらなんでも暴論でしょう。
この錦絵、歌川国芳の創作か記憶違いが入ってるようですね。

錦絵で識る我が街の歴史2

2016年03月18日 | 我が町探訪
先日は我が市から見た東海道五十三次の話をしましたが、東海道五十三次の話をしたら次は当然冨嶽三十六景です。冨嶽三十六景と言えば葛飾北斎の傑作。この中に我が市で描いたんじゃないかと思われる作品があります。相州仲原。我が市には「仲原」という地区名はありませんが、「中原」という地区名はあります。時を経て「イ」が取れてしまったのでしょう。
この絵が冨嶽三十六景相州仲原です。



さて、この絵の場所はどこなのでしょうか? 私は伊勢原街道と渋田川が交差する場所と判断しました。

我が市から伊勢原市に行くときは県道61号線、別名伊勢原街道という道を通ります。江戸時代には大山街道という名の道がたくさんありましたが、この道も江戸時代には大山街道だったと推定していいでしょう。
伊勢原街道を北上すると、六本とい交差点で左に30゜曲がる道があります。35年前はこの道が伊勢原街道でした。ここから「中原」という地区名をよく見かけるようになります。



さらに北上すると、川とそれに掛かる橋が見えてきます。それが渋田川、橋は大繩橋です。ここが絵の場所だと推測し、この橋の上から富士山を撮影しました。



う~ん、かなり川の向きが違うかな? しかし、「中原」という地区名はここで間違いありません。もしかすると治水工事で川の流れが変わったのかもしれませんし、当の葛飾北斎の記憶違いかもしれません。

この写真に写る現在の地区名ですが、手前東側が中原3丁目、手前西側が御殿3丁目、向こう東側が中原下宿、向こう西側が御殿4丁目です。中原下宿はかなり小さな地区です。歴史的な地名ということで残しておきたかったのでしょうか? しかし、この地区名、何か変です。上に掲げたバス停の写真を見てください。
中原下宿というバス停と中原上宿というバス停。南側のバス停は「中原下宿」で北側のバス停は「中原上宿」です。当たり前です。日本ではう~んと昔から現代まで北を上としてきましたから、南から北へ向かって走ったら、当然先に出てくる地名は「下」です。としたら、前述の地区名「中原下宿」は不自然。「中原上宿」でないといけませんねぇ。
もしかしたらそこより北側も「中原」なのかも? いえいえ、ここより北側の地区名は「豊田(南豊田)」です。う~ん、なんでこんな地区名を残したんでしょうか? ちょっと理解できませんねぇ。

最後に、先に掲げた大繩橋から撮影した冨士山の写真、思いっきりズームインした写真を掲げておきます。



今は建物の間からかろうじて見えるだけとなってしまいました。

錦絵で識る我が街の歴史1

2016年02月25日 | 我が町探訪
最近ちょっと気になることがあります。東海道五十三次で描かれた我が街と現実の風景と差異があり過ぎじゃないかと。ちょっと問題の歌川広重の画をここに貼ってみましょう。



んで、先日撮影してきた写真がこれです。



錦絵に描かれた巨大な杭型の看板(棒鼻)は、ここから大磯※と書いてあるそうです。東海道の位置と国道1号線の位置はずーっと変わってないから、写真に写ってる「大磯町」の看板と同じ位置にあったはず。ちょっと見づらいようだから、アップにしてみましょう。



これを見ると、大きな間違いに気づいてしまいます。錦絵に描かれた高麗山(こまやま・地元の人は湘南平と言ってます)があまりにも左側に寄り過ぎてるのです。これはなんなんでしょうねぇ? 錦絵の東海道のカーブと現実の国道1号線のそれを比べたら錦絵の方がちょっときついですが、概ね合ってます。となると、高麗山の位置は多少歌川広重の創作が入っていたのかもしれませんね。
錦絵の方には高麗山のさらに右側に丹沢山系とその間にそびえ立つ富士山が描かれてますが、現実の丹沢山系はもっともっとずーっと右側です。富士山もこの位置からは見えません。富士山は今も昔も日本を象徴するもの。歌川広重はどうしても富士山を入れたかったんでしょうねぇ。富士山は記号です。

写真のこの先には花水川(金目川)が流れてます。ちょっと大きな川です。



が、錦絵ではそこに小さな太鼓橋があるだけ。代わりに絵全体が湿地帯に見えます。江戸時代後期この付近一帯は湿地帯だった? 今ここにはなか卯があり、安楽亭があり、ロイヤルホームセンターがありますが、万一震災がおきると、このあたりすべてが液状化し、水浸しになるかもしれませんね。

2月26日追記
ちょっと気になったので、今日も撮影箇所に行ってきました。上記では富士山は見えませんと書きましたが、実は見えました。この付近は建物が多くちょっと見富士山は見えませんが、建物と建物の間を丹念に見たら、実は見えてました。そんなわけで、訂正します。

8月26日追記 
※この場所は江戸時代は高麗寺村、または高麗村があったそうです。