■こならの森203号■2005.3発行
表紙 「 火の見櫓」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森4月号■
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「ご近所のエッフェル塔」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
■■■■■■■■■■■■■■■
【本文抜粋記事】
ご近所の通天閣&エッフェル塔
そして今話題の「東京タワー」
=「火の見櫓」グラフティ
■まちのシンボル
「火のみ櫓」
その役目を終えれば反対があっても跡形もなく取り壊される昨今の状況下で、まだ使えるのに撤去されてしまうもののなんと多いことか、その反対にあるものの一つが火の見櫓だといってもいい?
道路元標が街の中心地に置かれたように、火の見櫓も地域の主だった施設が集まる場所に置かれている。編者にとって子どもの頃は遊び場だった、怖くて途中までしか上れなかったが、というより非常時以外は下の梯子ははずされておりやたらに上まで行けなかったように記憶している。それでも中にはてっぺんまで登って先生に注意される強者もいた。
火の見櫓からまちづくりを考える会事務局長・常葉学園大学造形学部講師『土屋 和男さん』によると、静岡県内には千近い火の見櫓があるという。2年半かけて調査をしたということだが、全く同じデザインというものはないということだ。確かに、今回取材した火の見櫓も全く同じというものは無かった。でも富士町と大栗町ではデザインが似通っていて写真を整理している段階では区別が付かなかった、もしかしたら全く同じものだと思った。しかしよく見ると細部が一部だが違っている。(間違い探しではないが、読者の皆さんも違いを探して見ましょう)。
また「古い火のみが残っているところには、趣のある家並みも残っている」と土屋さんは言っている。まさしくそうであろう。「趣のある家並み」と比例するくらいに火のみそのものの趣が際だっている。
全体的には、村の人口に比例して立派な作りになっているようにも見える。あるところでは、隣町と張り合って、寄付金を多く集め、より高く立派にした、あるいはその規模を競い合ったということもあったのかもしれない。なにしろビルなど無かった時代、とにかく人工物としては目立つ存在だから無理もないことだろう。もちろん都市部では、そのビルのおかげで火災の発見が困難になり廃止へと先に追い込まれた。
編集も佳境に迫った段階で飛び込んできたのが、この火の見櫓、なんと『基壇』の上に乗っている。これは、通天閣がもともとは、凱旋門の上にエッフェル塔を乗せたものだというあの作りに似ている。形も全くそのものズバリのようにも思えてくる。基壇部分にあたるところはもちろん消防車の格納庫となっている。「ポンプ小屋の」隣に火の見櫓が建っている、という既成概念を覆してタワー(通天閣)のごとく、君臨している。
しかも、この火の見櫓は町の中心ということではない。ごらんのとおり、町はずれである。しかも、大平町と岩舟町との境に位置する。他の資料をなどを参考にしてみると、山火事などで地域を越えた延焼があった場合などの中継地点となっているのではないかと、推測される。
■地域社会と火の見櫓
地域の空洞化が叫ばれている、かってあったようなものをそのまま現代に(復活)蘇らせることは不可能だが、であるならば違った形であるいは現在の状況に合わせて再現していかなければ不安な時代を生き抜くことはできないであろう。でないと、火の見櫓の新機能として防犯カメラの設置が加わらないとも限らない。
■地域からの発信
都会も田舎も火の見櫓を通してみていくと同じような要素がある。どちらも役目を終えた、厄介払いなもの扱いであることには代わりはない。それでも、取り壊されず残っているのは単なる都市化以前であるということだけだろうか。
普段の私たちの目線は、見下げることはあっても見上げるということが少ないだろう、だからこそ下からのぞきこんでみると違った世界が現れる。これは視覚的なものだけではなく、そういう発想で町づくりを見ていく視線がこれからは必要になってくるのだろう。過去には当然と思われた機能やシステムが今忘れ去れていく。ヨーロッパではそうした濃密なものを取り戻そうと行政をも含めた動きが出てきているという。日本の火の見櫓がそうしたもののシンボルとしてこれからも存在することには意義があるのだろう。地域の人の命とその次に大切なものを地域の手で守る。そうした考えてみれば当たり前のことが守れなくなってきている。
ある資料によれば昭和30年の火の見櫓の総建設工事費は118800円(うち寄付金92900円)だった。基礎のコンクリート用の砂や砂利は地区に人の手で川から運ばれたとあるので、その分の費用を加えるともっと高いものになっただろう。というより現在だったら逆にその人件費の方が高くつくであろう。製作は地元の鉄工所があたっているようだ。佐野地区でも同じ状況だったと思われる。今でも地域に残る火の見櫓の所有者は町内会などの組織体である。
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表紙 「 火の見櫓」
C・o・n・t・e・n・t・s
■こならの森4月号■
イメージサークル……………………4
ヤンバルのー子の青春レストラン…5
特集 「ご近所のエッフェル塔」…6
風の独り言…………………………16
書評/絵本紹介……………………17
三鴨の窓辺から……………………18
各市文化会館情報…………………20
インフォメーション………………22
[映画・CD・ビデオ・コンサートetc.]
イベント情報/協賛店マップ
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【本文抜粋記事】
ご近所の通天閣&エッフェル塔
そして今話題の「東京タワー」
=「火の見櫓」グラフティ
■まちのシンボル
「火のみ櫓」
その役目を終えれば反対があっても跡形もなく取り壊される昨今の状況下で、まだ使えるのに撤去されてしまうもののなんと多いことか、その反対にあるものの一つが火の見櫓だといってもいい?
道路元標が街の中心地に置かれたように、火の見櫓も地域の主だった施設が集まる場所に置かれている。編者にとって子どもの頃は遊び場だった、怖くて途中までしか上れなかったが、というより非常時以外は下の梯子ははずされておりやたらに上まで行けなかったように記憶している。それでも中にはてっぺんまで登って先生に注意される強者もいた。
火の見櫓からまちづくりを考える会事務局長・常葉学園大学造形学部講師『土屋 和男さん』によると、静岡県内には千近い火の見櫓があるという。2年半かけて調査をしたということだが、全く同じデザインというものはないということだ。確かに、今回取材した火の見櫓も全く同じというものは無かった。でも富士町と大栗町ではデザインが似通っていて写真を整理している段階では区別が付かなかった、もしかしたら全く同じものだと思った。しかしよく見ると細部が一部だが違っている。(間違い探しではないが、読者の皆さんも違いを探して見ましょう)。
また「古い火のみが残っているところには、趣のある家並みも残っている」と土屋さんは言っている。まさしくそうであろう。「趣のある家並み」と比例するくらいに火のみそのものの趣が際だっている。
全体的には、村の人口に比例して立派な作りになっているようにも見える。あるところでは、隣町と張り合って、寄付金を多く集め、より高く立派にした、あるいはその規模を競い合ったということもあったのかもしれない。なにしろビルなど無かった時代、とにかく人工物としては目立つ存在だから無理もないことだろう。もちろん都市部では、そのビルのおかげで火災の発見が困難になり廃止へと先に追い込まれた。
編集も佳境に迫った段階で飛び込んできたのが、この火の見櫓、なんと『基壇』の上に乗っている。これは、通天閣がもともとは、凱旋門の上にエッフェル塔を乗せたものだというあの作りに似ている。形も全くそのものズバリのようにも思えてくる。基壇部分にあたるところはもちろん消防車の格納庫となっている。「ポンプ小屋の」隣に火の見櫓が建っている、という既成概念を覆してタワー(通天閣)のごとく、君臨している。
しかも、この火の見櫓は町の中心ということではない。ごらんのとおり、町はずれである。しかも、大平町と岩舟町との境に位置する。他の資料をなどを参考にしてみると、山火事などで地域を越えた延焼があった場合などの中継地点となっているのではないかと、推測される。
■地域社会と火の見櫓
地域の空洞化が叫ばれている、かってあったようなものをそのまま現代に(復活)蘇らせることは不可能だが、であるならば違った形であるいは現在の状況に合わせて再現していかなければ不安な時代を生き抜くことはできないであろう。でないと、火の見櫓の新機能として防犯カメラの設置が加わらないとも限らない。
■地域からの発信
都会も田舎も火の見櫓を通してみていくと同じような要素がある。どちらも役目を終えた、厄介払いなもの扱いであることには代わりはない。それでも、取り壊されず残っているのは単なる都市化以前であるということだけだろうか。
普段の私たちの目線は、見下げることはあっても見上げるということが少ないだろう、だからこそ下からのぞきこんでみると違った世界が現れる。これは視覚的なものだけではなく、そういう発想で町づくりを見ていく視線がこれからは必要になってくるのだろう。過去には当然と思われた機能やシステムが今忘れ去れていく。ヨーロッパではそうした濃密なものを取り戻そうと行政をも含めた動きが出てきているという。日本の火の見櫓がそうしたもののシンボルとしてこれからも存在することには意義があるのだろう。地域の人の命とその次に大切なものを地域の手で守る。そうした考えてみれば当たり前のことが守れなくなってきている。
ある資料によれば昭和30年の火の見櫓の総建設工事費は118800円(うち寄付金92900円)だった。基礎のコンクリート用の砂や砂利は地区に人の手で川から運ばれたとあるので、その分の費用を加えるともっと高いものになっただろう。というより現在だったら逆にその人件費の方が高くつくであろう。製作は地元の鉄工所があたっているようだ。佐野地区でも同じ状況だったと思われる。今でも地域に残る火の見櫓の所有者は町内会などの組織体である。
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